2010/04/30

"Polar Bears" (Donmar Warehouse、2010.4.29)

2回目です
"Polar Bears"

Donmar Warehouse公演
観劇日:2010.4.29 19:30-21:00
劇場:Donmar Warehouse

演出:Jamie Lloyd
脚本:Mark Haddon
美術:Soutra Gilmour
照明:Jon Clark
音楽、音響:Ben and Max Ringham
衣装:Fizz Jones

出演:
Jodhi May (Kay)
Richard Coyle (John, Kay's husband)
Paul Hilton (Sandy, Kay's brother)
Celia Imrie (Margaret, Kay's mother)
David Leon (Jesus, Kay's lover and mortuary attendant)

☆☆☆☆ / 5

4月19日に既に見たDonmar Warehouseの"Polar Bears"をもう一度見た。最初に見た時は、それ程良いとは思わなかったのだが、しかし、自分が作品を充分味わい尽くせてない気がしていた。見終わってからとても気になって、また見たいと思っていた。オンラインで見ると切符は売り切れていたが、しばらくしてこの晩に幾つか空席が出たので、行くことにした。

前回の感想はこちら

特に新しい発見はなかったが、最初見た時よりも多少英語の上での理解は改善した。タイトルの"Polar Bears"は"bipolar"にかけたところもあると思うが、主人公のKayが見た夢の中に出てくるシロクマから取っているようだ(それ以上、細かい事が分からない)。この夢が寓話のようになっているのだが、どういう意味があるのか、分からないまま。

劇全体は、Kayだけの話と言うより、家族の物語という印象をより強く持った。特に兄のSandyのことは、妻との別居、そしてしばらくしてまたよりを戻していること、子供に定期的に会いに行くこと、父が自殺した時Sandyがどう感じたかなど、かなり詳しく描かれていて、興味深い人物になっている。Sandyと同じくらい、JohnやMargaretについても描いてくれるともっと面白かったのに、と思う。但、あまり意味の通る全体像を求めても仕方ない気もする。劇全体が、narrative coherenceをぶち壊すように作られていて、Kayの内面が錯綜するように、色々なメンタル・スケッチが次から次へと現れては消え、それらが形作る全体の印象を観客に受け入れさせるように出来ていると思う。従って、リアリズム・ドラマとしての「意味」を求めようとすると、フラストレーションが溜まる。そのまま、劇のそれぞれのシーンに集中しつつ見て、最後に満足できれば良いのだろうと思った。

今回再度見て大変感銘を受けたのは、Jodhi Mayの演技。何だか、前回より一層熱を帯びた感じがした。演じ終わって、カーテンコールで出てきた時、演技の表情がまだしっかり顔に残っていて、こわばったような顔つきをしていて、如何に彼女が役に没頭していたかを感じさせられた。大変迫力ある、才能を感じさせる演技であった。ということで、☆をひとつ追加。他の主要な俳優3人も素晴らしかった。


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2010/04/27

BBC Oneのドラマ、"Five Daughters"

4月25日から27日まで3晩、1時間ずつ放映された3回連続ドラマ。しばらくiPlayerで見ることが出来る。DVDになることを期待したいが、まだAmazon.co.ukには予約は出ていない。

私がイギリスに来てから見たこちらのドラマで、最も素晴らしいと思った作品。全世界で報道された2006年10月から12月にかけて起こったイプスウィッチ市での連続殺人事件を、事実に基づいて、警察等の関係者、そして特に被害者の家族に取材してドラマ化している。

事件は、街頭に立って売春をしていた女性が続けて5人殺害されるというショッキングなものであるが、このドラマは、事件をセンセーショナルな扱いをするのではなく、それぞれの被害者が何故売春をすることになったか、彼女たちの家族や友人との関係はどうであったかを、繊細な視点で描いている。彼女たちは1人残らずヘロイン等のハード・ドラッグの中毒患者であり、麻薬を買うために街頭に立っていた。ミドルクラスの家族と住んでいた人、家族と定期的に連絡していた人、ボーイフレンド(やはり中毒患者)と同居していた人、大学に行く夢を持っていた人、中毒を抜け出そうとセラピーを始めようとしたところだった人(5人のうち2人が麻薬中毒者のケアをする同じボランティア組織に通い始めていた)、刑務所から出所して美容師として新生活を始めようと張り切っていた人、3人の子供を生んだが、麻薬中毒のために育てられず、里親に出した人・・・皆それぞれ、悲喜こもごものドラマを残して死んでいった。女性達のひとり、アネットは自分の日常について詩を書き残していて、それがところどころに大変効果的に挟まれる(ドラマ中で使われる詩は、脚本家が家族から内容を聞いて、創作しなおしたものだそうであるが)。「売春婦」というレッテルとはかけ離れた、皆、所謂「普通の」若い女性達である。家族に愛され、定期的に連絡を取ったり会ったりしている人もいる。その家族も彼らの問題を分かっている。にもかかわらず、麻薬が彼らを街頭に立たせる。皆、麻薬から逃れたい、家族も何とか娘を救ってやりたいと思っているのだが出来ない。それどころか、連続殺人が始まった後も、彼女たちは次は自分が襲われるのではないかと恐れつつも街頭に立ち続け、結果として被害者が増えていった。その位、ヘロインやコカインの中毒からは逃れられないのである。恐ろしいものだとつくづく思った。先日、朝のニュース番組"Breakfast"にこのドラマのプロデューサーのSusan Hoggと俳優のひとりAisling Loftusが出ていたが、彼らが言っていたのは、このようなドラッグの問題は彼ら個人の周辺でも良く見聞きする普通のことだということである。イギリスの社会の大きな病巣を見る気がした。

またメディアによる家族の二次被害も触れてあった。

エンタテーメントのクライム・ドラマではなく、社会問題をえぐったドキュメンタリー・ドラマであり、また人間ドラマとして、一級の作品。視聴者にこびることなく、こういう特殊な事件でありながら、音楽、照明、カメラワーク、演技その他を見ても、センセーショナルに演出されているところは全くない。家族に密接に取材したのであるから、家族が見ても不満を抱かないようなドラマにしようと思ったのだろう。5人のうち3人の家族は詳しく話をしてくれ、1人の家族はドラマ化に反対せず、1人の家族のみ否定的だったようである。従って、その後者の女性や家族のことはほとんど触れられていない。Susan Hoggもブログで書いているが、麻薬の恐ろしさを伝える番組として、若い人に見て貰いたいドラマである。BBCでなければなかなか出来ない作品。番組のホームページはこちら。日本でもNHKなどで、視聴者の多い時間帯に是非放送して欲しいドラマ。

Director: Philippa Lowthorpe
Executive Producer: Susan Hogg
Producer: Simon Lewis
Writer: Stephen Butchard

主な俳優:
Sarah Lancashire, Anton Lesser, Ian Hart, Jamie Winston, Eva Birthistle, Aisling Loftus, Natalie Press

(追記)あるテレビ評によると、このドラマでは加害者の問題に触れていない、あるいはその他の売春婦の客の問題にも触れていない点が気にかかるとのこと。確かにそうである。また、麻薬を彼女たちに売った売人のことも含め、ドラマで取り上げても良い視点は色々とあるだろうが、このドラマはあくまで本人と家族の内面に迫り、彼女たちの麻薬中毒の問題に集中したところが長所であると思った。それに家族が出来上がったものを見て納得できる作品にならないといけないという制約もある。

私がいつも訪問させていただいているBradford大学、博士課程のTakaoさんのブログでもこのドラマについて詳しくとりあげて下さいましたので、関心のある方はそちらもどうぞ。


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2010/04/25

The New Players Theatre and Villier Street

昨日(4月24日)に始めて行った劇場です。チャリング・クロス駅の下にあります。駅を出て、駅に向かって左側にVillier Streetがテムズ川方向に下っていますが、それを10メートル弱下ると、駅の下に入るアーケードがあり、幾つかの商店が入っています。その中にこの写真の入り口があります。

ホームページによると、ビクトリア調のミュージック・ホールの跡だということですが、現在の劇場は1998年に作られた(改築かな)ようです。席数は275。駅の下なので、時々電車の雑音がしますが、劇の雰囲気を壊すほどではないと思います。

演目は、コンサート、コメディー、劇など、色々とバラエティーに富んでおり、昔のミュージック・ホールの面影を伝えているようですね。




New Players Theatre入り口

Villier Streetを駅の方からテムズ川方向へ見たところ。右側にアーケードの入り口があり、劇場へと通じています。


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"The Duchess of Malfi" (The New Players Theatre, 2010.4.24)

ステュアート朝復讐悲劇の傑作
"The Duchess of Malfi"

Vaulting Ambition公演
観劇日:2010.4.24 14:00-16:40
劇場:The New Players Theatre (Charing Cross)

演出:Dan Horrigan
脚本:John Webster
美術:J. William Davis
照明:Phil Spencer Hunter
音響:Seb Willan
振付:Hannah Kaye
サーカス:Tim Lenkiewicz

出演:
Tilly Middleton (The Duchess)
Andrew Piper (Cardinal, her brother)
Alex Humes (Ferdinand, her brother)
Peter Lloyed (Antonio, the Duchess' husband)
Steph Brittain (Cariola, the Duchess' maid)
James Sobol Kelly (Bosola, a spy sent by the Duchess' brothers)
Tim Daish (Delio, Antonio's friend)
Alinka Wright (Julia, Cardinal's mistress)

☆☆☆/ 5

チャリング・クロスの駅の下に劇場があったなんて、これまでまったく知らなかった。そのNew Players Theatreという始めて行った劇場で、ほぼ無名の劇団(と思う)Vaulting AmbitionによるJohn Websterのステュアート朝復讐悲劇の傑作、"The Duchess of Malfi"(『モルフィ侯爵夫人』)を見ることが出来た。テキストでは大昔、読んだと思うが、多分ステージで見るのは始めて。セミプロの劇団で、公演の説得力にはかなり問題があるが、この作品を実際に見られただけでも行った甲斐はあった。

モルフィ侯爵夫人は若い未亡人。2人の兄、Cardinal(枢機卿)とFerdinandがいる。Cardinalは冷血、冷徹な策謀家、Ferdinandは血の気が多く、すぐ怒り狂う。2人ともモルフィ侯爵夫人が再婚し、一族の財産が他の手に渡ることをひどく嫌って、侯爵夫人に自分達の友人の新しい夫を押しつけようとしている。ところが、婦人は自分の召使いで、善良なAntonioをみそめ、強引に彼を説き伏せ、兄たちには秘密裡に結婚する。CardinalとFerdinandは妹を監視させるために、地位や財産のためなら何でもやるというBosolaをスパイとして侯爵夫人の家中に送り込む。侯爵夫人は3人の子をもうけ、Antonioと平和な時を過ごしているように見えるが、ついにBosolaは2人の関係の動かぬ証拠を手に入れる。CardinalとFerdinandは、Bosolaを使い、愛する2人、そして彼らの3人の子供を殺害しようとするが、自分達にも悪行の報いが訪れる・・・。

チラシによると、1930年代のサーカスの一座の人々をめぐるドラマという設定にしてあると言う事だ。確かに最初や、インターバルのあとにそれを専門としている人が出てきて、いくらか簡単なアクロバット芸を見せてくれるし、Bosolaはピエロのようなメイクアップ、侯爵夫人を演じたTilly Middletonは空中ブランコの女性スターのようなコスチューム。発想は悪くないとは思うが、しかし、台詞はJohn Websterのオリジナルそのままであるので、かなり無理があったと思う。また、今回のプロダクションは、マイナーな劇団のもので、俳優も多くはセミプロの人だと思う。やはり音楽やコスチュームも貧弱で、十分に濃密な雰囲気を出すに至っていない。台詞はしっかりしていたが、それを充分味わい、詩的な美しさを感じさせるほどに操れる人はほとんどいない。その中では、Cardinal役のAndrew Piperが良く響く声で堂々とした台詞回しで、ベテランの貫禄を見せ、目立って良かった。また、BosolaのJames Sobolのずる賢さ、FerdinandのAlex Humesの手に負えない激情ぶりも印象に残った。DuchessのTilly Middletonは、台詞には難はないが、残念ながらカリスマに乏しく、この女性をめぐって多くの血が流されるとは思えない感じである。2008年の秋、Menier Chocholate Factoryで、やはりWebsterの傑作復讐悲劇、"The White Devil"を見たが、その時のヒロインを演じたClaire Priceの圧倒的な迫力と比べてしまった。"The Duchess of Malfi"も、"The White Devil"同様、全員のテンションがどんどん高まり、人々が激情に押し流されて、狂気と殺戮の結末へと疾走する劇のはずなのだが、何だかそのテンションが高まらなくて、ゆっくりと進むように感じられた。とは言え、この劇団にウエストエンドの大劇場やナショナルのレベルを期待するのは気の毒。

星はセミプロ劇団であることを考慮し、原作の面白さを加味して、3つとしました。劇場は250人くらい入りそうな場所ですが、お客さんは30人程。かなり寂しい。役者さんに気の毒でした。前の方に固まって座っている少数の観客に向けて演技をしているセミプロの役者さん達を見ていること、公演自体が、まるでドレス・リハーサルのような寂しさ。劇場にはやはり沢山の観客が必要だと痛感。

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2010/04/20

Ruth Rendell, "The Babes in the Woods" (1998; Arrow Books, 2003)

Wexford警部シリーズのクライム・ノベル
Ruth Rendell, "The Babes in the Woods" (1998; Arrow Books, 2003)

☆☆☆ / 5

現代イングランドのシャーロック・ホームズ(?)と言えるかも知れないChielf Inspector Wexfordシリーズの一冊。この本は既に一度昔読んでいるのだが、中身をすっかり忘れていて、古本の露店で安く売っていたので、また買ってしまった。ノンビリしたペースで進み、それほどサスペンスもないし、あらかじめ細かく伏線として描かれる細かい物的証拠や動機を組み合わせて謎解きをすると言った古典的な推理小説でもない。キャラクターや状況を楽しむ小説である。イギリスのクライム・ノベルの多くは、大衆的な一般小説と区別がつかなくなっていると思う。

イングランドの中部にあると思われる架空の地方都市、Kingsmarkhamでは、長雨で洪水が起こり、警部Wexfordの家にもひたひたと水が迫っている。そんな中、親が旅行に入っている間に、十代の子供2人と、彼らの家庭教師が車ごと失踪する。両親は洪水に飲み込まれたに違いないというので、潜水夫が出て水の中の捜索がなされるが見つからない。何週間も経っても見つからないままで、事件は迷宮入りしかけるが、突然、家庭教師の死体が腐乱した状態で、田舎の農地に車ごと放置されているのが発見される。だが、子供2人の行く方は依然として分からない・・・。一方、Wexford自身の家庭でも、娘のSylviaと同居しているボーイフレンドの間がおかしくなり、Wexford自身も巻き込まれ、大騒動になる。

クライム・ノベルの好きな人、特にルース・レンデルの好きな人には、結構楽しめると思う。しかし、そうでなければ、ノンビリしたペースの作品なので退屈に感じるかも知れない。レンデルの作品の中では、出来はあまり良くないかな。レンデルの小説でも、非常にシリアスなものもあるのだが、この作品は軽い感じで読めるので、エンターティンメントとしては充分手に取る価値はある。扱っている社会問題も、現代的ではあるが、それ程シリアスな書き方はされていない。

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2010/04/19

"Polar Bears" (Donmar Warehouse, 2010.4.17)

躁鬱病患者とその家族の物語
"Polar Bears"

Donmar Warehouse公演
観劇日:2010.4.17 14:30-16:00 (no interval)
劇場:Donmar Warehouse

演出:Jamie Lloyd
脚本:Mark Haddon
美術:Soutra Gilmour
照明:Jon Clark
音楽、音響:Ben and Max Ringham
衣装:Fizz Jones

出演:
Jodhi May (Kay)
Richard Coyle (John, Kay's husband)
Paul Hilton (Sandy, Kay's brother)
Celia Imrie (Margaret, Kay's mother)
David Leon (Jesus, Kay's lover and mortuary attendant)

☆☆☆ / 5

小説やテレビドラマのシナリオなどで活躍しているMark Haddonの演劇デビュー作だそうである。テーマは非常に重い。躁鬱病患者とその家族の物語。躁鬱病は、英語で、bipolar disorderというそうだ。つまり極端な興奮状態(躁)と極端にふさぎ込む状態(鬱)の2つの極(poles)を言ったり来たりするわけで、そこから"Polar Bears"という題名が着いているのかな。大変考えさせるテーマ、重い題材を冷静に扱っていて、悪くないとは思うのだが、今ひとつ物足りない。何故かインパクトが感じられない。私の英語やその他、内容に関する理解不足もあると思うので、自信はないが・・・。但、Donmarの出演者だけあって、俳優の演技は立派で、その点では大いに満足できた。

劇は夫婦の悲劇的な破局の場面で始まり、その破局への道程をたどりつつ多くのエピソードを積み重ねることで進行する。エピソードの時間が行ったり戻ったりするので、英語の理解に難のある私のような観客にはかなりやっかいで、時々脈絡を見失った。こうした流れは、無理にドラマチックにするよりも、冷静に、時にはコミカルにこの病気を見つめようという作者の意図に沿ったものかも知れない。

主人公のKayの病は遺伝的なもので、父親が同じ病気で自殺をしたことも最初に明らかにされる。兄(あるいは弟)のSandyと母親のMargaretは、そのKayの感情の激しい変化を、ある程度距離を置いて見ている。それが彼ら自身を守るすべかも知れない。特にSandyは非常に世俗的なビジネスマンで、自己中心的にさえ見えるが、Johnの様にKayに徹底的にかかわっていては身が持たないのも確か。夫のJohnは冷静な哲学者。Kayに温かい目を注ぐ一方で、彼女の病気を病気として捉えて、理性的に眺めようとする。しかし、そういう彼にも限界があった。

Kayの躁状態を描いた場面は大変面白い。コミカルだし、Johnがそれに振り回される様子も興味深い。しかし、鬱状態の描写が不十分だし、あまり悲惨さが伝わらない。私としては、小さなエピソードを積み重ねるよりも、もっとひとつひとつのシーンをじっくりと描いて欲しかった。Haddonは何を観客に感じて欲しいのか、何を訴えたいのか、私には良く理解出来なかった。この病気について良く理解してもらいたいのか、それとも、病気はひとつの素材であって、Kayの一家の家庭劇にしたかったのか。どちらも中途半端な気がする。

アメリカン・リアリズムの代表作の幾つかは、精神疾患、あるいはそれに類似した症状を扱っている。しかし、『ガラスの動物園』とか、『夜への長い旅路』など、そうした背景はあっても、主眼はあくまでも家族のドラマであり、その為の背景とか雰囲気作りがしっかり出来ている。今回の劇は、長さも短かく、そういう背景を十分に書き込めて無いと思う。

とは言え、俳優の演技は優れているし、この病気のことを考えさせてくれたので、ロンドンまで出かけた甲斐はあった。

(追記)この劇を見て改めて思ったが、精神疾患に関する我々の(日本人の)認識はまだまだ不十分。勿論、私達が専門的な予備知識を持つことは出来ないが、心の病を持った人を差別しない、職場や学校などで暖かく融通を効かせつつ処遇する、ということは出来るだろう。日本では、病気をかかえた人を迷惑に感じたりし、職場から追い出しかねない環境のところがかなり多いのでは無かろうか。そもそも真夜中までサービス残業をさせるような職場は、心の病人を作り出してしまう。また、病気をかかえた人も、自分でおかしいと思っていても医者に相談してなかったり、職場や学校でも誰にも言えない人も沢山いて(それは職場や学校にも責任があるが)、それがかえって病気を悪くしている場合もあると思う。この問題に関して、社会全体がもっとオープンになる必要があるだろう。


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2010/04/16

"The Power of Yes" (National Theatre, 2010.4.15)

2回目、見ました
"The Power of Yes"
National Theatre公演
観劇日:2010.4.15、  14:15-16:00
劇場: Lyttelton, National Theatre

☆☆☆ / 5

演出:Angus Jackson
脚本:David Hare

David Hareの新作が今度の週末で終了するので、もう一回見ました。この劇は、昨年の11月に既に見ており、その時の感想はこちらにあります。劇作家としても、一人の知識人としても、David Hareの作風を大変好み、彼を尊敬さえしている私としては、切符も買いやすいことだし、もう一度見たかったのです。彼は現代イギリスの良心ですね。劇としては、やはりそれ程説得力がなく、☆は前回と変わらず3つ。なかなか劇になりにくい、金融危機の解剖というテーマに正攻法で取り組んでいます。どうやっても、大きな説得力を持つのは難しいでしょう。それを考慮すると大変良くできていると思います。最後のところで、Royal Bank of Scotlandの頭取アラン・グットウィンをやり玉に挙げてかなり時間をかけて批判したところなど迫力があったので、もう少し取り上げるポイントを絞ると良かったかな、と思いました。しかし、Hareの意図は、金融危機の全体像を捉えたかったんでしょう。

投資家ジョージ・ソロスを演じたBruce Myers、若い経済ジャーナリスト役のJemina Rooper、劇中でHare自身を演じたAnthony Calf、不動産ローン会社の重役のRichard Corderyなど印象に残った俳優です。しかし、最初見た折の感想にも書きましたが、Claire Priceの迫力が何と言っても素晴らしかったですね。Anthony Calfは私の好きな役者ですが、先日見た"White Guard"にも、傀儡政権の首班Hetmanの役を好演していました。


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2010/04/14

カンタベリーのローパー・ゲート

Roper Gate, Canterbury

何の変哲もない倉庫の入り口みたいに見えるが、これもカンタベリーの由緒ある歴史的建造物のひとつ。16世紀のカンタベリーの名家、ローパー家の屋敷のゲートのみ残って、こうしてあとで作られた建物の一部として見ることが出来る(手前の白っぽいレンガの部分のみ)。チューダー朝というと、民家は木の柱とモルタルの造りの建物で、城や寺院は石造りというのが普通だと思うけれど、もうこうしてレンガが使われていたようだ。言われなければ、19世紀のものかと思ってしまうところだ。もとのローパー家の屋敷は、Place Houseと言われたそうだが、今残るのはこの部分だけ。

3つ長方形の窓があり、その上にまた円形の窓がある。まわりには、色々と装飾も施してあり、レンガの建物としては、なかなか凝った造りである。勿論、木の扉は当時のものではない。

この門の元の建物、Place Houseを所有していたのは、法律家であったWilliam Roperだが、彼の妻は、ルネサンス英国を代表する才女、Margaret Roper。彼女はSir Thomas Moreの長女であり、幼少より英才教育を受け、ラテン語や古典ギリシャ語を解し、エラスムスやジョン・ラステルを始め、モア・サークルと呼ばれる知識人と親しく交わりつつ育った。Moreの家族や友人の中でも特に熱心に父を助け、危険を冒して最後まで獄中の彼を度々訪問した。国家権力に刃向かったMoreの著作を収集し、出版の準備をしたのも彼女であり、そのおかげで現代の我々もMoreの書物や手紙の多くを読むことが出来ることになった。Moreがヘンリー8世の離婚に反対して死罪にされたあと、さらし者になっていた遺骸を密かに引き取り、カンタベリーに持ち帰って、このRoper GateのすぐそばにあるSt. Dunstan's Churchに埋葬したのは彼女である。このあたりのことは、伝記文学の傑作、John Guy, "A Daughter's Love"に詳しい。と言うわけで、それ程感激するような美しい建物でなくても、歴史を思い起こしながら見ると楽しい。場所はウエスト・ゲートから街の外側に5分弱歩いたあたりにある。

どう見ても、壁の表示板を読まない限り、倉庫かと思いますね。

扉の左側にある説明のプラックを大きく撮ったものが下の写真です。



2010/04/12

"White Guard" (National Theatre, 2010.4.10)

内乱の中の群像を鮮やかに描く傑作
"White Guard"
National Theatre公演

観劇日: 2010.4.11 14:15-17:10
劇場: Lyttelton, National Theatre

演出:Howard Davis
原作:Mikhail Bulgakov
翻訳:Andrew Upton
美術:Bunny Christie
照明:Neil Austin
音響:Christopher Shutt
音楽:Dominic Muldowney
衣装:Stephanie Arditti

出演:
Richard Henders  (Nicholai Vasilievich Turbin)
Daniel Flynn (Alexei Vasilievich Turbin, Nicholai's elder brother)
Justine Mitchell (Elena Vasilievna Turbin, Nicholai and Alexei's sister)
Pip Carter (Larion, the Turbins' cousin, a student)
Paul Higgins (Victor, captain of the White Army)
Nick Fletcher (Alexander, captain of the White Army)
Kevin Doyle (Colonel Vladimir Talberg, Deputy War Minister and Elena's husband)
Conleth Hill (Leonid Shervinsky, lieutenant to the Hetman, the Ukrainian leader)
Anthony Calf (The Hetman, Ukrainian leader appointed by the Germans)
Gunnar Cauthery (a cobbler)
Paul Dodds  (a Cossack farmer)
Barry McCarthy (a school caretaker)
Mark Healy (General von Shratt, a German officer)


☆☆☆☆☆ / 5

ロンドンでほぼ毎週劇を見ている私でも何ヶ月に一回出会えるかという素晴らしい公演で、大いに堪能した。この位満足できたのは、おそらく昨年11月に見たペドロ・カルデロンの"Life is a Dream"以来だと思う。ロシア帝政崩壊後のウクライナの首都キエフ。この地に残ったツァー軍(White Guard)に地元の国民軍が攻め入る一方、ひたひたと東から押し寄せるボルシェビキの軍隊。歴史が刻々と塗り替えられて行く時、三つどもえの内乱の中で何とか生き抜こうとする上流階級のTurbin一家とその周囲に集う人々の苦悩を描く。当時のウクライナやロシアの特殊な状況の面白さ、EUと大国ロシアの間で揺れ動き、現在も政情の安定しないウクライナ共和国にも繋がる現代性、そして、そのような特定の歴史的事件や場所を越えて、内乱の中、ある一家がどう生き抜いて行くかという、ユニバーサルな広がりを持つ人間ドラマ。世界のどこにいても、特に戦争を体験した世代には、非常に切実に感じられる劇に違いない。日本の新国立劇場などでやっても、良いスタッフと俳優が揃えば、きっと日本人にも強くアピールできる名作戯曲だと感じた。Lytteltonの大きなステージを目一杯生かした、豪華な、素晴らしいリアリズムのセット、雰囲気豊かな音楽・音響やコスチューム、沢山の演技力ある役者達、そしてHoward Daviesの一点の隙も感じさせない演出。スタッフも含めてイギリスの国立劇場の底力を遺憾なく発揮する公演である。

劇は、キエフの豊かな一家Turbin家の居間から始まる。Nichilai TurbinとAlexei Turbinは軍人で、White Guard(白軍、白衛軍、ツァー軍)の一員。Elenaの夫は、その白軍により支えられたドイツの傀儡政権の軍の副大臣。しかし、本国における戦況が危うくなっているドイツ軍が撤退し、農民などが中心に作られたウクライナ国民軍(the Ukrainian People's Nationalist Forces)がWhite Guardを脅かす。傀儡政権の首班Hetmanはドイツに逃げ出し、Elenaの夫も、妻をほったらかしにしてベルリンに脱出。White Guardの将校であるNicholaiやAlexei は持ち場を守ろうとするが、軍はトップから総崩れになり、体をなさなくなって、部隊の解散を余儀なくされる。Elenaは以前から彼女に言い寄っていたプレイポーイの軍高官Leonidを頼って生きる。そのLeonidはWhite Guardが崩壊しようとする今、素早く次の時代に適応して生き延びようと奔走する。

情け容赦のない国民軍の将校が行きがかりのコサックの農民を惨殺するシーン。ドイツ軍が無惨にHetmanを見捨てるシーン。音楽を愛し、兵士にはまったく向いていないNicholaiの大怪我。そして、Elenaの安全は一顧だにしない夫のVladimir Talberg。戦争の醜さが繰り返し描かれる。

Turbin家の居間のシーンは、チェーホフの劇を思わせる。賑やかな食卓に軍人や学生の男達が集い、歌を歌い、詩を吟じ、何度もウォッカで乾杯。しかし、時には国の行く方、軍人としての身の処し方をめぐり、激しい口論にもなる。一人、居候の若い学生のLarionだけが、ひたすら戦争も口論も嫌だ、と言い続ける。彼はこの劇の道化役。リアの供をして嫌々ながら荒れ野にかり出されたフールの役割だ。彼らは皆Elenaに夢中で、隙をうかがっては彼女に言い寄る。そういうTurbin家の、戦場が近くて、しかし精神的にはどこかかけ離れてもいる居間のシーンの合間に、実際に弾丸も飛ぶ戦場のシーンが挟まれる。Turbin家に集う上品な人々とはまったく種類の違う、粗野で怪物の様な国民軍の兵士、そしてTurbin兄弟にも死の影が迫る・・・。

この劇はモスクワ芸術座で繰り返しロングランをしたそうであるが、当時のボルシェビキ寄りの批評家には酷評されたとのこと。にもかかわらず、ブルガーコフの劇や小説の中で、唯一長い間公の劇場で見ることが出来たのは、ジョセフ・スターリンがこの劇を大変好んだからだそうである。何とも不思議なことだが、ボルシェビキが批判されているわけではなく、背景として、台詞の中でキエフに忍び寄っていると告げられるのみで、赤軍の軍人や共産党員が登場人物として出てくることはない。その不気味な影は、おそらくAndrew Upton(ケイト・ブランシェットの夫でもある劇作家)の翻案においては、ロシア語脚本より強調されているのではないかと推測する。いずれにせよ、具体的なキャラクターにはなっていなくても、ボルシェビキの巨大な影は、デンマークに迫るノルウェー軍同様、謂わば目前に迫る最後の審判の日の暗雲となって重くのしかかる。

上記のキャスト・リストに書ききれない、非常に多くの登場人物を擁する劇。主要な俳優は皆素晴らしかったが、特にプレイポーイの将校を演じたConleth Hill、道化役で学生のPip Carter、そして勿論男達の憧憬を一身に集めるElenaのJustine Mitchellなど、強い印象を残した。また、わずかな出番の脇役で、靴屋、小学校の管理人、Leonidの召使いなどの庶民も印象的。こういう大がかりなアンサンブル劇は、さすがソビエト・ロシア時代の劇という感じがする。今の劇作家がこういう劇を書いても、演劇の盛んなイギリスでさえ、商業劇場で上演できる劇団や興行主はまったく無いだろう。国立では、RSCはイギリスの古典が主要な演目なので、今回のような劇は、National Theatreだけが公演を出来るのではないだろうか。Olivierで軽妙な"London Assurance"、Lytteltonでは重々しい"White Guard"。どちらもかなり珍しい作品を選んでいるが、その組み合わせの妙も含めて、ニック・ハイトナーの選択眼の良さに感服。

(追記)先週土曜に続き、この日も体調はかなり悪く、体がだるい。でも劇の間はまったく眠くもならず、集中して見ることが出来た。やはり劇の出来が良いと見ている間は他のことを忘れられる。終わった後、観客の拍手も盛大だった。各紙のリビューも満点が多いようだ。


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2010/04/09

デーン・ジョン・ガーデンズとカンタベリーの城壁


Dane John Gardens and the City Wall

カンタベリーの中心街、Whitefriar Shopping Centreの直ぐそばにDane John Gardensという芝生の緑が鮮やかな公園がある。その中に小高く盛り上がった小さな丘があり、Dane Johnと呼ばれている。小道がつけてあって、頂上まで登れるようになっており、天気の良い日には子供達が登ったり下りたりして遊んでいる。この丘は、1066年にノルマン人のウィリアム1世がフランスからやって来てイングランドを侵略した際に作らせた木造の城があったと見られているが、盛り土自体は、そのずっと以前、古代ローマ人がやって来る前に、古墳だったのではないかと見られている。

名前のDane Johnと言うのは、直訳すると「デーン人(デンマーク人)ジョン」となるが、フランス語起源の"dungeon"(城の高塔、天守閣)をもじったものではないかと言われる。但、この名前が中世から伝わった名前であるかどうかは怪しいようだ。一節では、カンタベリーに生まれ育った近世の歴史家で言語学者、ウィリアム・サムナー(William Somner, 1598-1669)の作った名前ではないかという見方もあるようだ。ちなみに、このサムナーは、好古家(antiquary)、カンタベリーの郷土史家、更にアングロ・サクソン学者であり、最初の古英語辞書の編纂者として有名である。

Dane Johnの小丘は、清教徒革命時には大砲が設置された。また、その後、18世紀にはこの空き地は公開処刑場としても利用されたそうである。公園は1790年に、市の有力者で市参事会員、ウィリアム・シモンズ(Willaim Simmons)が作ったが、20世紀初めには市の所有となり今に至る。

Dane John Gardensの周辺には、カンタベリーの市の城壁がかなり残っていて、城壁の上が歩道になっていて散策できる。Canterbury East Stationで降りても、すぐこの城壁に着く。もともとはローマ時代に作られたものであり、その時代の石も沢山含まれるが、今の形は、14世紀に整備されたものだそうだ。




旧市街の外側から城壁を見たところ。

城壁の上はきれいに整備され、散歩できます。写真の奥に見えるように、所々に小塔が作ってあります。

(追記)論文はゆっくり進行中。いつも、前日の執筆のあと、どう繋げていくか、謂わば書く前のウオームアップに1時間以上かかる。これが結構大変。最近書いた部分を指導教授に送ってあるのだが、何と言ってくるか、やや気がかり。今イースターのあとのお休みで、先生も仕事を延ばしているのかも知れない。

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2010/04/08

カンタベリーのノルマン・キャッスル


Norman Castle, Canterbury

段々とカンタベリーを去る時が近づいているので、今のうちにカンタベリーの名所を再訪して写真を撮っておこうと思い、今日はカンタベリーのノルマン時代のお城に出かけた。

1066年にノルマン人がイギリスを征服した時、征服者で新しいイングランド王、ウィリアム1世は、カンタベリー、ロチェスター、そしてドーバーにすぐにお城を造らせたそうである。その当時の城は、今の城のそばにDane Johnという形で残っているが、盛り土をしたマウンドに木造の砦というものであったようだ(これについては別の項で)。その後、1084年頃(ヘンリー1世時代)には現在残る石造りの城が作られたそうである。現在残る廃墟となった建物以外にも、周辺に小さな建物があり、まわりを石造りの壁で囲まれていた。

その後、この城の軍事的な意味は薄らいだようで、"keep"(本丸)は、12世紀中には牢獄として使われるようになり、近代に至るまでそのような用途であった。さぞかし恐ろしいところだったことだろう。あんな石造りの暖房もない建物に何ヶ月も幽閉されれば、大抵の人は死んでしまうに違いない。19世紀にはガス会社が所有し、倉庫として利用。1923年にカンタベリー市議会が購入して、保存活動が始まった。

近年、まわりに芝生が植えられ、お城の歴史や構造を説明するパネルも配置され、小さな公園となっている。本丸は、3階建てであるが、床は落ちて、既に外壁しか残っていない。その外壁の途中まで階段で登れるようになっている。訪れる人は少ないが、カンタベリーの歴史を感じさせるお勧めの場所。East StationやWhitefriars Shopping Centreのすぐ近くで、便利の良い場所にある。こういうところをじっくり歩いていると、カンタベリーに住んでみて本当に良かったと改めて思う。

Dane Johnのマウンドから見下ろしたノルマン・キャッスル。手前に見えるのは公園の並木。大胆に剪定してあるのですが、上の方はクレーンでも使ってやったのでしょうねえ。

Keepの全景。この前の花がとてもきれいです。でも動植物に無知な私には種類は分かりません。

内側は床が落ちて空洞になっているが、壁の途中まで登ることが可能です。


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2010/04/04

Ian McEwan, "Saturday" (2005; Anchor Books, 2006)

McEwanの文句のつけようのない傑作
Ian McEwan, "Saturday" (2005; Anchor Books, 2006) 289頁

☆☆☆☆☆ / 5

McEwanは憎い程上手く書く作家。読者が強く引き込まれる要所を心得ていて、そこをまるで指圧師のようにぐいぐい抑える感じである。それで、文体とか、語り口に特に強い癖がなくて、どんな人にでも受け入れられそうな感じ。従って、シリアス・ノベルの重さがそれ程ない。ベストセラーになったり、映画になったりするはずだ。

このお話は、ある一流の成功した脳外科医(a neurosurgeon)、Henry Perowneの土曜日を一人称の語りで克明に描いている。短い期間に起こったことを、作者の内面を通して描くから、シーンによっては、ちょっとVirginia Woolfのようなところもある。この日、彼は早朝、飛行機が火を噴いて墜ちていく夢とも現実とも言えないようなシーンを、自宅の窓から目撃して目を覚ます(あとで分かったのだが、これは現実だったのだが、しかし大事故には至らなかった)。その幻想のようなシーンを反芻していると、毎日明け方まで起きている才能豊かないブルース・ミュージシャンの息子Theoとキッチンで話し込む。今日は長らく会っていなかった若い詩人の娘Daisyが帰宅する日。しかも、彼女とひどい仲違いをしている義理の父(妻Rosalindの父親で詩人のJohn Grammaticus)が彼の家で夕食を共にすることになっていて、一家の和解のための重大な機会なのである。彼は夕食の買い物をして、その料理を作る担当。弁護士の妻は仕事で外出し、夕方に帰宅予定。彼は買い物や料理の前に、まず同僚のアメリカ人麻酔医Jay Straussと恒例になっているラケットボールの練習をすることになっているし、また、アルツハイマーで施設に入っている母親を訪ねる予定でもある。平凡だけど、でも、彼にとっても家族にとっても重要な一日の幕が開く。まず彼はラケットボールをしに車に乗って出かけるのだが、丁度イラク戦争への抗議デモに出会い、迂回をするよう支持される。しかし、警官に頼んで、通してもらうと、その先で、彼の車が出てくるのを予測してなかった別の車と軽く接触し、相手の車に傷をつけてしまう。そして、その車から出てきたのが、見るからにギャングと分かる3人組だったから大変。でも、相手のすきに乗じて、その場は何とか逃げおおせ、ラケットボールをし、母親と面会し、買い物や料理をして、家族が帰ってくるのを待つのだが、その土曜日が平和に幕を下ろすことはなかった・・・。

豊かで、才能溢れるミドルクラスの一家。その家族の平和な暮らしと、3人組ギャングの1人で、完治出来ない困難な遺伝病を患っている孤独な男、Baxterの人生が交錯する。物語の背景には、9/11を想起させる飛行機の事故、また、間近に迫るイラク戦争開戦の緊迫した世情がちらほらと見える。発想が巧みという他ない。天才とまでは言えなくても、並外れた才能を持った息子と娘、やり手の弁護士の妻、イギリスの現代詩を代表する詩人という設定の義父、自分も敏腕の脳外科医、という一家の話で、前半では、ここまで揃えなくてもと、ちょっと嫌みな印象も持ったが、こういう一家と、孤独な、難病持ちのBaxterを掛け合わせることにより、終盤、ぐっと全体が締まった。

如何に素晴らしい生活を送っているように見えても、現代人の日常には、常に不安が潜んでいる。しかし、作者は、そうした不安を乗り越える理性の力、夫婦や親子の愛、そして、他者に対するヒューマニズムを提示しているように見える。

大変楽しめる、緊迫感触れる小説。小説の技術や描かれる社会的背景などにも考えさせることが沢山ある。キャラクターも皆魅力的。ただ、癖がなくて、ケチのつけようがないところが、いまひとつ物足りないと言えるかも(これを、難癖をつける、と言うんですね)。

翻訳は:
イアン・マキューアン /小山太一、訳、『土曜日』(新潮社、2007)

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Cheek by Jowl, "Macbeth" (Barbican Centre, 2010.4.3)

演出家のコンセプトで貫かれた公演
"Macbeth"
Cheek by Jowl公演
観劇日: 2010.4.3 14:00-16:00
劇場: Silkstreet Theatre, Barbian Centre

演出:Declan Donnellan
副演出&振付:Jane Gibson
脚本:William Shakespeare
美術:Nick Ormerod
衣装:Angie Burns
照明:Judith Greenwood
音響:Helen Atkinson
作曲:Catherine Jayes

出演:
Will Keen (Macbeth)
Anastasia Hille (Lady Macbeth)
David Collings  (Duncan, the king / a doctor)
David Caves (Macduff)
Orland James (Malcolm)
Ryan Kiggel (Banquo)
Kelly Hotten (Porter / Lady Macduff)

☆☆ / 5

今日は朝から怠く、眠くて、観劇には体調が不十分。ずっとうとうとしながら見るという状態。それ故、ちゃんとしたブログを書けない。しかし、私がついうとうとしてしまうような、つまりぐいぐい引っ張ってはくれない公演だった。"Macbeth"は私の最も好きな劇のひとつ。いつも一気に引き込まれるのだが、今回はさっぱり。最後のsound and furyの名台詞のところでやっと釘付けになった。

Cheek by Jowlは随分昔に見た覚えがあるが忘れてしまった。世界中で公演をし、日本にも来ている著名な劇団。

大変コンセプチュアルな演出である。照明を落としたかなり暗い舞台。ポーターを除き、全員がずっと黒のシンプルなコスチューム。椅子になったり、壁のようなものになったりする灰色の木の箱を除き、小道具もなし。それどころか、武器も一切ない。刀を振るジェスチャー、短剣を突き刺す動作などのマイムだけで、暗殺や戦闘シーンを表現する。動きは、かなり工夫した振付がなされていて、グループで動くことが多い。その点は、コンプリシテやニーハイ・シアターを想い出させるが、しかしあの2劇団とは違い、映像は一切使わない。何も無い裸の空間を使うことは、ピーター・ブルックより徹底していた。それを補うのが、フィジカルな動き。若々しい俳優達が、舞台全面を使って、一体となって動く。

魔女は出ない。役者の集団の中から声が聞こえるだけであり、魔女の存在感、テキストにある超自然的な宿命観が感じられない。劇の冒頭のアクセントが欠け、全体的にも彼らの呪縛が感じられないので、劇の芯が外された感じを受ける。これは、魔女に代表される外的な超自然の影響を削ぎ、MacbethやLady Macbethの内面の動きに焦点を合わせるために、意図的にそうしてあるのだろうが、私にはかなり楽しみが減った感じである。

ポーターが馬鹿に派手な女性で出てきたのは、ちょっと面白い工夫だと思った。

主演のふたりには不満は無い。但、彼らの演技力を生かしたコンセプトだったのだろうか。いや、演出家の意図が、劇のテキストを殺してしまったのでは無いかと思われて仕方ない。やはりシェイクスピアは最低限、ちゃんとしたコスチュームや武器をつけてやって欲しい。ベケットや『エブリマン』ではないのだから。それに、第3の主役である魔女を声だけにしてしまうのにはがっくり。最後の魅力的な殺陣も剣のぶつかり合いがないし・・・。ウーム、色々と不満。もの凄く上手い俳優が出て、演出上の工夫も色々凝らされてあるのに、先日見たアマチュア劇団の"Antigone"の方が面白く感じるのはどうしたわけ?まあ、私の好みでないだけかもしれないけれど。

ただ、今回の上演で面白いと思ったのは、"Macbeth"には、他のシェイクスピア作品以上に道徳劇的な面が非常に強いこと。それから、MacbethとLady Macbethはひとつの人格をふたつに分けたものと見ると面白いことである(パンフレットにあったが、これはフロイトの解釈らしい)。


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