2011/06/29

"Treasures of Heaven" (British Museum exhibition, 23 June-9 Oct. 2011)

中世ヨーロッパの聖者信仰と聖遺物
"Treasures of Heaven: Saints, Relics and Devotion in Medieval Europe" (British Museum exhibition, 2011年6月23日〜10月9日)



標題の大英博物館の特別展に昨日(6月28日)、行って来た。私は中世のイギリスにおける聖者信仰、特に巡礼について個人的な興味を持っている。専門的に深く研究するという程ではないにしても、本を読んだりすることはある。これは私がカンタベリーに住んでいたことや、『カンタベリー物語』に関心を持っていること(こちらは専門上)によるものだ。今回の展覧会は私にとって大変参考になった。そのままにしておくとすぐ忘れてしまうから、メモを残すことにした。

この展覧会は、聖者信仰をローマ帝国期の非キリスト教信仰の時代時代から現代に至るまで辿った展覧会だが、ほとんどの展示物は中世のものである。

展示物の多くは聖遺物(relic)の入れ物、聖遺物入れ(reliquary)である。多くの金や象牙で作られ、宝石の散りばめられた豪華なreliquriesが展示されている。棺のような形をしたものが多い。聖者の骨などを入れることが多かったから、これらは小さな棺と言っても良いものだろう。逆に、聖遺物を修めるために建立された寺院の場合は、建物全体が一種のreliquaryと言えるそうであり、パリのシテ島にあって、聖ルイ(ルイ9世)が13世紀中葉に建立したサント・シャペル (Sainte Chapelle)はその典型だそうだ。この寺院は、キリストが被った荊の冠を収めるために作られた。この荊冠を買うためにルイ王は(私の記憶は不確かだが)確か王室の国家予算の半額にあたる巨額を費やしたと書いてあったと思う。その位聖遺物は当時、重要なものだったわけである。*

relicというと、やはり遺骨が一番重要だが、キリストの場合は昇天して骨は残っていないのであるから、十字架、それからキリストの衣類、荊冠等となる。聖者の場合は、骨、直接身につけたもの、特に殉教に関連のある物品、聖者の血が流れた物(例えば聖トマス・ベケットの殺害に使われた剣)などが重要。日本の仏教でも似たような面は色々とあると思う。少なくとも、仏舎利は信仰の対象となっている。

reliquaryの中には、棺型でなく、様々な他の形の物も含まれるが、特に手の形をしたものが沢山あった。大抵、人間の手よりも少し小さい、子供の手、それも肘より先くらいの形をしている。聖職者がその、聖遺物が収められた手で信者を触り、その御利益を分け与えたのであろう。材質は銀が多かったと思う。聖遺物箱の中には、小さな隙間が空けられているものもあり、そこから信者は中の遺物を間接的に触れることが許された場合もあるようだ。間接的というのは、布きれなどを手に持って、その布きれで聖遺物を触れるというようなこと。

大変面白かったのは、聖遺物入れの中には、ミニチュア・コレクション・ボックスみたいなものもあること。子供向けの鉱物標本ボックスを見たことがあるだろうか。あのように、様々の、多い場合は何十種類もの小さな聖遺物が集められ、仕切られたコンパートメントに入れられ、それぞれ小さな羊皮紙の名札が付けられているのである!それぞれの遺物は、小指の爪ほどの小さなもの。中心部には一番貴重な聖遺物、つまり十字架のかけらなど、が入れられたコンパートメントがある。こういう「聖遺物セット」はどういう風に利用されたのだろうか。

また、多くのreliquaryは持ち運びに便利なアクセサリーの形状をしている。小さな十字架とか十字架状のペンダント、ブローチ、メダルなどである。縦5センチに満たない大きさの黄金の十字架の中心部に、更に十字に組み合わされた"the true cross"(本物の十字架)よりなる十字の小さな木片が埋め込まれていたりする。もちろん、これが本当に"the true cross"であるかどうかを保証できないが。** 富裕な王侯貴族などが身につけたのだろうか。

中世ローマ・カトリック教会は、教会の祭壇(altar)には聖遺物が入っていなければならないと指定した(この伝統は、現在も大体において守られているようだ)。その為、非常に多くの聖遺物が必要とされたのである。但、聖者の数も膨大であったから、何とか行き渡ったのであろう。また、そうした祭壇の中には持ち運び可能のもの(portable altars)もあった。展覧会に出品されたそうしたポータブルの祭壇の中には、小さいながら何十種類もの聖遺物が収められた豪華なものもあった。

冒頭の写真は、木製の彫像になっているが、この中に聖遺物が入っており、これもreliquaryである。日本でも、仏像の中に仏舎利とか経文をいれることは多いのではなかろうか。

各地の大きなカテドラルや修道院は、聖遺物を数多く収集した。それがその寺院の格式を高め、巡礼を集めたり、お布施や各種の寄進を集めたりして、その寺院のサバイバルと経済的成功に繋がるからである。聖遺物の激しい争奪もあり、また盗難もあったようである。勿論、偽物も相当数、出回っていたことだろう。王室や大貴族にとっても聖遺物の所有はその権威を高めるものであったし、王は神から地上における権力を与えられた者であるから、聖遺物が王に宗教的な力、神に任じられた者としての裏付けを与えた。更に、聖遺物は他国の王や大貴族との取引材料として使われる時も多かったようだ。特に、パレスティナやコンスタンティノープルの十字軍国家は聖遺物を西欧の王侯貴族に分け与える見返りとして、様々の利益を受けたようである。

日本の仏教寺院に行くと、仏様以外に、観音様だの、昔の偉いお坊さんの彫像だの、たくさん拝むものがある。また、それぞれの仏様の前にはちゃんと賽銭箱も置いてある。中世ヨーロッパも同じようで、キリスト以外に、拝む対象として色々な聖者が祭ってあった。例えば中世のカンタベリー大聖堂などは、巡礼者はキリストに祈りに行くのではなく、トマス・ベケットに祈りに行くのである。

巡礼のお土産物としても巡礼バッチもかなり展示してあった。また、巡礼地のありがたい聖なる水を入れる小さな金属製、あるいはガラスの容器 (flask, vial) もあった。今回初めて見たのは、巡礼バッチを作るための鋳型。こうしたバッチの値段はどのくらいしたのだろうか。庶民が容易く買えるレベルだったのだろう。こうしたものの生産が巡礼地の繁栄を支え、職人や労働者が集まったのろう。他にも色々とご当地土産があったに違いないと思うのだが。水には、例えばカンタベリーの場合、それにベケットが流した血の名残があって欲しいという気持ちもあるだろう。また、場所によっては、その土地に異教時代からあった泉への信仰の名残もあるかも知れない(というのは私の推測だが)。そもそも聖者信仰の原動力の1つは、異教の神への信仰が、キリスト教の聖者として受け継がれたものであり、マリア信仰でさえ、ある程度、古い地母神信仰に基礎をおいているとされている。

特別展なので12ポンドの入場料がかかる。また入場時間は指定されるが、ウェッブで予約できる。更にこの展覧会に関連した講演会なども開かれている。

この展示会のカタログ、"Treasure of Heaven" (British Museum Press)が出ている。非常に詳しい、専門的な豪華本で、図版も多いが、値段は、ペーパーバック版でも30ポンド。専門家向きだろう。その他では、展覧会の解説書とは銘打っていないが、British Museumの中世部門の専門学芸員、James Robinsonがこの展覧会に合わせて出版した本、"Finger than Gold: Saints and Relics in the Middle Ages" (British Museum Press) が事実上、展覧会の解説書にもなり、便利のようである。取り上げてある展示品は、British Museumの所蔵品に限られる。値段は、9.99ポンド。博物館のショップにたくさん置いてあるが、展覧会に行けない方で興味のある方も、インターネットで購入できる。

Guardianのサイトにこの展覧会の、10枚の写真が載っています。私の文章よりも、写真の方がずっと雄弁です。

下のコメント欄で読者のmiuraさんが教えて下さいましたが、BBC Fourでこの展覧会にちなんだ特集番組、"Treasure of Heaven"がありました。私もiPlayerで見てみました。素晴らしい番組です。展覧会に出ている聖遺物と聖遺物入れが詳しく解説されています。但、iPlayerでも7月3日(日)までしか視聴できません。再放送などあると良いですね。DVDになったら日本の人も見られるのにな。

*Wikipediaによると、この費用は135,000リーブルだと言うこと。この額は王室の年間予算、つまり年間国家予算の約半分に当たる巨額だとのこと。一方、サント・シャペルの建設費用は40,000リーブルだそうである。ルイは、コンスタンティノープルにあったラテン帝国の最後の皇帝、ボードワン2世から、これを購入した。なお、「ラテン帝国」とは、東ローマ帝国を滅ぼした第4次十字軍がコンスタンティノープルに立てたカトリック帝国。

**聖遺物として残る十字架は、ローマ皇帝コンスタンティヌスの母、ヘレナが紀元326-28年にパレスティナで聖遺物の収集を行った折、エルサレムで発見したと言われている。それが細かく切り刻まれて、聖遺物としてキリスト教圏に広く行きわった、ということになっている。

2011/06/27

十字架に付けられた"boke"(1): "book"という単語の意味するもの

15世紀に書かれたタウンリー・サイクルの聖史劇(聖書の物語を題材にした劇)の磔刑のパジェント (Play 23, "Crucifixion") を読んでいて、"book"という単語についてちょっと面白いことがあったのでメモ。

まず聖書から。福音書でイエスを磔刑にした後、十字架の彼の頭上に罪状書きを掛けることになっている。マタイ伝では:

そしてその頭の上の方に「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。(27:37)

他の3つの福音書にもこれへの言及はあるが、私の関心を引くのはルカ伝:

イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。(23:38)



この絵画で、十字架に貼り付けてある「札」の"INRI"とは、Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorum (ユダヤ人の王, ナザレイエス)のこと。

私はこの「札」に興味を引かれる。これはどういう英語で表されているのか。

欽定訳聖書(The Authorised Version)において、Matthewは:

And set up his head his accusation written, THIS IS JESUS THE KING OF THE JEWS. (27:37)

Lukeでは:

And a superscription also was written over him in letters of Greek, and Latin, and Hebrew. THIS IS THE KING OF THE JEWS. (23:38)

つまり、どこにも「札」という和訳と同じ語はなく、superscritionとあるだけ。これは「上書き」、「表題」といった意味が一般的な語である。しかし、中世の人々は聖書はラテン語で読んでいたのであるから、ウルガタ聖書(標準的なラテン語聖書)の該当箇所はどうなっているかというと:

et inposuerunt super caput eius causam ipsius scriptam hic est Iesus rex Iudaeorum (Matthew, 27:37)

erat autem et superscriptio inscripta super illum litteris graecis et latinis et hebraicis hic est rex Iudaeorum (Luke, 23:38)

英語同様に、"superscriptio"とある。

さて問題のタウンリー・サイクル(Towneley Cycle)の聖史劇だが、キリストを磔刑にした兵士達は、この"superscription"について結構長々と話しており、その部分は約50行ほどある。まず、第1の兵士がその札に注意を向ける:

How, fellows, se ye not yond skraw? (l. 572)
(おい仲間達、あそこの書き物が見えないか。)

"skraw"というのは、scroll、つまり巻物などであるが、ここでは紙、つまり羊皮紙のことだろうか。

その数行後、今度は第4の兵士が言う:

Go we fast and let vs look
What is wretyn on yond boke,
And what it may bemean. (ll. 578-80)
(さあすぐに行って見てみよう
あの本に何が書かれているかを、
そしてそれが何の意味かを。)

という具合に、ここでは同じ書き物をbookとしているのである。この箇所の"boke"を、Stevens & Cawleyのedition (EETS S.S. 13, 14)のグロッサリーではscrollとしている。

更に第3の兵士は総督ピラトに向かって言う:

Pilate, yonder is a fals tabyll;
Theron is written naught bot fabyll. (ll. 602-03)
(ピラトよ、あそこに偽りの札がかけてある、
それには作り話しか書かれていない。)

と、ここでは同じものを"tabyll"と呼んでいる。これは上記のグロッサリーでは、panel (of wood)としており、他の箇所ではtabletという意味もある。つまり木の札の様な物が想像できる。物理的に見れば、十字架に貼り付けるわけであるから、上の絵画のように堅い木の札を釘などで打ちつけるのが理屈にかないそうだ。しかし、中世・ルネッサンスの絵画などでは、紙のように見えるものを打ちつけた場合も散見される:


つまり劇の作者や観客から見ても、これらの絵を描いた人から見ても、ラテン語聖書の"superscriptio"の物理的形状ははっきりしていなかったように思える。中世・近代初期においては、反逆者など大罪を犯した者の処刑された死体(あるいは、死体はバラバラに引き裂かれていることもあったので、特に頭蓋骨か)を木に縛り付けたり、釘で打ちつけてさらしたのであるが(これを"gibeting"と呼ぶ)、そう言う時に死体の主の正体と罪状を示す札などが付けられたようである。それは具体的にはどのようなものだったのだろう。

"book"という単語は古英語からある("boc")。現在では、閉じられ表紙をつけたものにこの語が適用されると思うが、かっては、広く書きものを指す言葉だった。Merriam-Webster Unabridged onlineでの最初の意味を2つ引用する:

a) (obsolete)  a formal written document; especially : a deed of conveyance of land(土地譲渡証書)
b)  a collection of written sheets of skin or tablets of wood or ivory

b)の意味では、今の本に近くなる。OEDでも、最初に書かれている、今は廃れた意味(Obs.)として:

A writing; a written document; esp. a charter or deed by which land (hence called bócland) was conveyed. Obs.

であるから、ここで十字架に"book"が掲げられていても問題ないわけである。但、特に"charter"(土地譲渡証書、王の特許状、憲章、宣言、等)などとしているところが気になるが・・・。

さて、これからは私ははっきりは分からなくて知りたいことなのだが、"book"という単語がいつ頃から「書かれた紙を綴じたもの」という意味でしかほとんど使われなくなったのだろうか。古英語でも既に"boc"は綴じた本を表したと思うが、では、単なる「書かれた紙」にはほとんど使われなくなるのはいつの時代だろうか。今でも「帳簿」といった意味では広く使われるが。

何かお考えのある方がおられれば教えて下さい。単なる感想でも、もちろん結構です。

2011/06/26

"Three Farces" (The Orange Tree Theatre, 2011.6.25)

ビクトリア朝の珍しいファース3本の貴重な上演
"Three Farces"

The Orange Tree Theatre公演
観劇日:2011.6.25  15:00-17:20
劇場:The Orange Tree Theatre

演出:Henry Bell
脚本:John Maddison Morton
編集:Colin Chambers
セット:Sam Dowson
照明:John Harris
作曲・演奏:Daniel Cheyne
衣装:Katy Mills

出演:

1. "Slasher and Crasher"
Edward Bennett (Lt. Brown)
Stuart Fox (Crasher)
Clive Francis (Blowhard)
Jennifer Higham (Rosa)
David Oakes (Slasher)
Natalie Ogle (Dinah)
Daniel Cheyne (John)

2. "A Most Unwarrantable Intrusion"
Edward Bennett (Intruder)
Clive Francis (Snoozle)

3. "Grimshaw, Bagshaw and Bradshaw"
Edward Bennett (Bradshaw)
Stuart Fox (Grimshaw)
Clive Francis (Towzer)
Jennifer Higham (Emily)
David Oakes (Bagshaw)
Natalie Ogle (Fanny)

他にDaniel CheyneがMaster of Ceremonies(進行役)として登場。
ウクレレの弾き語りで歌を歌ったりして、雰囲気作りをする。

☆☆☆☆ / 5

120本以上の劇を書き、ビクトリア朝のイギリス演劇界において一世を風靡したJohn Maddison Mortonのファース(笑劇)3本の、大変珍しい上演である。ビクトリア朝はイギリス史の中でももっとも演劇人口が多かった時代とされている。産業革命とともに中産階級が成長し、一定の豊かさと余暇を得るようになった。また産業化により各地に大都市が形成され、劇場も増えた。ロンドンのウエストエンドに今も営業を続ける多くの劇場がこの時代に出来、また、ロンドンで人気を博した公演や役者が各地を巡回公演した。そうした時代にもてはやされたのがfarces(笑劇)だった。このファースというジャンル、謂わばどたばた喜劇である。分かりやすい駄洒落やアクションからなる。細かい事は忘れてしまったが、今回の3本は大体こんな話:

"Slasher and Crasher" (1848)
ある年配の頑固な男が、自分が保護者をしている姪と妹を嫁に出そうとしていたが、求婚者が臆病者だということが分かり、結婚させるにはふさわしくないと言いだした。慌てたその二人は彼に勇気を見せるために、嫌々ながら決闘をすることになる。

"A Most Unwarrantable Intrusion" (1849)
やはり年配の男Mr Snoozleが、妻や娘を追い出して、ひとりの休日を自宅で楽しんでいると、突然人生に絶望した(と見える)若者が自分の庭の池に飛び込もうとするので押しとどめる。ところが、この若い男は、感謝するどころか、救ってくれたのはSnoozleが自分を一生養ってくれるつもりだと勝手に決め込んで、横着にも彼の家の居候になろうとするので、Snoozleは大弱り。何とか出ていかせようと、押し問答が始まる。

"Grimshaw, Bagshaw and Bradshaw" (1851)
気ままな独身で薬剤師のGrimshawの家に、突然隣人で顔見知りの女性Fannyがやって来る。彼女にほのかな好意を抱いていたGrimshawはぬか喜び。しかしFannyは部屋を一晩明け渡して使わせろと言って彼を追い出す。彼の部屋はクロゼットや、他の借間へのドアやら、色々な出入り口があって、身を隠すのに便利。その夜、次々と色々な人がこの部屋を使って逃げ隠れし、人違いなども生じて、大騒動が繰り広げられる。

3本とも、まったく馬鹿馬鹿しいお笑いの連続である。観客席からは笑いが絶えず、ビクトリア朝劇作家の考えた笑いは今も全くそのエネルギーを失っていないことが分かる。観客を色々な形で巻き込んで、劇場全体が笑いの波に巻き込まれるような雰囲気作りが上手い。テキスト以外にもアドリブを挟んだり、あるいはテキストに予め楽屋落ちの台詞が仕組まれていたりする。例えば"A Most Unwarrantable Intrusion"の終わりは、役者が台詞を忘れて立ち往生するということで終わるのだが、それ自体が台本に書かれているのである(多少アレンジして使われていた)。劇の間に2回、インターバルが入るが、その後には役者が歌を歌って再開。3本目の前には観客と皆で合唱。劇場が歌声で包まれる。おそらく伝統的なフォークソングみたいだったが、私は知らない歌で残念。

先日見た18世紀のSheridanの喜劇と比べて見ると、これらの劇はミドルクラス、それもかなり慎ましい人々を登場人物としており、演劇の広がった観客層を反映していると思われる。3本目の劇では、洋服代が払えなくて借金取りから逃げ回っている若者が登場するし、Grimshawは薬剤師である。結婚、そしてそれにまつわるお金の話が主な関心事なのは、18、19世紀の小説とも共通する。

これらの喜劇が、他の多くの喜劇や現代のテレビなどのコメディー・ショー、スタンド・アップ・コメディーなどと違う点はほとんど何の毒気もないと言うこと。多くのコメディーは、良くも悪しくも社会批評的要素を笑いの活力源として使う。多くの喜劇は、金持ちとか時代の権力者を笑い飛ばして庶民を喜ばせる。しかし笑いは諸刃の刃であり、時には、笑いの隠れ蓑の下で正面からは表現しづらい差別意識のはけ口になり、弱者、精神病患者、知的障害者、外国人などを種にして笑いを作りだし、更に、コメディーは文化との名目でそれを正当化したりする。しかし、これらのファースにはそういう毒気は全くない。強いて言えば、ミドルクラスの人々が、自分達の言葉使いやマナーの気取った様子を自ら揚げ足を取って笑っている。そのたわいなさが、すっきりとした笑いを生んで爽やかである。

俳優は皆実に上手くて欠点の見いだせない演技。Edward BennettはRSCがDavit Tennant主演で上演した"Hamlet"においてLaertesをやり、またTennantが怪我で休演した時に主役を代役して好評を博した俳優。

ビクトリア朝演劇はこういう感じだったのか、と楽しいお勉強になった。The Orange Treeは外れがない。学生料金でたった11ポンド払っただけだが、50ポンドのウエストエンドの喜劇と比べても全く遜色ない。

2011/06/22

Anton Chekhov, "Cherry Orchard" (National Theatre, 2011.6.21)

現代的な翻案テキストで観客の好き嫌いが別れる公演
Anton Chekhov, "Cherry Orchard"



National Theatre公演
観劇日:2011.6.21  14:00-17:00
劇場:Olivier (National Theatre)

演出:Howard Davis
脚本:Anton Chekhov
翻案:Andrew Upton
デザイン:Bunny Christie
照明:Neil Austin
音響:Paul Groothuis
音楽:Dominic Muldowney
振付:Lynne Page
衣装:Stephanie Arditti

出演:
Zoë Wanamaker (Ranyevskaya、ラネースカヤ)
James Laurenson (Gaev, Ranyevskaya's brother、ガーエフ)
Charity Wakefield (Anya, her daughter、アーニャ)
Claudie Blakley (Varya, her adopted daughter、ワーリャ)
Conleth Hill (Lopahin, a merchant、ロバーヒン)
Mark Bonner (Trofimov, a student、トロフィーモフ)
Tim McMullan (Simyonov-Pischik, a landowner、ビーシチク)
Sarah Woodward (Charlotta, a performer)
Pip Carter (Yepihodov, the estate manager)
Emily Taaffe (Dunyasha, maid、ドゥニャーシャ)
Gerald Kyd (Yasha, butler、ヤーシャ)
Kenneth Cranham (Firs, butler、フィールス)

☆☆☆ (3.5程度) / 5

イギリス現代演劇を代表する演出家数人のうちに入るであろうHoward Davisと彼のチーム、そして、Zoë Wanamaker主演であり、芸達者のJames LaurensonやConleth Hillも出るのでかなり期待をして出かけた公演。その割にはもうひとつ、あまり心を動かされない。以前に彼がやったロシア演劇、ブルガーコフの"White Guard"やニキータ・ミハイルコフの"Burnt by the Sun"があまりに素晴らしすぎた。また、私もチェーホフは何度も見すぎていて、観客としての感性が摩耗しているのかもしれない。しかし、十分満足は出来る公演。

チェーホフの代表作を国立劇場でやるとすると、ただそのまま伝統的にやってしまっては、何のための補助金付き公演か、ということになるだろう。当然、これまでのチェーホフとは違った個性を出した公演でないと観客や批評家は満足しない。今回は、Andrew Uptonの、translationではなく、versionによる、と書いてある、つまり翻案テキストによる上演である。他の翻訳と一部を見比べてみたが、非常に現代的で、日常的な言葉にすっかり「書き換えて」あるようだ。特に、完結した文章ではなく、細かく切って、文ではない語句を並べた台詞が多い。台詞の途中に斜線があちこちにあるが、これはそこで少し間を取るということだろう。目立つ部分を引用してみる:

Trofimov: I have to. In all conscience. That man. He will use you. Your vanity. He will use you again. Like a. He will. He is a worthless. / This is what I'm trying to say.

あるいは、

Lopahin: I'm going to. Tear. No. I'm going to. Explo--  Or? I'm going to . . .  Faint, actually. I'm going to pass out. I can't do this. It's torture. You are torturing me. you beautiful Silly.

という具合である。場面や人物によっては、かなり英語のスラングも使われる:

Lopahin: I've told you a thousand bloody, frigging, bloody, frigging times. Sorry . . . The cherry orchard and the land around the river needs to be sub-divided and sold off as holiday packages.

Zoë Wanamakerのエネルギッシュなラネースカヤは、知的なたくましさは目立っても、従来の上演で見られたようなロマンティックな憂いには乏しい。そしてこれは、翻案の言葉と共に、上演全体の雰囲気にも言えることである。帝政末期ロシア社会の状況を如実に浮き彫りにした公演であり、チェーホフの社会批評家としての側面を上手に生かしているが、その一方で、おそらく伝統的な上演スタイルが与えてくれたであろう感動はあまりなかった。

そのような上演スタイルであるから、地主階級以外の登場人物が特に印象的だった。ロバーヒン (Conleth HIll) は、ラネースカヤへの友情(愛情と哀れみか?)と、飽くことのない社会的、経済的成功への執念に引き裂かれた人物であることが良く表現されていた。使用人のヤーシャ (Gerald Kyd) の冷たさと計算高さ、そのヤーシャに残酷に捨てられるドゥニャーシャ (Emily Taaffe) の哀れさ、また、老いた執事フィールス (Kenneth Cranham) もヤーシャ以上に悲惨だし、万年学生のトロフィーモフ (Mark Bonner) の頑なでナイーブな理想主義、通りすがりの退役軍人の浮浪者のふてぶてしさーーそうした時代の変化を如実に感じさせる人々に血が通っていた。

ただし、地主階級にはまだまだジャンティールな雰囲気が溢れた時代だったはず。社会批評の劇としても、平民の台頭を描くだけでなく、過去から離れられずにもがく地主階級の哀れさを、淡いロマンティックな色彩に終わらせずにしっかり反映する必要があると思う。今回の公演では、どの人物も変わらないスタイルでしゃべるので、階級の違いがあまりはっきり出ず、アーニャとかワーリャの魅力が削がれたのではないだろうか。James Laurensonは素晴らしい俳優だが、彼のガーエフはあまりにも弱々しさが目立ち、もう少し地主らしい威厳のかけらがあっても良いように思えた。

古典の台詞を中途半端にいじって上手くいくことは非常に少ないということを痛切に感じた公演だった。「翻案」ではなく「翻訳」で、しかし、同じように、ロマンティシズムを避け、社会批評を強調した上演は十分可能なはずである。

セットも工夫に溢れていた。よくありそうな田舎の明るい避暑地の雰囲気ではない。どっしりした木材の屋敷。しかし、ペンキがはげ、カビが生えたようなまだらな色で古びて朽ちそうだし、ガラスも汚いまま。灰色で暗い倉庫の壁のようでもある。オリヴィエのステージの高い天井へとそびえる大きな電柱が2本作られ、うっとうしい電線がたくさん渡されている。鉄道の響きも聞こえ、やっと近代工業社会の仲間入りしたロシアを感じさせる。しかし、暖房はオイル・ヒーターらしきもの。壁には電灯ではなく、ロウソクがともされている。男達は、やはりチェーホフの上演でよくありそうな茶色のコットン・ジャケットではなく、ダークスーツを着ている者が多い。使用人のフィールスやヤーシャもスーツにネクタイ姿で、イギリスのお屋敷の執事のようである。ロバーヒンはシティーのやり手の銀行家のようだ。一方、ラネースカヤや娘達の服装は地味で、質素であり、庶民とあまり変わりない。

折しも、イギリスでは予算の大幅カットで庶民が苦しんでいるし、日本ではそれでなくても不況だったのに、大地震と原発事故で国の将来は暗い。ヨーロッパ全体では、ギリシャなどの経済危機が引き金となって、リーマンショック以上の金融危機を起こすのではないかと恐れられている。一方中国やインドなど、これまで貧しかった国々の台頭はめざましい。ラネースカヤ一家を被う不安感と、現代の豊かな先進国の人々が感じる不安との間に、共通するものを感じさせるべく意図された現代的な公演だと言えるだろう。惜しむらくは、テキストの翻訳・翻案において、もっと繊細さと原文への敬意が欲しかったと思う。

デイリー・テレグラフのスペンサー曰く、「Andrew Uptonは、彼のスクリプトと共にテムズ川に投げ込まれるべきだ」! 毒舌ではあるが、大御所Howard Davisの公演にこれだけのことを言うなんて、彼は偉い! 

2011/06/19

Richard Sheridan, "The School for Scandal" (Barbican Theatre, 2011.6.18)

Alan Howardの出演と面白い味付けで充分楽しめた!
Richard Sheridan, "The School for Scandal"

Barbican Centre 公演
観劇日:2011.6.18  14:15-17:25
劇場:Barbican Theatre

演出:Deborah Warner
脚本:Richard Brinsley Sheridan
セット:Jeremy Herbert
照明:Jean Kalman
音響:Christopher Shutt
音楽:Mel Mercier
Song Writer:Duke Special
Movement:Joyce Henderson
衣装デザイン:Kandis Cook
衣装スーパーバイザー:Binnie Bowerman
ビデオ:Steven Williams

出演:
Alan Howard (Sir Peter Teazle)
Katherine Parkinson (Lady Teazle, his wife)
Matilda Ziegler (Lady Sneerwell, Sir Teazle's neighbour)
Aidan McArdle (Joseph Surface)
Leo Bill (Charles Surface, Joseph's younger brother)
Gary Sefton (Snake, Lady Sneerwell's friend / Sir Harry)
Cara Horgan (Maria, Sir Teazle's ward)
Vicki Pepperdine (Mrs Candour)
John McEnery (Rowley)
John Shrapnel (Sir Oliver Surface)
Stephen Kennedy (Crabtree)
Harry Melling (Sir Benjamin Backbite)
Adam Gillen (Moses, a Jewish money-lender)
Christopher Logan (Trip, servant of Joseph Surface)
Joseph Kloska (Careless)
Laura Caldaw (Lady Teazle's maid)

☆☆☆(3.5位)/ 5

この公演に関してはかなりはっきりと好き嫌いが分かれ、有力劇評家はかなり辛い点数をつけ、あるいは酷評をしていることは先日ブログで書いた。それでへそ曲がりな私はかえって見たくなり、やっと楽日に見に行った。今年の新年には同じくSheridanの代表作のひとつ、"The Rivals"をHaymarketで見ているのだが、台詞がさっぱり分からなくて完全な空振りだった。何しろ洒落たウィット溢れる台詞を売りものとする劇作家であり、18世紀だから、結構難しい。それで今回は前もってテキストを買って読み始めたが、2ページも読むと眠くなり、直ぐに挫折・・・(これは後で後悔。やっぱり真面目に読んでおけば良かった)。ウィットを競うような喜劇、私は関心を持てない。公演を見た今でも、個人的にはテキスト自体は大して面白いとは思えない。でもかなり酷評されたDeborah Warnerのステージングは、私には大変楽しかった。それを見た方には分かりやすいが、National Theatreの"Mother Courage and Her Children"の時の雰囲気にかなり近い感じがする。スタッフも、照明、音楽、作曲などは同じメンバーだ。色んな布とかパネルなんかで、"Act II, Scece 1 Lady Sneerwell's room"なんて知らせたり、ロックの大音響を響かせたり、背景に大きな映像を映したりする。また、衣装は18世紀の服と現代服を混ぜて使っているが、このあたりはシェイクスピアの上演などでも良くあること。全体として見ると、それ程ビックリさせるような味付けではなく、Rupert Goold程でなくても、ルネサンス劇上演なら大抵の演出家がやる程度の現代的な演出であり、劇の内容と自然に溶け込んでいたと思う。今年の1月に見たPeter Hallの"The Rival"は、これと比べると古色蒼然としていて、古典の名作を神棚に供えた、という感じか。そういうオーソドックスな公演も必要だと思うが、私には今回の味付けの方がずっと面白い。

但、私にはどちらも英語で細かいウィットを理解するのは難しすぎたのだが、"The Rivals"を見た時にはかなりコンスタントに客席から笑い声が上がっていたと思うが、今回は終わり近くの屏風のシーンあたりまでは観客が静かだったのはどうしたことだろう。テキストの違いなのか、上演スタイルが災いしたのか。Warnerの演出が、劇の魅力と逆行する方向で働いたと書いていた劇評家もいたと思う。BBC TwoのReview Showの評者のひとりは、Sheridanのテキスト自体は、英語の劇でベスト10に入る名作のひとつで、言葉が素晴らしい、と言っていたが・・・。ウーム、その魅力は私にはわかりません・・・。前半は、そうしたウィット溢れた台詞の応酬が主で、私はかなりうとうと。英語が右から左に流れていく、という感じだったが、後半は、プロットが煮つまってきて楽しくなり、笑えるところもあって、最後には十分に楽しい気分で見終わり、大いに満足して帰宅。

プロットの主な柱は2つ。ひとつは、年配の独身者だったSir Peter Teazle (Alan Howard) が田舎の慎ましいおぼこ娘を仕留めたつもりだったが、結婚してみたらこのLady Teazle (Katherine Parkinson) が贅沢で、反抗的で、流行ばっかり追っていて、若い男と浮気さえしかねない、(彼から見ると)手に負えない悪妻に変身してしまって往生しているという話。Chaucerの"The Merchant's Tale"の18世紀版である。問題は、Sir Peterはいつも奥さんに腹を立てているのだが、それでも彼女を愛して捨てられないということ。

もうひとつの大きな柱は、Sir Teazleの旧友で、アジアでの事業で大金持ちになったSir Oliver Surface (John Shrapnel) がイングランドに帰ってくるが、子供がいないので甥達、Joseph & Charles Surfaceのどちらに遺産の大半を残してやるか、自分の正体を隠し、Stanleyという貧しい老人や、Mr Premiumという金貸しに化けて彼らと会い、人格の品定めをする、という話。Charlesはとんでもない放蕩者 (libertine) と見られていて、彼の家のパーティーではさながら『十二夜』のSirToby Belchである。一方、Josephの方は立派な身だしなみと態度で、相続人にふさわしいように見えるが、2人とも中身は見かけとはかなり違っていて、Charlesが暖かい慈悲の気持ちを持ち、Sir Oliverへの愛着を忘れていないのに対し、Josephは冷酷で自己中心的な守銭奴だった。

この2つ目のプロットに、お金持ちの若い娘で、Sir Teazleが後見人をしているMariaのお婿さん探しが絡む。やはりJosephとCharlesが候補として上がってくるが、放蕩者のCharlesよりもJosephのほうが遙かに有利に見えるが・・・。

こうしたプロット全体を包むのは、Sir Teazleの隣人、Lady Sneerwellと彼女のサークルの常連、Mrs Candour, Crabtree, Sir Benjamin Backbite, Snake, Joseph等、が繰り広げるゴシップ合戦。その中に笑いが散りばめられていると思うが、これが私の英語力ではなかなか・・・。

Deborah Warnerの意図は、このLady Sneerwellのグループのゴシップ合戦を、現代のセレブリティー/タブロイド文化と関連させて、劇を18世紀のかび臭い装飾に飾られた古典から、現在のイギリス人に身近に感じられる公演に変身させることだったようだ。作品の真価を損ない、上手くいっていない、と感じた人も多かったようだが、何の先入観念もない私としては、面白かった。Peter Hallみたいにやられたら、また熟睡してしまっただろう(笑)。

「何幕何場、場所はどこ」と書いたパネルなどを出すのは、分かりやすいだけでなく、全体を紙芝居みたいにして、フィクション性を高める面白い効果がある。ただ、皆がやり出すと陳腐になると思うが。

演技はベテラン俳優を中心に大変しっかりした伝統的な演技だった。Alan Howardは台詞回しが凄い! 彼は既に73歳とのことだが、彼の演技だけでも十分に見る価値のある公演だった。私は大昔、BBCテレビのシェイクスピア・シリーズで彼がコリオレーナスをやったのを見て、能力の高い俳優の凄さを痛感したことを思い出す*。Leo BillのCharlesは、Tシャツにジーンズのような衣装で、台詞も現代の若者の日常的な話し方みたいな味付け。基本的にその意図は結構なのだが、あのどもるような言い方だけはどうにかならないものか。非常にぎくしゃくして聞きづらい。Young Vicの"The Glass Menagerie"の際も、そのデフォルメされた台詞回しに大変違和感を感じた。ああいう言い方がかえって良いと思う人も多いだろうが私は大いに白けた。他の俳優では、Sir OliverのJohn Shrapnelの良く響く声、Aidan McArdle(RSCでRichard III)も、しっかりした台詞回しと豊かな表情で楽しませてくれた。脇役の人達もカラフルで、個性豊かな演技。装置の豪華さもそうだが、NationalやRSCの大規模なアンサンブル公演と比べて、演技も隅々まで引けを取らない出来だ。

始まる時は、数人の俳優が並んで出て来たり引っ込んだりしてファッションショーみたいなスタイル。客席に手を振ったりして、観客とのコミュニケーションをはかろうとする。大したことではないが、雰囲気造りは良い。なかでも、そうした脇役の1人として出て来たLady SneerwellのメイドのLaura Caldawは、大した用も台詞もないのにステージに出ている時がとても多くて不思議だった。一見して目をひく美人で、スタイルが大変良く、ちょっとした身体表現が目立ち、ステージの華やかさを増していた。プログラムのキャストの紹介を見ると、俳優ではなく、プロのダンサーだった。彼女が持つ、俳優にはない身体的なセンスを生かそうという演出家の意図だろう。

この劇を見て、中世以来のイギリス演劇の伝統が綿々と18世紀まで続いていると思った。なにしろ役柄のリストを見れば寓意的な名前が何人も出て来る。つまり多くの登場人物がVices(悪徳)なのであり、これが一種の近代「道徳劇」であることは一目瞭然だ。ちょっと言葉を古くすれば、チューダー・インタールード風になるかな。更に、シェイクスピアでも結婚候補者の品定めは散見されるモチーフと思うが、インタールードでは、"The Marriage of Wit and Science"や"Fulgens and Lucres"のように複数の劇で見られ、ひとつの伝統を形作っていると言っても良い。結婚というモチーフは、世俗化した道徳劇において、カトリック的救済への道程に取って代わったモチーフのひとつと言えるだろう。更に、Charlesのキャラクターからは、「帰ってきた放蕩息子の劇」 (prodigal son plays) の伝統との関連もうかがえる。また、これは演劇に限らないが、既に触れたように、年寄りの夫と若い妻の結婚の不釣り合いは、中世文学以来頻出するテーマ。(以上、私のこじつけとも言えます。)

*Alan Howardは、病気のためもあり近年ほとんど演劇の仕事をしていなかったようだ。私もステージで見たのは初めて。しかし、今回生で見て、Ian McKellenとかPartrik Stuart、Michael Gambon等と並んで、世代を代表する男性の名優として評価されるべき人だろうと思った。演技は良く分からない私ではあるが、台詞の言い方が一段高いところのレベルにある気がする。彼に関心を持たれる方はこの記事もどうぞ(英語)。不必要なくらい車椅子に乗ったシーンが多いのがやや不自然と思ったが、役の上のことだけでなく、Howardの体力を考えての演出かも知れない。これからも元気でステージで活躍されることを切に祈る。

2011/06/18

中世・近代初期のイングランドにおける裁判や陪審員

Frailty, thy name is woman!
("Hamlet" Act 1, scene 2, 146)

という台詞をつい思い出してしまったが、16日のBBC等のニュースによると、昨日出た判決で、イギリスの裁判の陪審員 (juror)、Joanne Fraillがフェィスブックで被告に陪審 (jury) の審議内容を教えてしまい、多額の費用がかかった裁判が無効になった。日本語でも報道されたようだ。

この結果、Fraillは法定侮辱罪に問われ、今度は自分が裁かれる側の被告となり、8ヶ月の実刑判決を受けて、収監された。しかし、服役態度良好であれば、4ヶ月で仮釈放される道が開かれるようだ。当人は自分のしたことの重大性をよく考えていなかったのだろう。実刑判決を聞いて法廷で半狂乱で泣いていたという。陪審員が審議内容の秘密厳守を強いられるようになったのはいつなんだろうか。

日本の場合は参審制であり、専門家である裁判官がそれまでの判例などを紹介して裁判員を法律上常識的なラインに落ち着くように指導することが考えられる。従って日本の裁判員の権限は大変限定されているが、イギリスの場合は、陪審員だけで有罪か無罪かを決定するので陪審員が間違ったことをするとその結果は深刻である。

イングランドでは中世以来陪審員の買収や恐喝などの事例は沢山あったようだ。中世の文献でも度々言及されている。また陪審に選ばれることが苦痛だったのも現代と同じだ。交通手段の発達していない大昔、陪審員が裁判に列席するには時間と費用がかなりかかった。陪審員となるのは国民の義務と見なされており、おそらく費用は陪審員の個人負担ではなかろうか。陪審員も含め、裁判官や弁護士など裁判関係者への饗応や贈り物もかなりあったようだ。しかし、国やその他の裁判の主催団体からは裁判費用はほとんど出ていなかった。裁判の主催団体は、国家、地方政府(シェリフなど)、大地主、教会等々色々だったが、基本は有料のサービスだった。遠方から裁判官や書記などがやってくる巡回裁判 (eyres, assizes, sheriff's tourn, etc.) などの場合、裁判関係者の宿泊や食事などは、開催地の地元で負担したと思うので、結果的に民事裁判を起こす者達による出費が多かったのではないか。そうすると、どこまでが単なるギフト、どこから賄賂、そして、単なる必要経費の支払いか、等の違いは非常に曖昧になる。更に、国は民事裁判についてはひとつの収入源、国による営利事業と考えていたふしもあり、裁判を起こすのは大変お金のかかることだった。

中世や近代初期の文学には、お金持ちは陪審にならないように代理を立てたり、罰金を払ったりしたが、貧乏人は陪審にならなければならない、なんて嘆きごとが書かれていたりする。陪審員としの出席を免除されるための料金(一種の罰金)がシェリフの重要な収入源だったりすることもあった。

ということで、農奴 (serf) ではなく自由民 (freeman) であっても*、実際に貧しい人々が陪審に参加するのは大変であり、中世から近代初期のイングランドの多くの地方では、陪審の顔ぶれは決まっていて、割合豊かな、コミュニティーの中心メンバーが繰り返し陪審員を務めたようである。また、中世においては、半ば職業的に陪審員を務める人もいたらしい。陪審員は、今とは全く逆で、地域を良く知り、被告などのことも知っている人の方が適当と考えられ、被告の地域での評判などについて証言したと思われる。裁判前に、案件について予め調べることもあったらしいし、また裁判中に陪審員が質問を行うこともあったようだ。

このように、中世から近代初期の裁判や陪審員については、現代の常識では思いもよらないことが沢山あり、非常に興味深い。私もまだまだ知らない事が沢山あり、今後も調べてみたいと思っている。ただ、昔の裁判制度自体が非常に複雑であり、陪審員についても、色々な本や当時の文学作品などで断片的な知識を得ているが、なかなかすっきりまとまった知識とならない。同じ中世・近代初期でも、時期や地域によって色々な違いがあるだろう。イギリス史や法制史に詳しい方、私が書いていることに間違いや捕捉などありましたら、コメント欄でお教え下さい。

*原則として農奴に裁判への列席義務は無かったし、陪審員になることも許されていなかったはずである。しかし、実際にはmanor courtsなど、農奴が地域の小規模な裁判に列席することはかなりあったようだ。

なお、現代の日本における陪審制導入の意義については、未完ではあるようですが、このサイトが簡潔で、歴史的意味も含めて分かりやすく述べています。

2011/06/16

BBC Oneの新ドラマ "Case Histories"

格好良い私立探偵の活躍するBBCの新ドラマ・シリーズ
"Case Histories" (BBC One)




私は読んだことないがKate Atkinsonという有名なミステリ作家の探偵小説を原作にしたドラマだそうである。現在、4回目まで放送が終わり、後2回。各回1時間でひとつのエピソードを2つのパートに分けて放送している。

主人公は元は型破りで組織におさまりきれない刑事で、今は組織を飛びだして私立探偵をしているJackson Brodie (Jason Issacs)。時代設定は現代。場所はエジンバラである。従って、楽しく難しいスコットランド英語が沢山聞けるし(私は英語字幕を必死で読んでいる)、エジンバラの黒っぽい歴史ある町並みや、郊外の美しい荒野が実にきれいで見応えあるショットが続く。その点では、最近のブログで書いた"Vera"や、同じくエジンバラが舞台の"Rebus"と共通する。(実は3月末に学会でエジンバラに行き、きれいな町で凄く気に入った。でも旅先で体調をこわし、這々の体で、予定を変更して早めに帰ってきた。終わりよければ、の逆でした。)なお、Jason Issacsの話し方はちょっとくぐもる感じで、方言も加わり、かなり聞き取りにくい。この人は、『ハリー・ポッター』の映画に出ているそうであるが、私はあのシリーズは1本も見てないのでこれが初めて。

彼のパーソナリティーがこの番組の大きな特徴であり、魅力だ。結婚していたが離婚し、時々可愛い娘Marleeに面会に行っている。この娘役の子役Millie Innesは、David Tennant主演のドラマ、"Single Father"に出ていた眼鏡をかけた女の子。ミニ美人というタイプではないが無茶苦茶可愛くて賢い。男親が持ちたいと思うような夢の娘を現実にしたような子だ。Brodieは元の奥さん (演じるのはKirsty Mitchell)とは、勿論仲が悪い。テレビドラマの多くの警官や探偵のように、極端な仕事中毒なのがまずかった気配である。3、4回のエピソードでは、元の妻がその娘を連れてニュージーランドに引っ越すというので、娘と離れたくないBrodieとしては大弱りである。

主役のJackson Brodieを演じるJason Issacs、格好良い男だ。男性が見ても素敵だと思わざるを得ない。精悍で鋭い眼光、整った目鼻立ち、たくましいがごついという程ではなく、イギリス人としては割合スレンダーな体型。年齢の割には毛髪もちゃんとある(^_^)。Issacsは先日ドラマの紹介を兼ねてBBCのモーニングショー、"Breakfast"に出ていたが、彼自身はクライム・ドラマは全く関心が無く、何故人が見るのか分からない、と言っていた。但、このドラマは犯罪よりも、登場人物のキャラクターに焦点が当たっているので、関心が持てた、とのこと。

一番格好良かった頃のショーン・コネリーのジェイムズ・ボンドを思い出す。というわけで、Brodieのまわりには、彼が媚びなくとも自然に女性が集まってくる。元の職場の警察の同僚の女性刑事 (Amanda Abbington) や、きれいな女優 (写真のNatasha Little) やら(あまり売れてないけど)、彼が調査を引き受けた事件の関係者の女性達も彼に近づこうとする。時には、彼を利用しようという打算でお色気を振りまく者もいる。女性視聴者には、格好良いIssacsを見るのが楽しいだろうし、男性視聴者は主人公になりきって、もてる男の気分を体験するのも良いかも知れない。私の場合、あまりにも違いすぎて、彼になりきれないな(苦笑)。

そういう事だから、主な登場人物、特にレギュラーは皆女性。いつもBrodieに、給料をちゃんと払ってくれない、と文句を言っている事務所のセクレタリー(Zawe Ashton)もなかなか良い味がある。

扱う事件は結構シリアスな面もあるし、Brodie自身も自分が若い時に殺され、犯人が分かっていない姉の殺人事件を心の中に引きずっているらしい。しかし、一方で、行く方不明の猫を捜したりなど、コミカルなところもあるドラマ。音楽や台詞も軽いタッチで楽しい娯楽作品に仕上がっている。特に音楽が良い!

番組のホームページはこちら。イギリス国内では、初回のエピソードも6月27日までiPlayerで視聴可能。如何にも世界市場、特にアメリカを意識して作られた感じのするエンターティンメント・ドラマ。日本でもどこかの有料チャンネルで放映されるのは確実だろう。出来ればNHKなどでやって欲しいが。ちなみに、昨年見たドラマで、BBCの"Five Daughters"とか、"Silence"など、地味だが最も素晴らしいと思った作品は、日本での放映はおろか、英語版DVDで発売もされてないようで、イギリスでも再度見ることが出来ないのは大変残念。むしろNHKでやるべきはこういうドラマか。特に"Five Daughters"は本当に多くの人に見て貰いたい。

上の写真は主演のJason Issacsと彼の恋人を演じるNatasha Little。下は娘役のMillie Innes。私は子供がいないので、こんな賢い子がいるBrodie君がうらやましいぞ。



下は、"Single Father"でDr Whoと一緒の時。子役はどんどん成長するね。


要するに、Millieちゃんが出ているからこの番組が好きなのかも知れませんね。パパの方は付録(^_^)。

2011/06/14

Rory Clements, "Revenger" (2010: John Murray, 2011)

エリザベス朝を舞台にしたスパイ小説
Rory Clements, "Revenger"
(2010; John Murray, 2011)   420 pages.

☆☆☆☆/ 5

Rory Clementsのチューダー朝スパイ小説、John Shakespeareシリーズ第2作目。Clementsは既に3冊目の"Prince"をハードカバー版で出版している。私はこういう歴史捕物帖が大好きだが、C. J. SansomのMatthew Shardlakeシリーズと並んで、このClementsのシリーズはとても面白く、今後もペーパーバックスが出る毎に読みたいと思う。Matthew Shardlakeは弁護士で、知的で穏和、体に故障も抱えている男であり、色々な事件に関わるのは全く本人の意に反している。一方、John Shakespeareはそれが本職の、心身共にたくましいスパイ(intelligencerと呼ばれている)。Sansomが今までのところヘンリー8世の時代を扱っているのに対し、Clementsのシリーズはエリザベスの治世である。どちらも、君主のまわりで渦巻く権力闘争、宗教問題、スペインなどのカトリック教国との闘争、要人暗殺計画、当時の学問など、クライム・ノベルの要素と歴史的背景が絶妙に組み合わされていて、歴史エンターテイメントとしては満点に近い。

今回の物語ではエリザベス1世晩年において女王の寵愛を受けたRobert Devereux*, Earl of Essexが、老齢となり徐々に衰えていく女王の後継を狙って、王家の血を引くArbella Stuart(別の綴りではArabella Stuart)に近づき、あわよくば結婚しようと画策する。また、Devereux一家の母、Lady Lettice Knollys、Robertの姉で絶世の美女Penelope Richなどの暗躍により、王室に反抗する野心的勢力が結集する。EssexとArbellaの結婚を阻止し、エリザベスを守ろうとする若き政治家Robert CecilはEssex側と、諜報戦を繰り広げる。物語の始まる時、かってspymasterのSir Francis Walshinghamに使えていたShakespeareは、スパイ業を引退して貧しい子供達のための学校を営んでいる。しかし、プロテスタント急進派の迫害に苦しみ、また妻のCatherineは頑固にカトリックの信仰を守っていて、前作でも出て来たカトリック・ハンターのRichard Topcliffeらに付け狙われており、一家は危険な状態である。そうしたことで、夫婦の仲も危機に瀕している。そんな時に、ShakespeareはEssexとその手下の残忍で富裕なアイルランド人Charles McGunnに無理矢理雇われ、アメリカのRoanoak植民地の全滅と、その生き残りと見られ、ロンドンで目撃された女性Eleanor Dareの消息についての調査を命じられる。しかし、彼がEssexに雇われたのを知るRobert Cecilは、John Shakespeareに、女王の世を守るという大儀のために二重スパイとして働くよう説得する。Shakespeareは、彼の本心を見破られないように細心の注意を払いつつ諜報活動をするが、McGunnとその手下のSlyguffは、Shakespeareを疑ってつけ回す。

Devereux家のPenelope RichとLettice Knollys、そしてArbella Stuartの後見人、Beth of Hardwick (Elizabeth Talbot, Countess of Shrewsbury) など、チューダー朝の歴史において著名な女性達、更に、カトリックの宣教師Father Robert Southwell、カトリック・ハンターのRichard Topcliffe、そして勿論、架空のJohn Shakespeareの実在した兄Williamなど、カラフルな歴史上の人物が次々と出て来るのもこの小説の大きな魅力だ。

だからといっても伝記文学を読んでいるような感じではない。終幕はどんなクライム・ノベルと比べても引けを取らないくらい緊迫感があり、魅力的な主人公とその意気盛んな妻、そしてワトソン役の忠実なBoltfootなど、探偵小説としても一級である。C J Sansomの作品と共に、日本語に翻訳されればきっと多くの人が魅了されると思うし、映画になっても面白いに違いない。

Sansomの作品とは違い、やや古い言葉を使ってあり、チューダー朝の雰囲気を伝えている点を高く評価したい。しかも親切にも、巻末にはグロッサリーと、あまり知られていない歴史上の人物に関する解説、歴史的背景の説明もあり、歴史小説としてかなり楽しめる。シェイクスピアに兄がいたという設定なので、シェイクスピアなどのルネサンス劇ファンにも楽しい作品だ。更に、Arbella Stuartの家庭教師で、Christopher Morleyという実在の人物が出てくるのも面白い。スパイとしても活動していたルネサンスの天才劇作家Christopher Marloweは、私の記憶するところでは、幾つかの記録において、Christopher Morleyと記載されている。学問的にどのような評価かは分からないが、MarloweがArbella Stuartの家庭教師と同一人物であったかもしれないという仮説は1930年代から唱えられている、とWikipedia英語版も触れている(この点については、後で何かの本でもっと詳しいことが分かれば、加筆修正したい)。

しかし、一番大事なのは、ここに描かれた事件を動かす大きな原動力が、タイトル"Revenger"でも示されているように「復讐」であるということだ。政治、宗教、権力闘争の狭間で慎ましい庶民が意味もなく惨殺され、彼らが復讐の鬼となり、復讐の連鎖が始まる——現代にも当てはまる悲劇でもある。

なお最近の作家は、出版社により立派なウェッブサイトを開設しているが、Rory Clementsのサイトには、小説に登場する人物や場所の解説があり、小説を読みつつ見ると参考になるし、歴史の知識も豊かになる。

* "Devereux"の発音は、Merriam-Webster Collegiate Dictionary (online ed.)では、「デヴァルックス」という発音が最初に載っており、「デヴァルー」という発音もあるらしい。日本版ウィキベディア等では後者が記載されている。Rory Clementsのウェッブサイトでは、前者が記されている。おそらく、前者が元々の発音ではないか。詳しい方がいらしたら、コメント欄で教えて下さい。

私はRory Clementsの第1作目、"Marytyr"についても感想を書いています

2011/06/12

Terence Rattigan, "Cause Celébrè" (Old Vic, 2011.6.11)

男性社会のダブル・スタンダードを描く
"Cause Celébrè"

Old Vic Theatre公演
観劇日:2011.6.11  14:30-17:10
劇場:Old Vic

演出:Thea Sharrock
脚本:Terence Rattigan
セット:Hildegard Bechtler
照明:Bruno Poet
音響:Ian Dickinson
音楽:Adrian Johnson

出演:
Anne-Marie Duff (Alma Rattenbury)
Timothy Carlton (Francis Rattenbury, Alma's husband)
Oliver Coopersmith (Christopher Rattenbury, their son)
Jenny Galloway (Irene Riggs, maid of the Rattenburys)
Tommy McDonnell (George Wood, servant of the Rattenburys)
Niamh Cusack (Edith Davenport)
Simon Chandler (John Davenport, Edith's husband)
Freddie Fox (Tony Davenport, their son)
Lucy Robinson (Stella Morrison, Edith's sister)
Rory Fleck-Byrne (Randolph Brown)
Patrick Godfrey (Judge)
Nicholas Jones (O'Conner, defence barrister for Alma)
Richard Clifford (Croom-Johnson)
Richard Teverson (Caswell)
Rory Fleck-Jones (Montagu)
Michael Webber (Sergeant Bagwell)

☆☆☆ / 5

Rattiganの戯曲、そしてAnne-Marie DuffとNiamh Cusackという大変個性豊かな女優が2人揃い、楽しみにしていた公演だったが、いささか期待外れだったというのが正直な感想。それでも最後はかなり引き込まれ、見て良かったと思った。この戯曲のメインプロットは1930年代半ばに現実に起こった殺人事件に基づいている(裁判が行われたのが35年)。また、書かれたのは晩年Rattiganが癌に犯され、死が近づいた頃。実際、この劇の初演の年に亡くなっている(1977年)。更に、元々BBCのラジオ・ドラマとして書かれ、闘病で苦しみつつ、それを他人の手も借りてステージ用に書き直したそうである。そうした幾つかの条件が不利に働いたのかも知れない。基本的なプロットやコンセプトは申し分ないが、キャラクターのディテールの書き込み不足ではないだろうか。休憩を除くと2時間20分程度の劇だが、もっと長くても良いと思う。

メイン・プロットは、上記のように現実の事件に基づく。かなり歳を取った夫を持つ若い妻Alma Rattenbury (Anne-Marie Duff)が家の中の雑事をする召使いの求人に応じてやって来たGeorge Wood (Tommy McDonnell) に会って、採用するところから劇は始まる。Georgeは17才。しかし年よりも成熟して見えるという設定。一方、Almaは30代の終わりで、20歳以上年上。しかし、2人は高齢でで耳も遠い夫Francisをそっちのけにして関係を結ぶ。ただ、このあたりの経緯はわずかしか演じられず、何故そうなってしまったのか良く分からない事が不満。後の裁判で明らかになるが、Georgeはやがて横暴になり、Almaを束縛するようになる。ある時、Almaと夫のFrancisが仲むつまじそうに見えたのに激しく嫉妬し、半狂乱になったGeorgeは、Francisを金づちで殴り殺す。後半は、GoergeとAlmaの裁判のシーン。裁判の焦点は、Almaが殺人の共犯であったか、つまり、彼女に殺人罪が適用されるべきかどうかである。

Rattiganの全くの創作であるサブ・プロットでは、Almaの裁判で陪審員を務める女性Edith Davenport (Niamh Cusack) が描かれる。彼女は上品なミドルクラスの家庭の主婦で、夫Johnと一人息子Tonyと暮らしている。陪審員に選ばれたと通知があった時、彼女は何とかその仕事を逃れようとする。裁判所で、自分はAlmaについて新聞記事を読んで彼女への嫌悪感で一杯になっているので、陪審員として公平な判断ができない。従って陪審の勤めから免除して欲しいと主張するが、認められず、やむを得ず裁判に参加する。一方、彼女自身は、夫が繰り返し浮気をしているのを知り、離婚をしようとしている。息子Tonyも母親を捨てて夫の方を選ぼうとしており、彼女自身の人生も大きな転機を迎えている。

この2つのプロットは上手く補完し合うように計算されている。Almaはやや幼い、常識外れのところがあり、それで年齢や階層の違いにも関わらずGeorgeと直ぐ親しくなる。それ以前にも、メイドのIreneを友達として扱っており、老いぼれたFrancisを大事にするのも、そういう彼女の愛すべきナイーブさ故である。しかし、世間は、そして新聞は、彼女を邪悪な、魔性の女であると、激しく糾弾する。殺人を犯したか犯してないかということ以前に、彼女が20才も年下の男と関係を結んだというのがどうしても許せないのである。裁判では、検察官は、殺人事件の裁判ではなく、彼女の道徳犯罪を裁いているような弁論を展開する。裁判官も、彼女の弁護士も、「彼女が如何に汚らわしいかは別にして、あくまで殺人の共犯であるかどうかを証拠に基づいて判断するように」と陪審員に強調し、裁判所全体が男社会のモラルに縛られていることが分かる。

一方、Edithの夫Johnは、結婚を何とか元の鞘に収めたいとして、妻を説得する。Edithは、夫との肉体関係に興味を示さず、「私は結婚のその面には関心がないの」と姉に言う。夫のJohnはそれを口実にして自分の浮気を正当化し、更には、よりを戻せても自分が時々浮気をすることは許されるべきだ、と当然のことであるかのように公言する。更に、殺人犯のGeorgeと同じ年頃の息子のTonyは、父親にくりかえし売春宿に連れて行ってくれとせがみ(物語の設定は1930年代)、ついにはそれを実行したようで、性病を貰ってくる。Edithは最初、ビクトリア調以来の保守的なミドルクラスのモラルに凝り固まった人のようで、Almaについても大変汚らわしいと感じていたのだが、こうした男達のダブル・スタンダードを身をもって味わううちに、180度考えを変え、最後には、他の陪審員を説得して、Almaの無罪判決を導くこととなる。

当時の社会における、男性に好都合なダブル・スタンダードを、2人の女性の運命を通して明らかにしていて、なかなか面白い筋書きだ。勿論、今は時代が違い、罪を犯してない女性にこれほどひどい扱いをすることは、日本でさえないだろう。しかし現在のイギリスや日本でも、中高年の男が成人になるかならないかの若い娘とスキャンダルを起こしても珍しいとも思われないが、40才前の女性が高校生と関係を持ったりしたら、男性の場合とは、世論やマスコミの見方は相当に違うのではないだろうか。あるいは、この劇のAlmaやEdithのケースの様に、結婚生活で何らかの理由によりセックスが無い夫婦において夫が浮気を繰り返したらとしたらどうだろう。彼はだらしないと笑われる程度か、あるいは、それは妻のせいだ、と今でも言う人も多いかも知れない。一方、男性が不能で女性が不満を感じて浮気をしたらどうか。今でも、ふしだら、とか、家庭を壊す悪妻、夫への理解がない、などと非難されるのではないか。ダブル・スタンダードはまだ無くなってはいない気がする。

Rattiganらしい内容に好感を持ちつつも、残念ながら、私にとっては舞台が盛り上がりに欠けていたのは否めない。私が座っていたのが安い席で、ステージから遠く、しかも柱で視界が一部さえぎられたのも災いしただろう。もっと良い席での観劇、あるいは、小さな劇場での上演だったら大分違った感想になったかも知れない。既に書いたように、AlmaとGeorgeの関係の書き込み不足も一因と感じた。更に、Anne-Marie Duffはボーイッシュで中性的な感じの俳優であり、この劇でもそういう印象だが、この役柄ではもっとフェミニンな印象を出した方が良かったのでは無いだろうか。一方、彼女自身と周囲の人々(姉、夫、息子)のミドルクラスの倫理観の狭量さと葛藤するNiamh Cusakの演技は、たいへん説得力があった。やはりRattigan自身の生い立ちにより、こうしたキャラクターの方が、よりリアリティーを持って書き込めるのかも知れない。Cusakは、天性の表情の豊かさを持った女優で、いつ見ても感心する。他の配役では、Nicholas Jones演じる気取った法廷弁護士、そっけないが内面の暖かさを感じさせるJenny Gallowayのメイド、そして、伝統的な倫理観を代表するLucy Robinson演じる冷たい姉など、楽しめる演技だった。

セットは大変立派で、広いOld Vicの舞台を行かし、ステージの上に2階にあるもうひとつのステージを作ったり、舞台に2つの場所を設定して、照明を当てる場所によって、映画のフラッシュ・バックに近いスタイルで見せたり(これは脚本でも指定されている)と、工夫のある上演だった。

Edithの始末に負えない馬鹿息子Tony役で出ていたFreddie Foxは何処かで見たと思ったら、今BBC 2で放映中の心理スリラー"Shadow Line"に、若いギャング(かつおそらく高級娼夫)の役で出演していた。美しいブロンドの若者。彼はEdward Foxの息子で、Emilia Fox(ドラマ"Silent Witness"等)の弟。父親もダンディだが、美男美女の姉弟。

(追記)
ふとブログのサイド・バーを見ると、ラベルの「イギリスの演劇」が100だった。イギリス演劇関係で100ポスト書いたと言うこと。もちろん、毎回、観劇の感想ではなく、演劇についての情報や演劇台本を元にした映画についての文章なども含まれるが、しかし大多数は観劇の感想だ。旧ブログでは、「演劇(イギリス) (45)」となっており、合わせて145。

イギリスにいる間、週に1本は見ている。かなり心配な健忘症故、内容は直ぐに忘れてしまうが(だから書くのだが)、こうして感想を残しておくと自分でもよく読み返し、以前に見た舞台がよみがえる。でも、全く忘れて、「えっ、本当に見たのかな」、という時もあって、自分の老化が恐ろしいが・・・。

観劇の感想を通して、自分が何を考えてきたかも良く分かる。舞台は私の人生の先生だ。イギリスでは日頃人と接することが少ない私にとって、舞台の上の人々が世界のことを教えてくれる。そう思うと、汗をかき、声を張り上げて演じてくれる役者さんやそれを支えるスタッフの方々に、お礼を言いたい気持ちで一杯になる。

今夜は一種の記念日みたいな気持ちになった。100ポスト目が大好きなラティガンの演目だったのも嬉しい。

2011/06/10

ITV Oneのドラマ、"Injustice"放送中




月曜日のブログで一言だけ触れたITVドラマ"Injustice"(5回連続で、今週金曜日まで)を3回目まで見た。大変面白い。クライム・ドラマというより、登場人物の過去を掘り起こす心理スリラーという色合いのドラマ。

腕利きの法廷弁護士 (barrister) 、William Traversは、殺人の嫌疑をかけられた過激な手段を使う動物愛護団体に属する被告を弁護し、勝訴して無罪放免になった。Traversは被告の無罪を信じていたからこそ弁護したのだが、勝訴の直ぐ後、実はこの被告が自分は殺人を犯していた、と彼に告白する。大変なショックを受けた弁護士は精神を病んで回復に大変な時間を要した。彼はロンドンでの法廷弁護士をやめ、ノリッジでやり直すが、もう殺人犯の弁護は引き受けないこととしていた。2年後、Traversが弁護して無罪となった犯人が殺害されたのが発見されるが・・・。一方、彼の学生時代の親友Martin Newell (Nathaniel Parker) が殺人容疑で裁判にかけられ、Traversに弁護を依頼する。学生時代にNewellとガールフレンドを争い、その女性を親友から奪って結婚して今に至っているTraversは、Newellに大きな借りを感じていた。そのため、これまでのポリシーを破り、渋々ながら弁護を引き受ける。しかし、殺人事件を再び担当することで、彼は自分の中に潜んでいる過去の病魔や不吉な亡霊を呼び覚ますことになる・・・。


Traversを演じるJames Purefoy(写真左)の深い陰を持つキャラクター作りが大変印象的。あまり格好良すぎないところがかえって役にはまっている。また、Nathaniel ParkerやTraversの妻の役のDervla Kirwanも存在感充分。私が特に気に入ったのは、浅薄でアグレッシブな刑事を演じるCharlie Creed Milesの嫌みなキャラクター(写真右)。真面目な部下をことごとくいじめるが、動物的な刑事の勘が効きそうな男として演じられている。脚本とプロデュースは"Poirot"シリーズや"Foyle's War"など、これまでも多くのドラマを書いてきたAnthony Horowitz。

(追記1)4回目を見た。段々面白くなっている。明日も楽しみだ。4回目は、Newellの別れた妻の役でImogen Stubbsも出演していた。
まだ完治とは言えないが、風邪は大分良くなり、掃除をしたり買い物にスーパーに行ったりするのもそう苦にならなくなってきた(5月10日)。

(追記2)最終回を見終わった。私の目から見ると、バタバタと終わってちょっと不満足な結末・・・。Traversのキャラクターが、最後でかなりリアリティーに欠けてしまった気がした。しかし、全体としてはかなり楽しめるシリーズである。上にも書いたように、James PurefoyとCharlie Creed Milesの2人の演じるキャラクターが特に味がある。(10日夜)


2011/06/08

"The School for Scandal" (Barbican)をめぐっての論争

18世紀の喜劇作家シェリダンの古典的喜劇、"The School for Scandal"が、常に実験的な試みをすることで知られるDeborah Warnerの演出、Alan Howard, Katherine Parkinson, Leo Bill他のキャストで、Barbican Theatreで上演中。大分前からこれをやることは広告などで気づいていたが、大きなBarbicanなのでチケットが売り切れることはないから、リビューなど出てから決めようと思っていたら、Guardian ("an uncharacteristically duff production"), Telegraph ("one of the most arrogant and inept productions") などで2つ星で酷評されている。非常に現代的な、ファッションショーとかLady Gagaのステージを見ているような味付けらしい。現代のセレブリティーへの狂乱や薄っぺらな大量消費文化と18世紀の、ゴシップまみれの上流階級の様子をパラレルにして見せていているようだが、それが全く空回りしているとの評価を受けた。

リビューがひどかったため、それでなくても巨大なBarbican Theatreはガラガラで、台詞が非常に虚ろに響く、と書いている観客のコメントも読んだ。劇評の影響力の大きさを感じさせる。しかし、Deborah WarnerはGuardianにBillingtonへの反論を書き、それに対しまたBillingtonが反論している。更に、捨てる神あれば拾う神あり、で、Whatsonstage.comのMichael Coveneyは逆に絶賛して5つ星をつけ、また記事のコメント欄などで、面白かったという読者の評もかなりあり、好き嫌いのはっきり分かれる上演のようだ。GuardianでもSam Nathanというコラムニストがこの劇の現代的な味付けを楽しんだと書いている。良く読まれている(と思われる)演劇ブロッガー ("There Ought to Be Clowns") も、3時間以上もある上演時間中、ほとんど退屈する時が無かった ("I was rarely bored") 、と書いている。

まだこれらの記事をちゃんと読んでいないし、また劇そのものを見てないので私は何とも言えないが、こうして上演に関して、演出家、批評家、その他のライター、そして観客や演劇ブロッガーを巻き込んで論争があること自体が実に良い。こういう中で演劇も育てられるし、観客も色んな違った意見を読んで、なるほどと教えられる。

ということで、上演が始まった時は評判が悪かったので行くのを止そうかと思っていたが、ミニ論争が巻き起こったおかげで見たくなったので切符を買ったところだ。こういう記事を読んで色々考えるのも、日本には無い (?) イギリスの舞台の楽しみ。

しかし、Charles Spencerは口が悪い。でもそれを許すイギリスの新聞や観客のふところの深さには驚く。Deborah Warnerは、大変な実績のある、大御所と言っても良い演出家だが、彼女に対し、それだけの事を書ける自信にも感心する。

2011/06/06

BBCとITVの刑事/探偵物ドラマを見つつ思うこと

先日、ITVの秀作、"Vera"が終わったが、ここのところ、新しい刑事物ドラマが続々と始まりつつある。昨日からは、BBC 1で"Case Histories"、2夜連続のようで、今日がpart 2。主演の私立探偵役はJason Issacs。ITV 1では今晩から今週の土曜まで毎晩5夜連続で"Injustice"。心理スリラーのようだ。主演はJames Purefoy(先日、"Flare Path"の主役として劇場で見たばかり)とDervia Kirwan(Rupert Penry-Jonesの奥様)。5日連続と言うのが凄いね!毎日テレビばかり見ておれんが、ここのところ風邪でずっと具合が悪いので、テレビでも見て気を紛らわしている。

既に始まっていて、もう4回か5回目が終わったもので、BBC 2の謎めいた、所謂ノワール・ドラマ、"Shadow Line"。もの憂い、しかし張り詰めた雰囲気が漂う心理スリラー。昔のフランス映画のフィルム・ノワール(例えば、ジャン・ピエール・メルヴィル)とか、ハリウッド映画では"L A Confidential"を思い出させる。

私がこれからも毎週見ることにしたのは、ITV 1の"Scott & Bailey"。これは2人の(もうあまり若くはない)女性刑事の活躍を描くオーソドックスな警察ドラマ。"Vera"とか、"Shadow Lane"のような個性の強いスタイリスティックなドラマではなく、警察を舞台にした人情もの、ソープ・オペラ的雰囲気がある。ITVはこの2年くらいの間に長寿番組の刑事物をいくつも中止している。例えば、"A Touch of Frost", "Rebus", そして"Taggart"。その代わりの一部となるシリーズだろう。このドラマの特色は主役2人だけでなく、彼らの直接の上司である管理職も女性なのである(写真)。彼らは、働く女性が感じる様々のストレス(育児、妊娠、忙しい生活の中で夫や恋人との関係維持)などで苦しみながら働き続ける。移り変わるイギリス社会を反映していると言えるし、社会の動きの少し前を行っているのかもしれない。そう言えば、"Vera"は女性版の"Rebus"とも言える番組だった。両番組共にスコットランドを舞台とし、主役の経験豊かな刑事RebusとVeraは、「刑事の勘」で仕事をするタイプ。気短かで時々癇癪を起こすが優しいところもある。ワーカホリックで、私生活にうるおいが乏しくて孤独な人。サポート役の若い刑事はソフトで気配りが出来、真面目一方の世話女房役(但、Veraの部下の若い男性刑事は「世話亭主」。自分の家庭の事でもいろいろ気配りしたり悩んだりするところが良く出来ている)。

そして、"Vera"の後に日曜夜9時の大事なスロットに持ってきたドラマ"Scott & Bailey"は、"Vera"以上に女性中心のドラマである。ITVが、刑事物の番組制作において、かなりジェンダーを意識していると感じさせるチョイス。どうだろうか、日本だとこういう風に女性を意図的に活躍させるドラマは不自然だと批判が起きそうだ。しかし、そういう事を臆面もなくやるのがこの国。テレビの刑事ドラマのように非常に多くの人に見られるメディア作品において、意識的にジェンダーの垣根を取り払うことにより、子供や10代から20代の女性がモデルとする職業人のイメージが広がるのは良い事だと思う。何も刑事になって欲しいというのではなく、女性に職業の垣根は無いことを女の子達に自然に感じさせることが出来るかもしれない。また、これらのドラマのように、女性だからと言って、年齢とか容姿といった要素が男性以上に重視されるのではなく、人格、知的能力、決断力、体力や意思の強さなどで評価され、年齢や経験のある女性は管理職としてリーダーシップをふるう----そういうドラマが増えて欲しいものだ。イギリスではそういうドラマが当然になってきたが、日本ではどうか?テレビ番組で未だに若い女性が飾りみたいに扱われていないだろうか。日本のテレビのクイズ番組とか、バラエティーなどでの若い女性のアシスタントやアナウンサーのお人形みたいな扱い方は、イギリスの番組では見かけないように思うが・・・。イギリスの女性視聴者だったら、女性を馬鹿にしていると怒るだろう。

脱線したが、それはさておき、色々理屈をつけなくても気楽に見られ、単純に楽しい"Scott & Bailey"ではある。

(追記)あとで思い出したが、Caroline Quentin主演の"Blue Murder"も中年の女性が管理職の刑事として活躍するドラマだったが、突然打ち切りになった。現在50才のQuentinは、新聞記事で、中年以上の女性俳優が、男性俳優同様に、主役として活躍するドラマが少なすぎる、と不満を述べている。その後、彼女は、コメディー・ドラマ"The Life of Riley"の主役としてBBCに登場している。

2011/06/05

"fee"という単語

前項まで2回に渡り、"fee tail"とか、"fee simple"について書いた。そこで"fee"という単語自体についても、少し捕捉してみたい。

"fee"は今日では普通「料金」という意味で使われ、「レッスン・フィー」のように外来語として日本語にもなっているが、上記のフレーズにおいては「土地」、「不動産」、特に歴史的な意味では「封土」、即ち、封建領主が臣下に軍役や忠誠と引き替えに分け与えた土地である。より細かくは、使用権を認め、またその使用権を子孫に相続する権利も認めた土地、ということになるだろう。従って、「相続不動産(権)」というような定義も英和辞典に出てくる。

語源としては、古仏語の"feu", "fief"、更にさかのぼるとラテン語の"feodum", "feudaum'等から来ているそうである。従って、語源としては、形容詞"feudal"(封建制度の、封建的な)の語幹と重なる。なお、名詞"feud"には"fee"(封土)と同様の意味もある(なお、より一般的な「確執」という意味の"feud"は別の語)。

元来、軍役や忠誠への一種の報酬として与えられた土地、"fee"が、何故、主たる意味が、報酬から「料金」に意味を転じたのか。実際、今は廃れた(archaic)な語義では、"reward"という定義もある。それは、例えば、弁護士とか医師の様な専門家がサービスを提供し、それに対する「報酬」が、専門家側から要求される「料金」となったためだろう。そもそも、概念として、「報酬」と「料金」の違いは、同じ「支払い」をどういう視点から表現するかの違いによると言えるだろう。次の例は、Geoffrey Chaucerの"The Canterbury Tales"からだが、興味深い:

Thus hath *hire lord, the god of love, ypayed            (their)
Hir wages and hir fees for hir servyse!
(The Riverside Chaucer, I (A) ll. 1803-04)

(和訳)このようにして彼ら [Arcite and Palamon] の主人、愛の神は
                 彼らが果たした労役に対する報酬を与え、支払いをしました。

"The Riverside Chaucer"のグロッサリーでは、この"fees"は"payments"としている。

次はやはりChaucerの"The Book of Duchess"から:

And thus this *ilke god, Morpheus,                      (same)
May wynne of me moo feës thus
Than ever he wan . . . . (ibid., ll. 265-68)

(和訳)
    そして、このようにしてこの神モルフィウス(眠りの神)は
     私(詩人)から以前にも増して更なる支払いを受けることが出来ます。

前者は神からの支払い(報酬)、後者は神への支払い(謂わば、料金)である。しかし、どちらも、神と人との関係において生じる支払いである点が、この語の出自と関連していると言えるだろう。領主と家来、神と人、というような関係の中で、恭順や奉公と、それに対する報酬というのが、この語の元来の背景だろう。

(付け足し)
ところで、イギリスで無収入の大学生をしていると、もちろん授業料の額やその値上げが大変気になるのだが、授業料は、アメリカでは主として"tuition"と言い、イギリスでは、"fee"、より正確には、"university fee"とか、"tuition fee"と言う。日本で英語を習う人は、「授業料」は"tuition"、と覚える人が多いのではないか。では、一体"tuition"とは何かというと、これは「教えること」(teaching) そのものである。それが、「教えることの料金」"tuition fee"というフレーズから、段々、"tuition"だけで授業料を表すようになったのだろう。従って、語源の上では、"tuition"は"tutor"とか、"tutorial"などと共通した語幹を持っており、最終的にはラテン語の"tueri" (to watch, to guard)に行き着く。

2011/06/04

土地所有に関する法律用語(2): "fee simple"

(このポストは前項から続きなので、まだの方は「土地所有に関する法律用語(1)」をざっとご覧下さい。}

前のポストを書いた主な理由は、限定的な不動産所有と、絶対的な(完全な)不動産所有の違いを表す用語に興味があったからだ。即ち、"fee tail"と"fee simple"。後者のフレーズを聞いて、直ぐに何かを思い出す人がおられるかもしれない。そう、これである:

So greet a *purchasour was nowhere noon:   (land-buyer)
Al was *fee symple to hym in effect;              (unrestricted possession)
His purchasing might nat been *infect.           (invalidated)

(和訳)彼ほど優れた土地取引をする人は他にはいませんでした。
実際のところ、彼にとっては、すべての土地は条件無し所有でした。
彼の土地購入が無効になることはありませんでした。

これはGeoffrey Chaucer, "The Canterbury Tales"のPrologueにおけるSergeant of Law(高級法廷弁護士)のポートレイトの一部である(テキストは"The Riverside Chaucer" I (A) ll. 318-20)。中世においても、不動産所有の問題が大変重要、かつ法律上専門的であり、法律家の主要な仕事であったことがうかがわれる。"The Riverside Chaucer"の註を引用する:

Transactions involving property, usually heard in the Court of Common Pleas, were a special province of sergeants, who were often engaged as "purchasours" of land of client. Purchasing land in the technical legal sense meant obtaining a writ, and the process often involved litigation to remove entails, or legal conditions, limiting a right to dispose property (David Mellinkoff, Lang. of Law, 1963, 108). The most desirable writ was "fee symple" (Lat. in fed simpliciter), which granted the right to sell, transfer, or bequeath property directly." (p. 812)

(〔和訳〕不動産をめぐる取引は、普通、王室民事裁判所(The Court of Common Pleas)で審理されたが、高級法廷弁護士(Sergeants of Law)の専門とする分野であり、彼らはクライアントの所有地の取引代理人を務めた。法律的な意味で、土地購入をすることは、即ち、裁判所発行の令状(writ)を取得することであった。このプロセスには、しばしば、当該の不動産から物件売買を不可能とするような法的な所有条件(entails)を除去することが含まれた。もっとも望ましい「令状」(writ)は"fee simple"(完全不動産権)であり、これは、当該の不動産を売却、譲渡、遺贈する権利を与えた。)

土地を購入する場合や相続する場合、あるいは法的な遺言を作成する場合、その土地に付帯している条件(entails)をすべて見いだして(思いがけない条件がついていて、あとで騙されたと驚くこともあり得る)、それを除去、ないし簡略化するのが法律家の仕事だったわけだろう。その際、litigationを起こして争うこともあるだろうが、敵対的な訴訟でなく、一種の商取引としてのlitigationを起こす事によりCommon Law courtの裁定を受けるという形で後腐れの無いように文書化する場合も多かったと思われる。土地を管理する法務局がなかった時代、様々のlegal courts、特にthe Court of Common Pleasや地方のmanor courtsが信頼出来る土地登記の代わりをしたのだろう。また、entailsを除去する為には、当然ながら金銭的、あるいはその他の取引も成されたことと思う。

文学専攻の学生としては、これにあまり深入りしても意味は無いかもしれないが、当時の不動産取引と法や法廷の役割について、もう少し調べてみたい気がする。考える機会を与えて下さったBookwormさんにはお礼申し上げる。

なお、上に引用した註の、引用文に続く文章にも書いてあるが、Chaucerの描くSergeantは、顧客の為の土地購入だけでなく、自分自身でも専門知識を生かして土地購入を重ね、財産を増やしていることがほのめかされているとも解釈出来る(Cf. Gill Mann, "Chaucer and Medieval Estate Satire" pp. 88-89)。中世英文学には、法律家の貪欲な財の蓄積に関する諷刺が多い。土地所有は、階級の上下を表す指標であり、大土地所有によりジェントリーと見なされるようになるので、収入の多い商人や、法律家などの特殊技能保有者(プロフェッショナル)は、得た財産を土地に替える。Shakespeareが、演劇で得た収入で、ストラットフォードで不動産を買ったことも思い出される。なお、私は法律に関しては素人であるから、色々と誤解や間違いもあるかもしれないので、詳しい方はコメント欄でご教示いただければ幸いである。

以下は写本に残るThe Seageant of Lawの肖像




(捕捉)限定的土地所有の概念の始まり

不動産の条件付き所有、"fee tail"、の事を考える時、西欧の(そして日本でもかなり同じだろうと推測するが)土地所有概念が、中世の封建制度に始まっていることを考えざるを得ない。アングロ・サクソン時代に始まり、ノルマン人のイギリス征服以降定着したイングランドの「封建制度」 (feudal system) においては、そもそも王が全ての国土を所有して、それを、一定の軍役などと引き替えに臣下に授与したというモデルに基づく(但、このモデルは後の歴史家が考えたアナクロニズムであるから、矛盾や例外は多い)。更に、大領主は、王から授与された土地を自分の臣下に授与し、その臣下は更に下の家来に授与していくという形で、農民にまでいたる。従って、封建国家での土地所有は、軍役、あるいは後にそれに代わる金銭的な税や、農民の労役など、総じて条件付きの「限定的な」ものであった。限定的なものであるから、元の領主に返さなけれればならない事態も生じる。例えば、相続適格者がいない場合("escheats")など、主君に召し上げられたりする。主君の意に背くことがあれば(日本における藩の取りつぶしのように)、王(あるいは領主)に土地を没収されることもあった。土地所有の始まり自体が条件付き所有であったのだから、土地に色々な条件をつけて売り買いをしたり、相続をしたりするのも当然とうなずける。

土地所有に関する法律用語(1): "entail"

このブログにコメントをいただいたことのあるBookwormさんのブログでJane Austinなどの小説に頻繁に出てくる"entail"という語のことが書かれていた。私は法律を専攻しているわけではないが、英単語とその背景という視点から興味を感じたので私もコメントを書き込ませていただいた。そのコメントを加筆修正して、ここにも載せておく。

"entail"は一般的には、「伴う、引き起こす、必要とする」などの意で使われることが多い:

"This project entails a great financial risk."

しかし、法的な文脈で使われることの多い用法として、「(不動産の)相続人を限定する、〜に限嗣(げんし)不動産権を設定する」という意味もある(名詞でも使う)。

より詳しくは、http://www.thefreedictionary.comの中に入っているAmerican Heritage Dictionaryの定義は次の様なものだった。まず動詞:

1. To have, impose, or require as a necessary accompaniment or consequence . . . .
2. To limit the inheritance of (property) to a specified succession of heirs.
3. To bestow or impose on a person or a specified succession of heirs.

ここで関係するのは2と3の定義。次は名詞:

1.    a. The act of entailing, especially property.
       b. The state of being entailed.
2. An entailed estate.
3. A predetermined order of succession, as to an estate or to an office.
4. Something transmitted as if by unalterable inheritance.

また、同じ上記の辞書サイトの法律事典、West's Encyclopedia of American Lawの定義:

To abridge, settle, or limit succession to real property. An estate whose succession is limited to certain people rather than being passed to all heirs.

In real property, a fee tail is the conveyance of land subject to certain limitations or restrictions, namely, that it may only descend to certain specified heirs.

こういう相続の限定は、Bookwormさんも書いておられるように、長子相続権 (promogeniture) を強化する意図で用いられることが多かったのだろう。つまり、相続者を長男男子に限定して、一家の財産が分散しないようにするわけである。西欧の身分制度は大土地所有に基づいているから、不動産の細分化を避けるためには、次男以下の息子や娘達が多くの不動産を相続することは、家の破滅を意味しかねない場合も多い。また、その家の領主から見ても、配下の家族の土地が他の領主の配下の家族に移ることは、軍事上、また経済上、避けるべき事であり、土地譲渡や土地譲渡を伴う結婚に介入することもあり得るだろう。

現在はどうなのか分からないが、伝統的には、イギリスの(そして多分他の西欧やアメリカの)不動産は所有権が複雑のようである。土地建物を所有していることと、借りていることとの間には、色々なバリエーションがあるようで、期間限定とか、条件付き所有、という形態も多かった。そういう事が決定されるのは、多くは相続の時であるが、土地を相続で授与する時に、お世話になった人とか、借金のある人に一代限り授与するということもよくあった。つまり相続人が亡くなったら、また自分の子とか縁者に所有権を戻す条件で相続させる、という遺言を作ったりする。これは、"conditional fee"などと呼ばれる他に、上の定義にもあるように、"fee tail"という呼び名もある。それに対して、条件のない絶対的な所有は"fee simple"と言う。

条件付き所有は、所有権に関する問題が起こりやすい。例えば、AさんがBさんに土地を授与する場合、Bさんの生前のみの授与として、死後はAさんの子供に戻される、という条件をつけるとする。ところが、Aさんの子供が亡くなって、相続者が居なくなったりしかねない。その場合、土地はBさんの子孫に行くのか、Aさんの妻や兄などの縁者に行くのか、争いが起きたりする。普通はそれを予想して、色々な不測の事態を予想した付帯条件をつけるのであるが(この場合、Aさんの子供が死んでいたら、Aさんの妻に相続させるなど)、そうした付帯条件でもカバーしきれないことが起きたりする。あるいは、そういう元々の遺言にある相続条件の妥当性について係争が起きたりするかもしれない。

2011/06/02

Ariana Franklin, "Mistress of the Art of Death" (Bantam Books, 2008)

中世イングランドのスカーペッタ
Ariana Franklin, "Mistress of the Art of Death"

(2007; Bantam Books, 2008)   507 pages.

☆☆☆(3.5位) / 5

数日前から風邪で熱を出して寝ていて、最初は苦しくて本を読むどころじゃなかったが、段々探偵小説くらい読めるようになってきたので、一気にページがはかどった。

現代の南イタリアからシチリアにかけて、12世紀頃にあったノルマン王国は、アラブ世界の先進的な科学や思想が流入し、西欧の文化大国であった。特にその中心都市のひとつサレルノでは、医学が栄えた。主人公のAdelia Aguilarはそのサレルノからイングランドに派遣された医師、それも"mistress of the art of death", 即ち中世版の検屍医、サレルノからやって来たケイ・スカーペッタである。

その時、イングランドのケンブリッジでは連続幼児殺害事件が起きていた。ユダヤ人がスケープゴートとして迫害され、町の人々は彼らを皆殺しにしかねない勢い。ケンブリッジに住むユダヤ人は全員、州代官(sheriff)の城に1年間も籠城を迫られる。王ヘンリー2世にとって、貸金業を営むユダヤ人は資金源として無くてはならない存在である。ヘンリーは、サレルノ王に名探偵Simon of Naplesと検屍官の派遣を要請する。しかし、やって来たSimonはユダヤ人、Adelia Aquilarは、イングランドでは診療を許可されていない女性、そして彼女のお付きのMansurは肌の黒いイスラム教徒であるから、大っぴらに捜査をすれば、彼らは無知で偏見に満ちた町の人々の反感を買うのは必至。Mansurが医師で、Adeliaは彼の通訳という口実で診療所を開きつつ、密かに犯罪捜査を遂行する。

中世イングランド版捕物帖というと、Ellis PetersのBrother Cadfaelシリーズ始め数多い。女性探偵ものでも、Peter Tremayne (Peter Berresford Ellisの筆名)のSister FidelmaシリーズやCandace RobbのApothecary Roseシリーズなど面白かった。そうした中で、本書の新味はAdeliaが検屍医であること。又、彼女がイタリアのサレルノという特殊な国からやって来たという事だろう。中世の南イタリアにあったノルマン王国の先進的な学術や自由な思想を身につけたAdeliaが、西欧でも辺境にある片田舎ケンブリッジの環境や人々と悪戦苦闘する様が面白い。またこの作品では、1290年にエドワード1世によりイングランドから永久追放される前のユダヤ人社会の一端が描かれている点でも興味をそそる。

娯楽小説の割りに、前半、なかなか作品の中に入って行きづらく感じた。この小説は、作者にとって第1作だそうで、不慣れなところもあるのだろうか。前半、Simon of Naples とAdeliaのキャラクターのイメージがつかみづらく、魅力に乏しい。しかし、後半では思いがけない展開もあり、ピッチが上がる(それとも、私自身の風邪のおかげでまとまって読めたからか?)。私の好みからすると、そこまで書かなくても、と思える大変けばけばしい描写が幾らかあって、興ざめに感じた時もある。しかし、犯人に追われ、やがて追い詰めるアクション・シーンは、たたみかける迫力があり、この作家の実力がうかがえた。

中世はもともと現代人にはエキゾチックな香のする時代であるが、更にサレルノからやって来た女性検屍医という要素が加わり、なかなか楽しい娯楽小説に仕上がった。かなりのリサーチの努力もうかがえる。又、中世の物語でありながら、現代社会の重大な課題、例えば、人種問題、異種の宗教の共存、女性の自立や結婚と仕事、死刑制度の可否等を上手く加味している点も評価できる。中世の司法に興味のある私には、裁判シーンも面白い。探偵小説を読みつつ、自分も色々知らない事が多くて、勉強しなくちゃと気づかせられた。

なお、当時のケンブリッジは、13世紀に大学が出来る前で、中部の片田舎の町に過ぎなかった。Cam川を動脈としての人々の暮らしの臭いや、近くの"fen"の様子など幾らかうかがえ、ローカルな味わいも良い。

この作者はこのシリーズをその後も続々と出しているようだが、他の作品も読んで見ようと思える出来だ。南仏のノルマン王国については、権威者による一般向けの本として、高山博『中世シチリア王国』(講談社現代新書)がある(私はまだ読んでない。本棚で眠っている)。