2010/09/30

『ヘッダ・ガーブレル』(新国立劇場、2010.9.23)

ヘッダを囲む演技陣が素晴らしい
『ヘッダ・ガーブレル』(Hedda Gabler)

新国立劇場 小劇場
2010.9.23  13:00-15:45

演出:宮田慶子
原作:ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen)
翻訳:アンネ・ランデ・ペータス、長嶋確
美術:池田ともゆき
照明:中川隆一
音響:上田好生
衣装:緒方規矩子

出演
ヘッダ・ガーブレル(ヘッダ・テスマン):大地真央
ヨルゲン・テスマン:益岡徹
ユリアーネ・テスマン(ヨルゲンのおば):田島令子
エルブステード夫人:七瀬なつみ
ブラック判事:羽場裕一
アイレルト・レーブボルグ:山口馬木也
ベルテ(テスマン家のメイド):青山眉子

☆☆☆☆ / 5


久しぶりに新国立劇場に出かけた。イギリスに居てなかなか行く機会が無いことも一因だが、私にとっては関心のある演目(西洋古典の翻訳劇)が少なかったのも一因かもしれない。しかし、宮田慶子芸術監督になり、新しいラインナップは大変魅力的。特に次回作の『焼けたトタン屋根の上の猫』が見られないのはかなり残念!今回の『ヘッダ・ガーブレル』は昔のコスチュームやセットで、俳優の演技で見せるオーソドックスな演出。大地真央という、宝塚の声音が抜けきれない女優を主役に据えているので、それにどうも抵抗を感じたが、他の役者が素晴らしく、大変楽しく鑑賞できた。

(粗筋)有名な軍人、ガーブレル将軍の娘ヘッダと、中世文化史の研究者ヨルゲン・テスマンが結婚し、長い新婚旅行から帰宅したところから劇は始まる。定職もないヨルゲンにとっては身分不相応な邸宅に住み始めた二人。しかし、ヨルゲンは間もなく教授職に就くことが確実と思われている。順調に見える二人だが、ヘッダはやり場のない退屈と不満に包まれて、イライラしている。ヨルゲンはまじめでお人好しで、ヘッダの言うことならなんでもやろうとするが、しかし学者らしい専門バカで鈍感な男。
二人の昔の知人のエルブステード夫人が訪ねてくる。彼女は夫を捨て、愛するアイレルト・レーブボルグと会いたいという気持ちもある。アイレルトは学者であり、才能豊かだが、かっては八方破れの自己破壊的な男であった。しかし最近は生活を立て直し、著書も出版して話題となり、今やヨルゲン・テスマンが狙う教授職へのダークホースとして頭角を現していた。彼は実は彼とヘッダの間には結婚前に色々あったことがうかがえる・・・。
皮肉屋のディレッタント、ブラック判事もこの新居を訪れる。彼は、ヨルゲンとヘッダの結婚を崩さず、しかしヘッダと付かず離れずの関係を作りたい、と立ち回る。しかし、彼の思惑とは違い、ヘッダの退屈とイライラ、そしてアイレルトのヘッダへの想いが、アイレルトの大事な著作原稿の紛失と重なって、途方もない破局へと繋がっていく。

この劇をmisogyny(女性嫌悪)の要素のある劇だという見方もあると何処かで読んだことがある。ヘッダは確かに嫌味な、気取った、大した中身もないのに気位ばかり高い女性である。『人形の家』では主人公のノラは、家父長制社会に抑圧されて出口のない生活を強いられていることは、現代人誰しも共感でき、彼女の最終的な反抗は、観客や読者にとって大変自然なものと受け止められるだろう。一方、ヘッダの場合、全ての観客の共感を得ることができるヒロインとは言い難い。しかし、ある意味、女性の独立心の歴史的教科書の人物のようなノラと違い、ヘッダは色々な人間的要素がまじりあって、ずっと興味深いヒロインとも言える。私には、劇としてはこちらの方が複雑で、一段と面白い。

ヘッダはノラ同様に、19世紀の家父長制社会の家庭と言う牢獄に閉じ込められた籠の鳥である。更に、彼女は階級的な誇り、金銭的な制約、望んでいない妊娠と来るべき母親としての重圧、彼女自身の激しい性格等、その他の、彼女を苛立たせるいくつもの要素も抱えている。ノラのように、家や夫から自由になる、自己を解放する、ということでは満足できない状況にある。彼女は、退屈やイライラの原因となる敵が見えない。というのも、制約は彼女の内面に巣くっており、自己実現の道は何か、解放されるということは何かもわからない状態なのだ。行きつくところは自己嫌悪と自己破壊しかないのである。

大地真央は、大地真央・・・と感じた。だから、やはり台詞は宝塚節だし、一本調子。しかし、細かい台詞のニュアンスを求めなければ、この嫌味な主人公にはかなりぴったりの配役のような気がした。宝塚出身の方は、謂わば現代劇に出た伝統芸能の俳優のようなもの。彼らの型を生かした役どころを得れば、劇をひきたててくれると思うし、今回はそういう劇だったと感じる。また、中年以上の女優で、あれだけの身体的な美しさや華やかさを感じさせるスターを探すのは大変難しい。直立不動の硬い立ち姿、座った時の背筋の伸び方、冷たい視線や落ち着かない目の動き、神経質そうに机をカチカチと指でたたいたりするところ、窓に映った冷たい表情、など、演出家の手腕もあるだろうが、俳優の手腕は台詞の言い方だけではない、と感じさせる、広い意味での身体能力が感じられた。

益岡徹の鈍感な学者らしさは大変印象的。更に私には、ブラック判事の羽場裕一とアイレルト・レーブボルグの山口馬木也が原作のキャラクターを十分に表現できていると感心した。他の3人の女優さんも申し分ない。

イプセンの原作が十分面白いのであるが、その面白さをフルに発揮できたのはやはり演出家の実力だろう。キャストの選択も含め、宮本慶子の今後に大いに期待を持たせる。衣装、セットなども、日本人がやっていることを忘れさせる素晴らしさ。ただし、窓はもっと天井まで高いほうが良いだろう。ナショナルなどイギリスの劇場のセットを見ていると、リアリスティックというよりも、ほとんどデフォルメされたと感じるほど、窓や扉を大きく作ることが多い(先日見た"Danton's Death"などその一例)。それによって、舞台のスケールを大きくしている。日本では、予算が足りないこともあるかもしれないが、つい日本家屋の感覚が抜けず、家具や窓、ドアなどが小さすぎる場合が多いのでは?

翻訳は新訳で、舞台で言いやすく、現代の観客に理解しやすい、大変工夫された台詞となっている。しかし、私の好みではない。というのは19世紀末の古めかしい社会を日本語で表現するためには、いささか言いにくい位の、やや文語調というか古風な言葉使いでないと違和感を感じると思うのだ。これは前回見た『トロイアの女たち』でも感じたことだ。

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2010/09/21

『トロイアの女たち』(文学座アトリエ、2010.9.20 14:00-15:40)

真面目な公演、しかし物足りない。
『トロイアの女たち』 
文学座公演
観劇日: 2010.9.20  14:00-1
劇場: 文学座アトリエ

演出: 松本祐子
原作: エウリピデス
美術: 山形治江
衣装: 宮本宣子
照明: 金英秀
音楽・音響:熊野大輔
制作: 伊藤正道

出演:
倉野章子 (ヘカペ)
吉野実紗 (カッサンドラ)
松岡依都美 (ヘレネ)
石田圭祐 (メラネオス)
塩田朋子 (アンドロマケ)
坂口芳貞 (タルテュビオス)
奥山美代子 (コロス)
藤堂陽子 (コロス)
山本道子(コロス)

☆☆☆ / 5

先日のセゾン劇場における『イリアス』に続くギリシャもの。但、今回はエウリピデスの翻訳をそのまま使ったギリシャ悲劇の上演である。粗筋は末尾に。

ギリシャ悲劇はかなり好きなので、ちゃんと台詞を生かした上演をしていただけただけで、かなり満足した。俳優さんも皆しっかりした訓練を受けていると思うので、台詞もよく分かり、説得力もある。エウリペデスのこの劇は、時代を超えて戦争の残虐に苦しむ女性のことを考えさせる傑作だと痛感した。2007年の秋冬のシーズンには、National TheatreでKatie Mitchell演出で上演され、大好評を博したようだ。残念ながら、私は留学以前で、見ていない。

先日ル・テアトル銀座で見た『イリアス』と比べ、飾り気のないスタジオで、スターも出ず、お金もかかってない公演だが、遙かに満足でき、行った甲斐があった。

一方で、今回の公演、資金とか会場に制約は多いかと思うが、それを考えても不満が幾つかある。台本の面白さで見せてくれるが、どうも単調で、引き込まれない。頭では興味を持って見ているのだが、感動できない。ヘカベの倉野章子以下、手堅い台詞回しだが、演劇学校の先生から手本を見せていただいているような感じと言ったら良いだろうか。コロスの俳優の中には、その人が台詞を言うと一瞬白ける生硬さを感じる人もいた。台詞を大事に言っているな、といちいち観客に意識させるような演技は、台詞が良く聞こえなくて耳をすまさざるを得ないような演技と紙一重ではなかろうか。 また、戦争に叩きのめされた女性達だから、体型は失礼ながら、やや痩せた人で揃えて欲しい。文学座は年中公演をしているのだから、そうでない身体の人を活かせる劇もあるはず。俳優は、演技の巧さだけでなく、身体性がキャストを選ぶ時の大前提と思う。ヘレネは非常に大事な役だが、神々を引きつける高貴さが感じられない。他の役をやった方の中に適役がいたように思う。また、ギリシャの使者で、ギリシャの権威を代表するタルテュビオス(坂口芳貞)がひどく軽いのも、納得できなかった。

台詞を聞かせることに重きを置いている上演と感じたので、それだけ俳優に注文をつけてしまい、それぞれ熱演しておられる俳優さん達には申し訳ない気もするのだが、逆に見れば、それ以外のドキッとするような工夫、意表を突かれるようなビジュアルや音響での驚きがなかったということだろう。

山形治江訳は、わかりやすく、言いやすい日本語だが、詩的味わい、あるいは様式的美に欠けていて、ギリシャ悲劇の訳文としては、私には物足りない。ヘカベなど王族の言葉は、「だ、である」体ではなく、「です、ます」体にして欲しいと思った。

若い人に偏らず、年齢が様々の俳優が出ているのは、新劇劇団らしく良かった。また、女性がこれだけ活躍できる演目も珍しく、好印象。観客もあまり高齢化しておらず、老若男女、色々は人が混じっていて、文学座はまだまだ活気があると感じた。ただ、堅実で伝統を守る公演もあってよいが、イギリスで言えば、Rupert Gooldの演出作品に行った時に感じるように、お馴染みの観客をギョッとさせ、彼らの期待を裏切り、新劇劇団の枠をたたき壊すようなこともやって欲しい。

アフガニスタンやイラクの戦争やテロで今も毎日のように死者が出ている現在の世界である。直接結びつけなくとも、この劇の現代的な意義を否応なく感じさせるような演出はできなかったものか?

粗筋(文学座ホームページから引用):
紀元前、ギリシャとの苛酷な戦争は終わった。
トロイアはスパルタ王メネラウスの軍門に下った。ギリシャ軍の天幕の中には捕虜となった敗軍トロイアの女たちが収容されていた。その中に王妃ヘカベの姿もあった。女たちには奴隷としての運命が待ち受けている。ヘカベの娘カッサンドラ、予言者として評判の高かったカッサンドラも連れ去られて行く。さらに、ヘカベの息子ヘクトルの未亡人アンドラマケとその息子アスティアヌス。幼いアスティアヌスには死が宣告された。夫、息子、娘、そして孫までも・・・。ヘカベの憎しみはヘレネに向けられた。この苛酷な戦いは、ヘレネにその原因があった。メネラウスの后であったへレネは、なんとトロイア王プリアムの息子パリスと駆け落ちしたのである。そして今、のうのうとメネラウスの元に戻ろうとするヘレネ。ヘレネを殺すよう懇願するヘカベ。そこへ孫アスティアヌスの亡骸が・・・。メネラウスはヘレネの要求を拒み、祖国へヘレネを連れ去った。全ての希望を奪い去られたヘカベ。この時、すさまじい音とともに城壁が崩れ落ちた。あとはただ、隷属の日々の待ち受ける敵国へ向かうだけであった。


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2010/09/18

REED(初期イギリス演劇資料集)の成立と意義:BBC Radio 3 "Sunday Feature: Myths and Mystery . . ."

先日、9月13日の朝、BBC Radio 3のSunday Feature(日曜特集)という番組で、The Records of Early English Drama (REED)シリーズの特集があった。このシリーズは、イギリスの中世・ルネッサンス劇研究にとって革命的な影響を及ぼしている資料集で、ブリテン諸島における、清教徒革命以前(1640年以前)の全ての演劇に関する資料の集成を目標としているシリーズである。イギリスの中世劇、シェイクスピア、その他のイギリス・ルネッサンス劇を研究している人は、自分の研究の為に直接REEDの資料を使うことはなくても、REEDを知らない人はいないだろう。

この放送では、REEDの創設者Alexandra Johnston (University of Toronto) を始め、David Klausner, John McGavin, Pamela King, Sally-Beth MacLean, Greg Walkerなど、REEDの編集者や中世・初期ルネサンス劇研究における英・米・カナダの指導的な大学者が次から次に出て来て、REEDの成立やその演劇研究における意味について解説する。また、シェイクスピア研究の第一人者Peter Hollandも出演し、より大きな視点からも解説する。また、俳優でグローブ座の前芸術監督であるMark Rylanceも演劇実践者の立場から彼らにとってのREEDの意味についてコメントする。

9月19日までBBC iPlayerで聞くことが出来る(今日は18日であるので、もう間もなく終わってしまうので残念だ)。

REEDの各巻は、大変高価な本であり、100ポンドを超えることが多いが、現在オンライン化されつつあり、大学図書館などへのアクセスがなくても、今後多くの人々に活用されるだろう。以下はREEDのLancashireの1巻。




















現在のイギリス中世劇研究は、残されている劇のテキストが少ないこともあり、もっぱらこうした上演の記録の発掘と編纂、そしてそれらに基づいた中世・近代初期演劇史の構築が主流と言って良いかと思う。こうした作業をする人々は、写本へのアクセス、古文書や古書体の正確な知識、そしてラテン語、中世の英語、更に中世のフランス語(仏語はイギリスでも広く使われた)のかなりの読解力が必要だ。これらの作業は、英米の数十人、大体30から40人くらいか、のコアとなる研究者によってほとんどが行われているように見える。こうした世界に、我々外国人のはいりこむ余地はほとんどない。そういう世界で、博士論文において何か新しい事を言わねばならないのは、大変難しい。

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2010/09/15

『叔母との旅』(青山円形劇場、2010.9.12)

一糸乱れぬチームワークの素晴らしさ
『叔母との旅』 



シス・カンパニー公演
観劇日: 2010.9.12  15:00-17:10
劇場: 青山円形劇場

演出: 松村武
原作: Graham Greene
脚色: Giles Havergal (ジャイルズ・ハヴァガル)
翻訳: 小田島恒志
美術: 松井るみ
衣装: 伊賀大介
照明: 小川義雄
音響: 加藤温 
制作: シス・カンパニー

出演:
段田安則
浅野和之
高橋克実
鈴木浩介

☆☆☆☆ / 5

小説家グレアム・グリーンが1969年に発表した小説をジャイルズ・ハヴァガルが巧みに脚色。4人の俳優が20数名の人物を演じ分ける。ひとりの俳優 が複数の人物を演じ分けるのは良くあるが、それに加えてこの作品では、ひとりの登場人物を複数の人物が演じることも頻繁に起こる、つまり双方向のベクトルでコンスタントに演じ分けるのであるから、複雑だ。脚本が良く出来ているのでほとんど混乱は無いが、しかし、その脚本を生かすためには、4人、特に中心となる3人が大変な芸達者でなければいけない。台詞回しが上手く、表情豊かに登場人物を演じ分ける必要がある。更に、今回の上演では特にフィジカルな動きが、大変テンポが良く、台詞と動きが実になめらかなタイミングで結びついていて、小気味よい。

劇は、ヘンリーという銀行マンを早めに退職した極めて保守的でお堅い性格で、孤独な独身男の主人公、そして彼の叔母で、彼とは対照的に破天荒な、浮き沈みの激しい人生を送ってきたオーガスタとの世界各地への旅を描く。オーガスタは既に70歳代でありながら、彼女を慕って世界の果てまでもついてくるワーズワースという黒人の恋人や、かってはナチスに協力し、最近は非合法の怪しげなビジネスを営んでいるヴィスコンティという恋人もいる。ヘンリーは、叔母との旅を通して徐々に自分の堅い殻から抜け出して、人生の喜びと不思議さを教えられることになる。叔母との旅は、ヘンリー自身が内に秘めていたアイデンティティーを取り戻す旅となった。

役者の芸を楽しませること以外に、なぜこのように複数の役者で1人のキャラクターを演じ分けたりする必要があるのだろうか、と考えた。人間ひとりの人生、備わった性格、アイデンティティーといったものも、実は様々の要素の集まりで、常に揺れ動き、有機的に組み合わせられたり、また消えていったりして変化し続けるーそういう事を言いたいのだろうか。人生は流れゆく旅、人は常に変転し、死ぬまで自分がどんな人物かなんて分からない。世界を舞台に旅をしつつ、様々の変化を遂げるヘンリーとオーガスタを見ていると、世界は劇場、劇場は世界、そして人は皆役者と言った誰かを思い出さざるを得ない。観客席に囲まれた(ベケットにふさわしいような)円形の何もない舞台(グローブ座の様に、地球の縮図とも言える)も、その事を意識させた。オーガスタとヘンリーは、目的地の定まらぬ旅をするウラディミールとエストラゴン的なコンビか。

非常に難しい素材を、一糸乱れぬチームワークで演じきる4人の、芸の冴えは並大抵のものではない。特に今回、フィジカルでテンポの速い演技が続くが、段田、浅野が夢の遊眠社出身であるのはプラスになったかも知れない。この2人と比べ、高橋の台詞が(悪いわけではないが)ややゆっくりであったのが少し気になった。この劇は、私は見ていないが、1995年に安西徹雄演出、橋爪功、有川博、勝部演之主演で上演されて、大変好評だったようだ。比べて見ることが出来る方にとっては一層面白そうだ。橋爪功がどうやっただろうか、と想像すると、段田と浅野の演技は、やや垢抜けすぎているのではないかという気はする。というのは、オーガスタ叔母さんは、70歳代で、黒人ワーズワースを激しいセックスで狂わせ、昔からの恋人と密輸事業などで金を稼ぐなどの怪物ばあさんなのであるが、彼女の毒々しさはあまり感じられなかったと思う。ワーズワースのキャラクターについては、黒人をステレオタイプとして捉えユーモアを作り出しているが、黒人観客だったら、あまり良い気分がしないと思う。非常に面白い戯曲だが、現在の英米では上演が難しいのではないか。

段田安則、浅野和之のふたりは、台詞の確かさとフィジカルな動きの素晴らしさを併せ持つ素晴らしい俳優。ただし、既に書いたようにちょっと垢抜けすぎという印象。高橋克実の個性から来るユーモアがそれをカバーしている面があった。イギリスで言うと、CompliciteやKneehigh Theatreの公演を思い出させる面がある。ということは、もっとヴィジュアル面で、映像や音楽を豪華に使っても面白くなるだろう。今後、他の劇団でも違った演出による上演を期待したい。

(追記)昨日可愛い歌手として、容姿を売りものにデビューしたような「タレント」が、たちまちテレビドラマの主役などに抜擢されるのが日本の芸能界。一方で演劇学校や研修所で長年研鑽を積み、下積みで努力して、演劇に関する知識も台詞回しも動きも熟練した俳優でも、プロとして生活をするのも難しい。しかし、このような上演を見ると、俳優のプロフェッショナルとしての技術の凄さに圧倒される。ひとりでも多くの観客が、このような作品を評価し楽しんで欲しい。


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2010/09/11

『イリアス』(ル・テアトル銀座、2010.9.10)

1万円払って3時間の退屈を買いに出かけた。
『イリアス』 



観劇日: 2010.9.10  18:30-21:40
劇場: ル・テアトル銀座

演出: 栗山民也
原作: ホメロス
脚本: 木内宏昌
美術: 伊東雅子
衣装: 前田文子
照明: 勝柴次朗
音楽: 金子飛鳥
音響: 山本浩一

出演:
内野聖陽 (アキレウス、ギリシャの英雄)
池内博之 (ヘクトル、トロイ王の息子)
高橋和也 (オデュッセウス、ギリシャの知将)
馬淵英俚可 (アンドロマケ、ヘクトルの妻)
新妻聖子 (カッサンドラ、トロイ王の娘、予言者)
チョウ・ソンハ (パトロクロス、アキレウスの親友)
木場勝巳 (アガメムノン、ギリシャ軍の大将)
平幹二朗 (ブリアモス、トロイ王)

☆☆ / 5

豪華な舞台。一流の役者と栗山民也など最高のスタッフ。美しいセットと照明。生演奏による音楽。でも全く面白くなく、胸に響かない。どうしてこうなるんだろう、私が鈍感なせい?と、しばらく考え込む。それもあるかもしれないけれど、やはり脚本が悪いんだろうと思わざるを得ない。

以下は公式ホームページからの粗筋:
ある日、ギリシア軍の総大将アガメムノンと英雄アキレウスが戦利品の女ブリーセイスを巡って争いになり、アガメムノンの横暴な仕打ちに怒ったアキレウスは戦線を離脱してしまう。しかし、敵国トロイアの名君プリアモスの子ヘクトルが、祖国の名誉と存亡を賭けて決死の猛襲をかけてくる。英雄アキレウスを欠いて、敗走を重ねるギリシア軍を見かねたアキレウスの親友、パトロクロスはアキレウスに戦闘へ戻るよう懇願するが、断られてしまう。そこで、パトロクロスはアキレウスの鎧を借り、自ら身につけ敵に向かっていくが、トロイア軍のヘクトルによって殺されてしまう。親友の死を知ったアキレウスは、復讐を果たすためアガメムノンと和解し戦線に戻ることを決意、ヘクトルとの一騎打ちに臨む・・・。

ホメロスの大叙事詩を、アキレウスとヘクトルを中心とした主要登場人物のダイアローグやモノローグと、その間を説明するコロス(全て若い女性)の台詞、更に歌や演奏で埋めている。一種のドラマティック・リーディングみたいな面もある。ラシーヌのギリシャ劇のような単調さがあるが、古典とは違い、言葉の美しさは感じない。

劇が始まってまず気になったのが、音声がマイクで拾ってあり、しかも拡大しすぎであること。大変うるさい。非常に耳障りで、役者によっては、耳鳴りがするほどだ。とくに、パトロクロスをやったチョウ・ソンハの甲高い声には本当に閉口した。これだけで既に白けさせられた。役者達、特に内野と平は、大きな声で大見得を切るシーンが多いが、マイクで拡大すると、しつこくて、無理にビフテキを何枚も食べさせられているような気分。全体に、台詞の多くがフォルテッシモで言われているところが多く、始終大声でわめかれても、感動することが出来ない。戯曲自体に詩を感じること、美しさがないので、それを俳優が色々と工夫して言っているのだと思うが、伝わってこない。そう言うなかで、良かったと感じたのは、馬淵英俚可のアンドロマケ。絶叫調の他の役者の演技にかえって引き立てられる得な役柄。池内博之のヘクトルも、若いながらなかなか良い。内野の、俺を見てくれ、という演技よりも迫力を感じた。内野もハンサムで、立派な体躯、声も猛々しく、トビー・スティーブンスを思わせた。身体以上に演技が大きく見えて、こういう劇にふさわしい役者だと思うが、脚本がつまらないのでは空振り。

音楽は妙にメロドラマチックな、歌謡曲みたいなところがあり、乾いたギリシャの物語には似合わないし、安っぽい印象を強めた。

どうしてオリジナルのギリシャ悲劇の翻訳を上演しないのだろう。例えそれ程上手く行かなくても、ギリシャ悲劇をやれば、少なくとも脚本は面白いのに。でなければ、ラシーヌでも良い。スターを揃え、その顔ぶれを考えながら、適宜台詞の量を調整して書いたから(平さんはこれくらいしゃべらせなくちゃ、とか)、無理があるのではないか、と言う意見を聞いたが、そうなんだろうか。

最近、同様に、大劇場での台詞中心のスペクタクルとして、ロンドンで"Danton's Death" (National Theatre)を見た。素晴らしい台詞のdeliveryで圧倒されたが、その元になっているのは、既に定評のあるゲオルグ・ビュヒナーの小説だった。この作品とどうしてこう違ってしまうのだろうか・・・。

ロンドンでこんな上演があったら、批評家から酷評され、それでたちまち客席がガラガラになり、演出家や制作者は痛い教訓を得ることになるだろう。でも日本では内野聖陽や池内博之を見に来る人を喜ばせれば、公演としては役目を全うしたのであろうか? この二人に問題があるわけでは無いけれども・・・。これでは、劇場はテレビで知られたスターを生で見られるショーケースでしかない。結局、そういう「内野さんステキ!」という観客を多数集められれば、それで良いんだな、と思う。内野、池内、馬淵など、確かに良かったとは思うが、ファンの集いじゃあるまいし、内野聖陽ファンでない私にとっては、劇全体が退屈では仕方ない。

栗山民也はこれで成功と思っているのだろうか? 内野や平は、自分達の台詞が空回りしているとは感じないのだろうか? 私は決して点数の辛い観客だとは思わないが・・・。

後ろから4分の1くらいの席にも関わらず1万円というチケット代。そして、1500円のパンフレット(勿論買わなかった)。ロンドンのパンフレットの値段は、3ポンド(400円)程度。軽くなった財布を寂しく感じる帰路だった(比喩ですが)。出来があまり良くなくても、セミプロ劇団とか、予算のない新劇の劇団が苦労して作っている公演だと、何とか良いところを見つけて楽しみたいという気持ちで見るが、客はこれくらい出せるだろうから、この位のチケットとパンフレット料金で、という観客の足下を見た金勘定が見え見えだ。この劇場にはもう行きたくない。演劇のすそ野を狭めるのに貢献した大スペクタクルだった。私の感想に同意しない方、この劇が大いに気に入った方、気分を害したらお許しください。


2010/09/06

優秀なはずの日本のサービス業だが、劇場は全然駄目!

前回に引き続き、イギリスと比較して、観客の立場から見た日本での観劇の問題点について書く。今回は劇のチケットについて。

何と言ってもチケットが高い! 商業劇場の歌舞伎とかミュージカルなどだと、1万円は優に超える。ウエストエンドの商業劇場での最高のチケットが50ポンド強(現在1ポンドは133円程度)だから大分高い。ただ、これはかなり異常とも言える円高と、日本の平均収入の高さを考えると、ある程度割り引いて考える必要はある。問題はむしろ(国)公立の劇場のチケットの高さ。7000円とか8000円というレベルのチケットが多いが、National Theatreなどで一番高いチケットの40ポンド程度と比較すると割高(新国立劇場では比較的安く抑えてあるのは大いに評価したい)。National, Donmar, Almeidaなど、国庫からの補助金を受けている劇場は、20から30ポンドで十分に良い席を購入できる。Nationalは毎年夏には、10ポンド(1350円程度!)のチケットも大量に売り出す。更に、イギリスの劇場は様々な安いチケットがあるが、日本では2種類、精々3種類しかない。一番前の埃や唾の飛んでくる席が、最高の値段で売られていたりする。ひどいのは、視界がさえぎられ、ステージが十分に見えない席でもほとんど安くなっていないこと。これは詐欺同然だ! イギリスの劇場だと、柱一本がわずかに視界をさえぎっても、値引きされている。その背景には、ほとんどの劇場で、席がひとつひとつ選べるという事実がある。例えば、NationalとかDonmarのチケットをインターネットで購入する場合、劇場の席の見取り図が出て来て、どの席が幾らの値段か、視界がさえぎられるかどうかなど、はっきり知った上で席を指定できる。窓口で買っても同じである。また、マチネ割引や、年配者や学生への割引、当日開演前の空席割引など、色々な割引チケットもある。更に、商業劇場の切符でも、劇場公認のハーフプライス・チケットなどが広く売られている。

イギリスの演劇チケットの安さを支えているのは、Arts Councilを通じた国庫による手厚い財政的補助であることは言うまでもない。National Theatre, Royal Shakespeare Company, National Theatres of Scotland / of Wales, Royal Courtなど、国立、あるいはそれに準じる組織を持つ劇場・劇団が、私の知るだけでも5つある。しかし、それ以外にも、数限りない小劇団、劇場、地方劇団等が国庫によって大きく支えられている。Donmar WarehouseやAlmeida Theatreなどが国際的な評判を呼ぶような公演を次々と打てるのも、収入の多くを補助金によって得ているからだ。おかげで、私が買うチケットの多くも20-25ポンド程度のことが多い。それでなければ、これほど頻繁に劇を見られない。それでも結構中ぐらいの席で見られる。

この点で日本の文化行政の貧困を嘆いても仕方ないとは思う。演劇だけでなく、文化全般に対する、国家や国民の社会的な価値判断の低さに起因しているから。文化については二流の国家と思われても、税金を多く払うよりはまし、というレベルの国民だから(註)。日本という国家は、福祉や医療、教育も含め、ヨーロッパに比べると全てに関して、低負担・低サービスの国だからね。日本には日本芸術文化振興会という日本版Arts Councilがある。予算レベルなど、詳細は私は無知だし、また日本の場合豊かに存在する伝統芸能に資金をかなり回す必要もあり、一概に比較できない事は理解している。

問題にしたいのは、劇場のチケット販売の不親切さだ。どうして、もっと細かく価格設定が出来ないのだろう。そして特に、ステージが見づらい席、視界がさえぎられるような席をトッププライスで売るのだろう。例えば大学生が5千円から1万円近い額をアルバイトで貯めて、始めて演劇を見たとしよう。張り切って行ってみたら、席がひどくて肝心の場面が半分しか見えなかったとしたら、もう劇場なんか来るもんか、と彼/彼女が思っても仕方ないではないか。実際、井上ひさしの"Musashi"の日本での公演では、肝心の巌流島の決闘の場面で、2人のうち1人しか見えなかったという観客の話を人づてに聞いたが、劇場の良心を疑わざるを得ない。そういう席は予め断って、半額くらいにして欲しい。

また、イギリスの多くの劇場では、チケット購入後も、劇場窓口に行けば空席がある限り、観劇日を変更したり、席を変えたりすることも出来ることが多い。私も度々そうして貰ってきた。更に、National Theatreなど、リターンを受け付けてくれるところもある。

我々は、日本のサービス業の良さを誇ることが多いが、劇場に関してはこれは全くあてはまらないね。

(註)以前にイギリスの新聞オブザーバーにロイヤル・バレーのプリマ、Tamara Rojoが国家の文化補助について寄稿していた。その時に彼女がひどい国の例として日本の出来事を上げていたのを思い出す。ロイヤル・バレーが日本でバレーの公演をした時のこと、公演のあとで食事に行くと、そこについ今し方まで同じ作品で一緒に踊っていたダンサー達が、ウエイトレスとして働いていて驚愕したそうである。日本でダンサーをするには、そこまでしないと生活出来ないのか、と食欲を失ったそうである。彼女が日本の状況を十分理解しているかどうかは分からないが、それにしてもそういう印象を与えてしまうなんて日本の恥だ。その記事はここで


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2010/09/05

日本の観客は見る劇を選ぶのに一苦労

日本に帰ってきて、たまには東京の劇場に行きたいとは思うのだが、日本では、熱心な演劇ファンをのぞくと、見る劇を選ぶのは大変だと痛感する。月刊『シアターガイド』を買って眺めているが、東京では実に沢山の劇をやっている。しかし、どれが良い公演なのか、私の好みの作品なのか、分からない。この雑誌、貴重な演劇専門の情報誌なんだけど、420円払って200ページ超の広告誌を買っているようなものだ。劇や演劇人の紹介だけ。紹介や演劇人の対談、それ以外はひたすら褒めてある。つまり評価がない。劇評と言えるものがない。ある意味、ブログより役に立たない。まったくの素人のブログのほうが正直だ。だから、結局日本では日頃からコンスタントに劇を見て、演劇情報に精通している人しか、何を見て良いのか分からない。新聞などで評判になっているから、ひとつ劇場に出かけてみよう,なんて言う人がイギリスでは結構いるが、日本では劇場は演劇ファン以外の人は近づきにくい。

イギリスなら、場所やスケジュールを調べるための情報誌(TimeOutなど)でも、短評は載っており、5点満点の評価がしてある。インターネット上の情報サイト(WhatOnStage.comなど)などは、詳しい評論が載っていることが多い。チケット販売サイトなどでは、新聞での評価が載っている。その新聞の劇評は、テイラー、ビリントンやスペンサー、クラップなど、時として演劇人やファンから批判を浴びつつも、演劇ファンに絶大な信頼を得ていると言って良い。彼らが良い劇を見いだすと同時に、つまらない劇を厳しくけなすことで、イギリス演劇界の発展が助けられている面は計り知れない(註1)。演劇ファンにとっては、大変ありがたい存在だ。今はインターネットで読めるが、以前は劇評を読むためだけでも新聞を買ったものだった。蜷川の『ハムレット』をバービカンで見た後は、批評家がどう見ているか、4紙か5紙の新聞を買って読み比べたことを思いだす。

しかも最近では、新聞の劇評にインターネット上でブログみたいにコメントを書き込めるようになったので、劇評家の批評に加えて、他の演劇ファンがどう感じているのかも同時に知ることが出来るし、自分の感想さえ書き込める。それに対し、ビリントンやガードナーが返事のコメントをしてくれたりもする。

以前にも書いたけど、日本の演劇の世界も、日本における他の分野(例えば学問の世界も、分野にもよるとは思うがほぼ同じ)、実に内向きで村社会なのだろうと推測する。劇評を書く人は、豊かな鑑識眼を持っていても、解説や紹介しか書いていない。読者や観客の方を向かず、「先生」と呼ばれる大御所の演出家、脚本家、役者に気を遣って、一番肝心の「評価」をしないのではないか。イギリスの批評家は、「こんなもの劇場にかけるべきじゃない、出直せ」なんて時々書くが、日本だとそう言うことを書くと劇評家として終わりなんだろうな。

そこで、ブログの価値が出てくるのだが、それ程色々と読んだわけではないので良くはわからないが、日本人の書くブログの多くが、役者のファンサイトみたいに誰それが好き、とか、情報のみのブログが多く、それ程詳しくもなくて、劇を選ぶ上であまり参考にならないようだ。一銭も稿料を貰っていないブログだから、当然それぞれの筆者が好きなように書けば良いわけだけど、劇評らしい劇評を目ざすブログって、意外に少ないように見える。

ちなみに私自身は、自分には劇評を書くだけの英語力や鑑識眼がないので、自分のブログでは、感想は書いても、「劇評」とか「レビュー」と言う単語は、(うっかり書いてしまうことはあるかも知れないが)、原則として一切使わないことにしてきた。それでもあえて星をつけて評価を示し、自分が良いと思ったかそうでないかを書き、その理由をなるべく具体的に示そうと心がけてはいる。自分が良いと思ったか、良くないと思ったか、そしてそれは何故か、下手な文章だがそれだけは書きたい。

先日書いた対談で、スタンリー・ウェルズが、RSCは観客の方を向いてない、と批判したが、日本の演劇批評も、5千円も1万円も払って劇場に通う観客ではなく、演劇関係者の顔色をうかがっているのではないか。多民族多文化の開かれた競争社会のイギリスと、基本的に日本人だけの村社会の文化の差と言えばそれまでだが・・・。

さて、この帰省中、どの劇を見たものか・・・。

(註1)先日のブログで書いたビリントンとウェルズの対談において、ウェルズが、ビリントンに対し"Morte D'Arthur"に甘い評価をしたことを繰り返し皮肉っていたことを思い出す。イギリスの批評家は、自分の意見をちゃんと言わず、いい加減に褒めると信用を落とすことになると感じた。


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