2010/08/28

"All My Sons" (Apollo Theatre, 2010.8.27)

20世紀の古典を名優が見事に表現
"All My Sons"



観劇日:2010.8.27  19:30-21:50
劇場:Apollo Theatre (West End)

演出:Howard Davies
脚本:Arthur Miller
デザイン:William Dudley
照明:Mark Henderson
音響:Paul Groothuis
音楽:Dominic Muldowney

出演:
David Suchet (Joe Keller)
Zoë Wanamaker (Kate Keller)
Stephen Campbell Moore (Chris Keller)
Jemima Rooper (Ann Deever)
Daniel Lapaine (Geroge Deever)
Steven Elder (Dr Jim Bayliss)
Claire Hackett (Sue Bayliss)
Tom Vaughan-Lawlor (Frank Lubey)
Olivia Darnley (Lydia Lubey)

☆☆☆☆☆ / 5

Arthur Millerの1947年の名作を、かってMichael Billingtonが現役最高の演出家と評したHoward Daviesが、David SuchetとZoë Wanamakerという最高の主役を得て上演。これで成功しないはずはない。実際、ケチのつけようのない公演で、大いに満足。すでにHaward Daviesはこれを2000年にNTのCottesloeでやっており、今回はその再演のようで、デザイナー、照明、音楽、音響などは同じスタッフ。前回の主演はJames Hazeldine, Julie Waters, Ben Daniels。私もその2000年の公演を見て、非常に感激したことだけははっきり覚えているのだが、いつもながら、中身は忘れてしまっていた。今回再演を見られ、本当に幸運だった。

(概略)第2次世界大戦後すぐ(1946年)の、アメリカの住宅地の庭。Joe Kellerは成功したビジネスマンで、息子のChrisも自分の会社で働かせている。しかし、もう一人の息子Larryは、戦地で3年前に行方不明になり帰って来ていない。JoeやChrisはもう諦めているが、母親のKateは諦めきれず、いつ帰ってくるかと毎日待ちわびて、精神不安定。

LarryにはAnn Deeverという婚約者がいた。彼女は、Joeの元の部下Steve Deeverの娘。このSteve Deeverは、戦争中にJoeの工場で働いている時、軍用機の部品の欠陥を放置して出荷したという罪で、今は刑務所で服役している。その部品の欠陥のために、多くの人命が失われたのだった。Ann Deeverは結婚もせず、Keller家の人達から見ると、彼女もLarryの帰還を待っているかのようにも見えた。その彼女がこの日、Keller家を訪れる。しばしAnnとChrisがふたりきりになった時に分かるのは、AnnはChrisが好きであり、彼が自分にプロポーズするのを待っていたということだ。Chrisのほうも、行く方不明の兄弟のことがあって口に出来なかったが、内心はAnnを慕い続けていた。この時、ふたりは結婚の約束をする。しかし、Larryの生存を信じ続けているKateは、それを聞いて、許せない。Annが、LarryではなくChrisと結婚すると言う事は、行く方不明の息子が死んでしまったと認めることでもあるからだ。

そうしているうちに、突然Annの兄弟のGeorgeから電話があり、これからJoeの家にやってくると言う。彼は、父親のSteve Deeverに刑務所で面会したばかりだった。Steveは裁判の時から、自分は部品の欠陥に気づいてそれをJoeに報告したが、Joeは欠陥があることを無視して部品を出荷するように部下に命じた、と主張していた。父親の言う事を信じるGeorgeと、それはSteve Deeverの責任逃れの嘘だと言うChrisやJoeとの間に、激しい口論が始まる・・・。

成功したビジネスマンであるJoe、ひとりは戦死したが、もうひとり、自分の仕事を継いでくれる頼もしい息子がいる。しかし、彼には、Steve Deeverとその一家との、複雑な関係が重くのしかかっていて、逃れられない。仕事上でのミスの責任をめぐってのSteveとのトラブルに加え、Larry、Chris、Annの一種の三角関係、そしてLarryのほぼ確実と思われる戦死をめぐっての妻のKateの気持ち。更に、BaylissやLubeyといった隣人の言葉を通じて、彼らが町の人々から疑われている事も、夫婦に影を落としている。Arthur Millerは、アメリカン・ドリームを実現した男の、公私の裏表をえぐりつつ、アメリカ合衆国という国の二面性を突く。いつも不機嫌そうな顔をし、仏頂面をしているイギリス人などとは違い、アメリカ人とアメリカ文化は、快活でポジティブ、変化やチャレンジを望み、経済的、かつ社会的な上昇志向のイメージを投影し続ける。しかし、それだけに、アメリカ人やアメリカ文化のはらむ表裏の懸隔は、より大きくなりかねない。人生の明るい面ばかりを見ようとする時、否定的な面に目をつぶり、自分や自国の暗い過去や、他人に与えた痛みにも蓋をしてしまいかねない。それがアメリカ人作家によって、繰り返しアメリカン・ドリームの挫折や欺瞞として描かれてきたが、Millerのこの作品や、"Death of a Salesman"はその代表的な演劇作品だろう。また、更に、資本主義社会の拝金主義がもたらした人間破壊を描いてもいる。

と同時に、この劇は、アメリカ合衆国というひとつの国や文化のはらむ問題点を描くだけでなく、ユニバーサルな視野を持つ傑作だ。20世紀以降、アメリカ以外のの多くの国民も個人のレベルでここに描かれているのと同様の陥穽に陥っている気がしてならない。Joe Kellerの問題は、日本の多くの企業人や公務員にとっても、他人事ではないはずだ。職場で内向きの論理で処理した、あるいは見逃した瑕疵や不正が後になって注目されるケースは、例えばToyotaの最近の失敗や社会保険庁をめぐる数知れない問題なども思い起こさせる。企業の力が非常に強く、内部では個人の自立性や正義感が滅多に機能しない日本人にとっても、Arthur Millerのふたつの代表作は大変痛切だ。

原作が良いから、誰がやってもある程度面白くなると思うが、Keller夫婦を演じる2人は、上手く表現できないが、深い陰影のある、素晴らしい名演。また、若い3人、Stephen Campbell Moore (Chris Keller)、Jemima Rooper (Ann Deever)、Daniel Lapaine (Geroge Deever)も説得力充分。ガーディアン、デイリー・テレグラフ、What's On Stage、などが揃って5つ星の絶賛をしている。去年の"Life is a Dream" (Donmar)、今年の"After the Dance" (National Theatre)と並んで、深く心に響く作品。この夏最後の観劇で、最高の作品と出会うことが出来、幸運だった。


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2010/08/26

スタンリー・ウェルズとマイケル・ビリントンの対談(2010.8.20)

先日のブログでも書いたように、ストラットフォードにいた8月20日に、シェイクスピア学者の中で世界で最も有名な人かも知れないスタンリー・ウェルズと、ガーディアンの劇評家マイケル・ビリントンの対談を聞きに行った。これは、Royal Shakespeare Company (RSC)が、市内にあるバーミンガム大学のShakespeare Instituteを会場にして開いているサマー・スクールの一部だが、1週間のサマー・スクールを全部申し込むのとは別に、1回づつのレクチャーを料金7ポンドを払って聴講することが出来る。

私は今回初めて、それもこの講演だけ聴講した。観劇も兼ねてストラットフォードに泊まって、サマー・スクールの1週間全部を申し込む人がほとんどのようだが、そのプログラムの内容は、RSCの演出家や俳優、スタッフのトークとイギリスの大学のシェイクスピアや演劇の研究者の講義が半々程度らしい。毎年日本の大学の先生や大学院生も数名聴講されているようだ。

私は、このサマー・スクールの最終日にあるウェルズとビリントンの対談だけを聞きに行った。2人は、毎年この会場で、その年のRSCの演目について語り合うのが恒例となっているらしい。イギリスの学者や批評家らしく、歯に衣着せぬ表現で今年のRSCの4作品をばっさり(4作品は、"Romeo and Juliet", "Morte D'Arthur", "Antony and Cleopatra", "King Lear")。ウェルズは、今年の公演は全体的に大いに不満らしく、好意的に評価していたのは"R and J"くらいだった。ビリントンは、"R and J"は気に入り、"King Lear"もまあまあと言う感じだったかな。"Antony and Cleopatra"については、キャサリン・ハンターは、知性が邪魔して、クレオパトラには不向きということで、2人の意見が一致。"Morte D'Arthur"は2人とも色々と欠点を指摘していたが、しかし、あれは原作が劇にしづらい作品なので仕方ない面がある。ただ、ビリントンがあの場では結構この公演の問題点を指摘したので、新聞に書いた好意的な批評とやや矛盾していた。ウェルズがビリントンに、「あなたはあれに4つ星をつけたよね」と何度も皮肉っていたのが面白かった。でもビリントンは、16世紀のシェイクスピアの前の時代にあたる大作家で、薔薇戦争で繋がってもいて、15世紀の古典文学であるマロリーの大作を劇にするのは、RSCにふさわしい試み、と評価していた。

2人は揃って、今の俳優はシェイクスピアのverse speakingが上手くない、と指摘していた。シェイクスピアの作品は詩なのに、詩の美しさを感じさせてくれない俳優が多い。これは私のような台詞理解のたどたどしい外国人でもある程度分かる。やはりジュディ・デンチとかイアン・マッケランの世代は、台詞が美しい。これは日本での翻訳上演でも言える。シェイクスピアの台詞がちゃんと言えないので、こちらも聞き取ることが出来ない俳優は多い。一方で、新劇などの俳優のなかには、台詞がはっきり分かるのは確かだが、まるで台詞を神棚に祭り上げるような言い方をして、間延びし、退屈になる場合もあるので、その加減が難しい。吉田鋼太郎など、ずっとシェイクスピアをやって来た人は、やはり言葉がよく分かるし、苦労して話すのではなくて、自由自在に台詞を言っているのが感じられるので、聞いていて自然にスーと入ってくる。

その一方で、'R and J'を今回演出したルーパート・グールドのように、ビジュアルな面では、現代の公演は見るべきものが多い。台詞を大事にしつつ、ビジュアルも充分活用する、つまり両立できるはずだ、とビリントンは指摘していた。

もうひとつ2人がかなり論じていたのは、RSCのカンパニーとしてのあり方。今のRSCは芸術監督マイケル・ボイドの方針で、2年か3年だったか忘れたが、俳優と専属契約を結び、原則としてRSCの長期レパートリー公演にのみ出るように拘束しているらしい(この点、間違ってたらすいません)。それによって、劇団としてのまとまりがでてきて、ウェスト・エンドやナショナルの、1回限りのプロダクション公演とは違う統一感が生まれるというわけだ。確かに、先日見たOld Vicの'As You Like It'のぎくしゃくしたまとまりの無さなんかを考えると、RSC公演はあまり面白くない公演でもすっきりまとまって破綻がない。しかし、ストラットフォードにそんな長い期間良い俳優を拘束しておくのは至難の技だ。従って、RSCでは、舞台を中心に活躍する人でも、サイモン・ラッセルビールのように既にスターとなっている人は、本人がやる気があっても事実上使えないし、また、準主役級の人も、テレビや映画に出て生活費を稼がないといけないので、手薄になるとの声もある。キャサリン・ハンターなど、よくもまあ出ることにしたなあ、と思う。この夏のロジャー・アラムのグローブ座出演のように、シェイクスピア上演に限れば、RSCよりもグローブ座で、スターにお目にかかることが多くなるかも知れない。ビリントンは、カンパニー制によるチームワーク、そして若い俳優が育つことを大変評価し、こうした試みを支援すべきだと言う。しかし、ウェルズは、結果的に良い俳優が集まらず、公演が貧しくなることを指摘していた。ビリントンは劇団としてのRSCや無名の役者の成長を評価し、ウェルズは観客として、あくまで出来た作品の良し悪しを問題にして、カンパニー制の弱点を指摘していると思う。これは日本でのプロデュース公演と、新劇の劇団などの公演を比較しても言えることだろう。カンパニー制の場合、どうしても動脈硬化のようになり、劇団や劇団員のための公演、内向きの公演になる可能性もある。若い劇団員を育てるという方針は結構だが、スターが出ないばかりか、ベテランの芸達者も遠ざかりがちとしたら、観客からは見放されるかも知れないね。

とにかく、2人とも何十年も劇を見てきて、しかも大変記憶力が良いので、過去の色々な公演や名優とも比較しつつ話してくれて、生きた演劇博物館だ。さらに、日本の批評家と違い、こうした公の場でも、バッサバッサと切って捨てる歯切れ良さが小気味よい。RSC主催のサマースクールなのに、RSCが今やっている公演について容赦のない批判をする。ユーモアにも溢れ、とっても楽しい講演でした!

ちなみにスタンリー・ウェルズはRSCの以前の理事(Governor)で、今も名誉理事(Honorary Emeritus Governor)でもある。今でも内部的にも苦言を呈しているのかも知れない。RSCはArtistic Directorが独裁的な権限を持ち、自分の趣味を押しつけているが、もっと観客の事を考えなければいけない、とも言っていた。また、劇場の改築の為に上演できる劇の数が少ない今、シェイクスピア以外の作品をやる余裕などほとんど無いはず、と言って、昨今の劇の選択について極めて批判的。特に今年の冬はシェイクスピアは全くやらないそうなのだ。マイケル・ボイドは、シェイクスピア作品は半分程度かそれ以下で良いと思っているらしいが、RSCはシェイクスピア作品の上演を大部分の演目とし、その他にはジェイムズ朝の劇など他のルネサンス劇などをやるべきである、というウェルズの意見には大いに同感。我々観客はRSCにシェイクスピア上演を期待する。しかも、実験的な演出だけでなく、オーソドックスな上演も見たいと思っている。RSCはNational TheatreやDonmarとはそこが違うはずだ。でなければ、ストラットフォードに住んでいる少数の人は別にして、わざわざあすこまで行く価値がない。何の為の、Royal SHAKESPEARE Companyなんでしょうね!

やれやれ、この項で、最近見た劇とこの講演のブログを書き終えた。体調も悪かったし、勉強も帰国の用意もせず、これにかなりの時間を取ってしまった。読んでくださった皆さん、ありがとうございます。感想などコメントをいただけると幸いです。さて、帰国前に、明日もう一本見る予定。帰国中はほとんど劇は見ないと思うので、ブログの更新は途絶えがちになるでしょうが、先月、ヨークでミステリープレイを見た時の感想はまだ書いていないので、帰国中にそれをアップする予定(と、ここに宣言しておいて励みに)。


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"The Prince of Homburg" (Donmar Warehouse, 2010.8.24)

説得力ある台詞劇、しかし原作とは大いに違う!
"The Prince of Homburg"



The Donmar公演
観劇日:2010.8.24  19:30-21:25
劇場:Donmar Warehouse

演出:Jonathan Munby
翻案:Dennis Kelly
原作:Heinrich von Kleist
セット:Angela Davies
照明:Neil Austin
音響:Christopher Shutt
作曲:Dominic Haslam
ムーブメント:Laila Daillo

出演:
Charlie Cox (The Prince of Homburg)
Ian McDiamid (The Elector)
Siobhan Redmond (The Electress)
Sonya Cassidy (Natalia, Princess of Orania)
David Burke (Colonel Kotwitz)
Harry Hadden-Paton (Count Hohenzollern)
Julian Wadham (Marshall Dörfling)
Simon Coates (Colonel Henning)
William Hoyland (Count Truchss)

☆ / 5

1809-10年に書かれ、1821年に初演されたオーストリアの劇作家、Heinrich von Kleistの近代古典。この劇を見終わってDonmar Warehouseを出た時、今日は良い劇に出会った、と大きな満足感に包まれた。しかし、その後、ガーディアンのMichael Billingtonの評を読んで、今回使われたDennis Kellyの翻案は、結末を大きく変えてしまっていると知り、大いに落胆した。日本でも、シェイクスピアやチェーホフをひどく変えて上演する人達がいて、いつもガッカリさせられる。特にその事を、予めチケットを買う客にはっきりと知らせずに売るのはもってのほかだ。改作した作品を見に来て欲しいのであれば、最初から宣伝文などにはっきりとそう書いて欲しいと思う。また、シェイクスピアやチェーホフの代表的な作品のように、度々上演されているのならばともかく、イギリス人演劇ファンでも10年に一度も見られないような古典を敢えて改作する必要があるだろうか。オリジナリティーを出すのは、衣装とか、時代設定とか、セットや演技の仕方などで工夫して欲しい。

ドイツ選帝候(Elector)に使えるPrince of Homburgは夢見がちな若い貴族。戦争の合間に庭でまどろむ彼は、夢遊病者のような白昼夢を見て、現実と夢を混同しているようである。次の戦の前の打ち合わせでも、気もそぞろで、司令官の命令をよく聞いていない。戦争が始まると、彼は機を見て果敢に相手に攻め入り、見方に大勝利をもたらし、部下や同僚からもてはやされる。しかし、予め、自分の命令を守るように厳しく言い渡していた選帝候は、勝利にもかかわらず、Princeの命令違反に激怒し、軍法会議にかけて、死刑判決を下す。Princeは、最初、選帝候は単に厳しい素振りをしているだけで、実際に処刑などするわけがないと高をくくっているが、選帝候が処刑命令書に署名したと聞き、突然事の重大さに気づき、主君にひざまづいて涙ながらに赦免を請うが、なかなか聞き入れられない。しかし、選帝候の姪で、Princeと恋仲にあるNataliaの懇願により、選帝候は条件をつけて、赦免の可能性を示す。即ち、もしPrinceが、選帝候の決断(命令不服従を罰すること)が真に間違っていた、と信じるならば、彼はPrinceを赦そうと言うのである。それを聞いて、Princeは、選帝候の決断は間違ってはいなかった、と言い、下された判決を受け入れることとする。Princeの部下や同僚は、Princeの助命嘆願の署名を集め、選帝候と会見し、Princeへの赦しを求める。特にColonel Kotwitzは、選帝候の逆鱗に触れつつも、果敢にPrinceを弁護するが・・・。

この上演を見て、私が感じたのは、ロマンチックで軽率、つまり未熟な若者の不注意やナイーブさが、厳しい軍律の為にその若者に致命的な痛手を負わせる結果になるということだ。軍という非人間的な組織の中で、人間的な過ちや弱さが破壊的な結果を生む事を感じさせられた。また、選帝候に示されるファシスト的な冷血は、明らかに後の第3帝国の総統や軍隊の出現を予見させている。Prince of Homburgを演じたCharlie Coxはそうした夢見がちな若者を良く表現できていたし、選帝候を演じたIan McDiamidは自分の決断の重大さやNataliaの懇願、そして部下達の進言に揺れ動きつつも、頑なに心を閉ざす偏狭な君主を、深みある演技で雄弁に演じていた。Princeを弁護し、選帝候の頑なさを糾弾したColonel Kotwitzを演じたDavid Burkeの熱弁も強く印象に残った(彼は、BBCのシャーロック・ホームズでワトソンを演じた人)。

ということで、大いに満足して劇場を出て、☆は4つか5つと思っていたのだが、でもこの公演の結末はKleistの書いた結末とは、180度違っていた事を事後に知ってしまった。それによって、既に書いたような私の印象も大きな影響を受けた。結果良ければ全て良し、という見方も出来るだろうが、私は古典的作品を見たいと思ってチケットを買う客に、「はっきりした断りもなく」このように改作して上演することには絶対に同意できない。日本でも似たような例は時々ある。しかし、ろくに原作を愛してもいないのが歴然。そういう演出家のテキストを軽んじ、新奇さをてらい、自分の個性を売りこもうという傲慢な姿勢には我慢ならない。

この演出家、Jonathan Munbyの公演は2度見ている。Menier Chocolate Factoryでの'The White Devil'、そして、Donmarで去年見た傑作公演、'The Life is a Dream'であり、2度とも大変満足していた。それだけに、今回のこの公演は残念極まりない。今回の出来を見ても才能溢れる演出家のようなので、今後古典の上演については考え直してくれることを望みたい。

なお、結末部分にどのような改作がなされたかは、既に英語版Wikipediaの"The Prince of Homburg"の項の"Adaptations"というセクションで詳しく述べられているので、関心のある方はそちらを見て下さい。


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2010/08/25

"Danton's Death" (National Theatre, 2010.8.22)

フランス革命後の恐怖政治を描く
"Danton's Death"

National Theatre公演
観劇日:2010.8.22 15:00-16:55
劇場:Olivier, National Theatre

演出:Michael Grandage
脚本:Howard Brenton
原作:Georg Büchner
セット:Christopher Oram
照明:Paule Constable
音響、音楽:Adam Cork
衣装:Stephanie Arditti

出演:
Danton's friends:
Toby Stephens (Georges Danton)
Ashley Zhangazha (Legendre)
Barnaby Kay (Camille Desmoulins)
Gwilym Lee (Lacrois)
Max Bennett (Hérault-Sechelles)

Kirsty Bushell (Julie, Danton's wife)
Rebecca O'Mara (Lucile, Desmoulin's wife)
Eleanor Matsuura (Marion, a prostitute)

Members of the Committee of Public Safety:
Elliot Levey (Robespierre)
Alec Newman (Saint-Just)
Phillip Joseph (Barère)
Chu Omambala (Coolt d'Herbois)

☆☆☆☆ / 5

1835年に出版されたGeorg Büchnerによるフランス革命を扱ったドイツ語の古典的戯曲を、Howard Brenton ("The Romans in Britain"などの著名な劇作家)が翻訳した。1982年にもNational TheatreでPeter Gillの演出で上演されているそうだ。緊迫した台詞劇で、クラシックな歴史劇。私の最も好きなタイプの作品であり、個人的には大変楽しめた。ハンサムでカリスマもあり、芸達者なToby Stephensの熱演も大いに楽しめる。彼のファンには見逃せない公演。

場面設定は、フランス革命後の共和制が段々と恐怖政治に化している時代のパリ。Dantonは、時には売春宿に、時には妻と仲むつまじく、快楽主義的な暮らしを楽しんでいるが、彼の友人のDesmoulinsやLegendreらは、RobespierreやSaint-Justら、Dantonを良く思わない、教条主義的な革命家達の魔の手が革命の英雄Dantonにも及ぶのではないか、と恐れて彼に警告を発している。しかし、Dantonはなかなかそれを本気にしない。Dantonは、Robespierreらが推し進める恐怖政治で次々と市民が処刑されているのに異を唱え、このような状況をやめさせようとRobespierreを説得するが、相手は聞く耳を持たないどころか、Dantonを反革命分子として、裁判にかけ、弾劾することになる。裁判の最初はDantonも発言を許され、その弁舌で陪審員や傍聴者を自分に引き寄せるが、それを嫌ったRobespierreやSaint-JustはDantonらの出席を許さなくなり、また最初から有罪判決を出すのが明白な陪審員を選んで、被告の欠席のまま、死刑の判決が降りる・・・。

Toby StephensのDantonは、豪放磊落な、大変人間くさい革命家。激しく弁舌をふるう一方で、時には過去の自分の行為を後悔し、時には革命の全てを虚しい営みと見て、諦観とともに振り返ったりもする。妻のJulieや売春婦のMarionとのひと時に、特に彼らしい優しさがにじみ出る。

対照的なのが、極めて教条的な革命家のRobespierreとSaint-Just。しかし、BüchnerとBrentonの描くRobespierreは、その潔癖症や頑固な倫理観に、否定的なニュアンスではあるが一種の人間くささが表現され、説得力あるキャラクターになっている。また、RobespierreとDantonはつい最近までは革命の同志として共に苦労した者達であり、Robespierreは旧友を処刑する事への逡巡もかなりある。微妙なニュアンスを含んだ表情と共にRobespierreを演じたElliot Leveyはこの公演一番の名演だろう。そうして躊躇するRobespierreを犬のように吠えて急き立て、群衆を扇動して一気に処刑へと裁判を動かしていくのが、Alec Newman演じるSaint-Justであり、彼のけたたましい弁論も迫力充分。

最後の処刑場のシーンは、あまりにもリアルというか、サーカスのマジックのようで、狐につままれた想いがした。

巨大なオリヴィエのステージに、簡素でクラシックな雰囲気の裁判の場や牢獄がしつらえられるが、この劇にはオリヴィエはちょっと大きすぎ。Lytteltonのほうが良かっただろう。しかし、照明や上方のバルコニーなどを効果的に使い、広いステージを十分に利用しようと工夫されていた。

強いて言えば、これは原作の問題ではあるが、この恐怖政治の時代のエピソードに至る前段がもう少し盛り込まれていると、もっと面白いと思う。この戯曲では、フランス革命についてある程度の予備知識が無いと、唐突に始まるという印象を持つかも知れない。しかし、19世紀初頭に生きたBüchnerにとっては、1789年に勃発したフランス革命は、まだごく最近の出来事だったのだ。Michael Billingtonは、1982年のPeter Gillの公演と比べて、今回は群衆シーンがカットされてしまったことを残念がっていたが、その古い公演を見ていない私としては、今回の公演だけで充分に楽しめた。


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2010/08/24

"King Lear" (Royal Shakespeare Company, 2010.8.20)

力強いリア王とファンタジックなフール
"King Lear"

Royal Shakespeare Company公演
観劇日:2010.8.20  19:15-22:45
劇場:The Courtyard Theatre, Stratford-upon-Avon

演出:David Farr
脚本:William Shakespeare
セット:Jon Bausor
照明:Jon Clark
音響:Christopher Shutt
音楽:Keith Clouston
ムーヴメント:Ann Yee
衣装:Carrie Bayliss

出演:
Greg Hicks (King Lear)
Kathryn Hunter (Fool)
Kelly Hunter (Goneril, the eldest daughter)
Katy Stephens (Regan)
Samantha Young (Cordelia)
John Mackay (Duke of Albany, Goneril's husband)
Clarence Smith (Duke of Cornwall, Regan's husband)
Darrell D'Sylva (Earl of Kent)
Geoffrey Freshwater (Earl of Gloucester)
Charles Aitken (Edmund, Poor Tom)
Tunji Kasim (Edgar)
James Tucker (Oswald, Goneril's stward)

☆☆☆☆ / 5

私にとっては、この公演はリアとフールの劇だった。『リア王』には、他にも、三姉妹、Edgar (Tom)やEdmund、Gloucester、Kentなど注目すべきキャラクターが沢山出るが、Kathryn Hunterのフールは特に目立っていた。彼女の演じるフールは小さくて、中性的で、身軽だ。男とも女とも、大人とも子供とも言えない不思議な存在。時には子犬のように、時には妖精のように背景を動き回る。他の人物が熱弁をふるっている時も、その台詞には関係なく、人間の理屈とは別の世界に住む動物のように、背景をそろそろと動いていて、面白くて目が離せない。嵐の始まったシーンでは、背景に組まれた鉄骨の廃墟の上に登って、あちこちで彼女のシルエットがのぞくのだが、その時頭に被った道化の帽子のために、まるで小さな悪魔の頭のようにも見える。

Greg Hicks演じるリアはオーソドックスな演技だと思う。リアをやる人は、ある程度歳をとっている必要があるが、彼はリアとしてはまだ若いので、かなりの迫力で、台詞も動きもパワー充分。強いて言えば、元気が良すぎ、深みが足りなかったかもしれない。前半娘達に対して怒り狂ったり、嵐のシーンは迫力充分。しかし、最後に力尽きて死んでいくところは、例えばナイジェル・ホーソンが見せたような、生きる意思を使い果たして自然と息絶える、という感じではなく、苦悶の中でもがきつつ死んでいくような印象であった。

この『リア王』で全体的にどうも影が薄いのは、Gloucester親子3人のエピソード。同じ時に見た他の方も言っていたが、EdgarとEdmundが冴えない。特にEdmundが若すぎて、ReganやGonerilを魅了する年齢とは思えなかったし、悪の魅力と言ったものに乏しい。また、Tomのひとり芝居の場面は、どうもキリストの磔刑になぞらえているような振付だったが、空回りして退屈だったし、盲目のGloucesterとのやり取りも充分哀れみを誘わなかった。

David FarrとJon Bausorが設定したセットは、戦争の後の廃墟のような荒れ果てた場所。全体的に黙示録的な雰囲気。聞いたところではFarrはこういうセットを作ることが大変多いそうだ。しかし、現代ではこういうセットは色々な劇で使われるので(最近では"Salome")、いささか陳腐にも見えた。しかし、嵐の場面では大変効果的で、Kathryn Hunterがリアが荒れ狂っている間、その廃墟を飛び回っていたのが記憶に生々しい。

全体としては、HicksとHunterが圧倒的に目立つ、かなり楽しめた公演だった。



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2010/08/23

"Antony and Cleopatra" (Royal Shakespeare Company, 2010.8.19)

かなり変わったクレオパトラが意表を突く。
"Antony and Cleopatra"

Royal Shakespeare Company公演
観劇日:2010.8.19  19:15-22:35
劇場:The Courtyard Theatre, Stratford-upon-Avon


演出:Michael Boyd
脚本:William Shakespeare
セット:Tom Piper
照明:Wolfgang Göbbel
音響:Andrew Franks
音楽:James Jones
衣装:Sarah Bowern

出演:
Triumvirs:
Darrell D'Sylva (Mark Antony)
John Mackay (Octavius Caesar)
Sandy Neilson (Lepidus)

Cleopatra and her followers:
Kathryn Hunter (Cleopatra)
Greg Hicks (soothsayer)
Samantha Young (Iras)
Tunji Kasim (Mardian)

Sophie Russell (Octavia, Octavius Caesar's sister)
Clarence Smith (Pompey)

☆☆☆ / 5

この公演は、何と言ってもKathryn Hunterという、非常に個性の強く、インテリジェントな女優がCleopatraとどう取り組むかが多くの人の関心の的だろうと思う。私は、この劇は読んだことも見たこともなかったので、いつもに増して台詞が理解困難だった。一応の粗筋は、公演直前にプログラムに書いてあるものをざっと読んだ。Cleopatraというと、やはり傾城の美女という先入観念がある。それを、極めて小柄で、率直に言って美しくもなく、歩くにもやや足を引きずるようにして歩き、更にもう若くない、しかし天才的な女優とも見られるHunterが何とか観衆を納得させる演技が出来るかどうかが見どころ。この作品の公演は始めて見る私は、やはり看板通りの美女で見たかったというのが正直な感想。巧みな表情の変化や台詞で、Antonyを見事に操る才女であることは良く表現されていたし、かってのVivian Lee, Peggy Ashcroftなどがやった役について、意表を突くことは出来たとは思うが。

ストリーの大枠: ローマ帝国を治めていた3人の執政官(三頭政治)の1人Mark Antonyが、エジプトの女王Cleopatraの巧みな手管により誘惑されて政務をおろそかにし、その隙に、Pompeyが反乱を起こす。他の2人の執政館、Octavius CaesarとLepidusは、Caesarの姉、OctaviaとAntonyを結婚させ、政治の安定を図る。Pompeyとの間には休戦が成立するが、その後またCaesarとLepidusはPompeyと戦い、敗れ、Antonyはエジプトに避難。彼に遅れてエジプトにやって来たCaesarはAntonyと戦うことになり、Cleopatraに気を取られたAntonyは大敗を喫する。Antonyが自分を恨んでいると聞いたCleopatraはAntonyの後悔を促すためか、自分が自殺したという誤報を伝えさせる。それを真実と信じ込んだAntonyは悲しんで自殺。Caesarはエジプトに進軍し、Cleopatraを捕虜としてローマに連行しようとするが、恥辱を受け入れたくないCleopatraも自殺する。

コスチュームはモダン・ドレス。

Darrell D'SylvaのAntonyは特に問題はなかったが、彼はスター・クオリティーを感じさせるような俳優ではないので、主役としては今ひとつと感じた。大変印象に残ったのは、冷たく計算高い、ビジネスマンのようなCaesarを演じたJohn Mackay。個人的には、これまで見たことのないこの劇を見ることが出来て良かった、という一夜だった。

続けて何本も劇を見ると、1本1本のインパクトが薄れがちなのは残念。この劇のことは、健忘症の私は、数日後の今、もう大分忘れてしまった。でもKathryn Hunterの変幻自在さは印象に残っている。ただ、それがCleopatraのキャラクターとして自然に表れるのではなく、この俳優のクレバーな演技として浮き上がってしまったところに無理が出たと思う。この次の日に見た"King Lear"のフール役での素晴らしいHunterと比べると、やはりこのCleopatraは適切なキャスティングとは思えないなあ。


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"Morte D'Arthur" (Royal Shakespeare Company, 2010.8.18)

駆け足だが、原作の多くをカバーした力作
"Morte D'Arthur" (アーサー王の死)

Royal Shakespeare Company公演
観劇日:2010.8.18  19:15-23:00
劇場:The Courtyard Theatre, Stratford-upon-Avon

演出:Gregory Doran
脚本:Mike Poulton
原作:Sir Thomas Malory
セット:Katrina Lindsay
照明:Tim Mitchell
音響:Jonathan Ruddick
音楽:Adrian Lee, Simon Rogers
ムーブメント:Struan Leslie
殺陣:Terry King
衣装:Sabine Lemaîre
Dramaturg*: Jeanie O'Hare

出演:
Sam Troughton (Arthur)
Forbes Masson (Merlin)
Kirsty Woodward (Guenever)
Noma Dumezweni (Morgan le Fay)
Joseph Arkley (Kay)
Simone Saunders (Igraine)
James Howard (Ector)
Oliver Ryan (Gawain)
Dharmesh Patel (Agravain)
Peter Peverley (Mordred)
Gruffudd Glyn (Gareth)
Jonjo O'Neill (Launcelot)
Debbie Korley (Nimue)
Christine Entwisle (Morgawse)
David Rubin (King Uriens)
David Carr (Leodegrance)

☆☆☆ / 5

8月18日からStratford-upon-Avonに3泊4日で出かけ、昔から親しくしていただいている老夫婦のお宅に泊まり、旧交を暖め、また、日本から来ておられるシェイクスピアの専門家の先生方に何人かお会いした。更に、Royal Shakespeare Companyの劇を毎晩1本ずつ、3本見た。これは着いた日の夜に見た1本目。

15世紀の作家、トマス・マロリーによるアーサー王物語の集大成『アーサー王の死』("Morte D'arthur")の劇化である。脚本はRSCの、好評だった『カンタベリー物語』でも本を書いたMike Poulton。マロリーの、15世紀に書かれた原作は、それまでの英・仏語の多くのアーサー王ロマンスをひとつにまとめようとした大作。様々なエピソードが彼独特の簡素な、説明の少ない文体で綴られている。それを、4時間近いとは言え、1本の劇にまとめようというのは壮大な試み。結果から言うと、成功とも失敗とも言い難い。次から次に出来事が演じられ、ひとつひとつのエピソードの意味を充分つかめないまま終わってしまう可能性がある。沢山の人物が出てくるが、個々のキャラクターの膨らみや発展は乏しい。マロリーの作品や他のアーサー王ロマンスについてある程度予備知識のある人には、頭の中にあるイメージと比べて見ると面白いと思うが、そういうもののない観客にはどうだろうか。劇評や、観客の評価もかなり大きく別れるようだ。

アーサー王ロマンスの文学作品の多くは、大きくふたつに分類することが出来る。ひとつは、アーサー王が生まれ、王と知らずに育てられ、やがて王であることを知り成長し、円卓の騎士団を作る。そして、グイネヴィアとの結婚。やがて、妻や妻の愛人ラーンスロットとの軋轢がきっかけになり、宿敵モードレッドとの対決を経て王室の崩壊へと繋がる、というアーサー王宮廷の物語。

もうひとつの流れは、クレティアン・ド・ドロワなどフランス語作家の多くの作品がそうであるように、アーサー王の宮廷を出発点とし、パーシヴァルとか、ガウェイン、ラーンスロットなどの個々の騎士の冒険や恋愛を事細かに描く、1人の騎士を中心とした物語。マロリーの『アーサー王の死』は前者のモデルを骨組みとして、王朝史を基本的に追いつつ、中盤では、後者の流れのような聖杯探求やトリスタンの悲恋物語など、王以外の騎士の活躍もかなり盛り込んで、アーサー王伝説の集成となっている。

そのような大作であるので、原作の内容はもの凄く盛りだくさんなのだ。その代わり、個々のキャラクターの心理を細かく掘り下げることはなく、まるで年代記の様に淡々と出来事を描いてある。これを一本の演劇にするのは至難の技だろう。Mike Poultonの脚本は、与えられた時間内で(約3時間45分、インターバル2回を含む)、出来るだけ原作の物語を追うことを目ざしている。その結果、大変忙しい、駆け足の印象を与えることになった。2度のインターバルを挟み、3部構成になっている:
1. The Fellowship of the Round Table (円卓の騎士達)
2. The Adventures of the Sangrail(聖杯探求の冒険)
3. The Morte D'Arthur(アーサー王の死)

マロリーの原作自体に、そのまま利用できるような演劇的な会話文が少ない上、中世の文学作品には珍しく散文で書かれているので、シェイクスピアのように、語られる言葉の美しさを愛でるチャンスがほとんど無いのは弱点である。もしもっと説得力のある劇にしたいならば、マロリーの原作を土台にしつつも、Poulton独自のキャラクターの解釈、エピソードの切り捨てや拡大を行い、Poulton自身が創作したアーサー王物語の再構築を行うことも出来るだろう。しかし、Poultonと演出家のGregory Doranはそのようにマロリーから離れることはしたくなかったようである。演劇化の困難を知った上で、出来るだけのことをしたいということだろう。

私の印象では、前半は物語をたどるのに忙しすぎて、やや単調だった。私は、PoultonとDoranが原作をどのように劇にするかに興味があるので、それだけでも見る価値があったが、そうでない一般の観客はつまらないと思う人も多いかも知れない。一方、後半は、原作においても、ラーンスロットとグィネヴィアの不倫を火種に、モートレッドの積年の怨念が重なって王朝の崩壊をもたらすという物語の流れがすっきりしており、ドラマチックな盛り上がりを見せた。ガーディアン紙のマイケル・ビリントンは、マロリーがこれを書いた15世紀のバラ戦争、そしてそのバラ戦争について幾つかの作品を描いたシェイクスピアとの繋がりを感じることが出来たのが収穫と述べていたが、それもうなずける。また、PoultonとDoran自身も、2回目のインターバルまでは、マーリンやモルガン・ル・フェイなどの魔術師と人間が交わる一種の神話として、しかし、最後のエピソードは、イングランド史に繋がる現実的な歴史として描いているように思われた。

このような劇の性格からして、役者が台詞を上手く語って実力を見せつけるようなシーンは少なく、特に目立った人はいないと感じた。しかし、大事な役柄でありながら、グィネヴィアを演じたKirsty Woodwardが単に人形のようで生気に欠け、ラーンスロットとアーサーの2人の破滅の原因となった魅力ある人物に見えなかったのが残念。

次から次へと戦いのシーンが繰り広げられるのだが、そのほとんどでは、いちいち刀を打ち合わせるのではなく、一種の剣舞として演じてあり、剣が立てる音は効果音として挿入される。このあたりは、日本の歌舞伎や時代劇の影響らしい。その他、リアリスティックではなく、様式化された動きを随所に取り入れているのは、日本の演劇から多くを学んでいるGregory Doranらしい工夫だろう。歌舞伎や能、文楽に詳しい方が細かく検討すれば、この公演に色々な発見があるのではないかと思った。

長い劇であるが、中世英文学を専攻している私にとっては、飽きずに見ることが出来、後半はかなり楽しめた。

*National TheatreやRSCのスタッフ・リストには、dramaturgという人が良く含まれている。これは、劇作家や劇の時代背景などについて専門的な資料調べをして、演出家や俳優を助ける役割らしい。謂わば、劇団所属の研究者。特にこういう作品では重要な役割を担うと思う。


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2010/08/15

"The Beauty Queen of Leenane" (The Young Vic, 2010.8.14)



老いた母親と、彼女に縛り付けられた娘の葛藤
"The Beauty Queen of Leenane"

The Young Vic公演
観劇日:2010.8.14 14:30-17:00
劇場:The Young Vic Theatre

演出:Joe Hill-Gibbins
脚本:Martin McDonagh
セット:Ults
照明:Charles Balfour
音響:Paul Arditti
方言指導:Majella Hurley
衣装:Catherine Kodicek
衣装制作:Yoko Yamano

出演:
Rosaleen Linehan (Mag Folan, mother)
Susan Lynch (Maureen Folan, daughter)
David Ganly (Pato Dooley)
Terence Keely (Ray Dooley, Pato's brother)

☆☆☆☆ / 5

1996年に初演された、アイルランドの劇作家Martin McDonaghの第一作。彼は、悲惨な暴力をブラック・ユーモアで包んで見せる不思議な作家。好き嫌いが大きく分かれる作風だが、日本でも邦訳されて商業劇場で多くの客を集めて公演され、好評を博している。この作品は2007年から2008年にかけて、パルコ劇場と大阪のシアター・ドラマ・シティーで、白石加代子、大竹しのぶ主演、長塚圭史演出で上演された。私は日本公演も見たが、二人の芸達者な女優の丁々発止のやりとりが大変強く印象に残っている(筋書きはすっかり忘れていて、情けない。病的健忘症だわ)。

アイルランドの訛りが強い台詞で、私の英語力では(耳が遠いのもあって?)、悔しいことに半分弱しか分からない。がしかし、それでも大変に興奮させ、笑わせるだけの力をこの脚本は持っている。何だが退屈な"As You Like It"を見た翌日、The Old Vicから10メートルしか離れてないThe Young Vicで、今度は大変に強烈なインパクトを持つ公演に出会い、大いに楽しませてもらった。

アイルランドはゴールウェイの片田舎リナーン。年老いた母親Magとその娘で40歳位のMaureenの親子は、粗末な家で貧しく暮らしている。歩けはするが身体がやや不自由なMagは娘をこき使い、娘Maureen方は、自分をその村に縛り付けている母に悪態をたれ続ける。

やがてその村でパーティーが開かれ、出かけたMaureenは幼なじみで、今はロンドンで肉体労働をして暮らしているPatoに出会う。2人は意気投合し、Maureenは夜遅く、Magが寝てしまった頃にPatoを自宅に連れ帰り、2人は一夜を共にする。翌朝、Patoは起きてきたMagと会い、3人の間で火花がパチパチ! Magにしてみたら、Maureenに男ができ、娘を連れて行かれたりしたら一大事だ。MagがPatoに言う娘の悪口で、彼女は自分の手が赤くただれているのは娘に虐待されたから、と言い、観客をギョッとさせるが、MaureenはMagが如何に嘘つきかをPatoに力説して否定する。

Patoがロンドンに帰ってしばらくしてから、彼の弟のRayのところに、Maureenに渡してくれ、という手紙が届く。その手紙には、もしMaureenが望めば一緒にアメリカで暮らさないか、という提案が書いてあった。Rayはその手紙を届けに来たが、あいにくMaureenは留守中・・・・。

前半、娘も相当な強者だが、Magが彼女を隷属状態に置いているのを見ていると、まずは老人介護をする者の苦労をひしひしと感じ、おそらく誰しもMaureenにとても同情してしまう。しかしそれは観客がMcDonaghの術中に見事にはめられているのだろう。後半、私も含め、そうした観客はギョッとさせられて、深く考えさせられる。

このブログに時々コメントを下さるblank 101さんが、演劇サイト"Wonderland"に日本のパルコ劇場での公演の評を書いて下さっていて、その中で、母はイングランド、娘はアイルランド、Patoはアメリカの象徴でもあると説明して下さり、なるほど!と感心した。イギリスとアイルランドの抑圧と隷属、そして相互依存と相互への暴力の関係がこの家族に凝縮されているという読みは、大変腑に落ちる感じがした。さすが、素人とは違う劇評家の慧眼。

私が大変面白いと思った台詞は、若者のRayが言った一言:「イングランドじゃ人が死のうが生きようが誰も気にもしないが、アイルランドじゃ、牛を蹴っただけで20年間恨まれる」と。イングランド人の冷たい個人主義。アイルランドの村社会的な人間関係のしつこい濃密さを表現している。アイルランドのことは分からないが、極論ではあるがこのイングランド人気質は、当たっていると感じる。

日本公演の白石、大竹のふたりも、相当にアクの強い演技だったが、今回のRosaleen LinehanとSusan Lynchは、毒々しいほどのキャラクター。暴力表現も直接的。MaureenのPatoに対するセックス・アピールの強烈さは、日本人の肉体では表現できない激しさを感じた。Rayを演じた若々しいTerence Keelyのかもし出すユーモアも大いに観客を沸かせた。

Ultzのセットが素晴らしい。ステージの両脇では常に水がしたたり、雨の止まない暗いアイルランドを体感させてくれる。剥がれかけたペンキ、崩れかけた壁、(アイルランド系アメリカ人の)ケネディー兄弟の写真、アイルランドの貧しい田舎屋が上手く再現されていた。

Patoに向かってMagが言ったことの中に、娘はかってイングランドで働いていておかしくなり、"nut house"に入れられた、というのがあった。つまり精神病院である。Maureenはストレスのあまり精神を病んだことがあるようだ。インターネットの劇評についた読者のコメントで、「この劇は忘れ去られるべきだ。そうでなければ書き直されるべき」という、非常に憤慨した声があったのが気にかかる。この劇に含まれたどす黒いブラック・ユーモア、そこで笑い飛ばされる惨劇は、精神病に苦しむ人やその家族にとっては、フィクションと片付けるには、あまりにも悪趣味で、精神病者への偏見を助長し、患者や家族の痛みを刺激するものかも知れない。そういう見方もあることを、観客や公演を打つ人は忘れてはいけないだろう。

という強い抗議の声を読んだ後でも、やはりこの劇が持つ国境、言語、文化を超えたパワーは否定できない、と思った。


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"As You Like It" (2010.8.13, The Old Vic Theatre)

メランコリックな、黄昏時の『お気に召すまま』
"As You Like It"

Old Vic公演(The Bridge Project)
観劇日:2010.08.13  19:30-21:30
劇場:The Old Vic

演出:Sam Mendes
脚本:William Shakespeare
セット:Tom Piper
照明:Paul Pyant
音響:Simon Baker for Autograph
音楽:Mark Bennet
振付:Josh Prince
衣装:Catherine Zuber

出演:
Juliet Rylance (Rosalind)
Michelle Beck (Celia)
Michael Thomas (Duke Senior / Duke Frederick)
Christian Camargo (Orlando)
Thomas Sadouski (Touchstone, a fool)
Stephen Dillane (Jaques)
Edward Bennett (Oliver)
Alvin Epstein (Adam, Oliver's servant)

☆☆☆ / 5 (2つ星に近い)

体調があまり良くなくて、しかも夕食を食べた後で、始まった途端にコックリ、コックリ! 最初の方はあまり見て無くて、気がついたら、RosalindとCeliaはアーデンの森に到着済み・・・。やれやれ。でも、とにかく感想を書いておこう(その程度の筆者による感想ですが、お許しください)。

もともときれいなThe Old Vicの空間だが、ステージも、黄昏の気配が濃いロマンチックでメランコリックな色彩と照明だ。アーデンの森で、元気にRosalindとCeliaが駆け回るシーンはやや明るかったが、全体的にはかなり暗い照明で、くすんだ灰色の色調。演出の意図も全体をそういう方向で色づけしようとしているのかと思われる。特にChristian CamargoのOrlandoは、もうひとりのJaquesのように、ブスッとした表情。恋に胸を焦がした若者には見えないのだが、これで良いんだろうか。Rosalindは元気いっぱいにステージを飛びはね駆け回るので、この恋が彼女の独り相撲に見えた。 Juliet Rylanceは懸命の熱演だが、それがそう感じられてしまうところがいささか問題。つまり頑張ってるな、と思ってしまい、彼女の演じるキャラクターに感情移入出来ない。きれいな、可愛い人なんだが、カリスマが感じられない。小さくて、凄く痩せた人なので、変装したシーンでは、隠された女性らしさがにじみ出て欲しいのに、本当の少年のようだ。Celiaは追い出されたDukeの大事な箱入り娘で、一種のプリンセスなのだが、たくましいじゃじゃ馬のキャラクター作りをしてあり、これも私は好きになれない。追い出されたDukeは、あまり威厳がない。もう少し、偉そうな、重々しさを感じる人物表現が出来なかったものか、と思った。フールは、元気で、冗談を言う普通の若者という感じ。

という感じで、どの主要なキャラクターも、私には説得力がなかった。唯一良かったと思ったのは、特に変わった点はなく、オーソドックスだが、Stephen DillaneのJaquesかな。

The Bridge Projectというアメリカとイギリスの演劇人を結んで作る公演であるから、アメリカ人の俳優が半分くらい出ている。そのため、アメリカ英語の発音が響き、イギリスらしさが失われたのは、観客の好き好きだが、私はかなり違和感を感じた。他の劇なら気にならなかっただろうが、これはウォリックシャーの地元、アーデンの森を舞台にした牧歌劇だからだ。その為か、アーデンに来ているという感じが薄れ、まるでニューイングランドの森にいるような気がした。

コスチュームは現代服。

オーソドックスで特に癖がなく、演技に破綻もないのであるが、見終わって、すぐ忘れそうな公演。一流の俳優と演出家でなければ、まあ良かったと言えるかも知れないが・・・。これがSam Mendesの実力なのだろうか。私の大好きな劇なのだが、残念。


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2010/08/06

"Earthquakes in London" (National Theatre, 2010.7.2)

劇場全体を包み込むパフォーマンス
"Earthquakes in London"

National Theatre & Headlong Theatre公演
観劇日:2010.7.2  19:30-22:30
劇場:Cottesloe, National Theatre

演出:Rupert Goold
脚本:Mike Bartlett
セット:Miriam Buether
照明:Howard Hrrison
音響:Gregory Clarke
音楽:Alex Baranowski
振付:Scott Ambler
衣装:Katriana Lindsay
映像:Jon Driscoll, Gemma Carrington
Dramaturg: Ben Power

出演:
Lia Williams (Sarah, an MP and a minister)
Jessica Raine (Jasmine, Sarah's younger sister)
Anna Mdeley (Freya, Sarah's another sister, pregnant)
Bill Paterson (Robert, Sarah's father and a scientist)
Tom Goodman-Hill (Colin, Sarah's husband?)
Bryony Hannah (Peter)
Geoffrey Streatfield (Steve)
Tom Goodwin (Simon)
Anne Lacey (Mrs Andrews)
Michael Goold (Carter, a CEO of an airline company?)
Tom (Gary Carr, Jasmine's friend)

☆☆☆ / 5 

まったく予備知識のない新作の劇の場合、私の英語力で歯が立たない公演も時々あって、残念ながら今回はそのケース。帰宅後リビューなどを読んで幾らか筋書きを後追いして、部分的に「なるほど」と思ったり。でも分からないままのところも残っている。こればかりは仕方ない。最初からリビューを色々読んでいくと先入観念に捕らわれやすい。また今回は上演期間が始まって直ぐだったので、リビューも出てなかった。出来れば脚本を買って読んでおけば良いんだけど、余程期待の大きい作品や古典などでない限りそこまでする時間もないし、切りがない。

しかし、いつも新奇な事をやって驚かしてくれるRupert Gooldのことであるから、今回もまずステージの様子だけは記録しておきたい:

劇場に入った途端、バーかクラブかと一瞬目を疑った。1階は通常のステージや座席が全て取り払われて、幅が1メートル強くらいのS字型をした真っ赤な大きなステージが設置されている。謂わば、曲がりくねった花道みたいな感じ。それを囲んで、バーの止まり木みたいに観客の椅子(これも赤いシート)が配置されている。更にその後ろには手すりがあって、そのあたりにも立ち見の客が配置される。壁際には1列だけ真っ赤なベンチシートがある。

長方体の劇場空間の長い平面の2階、3階にギャラリー席があり、そこは通常の劇場の様になっている。一方、短い方のふたつの平面には四角い空間がうがってあって、ボックス・セット式のステージになっている。つまり、下の土間(ピット)は観客の間を縫うようなS字型のステージ。それを見下ろすように壁に小さな四角のステージがふたつあり、主なアクションはそらら3つのステージ上で展開する。更に、壁の四角のステージのひとつの上に、もうひとつ壁に長方形の切れ込みが入れてあり(かなり上方だ)、そこにも人物が現れる時があった。また、階下では、地面の上、立ち見の観客の間に俳優が交じって演技する時も度々ある。全体としては、四角い劇場空間全体が、客席とステージの区別がほとんどなく、パフォーマンスが起こることになる。

また、壁に掘られたボックスのようになっているふたつ(正確には3つ)のステージはカバーされることもあり、また、2,3階の観客席の間も(つまり観客の足下の部分や3階席の上方)、パネルが張ってあって、そうしたところは、しばしば映像が映し出されている。

色んなところでどんどん演技が行われ、時にはほぼ同時にふたつのステージでアクションが進行し、更に映像も映されている。私は1階の壁際に1列だけ作られたシートに座っていたが、首を上に右左にと動かして、忙しい、忙しい!

最初劇が始まる時は、裸に近い若い俳優達がS字のステージ上と、観客席の間で踊り出す。いかがわしいクラブのストリップショーみたいに見えるが、ポルノ的なコスチューム・パーティーという仕掛けらしい。そういうところに出入りして、政治家の姉Sarahを苛々させているのが、19歳の娘Jasmine。そして、段々、本筋に入っていって、Sarahの父親のRobertは今は老人だが、何十年も前に地球温暖化に警鐘をならした科学者。Sarahは若い頃は過激な運動をした活動家で、今はMPになって、航空機の使用を厳しく制限するなどの政策を推進しようとしているが、その彼女を航空会社の経営者は籠絡しようと試みている。彼女のもう一人の姉妹Freyaは妊娠し、間もなく出産だが、この破局に近づいている世界に我が子を産み落として良いものかどうか、ノイローゼになるほど悩み、自殺を考えかねないほど。父Robertはかって、航空会社からの資金、つまり賄賂、を受け取り言うべき事を言わなかったのを後悔しており、地球がどうなるかも分からない時代に赤ん坊を生むべきじゃないとまでFreyaに言っている。それにSarahやAnnaとそれぞれの夫との関係、Jasmineのボーイフレンドなどもからみ、Sarahの一家の家族の問題をコアにして、温暖化で終末的状況に近づきつつある地球の事を考える劇、という構造だ。

中身をあまり理解出来ずに見ていたから、欲求不満が高まって、楽しい観劇とは言えなかった。また、あまり座り心地の良くないシートで、分からない劇を3時間見続けるのは辛い。しかし、Rupert Gooldのステージングを目撃するだけでも行った意味はあると思う。ただ、もし温暖化への警鐘をしっかり訴えてインパクトある劇を作りたいのなら、こういう"busy"なステージングをするよりも、もっと観客にじっくりと訴えかけ、考えさせる上演にした方が良いと思うが。Gooldという人は、新鮮な上演をやらないと気が済まない人なんだろう。もう一回見ると楽しめるかも知れないけど、そこまでしたい劇じゃない。

Rupert Gooldの最近の大成功した公演として、"Enron"があるが、彼は大きな社会問題をありとあらゆるビジュアルな目新しい仕掛けで見せるのを得意としているようだ。見ている間はそこそこ面白いが、率直に言って、私には説得力がなく、はったりの劇に見える。説教臭くなるのを嫌っているのだろうが、単なる装飾過多に映る。むしろ、David Hareのように不器用でもストレートな台詞と演技の力で語りかけてくるほうが私には好ましい。地球温暖化は大きな問題である。また、それをめぐって、政治家、官僚や、学界、経済界、環境NGOなどの間で、厳しい駆け引きが繰り広げられている。途上国では、温暖化の為に災害が続発し、多くの人名が失われつつある。ストレートな社会劇としての脚本に基づいた作品も見たい。

7月2日の新聞によると、パキスタンの大洪水では1100人以上の人が亡くなったのではないか、ということだ。これから調査が進むと、更に死傷者の数は増える可能性が高いだろう。また、同じ紙面では、アフリカのニジェールにおける干ばつと、農作物の被害、そして膨大な数の人々の飢餓も報じられている。ロシアでは干ばつによる大規模な山火事の被害が広がり、また穀倉地帯では穀物生産の5分の1が失われ、小麦価格の世界的な上昇が予想されるとの事だ。この夏の日本の酷暑もそうだが、世界中で異常気象、干ばつ、気温の上昇、洪水、山火事等のニュースが途切れることはなく、そうした災害で非常に多くの人々が亡くなりつつある事態だ。地球温暖化による終末的状況は、すでに世界各地で現実のものになっている。劇の台詞の中に、「地球上で安定的に持続可能な人口は10億人。今の地球には60億人が存在する。だからこれから50億人が淘汰されるだろう」という意味の、黙示録的言葉があったのを思い出す。この台詞が当たっているのかどうかはともかくとして、それを引き起こした原因については異論があったにしても、温暖化により世界的な大混乱が既に始まっているのは確かだ。夏が暑くなって辛い、で済まされる問題ではない。

中世ヨーロッパでは、1348年から3年程度の間に、全人口の3分の1以上の人々がペストの大流行で亡くなったと言われる。ヨーロッパ人に免疫のない新しい病気がアジアから入ってきたためだが、一方で14世紀前半の過度の人口膨張が大きな要因のひとつでもあるという説もある。現代も、同様に、自然の厳しい調整機能が働きつつあるのかも知れない。


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