2011/03/25

"The Knot of the Heart" (Almeida Theatre, 2011.3.23)

麻薬中毒の問題と母娘の依存関係
"The Knot of the Heart"

Almeida Theatre公演
観劇日:2010.3.23  19:30-22:00
劇場:Almeida Theatre

演出:Michael Attenborough
脚本:David Eldridge
セット:Peter McKintosh
照明:Tim Mitchell
音響、音楽:Dan Jones
衣装:Yvonne Milnes

出演:
Lisa Dillon (Lucy)
Margot Leicester (Barbara, Lucy's mother)
Abigail Cruttenden (Angela, Lucy's elder sister)
Sohie Stanton (Marina, a counsellor at a drug rehabilitation centre)
Kieran Bew (a nurse, psychiatrist, a TV producer, and other roles of men)

☆☆☆ / 5

主人公Lucyの麻薬中毒、いや麻薬依存を、母親Barbaraとの密接すぎる依存関係と重ね合わせて描く。人間の内なる弱さ、それによって結びつく親子関係を鋭く抉った佳作。俳優の白熱の演技にも注目した。

(以下、劇の筋書きやディテールを書いているので、これから公演を見たり、テキストを読んだりする方は、それをご了解の上で読み進んでください。)

Lucyは20歳代終わりの魅力的な女性で、元はBBCの子供向け番組のプレゼンター(司会者)だった。しかし、3年弱くらい(?)前に麻薬を使っているところを見つかり、解雇された。その後も彼女の麻薬中毒は良くならず、どんどん深みにはまっている。ぼろぼろになっていく娘を、母親のBarbaraは自宅で、必死で世話する。しかし、自分ではどうしても麻薬を買いに行ってしまうLucyは、母から離れてリハビリ施設に入り、中毒から徐々に回復し始め、3週間後には、すっかり生まれ変わったようになって、実家に戻っていく。しかし、母の元に戻ると、また麻薬に手を出すようになり、更には、母親に薬を買ってくるように頼むまでになる。母の干渉が自分にとって良くない結果になっているとは知りつつも、麻薬の奴隷と化している彼女には、母が焼いてくれる世話から逃れられない。

母親のBarbaraは手取り足取りで娘の世話を焼いているが、観客は次第に、彼女の異常なまでの愛情が娘の中毒からの脱出を妨げているのに気づかせられる。才能があり、未来ある娘だが、1人では放っておけないLucyを世話することに、Barbaraは自分自身の存在意義を見いだしている。一方、子供の時から自立心に富み、弁護士として成功を修めている長女のAngelaとは、Barbaraは冷え切った関係で、お互いにほとんど連絡もしない。更にBarbara自身にもアルコール中毒の問題があった・・・。

人間の色々な弱さ、例えば、身体や精神の病気とか障害、麻薬やアルコール、ギャンブルなどの中毒といったものは、家族をひどく苦しめる一方で、特に親子関係において、非常に強固な「絆」の原因ともなり得るだろう。それが病気とか中毒を治す方向に働くこともあるが、場合によっては、相互依存の関係、悪しき甘えの構造を固定化することもあるのではないか。多くの親は、子供が自立して行く時には寂しい思いをし、子供への世話を必要としなくなったことで自分の何か大切な部分を奪われた気がするかもしれない。寂しいだけなら良いが、子供が自立しないように、意識的にか無意識にか、弱いままの状態に置いておこうとする親もいるだろう。この劇のBarbaraは、Lucyの快復を願っているようで、実は自立して自分の元を去っていくのが怖いのである。LucyもBarbaraも、ミドルクラスのプライドが邪魔して、自分達の弱さや中毒の現実を正直に見つめ、自分と向き合うことが出来ないために、Lucyは中毒から脱出できず、Barbaraは娘も自分も救えない。

Lucyを演じたLisa Dillonの麻薬中毒の表現は非常に鬼気迫るものであった。また、Lucyに対し、息の詰まる世話を焼き続けるBarbaraを演じたMargot Leicesterも、見ていてため息をつきたくなる迫力があった。イギリスのミドルクラスの家庭にとっては、かなり陥りやすい落とし穴であり、Almeida Theatreに来る観客には共感を呼ぶ作品だろう。しかし、多くの日本人には、それほど切実には感じられない気がする。

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2011/03/24

"The Holy Rosenbergs" (Cottesloe, National Theatre, 2011.3.22)

パレスティナ紛争がイギリスのユダヤ人家庭に落とす影
"The Holy Rosenbergs"

National Theatre公演
観劇日:2010.3.22  19:30-22:00
劇場:Cottesloe, National Theatre

演出:Laurie Sansom
脚本:Ryan Craig
セット:Jessica Curtis
照明:Oliver Fenwick
音響:Mike Winship
音楽:Jon Nicholls

出演:
Henry Goodman (David Rosenberg)
Tilly Tremayne (Lesley Rosenberg, David's wife)
Susannah Wise (Ruth Robsenberg, David's daughter & a human rights lawyer)
Alex Waldmann (Jonny Rosenberg, David's second son)
Stephen Boxer (Stephen, a human rights lawyer, working for UN)
Philip Arditti (Simon, a local rabbi)
Paul Freeman (Saul, David's friend and a medical doctor)

☆☆☆☆ / 5

(以下、劇の筋書きやディテールを書いているので、これから公演を見たり、テキストを読んだりする方は、それをご了解の上、読み進んでください。また、テキストを読んでないので、筋書きについて間違った理解があるかも知れません。)

ロンドンのEdgewareという地域に伝統的にあるユダヤ人コミュニティーに住むRosenberg一家。父親のDavidはcaterer(仕出し業者)。プログラムの説明を読むと、多くのユダヤ人にとっては、宗教上決められた食餌の戒律が厳しいので、catererは、作る料理のおいしさだけでなく、大変専門的な知識を要する仕事のようだ。Davidの長男Dannyはイスラエル軍の軍人としてガザ侵攻に出征し、戦死した。劇はその葬儀の前日のRosenberg家の居間を舞台にしている。

Davidは地域でも尊敬されてきたビジネスマンだと思われるが、近年食中毒の問題が起こって(このあたり、英語力不足で良く理解出来なかった)商売が傾き、やむを得ず、ミニキャブ(安いタクシーの一種)の運転手のアルバイトもしているという窮状にある。彼はイスラエルのために戦死した長男をとても誇りに思っているが、次男のJonnyは家業に興味を示さず、オンライン・ギャンブルのビジネスを始めようと計画しており、父親とは折り合いが悪い。また、彼は自分がいつもDannyの影に隠れ、父の期待を裏切ってきたことに複雑な感情を抱いている。更に、優秀で、正義感が強い娘のRuthは、人権問題を扱う弁護士として、国連のガザ占領問題の調査の仕事をしており、上役のStephen(演じているのも偶然だろうが、Stephen Boxer)と共に、イスラエル軍の人権侵害を明らかにする調査報告書を書きつつある。Ruthの活動は地域のユダヤ人にとっては大変苛立たしいことで、Davidを悩ませている。この夜、医者で、Davidの子供の頃からの友人のPaulが食事にやってくるが、Ruthの仕事をめぐり、ユダヤ人・コミュニティーの意見を代表するPaulは、Ruthの仕事を激しく批判し、彼女をDannyの葬儀に出席させるな、とDavidに迫る。Paulは自分の娘の結婚披露宴の食事をDavidに任せるはずになっており、Paulとの対立は一層の経済的な困難も意味する・・・。

幾つか劇評を読んでみたが、皆指摘しているのは、Arthur Millerの影響である。確かに主人公のDavidには、"All My Sons"のJoe Kellerや"Death of a Salesman"のWilly Romanの影が濃い。伝統的な家父長的家庭観、一家を背負って頑張るという意識、自分の失敗を子供達に話せずにいるところ、地域の人々との関係、彼らの評判を非常に気にするところなど、Millerの主人公に似ている。妻のLesleyも、典型的な母親像を体現しており、けなげに夫をサポートし、ついには心労で倒れてしまう。この一家はマイノリティーのコミュニティーで生活し、近隣の住民を顧客にして自営業を経営しているので、Miller作品以上に周囲の人々との関係を大事にせざるを得ない立場にある。更に、ユダヤ人・コミュニティーなので、宗教上のしがらみ、そしてイスラエルが行っていることをどう考え、サポートするかということにも密接に関わってくる。上記のようなRuthの仕事は、一家にとって大きな試練なのである。しかし、Davidは娘の仕事を押さえ込むようなことは言わない。彼はMillerの描くWillyやJoeのようないかがわしさや自己欺瞞はない。Davidに性格的な問題があるとしたら、家長としての自負にこだわって、率直に自分の置かれた弱い立場を直視し、家族とのコミュニケーションをはかることができなかったことだろう。その意味で、WillyやJoeのような性格破綻者の悲劇とはかなり違った印象を持った。この劇の眼目は、現代において、特に現代のイギリスにおいてのユダヤ人であることの意味、イギリスなど欧米の国に住むユダヤ人のイスラエルへの視点の難しさだと、私は感じた。その点で、この劇の感想は、見る人により大きく別れるのではないか。パレスティナの問題に関心の無い人にはまったく興味を持てないかも知れず、また、作者Ryan Craigの視点がかなりRuthのような人と重ねられている感じなので、教条的なリベラリズム、英語で言うところの"political correctness"に傾いた劇と見られるかも知れない。Guardianのビリントンが4つ星をつけているのに対し、Daily Telegraphのスペンサーが酷評して2つ星というのも、そういう要素も関係していると思う。

前半は、私の体調が悪いせいもあり、うとうとしてなかなか集中出来なかったが、後半にかけて、Paulが食事に招かれて、DavidとPaul、そしてRuthや彼女の上司のStephenも加わっての白熱した議論になってからは、最後まで舞台に釘付けになった。Davidを演じるHenry Goodmanを始め、俳優がそれぞれのキャラクターの持ち味を十二分に表現出来ていた。ただ、キャラクターがかなり「タイプ」になっていて(家父長らしいDavid、さっそうとした、正義感の強い人権派弁護士のRuth、心配性のお母さんらしいLesley、出来損ないのprodigal sonタイプのJonny等々) いささか変化や驚きに乏しい感じがした。また、お葬式の前日にこんな大騒ぎをする気力があるのだろうかとか、Stephenが、亡くなったDannyの精神状態に関する大事な書類を、偶然この晩に持ってやってくるところなど、ドラマティックにするためのご都合主義とも見える。

Arthur Millerの劇のような、国や文化を超えてのユニバーサルな魅力があるとは言えないだろう。しかし、パレスチナ問題を、在英ユダヤ人の視点から、身近な家庭劇の枠組みで考えさせてくれた作品として、意義あるものであり、また素晴らしい演技に支えられ、私には大変説得力のある公演だった。

見終わった後、在日韓国朝鮮人のコミュニティーにとっての朝鮮半島問題と共通する点もあると感じ、『焼肉ドラゴン』も思い出した。

Cottesloeではユダヤ人虐殺を扱った劇、"Our Class"を2009年に見ていました。

監督Laurie Sansomと脚本作家Ryan Craigのインタビューがありました(a facebook page)。

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2011/03/20

"Fen" (Finborough Theatre, 2011.3.19)

心の沼地(fen)を描くCaryl Churchillの異色作
"Fen"

Iron Shoes公演
観劇日:2010.3.19  15:00-16:30
劇場:Finborough Theatre

演出:Ria Parry
脚本:Caryl Churchill
セット:James Button
照明:David W Kidd
音響、音楽:Dave Price

出演:
Alex Beckett, Katharine Burford, Elicia Daly, Nicola Harrison, Wendy Nottingham, Rosie Thomson

☆☆☆ / 5

"Top Girls"などの作品で著名なCaryl Churchillの、公演されることの珍しい作品とのことである。大変地味な素材であり、大衆的アピールは無いし、観客の安易な感情移入を拒絶するような作風だが、そこがかえって面白い。

(以下、劇の筋書きやディテールを書いているので、これから公演を見たり、テキストを読んだりする方は、それをご了解の上で読み進んでください。)

'fen'と言う単語は沼地、湿地などを表し、"Fens"という複数形では、イングランド東部のリンカーンからケンブリッジにかけての、かって沼沢地が多かった地域を指す。この地域は17世紀頃より運河などを通して排水が進み、現在では豊かな農業地帯になっているところが多い。別の言葉では、East AngliaとかNorfolkと呼ばれる地域とかなり重なる地域だろう。ロンドンに比較的近いのだが、それでいて大都市が少なく、経済や文化では、豊かな南東部の後背地という感じのある、日本で言うと北関東みたいな面があると思う。

50〜60人程度しか収容できないFinboroughの空間をふたつに分け、真ん中に長方形のステージを設置し、それを2辺から観客席が挟む形にしている。土間と同じ高さのステージには砂が敷き詰められて、劇が始まる時にはそこにジャガイモがたくさん置いてあって、劇が始まってしばらくすると登場人物がグループでそれを収穫する。最初に出てくるのは、カメラを首にかけた日本人のビジネスマン。時は1980年代、日本経済の生み出した財力が世界の資産を買いあさっていた時代。このビジネスマンも、イングランドの農業会社に投資し、この地域の農家を半ば所有している。サッチャー政権の自由化により、イングランドの農地が企業所有に集約され、それが外資に買われる。農民は、大地や地域に生やしていた根を奪われて、その日その時の手間賃を稼ぐ農業労働者となり、人々の心はすさび、地域の人間関係や家族の絆が破壊されつつある。また、農村の古めかしい倫理観と新しい時代の生き方、保守的な年長者と自由を求める世代、などの行き違いもある。リアリスティックで感動的なドラマに仕上げることもできるだろうが、作者はそういう手法は選ばず、1人3役とか4役を前提に、20人以上の人が登場し、90分の劇に21ものシーンを詰め込んで短いスケッチを積み重ねることで、個人の生き方と社会のあり方を複眼的に考えるように観客に求めていると思われる。

とは言え、中心になるのはVal (Katherine Burford) という幼い子供を2人抱えた女性。夫を捨ててFrank (Alex Beckett) という農業労働者の男性と一緒になりたいと思っているが、子供を捨てることは出来ず、経済的にもFrankの収入だけでは生きていけない。結局母Shirleyに世話になりつつ、宙ぶらりんの生活をしている。Frankは雇い主のMr Tewsonに、このままではやっていけないから賃上げしてくれ、と頼むが、仕事があるだけでもありがたいと思ってくれ、とはねつけられる。Valのけなげな子供達ふたり、DebとShonaも母親の不安を感じ、それを映し出す。ValとFrankは徐々に追い詰められていく。

荒涼とした風景、断片的なシーン、感情を上手く表現出来ない、素朴だがインテリジェンスのない人々・・・ValとFrankの物語以上に、こうした荒れ果てた心象風景全体が作品の意味であろうと思う。基本的にフェミニズムの劇である。フェミニズムの文学というと、性差別によりキャリアを阻まれた女性の問題など都市のミドルクラスの女性が取り上げられることが多いかと思うが、ここではそういう陽のあたりやすいところにいる女性達ではなく、農村の、謂わば時代から取り残された女性達のあり方を敢えてドラマチックな語りを排して映し出している。

俳優の演技は一流だったが、1人何役もやっているので(女性が男性をやることさえある)、私には、時々、誰が誰なのか分からなくなった。もっと観客をぐいぐい掴んで欲しいと思いつつ、それはおそらく作者の意図ではないんだろうとも思った。かなり戸惑わせる劇ではあるが、見て損のない作品だ。

写真はFinborough Theatre。前にある木のおかげで、何だがお化け屋敷みたいですね(笑)。1階はカフェ。入ると何か注文しないと悪いみたいな感じです。




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2011/03/17

サラ・パレツキーの講演 (Warterstone's, 2011.3.16 19:00)


日本でもほとんど全ての作品の翻訳が出ていて大変人気の高いクライム・ノベルの作家、サラ・パレツキーの講演がピカデリー・サーカス前の書店Waterstone'sであり、行って来ました。この春ハード・カバー版が出版されたばかりの新作、"Body Work" (Hodder & Stoughton) のプロモーション・イベントです。これも震災が起こる前に切符を買っておいたのですが、良かったと思いました。震災の後にこのイベントを知ったのだったら、とても切符を買う気分にはならなかったでしょう。でも、こういう時こそ、パレツキーのファンとしては、Vic (V. I.) の必死の頑張りを読みなおして、希望を貰いたいですね。

司会の人との対談形式でした。相手の名前は聞き取れなかったのですが、大変手慣れた司会ぶりであったので、批評家かしらと思いました。その対談が45分くらいで、その後15分くらい、パレツキーが会場からの質問に答えてくれました。

パレツキーは以前にBBCのモーニング・ショーに出演したのを見ていたので、どういう感じの人かは知っていました。大変ウィットに富んだ、爽やかな雰囲気を持つ人。彼女は地方政治家の時代から、シカゴを地盤にして活動してきたオバマ大統領に大変親しいことも知られています。そういう話も出ました。オバマさんは静かで地味な人柄で、昔は、親しい人達の間では、奥さんのほうが政治家に向いていると言われていたそうです。そういうパレツキーは、作品を読んだだけでも大変リベラルな人だと分かります。最近は歳をとり、怪我をしたりしてなかなか出来ないでいる、と言っていましたが、社会的な活動もしているようです。

司会者が指摘して話題になったのですが、ヒロインのVicって孤独な人なんですね。大体において、ハメット、チャンドラー、マクドナルドなどの描く古典的なハードボイルドの主人公は皆大変孤独な人物です。また、私立探偵でなくても、警察小説でも、P D ジェイムスのアダム・ダルグリッシュやスーザン・ヒルのSimon Seraillerなどもそうでしょう。社会や組織におさまりきれない正義感とか、強い個性の持ち主だから、読者を魅了します。しかし、Vicの場合、その時々、個性豊かな恋人が出て来ます。更にコントレラスさんというお節介の塊のような隣人が事実上の父親。2匹の犬も家族みたいなもの。そして、親友で、Vicの姉と母を兼ねたようなロッティとロッティの夫のマックスというもうひとつの家庭もあります。

コントレラスさんについては、以前、書いていてこのせわしなくお節介なキャラクターに作者ながらうんざりしてきて、もう退場させようと思ったことがあったそうです。そうしたら、パレツキーの旦那さんが猛烈に反対して(^_^)、その案は没になったとのこと。良かったですね。

彼女の第一作、"Indemnity Only" が出たのが1982年。従ってもう30年間このシリーズを書いているわけです。私は多分15年以上彼女の作品を読み続けています。P D ジェイムスのアダム・ダルグリッシュ・シリーズもかなり好きなのですが、何と言ってもこのVicのシリーズが最高です。パレツキーも認めていましたが、近作では、Vicも段々年齢を感じ、孤独の影も濃くなっています。恋人達とも長続きせず、自分に何か根本的な性格上の問題があるのだろうか、と自問しています。経済的にも自転車操業で不安を抱え、いつまでこういう生活をやれるだろうか、と疑問を感じてきています。イラク・アフガニスタンの戦争やアメリカの超保守派の脅威の影も忍び寄ってきて、初期の、がむしゃらで、もの凄くエネルギッシュなVicとは大分違ってきています。アメリカの、筋金入りのフェミニスト・リベラルのパレツキーの思いを反映しているのでしょう。そういう変化も、ある意味で大変興味深く、また今後Vicがどう変わっていくのか、是非見届けたいと思います。

とっても楽しい夕べで、身を乗り出して聞いていて、1時間があっと言う間に過ぎました。

私が一番最近読んだ彼女の作品は、"Hard Ball"で、ブログに感想も書いております。

(付記)オバマ大統領暗殺の脅威

オバマ大統領と親しいパレツキーが、アメリカの保守化、いや過激化の象徴的な証拠として言っていましたが、彼は、これまでの大統領に比べ、暗殺するという脅しなどを5倍も受けているそうです。既に英語版ウィキベディアでまとめられて「オバマ暗殺の脅迫」という項目まで出来ているほどです。

更に今年2月には、ジョージア州の都市Athensで開かれた共和党の下院議員Paul Brounのタウン・ミーティングで、聴衆の1人が、"Who is going to shoot Obama?"(誰がオバマを[銃で]撃ってくれるのか?)というとんでもない質問をしたそうです。それに対し、その下院議員ブラウンは何と、単に"The thing is, I know there's a lot of frustration with this president"(この大統領に不満を持っている人は沢山いるのは知っていますよ)と軽く答えて、次の話題に移ったそうです。国会議員がですよ! まるで、暗殺を半ば是認していると取ることさえ出来るではありませんか。オバマ大統領支持とか不支持とかを超えて、アメリカという国の恐るべき病巣を見た思いです。この件ではこちらのサイトなど参照。


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2011/03/16

"Moment" (Bush Theatre, 2011.3.14)

19年ぶりの家族の再会だが・・・
"Moment"

Tall Tales Theatre Company / Solstice Art Centre公演
観劇日:2010.3.14 19:30-21:30
劇場:Bush Theatre, London

演出:David Horan
脚本:Deirdre Kinahan
セット:Maree Kearns
照明:Moyra Darcy
音響:Alun Smyth
振付:Muirne Bloomer
衣装:Elaine Chapman

出演:
Maeve Fitzgerald (Niamh Lynch)
Will Joseph Irvine (Fin White, Niamh's colleague & boyfriend)
Deirdre Donnelly (Teresa Lynch, mother of the Lynch family)
Ronan Leahy (Nial Lynch)
Rebecca O'Mara (Ruth Pigeon, Nial's newly-wed wife, English)
Kate Nic Chonaonaigh (Ciara Blake, Niamh's sister)
Karl Quinn (Dave Blake, Ciara's husband)
Aela O'Flynn (HIlary Kelly, Niamph's former friend)

☆☆☆☆ / 5

地震のもの凄い被害に加え、原発事故は刻々とより困難になっているように見え、ひとときも落ち着いた気分になれないが、私がやきもきして、じっと一日中テレビを見ていても仕方ないので、既に購入しているチケットを持って、フリンジの劇場に出かけた。フリンジだから仕方ないが、狭い長椅子に東京の満員電車のように座らせられて、2時間でえらく肩が凝ってしまった。

(以下、劇の筋書きやディテールを書いているので、これから公演を見たり、テキストを読んだりする方は、それをご了解の上で読み進んでください。 Be warned! )

小さな劇場だが、ロンドン・フリンジを代表する劇場であるBush、しかし今まで行ったことがなかった。今回優れた作品を見られて幸運だった。アイルランドの新進劇作家Deirdre Kinahanによる新作で、新聞の劇評では大変褒めてある。上演しているのもアイルランド東部のCounty Meath(ミース県)の劇団であり、Kinahan自身がArtistic directorである。

ストーリーの枠組みはシンプル。A family reunion、19年ぶりの家族の集まりである。Lynch家は母親 (Teresa) と娘が2人 (Niamh, Ciara)、そして、長く家に寄りつかなかった息子のNialからなる。Nialはイギリス人の女性Ruthと結婚したばかり。成功しつつある画家だ。自分は不本意だったのだが、夫の家族と知り合いになりたいというRuthの懇願に負けて、19年も留守にしていた実家を訪れる。母のTeresaは彼を待ちわびてそわそわしているが、娘2人はかなり複雑だ。Niamhは今更Nialが会いに来ること自体おかしいと思っているし、表面は冷静なCiaraにも色々な思いはありそうだ。Niamhがそれ程の長い間家をあけていたのは、彼が10代の子供の頃、大変重大な犯罪を犯して刑務所に入り、家族も大変苦しみ、父親はその為に死んで(自殺か?)しまったからである。

もう一度息子を受け入れて、家族仲良くひとときを過ごしたい、そして夫の残した遺産も彼に渡したいというTeresa、しかし心身共に弱っているTeresaを長年世話し続けてきた娘達、特にNiamhは、自分達の苦労が母に認められていないこと、母が一方的に息子を許してしまおうとすることにやりきれない気持ちを抱く。

犯罪が絡むシリアスな内容ではあるが、非常にテンポが良く、絶妙のタイミングの会話が続き、かなりの笑いを誘う。日頃からカンパニーとして一体となって演技をしている人達ならではの一糸乱れぬ会話劇で、大変楽しめる。演技も素晴らしい。姉妹と弟、母親の関係に加え、更に配偶者やパートナーが加わって、人間関係の多様さが、もつれた糸を見るような面白さ。アイルランド英語での「渡る世間は鬼ばかり」のような赴きがある。

Niamhが中心人物で、彼女と、母親のTeresa、息子のNialの関係が軸になるが、プラクティカルな性格のCiara、遠慮がちながら何とか皆のわだかまりをやわらげようと奔走するDave、一家に溶け込みたいRuthやFinなど、それぞれがパートナーとの関係の長さや深さに応じて、色々な色合いを持つ態度を示している点が面白い。

会話の絶妙さで魅了してくれたが、ちょっと残念と言えることがあるとすれば、Nialの犯罪自体が、劇全体とそれ程有機的に組み合わさっておらず、やや唐突な気がした。人間関係の面白さに加え、この犯罪が観客をぐっと掴めたら、大変な傑作になっただろうと惜しまれる。しかし、実に上手い劇作家だ。

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2011/03/10

ラティガン公演情報追加("Flare Path"他)

更にラティガンの上演があることが分かった。現在ウエストエンドのTheatre Royal Haymarketでは、彼の戦争の頃を舞台にした劇、"Flare Path"をやっている。これまでpreviiew中で今日10日がプレスナイトなので、明日以降リビューが出る。演出はTrevor Nunn、主演はSienna MillerとSheridan Smith。Millerはハリウッド映画で主に仕事をしてきたイギリス人俳優。この劇は近年ほとんど上演されていなかったようだが、初演時は697回のロングランを記録したとのこと。空軍のパイロットとその妻の女優、そして彼女の元の恋人があるホテルで偶然出会って起こる事件、という三角関係の話らしい。コミカルなシーンも多い、ロマンチックな悲喜劇のようだ。プリビューを見た人のブログでは好評。

"The Deep Blue Sea"は映画化され、今年後半に公開されるとのこと。監督はTerence Davies、主演はRachel WeiszとSimon Russell Beale!

更に、来月、ロンドンのBF1 Southbankではラティガンの映画の特集があるそうだ。

その他、Chichesterでも特集があるらしい。詳しくはEvening StandardのHenry Hitchingsの記事で。こう沢山あると、何もかも見ると言うわけにはいかなくて辛い。


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2011/03/08

ラティガン生誕百年

先週、BBCの文化紹介番組、"Culture Show"を見ていたら、今年はTerence Rattigan (1911-77) 生誕百年とのこと。その為か、ラティガン作品の上演が多くなりそうだ。まず、現在リーズのWest Yorkshire Playhouseで、彼の代表作のひとつ、"The Deep Blue Sea"をやっている(3月12日まで)。愛人を作り、夫を捨てて家を出るHesterという女性を主人公にした、『人形の家』にひねりを効かせた様な作品。Hesterという名前や不倫の問題が、ナサニエル・ホーソンの『緋文字』を連想させるのだが、偶然の一致だろうか? 今回の上演の演出はSarah Esdaile、主演は現在BBC Oneの法廷ドラマ"Silk"でも主演をしているMaxine Peake。とても存在感のある俳優。見られないのが大変残念! これのためだけでもリーズまで行きたいくらいだ。劇評としてはこちらが良い

この後は、Old Vicで、彼の最後の作品、"Cause Célèbre"。演出は、昨年、やはりラティガンの"After the Dance"の素晴らしい公演を成功させたThea Sharrock、そして主演はNiamh Cusak(ニーブ・キューザックという発音のようだ)とAnne-Marie Duffという豪華な組み合わせ。見逃せない。("After the Dance"の公演についての拙文はこちら。)CusakもDuffも、演ずる人物の性格の微妙な屈折を表現出来る、大変インテリジェンスに溢れた女優だと思う。Niamh CusakはやはりOld Vicでにおける"Dancing at the Lughnasa"での演技が大変印象に残っている。私の感想はこちら


ラティガンは、「シェイクスピア、チェーホフ、そして私」と言ったというが、その2人に肩を並べる評価が出来るかどうかともかく、彼がイングランドのチェーホフとも言うべき性格の劇作家であることは確かだろう。綿密に作られたプロット、精密な心理的、社会的観察眼、弱者への温かい視線、裕福な階級の文化やモラルとそれに収まりきれないアウトサイダーの生き辛さ、など、チェーホフと共通する面は色々とある。イギリスの劇作家で、シェイクスピアに次いで公演される人というと、誰だろう。ショー、ジョンソン、マーロー、ピンター・・・? ラティガンこそイギリス演劇上演の定番として、シェイクスピアに次いで頻繁に取り上げられて良い、素晴らしい作家だ。


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2011/03/06

"Becky Shaw" (Almeida Theatre, 2011.3.5)

コメディーの難しさを感じさせた劇
"Becky Shaw"

Almeida Theatre公演
観劇日:2010.03.05  15:00-17:10
劇場:Almeida Theatre

演出:Peter DuBois
脚本:Gina Gionfriddo
セット:Jonathan Fensom
照明:Tim Mitchell
音響:John Leonard

出演:
David Wison Barnes (Max)
Haydn Gwynne (Susan)
Daisy Haggard (Becky)
Anna Madeley (Suzanna)
Vincent Montuel (Andrew)

☆☆ / 5

(以下、劇の筋書きやディテールを書いているので、これから公演を見たり、テキストを読んだりする方は、それをご了解の上、読み進んでください。 )

現代アメリカのコメディ。オフ・ブロードウェイで好評を博した作品だそうである。こちらの批評もブログの感想も絶賛。TelegraphもGuardianも4つ星をつけている。劇場での観客の反応も良く、笑いも頻繁にわき上がり、拍手も大きかった。しかし私には面白くない。やはりコメディーにおける言葉のハンディキャップを感じざるを得ないが、それだけでもない気がする。

MaxはSusanと兄妹として育ったが、血は繋がっていない。Maxの父親が亡くなった時に、Susanの父親がMaxを育てることにしたようである(その父親も最近亡くなった)。ふたりの間には、兄妹的な意識と共に、男女としての意識があるようで複雑だ。Susanの母親SuzannaはMD (Mascular Dystrophy)を患っていて、身体が段々不自由になっている。Maxはファイナンシャル・アドバイザーをして、大変成功している。また、少なくとも表面上は極めて冷酷で、愛想のない人物。

Susanは親切で好人物のAndrewと結婚している。この夫婦は、Andrewの勤務先にやってきた派遣社員のBecky(35歳)と、独身のMaxの間を取り持てないかと、2人を自宅に招く。ところが、善意で始めたこのキューピッド役により、MaxとSusanの関係、AndrewとSusanの夫婦関係をも大きく揺り動かし、またBeckyとMaxのふたりも、これまでの人生の澱を見つめさせる。

というような設定の話であり、特別な大事件は起こらない。舞台裏で、MaxとBeckyがデートをした後に強盗に脅かされて金を盗まれるという事件はあるが、それはステージでは演じられず、2人の性格を際立たせ、摩擦を起こさせるきっかけとして使われているのみである。劇の眼目は、Maxの極端に冷たい、切って捨てるような台詞とか、Beckyの子供っぽさや自己憐憫からくる可笑しさ、AndrewがBeckyに対してする行きすぎたお節介などから生まれるシチュエーション・コメディーである。Susanは割合常識的な感覚を示す人物として設定されていると思う。しかし、彼女があとの3人の極端さに振り回されるところもミソである。更に、歳も取っており、難病を抱えているSuzannaが、若い4人(皆、30歳代だろう)をやや距離を置いて見て、観客に覚めた視点を提供する。各キャラクターの性格付けがはっきりしており、morality play風の劇と見ることも出来る。

Beckyは、貧しい派遣社員で、健康保険にも入っておらず、肉親とは決定的に仲違いしてつき合いがなく、ボーイフレンドはおろか、親しい女友達もいない。社会から取り残された失敗者、アメリカ人が良く使う言葉で言うと、"loser"である。一方、Maxはその他の事はBeckyとは同じような状況なのだが、ただひとつ、彼は金持ちであり、従って、アメリカ社会における成功者なのである。従って、この劇のユーモアの背後にはかなり苦く、複雑な臭いもある。アメリカ社会では、経済的成功と失敗が、他の文化以上にその人の社会的価値を決める、大げさに言えば、ほとんど道徳的、宗教的な価値を付与される面があると思う(成功を与えるのは神の業、つまりプロテスタント的倫理観か?)。ただ、そういうアメリカ社会の、成功者を讃え、"loser"を置き去りにする面を、MaxとBeckyを通じてもっと突っ込んで描くことも出来たと思うが、そうはっきりと批判する訳でもなく、その点で、この劇は物足りない。

テレビ・ドラマのコメディーでもそうなのだが、私がこういう劇を「難しい」と感じる理由のひとつは、まず細部の言葉が理解しにくい事により笑いづらいためだろう。しかし、それでも可笑しい作品、見て楽しい作品がないでもない。どうも言葉の理解に加えて超えがたい要素がある気がする。それは、家族とか親しい友人の間で摩擦が起きた時の会話の激しさが、英米人の観客にとってはユーモアを感じさせるのに対し、私から見ると、極端に非現実的で、白けるのである。笑う時には、まずある程度の共感がないといけないと思うが、そもそも共感できないのだ。日本人だったら、どうやったってあんな口喧嘩にはならない、というレベルだから。

また、この劇の場合、Suzannaを除く人物の、感情的な自己中心さにも呆れる。「私は、僕は、こう感じる、こう思う」と言う台詞をひたすら互いにぶつけ合うのを聞いていると、これもまた、どこか別世界の出来事となり、共感できない。これは、現代アメリカのミドルクラスの人々が抱えるself-obsessionをベースにしたコメディーであり、そもそもアメリカ人ほどには"self-obsessed"していない(と願いたいね)平均的な日本人にとっては、「ふーん、そうなのねえ」という受け取り方になるのではないか。骨太な、社会や政治の問題を扱った劇と違い、大変良く出来てはいても、小粒で内向きの、culture-specificな作品と感じる。ちなみに、今回見た時には、白人の観客以外の人はほとんど見かけなかった。イギリス人でも、アフロ・カリビアンやインド系の観客には大してアピールしないのではないだろうか。

俳優はとても上手かったと思う。Beckyを演じたDaisy Haggardは、台詞を言うだけで何となく可笑しさがにじみ出る、所謂「天然」というタイプのとぼけた味がある。Max役のDavid Wilson Barnesは唯一のアメリカ人俳優だが、冷たい表面の裏に潜む複雑さを垣間見せる陰影ある演技。Rory Kinnearを思わせる俳優。

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2011/03/04

Peter HallとNicholas Hytnerの対談(NTオンライン)

今年の1月21日にナショナルで行われたPeter HallとNichokas Hytnerの対談のビデオが、ナショナルのウェッブサイトにオンラインで掲載されている。5つのパートに分けて載せられており、観客との質疑応答も含めて、かなり長い時間が視聴出来る。素晴らしいビデオなので、英語がそこそこ聞き取れる方には是非お勧めしたい。

前のポストでも書いたように、Peter Hallは80歳の米寿にして、未だにイギリス演劇の最前線で活躍し続けている巨人。彼の力がなければ、イギリスのsubsidised theatreは無かったかもしれず、まさに20世紀イギリス演劇の隆盛を作り上げた最大の功労者だ。80歳だから、少し耳も遠いようだし、会話もスローで、途中で話しが途切れたりもして、Hytnerが適宜繕ったりしている。しかし、彼の演劇に対する情熱は、全く衰えておらず、それだけで非常に感激した。また、Hytnerの捕捉したことも含め、ふたりが言うことには、教えられることも多い。

"Twelfth Night"に関して、Festeについて、Hallが私にはなるほどと思わせることを言っていた。フールの多くは、聖職者になり損ねた浮浪者(tramp)の様な者が多かった、というのである。確かに、初期の芸人は広い意味での学僧(clerks)が母体であり、その身分は卑しい河原乞食だった。しかし、特にフールと学僧を結びつけたことは無かったが、これは大いに頷かせられた。テキストを読み返して検討する価値がありそうだ。

Hallは大変謙虚な人との印象を受けた。とりわけ演劇や俳優に対しては、自分を押しつけず、作品や役者の意見を尊重するようだ。彼は、"concept theatre"が大嫌い、と言う。つまり、最初から演出家がアイデアを持ってきて、こうやれ、と役者やスタッフに命じるようなやり方は是としない。話し合いつつ、カンパニーとして公演を作っていくことを楽しみにしているようだ。それに関連して、オペラの演出と演劇の演出の違いにも触れている。一般的なオペラ歌手は、こう演じてくれ、というと素直にそれをやろうと努力するそうである。歌手達は、演技には素人という意識があるのだろうか。一方、俳優は色々な意見を言って、うるさいそうである。下手すると台本を書き直せ、とまで言う(これはHytnerが言ったことかもしれない)。しかし、Hallはそういう風にディスカッションをしつつ公演を作るのが大好きなようだ。また、今の彼は、演出家としての彼自身の個性など出なくても良い、あくまで劇の良さが出ていれば良い、と思っているようだ。それは"Twelfth Night"でも充分感じた。

ふたりとも言っていたのは、今のイギリス演劇界はスターによって動かされている(star-driven)、ということ。勿論、これはいつの時代もかなりそうなのだろうが、今のウエストエンドの商業劇場は、テレビやハリウッドスターの出演による集客で成り立っている。かっては、ウエストエンドの劇場特有のスターが居たものだが、とHallは言う。今はウエストエンドの商業劇場を中心にコンスタントに出演するスターはまずいない。Hytnerは、Claire HIgginsやSimon Russell Bealeの名前を挙げて、ナショナルなどsubsidised theatreでのみ活躍する演劇のスターがいることを指摘していた。subsidised theatreが増えた今、演劇界独自のスターは、商業劇場から、subsidised theatreに移ったわけだろう。また、俳優は演劇で経験を重ねることでのみプロの俳優としての実力を得られる、という意味の事をHallは言っていたと思う。

Hytnerは、昨今のドラマ・スクールの授業料の高騰を嘆いていた。授業料が高いために、金持ちの若者だけがドラマ・スクールに行くことになり、俳優の層が薄くなるというのだ。2人とも、文化に対して、金銭的な見返りを要求する世相(政府?)を批判している。

イギリス演劇ファンにはたまらない対談。オンラインで無料で見られるとは贅沢極まりない。

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"Twelfth Night" (National Theatre, 2010.2.26)

Peter Hallの米寿記念公演
"Twelfth Night"

National Theatre公演
観劇日:2010.02.26  19:30-22:30
劇場:Cottesloe, National Theatre

演出:Peter Hall
脚本:William Shakespere
セット:Anthony Ward
照明:Peter Mumford
音響:Gregory Clarke
音楽:Mick Sands
衣装:Yvonne Milnes

出演:
Marton Csokas (Orsino)
Rebecca Hall (Viola)
Simon Callow (Sir Toby Belch)
Finty Williams (Maria)
Charles Edwards (Sir Andrew Aguecheek)
Charles Edwards (Feste)
Amanda Drew (Olivia)
Simon Paisley Day (Malvolio)
James Clyde (Antonio)
Ben Mansfield (Sebastian)
Samuel James (Fabian)

☆☆☆☆ / 5

Peter Hall、なんと80歳だそうである。RSCを作り、Nationalを長らく率い、その後も、Peter Hall Companyを作って、引退することを知らず、まっしぐら。その息つく事を知らない疾走ぶりは蜷川幸雄を思い出させるが、蜷川のように円熟するのを拒否したような片意地はったところは無く、今のHallは、古典をオーソドックスに磨き上げるのを好んでいるように見える。イギリスの演劇界、特に公的補助のある公演では、何か新機軸を打ち出す事を期待され、単に伝統的にしっかりした公演をするだけでは許されない雰囲気があるが、Hallはあまりにも大御所であるので、余裕を持って好きなように作れるのではないだろうか。保守的と言われたって痛くも痒くもないし、批評家もさすがに彼に厳しい言葉を使わない気がする。この公演も、4つ星をつけて賞賛している批評家が多い。確かに見て損の無い、良い公演だが、いささか点が甘い?(私は最初3つ星にし、しばらくしてから4つ星に書き直した。まあどちらでも良い感じである。)

ということで、伝統的なスタイルの公演。色々と細工の出来る柔軟な空間のCottesloeだが、ウエストエンドの商業劇場の様に、ひとつの面だけを額縁舞台の様に使う(やや勿体ない感じ)。道具は、ステージの大半をおおうような大きな天蓋の布を垂らしたり、引っ張り上げたりする他は、大したものはない。伝統的なコスチュームと音楽。そして、何よりも丁寧な台詞の発話により、台詞を詩として楽しむように気が配られている。シェイクスピアなどのルネサンス劇を見ていると、詩をたたき壊すような台詞の言い方をする俳優が必ずと言って良いほどいて、イライラさせられるものだが、そういう人は全く居ない。観客によっては、退屈な台詞回し、と思うかも知れないが、私はこれが一番。

Peter Hallの娘、Rebecca HallのViolaは、ストレートな、とても美しい主人公。但、人形のようで、内面に隠された熱い想いはそれ程伝わらず、やや物足りない。その点では、貫禄たっぷりで、肉感的なところもあるAmanda DrewのOliviaは良い。Simon CallowのTobyは申し分なし。ちょっと目立ちすぎて、Malvolioを食ってしまった。しかし、そのSimon Paisley DayのMalvolioも、シャープな、ピューリタン的冷たさが良く出ていて、私は大いに気に入った。Charles EdwardsのSir Andrewも、なよなよした雰囲気が上手い。

この公演の一番の特色と感じたのが、David Ryall演じるFeste。この俳優さん、1935年生まれであるから、76歳!声も良く通って、元気さに感嘆。しかし、とにかくお年寄りなのである。80歳のPeter Hallは、この劇の狂言回し役であるFesteに76歳の俳優を当てて、自分の思いを託したのだろうか。人生という大騒ぎを達観して眺めるかのような、静かな、淡々としたFesteだった。このFesteの造形を始め、全体として、陽気な騒動や祝祭的な雰囲気よりも、メランコリーが勝った公演だった。

見終わって、大きな満足感と共に劇場を後にできる公演。新しさを追いかける公演が多い中、シェイクスピアを見慣れていない人に是非見て欲しいトラディショナルな演出と演技だ。でも強いて言えば、今ひとつ特徴に乏しい点が物足りない(無いものねだりとは思います)。とは言え、帰省中に見た串田和美版の、台詞を破壊してしまった無惨な『十二夜』を思い出すと、ストレートにやることを恐れないHallの貫禄を感じ、この公演の素晴らしさにあらためて気づかせられる。

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2011/03/01

Sara Paretsky, "Hardball" (2009; Hodder & Stoughton, 2010)

Sara Paretsky, "Hardball"
(2009; Hodder & Stoughton, 2010)  446 pages.

☆☆☆☆☆ / 5

私がいつも新しいペーパーバックの出版を待っている唯一の作家と言っても良いのがSara Paretsky。彼女の小説にはガッカリしたことがないが、今回も同じ。いや、むしろ今までの作品以上に良かったと思える。

Paretsky作品の主人公、女性私立探偵のV. I. Warshawski (V. I. ないし、Vicと呼ばれる) は、脳卒中を起こし死の床についている黒人の老人女性から、彼女の愛する甥 Lamont Gadsdenの捜索を頼まれる。そのLamontは、40年も前、シカゴで人種紛争があり、Dr Martin Luther King Jr. が公民権運動の行進を行った後に行方不明になっていた。Lamontの周辺には、シカゴの黒人の若者達のギャングがいて、V. I.はそこからもつれた糸をたどっていくが、そうするうちに、ギャングの抗争が口実に使われた裏で、シカゴ政界の大物や警察官の腐敗が絡む殺人事件のもみ消しがあったのではないかとの疑いが浮上する。V. I.が事件の本質に近づくにつれて、彼女が理想的な警官であり父として愛してやまなかった亡くなった父親のTony、叔父のPeter、Peterの娘のPetraなどが、この事件と関わってきて、彼女は自分の家族の、きれいとは言えない過去を掘り起こすこととなり、悩み苦しむ。更に、事件の重要な証人となり得る人々が襲われ、彼女自身もひどい怪我をしつつ、潜伏せざるを得ない。父の思い出やいとこの安全を守りつつ、プロフェッショナルの探偵として、殺されたり失踪したりした人々についての真実を明らかにしたいと格闘する。

Martin Luther King Jr.が実際にシカゴの白人街で行進をし、その際、それに反発した白人達が騒動を起こし、物が投げられてKing牧師にもレンガが当たった、というところは実際にあったことだそうである。この公民権運動の歴史の一幕、そして昔から悪名を馳せているシカゴ政界の暗部、さらに警察内部の汚職と言った、現実を背景としたフィクションの要素を、V. I.自身の家族の問題と合わせて密に織りあげたところがこの小説の読みどころだと思った。Paretskyのリベラリズムと公民権運動の時代を生きた者の自負が、この作品に平凡なミステリにはない厚みを与えている。

Paretskyの小説の大きな魅力のひとつは、主人公以外にも魅力的なキャラクターが多いこと。軽薄でナイーブ、自分勝手だが、素直で愛すべきいとこのPetraや、V. I.を助ける理想主義の女性牧師Karen、難民救済の活動に従事するSister Frankieなどの修道女達、浮浪者のElton、悪名高いギャングのJohnny Merton、口先のなめらかなセキュリティー会社の経営者だが、実は悪魔の化身のようなDornick等々、この作品においてもParetzkyが印象的なキャラクターを作ることに長けているのはつくづく感心する。KarenやSister Frankieは謂わばV. I.の分身であり、宗派や職業の違いを超えた一種のsisterhoodを感じさせる。

かなり込み入った小説であり、途中、全く中だるみが無いとは言えないが、それも迫力ある結末に向けての準備段階だろう。例によって、終盤彼女が追っ手から逃げたり、隠れたりしつつ捜査をするシーンは息をつく間もない緊張感を作り出し、Paretskyの探偵小説作家としての実力を存分に発揮している。結末は、娯楽小説の最後とは思えない程感動的だ。

Paretzkyは1947年生まれの63歳とのこと。日本で言うところの団塊の世代、学生運動、反ベトナム戦争の運動、そして公民権運動の時代を生きた世代であり、また最初のフェミニスト世代だろう。若い頃の理想を失わず、ミステリというメディアにありながら、多くの読者にアメリカのリベラリズムへの希望を与え続けている。まだ活躍できる! これからもV. I. Warshawskiシリーズでも、その他の小説でも長く創作活動を続けることを祈りたい。

このブログではもう一冊彼女の本、"Bleeding Kansas"、の感想を書いています。また旧ブログでは、V. I. シリーズの一作、"Fire Sale"の感想もあります。


(3月2日追記)大阪地検特捜部の証拠ねつ造により冤罪を背負うことになった厚労省局長の村木厚子さんを取り上げたドラマ「私は屈しない」(TBS)を帰国中に見た。この中で、村木さんが、勾留中に読んで大変勇気を与えられた小説として、Paretskyの『サマータイム・ブルース』があげられていた。村木さんがParetskyを読んでいたことは事実のようである。ドラマでは、裁判において被告が次の言葉に言及している:

「あなたが何をしたって、あるいはあなたに何の罪もなくたって、生きていれば、多くのことが降りかかってくるわ。だけど、それらの出来事をどういうかたちで人生の一部に加えるかはあなたが決めること」(こちらのページから引用させていただきました。)


ロンドンにお住まいのParetzkyファンへ・・・このブログの読者には居ないかな(^_^)

3月16日午後7時より、PicaddilyのWaterstone'sにおいて彼女のトークがあります。彼女の新作、"Body Work"について語るとのこと。チケットは£3。この新作は既にハードカバーとキンドル版は発売されているが、ペーパーバックはまだ。




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