2011/08/22

Tony Harrison, "The Globe Mysteries" (The Globe Theatre, 2011.8.20)

お手軽すぎるダイジェスト版
"The Globe Mysteries" 


The Globe Theatre 公演
観劇日:2011.8.20, 2:00-4:50, with an interval
劇場:The Globe Theatre

☆☆ / 5



イギリス演劇や現代小説、そして最近は大まじめに原発のことまで書いてしまったが、私が一番興味あることは中世英文学、特に中世演劇であるので、今回は一番嬉しいトピックなんだが、☆は・・・ふたつだけだなあ。

サイクル劇をそのままテキスト通りに上演することは、現代では不可能に近い。昔通りにヨーク・サイクルをやれば、夜明けから深夜までかかりかねない。シェイクスピアのパラ戦争の劇を連続上演する試みが時々あるが、聖史劇を通しでやればそれより長くなるだろう。長い時間をかけて多くのアマチュア劇団が上演する現代のヨーク市の公演でさえ、かなりピックアップされたものを演じていて、演じない部分も大きい。まして、商業劇場であるGlobe Theatreでやるのであるから、大幅なカットというより、サイクルの一部を選択して上演することになるのはやむを得ない。

その場合、ひとつの手段としては、特に興味深い劇を幾つか選び、元のテキストに近い形で演じ。その他は完全に省略するか、簡単になぞる程度にするという選択肢。もうひとつは、全体をバランスの取れるように縮小して、なるべくたくさんのエピソードを盛り込みつつ、サイクル全体を細かい劇の集まりではなく、ひとつのドラマ、天地創造から最後の審判までの人類史、という1本のストーリーであることを強調するやり方。後者の場合、サイクル劇の物語を生かしつつも、上演台本はオリジナルに近くなる。今回の"The Globe Mysteries"は後者のタイプで、脚本はTony Harrison。彼は以前1977年にヨークの劇に基づいたバージョンを出していて、それをNational Theatreが上演した。これはおそらく今も発売されている次のテキストではないかと思う: Tony Harrison, "Plays One, The Mysteries" (Favor and Favor, 1985)。今回のテキストはこのテキストとどう関係しているのか、私は読んでいないが、かなり違うようである。そのうち、この発売されているテキストを読んでみようとは思っている。そのNTの公演は丸一日かかり、しかも劇場の外を使って、中世のように動き回る公演 (a promnade production) だったようだ。

さて、今回の公演、個人的な感想からはっきり言うと、まったく良くなかった。休憩時間を除くと2時間35分くらいの上演時間に、サイクル劇でお馴染みのエピソードはほとんど全部詰め込んでいるので、ひとつひとつがあまりに簡単過ぎて、全く盛り上がらない。初めての人に、聖史劇ってこんな感じです、と粗筋を説明するには適当だが、あまり感動している余裕がない。とりわけ、聖史劇のクライマックスである受難のシーン、特にキリストの裁判が簡単すぎる。カヤパやアンナスが独立したキャラクターとして出てこず、ユダヤの祭司の台詞がほとんどないし、ユダヤ人達がよってたかってキリストを処刑しろと叫ぶシーンも、観客の間に役者が入って少し再現したが、簡単すぎる。最初の方でも、天地創造やアダムとイブの堕罪と楽園追放、ヘロデの嬰児殺害(The Killing of the Innocents)などもさっとなぞっただけという感じである。前半で比較的時間をかけて雰囲気を盛り上げようとしたのは、アブラハムとイサクのエピソードくらいだろう。

その割には、磔刑の後の、地獄の解放(The Harrowing of Hell)やイエスの復活、使徒トマスの疑い(The Doubing Thomas)、イエスとマリアの昇天、そして最後の審判などには、大変長い時間を使っているので驚いた。これらのエピソードは、それ程読まれることも上演されることもない部分なので、それはそれで珍しくて価値があるが、しかし、磔刑以前のエピソードにもっと時間をかけたほうが全体としては説得力があったと確信する。また、上演テキストやHarrison自身の解説がないのでよく分からないが、サイクル劇のオリジナルから大分離れて、Harrisonが創作した部分が大きいのではないか。時間配分から行っても、裁判まで終わったところでインターバルとなり、後半はキリストの磔刑から始まるのだが、最後の晩餐かキリストの捕縛あたりで前半を終え、そこまでをもっと詳しくすべきだ。

2時間半ちょっとという上演時間そのものも短すぎる。休憩を除いても3時間から3時間半は欲しい。私の好みを言えば、幾つかのエピソードに絞って、なるべく原作の現代語訳テキストを使って欲しい。サイクル形式でやることがほとんどで今までそういう試みは少ないようだが、例えば完全な受難劇として、受難のシーンだけやるという選択もあり得るのではないか。

長時間かけて山車を使ってやるヨークでの上演と違い、一箇所の劇場でやる場合、セットを目まぐるしく替え続けることには時間も費用も限界があるので、セットが簡略化されるのは仕方ない。しかし、衣装くらい豪華にして欲しかった。現代服の上演であるが、それにしてもがっかりした。キリストはTシャツにジーンズ("Jesus Christ Superstar"の影響か?)。磔刑になる時もそのままのTシャツを着た格好。磔刑シーンでは、腰布だけで裸体でないと意味が無い。また、父なる神も、だらっとしたカーディガンみたいな服を着た老人。威厳は全くなし。アダムとイブは、子供も多い劇場なので全裸は無理というのは、残念にしても理解はできるが、白い下着を着けていたのは興ざめ。体を隠さない無垢の心こそ、作られた時の人間の姿だからだ(だからキリストも裸体である必要がある)。せめて肌色の布で体を覆い、裸体であることを示して欲しい。キリストを磔刑にした兵隊達が工事の労働者か職人みたいだったのは、観客との距離を縮めて効果的ではあったが。これは、キリストを処刑したのは我々自身、と観客に感じさせるためだろう。観客の間に入った役者から、キリストを糾弾する声を出させるなど、観客がこの劇で描かれる歴史の中に居ることを強調する工夫は随所にあった。しかし、今回のような現代服の上演ならば、ローマ兵や中世の騎士に並ぶ存在であるから、独裁国家の物々しい武装をした兵士などであれば、遙かに迫力があっただろう。

英語がとても分かりにくかったのは、役者がワーキング・クラスの、しかも方言をしゃべっていたからだろう。努めて庶民的な発音にして、観客に身近な出来事に見せようとしているのだろう。しかし、神やイエスまでそういう感じで話していたように見えるのはいただけない。神は神らしく、威厳を持ったトーンが必要だ。とりわけキリストの造形がまずい。聖史劇のキリストは、静かに苦難を耐え忍ぶが大変威厳のある人物。しかし、今回のキリストは、観客に身近になるように意図されていて、街角のお兄さん、という風貌。人類の罪を一身に背負った人の荘厳さは感じられない。カヤパやアンナスもほとんど出番はなく、ピラトの出番もかなり切り詰められており、為政者の言葉をしゃべる人が目立たないのも物足りない。

俳優も特に印象に残った人はおらず、また有名俳優の出演は無いようであり、全体に軽量級のプロダクションだった。イエスをやったWilliam AshはBBC Oneの学園ドラマ、"Waterloo Road"で先生を演じている人。昨年夏、ヨーク市で見たアマチュア劇団を中心とした公演のほうが大分良かったのは確か。

The Globe Theatreが出来、Mark Rylanceの下でシェイクスピア時代の演劇上演を復元しようという意気に満ちていた時代、本当かどうか分からないが、役者は下着まで16世紀仕様のものを身につけたという逸話もある。中世・ルネサンス演劇の研究者にとっては面白い時代だったと思う。今のThe Globe Theatreは商業化し、ロンドン観光を兼ねた観客層が定着して経営は安定しているようだが、16世紀風の劇場でも、中身は古典を良くやる普通の劇場になってしまった気がする。売店に公演の写真が無いのは残念だが、そういうところにも、アカデミックな雰囲気が無くなったことを感じる。

途中かなりの雨が降り、土間に立っていた人達はずぶ濡れで気の毒だった。終わり頃には厳しい日射しが降り注ぎ、2階正面のギャラリー席の人は直射日光でまぶしそう。野外劇場は大変だ。

演出:Deborah Bruce
脚本:Tony Harrison (a new version)
セット:Jonathan Fensom
音楽:Oly Fox
振付:Siân Williams
衣装:Sarah Bowern
Voice & Diarect: Mary Howland
Movement: Glynn MacDonald
Musical Director: Philip Hopkins

出演:
William Ash (Jesus / Issac)
Joe Caffrey (Cain / Abraham / King / Knight / Jacob)
Philip Cumbus (Gabriel /Judas / Ribald)
Marcus Griffith (Adam / King / Soldier / Priest)
David Hargreaves (God the Father)
Adrian Hood (Shepherd / Poor Man / Andrew / Knight / Thomas)
Paul Hunter (Lucifer / Shepherd / Herod / Blind Man / Knight)
Lisa McGrillis (Eve / Woman / Mother / Angel / Mary Salome)
David Nellist (Abel / King / Soldier / Philip Knight)
Matthew Pidgeon (Joseph  / Mak / Pilate / Beelzebub)
John Stahl (Noah / Shepherd / John the Baptist / John / Marlcus / Barabbas)
Only Uhiara (Mary / Gill / Woman / Mary Magdalene)
Helen Weir (Noah's wife / Woman / Mary Mother)

2011/08/19

稲塚監督と大隈記者にお会いしました

8月16日午後、『二重被爆〜語り部山口彊の遺言』のロンドン上映会の前に、日本からはるばる来られた監督の稲塚秀孝さん、及び、朝日新聞長崎支局の大隈崇さんにお会いし、"QI"に関する私の抗議の経緯について、このブログでもご報告した事などをあらためてお話ししました。お二人とも大変誠実はお人柄のようで、熱心さに感銘を受けました。

大隈さんはもともと"QI"の問題がマスコミで話題になったすぐ後にご連絡をいただいて、取材申し込みがあったのですが、東北大震災が起き、それどころではなくなったため、これまで延期されていました。でも、当初の熱意を失わず、今回の上映会を機会に来英されました。日々のニュースに押し流されるであろう新聞の現場で、過去のテーマを忘れずに追い続ける姿勢に感心しました。日本の新聞記事の紙幅は大変短いので、如何にしてその中に言いたい事を含めるか、書きたいことは多いが、大変苦労されるそうです。

稲塚監督については、今回直接お会いするまで、ご自身について何も知らなかったのですが、かってテレビマン・ユニオンに所属されていて、テレビの世界で長い経歴を持っておられます。職業人として、私のような者には想像を絶する大変苦しい経験もしてこられことを、日本放送作家協会のサイトにあったインタビューの記録で知りました。山口さんのドキュメンタリー制作と上映に関する彼の粘り強さも、こうした試練を乗り越えてきた人だからでしょう。主義主張と行動が一致した立派な方とお見受けしました。私はかって大学教員をしていたのですが、研究者には、私自身の自戒も含め、研究内容や言われる事はリベラルでも、学内や学会では自分の研究業績にプラスになることしかしない方は結構おられます。あれで、世の中では著名な学者で通るのか、と思う方もあります(でも、大学者ほど外の仕事で忙しく、また論文等が優れていれば評価されるのは当然ですが)。稲塚監督は、人を大変大事にされる方のようで、そういう華々しいインテリの対極にいるような方とお見受けしました。

稲塚監督は、現在、福島の原発事故周辺の被災者の取材を続けておられます。きっと貴重なドキュメンタリーとして完成されることと思います。それに加えて、"QI"でのあのような山口さんの取り上げ方がどうして起こったのか、追跡しようと思っておられるようです。私は、彼の貴重な時間や、特に独立プロとしての限られた財源を、これ以上あの番組の追跡に割く価値があるのか、疑問に思って、先日監督にもメールでそうお伝えしました。番組の制作者や出演者にとっては、あのエピソードの制作も、我々の苦情の処理も、非常に些細な出来事でしかなかったでしょう。但、BBCとしては、イギリス贔屓な日本人のおかげで、オースティン等の文芸ドラマや"Panorama"のようなドキュメンタリーなどたくさんの番組を輸出し、高額の収入を得ている以上、日本人がBBCへ持つ敬意や好印象を害してはいけないという打算もあって、謝罪したのかと思います。

但、そういう日本人のイギリス文化への偏愛も含め、イギリスという核保有国の広島・長崎への関心/無関心、原爆や原発へのイギリスの国民感情、そして軍事や戦争に関する日本人とは大きく異なる意識は、今後日本の(イギリスは紳士の国!なんて思っている)視聴者にも知らされる必要があると思います。

いずれにせよ、稲塚監督は、山口彊さんの遺言である、海外へのメッセージの広まりを目ざしておられるようですから、"QI"の問題が、彼の今後のお仕事のモーティベーションとなったことは、この事件における不幸中の幸いであったと思いました。今後も彼のなさるお仕事を注目していきたいと思っています。


(8月20日追記)
『二重被爆〜語り部山口彊の遺言』に関連したお知らせ等について書くのも多分これで当分終わりだ。"QI"について報告した時には、もの凄いアクセス数、多数のコメント、コメント以外にもメールなども何通ももらい、びっくりした。私は今回の映画上映について"QI"の時以上に関心を持って考えたり、書いたりした。特に福島原発の大事故が続く中、しかも広島、長崎の原爆投下日、そして敗戦の日と前後した時期に日英で上映会が開かれたのであるから、尚更だった。但、ブログのアクセスは、最近はむしろ減り気味で、コメントもほとんど無く、あまり関心を集めなかったようだ。やはり、広島・長崎の原爆の記憶は薄れているようだ。しかし、私個人にとっては、"QI"のこと、そして福島原発の大事故、更に『二重被爆』2作品のロンドンの上映会を通じ、広島・長崎が、平和を求め続けた戦後日本の原点、日本人のアイデンティティーの欠かすことの出来ない一部だと再認識させられ、私の人生において大変大きな意味を持った半年であった。

"One Man, Two Guvnors" (National Theatre, 2011.8.4)


スラップスティックの芸で大いに楽しめた
"One Man, Two Guvnors"


National Theatre公演
観劇日:2011.8.4  19:30-21:50
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Nicholas Hytner
脚本:Richard Bean
原作:Carlo Gordoni ("The Servant of Two Masters")
セット:Mark Thompson
照明:Mark Henderson
音響:Paul Arditti
音楽:Grant Ording
振付:Adam Penford
衣装:Poppy Hall
Fight Director: Kate Waters

出演:
James Cordon (Francis Henshall)
Jemina Rooper (Rachel Crabbe, one of Francis's masters)
Oliver Chris (Stanley Stubbers, another master of Francis)
Daniel Rigby (Alan Dangle)
Tom Edden (Alfie, a very old waiter)
Suzue Toase (Dolly)

☆☆☆☆ / 5

"One Man Two Guvnors"はまさにタイトル通りの内容の笑い話:一人のおっちょこちょいの男が、二人の主人 (Rachel Crabbe, Stanley Stubbers) に同時に仕えてしまったため、その二人の要求を同時に何とかこなしていくのに大汗かくという話。しかし、その筋書きよりも、主役のJames Cordonのギャグの連続で、劇のかなりの部分は寄席のワンマンショーみたいなのり。スラップスティックなので、台詞は大して分からなくても充分楽しめた。観客をステージに上げて、ちょっとしたギャグを一緒にやったりして、ステージと客席が一体となって楽しみ、また随所に歌を挟んで、全体がバラエティー・ショー仕立てになっている。

脇役も楽しい演技。Jemina Rooperは主人公Francisの主人の1人だが、女性が双子の兄弟に化けていて、『お気に召すまま』のRosalindのようなセクシーさと不器用さが面白い。もう一人の主人のStanleyを演じるOliver Chrisはばかに気取ったところが愉快。歩くのもやっとという風情の年寄りのウエイターAlfieを演じるTom Eddenも最高に上手い。

元はイタリアのコメディア・デラルテの戯曲とのこと。しかし、Richard Beanの翻案では、設定を今世紀前半のブライトンに移している。明るい海辺の保養地の雰囲気が内容にピッタリ合っていた。背景が昔の舞台みたいな板絵なのだが、その古風な背景が、かえって時代設定と調和している。

終わった後には、なんにも残らなくて、数日経ったらすっかり内容を忘れてしまっていた。でも見ている間は最高に楽しかった事だけは確か。

演出はナショナルの芸術監督のニコラス・ハイトナー。彼は、シリアスな政治劇で本領を発揮するが、シェイクスピアのような古典、こうした軽い喜劇まで、どんな作風のものもこなせるところが凄い。大評判になって今回のNTでの切符は売り切れているが、秋に更にウエスト・エンドにトランスファーして公演される。

2011/08/18

『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』を見て、原発について思う

16日夜に見た標記のドキュメンタリーの最後、制作者などのクレジットが出て、これで終わりかな、と思っていたら、今回稲塚監督が付け加えられた山口彊さんのインタビューの一部が映写された。そこで、山口さんは、全ての原子力は人間には最終的に制御出来ないのであり、廃絶しなければいけない、という意図のことを言っておられる。山口さんは、広島と長崎で二重被爆をされ、一生後遺症に苦しまれただけでなく、息子さんを60歳で癌で亡くされた。更に、エンジニアとして働かれていた彼は、原爆だけでなく、原発の危険性を強く感じておられたのではないか。

今、福島原発の事故、そして放射能汚染の問題がいつ終息するとも分からない状況の中、全ての原発を廃止すべき、という声も高まっている。一方で、原発に頼る市町村、電力を消費し操業する経済界、多くの地元中小企業や商店、そしてそこで働く市民と家族にとっては、原発廃止は危険で無責任な夢物語と見えるかもしれない。地震直後のように電力不足で停電をしなければならない事態になれば、暑さ寒さで亡くなる老人も増え、医療など命に関わる現場にもトラブルが起きるかもしれない。そして、緊急に温暖化を防がなければならない、という地球規模の課題もある。それを覚悟しても私達の国は原発を止めることが出来るだろうか。

私は福島の問題が起きる前から原発には個人的には反対で、止めて欲しいとは思っていたが、もともと政治に関わる話をする人間ではないので、それを特に誰かに言ったりしたことはない。日本が国として原発を止められるとは思っていなかったし、今も、上に書いたようなこともあり、その点では大変悲観的だ。ペシミストの私の思う原子力発電の未来はこんな感じになる。今日本には原発が54基あるそうだが、もし福島の事故が起こらなければ、これからもどんどん増え、又海外にも次々に輸出したことだろう。温暖化の問題を考えると、そう遠くないうちに100基代に近づいたのではないだろうか。数年ごとにかなり大きな地震が起こる日本であるから、大小の地震はあったにも関わらずフクシマのような事故がこれまで起こらなかったのは、技術の優秀さ、地震対策の確かさなど、評価されて良いように思うが、しかし、今度ばかりはそれにも限界があることが分かった。こういう事が2度とないと誰が言い切れようか。いや、原発を保持すれば、第二のフクシマは遅かれ早かれやってくると思う。

発展し続けるアジア、特に中国やインドもこれからどんどん原発を作るに違いない。中国人口の多数が日本のような、ミドルクラスの大量消費生活をするようになれば、中国には何百という原発が作られるのではないか。インドも同様だ。両国とも政情には不安定要因があり、テロや争乱も起きている。地震や大洪水に見舞われやすい地域もある。勿論、厳しい安全対策は講じるだろうが、これらの、そして他の多くの国々で、何百という原発が世界中で操業し、老朽化し、あるいは天災や人災で大小の事故を起こす時代、原発や核廃棄物格納施設がテロによって爆破されたり、おそらく原発が戦場のど真ん中に存在したりする時代、それがこれから50年100年先の地球であることは目に見えているのではないだろうか。仮に北欧や日本などで脱原発をしたとしても、他の様々な国や地域で放射能汚染が頻発し、多くの子供が小児癌などで死んでいくが、それをある程度世界の日常として受け止める時代が来る気がするが、違うだろうか。

一方、温暖化も止まるところを知らない勢いだし、国際公約を果たすためにもCO2の削減も厳しい状況だ。原発なくして、それは可能なのか。

今日本は半分程度の原発を休止したまま何とか生き延びている。経済は停滞し、経済の素人の私から見ても、将来の展望も暗いように見える。現在程度の豊かさの国民生活を維持し、高齢化の中で医療や福祉、教育、年金等の公的サービスを守り、また蓄積した国や地方の借り入れを返済するためには、おそらく何とか経済成長を取り戻さないといけない。その為には、エネルギーが必要なのは言う迄もない。化石燃料の使用は増やせず、自然エネルギーには飛躍的な伸びは期待できないとして、原子力以外に一体何があるのか。原子力発電を止めることは、日本経済が坂を転げ落ちるように滅び始める時、と言われる識者も多いだろう。そうすれば、医療や福祉の土台も崩壊し、老人医療や、子供の教育にも甚大な影響が出るだろう。それでも良いと言えるのだろうか。

山口さんだったらどうおっしゃるだろう。あるいは、今80歳を超える世代、広島・長崎の被爆者ならずとも、焼け跡の街で腹をすかしつつ、新しい一歩を踏み出した方々はどう思われるだろうか。

温暖化を防止し、そして脱原発を同時に進める----経済学者じゃないから分からないけれど、その為には少なくとも経済成長を前提とせず、無成長でサバイバルする覚悟が必要な気がする。しかし、その代わりとして失うものも甚大であるから、フクシマで起こったようなリスクを一定程度覚悟で原発と共存しようという決断もあり得るだろう。日本人ひとりひとりが大きな選択を迫られる時代にさしかかった。しかし日本人の決断の如何に関わらず、地球は原発だらけになるのは目に見えていて、原発事故は大規模航空機事故なみには起こる時代は必ずやってくると思える。他国の原発事故による放射能に苦しむ国も多くなるだろう。そう考えると、正直言ってどっちに転んでも同じかという、やけくそな気分になりそうだが、それでも私は日本は原発を止めて欲しい。

今、もし脱原発に舵を切らない場合、来年かも知れないし、50年以上後かも知れないが、第2、第3のフクシマがやってくるのは時間の問題と思う。その時、日本人はどう決断するだろうか。仮にフクシマ以上の大事故が起こって、国民世論が圧倒的に原発廃止を支持しても、その時には原発を止めることは出来ないのではないか。増殖する癌をまだ割合小さい時に切除しなければ、次の重大事故が起こってからでは遅すぎるかも知れない。巨大化した癌を取れば国全体が死んでしまう状況である可能性大だ。例を挙げれば文化大国の顔をしているフランス、素人考えであるが、現在でも総エネルギー使用量の75パーセント前後を原発に頼るあの国は、今後おそらくそう望むことがあっても脱原発にはもう遅すぎる。既に原子力中毒で、癌を切除すると死んでしまう重症患者、原発中毒症、と言えるだろう。日本にはそうなって欲しくないものだ。それとも既にそうなっているのだろうか。

昔の同僚に、あなたはいつも悲観的な事ばかり言う、と職場で叱られたものだが、今の私の杞憂がお笑いぐさであって欲しいものだ。さて、次からは演劇のことでも書こう。

2011/08/17

『二重被爆』(2006年)と『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』(2011年)上映会(ロンドン大学、SOAS)

既にこのブログでもお知らせを転載していた標記のドキュメンタリー映画がロンドン大学のアジアアフリカ学院で上演され、出席してきました。日本からはるばる稲塚秀孝監督が来られ、挨拶をされ、また上演後、観客の質問に答えられました。映画は、最初は、最初は2006年の稲塚秀孝制作、青木亮監督の『二重被爆』、そして後半は、新作で稲塚監督自ら作られた『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』です。2作品については、以前のブログで簡単ですが、紹介と感想を書いております。

今回の会場は140人程度収容の講義室でしたが、ほぼ満員。稲塚監督のブログによると、約4割がイギリス人(ないし、日本人ではない方)のようだったと言うことです。監督のブログには、挨拶の内容も載っています。

私は以前にDVDをいただいて既に見ているのですが、しかし、多くの方と共に、しかも海外で見ると、一層の感慨がありました。21万4千人以上の人々が2発の爆弾で一瞬にして亡くなるという恐ろしさ。今の日本人を皆トラウマ状態にしている東北大震災の死者・不明者数が2万人を超えるということを考えると大変な悲劇ですが、広島・長崎の21万人以上という死者はその10倍であり、原爆が如何に凄まじい兵器かを感じます。イギリスにおいて、ドイツ軍の空爆の最も残虐な例のひとつとしてあげられる1940年11月14日のコベントリーの大爆撃では、一夜にしてこの工業都市がほとんど焦土と化してしまったようですが、死者は約600人程度と言われているそうです。

共同通信、朝日新聞、その他、日本のマスコミ数社からもこの上映会に記者の方が来られました。既に一部のネット・ニュースで共同の記事を配信しています。但、イギリスのマスコミは全く感心を示さなかったようです。

このブログでの呼びかけに答えて、忙しいウィークデイの夜、仕事や学校が終わった後に来ていただいた方も少しいらっしゃるかも知れません。だとしたら大変嬉しいし、深くお礼を申し上げます。

当日の様子が、日本テレビのニュースにより報道されました:


2011/08/16

"Blue Surge" (Finborough Theatre, 2011.8.13)

崩れたシンデレラ物語
"Blue Surge"

Finborough Theatre公演
観劇日:2011.8.13  15:00-17:10
劇場:Finborough Theatre

演出:Ché Walker
脚本:Rebecca Gilman
セット:Georgia Lowe
照明:Neill Brinkworth
音響:Edward Lewis
衣装:Rachel Szmukler

出演:
James Hillier (Curt. a policeman)
Clare Latham (Sandy, a prostitute)
Alexander Guiney (Doug, a policeman)
Kelly Burke (Hether, a prostitute)
Samantha Couglan (Beth, Curt's girl friend)

☆☆☆ (3.5程度) / 5

ハリウッド映画で、ジュリア・ロバーツがコール・ガールをやった『プリティー・ウーマン』という馬鹿馬鹿しいシンデレラ物語があったが、ちょっと似たところがあるが、シンデレラ物語はやはり夢物語、だと知らせてくれるようなストーリー。脚本は2001年の作品。

Curtと同僚のDougはアメリカ中西部の地方都市の白人田舎警官。ある時、売春を行っていると疑われているマッサージ・パーラーを捜索し、それが縁でCurtはSandyという売春婦と関わり合いになる。彼は、身寄りもなく住むところもない彼女を何とか今の惨めな状況から救い出したいと必死になる。Sandyに助力をするうちに、そのことが自分が付き合っていた美術の先生のBethに知られて彼女を怒らせ、更にDougのアドバイスに反して、仕事を犠牲にしてもSandyをかばって、最後には警官の職を失ってしまう。

SandyはCurtに頼ろうと意図していたわけでなく、彼と関係を持って警官の好意を買おうとしたわけでもない。実際、彼は行き場のなくなった彼女を自宅に泊めるが、二人の間には肉体関係はない。

一方、ミドルクラスの出身で、上品な美術教師のBethは、Curtに教養をつけさせ、また警察機構の中で順調に出世して欲しいと、色々なアドバイスをするが、Curtはそれについていけない。彼はどうしても彼女との育ちと教養の差を感じてしまい、例え彼のキャリアを危うくしても、Sandyの手助けをすることで心の安らぎを得る。

サブ・プロットとして、Dougと、やはり売春婦だったHetherの関係が描かれるが、こちらはそつなく世渡りをするDougと彼の子供を妊娠し幸せそうなHetherが、救いようのないCurtとSandyとは対照的に描かれる。メイン・プロットの二人の不幸と比べ、こちらは『プリティー・ウーマン』なみの安易な筋書きという気はするが、軽薄だがしっかり計算だけはして生き残るこの2人のコミカルなところが、劇全体の陰鬱なトーンをやわらげている。

アメリカの白人階級社会の様相を上手く劇化した作品。アメリカ人は、イギリス人よりも、個人のより内面的で文化的な部分における階級の差を感じることが多いのかも知れないと思った。

俳優の演技は秀逸。特に主役の2人の絶望感は良く伝わってきた。ただ、費用のかけられないフリンジの劇場なので、セットが貧弱なのが残念。マッサージ・パーラーにしろ、警察署やCurtのアパートにしろ、費用をかけたセットを作ってアメリカ中西部の田舎町らしい雰囲気を濃厚に出せれば、格段に良くなったことだろうと惜しまれる。今後、他の劇場でも再演されることを望みたい。

2011/08/14

ロンドン暴動からチョーサーにさかのぼる:Magistrates' Courtsが24時間フル操業


(写真:Westminster Magistrates' Court)

ロンドン暴動の法的後始末が始まっている。店を壊して侵入し商品を盗んだりした人々が、法廷に呼び出され、早速刑を言い渡されている。イングランドとウェールズにおいて、こうした軽い犯罪を犯した人を裁くのがMagistrates' Coiurtと呼ばれる簡易裁判所。暴動の時に限らず、日頃から犯罪事件の大多数はこうした軽罪 (misdemeanor, minor offence、これに対し重大犯罪は、felony) であるのはどこの国でも同じであるが、イングランドにおいてはこれらの犯罪で6ヶ月以内の刑を受ける程度の犯罪については治安判事(Magistrate, 別名Justice of Peace、略してJP) による即決裁判となる。判事が警察官や証人、被告等から事情を聞いて、その場で刑を宣告したり、釈放したりする。暴動後数日間、Westminster Magistrates' Courtは、非常時のため、コンビニ並の24時間開廷をし、そしてこの週末もさすがに24時間ではないが夜まで開廷して、裁判を行っているそうだ。暴動に加わり物盗りをした人などはこれで収監される。ひどい怪我を負わせたりして、それ以上の刑になると判断された場合には、通常の刑事裁判所(Crown Court)に回される。その場合には、結果的にMagistrate's Courtが予備審問をしたという役割になる。このMagistratesという治安判事の多くは、無給のボランティア(必要経費は出る)で、選ばれるためには、大学や法曹学院などでの法律教育は必要とされていない(アマチュアのMagistratesの他に、プロの法律家で、法務省に雇われたDistrict Judgeという人達もいる)。但、判事になる前の3ヶ月の研修があり、実際の裁判においては知識と経験豊富な事務官のアドバイスなどあり、また、社会経験の豊かな地元のリタイアした有力者、人格者などが多く選ばれるようである。日本では、参審制の導入に伴い、英米の陪審員制度が、司法における市民参加として広く知られるようになったが、このMagistrates' Courtも同じくらい重要な市民の司法参加である。イングランドの民主主義は、立法府の議員選出における市民の役割と共に、こうした司法における市民参加が重大な柱として欠かせないものになっている。「お上」意識が強く、弁護士や職業裁判官などの「先生」と尊称される専門家を非常にありがたがる日本人には、なかなか理解しがたい制度かも知れない。しかし、これはイギリスの長い民主主義の成立の歴史の中で定着した制度である。

このMagistrateという役割の源は、12世紀のRichard Iの治世にさかのぼることが出来るようだが、制度として確立したのは14世紀前半、Edward IIIの治世である。従ってチョーサーの生きた時代には広く行き渡っていて、『カンタベリー物語』でも出て来る。巡礼のひとりに地主(Franklin, 「郷士」とも訳されている)がおり、彼は金持ちの大地主で、客にいつもふんだんに食事をもてなして気前の良さを見せている。序歌(The General Prologue) での彼の紹介において、チョーサーは次の様に述べる:

At sessiouns* ther was he lord and sire.     (judicial sessions)
Ful oft time he was knyght of the shire.
  . . . . .
A shirreve* had he been, and contour*.    (sheriff / auditor)
Was nowher switch a worthy vavasour*.   (land-holder)
(General Prologue, ll. 355-56, 359-60)

(拙訳)
彼は法廷では裁判官をつとめた。
しばしば彼は国会議員であった。
・・・・
彼は州の代官や会計監査をしたこともあった。
どこにも彼ほど立派な地主は居なかった。

このように、この地主 (Franklin) は大変立派な地域の有力者で、色々と役職をやっている。Knight of the Shireというのは、今で言うところの国会議員、 Member of Parliament (MP)、である。彼は"sessiouns"でlordとかsir、つまり指導者を務めると書いてあるが、このsessionsとは、judicial sessions、つまり裁判のこと。しかし、訓練を積んだ正式の弁護士や裁判官はこの時代既に沢山いたが、彼はそういう人ではなく、法律のアマチュアであるので、治安判事(Magistrate)の役を務めたと仮定できる。詩人チョーサー自身も、本業は税官吏などの公務員であったが、その一方で治安判事を務めたのは、多くの方がご存じだろう。また彼はケント州の国会議員を務めてもおり、従って、このFranklinの背景には自分の経験がかなり重なっていたことと想像できる。飲み食いやもてなしが大好きなこのエピキュリアンの地主の性格は、富裕なワイン商人の家の出身で、残っている写本にある肖像によると、中年太りしてお腹が出ているチョーサーにぴったりである。

更に引用に"shirreve"(今の英語で、"sheriff")とあるが、これはイングランドの州 (shire, county) の長官である。これは中世前半のアングロ・サクソン時代からある国の役職 (royal official) であるが、今のアメリカの州知事とか日本の県知事のような公務員とは違い、もともと各州に住んでいる地元の有力なジェントリーや地主などの間から王室が任命した人達である。こうした州の代官(州長官とも訳される)は、徴税などの行政事務も担当するが、治安維持も重要な仕事で、日本の代官と似て、それぞれ裁判を行い、犯罪を罰したり、市民間の争いを裁定したりした。従って、引用中の"sessiouns"にも、そういう意味もあるかも知れない。この州の代官という仕事(sheriff)については今のところ私はは良く知らないのだが、これから色々と時間をかけて勉強したいと思っているテーマである。というのは、文学にもかなり関係しているから。日本人にもお馴染みのロビン・フッド伝説で出てくるノッティンガムの悪代官は子供向きの本や、ケビン・コスナー主演の映画などで知っている人も多いだろう。ロビン・フッド伝説は中世末から近代初期にかけて多く書かれ、その後も大衆文化に定着したイギリスの義賊の話であるが、このように代官が悪役にされている。同様に、代官の腐敗、あるいは王権との摩擦はしばしば他の中世の文献でも諷刺されている。

なお、sheriffという役職は、米国の保安官の他にも英語圏の各国で今も残っており、イングランドでも"High Sheriff"という儀式などに登場する役割として存在するようだし、スコットランドでは、Magistrates' Courtsの上に位置する裁判所がSheriff Courtsであり、この場合のsheriffは法曹教育を受けたプロフェッショナルで、多くの犯罪における第一審の役割を果たすとのことだ。

courtやlegal court(法廷)と言っても、今と違いその為に専用として使われる立派な建物を指すことはほとんどない。また、そういう建物は中世はほとんど無かった。裁判は野外の広い場所で行われることもあり、また、多くはギルド・ホール(今の市庁舎)の広間のような多目的に使われる広間で行われた。中世や近代初期においては、思い出すのも難しいくらい様々な種類の裁判が存在したが、職業的な法律家によって常設的に開かれるのは首都の王室裁判所(The Court of King's Bench, The Court of Common Pleas, The Court of Exchequer等)くらいで、他の各種の裁判は年に数回とか、月1回など開かれ、数日間続く、といったものが多かった。

14世紀に出来た市民の裁判官による裁判所が、未だに数の上ではほとんどの犯罪を裁いているのがイギリスの司法制度であり、これに重罪を裁く上級刑事裁判所、Crown Courtsでの陪審員制度を加えれば、如何にイギリスの司法に市民が密接に関与しているかが実感される。

(追記)速やかな正義の実現をという世論に押されて、Magistrates' Courtsをフル回転して、暴動に関わった被告を裁くことについては、あまりに性急すぎて、充分な吟味が出来ていない恐れがあるとの声がLaw Society(事務弁護士[solicitors]の団体)から上がっている。裁判官や事務官が夜も寝ずに審理を続けるなんてとんでもないことだ。被告自身も、ちゃんと考えた申し開きが出来にくいし、弁護士も疲労困憊することだろう。軽い刑の判決とは言え、前科がつき、仕事を辞めて刑務所に入れば、被告の人生は大きく違ってくる。日頃と同じだけの時間と慎重さをもって審理して欲しいものだ。これついてはこちらの記事参照。

(お断り:私は、法学や法制史の素人ですから、間違いがある可能性も高いので、鵜呑みにしないで下さい。もし、間違いやMagistrates' Courts、中・近世イングランドの裁判制度等について付け加えて下さることなどあれば、コメント欄でお教えいただければ幸いです。)

2011/08/12

"Loyalty" (Hampstead Theatre, 2011.8.5)

イラク戦争開戦の前後をブレアー首相側近の家庭を通して描く
"Loyalty"





Hampstead Theatre公演
観劇日:2011.8.5  15:00-17:00
劇場:Hampstead Theatre

演出:Edward Hall
脚本:Sarah Helm
セット:Francis O'Connor
照明:Ben Ormerod
音響:Paul Groothuis
衣装:Caroline Hughes

出演:
Maxine (Laura)
Loyd Owen (Nick, Laura's partner and Tony's chief of staff)
Anna Koval (Marisia, their baby sitter)
Patrick Baladi (Tony, Prime Minister)
Stephen Critchlow (Tom, a bureaucrat at Prime Minister's office)
Colin Stinton (James, a former director of CIA)
Michael Simkins (C. a head of British intelligence service)
最後の二人は他にも背景に流れる声で、アナン国連事務総長他、色々な役を演じる。

☆☆☆☆ / 5

大分前に劇場からチラシを送ってきてすぐ切符を買ったが、公演が始まるとあまり評判が良くない。Sarah Helmはジャーナリストとしてかなりのキャリアを持つ人だが、劇作はこれが初めてなので、やはり慣れないことは難しいのか、と思いつつ出かけた。しかし、嬉しいことに予想を裏切って、私にとっては大変面白い公演だった。私はもともとこういう"the state of the nation play"(国家の状況を表現する政治劇)が大好きである。このジャンルの作品で、典型的なのは、David Hareの作品であるが、この劇はHareの傑作、"Stuff Happens"と同じトピックを扱っている。"Stuff Happens"はNationalのOlivierの巨大なステージをたくさんの役者で一杯にして、英米の実名の政治家の台詞によりイラク戦争開戦を分析する大変スケールの大きい意欲作であったが、Hamstead Theatreという小劇場で上演されたこの作品は、ずっと慎ましい。当時の首相Tony Blairの側近、Nickと、彼と同居し子供も居るパートナーのLauraの目を通して、Tony Blairが開戦(2003年3月20日)の直前、どう考え、そしてその後、WMD (Weapons of Mass Destruction、原爆や化学兵器などの大量破壊兵器)が発見されないとはっきりした時に、どのようにそれを糊塗したかを、親密な視点から描く。

描かれていることは既に大抵の日本人でも知っていることである。健忘症の私は忘れかけていた。ブッシュ政権は何とかしてイラク侵攻を始めたくてうずうずしていて、その為にはどんな些細な、出所の怪しい情報でさえも使う。大統領自身は、ラムズフェルドやチェイニーなどの強硬派の言うなりで主体性がない。ブレアーは、何とか多くの国を巻き込み、国連の承認を得て開戦したいと思って奔走する。その国連を説得するためには、イラクが密かにWMDを開発しているかどうかが鍵になっており、アメリカはそのことに間違いはないと言うが、どこにも証拠はない状態で開戦に踏み切る。

勿論、衆知のように、イラク政府の崩壊後、第三者機関による徹底的な調査が行われたがイラクのどこにもWMDは発見されなかった。結果的に、WMDがあるとしたCIAやペンタゴンのでっち上げでしかなかったわけである。

劇中の登場人物は全て実際にいた人物。Nickはブレアーの側近 (Chief of Staff) のJonathan Powell、そして彼のパートナーのLauraはこの劇を書いたSarah Helm自身である。であるから、演劇とは言えドキュメンタリー・ドラマであり、描かれていることのほとんどはHelmが実際に見聞きしたことであろう。

このドラマでは、激しい開戦反対のデモを背景に、ブレアーが国内世論とアメリカ政府の圧力の狭間にあって揺れ動く様子、そして、側近のNickがそのブレアーを忠実に支えようとしながらも、彼自身は内心戦争するだけの理由はないと思っていて、苦しむ様子などが描かれる。更に、NickのパートナーのLauraはリベラルなジャーナリスト出身の作家で、開戦には絶対反対の立場であり、Nickと激しく対立しつつ、自分が彼に持つ影響力を使って戦争をとめさせたいと考えている。そうした関係者同士のloyalty(忠誠、相手への誠実さ)、そして、それぞれの持っている信念に対する自分自身のloyaltyが試される様子が熱を帯びた台詞のやり取りで描かれる。個人と家庭の中での葛藤が、世界を揺るがす決断と連動する秀作。NickとLauraの台所や寝室、首相官邸の執務室などの狭い空間で、少数の人だけで繰り広げられる会話に、世界史の大きな動きが脈打っているところが面白い。

大きな政治の流れとしては、何か特別に新しい事が描かれるわけではないので、主要人物のキャラクターに劇の面白さが左右されると思うが、Lauraを演じたMaxine Peakeが素晴らしい。BBCの"Silk"や"The Secret Diaries of Miss Anne Lister"等のドラマで見てきたのだが、非常に力強い女優。強情な女性をやらせたらこの世代ではピカイチだ。マンチェスター郊外ボルトンの出身だが、はっきりした方言が小気味よい。舞台で見るのはこれが初めてだが、今年West Yorkshire Playhouseで、Terence Rattiganの"Deep Blue Sea"に主演したのは知っていた。リーズまで行けば良かった、と後悔!彼女は、テレビドラマでも演劇でも、はっきりとした社会的、あるいは政治的問題を含む作品を選んで出演しているように見える。そのチャレンジ精神が伝わる演技。

少ないであろう予算を効果的に使い、少人数で、電話の声でブッシュ大統領やアリステアー・キャンベル報道官、コフィー・アナン国連事務総長等を出演させたりして、枠を広げていた。しかし、やはり首相官邸のシーンでは少し登場人物が多ければ、とは思った。また、映像で開戦の様子その他を映し出すことは出来なかったのだろうか。多分、当然考えただろうが、予算の問題や、客席がステージを囲む形式のHampsteadの制約もあったのだろう。

結局、劇中でも現実でも、ブレアーはイラク戦争をしたことは間違っていなかったと言い続ける。この戦争によりフセイン政権下による甚だしい人権侵害やクルド人など少数民族の虐殺を止めさせたから、というのである。WMDがあるとしたのは口実でしかなかったわけだ。ブッシュやアメリカ政府幹部は、WMDがイラクにないのは分かっていたし、ブレアーもそうだろうと充分推測できる状態だった。それでも戦争は始まった。

ということで、内容は興味が持てた上、Maxine Peakeの力演に組み伏せられた公演だった。

褒めすぎかもしれないが、国の抱える最大の政治課題を首相などの実名を交えたドキュメンタリー・ドラマで解剖し、National TheatreやHamstead Theatreなど公的補助を受けている劇場で人気者のスターが主演して上演する、そういう事が出来るのがイギリスの演劇界。

2011/08/04

「二重被爆〜語り部・山口彊の遺言」上映会、英語でのお知らせ/セラフィールドの核燃料再処理施設閉鎖

29日のポストの末尾にも書いてありますが、ジャパン・ソサエティーのサイトでは、標記のロンドンでの上映会(8月16日17:30〜)について、英語のお知らせ、及び、予約フォームがあります。また、SOASのサイトでも英語でのお知らせが出ております。

稲塚監督の8月10日のブログによると、その時点での予約者は、65名とのこと(会場の定員は140名です)。イギリス人の方々にも見ていただきたいですね。英語字幕付きです。

折しも、カンブリアにあるセラフィールドにある核燃料再処理施設の閉鎖のニュースがBBCで報道されていました。これは日本の地震によって起こった原発問題の直接の影響です。すでに記事を翻訳なさった方がおられます。

Wikipedia英語版によると、カンブリア州西部の最大の雇用主は、ひとつはこのセラフィールドの原子燃料工場、もうひとつはBAE Systemsだそうです。後者は、イギリス最大の製造業の会社にして、最大の軍事産業専門会社です。この地域は、これらの会社に生殺与奪の権を握られていると言って良いでしょう。今回のBBCの論調も、従業員が何人解雇されるか、というのが主な問題意識のように感じます。セラフィールドの工場については、過去の大きな事故を始め、色々な問題があるようですが、この施設を存続させてきたのは、日本の原子力産業です。お客さんは日本だけなのですから。