2009/12/31

NHK 「百年インタビュー 蜷川幸雄」を見て



大分前に放映されたこの番組、妻が録画していたので、今日見た。インタビューするのは渡邊あゆみアナウンサー。

いつもながら彼のエネルギーは凄い。歳も取り、脳梗塞、心筋梗塞など、重篤な病気で満身創痍なのだけれど、走りながら現場で考えて演出する、いつも必死の演劇人生。いやはや、感嘆します。全共闘世代の焦燥感と挫折、商業演劇に移った時、仲間の多くから見放された事への悔しさ。人見知りで、自意識過剰なのに、役者やスタッフを動かすことが出来るのは、彼がいつも体力と精神の限界をさまよってないと気が済まないハングリー精神を持っているからと思う。彼のインタビューを見ていると、そういうところがまるでスポーツ選手のようだ。阪神の金本とか、そういうベテラン名選手が心身の限界に挑戦しているのに似ている。

その上で、私としては、彼に本当は立ち止まって、もっと考え、練りに練った演出、俳優をスポーツ選手みたいに動かすのではなく、議論しつつ落ち着いて考えさせる演出をして欲しい。昔、仏壇の中で繰り広げられる『マクベス』とか、『近松心中物語』の時と比べ、今の蜷川の舞台には大きな驚きが少ないのではないだろうか。イギリスでも有名な、彼の斬新なヴィジュアル・イメージも、どこかで使ったもののアレンジが多くなっているのでは?演劇は人との出会いで出来る、新しい才能を見つけ、ぶつかり合って新しいものを造る、と言っていたが、蜷川さん自身の貯金が無いと、創造的な化学反応を起こすのは難しい。蜷川組のスタッフと、一定数のコアとなる決まった役者を使い、プログラム・ピクチャーのように舞台を量産し始めているのではないだろうか。

彼は観念的な芝居は嫌いだと言うが、かなり考え、勉強しているのも確か。以前NHKの教養講座でシェイクスピアの話などされたが、学者嫌いのくせに、結構専門家の本も読んでいることが分かった。でも昨今は、残された時間が少なくなったせいか、頼まれたら断らずにひたすら数をこなして、仕事をし続けているように見えるが、どうなのだろう。もう少し時間をかけ、考え抜いた演出作品を見せて欲しいと思うのは私だけか。

と無いものねだりをしても、定期的にかなりレベルの高いシェイクスピアをやってくれる蜷川さんには大いに感謝している。それだけに今後、一層充実した演出を期待したい。


2009/12/28

New Marlowe Theatreの新築現場(2009年12月)



工事現場


完成予想図


今はない旧Marlowe Theatre



現在活躍中のカンタベリー生まれの有名人と言うと、ハリウッド・スターのオーランド・ブルームでしょう。しかし、歴史的には何と言ってもクリストファー・マーロー(Christopher Marlowe, 1564-93)を挙げたいところです。彼はシェイクスピア、ベン・ジョンソンと並ぶ、イギリス・ルネッサンス演劇最高の劇作家で、代表作に『フォースタス博士』、『マルタ島のユダヤ人』、『エドワード2世』などがあります。生まれたのはシェイクスピアと同じ年。カンタベリーの慎ましい靴屋の息子でした。現在も名門校として知られる地元のKing's Schoolに通い、才能を認められ、ケンブリッジ大学のコーパス・クリスティ・コレッジにカンタベリー大司教Matthew Parkerの奨学金を得て進学しました。その後ロンドンで劇作家としてめざましい活躍を始めましたが、同時に政府のスパイとしても活動したとされている謎の人物。29歳でロンドン郊外のDeptfordの酒場で喧嘩の末、殺害されましたが、政治的暗殺であったという説も有力です。作風は極めて過激。破壊的なエネルギーとアイデアに溢れています。色々な混乱を経ても、万事がキリスト教倫理に収斂されるシェイクスピアの世界とは一線を画しています。ホモ・セクシュアルであったことも、作品から明かです。

さて、そのMarloweの名前を冠した劇場が、2009年春までカンタベリーにはありました。しかし、平凡な地方劇場という感じで、子供向けのパントの上演など、それなりに地域の役にはたっていたと思いますが、たまに演目をチェックしても、私が入場料を払って見たい公演はまずありませんでした。カンタベリーがロンドンに近すぎて、観客が集まらないという面も災いしたと思います。

しかし、この旧Marlowe Theatreの建物は現在解体され、新しい、本格的な劇場が建てられつつあります。2009年の3月に旧劇場の建物が壊され、その後敷地内の考古学調査が行われた後、現在新しい建物が建設中です。完成は2011年9月。なお、劇場の建物はありませんが、ツアー公演としてMarlowe Theatreの名前を冠した公演は行われています。

その新しい劇場ですが、1,200人収容(!)のメイン・オーディトリアム、それとは別に小劇場、そして各階のバーや川辺のカフェ、広いロビーなど、もの凄い、大がかりな建物です。今回これを書くにあたり、収容人数を確認してみて仰天しました。1,200人というと、イギリスの劇場でも最大規模。大体、ナショナルのオリヴィエがその位の大きさでしょう。それを一杯に出来るのかしら?心配になってきました。カンタベリーの町だけでなく、広く地域全体から観客を集める必要があります。しかし、それだけの劇場ですから、イギリスでも最高のツアー公演を持ってくると思いますので、RSC、National Theatreその他のツアーが頻繁にカンタベリーで見られることになるでしょう。そう言えば、イギリス南東部は、ロンドンに近すぎることもあり、拠点となるような有名な地方劇場がありませんので、Marlowe Theatreがその役を果たそうとしているのでしょうね。閑古鳥が鳴き、潰れないと良いのですが・・・。何しろ、日本の箱物同様、バブルの最中に計画された新劇場ですから、心配!

2009/12/26

Christ Church Gate, 2009年12月








カンタベリー大聖堂の敷地("the Precincts", 日本で言う「境内」です)に入る主な門が、この写真のChrist Church Gateです。メインストリートから狭い路地(例えばMercery Lane)を通って10メートルくらい行くと少し広くなった場所 (Butter Market) に出て、そこにこの、塔のような門がそびえています。かなり細かく、一部彩色された浮き彫りがあり、綺麗な門です。完成は1517年頃(本により、記述が異なります)、ヘンリー8世の治世です (1509-47)。宗教改革間近な時です。スタイルはゴシック様式ですが、この写真で分からないのですが、下の方の装飾柱のスタイルはギリシャ風で、ルネサンスのスタイルを一部見せているとのことです。真ん中にある青いブロンズの彫像はキリスト。

もともとこの門の建造が計画されたのは、ヘンリー7世の長男アーサーと、アラゴンのキャサリン (Catherine of Aragon) との結婚を記念してのことだそうです。しかし、アーサーは早死にし、弟がヘンリー8世となり、またキャサリンはその弟と再婚を強いられました。他のカトリック時代の宗教建築同様、17世紀に清教徒により色々な装飾が破壊され、現在は修復された部分が多いようです。上述のキリストのブロンズ像も1990年にはめ込まれたものだと言うことです。それ以前の像は清教徒によって破壊され、その部分は空洞になっていたそうです。私が始めてカンタベリーに行った時には無かったのかな。このキリスト像は手をさしのべて、礼拝者を歓迎しており、"Welcoming Christ"と呼ばれており、ドイツ人の彫刻家Klaus Ringwaldの作品です。キリスト像の下方に、帯のように模様が見えますが、これらは紋章をかたどった盾 (heraldic shields) の列で、チューダー王家のシンボルが彫られているようです。両側のふたつの小塔 (turrets) は18世紀に破壊され、1930年代に再建されました。

この門の前にあるButtermarketは小さな広場ですが、中世のカンタベリーは街全体が大変小さいので、このスペースでも一番大きな空き地だったかも知れません。ここは、200年前まではBullstakeと呼ばれていたそうです。bullは去勢されていない雄牛、stakeはそれを繋ぐ杭です。ということは、ここで「雄牛いじめ」 (bull-baiting) が開かれていたということでしょう。雄牛いじめは、繋いだ雄牛に犬をけしかけて戦わせる残酷な見せ物ですが、中世から近代初期にはイングランド全土で広く行われていました。市の城壁の外ではなく、大聖堂の前の広場でそのような事が行われていたのでしょうから、大変驚きです。これに類似した見せ物に、「熊いじめ」(bear-baiting)があります。シェイクスピアの戯曲中にも、こうした見せ物への言及があり、当時の演劇との関係を追求した論文さえあります。

今、この門の右は、写真でも見えるかと思いますが、 スターバックス・コーヒーです。広場の建物の多くは、土産物屋やレストラン、カフェになっていますが、この門が出来た頃も同じでした。宿屋が軒を並べ、巡礼達を泊めていました(今も当時の建物の一部が残っています)。それらの宿屋の1階には酒場兼食堂になっており、また土産物を売っているところもありました。当時の巡礼地の土産物としては、巡礼バッチとか、カンタベリーの有り難いお水を入れる小さな器などがあったようです。カンタベリーのお土産物は、イングランド各地、そして大陸でも多く見つかっており、当時のカンタベリー巡礼の広がりを今に伝えています。

1枚目の写真は、Mercery Laneという路地から、Buttermarketの向こうに見える門を撮ったものです。Mercery Laneはmercer(織物商)が軒を並べていた通りということです。日本でも昔はそうでしたように、中世の街は同じ職業の人が集まって商売をしていました。Mercery Laneと並ぶ通りには、Butchery Lane(肉屋 [butcher] の通り)もあります。織物商は中世の商人でも最も豊かな職業で、従ってこのような大聖堂の前の一等地に店を構えていたのでしょう。中世には、この辺りは、巡礼の人々、聖職者、商人、そして買い物をするカンタベリー市民や近郊の町や村の人々でごった返していたかと思います。今もここは観光客やカンタベリー市民で賑わっています。

2009/12/24

カンタベリー大聖堂、2009年12月






12月18日に撮影したカンタベリー大聖堂の写真です。現在大幅改修中で、外壁のかなりの部分(内陣[chancel]の外壁部分)は、工事用の鉄骨で覆われていますが、なるべくそれを映さないように撮影しました。

ここで簡単にカンタベリー大聖堂の歴史を紹介。カンタベリーの町自体はローマ帝国時代にはあり、その当時からキリスト教の教会もあったと考えられています。しかし、5世紀初め頃、ローマの軍隊がブリテン島から撤退し、ブリテン島がアングロ・サクソン時代へ移行するとゲルマン人独自の宗教が持ち込まれました。英国が再度キリスト教化するきっかけになったのが、カンタベリーの聖オーガスティン(Saint Augustine of Canterbury)の宣教。彼は当時のケント王国の王、エゼルベルフトにキリスト教の教えを伝え、教会を造ることを許されました。これが597年でした。その後、カンタベリーにはキリスト教の教会や修道院が幾つか出来ます。最初の大聖堂(カテドラル)はオーガスティンの下で造られたとされています。アングロ・サクソン時代のカテドラルは現在見ることが出来ませんが、現在のカテドラルの身廊(nave)の地下にあるとされています。(以下は一般的な十字型教会の略図ですが、カンタベリー大聖堂も大体において、この形式です。)




1066年、ブリテン島の大部分は現在のフランスにあったノルマンディー公国からやって来たノルマン人によって征服されました(「ノルマン人のイングランド征服」)。その後、カテドラルは大火災に遭い、1070年から77年にかけ、カンタベリー大司教ランフランク(Archbishop of Canterbury, Lanfranc)の指揮の下、ノルマン様式(ロマネスク様式の一種)で完全に立て替えられ、現在のカテドラルのベースとなる建築が出来ました。その時代の建築の一部は、翼廊(transept)の北西部に残っているそうです。重厚なノルマン様式建築は、現在の地下聖堂(crypt)で顕著に見ることが出来ます。その後、中世を通じて増改築が行われ、1498年までに現在の姿とほぼ同様のものになっていました。現在見ることが出来る多くの部分は大まかに言って、一般にゴシック様式と呼ばれる形式です。

中世の大聖堂には、ここに限らず多くのマリアや諸聖人の像がありました。しかし、今のイギリスの大聖堂にはほとんどありません。16世紀の宗教改革以降、破壊されたのです。その前は、丁度日本の古い仏教寺院で本尊以外に色々な観音様とか毘沙門天などがあるように、色々な聖像、特にマリア像がたくさんあったことと思います。これらは宗教改革時に、カトリックの偶像崇拝として破壊されました。もともとカトリックには八百万の神々を信仰する多神教的なところがあります。またカンタベリー大聖堂では17世紀の清教徒革命(大内乱)の間、多くの素晴らしいステンド・グラスが破壊されましたが、これもカトリック的図柄があったためです。但、残ったものもかなりあります。

更に第2次世界大戦時には、ドイツ軍の爆撃にも遭い、大聖堂横の図書館が破壊されましたが、カテドラル本体は重大な損傷を免れました。しかし、カンタベリーの街では、現在のショッピング・センターの周辺はほぼ破壊され、貴重な中世の建築遺産が失われました。(以上、一部、カンタベリー大聖堂のオフィシャル・ホームページを参考にしました。また教会の略図は『プログレッシブ英和和英中辞典』電子版よりお借りしました。)

2009/12/23

チューダー朝・クライム・ノベル、C J Sansom, "Sovereign" (2006; Pan Books, 2007)




C J Sansom, "Sovereign" (2006; Pan Books, 2007) 662 pages

☆☆☆ / 5 (又は、☆3つ半くらいかな)

C J SansomのMatthew Shardlakeを主人公にしたチューダー朝クライム・ノベルの第3作目。1作目と2作目も読み、私もこれが3冊目。慣れてきて、ちょっと新鮮な驚きは無くなってしまったが、安心して楽しめる。今回も充分満足できた。但、あまり新鮮さを感じなかったので☆の数は控えめ。しかし、読むのが遅い私には、ながーい。終わりの方では、最初をのほうを忘れてかけてしまった。

舞台は1541年、チューダー朝ヘンリー8世治世下のイングランド。宗教改革も一段落し、Thomas Cromwellの失脚、1536年のAnne Boleynの処刑などと共に、一時の改革熱も冷め、宗教上の保守派回帰が起きていた時代。前作の"Dark Fire"では、Shardlakeは、渋々ながらも、政府の最有力者で、もちろん歴史上も大変重要な人物であるカンタベリー大司教Cromwellに雇われて特別捜査官として働いた。しかし、Cromwellの失脚、そして処刑と共に、Shardlakeは以前のように、土地取引など庶民の普通の法律案件を担当する弁護士(英語で言うとa jobbing lawyerというところか)の業務に戻っているが、無くなった父が残した借財などもあり、生活はそう豊かでもない。そこに、Cromwellの後に大司教に座った宗教改革派聖職者Thomas Cranmerからお呼びがかかる。折しもHenry VIIIは不穏な政情が続いていた北部の各地を大勢のお供の者や兵士を引き連れて巡幸することになっていた。(これを英語では"progress"という。謂わば移動する宮廷。中世・近代初期の王様は、一カ所の王宮にずっといるのではなく、年がら年中移動し、そうすることで、国の安定のために睨みを効かせた。)北部ではその数年前にThe Pilgrimage of Graceと呼ばれる、カトリック派を主体とした反宗教改革の大反乱が起きて、チューダー王室を震撼させた後であり、Henryは今も反王室感情がくすぶり続ける北部に一層堅い恭順を誓わせるという意図があった。

Shardlakeはその巡幸に伴う王室による移動裁判所の裁判官として雇用され、また、その片手間に、ヨーク市で捕らわれている重要な反逆者Sir Edward Broderickの首府への移送を監視する役目も仰せつかった。Shardlakeとしては、負債を清算するための割の良い臨時仕事のつもりだったのだが、行ってみると、チューダー朝王家の根幹を揺るがしかねない王家の血筋に関する秘密情報に関わったり、この後夫のHenryから処刑されることになる王妃Catherine Howardの密通らしき現場に遭遇したり、前作での事件以来Shardlakeを目の敵にしている枢密院の有力者Richard Richにまたまた出会っていじめられたりと、面倒な事に次々と巻き込まれてしまう。その為、彼は何者かから何度も命をつけ狙われ、また、彼が護送を支援することになっていた囚人も毒を飲まされて瀕死の重傷を負うなど、気軽なアルバイトのはずの北への旅は、生きるか死ぬかの、前作"Dark Fire"の事件以上に危険なミッションになってしまった。

600ページ以上ある小説であるから、とにかく色んなことが起きて、盛りだくさん。助手役のJack BarakとガールフレンドのTamasinの話とか、妻を次々と離婚したり処刑したりして取り替えた王Henry個人にまつわる話とか、かなりのアクション・シーンなど、ちょっと詰め込みすぎで、もう少しすっきり刈り込んで欲しい気はする。しかし、これだけ長くても、そう飽きさせず、結構息を飲んで読み進めるところも多い。熊いじめ(bear-baiting)の熊が故意に檻から放たれて、Shardlakeを殺そうと襲いかかったりするなど、発想もなかなか面白い。

私にとっては、このシリーズは読みやすいクライム・ノベルの器に、色々と同時代の歴史の重要な動きが盛り込んであるところが最大の魅力。歴史学の博士号を持つSansomの、Henry、Thomas Cranmer、Catherine Howardなどの人となりに関する考えが分かるのも興味深い。Henryは1491年生まれであるから、この小説の頃既に50歳。かってその長身の美しい姿で人々を魅了した君主も、足に酷い潰瘍が出来て腐敗臭を放ち、杖に寄りかかって歩く。たった一度Shardlakeに会うが、口汚く彼の身体障害(彼は所謂、せむし)を嘲笑するような、傲慢で非情な君主に描かれる。今回の作品は、ロンドンとチューダー朝宮廷の華やかさの陰に、ヨークシャーなどイングランド北部の貧困や大きな不満があったことを思い出させてくれた。もちろん、フィクションであるからこの本の内容を鵜呑みするのは大間違いであるが、教科書的な歴史書では分からない時代の日常生活の感触や庶民の思いについて考えるきっかけを与えてくれる。また、当時の弁護士の暮らしとか、法律や裁判について、少し垣間見ることが出来るのも私には嬉しい。Shardlakeシリーズはもう一冊出ているので、そのうち又読んで見たいと思っている。

(追記)このSansomのMatthew Shardlakeシリーズ、Kenneth Branagh主演でBBCのシリーズになると決まっているようです。放映がいつか知りませんが、もう大分前にそのニュースがあったので、2010年には始まるのではないかと期待しています。まずは、最初の作品"Dissolution"からだということです。更に、ある翻訳家の方のブログによると、シリーズの和訳も進行中と言うことです。

2009/12/22

カンタベリー大聖堂前のクリスマス人形









12月18日に出かけた時には、カンタベリー大聖堂もクリスマスの雰囲気が漂っていました。大聖堂の前には、イエスが生まれた馬屋、そしてその中にマリアや東方の三博士たちの人形たちが置いてありました。赤子を抱くマリアの傍に立つのがヨセフ、向かって右側の豪華ないでたちの3人が東方の3博士(Magi)、ひざまずくのは羊飼い。右側の2人も羊飼いでしょうか?

2009/12/21

カンタベリーに到着するHigh Speed Train






12月13日からSoutheastern鉄道の日立製High Speed Trainの正規運行が始まりました。Canterbury West Stationにも1時間に1本程度の、割合頻繁な間隔でこの電車が通ります。写真はWest Stationに入ってくるところです。ロンドンの北にあるSt Pancras Stationまでほぼ1時間で到着します。通常の電車ですと、ロンドンの南のWaterloo East やCharing Crossまで1時間半弱ですからそれ程大きな差ではありませんが、High Speed Trainの座席は広く、まだ新しいので車両も清潔です。St Pancras-Kings Crossに近いところに行く場合には便利です。ただ、私が良く行くWest Endの劇場街やSouth BankのNational Theatreには、通常の電車のほうが便利。

19日、帰国の日、この電車に始めて乗りました。写真の様に、地面にまだ雪が残り、昼間でも0度かそれをあまり超えない寒い日でした。電車はやはり速くて快適。ただ外が寒いせいか、暖房が不十分で寒く感じました。日本の、基本的に白い新幹線と違い、紺に黄色をあしらったデザインが新鮮でした。イギリスの電車は内側も外側も汚いのが残念なんですが、頻繁に掃除をして、きれいにして欲しいし、乗客もきれいに使って貰いたいですね。

2009/12/19

Saint Peter's Church, Canterbury




カンタベリーのメイン・ストリート、一本の道なのですが、場所によって違った名前で呼ばれています。Westgateに近い辺りは、Saint Peter's Streetです。そのSaint Peter'sとは、道からちょっと入ったところにある英国国教会の教区教会 (parish church) の名前です。教会のホームページによると、この場所にはローマ時代からキリスト教の教会があったと考えられているそうです。現在の建物の一部(礎石など)はそうしたローマ時代や初期アングロ・サクソン時代のもの。形としてきちんと残っているのは、塔 (tower) の部分で、ノルマン時代1100年頃の建築とのことですから、カンタベリー大聖堂の最も古い部分などと同じ時期です。この写真は裏側から撮ったので、塔は後方に少し覗いているだけで、ちゃんと写っていませんね。また撮りなおしたいと思います。ここの塔にかけられている鐘の中には、古いもので、1325年頃や1430年頃のものもあるそうです。

小さな教会ですし、実際に教区教会として使われているところですから、ちょっと入りにくいのですが、そのうち中を見せて貰おうと思っています。

古い教会の裏側は、このように大抵墓地になっています。

参考にしたのは教会のホームページ:
http://www.stpeters-stmildreds.org.uk/churches/st-peters.html

2009/12/18

Falstaff Holtel, Canterbury




カンタベリーのWestgateそばにあるホテル、Falstaff Hotelです。名前はフォルスタッフと、シェイクスピアの有名な人物から取っていますが、出来たのはシェイクスピアの時代よりも約2世紀前頃の15世紀初頭のようです。ホテルの正面にはEstd. 1403とありますが、これがどのくらい信用できるかは分かりません。でも中世末の建物でしょう。町のゲートの外には、旅人を泊める宿屋が幾つかあったようで、これもそのひとつです。中世の城塞都市は、まわりを壁で囲まれ、門が幾つかあり、夜間はそれらが閉じられました ("curfew")。夜間や早朝に町に着いた人は門の外にある宿屋に泊まらざるを得ないわけです。このcurfewですが、夜は8時か9時、そして朝終わるのは4時か5時だったそうです。夜curfewが始まる時には、curfew bell、朝はAngelus bellと言われるベルが鳴らされました。当時の人は勿論時計なんて持っていなかったですから。朝、お店は何と6時から開いたそうです。昔の人は照明手段をあまりもってなかったことなど影響があるのでしょう。朝食は9時か10時で、それまでに皆一働きしたようです。こうした時間の区切りについては次のページから:
http://www.britainexpress.com/History/Townlife.htm

このホテル、その後ずっと切れ目無く宿屋として使われていたとは思えませんが、どうなんでしょう。但、1824年には宿屋として営業していた事を示すウェッブサイトはあります。

現在はスリー・スターのホテル。ということは割合庶民的な値段と内容ということでしょう。こういう古い木造モルタルの建物を使っているホテルは、見物したり、お茶や食事を取ったりするには良いのですが、泊まるとなると、床がやや斜めだったり、天井がとても低かったり、また、騒音が筒抜けだったりしますので、ご用心。但、このホテルは裏に近代的な造りの別棟もあります。

この中世の建物は、大学方面のバスが停まるバス停の正面にあり、私にとっては、カンタベリーでも最も頭にすり込まれている建築のひとつです。

2009/12/16

冬空に霞むカンタベリー大聖堂


カンタベリーは今、寒波がやって来ています。夜は零下、昼間でも3度くらいまでしか気温が上がらず、水たまりの氷は一日中溶けません。その冬空に霞む大聖堂の写真を撮りました。


2009/12/15

"Nation" (Olivier, National Theatre, 2009.12.12)



ファンタジックなファミリー・ドラマ
"Nation"
National Theatre公演
観劇日: 2009.12.12 14:00-16:40
劇場: Olivier, National Theatre


演出:Merry Still
原作:Terry Prachett
脚本:Mark Ravenhill
美術:Melly Still, Mark Friend
衣装:Dinah Collin
照明:Paul Anderson
映像:Gemma Carrington, Jon Driscoll
音響:Paul Arditti
音楽:Martin Lowe
作曲:Adrian Sutton
振付:Michelle Lukes
振付(Spear Dance):Adrian Decosta, Mike Denman
人形:Yvonne Stone
Fights:Jeannette Nelson

出演:
Gary Carr (Mau)
Emily Taaffe (Daphne)
Jason Thorpe (Milton, a Parrot)
Paul Chadihi (Cox)
David Stern (Captain Roberts)
Al Nedjari (Polegrave)
Michael Mears (Polegrave)
Basker Patel (Mau's father}
Gaye Brown (Daphne's grandmother)
Nicholas Rowe (Daphne's father)
Ewart James Walters (Ataba)

☆☆☆ / 5

イギリスは一年で最大のホリデー、クリスマス、へ向けて日々賑やかになってきた。ナショナルもそれに相応しい劇を上演している。

舞台は1860年。イギリス人の一団が乗った船が、南太平洋で津波に遭い、乗船していた白人の女の子Dahneはお供のParrotと共に、ロビンソン・クルーソーの様に、人気のない孤島に漂着する(Parrotは一種の道化。鳥のようではあるが、言葉を話す不思議な存在)。一方、その島は同じ津波で住民がほぼ全滅し、ただ一人、男の子Mauだけが生き残っていた。やがて、他の島から他にも津波の生き残りが加わり、彼らはこの島で新しい国(Nation)を起こす。若いDahneは彼らに加わり、助け助けられて、力を合わせて生き延びる。MauとDahneは、子供の出産の介助をしたり、ビールを醸造したり、侵略者と戦ったり、「裁判」を行ったり、死を乗り越えたりして、古い伝統を乗り越えつつ彼らの国を育て、彼ら自身も大人に成長してゆく。2つの文化の融合を、若者の成長や国家の成立と絡めて描いた、多文化理解・共存時代の『ロビンソン・クルーソー』。

鮮やかな照明、映像、歌、踊りなどをふんだんに盛り込んだ、半ばミュージカル仕立てのファンタジックな舞台。10歳以上可、となっていて、小学生にも充分楽しめる内容だ。大きなハゲタカ、巨大な野豚、布を使った海など、小道具大道具にも色々な工夫があった。背景には海の底が映像で映されたりもする。

前半は、色々なエピソードがまとまらず、私にはやや退屈に感じられた部分もあった。ストーリーそのものに今ひとつ力がなく、沢山の魅力的なエピソードとイメージを詰め込んではあっても、観客を充分引きつけられていないのではないか。しかし、後半の侵略者との戦いの部分はかなり盛り上がった。主役のDahneとMauを演じる2人、Emily TaaffeとGary Carrのはじける若々しさがとても印象的。確かに圧倒的な感動とか説得力があるとまでは行かないが、ファミリー・エンターティメントとしては、合格だろう。

イギリスでは12月になると多くの劇場で子供も楽しめる「パント」と呼ばれるジャンルの劇を上演する。パントは、パントマイムの略称だが、無言劇ではなく、子供向けの、歌や踊りの入ったドラマ。『ピーター・パン』や『シンデレラ』などがこのジャンルの定番。この"Nation"はナショナル・シアター版パントなのだろう。家族連れが目立ったが、私の様に大人が1人で見ても、充分楽しめる作品。

劇の良し悪しとは別に、私はこのような劇を国立劇場でやることの意義を強く感じ、大いに感銘を受けた。人種、肌の色の違い、文化や服装、習慣の違いを乗り越えて、DahneとMauが手を携えて生きていく様子は、子供達の心には、大人よりもずっと素直にしみ込むに違いない。多文化社会となりつつあるイギリスが多くの問題を抱えていることは分かっているが、このような劇を作り、それを沢山の子供達が見るイギリスの文化の豊かさを大変うらやましく思った。

2009/12/09

Jewry Lane, Canterbury




中世カンタベリーのユダヤ人街Jewry Lane, Canterbury


何と言うこともない通りですが、名前に惹かれて写真を撮ってきました。何しろ、「ユダヤ人通り」という名前で、珍しいので、昔から気になっていました。この通りは、カンタベリー市街の多くの通り同様、中世からあって、ここに12世紀には既にユダヤ人が住んでいました。その当時、イギリスでも最も豊かなユダヤ人街のひとつだったようです。近代初期の歴史家William Somnerによると20家族ほどが住んでいました。この通りの近くにはユダヤ人の宗教的な集会所であるシナゴーグ(synagogue)もあり、ラビ(rabbi)も居ました。ユダヤ人学校もあったようです。しかしこれらのユダヤ人の住居や学校、シナゴーグの痕跡は、今はまったく無くなり、単なる裏通りという感じです。彼ら中世イングランドのユダヤ人は、国王エドワード1世(在位1272-1307)の時代の1290年にイギリス全土から追放されました。1279年には、貨幣鋳造をめぐる犯罪の疑いをかけられてカンタベリーのユダヤ人全てが城(Norman Castle)に投獄され、6人が絞首刑にされたそうです。その頃のカンタベリーには、反ユダヤ人感情が高まっていたのかも知れません。


なお、ユダヤ人がイングランドに再び入ってくるのは17世紀半ばから後半。共和国時代にユダヤ人商人の財力を利用したいというオリバー・クロムウェルやその後の政府の思惑からであったようです。1655年が、ユダヤ人のイギリス再移住の許された年となっています。しかし、彼らが土地所有を許されたり、国籍を得たりするには長い時間がかかり、18世紀になってからだったようです。その頃には、カンタベリーにも、新たにユダヤ人が住み始めました。1730年には新しいシナゴーグがKing's Streetに出来たとのことです。

2009/12/08

All Saints Laneの民家(Canterbury)

先日カンタベリーのメイン・ストリートを歩いていて、ふと今まで入ったことのない小道を見つけました。All Saints Laneというスタウワー川からWestgate方向にほんの数メートルのところにある路地で、行き止まりになっています。入ってみると、素敵な古い家屋を見つけました。後でインターネットで調べたところでは、1500年頃、つまり中世の終わり頃の建築だそうです。ちょっと京都の路地にある民家を思い出させるような・・・。『カンタベリー物語』の「粉屋の話」でニコラスとアリスーンが懇ろになって、その後アブソロンにお尻を突き出したのは、こんな感じの家の窓だったかもしれません。もっともあの話はオックスフォードが舞台ですけれど。いずれにせよ、味のある建築です。






2009/12/06

12月のOld Vic



12月5日土曜日午後2時過ぎのOld Vic劇場。この後、Trevor Nunn演出、Kevin Spacey, David Troughton主演の"Inherit the Wind"を観ました。その劇の間に雨が降り始め、5時過ぎに終わった時には傘を差して駅に向かいました。肌寒い12月の街角。手前の木々が冬らしい風情ですね。劇場の入り口をふさぐように見えているのは、環境問題を訴える街頭アート・オブジェ。

Old Vicは1818年に出来た、現存する建物としては、イギリスでも最も古い劇場のひとつ。火災や第2次世界大戦の爆撃でかなり損傷し大改修を重ねており、最初の頃とは随分違っていると思います。最初は、イギリス王家の名前を取り、Royal Coburg Theatreという名前でした。開場当時は、伝説の名優エドマンド・キーンも出演。その後19世紀中はThe New Victoria Hall、その他の名前で呼ばれ、Old Vicという名称が定着したのは、1918年頃のようです。また、1962年から76年現在の国立劇場の建物が出来るまでは、国立劇場の本拠地として利用されました。その当時の芸術監督はサー・ローレンス・オリヴィエ。

21世紀初めの2,3年間、閉鎖状態であったようですが、2003年にアメリカ人俳優ケビン・スペイシーが芸術監督に就任。公演には成功、不成功はありますが、基本的には順調に経営を続けているようです。Shakespeare's Globeと共に、近年におけるロンドンの商業演劇界を大きく豊かにしました。スペイシーはイギリス演劇界の恩人ですね。

なお、イギリスに現存する劇場の中で、最も古く、"continually operating"(継続的に営業してきた)劇場は、Bristol Old Vicと言われています。開場は1766年。但、York Theatre Royalは1744年の開業。しかし、後者は途中で根本的な改装などしており、昔の建物はたいして残っていないのかも知れません。また、営業を中止した時期もあったのかもしれません。2番目に古いのはケント州マーゲイトのTheatre Royal。1787年の建築。

石造りの建物の場合、基礎だけを残して使っているもの、骨組みを使っているもの、改築にしても色々な程度があり、どこまでを、昔の建物が残っていると判断するか、難しいようです。

以前のブログに掲載した夜のOld Vicの写真は:
http://playsandbooks.asablo.jp/blog/2008/06/22/3590096


"Inherit the Wind" (Old Vic, 2009.12.5)


SpaceyとTroughtonの演技が光る法廷劇
"Inherit the Wind"
Old Vic公演
観劇日: 2009.12.5 14:30-17:00
Old Vic劇場: 

☆☆☆ / 5

演出:Trevor Nunn
脚本:Jerome Lawrence, Robert E. Lee
美術:Rob Howell
衣装:Rob Howell & Irene Bohan
照明:Howard Harrison
音響:Fergus O'Hare
音楽:Steven Edis


出演:
Kevin Spacey (Henry Drummond, the defense lawyer)
David Troughton (Matthew Harrison Brady, the prosecutor)
Ken Bones (Rev. Jeremiah Brown, a priest)
Mark Dexter (E. K. Hornbeck, a newspaper reporter from Baltimore)
Sonya Cassidy (Rachel Brown, a daughter of Jeremiah Brown, and the sweetheart of the defendant)
Nicholas Jones (Judge)
Sam Phillips (Bartram Cates, the defendant)

この劇は1955年に初演されたようだが、米国テネシー州のある町で1925年に行われた裁判に基づいている。当時テネシー州では、大学も含め、全ての公立学校で、ダーウィンの進化論を教えることが州法により禁止されていた。24歳の理科の教師、John Scopesが確信犯としてこの法律を破り、裁判にかけられる。この裁判は全米の注目を集め、H. L. Menkenを始め、多くのジャーナリストが取材に押し寄せ、更にラジオで全米で実況放送された。この劇は、人名等は変えてあるが、John Scopes裁判にかなり忠実に基づいているとのことだ。

劇の大半は法廷での検事と弁護士の丁々発止のやり取りに費やされる。検事はMatthew Harrison Brady。政治家として名をなし、大統領候補にまでなった有名人でこの裁判のために特別に町に喚ばれた。日本の裁判におけるような公務員の検察官とはシステムが違うようである。彼は、キリスト教原理主義的な信仰を持ち、その信念を貫くために熱弁をふるう。対する弁護士も、言論の自由のために各地の裁判に携わってきた著名な人物、Henry Drummond。David Troughton演じるHarrisonは、町の人々から裁判の始まる前に既に英雄扱いされる。裁判官とも親しくなり、最初から勝利したかのような勢い。しかし、そのエネルギッシュさに、どこか虚勢を張っているような弱さを感じさせる。一方、Kevin Spacey扮するDrummondは、百戦錬磨、粘り腰の強者。何しろ、裁判官が裁判を検察側に有利になるように導くので、弁護側の証人はことごとく不採用にされる。仕方なく、DrummondはHarrison自身を証人として喚問し、ふたりで、聖書に書かれている事実の相対性/絶対性を議論する。Drummondが、度々真面目くさったBradyの足下をすくい、笑いが起こる。

Kevin SpaceyとDavid Troughtonの名演技を法廷ドラマという彼らにぴったりの土俵を用意して、存分に披露して貰ったという感じだ。Spaceyは白髪の老人で、声音も少し変えており、懲りに凝った、「作った」役柄なのだが、不自然さがたちまち感じられなくなる隙のない演技。Troughtonは、人間の強さと弱さの両方を見せてくれるところが良く、終盤になってウィリー・ローマンのような面も見せる。

それにしても、この作品は社会派の劇なのだが、進化論を肯定するか否かという論点自体が、私には古色蒼然としたものに映る。ところが、未だにアメリカ合衆国では、ダーウィンの進化論は間違っている、あるいは、進化論は正しいかどうか分からず、未確定の諸説のひとつに過ぎない、と考える人が国民の半数程度いる(!)そうである。従って、この劇での論争は、現在のアメリカ合衆国では少しも終わっていないのである。作者のJerome LawrenceとRobert E. Leeが、1955年と、Scopes裁判から30年も経ってこの劇を書いたのは、そういう事情もあるだろうが、それ以上に、55年当時は、マッカーシズム(赤狩り)全盛の時期であったので、Arthur Millerの"The Crucible"同様、古い素材を使いつつ、赤狩りを批判したようである。昨今の合衆国におけるObama大統領批判の激しさ、そして盛り上がるSarah Palin人気などを考えると、この劇に描かれたアメリカ人の特異性は今日も続いていると思う。笑ってばかりもおられない。

明るいクリーム色のセットや背景も、役者達も、合衆国の田舎町の雰囲気を良く出していて、見た感じはミュージカル『オクラホマ』の舞台のようだった。Trevor Nunnの演出は軽い印象だが、Old Vicのビクトリア調の空間にはぴったり。脇役陣では、皮肉な北部人の新聞記者E. K. Hornbeckを演じたMark Dexter、裁判官役のNicholas Jonesが印象に残った。Old Vicの芸術監督であるSpaceyとしては、自分の演技力を十分利用し、確実なヒットと放ったと言えるだろう。

2009/12/03

雨のキャンパス12月



ブログを始めた頃(旧ブログ)には写真を時々載せていたのですが、最近はとても少なくなっていました。写真を撮るのは大変苦手なのですが、また心がけて、少しずつ載せることに致します。

今回は雨の降るケント大学のキャンパス、朝の10時過ぎです。向こうに見える建物は、大学院の寮と教室が入っているVirginia Woolf College。私も大学院所属なのですが、実はこの写真を撮った日に始めて見ました!まるでもぐりの院生ですね。

この11月のイギリスは、記録が有る間で一番降雨量の多い11月だったと言うことです。2番目は1951年とか。本当に毎日雨。しかも冬は2時半頃には夕方の気配が漂い始め、4時には夜のように暗くなります。これでも、ケントはイギリスで最も南の地域なんです。北イングランドやスコットランドなどは、雨ももっと多いし、ずっと北だし、さぞ暗いだろうなあ、と同情致します。でも北の人々の方が、南イングランドよりもフレンドリーだと言われているので、不思議です。

2009/12/01

Rose Tremain, "Sacred Country" (1992; Vintage Books, 2002)


心の孤島に住む人達
Rose Tremain, "Sacred Country"
(1992; Vintage Books, 2002)

☆☆☆☆/5

Rose Tremainの本を読むのは4冊目。全て去年イギリスに来てから読んだ。それだけ気に入っている。これまで私が読んだ作品は、"Restoration", "Music and Silence", "The Colour"など、歴史小説が3冊と、現代のイギリスを扱った"The Road Home"。どちらかというと、歴史小説が得意なのかなと思っていたが、今回の作品は1952年から80年までの、現代イギリスを舞台にしている。

ほとんどの登場人物は、イングランド東部、サフォーク州の田舎にある小さな架空の町Swaitheyの人々。そこの農家に生まれたMary Ward、彼女の家族、知り合い、町の人々などが約30年の間、どのように生きていくか、比較的坦々と描く。ドラマティックな出来事は少なく、また、そういう風に盛り上げる描き方でもないが、色々な小さなエピソードが、しみじみと心に響く、不思議な魅力に溢れた作品。

Maryは6歳の時に自分が男であることに気づく。いや、体は女であるが、心は男以外の何者でもないと自己認識する。つまり性同一性障害者である。この物語の一応の柱になっているのは、彼女が女の子Maryから、男性Martinに変わろうとしていくプロセスである。彼女の父親Sonnyは大変頑固で不器用な農夫。Mary=Martinの真の人格を認めようとせず、娘が女性であるのを拒否していることに気づくと、彼女に大変冷たくあたり、さらには殴るなど虐待する。母親Estelleは感受性の強い、繊細な女性であるが、夫Sonnyと気持ちが通じあえず、また、娘Maryの複雑な人格を受容し、保護するだけの強さも持ち合わせていない。やがて彼女は正気を失い、精神病院に出たり入ったりしてその後の人生を過ごし、自分の家庭に居るよりも、その精神病院の生活に安らぎを感じるようになる。退院している時は、ただひたすら、テレビドラマに逃避する。

Maryは自分の家に居場所がなく、また、21世紀の今ならともなく、1950年代に性同一性障害では、相談する人もおらず、孤立した生活を強いられる。しかし、Swaithleyの町には同様に孤独な人が色々といた。赤ん坊を抱えての一人暮らしで生活に苦労しているIreneと、彼女に夢中になる一人暮らしの老人Edward Harker。彼はクリケットのバットの職人で、日がな一日、地下室でバットを作っている。世間離れした、孤独で「オタク」の肉屋、Walter Loomis。Walterは最初ヨーデルに凝って気が狂ったように練習した挙げ句、喉を壊し、後にカントリー・ミュージックに夢中になって、本場メンフィスに渡り、成功はしないけれどもアマチュア・ミュージシャンとして自分の居場所を見つけ、ささやかな幸せをつかむ。小学生のMaryを教えるが、やがて引退して一人暮らしをしている元教師のMiss McRae。彼女は、Maryが気が狂ったようになったSonnyから逃げるように家出した時に、彼女を暖かく受け入れる。作者は、Mary=Martinの人生だけでなく、これらの人々の暮らしの変化も丹念に描く。小さな田舎町に住む孤独で個性の強い人々という意味で、大昔読んだカーソン・マッカラーズの『心は孤独な旅人』なんかとちょっと似た雰囲気かもしれない。家を出たMaryは、10代の半ばから、母方の祖父のCord(彼も妻を早く亡くして、一人暮らし)やIrene、Walter、そしてMiss McRae達に頼ったり、話し相手になって貰ったりしつつ何とか思春期を生き延び、ロンドンに出て小さな出版社で雑用係をしつつ、性同一性障害について詳しい専門のカウンセラーを探し出して、外科手術も受け、徐々に男性Martinへの道を歩み出す。

Maryの物語を中心に据えながら、その他の小さな物語も紡いだ、短編集の要素もある長編小説という感じの作品。他のTremainの小説でもそうだが、時の経過と共に、人生の今ある状態を素直に受け入れることの大事さを感じさせる。Maryも何度かの性転換手術を受けることになるのだが、そのプロセスを最後まで終えないうちにやめてしまう。彼/彼女は、ある時点で、自分のあるがままの状態と静かに向き合うことが出来たのだろう。彼は、Walterを頼ってメンフィスに渡り、そこでスーパーの店員として働く。職場の同僚が無愛想なことについて、次のように思っている:

I don't mind. I'm not in search of friends and confidences. I'm concentrating on being. I live each hour, one by one. My mind is quiet and still. I'm no longer waiting for time to pass. (p. 340)
(拙訳)私はそんなこと、気にしない。私は友人や打ち明ける相手を捜しているわけじゃない。私は今こうして生きていることに、毎時間、集中している。心は静かで、もう時間が過ぎることを待ってはいない。

これは性転換のプロセスについての文章ではないが、ここでMary=Martinが言おうとしているのは、「こんなはずじゃない、こういう人間になりたい」、と思いつつ生きるのではなく、今そこにある自分を受け入れる、と言うことが出来た満足感と心の静けさだろうか。

私の拙い文章では表現できない芳醇な味わいの小説。一読しただけでは充分味わい尽くせない。繰り返し読んでも、一部を読み返しても楽しめる作品だと思う。

2009/11/29

"Our Class" (National Theatre, 2009.11.28)


ポーランド人によるユダヤ人虐殺と戦後史
"Our Class"
National Theatre公演
観劇日: 2009.11.28 14:30-17:40
劇場: Cottesloe, National Theatre

☆☆☆☆ / 5

演出:Bijan Sheibani
脚本:Tadeusz Słobodzianek
翻訳:Ryan Craig
美術:Bunny Christie
照明:Jon Clark
音響:Ian Dickinson
音楽:Sophie Solomon
振付:Aline David

出演:
Sinead Matthews (Dora)
Lee Ingleby (Zygmunt)
Amanda Hale (Rachelka, later Marianna)
Justin Salinger (Abram)
Paul Hickey (Menachem)
Jason Watlkins (Heniek)
Rhys Rusbatch (Rysiek)
Edward Hogg (Jakub Katz)
Michael Gould (Władek)
Tamzin Griffin (Zocha)

ポーランドは第2次世界大戦以前、東欧でも恐らく最大級のユダヤ人・コミュニティーを持っていた。そこではイディシュというゲルマン語系言語が話され、優れた文化が育まれた。アメリカに移住し、後にノーベル賞を受賞したIssac Bashevis Singerはそこで生まれた作家である。そのポーランドのユダヤ人社会が、ナチス・ドイツによる大量虐殺により、壊滅的な打撃をこうむったのは日本人でも良く知っているとおりだが(アウシュビッツの収容所はポーランドにある)、そうした虐殺はあくまでドイツ人によるとされてきた。しかし、近年の調査で、ナチスによる虐殺だけでなく、ポーランド人自身による積極的な虐殺がなされたことがわかったようである。この劇は、1,600人くらいのユダヤ人が納屋に集められ、ポーランド人達により火をつけられて殺されたとされるJadwabneという小さな町を主な舞台にしており、虐殺へ至る経緯と、関係した人々のその後の個人史を辿る。

作者Tadeusz Słobodzianekは、Jadwabneの町の子供達、クラスメート、が成長して、第2次世界大戦前後の暗い時代に、どう行動したかを描く。幼なじみ同士であるが、ある者は虐殺され、他の者は虐殺者となる。また、昔のクラスメートにレイプされる女性、生きるために仕方なく好きでもないクラスメートと結婚し、ユダヤ教を捨て、カトリックに無理矢理改宗させられる女性もいる。ユダヤ人迫害を昔からの恨みや欲望に利用する男達。しかし、中には、幼なじみのユダヤ人を救おうとして危険を冒す者も出てくるが、その場合も単なる正義感やヒロイズムだけで割り切れない、複雑な感情が絡んでいる。救う者と救われた者の関係も、男女であれば曲折を極める。迫害したポーランド人も、生き残ったユダヤ人も、誰一人として幸せな戦後の生活を送ったとは言えない。

数多くの場所や長い年月を映す劇であるから、リアリズムにするには無理がある。踊りや歌、音楽を交えて、全体にブレヒト風と言えるかもしれない、寓話風な演出。ちょっとコンプリシテを思い出すような部分もあった。Cottesloeの小さな舞台には椅子以外にはセットや道具類は置かれず、四方を観客席が囲む。出演者は出番でない時も、ステージの端に座って、裁判で自分の番を待つ証人が他の証人を見つめるように、演じられる出来事を凝視している。言葉とジェスチャーだけで、ユダヤ人の虐殺や暴行シーンを表現するが、息を飲む緊張感があり、大変力強い劇である。作者は、登場人物を、迫害する者、された者という2つに単純化しない。勿論事件の責任はポーランド人にあるのだが、ナチスの侵攻、そして、それに代わってポーランドを支配したソビエトと共産主義政府といった独裁的権力の移り変わりの中で、多面的にこの事件の関係者を描いている。しかし、暴力の連鎖の中で、常に最も苦しむのは女性であるということが、強調されていたと思う。

残念なのは、個々のクラスメートが戦後をどのように生きたかを辿る部分が劇の約3分の1を占め、そこがあまりにも長く、説明的になっていること。それまでに高まっていた緊迫感が、劇が終わる頃にはしぼんでしまった感じがした。Jadwabneの虐殺の後遺症は、その後もずっと続いていることを示すためには必要な部分ではあるが、もっと簡潔にならなかったものかと思う。

個々の俳優の技量の高さを証明する、見事に歯車の噛み合ったアンサンブル劇。特に印象に残ったのは、ポーランド人に助けられ、カトリックに改宗させられ、名前まで変えられて苦しい戦後を送るRachelka / Marianna (Amannda Hale)、虐殺を先導し、ファシスト的メンタリティーのみなぎるZygmunt(Lee Ingleby)。そして、虐殺に立ち会い、時代に流されて生きつつも自己正当化を繰り返し、やがて念願のカトリックの教区牧師になってもっともらしい言葉を並べるHeniek(Jason Watkins)など。Lee InglebyはBBCの刑事ドラマ"George Gentley"で若く野心的な刑事役でも印象的だった俳優。

ユダヤ人虐殺を全てナチスの責任に帰し、また自分達をナチスやソビエト共産主義の被害者と考えて戦後を過ごしてきた多くの東欧国民は、ドイツ人のような加害者としての戦後の清算を十分に済ませていないようだ。冷戦が終わった後に自国民のユダヤ人迫害の加害者としての役割が明らかになると、それを否定し右傾化する傾向も見られ、現在、東欧諸国における国粋主義的政党の台頭にも繋がっている。今後、東欧へ開発途上国からの移民の流入もあるだろうから、こうした傾向は一層高まるかも知れない。Jadwabneの事件を起こした社会の病魔は、現代も完全に癒えずに続いているとすると、この劇は今のヨーロッパにとって非常に切実な作品である。

同じように、戦禍や原爆の恐ろしさを強調する一方で、個人としての国民の加害責任と反省を曖昧にしてきた日本人も、同じような病巣を抱えていると思う。特に、異なる文化との共生の経験に乏しい我々は、一旦マイノリティーとの摩擦が加熱すると、世代に関わらず、激しい外国人嫌悪に走らないとも限らない。私にとっても学ぶことの多い劇だった。

2009/11/27

詩人ジョン・キーツの恋と死  "Bright Star" (映画, 2009)

詩人キーツの恋と死
"Bright Star" (2009)

☆☆☆☆☆/5

Director: Jane Campion
Screenplay: Jane Campion
Costume: Janet Patterson
Music: Mark Bradshaw
Director of Photography: Greig Fraser

出演:
Ben Winshaw (John Keats)
Abbie Cornish (Frances 'Fanny' Brawne)
Paul Schneider (Charles Brown, Keats' close friend)
Kerry Fox (Mrs Brawne, Fanny's mother)

映画館で映画を見るのは本当に久しぶり。この前はいつ見たか思い出せない。この映画は今年の公開。カンヌでも上映された。新聞やテレビのニュース・ショーなどで紹介されていて、関心を持ち、見てみたいと思っていたが、ロンドンに用事があったので、その帰りに見た。

John Keats (1795-1821)の死の前の2年くらい、その間にあった彼と隣人のFrrances "Fanny" Brawneとの恋愛を大変落ち着いたタッチで描く。詩人Andrew Motionのキーツの伝記に触発されて、作られたとのことだ。特に大きな事件が起こるわけではない。従って、Keatsや彼の詩にまったく関心を持っていなくて、ただの恋愛ドラマを見に来た人はとても退屈に思うかも知れない。Keatsが住んでいたロンドン郊外のハムステッドの村の日常的な暮らしが坦々と描かれ、その生活の中で二人の愛が静かに成長してゆく。しかし愛が膨らむのと反比例するかのように、Keatsの結核は悪化。友人達の助力により、イタリアに転地療養するが、その地で客死する。結末は非常に悲しい。

Kestsは大変貧しかったので、母親からは結婚は難しい、と言われる。また、Keatsと同居している親友のCharles Brownは彼の保護者のような存在だが、KeatsとFannyの仲が深まっていくことに嫉妬を感じているようにも見える。そうした障害はあったが、しかしそうした世間的なことが大きな問題に発展する前に、詩人の命が尽きてしまった。

素晴らしく美しい画面。19世紀初めであるが、Jane Austinドラマで感じるような、コスチューム・ドラマの作りもの臭さがほとんど感じられず、今起こっていることのようにリアルに映った。Keatsが大変貧しいことも一因だろう。主演のBen WinshowとFannyを演じたAbbie Cornishが自然で、それ程美男美女として描かれてないのもとても良い。室内のシーンはフェルメールの絵画を見ているような感じの時もあり、外の景色はコンスタブルの作品のようでもある。移り変わる自然、花や昆虫と戯れる2人が美しい。そしてKeatsの健康をむしばんだ冬の冷たい雨や雪も、厳しい自然の美しさを見せてくれる。また、2人のまわりで遊んだり楽器を弾いたりしているFannyの妹と弟が可愛らしい。自然や家族が2人の心と共振して、静かな音楽を奏で続ける映画。Fannyはとてもお洒落な女性で、着ている服が大変素敵。また庶民の服なので、今でもそのまま着られそうな服ばかり。新聞のファッション記事でもこの映画が取り上げられていた。

随所にKeatsの詩が挿入されるが、残念ながら私のリスニング力では聞いただけでは味わえず、悔しい。DVDが出たら是非買って、繰り返し見たい作品。帰ってからKeatsの詩を読んで、記憶の中でも映画を味わっている。映画のサイトは:
http://www.brightstar-movie.com/

2009/11/24

BBC Drama, "Little Dorrit" (DVD)


BBC Drama, "Little Dorrit" (2008, DVD)

2008年に放送されたBBCのコスチューム・ドラマ(時代劇)、"Little Dorrit"のDVD版。原作はチャールズ・ディケンズ。全14回の長丁場。但、基本的に30分で、最初と最後の回だけ1時間なので、全部で8時間。出演は、

Matthew Macfadyen (Arthur Clennam)
Claire Foy (Amy Dorrit)
Tom Courtenay (William Dorrit, Amy's father)
Judy Parfitt (Mrs Clennam, Arthur's mother)
Andy Serkins (Rigaud, also called Blandois)
Eddie Marsan (Mr Pancks, a rent collector)
Emma Pierson (Fanny Dorrit, Amy's elder sister, a music hall singer / dancer)
Anton Lesser (Mr Merdle)
Amanda Redman (Mrs Merdle)
Alun Armstrong (Jeremiah Flintwinch, Mrs Clennam's servant)
Sue Johnson (Affery Flintwinch, Jeremiah's wife)
Ron Cook (Mr Chivery, a gatekeeper of Marshalsea Prison)
Russell Tovey (John Chivery, son of Mr Chivery, also a gatekeeper of Marshalsea)
Ruth Jones (Flora Finching, the former sweetheart of Arthur Clennam)
その他大勢出演

スタッフは、脚本:Andrew Davis、演出:Dearbhla Walsh, Adam Smith, Diarmuid Lawrence(長いので複数の人で演出するんですね)。

日本の大河ドラマほど長くはないが、BBCが大変力を入れ、多額の予算をかけて作ったに違いない大作。出演者も豪華だし、Marshalsea Prisonのセットなども、BBCの歴史ドラマはいつもそうだが、大変良くできている。

19世紀のイギリスでは、借金を返せない債務者の為の特別の監獄があった。それがMarshalsea Prison。ディケンズの父親もそこに入っており、彼は子供時代の一部をそこで過ごした。この作品の主人公、Amy Dorritは、このMarshalseaで生まれ、そこで育った、月並みな表現で言うなら、薄幸の少女。しかし、毎日年老いた父親をけなげに世話し、かつ、Mrs CLennamやMrs Merdleなどのお金持ちの家に出入りして裁縫をするなどして働いている(彼女自身は囚人ではないので、自由に監獄を出入りできる)。その彼女の前に、親切な若い紳士Arthur Clennamが現れる。彼はアジアで父親と共に長年ビジネスに携わってきたが、近頃帰国したばかり。父は向こうで亡くなったが、亡くなる前に、むかし彼がしたらしいひどいことの償いをしてほしいと、イギリスに残っていたMrs Clennamに伝えるよう息子に言い残した。この昔の汚点が、どうもDorrit家の貧困と何か関係がありそうだ、と気づいたAruthur Clennamは、自分が何か償いが出来るかも知れないと思ってDorrit家の人々に近づき、借金取りのPancksの助けを借りて彼らの貧困の原因を探り始めると、あれこれ思わぬ事が分かってくる・・・。Dorrit家の運命の変転に伴い、彼ら自身も周りの人々も大きな変貌を遂げる。

こういうドラマは「絵」を見ているだけで結構楽しい。加えて、私の最も好きな2枚目俳優、Matthew Macfadyenが出るとなれば尚更。彼はもう若くはなくなったが、スターにしては、実にすがすがしい雰囲気を持っていて貴重だ。Tom CourtneyやAnton Lesserなど大ベテランも出演している。特に、世をすね、ひがみにひがんで意固地になっているけれど、プライドだけはやけに高いWilliam Dorritを、Tom Courtneyが実に上手に、嫌らしく演じている。その他のキャラクターもディケンズらしく皆とても個性的で、楽しい。特に面白く見たのは、借金取りのMr Pancks (Eddie Marsan)。『不思議の国のアリス』から迷い出たみたいな、突拍子もない、騒々しいキャラクターだが、心の中には純粋なものを持っていて、愛すべき人物。Amy Dorritを甲斐なく慕い続け、最後には恋仇のArthurを助けまでするJohn Chivery (Russell Tovey)もかわいい好男子。Amyの属っぽくて気取ったお姉さんのFannyも楽しい人物 (Emma Pierson)。Arthur Clennamの昔の恋人だったが、今やとても不格好で騒々しい未亡人になっているFlora Finching (Ruth Jones) も、個性たっぷり。

主役のAmy Dorritを演じるClaire Foyは、他では見たことのない、新人と言ってもよい役者。映画やドラマの主役としては、かなり地味な雰囲気の人。イギリスの街角を歩いていれば、直ぐ出会いそうな、近所の女性、という感じ。例えばKeira Knightleyのような美人でもなく、華やかさもない。しかし、監獄に住む少女の役にはぴったりだ。

物語の大きな展開を導くのは、19世紀の金融の大混乱。金融に政府や国際機関による規制のなかった時代、国内外の資金の予測できない動きや、いかがわしい投資が、国の経済を揺るがし、人々の暮らしを脅かすことが度々あったのが、この作品でよく分かる。Clennamが彼の友人Daniel Doyceの発明を使って始めた会社が成功する。彼は有力者のお墨付きを信じて行った投資に大失敗して破綻するが、パートナーのDoyceがロシアで行った事業の大成功によって二人の会社は救われる。産業革命が進行する時代の、慌ただしい経済の動きを象徴している。

長いドラマだが、最後までじっくり楽しめた。30分の部分は、やはり1時間ずつ2回まとめて見た方が楽しい。


2009/11/23

Poliakoffの新作映画、"Glorious 39"の情報


前項でBill Nighyについて触れたので、彼の出る新しい映画についても書く。私が過去見たテレビドラマの中で最も印象に残っているもののひとつにStephen Poliakoffの"Perfect Strangers"がある。ある一族の人々が自分達の過去の記憶をたどるのを描きながら、個人の歴史と国や世界の大きな歴史の交錯を見せてくれる大変繊細でありながらスケールの大きな作品。Claire SkinnerとMatthew Macfadyenのまぶしいように美しいカップル、Michael Gambon, Toby Stephens, Lindsey Duncanなど豪華な出演者で、堪能させる。そのPoliakoffの久しぶりの映画作品、"Glorious 39"がこの週末ロンドンで封切られたそうで、BBCのAndrew Marr Showで、GalaiとPoliakoffがゲスト出演して、紹介していた。イギリス資本による純粋のイギリス映画。出演は、Bill Nighy, Romola Galai, Eddie Redmayne, Julie Christie。


時と場面は1939年のイギリスの貴族の館。第2次世界大戦の直前だ。イギリスの首相ネビル・チェンバレンのナチス・ドイツに対する宥和政策(Appeasement)を支持する貴族の話らしい。スリラーとして、お話も面白くできているようだし、セッティングは美しい貴族の館で、エンターティメント性は高い。しかし、内容は非常にシリアスな点もあるようだ。Poliakoffは父方がロシア系ユダヤ人の血筋であり、こういう題材には非常に鋭い感覚を持っていると思う。


PoliakoffはNighyを大変高く評価していて、この作品を書いている時から彼を主役に起用するつもりであったとのこと。Romora Galaiは最近立て続けに良い役を射止めており、舞台だけではなく、映画やテレビでも大活躍。Keira Knightlyの次の大スターになりつつあるというような事をAndrew Marrも言っていた。それ程美人でもないが、演技力が評価されているのだろう。私も"Emma"を見て感心した。彼女は父方の家系はハンガリー系ユダヤ人で、その点で、この作品の歴史的背景やPoliakoffを他の人より良く理解出来るかも知れない。


戦前のイギリスの上流階級は、共産主義に非常に恐怖を感じていた。その一方で、ナチスのような全体主義には寛容であった。またユダヤ人の迫害などは差して気にしてはいなかったことなどが背景にあるそうだ。更に当時のイギリスの諜報機関がかなり出てくるようだが、これは日本の特高とまではいかなくても、超法規的な諜報活動を展開し、個人の迫害、精神的、物理的暴力の使用なども辞せず、恐るべき組織だったようである。


以上、間接的情報ばかり。本編はもしかしたらイギリスで見るかも知れないが、見られなければそのうちDVDで見てみたい。


(追記)上記を書いた後、リビューを2,3、読んで見たが、あまり好評とは言えないようだ。美しい映像らしいが、今ひとつ盛り上がりに欠けるようだ。ただ、映画の批評というのは、批評する人に色々な視点があって、劇評以上に鵜呑みに出来ない気がする。Poliakoffの作風が大好きな私にとっては、やはり一見の価値がありそうだ。

2009/11/22

"The Power of Yes" (Lyttelton, National Theatre, 2009.11.21)


金融危機の発生を解剖する
"The Power of Yes"
National Theatre公演
観劇日:2009.11.21 14:15-16:00
劇場:Lyttelton, National Theatre

☆☆☆ / 5

演出:Angus Jackson
脚本:David Hare
美術:Bob Crowley
照明:Paule Constable
音響:John Leonard
音楽:Stephen Warbeck

出演:
Anthony Calf (The Author)
Jemina Rooper(Masa Serdarevic, a journalist)
Malcolm Sinclair (Myron Scholes, an academic economist)
Nicolas Tennant (Jon Cruddas, MP / Paul Mason, a television journalist)
Simon Williams (a lawyer)
Clair Price (a Financial Times journalist)
Jeff Rawle (Thom Huish, an advisor, Citizens Advice Bureau)
Bruce Myers (Geroge Solos, a hedge fund manager)
David Marsh (a banker)
Jonathan Coy (the 1st chair of the Financial Services Authority)
その他多数。総勢20数名がCast一覧にリストアップされている。


David Hareの"Virtical Hour"のブロードウェイ公演に出演したBill Nighy(ビル・ナイ)は、ガーディアン紙のインタビューでこう言っている、"Hare is 'one of those people like Bob Dylan, I never want him to die. I was thinking the other day, I hope he doesn't die or anything. Because there's gonna be this horrible David Hare-shaped hole in the world like there will be with Bob Dylan. I really dig him, profoundly.' " (ヘアは、私にとってボブ・ディランみたいな人で、絶対に死んで欲しくない。この前ふと考えていたんだけど、私は彼が永久に死んで欲しくないんだ。もし彼が死んだら、ボブ・ディランでもそうだけど、世界にデヴィッド・ヘアの形をした空洞がぽっかり空いてしまうと思う。本当に私は彼が好きでたまらんよ。)

David Hareはまだ現役でどんどん新作を出しているにもかかわらず、既にアカデミックな研究書も出始めた。何しろ、ケンブリッジ大学出版会から、"A Cambridge Companion to David Hare"なんて本も出ているから、シェイクスピアやマーローなみ? 

私はDavid Hareの作品を見るのはまだこれが3作目だと思う。話題を集めた"Stuff Happens"と近作の"Gethsemane"。社会の最も緊急性のある問題を正面から取り上げる果敢さには非常に感心する。日本の劇作家で、こういう事が出来る人がいるだろうか。テレビドラマではたまにNHKで経済問題を取り上げた秀作があるが(例えば『ハゲタカ』)。また、今回のような硬派の経済問題を扱った作品で、National TheatreのLytteltonの大きな客席をほぼ満員にするイギリスの演劇の観客層の厚さにも驚く。日本の場合、大劇場を満員にするためには、20代30代の女性観客に頼らざるをえず、内容も彼女たちに合わせ、役者も2枚目の男性俳優を主役に据えざるを得ないのが現状ではなかろうか。

さて、今回の作品の素材は、目下の金融危機の発生について。大変劇にはしにくい材料だ。Hareが選んだ方法は、ペンと手帳を持った、Anthony Calf演じる作家自身が、なぜ金融危機が起こったかを様々な関係者に取材して回る、という方法。つまり劇を書くプロセスそのものを、劇にしたわけである。経済学者、銀行家、ジャーナリスト、政治家、投資家、末端のトレーダー、その他様々の人々が作家と会い、彼らが見て考えた金融危機の原因と実体について話す。こうして、金融危機が多様な視点から解剖される。大変多くの証言を積み重ねて、事件の全体像を浮かび上がらせるという試みは、"Stuff Happens"でも見られた。今回もある程度は成功していると思う。しかし、金融システムがどうして破壊されたか、という「説明」である。どうしても教室での経済の講義のような、無味乾燥な部分があり、退屈した時もある。また、皮肉に満ちたユーモアがふんだんに散りばめられているようで、観客席では笑いも多かったが、これは私の弱点故だが、英語が十分に分からない私には辛かった。

それでも終盤はかなり盛り上がった。特にClaire Priceの演じたFinancial TimesのジャーナリストがRoyal Bank of Scotlandの前の経営者のFred Goodwinの貪欲さを厳しく指摘するところなどは、大変説得力があり、引き込まれた。実名で著名な銀行家を糾弾するという台詞そのものが迫力満点だが、Claire Priceのたたみかけるような台詞回しも息を飲んだ。並み居るベテラン俳優を圧倒する骨太い名演だった。透明な雰囲気を持つ、繊細な感じの美人だが、台詞に女性にはなかなか見られない力強さがある。昨年の"The White Devil"で感心したが、この作品で見て、実力ある俳優だと再認識。

劇評では、ドラマチックではないという批判が多いようだ。もっとドラマチックにするためには、例えば前述の『ハゲタカ』でのように、金融危機を何人かの人の人間ドラマにしてみせれば良いだろう。例えば、好景気に踊ったトレーダーの成功と破滅とか、金融危機によって一瞬にして家を失い多額の借金を抱えた中流の家庭とか、会社を潰された小企業の社長の自殺とか、そういうエピソードを繋げば感動的な作品になりそうだ。でも、よく考えてみると、Hareはそんな作品を目ざしていたのではなく、金融危機の全体像を大きく掴み、政治家や銀行家を告発したかったに違いない。その意図や良し、しかし、説明的になりすぎ、"Stuff Happens"の時ほどは成功していないと思った。

2009/11/18

BBC drama, "Garrow's Law – Tales from the Old Bailey"


法廷を舞台にしたコスチューム・ドラマ
BBC drama, "Garrow's Law – Tales from the Old Bailey"

今やっている連続ドラマの中で唯一私が毎回楽しみに見ているのが、この"Garrow's Law"です(日曜夜9時、BBC One)。おそらく18世紀末頃ののOld Bailey(ロンドンの中央刑事裁判所)を舞台にした歴史・法廷ドラマ。大岡越前イギリス版? でもずっと本格的な歴史ドラマです。William Garrow(1760-1840)という人は、そんなに有名な人ではないようですが、実在した法廷弁護士(Wikipedia英語版に記述あり)。イギリスの現在の弁護のやり方が出来ていく時代に、一定の貢献をした法律家の一人のようです。18世紀が始まった頃の刑事法廷では、基本的に訴追する側の検察官が罪状を申し立て、証人を喚問したり、証拠を提出したりし、それを聞いた陪審員が有罪無罪の判断をその場で即決、裁判官が直ぐに刑を言い渡す、ということでした。テレビで見るだけでははっきり分かりませんが、恐らくその時間は1時間、いや30分もかからなかったかも知れません。恐るべき即決裁判(summary justice)。弁護側はほとんど発言を許されず、証拠の提出や証人の反対尋問もしないのが当然とされていたようです。

そういう時代に、この(ドラマの中の)William Garrowは先例を破って法廷で厳しい弁論を繰り広げ、独自の証拠を提出したり、証人を喚問したり、また、反対尋問で検察側の証人を切り崩したりして、大活躍。一躍時の人になります。でも世渡りが下手で、気短か。色々な人とぶつかり決闘までするし、野心家で目立ちたがりという俗なところもり、更に道ならぬ人妻との恋をしたりと、教育番組的ドラマではなく、歴史絵巻としての楽しさもたっぷり。

私は法制史とか、昔の裁判や法律家は専門分野とちょっと重なるので、大変興味深く見ています。200年ほど前の英国の裁判が如何にいい加減で非人間的なものであったか、驚きです。また、当時の庶民の様子や、階級差のことなども垣間見えます。

主演のGarrowを演じるのはAndrew Buchan(私は知りませんが、なかなかのハンサム。舞台でも活躍してきたらしい)。彼を助ける事務弁護士(solicitor)は舞台やテレビでお馴染みのAlun Armstrong(最近ではBBCの"New Tricks"や"Little Dorrit")、検察官にAidan Mcardle(RSCの歴史劇などで見ました)。Garrowが惹かれる国会議員の妻Lady Sarah HillにLyndey Marchal(ちょくちょく見かける、ちょっと陰りのある役が似合う女優さんです)。

惜しいことに全4回のみ。あと1回だけ。でも第2シリーズもあるらしい。もちろんDVDも発売予定です。写真はBuchanとArmstrong。番組のウェッブ・サイトは:
http://www.bbc.co.uk/programmes/b00nvt7z

(追記、2009/11/24)
先日全4回が終わった。それ程シリアスではなく、日本の時代劇みたいな感じで進行した。毎回かなり楽しめた。William Garrow役のAndrew Buchanの軽快な台詞、特に法廷での丁々発止のやりとりが特に楽しい。各回ひとつの事件が取り上げられ、同時進行のサブ・プロットとしては、GarrowとLady Sarahの恋愛感情の発展がある。更に、裁判への取り組みをめぐり、Garrowの先生役の事務弁護士(solicitor)であるJohn Suthhouse(俳優はArmstrong)との考えの違いも毎回表面化する。第3回はLady Sarahとの関係に力点が置かれすぎて、やや焦点が定まらない感じであったが、最終回は言論の自由を訴える被告が登場し、国家のあり方に関係する大きな裁判を扱っていて、シリーズのクライマックスに相応しかった。是非第2シリーズが実現することを期待したい。

2009/11/13

"Life Is a Dream" (Donmar Warehouse, 2009.11.12)


古典の醍醐味を満喫!
"Life is a Dream"
Donmar Warehouse公演
観劇日: 2009.11.12  14:30-17:00
劇場: Donmar Warehouse

☆☆☆☆☆ / 5

演出:Jonathan Munby
原作:Pedro Calderón de la Barca
翻訳:Helen Edmundson
美術&衣装:Angela Davis
照明:Neil Austin
音響:Dominic Haslam
音楽:Dominic Haslam and Ansuman Biswas

出演:
Dominic West (Segismundo, a prince of Poland)
Rosaura (Kate Fleetwood, Clotaldo's daughter)
David Horovitch (Clotaldo, a courtier and gaoler of Segismundo)
Lloyd Hutchinson (Clarion, Rosaura's servant)
Malcolm Storry (Basilio, the king of Poland)
Rupert Evans (Astolfo, a courtier)
Sharon Small (Estrella)

Calderónの"Life Is a Dream"は、イギリス演劇における"Hamlet"に比肩されるような、スペイン・ルネッサンス演劇の傑作のひとつだそうである。休憩も入れて2時間半の上演時間では"Hamlet"の重厚さには及ばない気がするが、長年スペイン国民に愛され、又多くの人に研究されてきただけのことはある名作だと思った。これを一流の俳優とスタッフによる今回の公演で見ることが出来、大変幸運だった。

舞台はポーランド。王Basilioは息子Segismundoがやがて王位を簒奪するという予言を受けて、息子が生まれると直ぐに死んだことにして、塔に幽閉し、忠実な廷臣Clotaldoに監視させていた。Segismundoはこの非人間的な環境で育ち、鎖に繋がれた野獣のような男に成長している。しかし、Basilioは息子が真っ当なプリンスとして振る舞えるかも知れないという一抹の希望を持っていた。Clotaldoに命じて息子に強い薬を飲ませて眠らせ、王宮に運んでSegismundo自身にも伏せていたプリンスとしての素性を明らかにする。突然自分の持つ権力を知り、有頂天になったSegismundoは、彼をたしなめた家来を殺しかけ、また、Clotaldoの美しい娘Rosauraを強姦しようとする。息子の正体が野獣のようであると知ったBasilioは、再び彼に強い薬を飲ませて眠らせ、牢獄に連れ戻して監禁する。目が覚めたSegismundoは、王宮での一日が一体何であったのか自問すると、Clotaldoは全てはSegismundoが夢で見たことだと説明し、Segismundoもそれを信じる。しかし、彼は夢の中ではあっても自分のしたことの非道さを顧みて、もしまた同様の夢を見ることがあれば、同じ過ちは犯さないと心に誓う。

民衆は王Basilioに叛旗ををひるがえし、Segismundoを塔から解放して、反乱軍の頭領になって欲しいと説得する。Segismundoは、今回もまた夢に過ぎないと疑って、なかなかその気にならない。しかし最後には折れて、彼らと共に王宮に攻め入り王を追い詰める。しかし、前回の「夢」を見た時は違い、今回の夢の中では、彼は成長したプリンスとしての高貴さと寛容さを示した・・・。

以上のメイン・プロットと共に、Rosauraが、かって彼女を捨てた貴族Astolfo(王の廷臣)に仇討ちをするというサブ・プロットが重ねられて進行する。

第2幕の最後にあるSegismundoの独白が、この劇の魅力を存分に語ってくれるので、それを引用したい:

I dream I am a powerful prince:
I dream I cower within these walls.
And both are true, both are lies.
What is this life? A trick? A story?
An episode of passion?
A shadow, a delirium?
A vast imperfect fantasy,
Where even the greatest good of all,
Is nothing but futility?
Why do we live? What does it mean?
When dreams are life, and life's a dream.

(以下は私の拙訳)
私が偉大なプリンスだという夢を見る。
この壁に閉じ込められた夢も見る。
どちらも真実、どちらも偽り。
この人生は一体何? からくり芝居か、物語か。
一時の熱情。
まぼろしか、うわごとか。
至高の善さえも無に帰してしまうような
遠大で不完全な幻想か。
夢が人生で、人生が夢であるならば、
我々は一体なぜ生きているのか。人生に何の意味があるのか。

西洋文学の様々な主要モチーフがこだまする劇である。『オイディプス王』でも見られる予言と父殺し、「王の鏡」(Mirror of Princes)としての文学、虐げられた野蛮な貴族/貴族的な野蛮人(noble savage)、塔に幽閉された貴人、運命論と個人の自由意思の相克、そして勿論、夢と現実の交錯と物語(dream vision)、等々。

シェイクスピアとの親近性を大変感じた。Segismundoはキャリバンと似ているし、また、劇全体の夢の構造が、魔法で作られた世界である"Tempest"と共通する。SegismundoとBasilioの関係はHamletとClaudiusを想起させる。"Hamlet"でもうかがえる運命と自由意思の問題は、宗教改革の大きな争点でもある。

更にSegismundoの台詞にはシェイクスピア作品で盛んに使われる「世界=劇場」のイメージも存在する:
Let this peerless, valiant man,
enter the theatre of the world,
step out upon its mighty stage
that I might wreak my vengeance.
Let them see Prince Segismundo . . .
(He awakens.) But where am I?

この比類無き、勇敢な男に
世界という劇場に入場させよ、
その力強い舞台に進み出させよ、
そうして私は仕返しをしてやるのだ。
プリンス・セギスムンドを見せてやる・・・
(彼は目覚める) しかし私はどこに居るのか。

ほとんど道具類を使わない裸のステージだが、明暗をはっきりさせた、ベラスケスの絵のような照明が大変効果的。俳優も皆申し分ない。特にSegismundoのDominic Westはnoble savageを荒々しく魅力的に演じていた。演出のJonathan Mumbyは昨年見た"The White Devil" (Menier Chocolate Factory) の演出家。古典をオーソドックスに演出する腕に特に秀でているようだ。

世界が劇場であり、また人生が夢ならば、劇場という夢もまた人生。良い夢の名残を思い返しつつ、11月の冷たい霧雨の降るウエスト・エンドの街を歩いて駅へ向かった。

2009/11/08

"Pains of Youth" (National Theatre, 2009.11.07)


古いヨーロッパのデカダントな青春群像
"Pains of Youth"
National Theatre公演
観劇日: 2009.11.07 14:30-17:00
劇場: Cottesloe, National Theatre

☆☆/ 5

演出:Katie Mitchell
脚本:Ferdinand Bruckner
翻訳:Martin Crimp
美術:Vicki Mortimer
衣装:John Bright
照明:Jon Clark
音響:Gareth Fry
音楽:Paul Clark


出演:
Leo Bill (Petrell)
Sian Clifford (Lucy)
Laura Elphinstone (Marie)
Cara Horgan (Irene)
Jonah Russell (Alt)
Feoffrey Streatfeild (Freder)
Lydia Wilson (Desiree)


見始めて15分もたたないうちに嫌になり、この劇は私には駄目だ、と思ってしまった。若い俳優達の英語が早口でちんぷんかんぷん、キャラクターの特徴もつかめず、誰が誰かもよく分からない。最後まで見たが、一体この劇は何が言いたいのか、何を観客に感じて欲しいのか、さっぱり分からずじまい。英語が理解出来ない以上に、内容にも興味が持てず、フラストレーションの溜まった観劇となった。

場所は1923年のウィーン。同じ家に出入りする数人のブルジョワの若者達やメイドの間で繰り広げられるデカダントな恋愛(?)や欲望の絡み合いを描く。誰が誰とどうなっているのかは、よく分からないまま終わってしまった。バイセクシュアリティーや自殺願望も混じる。退廃した雰囲気としては、コクトーの『恐るべき子供達』のそれをちょっと思わせる。

演出や音楽、衣装、セット、照明などは大変スタイリッシュに統一されていて、素晴らしい。特に現代音楽と思われる背景の音楽、素早い場面転換とその間に使われる冷たい照明などのアクセントが印象に残った。若い役者達も演技が大変達者だと感じた。

20世紀初めの古いヨーロッパにおける、デカダントな若者の恋愛模様をスタイリッシュに描いた作品、ということだろうか。若者群像を描くことで、ある時代の雰囲気を鮮やかに浮かび上がらせる作品というのは、文学や映画などでよくある。日本で言えば、石原慎太郎などの太陽族の小説とか、『8月の濡れた砂』など、思い浮かぶ。しかし、それらの多くは直ぐに輝きを失ってしまう。時代や国を超えてアピールをするには、普遍的なもの、歴史の証人としての力などが必要だと思う。この作品をリバイバルする必然性はあったのだろうか。Mitchellと彼女のスタッフの腕は冴えていたが、作品そのものが、両大戦間のウィーンというファッショナブルなオブラートに包まれ、スタイリッシュな演出で飾られていても、風俗的興味以上の力を持っていないように思えた。自分の年齢のせいもあり、そもそも青春ドラマに関心が持てないということも大きいかも知れない。ちなみに、批評は、Independent紙の絶賛(5つ星)を始めとして、概してかなり好評だ。私が見る目が無いと言うこと?

2009/11/06

トマス・モアと彼の娘の伝記:John Guy, 'A Daughter's Love' (2009)


トマス・モアと娘の深い絆
John Guy, 'A Daughter's Love'
(2008; Harper Perennial, 2009)

☆☆☆☆/5

オックスフォード大学の歴史学の教師であり、チューダー朝の歴史のスタンダードな概説書'Tudor England' (Oxford UP, 1990)の著者でもあるJohn GuyによるSir Thomas Moreとその娘Margaret Roperの父娘の伝記。トマス・モア(Thomas More)はイギリス・ルネサンスを代表する知識人で『ユートピア』などの著作で広く知られるが、また、書斎の外では弁護士として働き、実力者トマス・ウルジー(Thomas Wolsy)に仕え、更にWolsy失脚後、大抜擢されてヘンリー8世により大法官(The Lord Chancellor)に任命された。しかし国王ヘンリーの離婚や宗教改革に同意せず、ロンドン塔に監禁され、断頭台に送られたことは、名作映画『我が命つきるとも』('A Man for All Seasons')で多くの日本人にもお馴染みだ。

彼はデジデリウス・エラスムスの親友であり、エラスムスと共にルネサンスの代表的人文学者の1人であった。彼の周辺に集まった知識人はモア・サークルと呼ばれ、劇作家で印刷業者のジョン・ラステルなど含まれる。彼の子供達は非常に文化的な家庭に育ち、また彼は学者を家庭教師に雇って、男女の区別をせず自分の子供に高度の古典語教育を施した。中でも長女のマーガレットは父親も驚く秀才に育ち、10代のうちに既にギリシャ・ラテン語を修め、古典を自由に読みこなし、エラスムスのラテン語の著作を翻訳し、後に出版できるほどになった。

トマスはしばしば意に反して政治の世界で取り立てられ、多忙な生活を送り、ロンドン郊外の自宅にも滅多に帰れない日が多かったようだ。マーガレットは度々彼に手紙を送って留守宅の様子を知らせる。更に彼がヘンリーの逆鱗に触れて投獄された後は、ジョン・ラステルなど友人、家族や親類が保身のために彼から離れて行く中、彼女だけが頻繁に面会に行き、彼を最後まで精神的に支える。妻のアリスは現実的な人で、彼が王の離婚や教会改革に反対し続けるのが全く理解出来ず、彼の投獄中面会に行ったのは一度きりであった。代わって、マーガレットが、トマスの知的、精神的理解者として、自らも身の危険を冒して、最後まで彼を励まし続けた。又、彼の死後、さらし者にされていた彼の遺骸(頭蓋骨)を引き取り、埋葬したのも彼女である。

著者のGuyは、あまり想像には頼らず、トマスの著作、彼やマーガレット、エラスムスなど、周辺の人々の手紙などに直接語らせる方法で、大変堅実に人間ドラマを盛り上げる。膨大な第一次資料を駆使しつつも、学術書のドライな叙述に陥らず、トマス・モアやマーガレットの人間像を温かい目で描いている。特に終盤のモアの投獄から死刑に至る過程は大変緊迫感があり、感動的である。

マーガレットは、散逸しないように父親の著作を収拾し編集して、ジョン・ラステルの息子ウィリアム・ラステルと共に、出版の準備をした。しかし、著作集の出版に漕ぎつける前に39歳の若さで病に倒れて亡くなった。今トマス・モアの多くの作品、そしてとりわけ手紙が読めるのは、マーガレットの力によるところが大きいとのことである。

ちなみに、Peter Ackroydのモア伝、'The Life of Thomas More' (Vintage, 1999)も大変良い本で、勧めたい。チューダー朝には本当に色々と興味深い人物が多くて、伝記を読むと面白い。

2009/11/01

"Mrs Kleine" (Almeida Theatre, 2009.10.31)


激烈な母娘の葛藤を描く
"Mrs Kleine"
Almeida Theatre Company公演

観劇日: 2009.10.31 15:00-17:30
劇場: Almeida Theatre

☆☆☆ / 5

演出:Thea Sharrock
脚本:Nicholas Wright
美術:Tim Hatley
衣装:Jackie Galloway
照明:Neil Austin
音響:Ian Dickinson

出演:
Clare Higgins (Melanie Kleine, a famous psychoanalyst)
Nichola Walker (Paula, a Jewish refugee)
Zoë Waites (Melitta, the daughter of Melanie Kleine)

Melanie Kleineはウィーンで生まれ、ブダペスト、そしてベルリンで精神分析を学び、やがて精神分析学者となる。1926年にはイギリスに移住し、その後も著名な精神分析学者として活躍し続ける。パンフレットの解説によると、、一般にはフロイトほどは知られていないが、同僚の心理学者に与えた影響は甚大だそうである。劇の舞台は1937年のロンドンの彼女の自宅居間。大陸ではファシズムが台頭し、ユダヤ人が迫害され始めていた頃。劇の始まりでは、メラニーは、ロンドンの自宅にユダヤ人精神分析医で、大陸から逃れてきたが生活に困っている女性パウラを迎え、秘書として雇う相談をしているところだ。

早速仕事に取りかかり、タイプライターを打っているパウラを残し、メラニーは最近ハンガリーで無くなった息子ハンスの葬儀に出席するためブダペストに旅立つ。仕事中のパウラのいる部屋にやってきたのが娘のMelitta。彼女も又精神分析医である。母親メラニーは何でもコントロールしないと気が済まない性格である。更に、母は同業の権威者でもあるので、母娘の関係は相当に屈折していることは直ぐに伝わる。やがて夜になり、メラニーが思いがけず帰って来て、親子はパウラを挟んで、母と娘であると共に、精神分析医同士として、激しい議論を繰り広げる。とりわけこの2人の間には、ハンスの死の謎がわだかまっている。彼の突然の死は、自殺ではなかったのか。メラニーの母親としての責任や愛情をめぐり、メリッタはメラニーにわだかまっていた感情をぶつける。

なかなか面白い素材だ。成功した、子供にとっては偉すぎる親にたいし、ずっと不満を抱き続けてきた子供が大人になってそれをぶつける話は、我々の身の回りにも、文学や映画演劇などにもよくありそうだ。イングマール・ベルイマン監督、イングリッド・バーグマン、リブ・ウルマン主演の『秋のソナタ』も母娘の葛藤の話だった。この作品では、心理学者の親子というひねりがはいる。親子はお互いを分析しあうが、それによって相手をコントロールしようとしているようだ。更に、それを見ている秘書のパウラが、いつしか、反抗するメリッタの代わりに、メラニーの従順な娘のような存在になっていき、一層複雑になる。冷静な科学者同士の分析的口調、母として娘としての感情的な爆発が入り交じる、正に丁々発止の会話劇。

リアリズム劇であるので、ロンドンの豊かな家の居間を再現してあるだけだが、全体を強く赤味を帯びた壁、家具、カーテンなどで統一して、家族の精神的な闘いの激しさを象徴している。それぞれの役柄に合わせた洋服、一夜明けた後の朝の光線の強さ、窓の外にぼんやり見える庭の緑など、実に細かいところまで配慮の行き届いたセット、衣装、照明であった。

3人の役者は名演。Clare Higginsは、私は多分ステージでははじめて見るが、大女優として有名な人らしい。パウラを演じたNichola Walkerは、昨年"Gethsemane" (National Theatre)でも見た人。イギリス人には珍しい(?)、地味で内気な女性の役がとても似合う人。私の好きなタイプの緊迫した台詞劇であり、もっと面白く感じても良いと思いつつ、私はあまりのめり込めなかった。中年男性の私には、母と娘のこのような争いは感情移入できにくい。また、このような激烈な言葉の戦争は、日本人の私には、どうしても現実感を持って受け取れないということもありそうだ。我々はこういう激しい議論を延々とするということは、なかなか無いと思うので(?)、つい距離を置いて、「眺める」姿勢になってしまう。とは言え、役者達の名演を充分楽しんだ。

2009/10/29

"The Sacred Made Real" (The National Gallery, 2009.10.24)



"The Sacred Made Real: Spanish Painting & Sculpture 1600-1700" (The National Gallery, 2009.10.24)

先日、ウエスト・エンドで劇を見た時に時間が大分余ったので、前から関心があったこの展覧会に、行ってみました。17世紀のスペインのキリスト教美術、絵画と彩色彫刻、を30点程度集めています。日本人にも良く知られた画家としてはディエゴ・ベラスケス(Diego Velázquez, 1599-1660)の作品がかなりありました。他の有名な画家では、フランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán, 1598-1664)の作品。スルバランにしたって、私は聞いたことありません。ベラスケスの作品は、王女マルガリータの肖像などが有名ですが、こんな敬虔な宗教画もあったのか、と驚きました。しかし、その他の画家、彫刻家は、スペイン国外ではあまり知られた人ではないそうです。というのも、これらは、教会等で今も信仰の対象となっているもので、国外の展覧会などで展示されることや、画集に収められることが少なかったからのようです。例えば、Juan Martínez Montañés(1568-1649)やPedro de Mena(1628-1688)、Juan de Mesa(1583-1627)などの作品が展示されていました。どういう作品があるかは、ガーディアン紙の次のサイトをご覧下さい:
http://www.guardian.co.uk/artanddesign/gallery/2009/jun/09/spanish-art-national-gallery-exhibition?lightbox=1

本当にRealなんです。生々しい。キリストの受難のシーンなど、正に信者の感覚に直接訴えてくると思います。キリスト教の信者でない私もつくづく見入ってしまいました。顔のしわやしみまでしっかり描かれていたりします。また、スペインの他の絵画でもそうですが、光と陰のコントラストが鮮やかでした。特に新鮮だったのは、彩色彫刻です。木の彫刻に色を塗ったもので、彫る人と画家は別だそうです。もう350年くらい経った作品なのに、驚くほど色鮮やかで、ひび割れなどもありません。直ぐ目の前にキリストやマリア様が立っているようです。解説によると、絵画が木彫に影響されている場合も多いとのこと。つまり、木彫を見て、絵画を描くこともあったそうです。マリアの服のひだなどが、ごわごわした感じになっているのは、直接布を見つつ描いたのではなく、木彫になった服のひだを見て描くからだという言うことです。

私はイギリスにおける中世受難劇を勉強しているので、直接研究のヒントにはならなくとも、大いに刺激にはなりました。2010年1月24日まで開催中です。見ると心が洗われるような気がします。私ももう一度行ってみようと思っています。

2009/10/27

"Endgame" (Duchess Theatre, 2009.10.24)


生の終わりと世界の終わり?
"Endgame"

Complicite公演
観劇日: 2009.10.24 15:00-16:30
劇場: Duchess Theatre (Westend)

☆☆☆☆/5

演出:Simon McBurney
脚本:Samuel Beckett
美術:Tim Hatley
衣装:Christina Chunningham
照明:Paul Anderson
音響:Gareth Fry


出演:
Mark Rylance (Hamm)
Simon McBurney (Clov)
Tom Hickey (Nagg)
Miriam Margolyes (Nell)

カーテンが上がる前から低い不気味な音が劇場を満たしている。やがてカーテンが上がると2つの大きなゴミ箱以外に何も無い荒涼とした地下室らしき部屋。左右の天井近く、人の背丈よりも高い所に、それぞれ1つずつ窓があり、薄明かりが差し込む。ステージ中央に車椅子に座った男、Hamm、が居て、ドアから入ってきたClovとやり取りを始める。

 "Waiting for Godot"でもお馴染みの暴力、依存、愛情の入り交じったような不思議な言葉が2人の間に延々と交わされる。簡単に言えば、車椅子から出られず、また目さえ見えないHammと、その世話をするClov、そしてHammの両親の会話よりなる劇。この両親はステージ右側に置いてあったゴミ箱に入ったまま。最初は蓋がしてある。しかも、母親のNellは途中で死んでしまうらしく、応答が無くなる。父親、Naggもおそらく劇の終わる前に死んでしまう。

HammはNaggに食べ物(ドライ・フルーツ?)をやろうとして、もう無くなってしまったことに気づく。また、彼は決まった時間に痛み止めをClovから貰って飲むことになっているようだが、その時間が来ても、「もう痛み止めは無くなった」とClovから言われる。飢餓や迫り来る死がほのめかされているのだと思う。ゴミ箱の中に入ったままの両親は、返事をしなくなる。Clovも去っていき、Hammだけがステージに残されることに・・・。

タイトルが”Endgame"であることからして、何かの終わりを示す劇だ。少なくとも、Hammの人生は、NellやNaggの人生のように、まもなく終わろうとしているように見える。一体、外の世界はどうなっているのだろうか。このプロダクションの音響や、地下室の様子から、部屋の外も決して明るい平和な世界でないことがうかがわれる。世界戦争の後の荒野? もしかしたらこの部屋が最後の生命が残された場所なのかもしれないなどと、想像させる。

ゴミ箱から突然NaggとNellが顔を出してびっくりしたが、それ以外は特に変わったことが起きるわけでもなく、Compliciteのいつもの、いわゆる「フィジカル」なステージとは言えない。やや退屈して、ぼーっとしていた時もあった。しかし、ClovがHammを残して去ろうとするあたりからは非常な緊張感が漂う。また、それ以上に、見終わった後に強い余韻を残す作品だった。

普通の劇であれば台詞やト書きから如何に観客に納得のいく生き生きしたキャラクターを作るかが、役者の腕の見せ所だろうが、もともとリアリスティックな人物の創造を想定してないベケットの台詞である。「この人物はこういう風にしゃべるだろう」という筋書きをたてられないだろう。演出家と役者は、ひとつひとつの言葉やシーンを積み木のように組み立てていくのだと創造する。私がただ言えるのは、味わいのある演技で、楽しめたと言うこと。

生の終わりと、世界の終わりに向かっているような、終末的な様相を呈し、現代的なプロダクションだった。同様の意味で、先日見た"Mother Courage and Her Children" (National Theatre)を思い出した。

2009/10/20

BBC One "Emma"放送中


以前旧ブログで書いたBBC Oneの"Emma"は第3回まで放送が終わり、あと1回を残すばかりとなりました。毎週日曜日の9時台に放送されています。Romola Garai扮する主人公、ドングリ眼がこぼれ落ちそうで、なかなかおかしくて笑ってしまいます。大変楽しいドラマとなりました。ストーリーは、自分自身については無知のくせに他人の結婚の事にはしきりにお節介を焼いて失敗している主人公が、そうした失敗を経て徐々に自己認識を深め成長するというお話。原作はオースティンの円熟期の作品で、大変良くできているということです。こういうロマンチック・コメディーにはあまり興味のない私にも大変楽しめます。

Michael Gambonがお父さん役で出ているのですが、ほとんどカメオ・アピアランスという程度。役者の中では、主人公とそのパートナー(John Lee Miller)以外では、経済的には苦しい生活だが、いつも陽気でおしゃべりのオールドミスMiss Batesを演じるTamsin Greigがとても印象的。

ひとつ私があらためて感じたのは、18世紀始めの田舎のジェントルマン階級とその家族の世界が如何に窮屈で狭苦しいものであったかということ。集まる時は、3,4家族とその周辺のやや社会的地位が高い人(教区司祭など)、それらの家の家庭教師、など。10数人の人が何かにつけて顔を合わせるわけです。このドラマが正確に当時の状況を反映しているとは思いませんが、閉鎖性は大体似たようなものだったのではないのでしょうか。主人公のEmma自身は、自分の村Highburyから一度も外に出たことがなく、それで充分満足という有様です。しかも、彼らは働いていないわけですから、余暇は有り余るほどです。お茶を飲んでゴシップをしたり、ダンス、散歩、ピアノ演奏、読書、ゲーム・・・、限られたメンバーで時間をつぶすのも大変。勿論周囲には沢山の農民や職人、商人などがいるのですが、階級が違う彼らとは個人として普通のつき合いは出来ないのですから不自由です。

もう一つ面白いと思ったのは、こうしたジェントルマン家族の周辺にいる人達の微妙な立場です。例えば、Miss Batesはずっと昔に亡くなった教区代理司祭の娘です。聖職者の娘ですから階級としてはジェントルマンではないにしても、労働者とは別格なのですが、経済的には非常に苦しい状況です。こういう人達、特に女性は、どこかから遺産が舞い込んでくるか、あるいは若い時に幸運な結婚をするかでなければ、人生の後半は極めて厳しかったことでしょう。親戚の居候として、片身の狭い思いをしつつ生きるか、どこかの家の使用人になり、階級を落としてしまうかでしょうか。Emmaのgovernessであった賢明なAnne Taylorは、幸運にもMr Westonと言うおっちょこちょいのジェントルマンと結婚できました(ジェイン・エアですね)。

BBCの"Emma"の公式ページは:
http://www.bbc.co.uk/programmes/b00n8s6x
但、ページ内のビデオはイギリス国内でしか見られないと思います。

写真はMiss Bates (Tamsin Greig)

2009/10/15

"An Inspector Calls" (2009.10.14 Novello Theatre)


"An Inspector Calls"
観劇日: 2009.10.14 14:30-16:15
劇場: Novello Theatre

☆☆☆/5

演出:Stephen Daldry
脚本:J B Priestley
美術:Ian MacNeil
照明:Rick Fisher
音楽:Stephen Warbeck


出演:
Nicholas Woodeson (Inspector Goole)
Sandra Duncan (Sybil Birling, wife)
David Roper (Arthur Birling, husband)
Marianne Oldham (Sheila Birling, daughter)
Timothy Watson (Gerald Croft, fiancee of Sheila)
Robin Whiting (Eric Birling, son)
Diana Payne-Myers (Edna, a maid of the family)


J P Priestleyのこの戯曲は、半ば現代古典の評価を確立しつつある。高校生の課題図書になるなど、広く読まれ、また繰り返し上演されてきた。日本でも『夜の訪問者』という題名で上演されたそうである。今回のプロダクションは、1992年にNational TheatreでStephen Daldryが上演したプロダクションの再演である。1992年の上演は好評を博し、ウエストエンドにトランスファーしてロングラン。更にブロードウェイにも行ったそうである。私はこのウエストエンドのロングラン中に一度見ている。確か私が始めてイギリスに来た20年くらい前の夏だったと思う。予備知識なく見て、英語が分からない部分もかなりあったが、大いに楽しんだこと、演技や美術のレベルの高さを感じたという想い出が残っている。この劇もひとつのきっかけとなり、イギリスでの観劇が好きになったのだと思う。そう言う意味では、その後の私の人生を変えた劇だ。

ストーリーは、1912年、つまり第一世界大戦直前のイングランドのある夜の数時間に限られる。企業家Birling家では娘Sheilaとその土地の名家の息子Gerald Croftとの間の婚約を祝う内輪のパーティーを行っている。そこに刑事(a police inspector)のGooleが訪ねて来て、色々な質問をする。今夜貧しい若い女性Eva Smithが毒物を飲んで自殺したと刑事は告げる。そしてその女性はかってArthur Birlingの経営する工場の女工だったが、ストライキの指導者の一人であったのでArthurは彼女を解雇していた。それだけではない。話している家に、Birling家の他の者達全員、更にGerald Croftも解雇された後のEva Smithと偶然にも関わり、そして彼女を無惨に見捨てていたことが分かってくる。事実を知らされた彼らの反応は様々。Arthurを始めとして、私には責任はない、普通なら誰でもすることをやっただけ、という者もあれば、娘Sheila Birlingのように強く責任を感じて、自分の生き方を見つめ直そうと思う者もいる。こうしてEva Smithの死へ至る経緯が明らかにされた後、Evaの正体を巡り、思わぬどんでん返しがある・・・。

この劇の主役は、既にしばしば言われているように、Ian MacNeilの素晴らしいセットである。居心地の良い、しかし子供のままごとの家のように狭苦しい家。その家にどう光があてられ、精神的も物理的にもどう変わっていくか、家族の偽りの平和と幸福を象徴しているかが見所である。また、その家を囲んでいるまわりの雰囲気は荒涼としており、Birling家が自分達の幸運に閉じこもり、周囲と調和していないことを示している。また多くの台詞のない群像をしばしば配置することにより、Evaがある一人の女性の悲運だけでなく、彼女の背後にも同様の貧しい庶民が沢山いることを暗示している。

昔この劇で大いに感激した私としては、今回はちょっと拍子抜けした。確かに良くできた劇で、楽しめる。見てない人は是非見て欲しい。しかし、見なおしてみて、非常に図式的に感じた。前回見た時は筋書きも知らず、British Englishに慣れておらず台詞もあまり分からなかったが、今回内容を大体知った上で見ると、物語が小気味よく計算通り進行する良さが感じられる一方で、あまりにも定規で線を引いたような単純さを感じられもした。何度見ても味わいがにじみ出るような劇ではないと思った。

俳優は全員それぞれの役を適切にこなしていたが、特に傑出した印象を受けた人はいない。強いて言えば、Sheilaを演じたMarianne Oldhamは、Sheilaの憎たらしい自己中心的な考えが自省に変わっていく様子を大変上手く演じていたと思う。台詞では、Inspector Gooleはbald and stockyとあったようだ。また、大変威圧的な影響力をBirling家の人々に与えなければいけない役柄である。にもかかわらず、Nicholas Woodesonはミスキャストだと思う。かなり小さな男性で、スーツやコートがだぶついているように見えた。失礼ではあるが、もっと堂々とした体格の人でないとInspector Gooleは演じられない。

ウィークディのウエストエンドのマチネ。しばらく忘れていたが、ひとつ警戒が必要だった。つまり、観客の7,8割は高校生の団体客で、ひそひそしたおしゃべりが絶えることが無かった。また、電話が鳴ったこともあった。違った観客だったら、もっと集中出来て、大分印象が違っていただろう。但、高校生達も、彼らなりの騒々しい反応から見ると、かなり楽しんだようで、この劇の魅力を証明していた。

2009/10/14

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