2011/07/31

Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness" (National Theatre, 2011.7.29)

女性の肉体、女性の値段
Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness"


National Theatre公演
観劇日:2011.7.29  19:30-21:30
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Katie Mitchell
脚本:Thomas Heywood
セット:Lizzie Clachan, Vicki Mortimer
照明:Jon Clark
音響:Gareth Fry
音楽:Paul Clark
衣装:Lynette Mauro

出演:
Paul Ready (John Frankford)
Liz White (Anne Frankford, John's wife)
Sebastian Armesto (Wendoll, John's friend)
Gawn Grainger (Nicholas, John's servant)
Rob Ostlere (Jenkin, John's servant)
Leighton Pugh (Roger Spigot, John's butler)
Leo Bill (Sir Charles Mountford)
Sandy McAuley (Susan Mountford, Charles's sister)
Tom Kay (Uncle Mountford / Sheriff)
Nick Fletcher (Sir Francis Acton, Susan's suitor and Anne's elder brother)
Louis Brooke (Cranwell, a friend of Sir Charles and John Frankford)
Hugh Sacks (Malby, Sir Charles's friend)

☆☆☆ / 5

Thomas Heywoodの劇は初めて見た。彼の作品はこれまで読んだこともなかったし、どういうタイプの劇作家かも知らなかった。そういう訳でか、今回テキストを半分くらい読んではいたが、劇の世界に入り込むのに大分時間がかかり、最初のほうは眠かったが、AnneとWendollの不倫関係が露見するするあたりからかなり引き込まれ、面白くなった。この珍しい劇を見る機会があって良かった。

2つのプロットが同時進行する。ひとつは、JohnとAnne Frankford夫婦の関係について。夫のJohnが親しい友人だが貧しいWendollを自宅に招き、この家のもの(金銭、物、使用人など)を遠慮なく自分のものの様に使ってくれ、と気前の良いところを見せる。しかし、それに悪のりしたのか、WendollはJohnの妻のAnneを誘惑し(あっという間にAnneが陥落しちゃうのでびっくり)、ついに寝室へと連れ込む。主人に忠実な使用人NicholasがそれをJohnに教え、Johnは留守にすると見せかけて二人の様子を監視。寝室にいるところに踏み込んで、Wendollを追い出し、Anneは自分の所有する別の屋敷に追いやり、二人の子供とも会わせない。Anneは罪の意識にかられ、絶望し、絶食によって自殺する。

サブ・プロットでは、Frankford家の親類で、由緒あるジェントリーの家柄のSir Charles Mountfordと彼の妹Susanが描かれる。CharlesはSir Francis Acton(Anne Frankfordの兄)と賭け事がこじれて喧嘩し、Charlesは激情に溺れて武器をふるい、Francisの使用人を殺害してしまう。彼は逮捕され牢に監禁される。Charlesは家屋敷を除く全財産を売り払い、更に借金も重ねて何とか一旦は牢獄から解放される。しかし、資金繰りが上手くいかず、Charlesは再び牢につながれる。Francisは更にCharlesを追い詰めようと思っていたが、Susanに一目惚れして考えを改め、友人を介してCharlesが出獄出来るようにと資金援助を申し出る。しかし貞女の鏡のようなSusanは、Charlesの動機を良しとせず、それを頑なに断る。Charlesは姉(?)にFrancisの言うなりになって欲しいと説得するがSusanは従わない。しかし、Francisは彼女を純粋に愛しているので、Charlesを救うと共に、Susanと正式に結婚することを申し出て、これは受け入れられる(つまりこれが、"killed with kindness"ということなんだろうけど、現代の感覚で言うと、そうですか、結婚するんならね、と納得は出来ない)。

Lyttelton Theatreの大きな舞台をまず左右2つに割った感じにして、右側6割程度はFrankford家の屋敷、左側4割程度はMountford家の屋敷としている。更に両方の屋敷に階段があって、2階部分も作られており、ステージの左右だけでなく、上下も目一杯使った大がかりで豪華極まりないセットだ。Frankfordの屋敷は新しくピカピカで、調度も整っているのに対し、Mountfordのほうは、殺人事件の後家財を処分し、壁も薄汚れ、如何にも凋落したジェントリーの屋敷らしく見えるように工夫されている。素晴らしいセットで、最初見た時はその豪華さにびっくりした。どちらか一方の屋敷で芝居が進行するわけだが、もう一方の屋敷でも召使いが急ぎ足で歩き回り、物を片付けたり、何かの用意をしたりなど、同時進行でふたつの筋書きが進んでいく。彼らの素早い動作は、まるで早まわりの映画を見ているようだ。ところが私にはこれが非常にマイナスになっていると感じた。もうひとつの屋敷での俳優のせかせかとした動きに気を取られて、今進行中の主たる演技に充分集中出来ない。どちらか一方にして欲しかった。また、いつも2つのセットを使えるので、1つの屋敷でのシーンが終わると、となりの屋敷でのシーンに切れ目なく移行するのだが、これが良いように見えて、実は良くない。観客としては、シーンとシーンの間にそれまでのアクションを消化し、次のシーンに移る頭の切り替えがしづらいのである。これは私の頭が悪いだけかも知れませんけどね。せわしないジャズのバックグラウンド・ミュージックを流し、使用人は振付をされたダンサーさながらに動き回っている。色々なことが賑やかに行われているお屋敷という雰囲気を作っているのだが、その慌ただしさが、描かれる人間ドラマをじっくり味わうのを妨げている気がした。Katie Mitchellが様々の要素を沢山詰め込み、観客が2つの家のコントラストを十分に鑑賞出来るように腐心しているのは良く分かるが、それがかえって、観客の注意力を分散する結果になっていないだろうか。謂わばマルチスクリーンの映画みたいだった。セットはそのままでよいとして、もっと余裕ある進行であると良かった。

プログラムによると、時代設定は1919年、つまり第一次世界大戦の終わった翌年としてあるようだ。Heywoodの原作は1607年、スチュアート朝であり、家庭悲劇(domestic tragedy)と呼ばれる、当時における「現代劇」。古代・中世、そしてギリシャ等の地中海世界やデンマークなど海外を主に舞台に選んだシェイクスピアの劇とは随分雰囲気が違う。当時の庶民の観客から見ると、"EastEnders"や日本の2時間ドラマ(「家政婦は見た」とか)を見ている感覚かもしれない。私の好みから言うと、大金をかけて無理して20世紀初期のピリオド・ドラマにするよりも、そのままスチュアート朝のセットやコスチュームでやったほうがずっと生き生きしたのではないかと思う。台詞には同時代の衣食住にまつわる表現が沢山あるが、20世紀にしてしまうと、それらの言葉のインパクトが霞んでしまう。

俳優は説得力ある演技をしていたように思うが、Heywoodのテキスト自体の問題として、キャラクターの膨らみや個性に乏しいのではないか、と感じた。シェイクスピア作品のような魅力的な、カリスマのある人物が見あたらない。強いて言うなら、召使いのNicholasの独白が光ったくらい。その一方で、私にとって大変面白かった点は、女性の扱い方。人類学者や社会学者が"exchange of women"(女性の交換)とか、"traffic in women"(女性の取引)という様な言葉(概念)で表現してきた伝統的社会の家父長制の仕組みをなぞったようなお話である。家と家の結びつき、男と男の社会的関係を作る交換材料として不動産や家畜同様に女性が使われる。しかし、とは言っても人間であるから、家畜のように思い通りという訳にはいかず、不都合が生じる。しかし、そうした、ここでドラマとなっているような摩擦が尚更女性が取引材料として扱われている社会状況を浮き彫りにしている。特にこの劇の場合、王侯貴族の話でなく、同時代の、所謂ジェントルマン階級の話なので、何かというとお金がからんでくるのである。

Anneは肉欲の罪に汚れた体を、絶食、即ち食餌療法、つまりダイエット、という手段により「罪滅ぼし」をしようとして、死を選ぶ。これは一方では、古代中世の聖女の殉教に通じるスタイルであり、また身近で比較すれば、現代の女性の拒食・過食と通じる面もある。性(セックス)と食餌、肉欲と肉体の自虐の関係について色々と考えをめぐらせることの出来る作品である。そうした女性の身体性を強く意識させたのは、Anneが初夜の時に寝間着を血で汚したり、その後妊娠して大きなお腹をしていたこと。Mitchellの明確な意図を感じさせる。女ってやっぱり肉体的な生き物なのね、とでも言いたいかのような劇。文学作品における女性は何故これほど身体性を意識させられるのか。結局、その理由の一部は、文学作品で描かれる女性たちが男性作家と男性社会の心象概念であるからだろう。

Sir Francis ActonとSusanの場合、愛人じゃ駄目だけど、結婚すればそれは"kindness"になって良いでしょう、というのは、現代人からするとなんともうなずけない。そういうご都合主義が、近代的結婚制度自体が含む女性取引の慣習を浮き彫りにしている。(脱線すると)実際、中世においては、レイプしても相手の女性と結婚すれば法的に許されたのである。従って、極端な話だけど、裕福な家の女性を誘拐してレイプし結婚する、というような強引な手段で、自分の家に利益を誘導するような例もあったようだ。確か、この公演のSusanを演じたSandy McAuleyが最後まで仏頂面をしていたのは、Anneの死に立ち会ったからだけでなく、Katie Mitchellがそういうことを意識していたのかも知れない。

細かい事はテキストを熟読しないと分からないが、1回見ただけでも色々考えさせられた面白い劇だった。余裕があったらもう一回見たいくらいだ。17世紀初期のイングランドに設定して上演してくれたら、私にとってはもっと良かったなと思うな。

しかし、舞台デザイナーのViki Mortimerの活躍ぶりは凄い。今やイギリスの舞台美術を代表する人の1人と言える。かってTPT全盛時代(90年代前半頃?)、ベニサン・ピットで素晴らしい仕事をしていたのが思い出される。Tokyo時代が良い修行期間になったのではなかろうか。近年も何度か日本で大きな仕事をしているようだが、これからも日本でも彼女の素晴らしいコスチュームやセットの腕を見せて欲しいものだ。


(お礼)この劇の切符は、当ブログにしばしばコメントを書いて下さるライオネルさんからいただきました。観劇のためにロンドンにいらしたのですが、他の劇と時間が重なり、行くことが出来なくなったそうで、切符を下さいました。この場を借りてお礼を申し上げます。

2011/07/29

「二重被爆」、「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」、ロンドン上映会案内

先日のブログで、「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」のロンドンでの上映会が催される予定であると書きましたが、詳しい日時場所について、稲塚秀孝監督より、以下のご案内をいただきました。

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「二重被爆」「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」
ロンドン上映会の案内


 
今年1月BBCの番組「QI」において、「世界一運が悪い男」と呼ばれた故・山口彊さん。「二重被爆」の実態を描いた2本のDVDをBBCに送り放送して欲しい、と伝えましたが、いまだ実現はしておりません。しかしながら、山口さんの被爆体験と反核の思いをぜひとも伝えようと、下記のようにロンドンでの上映会を開くことが決まりましたので、お知らせいたします。

実施日時:2011816日(火)
       1700  開場
       1730~ 田上富久 長崎市長 挨拶(DVD
            「二重被爆」(2006年・59分)上映
       1845~ 休憩(15分)、稲塚秀孝 監督挨拶
       1910~ 「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」
                    (2011年・70分)上映
       2020~ 稲塚秀孝 監督・プロデューサーへのQ&A
       2055  終了

実施場所:The Khalili Lecture Theatre (Lower Ground Floor)
                 ロンドン大学、アジア・アフリカ学院
           ジャパン・リサーチ・センター内 (Japan Research Centre)
                          (140席)
住所:School of Oriental and African Studies (SOAS), University of London 
   Thornhaugh Street, Russell Square, London WC1H OXG
                (Mapはこちら)

主催:「二重被爆」をロンドンで見る会
後援:長崎市
協力:ジャパン・ソサエティ、ロンドン大学アジア・アフリカ学院
                            (SOAS)
問い合わせ先:タキシーズ 稲塚秀孝
         inazuka@nw-media.net 


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以上が監督からのお知らせです。なお、Japan Societyのページにも案内がありましたが、予約をするようになっております。大きな会場ですが、念の為こちらのページの末尾にある連絡先、または予約フォームにより、予約をお勧めします。


(8月10日追記)SOASのサイトでも英語のお知らせが出ました。
 

2011/07/24

Friedrich Schiller, "Luise Miller" (Donmar Warehouse, 2011.7.23)

ドイツの『ロミオとジュリエット』
Friedrich Schiller, "Luise Miller"

Donmar Warehouse公演
観劇日:2011.7.23  19:30-22:00
劇場:Donmar Warehouse

演出:Michael Grandage
脚本:Friedrich Schiller
翻案:Miike Poulton
セット:Peter McKintosh
照明:Paule Constable
音楽・音響:Adam Cork
衣装:Mary Charlton

出演:
Paul Higgins (Miller, a court musician)
Finty Williams (Frau Miller, Miller's wife)
Felicity Jones (Luise Miller, their daughter, age 16)
Max Bennett (Ferdinand, Chancellor's son)
Ben Daniels (Chancellor)
John Light (Wurm, Chancellor's secretary)
Alex Kingston (Lady Milford, Prince's mistress)
David Dawson (Hofmarschall von Kalb, a courtier)
Lloyd Everitt (Chancellor's page)
Alexander Pritchett (Lady Milford's servant)

☆☆☆☆ / 5

フリードリッヒ・シラー(1759-1805)はシェイクスピアに通じていたようだ。この"Luise Miller"(1784年初演)は、大人の社会の陰謀と邪悪に踏みつぶされる純粋な若者の死を悲劇的に描き、『ロミオとジュリエット』に共通する点が大きい。更に、『オセロー』に似た面もあり、シェイクスピアの影響が色濃い。

私はオペラを全く見ないのだが、この戯曲は、ヴェルディがオペラにしていて、そちらのほうが原作よりも有名なくらいなのかもしれない。しかし、この原作も素晴らしく、上演前に脚本を7割くらい読んで行ったのだが、本で読むだけでもかなり引き込まれた。今回の翻訳はNorthern Broadsideが上演した"The Canterbury Tales"、RSCの"Morte D'Arthur"他、かなりの戯曲の翻訳・翻案をしているMike Paultonによる。"new version"とあるのだが、原作をどのくらい忠実に訳しているか、あるいはかなりの翻案か分からない。しかし、言葉は特に現代的にはしておらず、コスチュームやセットも歴史的なものであり、18世紀の古典のオーソドックスな上演だった。

ドイツのある国のChancellor(ドイツでは首相だろう)にFerdinandという若い息子がおり、彼が音楽を習っていた楽士Millerの素朴な娘Luise Millerと身分違いの恋に陥る。そうと知らぬ父親のChancellorは、息子をその国のプリンスの愛人で亡命イギリス人貴族のLady Milfordと結婚させ、自分の地位を強化しようと計画し、息子に命令する。Ferdinandは激しく反発し、父が権力を得るためにした不正な行いをプリンスに通報すると父を脅すので、Chancellorも一旦は引き下がらざるを得ない。Chancellorの腹心で、イアーゴウのように腹黒いWurmは、Chancellorに悪知恵を吹き込み、Luise Millerの両親を投獄。彼らを解放する条件として、FerdinandがLuiseの変心を信じるような手紙をLuise自身に書かせようとする(オセローにとってのハンカチみたいなもの)。オセローさながら、嫉妬に狂ったFerdinandは破滅への道を一気に進む・・・。

新聞の劇評でも指摘されているが、聖者が神を愛するように純粋にFerdinandを愛したLuiseを信じ切れないFerdinandと、インテリジェントでありながらもWurmの策謀に乗せられてしまうLuiseの、後半のキャラクター作りにやや無理がある気がして、そこが原作の欠点と言えば欠点だろうか。しかし、逆に言えば、16歳のLuiseはもとより、二人の未熟さ、若さ故の弱さとも思える。『ロミオとジュリエット』でもそうだが、決定的なところで飛躍や偶然が重なった方が悲劇性が増す場合もあり、私はそう違和感は感じなかった。

「大人の腐敗した世界と純粋な二人の愛」の対立に並行する相として、宮廷や貴族社会と新興中産階級の人々の対立があるだろう。楽士のMillerは、最初、娘がChancellorの息子と付き合っていることに戦々恐々として、娘を思いとどまらせようとするが、彼の妻は意気軒昂に娘の愛を支持する。そのMillerもChancellorが娘を侮辱する言葉を吐いた時には、地位や身の安全を顧みず、敢然と抗弁をし、まるで若いマリアを守ろうと腐心するヨセフのようである。また、LuiseもLady Milfordとの対話で、貧しく慎ましい庶民の彼女自身のほうが、豊かで権力はあっても、その権力の奴隷でもあるLady Milfordよりもましであることを断言し、Lady Milfordもそれに同意せざるを得ない。18世紀も終わりに近づいた時代の劇だけあり、近代市民社会の成熟、彼らの自由への渇望と既成の支配階級への反発を強く感じさせる劇であり、Miller一家がそれを鮮やかに体現していた。

ほとんどセットのない小さな劇場でのシンプルで骨太な劇を支えるのは俳優達の名演。特にBen Danielsの台詞回しと存在感は圧倒的。悪役にしてはちょっと格好良すぎるくらいかもしれない。Paul Higginsの父MillerとLuiseのFelicity Jonesの二人は、庶民の素朴さとその裏に潜むたくましさを良く出していた。Higginsの方言もそうした面を強めていて効果的(彼はスコットランド出身)。屈折した悪賢さを見せるWurmのJohn Light、きざで軽薄な宮廷人Hofmarshall von Kalb役のDavid Dawson、そして権力と運命によって滅ぼされた、謂わばLuiseのシャドウとも言えるLady MilfordのAlex Kingstonなど、ひとつひとつの役柄が印象的であった。

学部生時代の私の恩師のひとりで、私の人生を変えたT先生が、「文学作品には、人生のある年代、特に若い時に読まないといけないものがあるんです」と言っていたのを思い出す。私はこのような青春の悲劇に心の底から揺さぶられるには年を取りすぎてしまったが、それでも大変感動的だった。この上演を、主人公達に近い10代後半や20代で見られる方は大変幸せだ。

2011/07/22

Rose Tremain, "Trespass" (2010; Vintage, 2011)

南仏の憂鬱
Rose Tremain, "Trespass"
(2010; Vintage, 2011) 373 pages.

☆☆/ 5

これまでにこの作家は4冊くらい読んでいる。特に"The Colour"やオレンジ・プライズを受賞した"The Road Home"には大変感動した。好きな作家である。しかし、今回はあまり引き込まれないまま読み終わった。

物語の起こる場所は主として南フランスの寒村。よく英米人のエッセイや小説で取り上げられる爽やかで陽気な雰囲気ではなく、さびれ、外国人などが土地建物を買いあさっている。Mas Lunelという人里離れた農家にAramon Lundという男が、そして彼の土地の直ぐそばの粗末な家に妹のAudrunが住んでいる。Aramonは獣のような男で、かっては亡くなった父親と共にAudrunを虐待しており、Audrunにはその事への恨みが根深くくすぶっている。しかし、Aramonは酒に溺れ、自堕落な生活をし、農場は荒れ放題で、哀れな状態になっていく。

少し離れたところに、一定の成功をしつつあるガーデン・デザイナーのVeronica Vereyが、レスビアンのパートナーであるKittyと住んでいる。Kittyは水彩画の画家志望者であるが、平凡な才能しか持ち合わせておらず、Veronicaの収入に頼っている。Veronicaにはロンドンに高級アンティック家具のディラー、Anthony Vereyという弟がいる。彼はかっては大変羽振りが良く、様々の有名人を顧客に抱えていたが、今はすっかり落ちぶれ、店を訪れる客も少ない。彼は人生をやりなおそうとVeronicaのところを訪ね、南仏の農村が気に入り、自分も家を探し始める。Aramon Lundの住むMas Lunelが大変気に入り、商談を進める。KittyとAnthonyはVeronicaを取りあって、非常に仲が悪く、お互いに相手をどうやって遠ざけるか算段をする。また、AudrunはもしMas Lunelが売られたら、自分の住むところが無くなりかねないと大変心配になる。そういう時、Anthonyが売りに出た物件を見にに出かけたまま行方不明になる・・・。

Anthonyの失踪をプロットの中心に据えた一種ミステリー仕立ての小説。AramonとAudrunの兄妹、VeronicaとAnthonyの姉弟、というふたつの関係、それにKittyとVeronicaのカップルという3組の愛と孤独の物語。これらの5人の人々は、奇妙に地域や友人から孤立し、大変孤独な人々である。更にAramonとAudrunは虐待した者、された者であるが、しかし奇妙な依存関係で繋がっている。VeronicaとAnthonyは堅い姉弟愛で結ばれているが、それは他人を寄せ付けない排他的なものであり、Kittyを限りなく不幸にする。それぞれ自分の必要に応じて他者を愛したり、利用したりするが、5人とも人間としては魅力に乏しい、閉鎖的で自己中心的なキャラクター。カラカラに乾燥した南仏の大地が、彼らの荒れ果てた人生をくっきりと浮かび上がらせる。彼らの孤独感、疎外感が大変よく書けているが、しかし、それは感動を与えるようなものではなく、むしろ彼らのいびつなメンタリティーを掘り下げて見せる。

魅力的なキャラクターもおらず、特に感動的でもなく、私にはあまり楽しめなかった。但、登場人物の孤独感は良く書けている。農村でありながら、精神の孤島に住む人々という感じであった。

Veronica, Anthony, Kittyの共通点として、全員独身で、子供もおらず、地域のコミュニティーとの結びつきもない根無し草。皆、文化的な人々で、自由に人生を変えられるし、いつでも再出発が可能だが、自分の世界に凝り固まっていて、わびしい心象風景。自分の世界を壊されることに恐怖を感じて、何かと自己防御し、心を閉ざす。場所や環境は違っても、こういう人物って現代人に多いのではなかろうか。私自身も他人から客観的に見るとそう見えるかも知れない。そう言う点では大変考えさせられた。

2011/07/19

St Cuthbert Gospel(7世紀末)の行方は?



現在大英図書館にて委託保管されているSt Cuthbert Gospel(別名Stonyhurst Gospel)はアングロ・サクソン時代のラテン語聖書で、現存する中では、ヨーロッパ中世において、最も早く作られた書物だそうである。リンディスファーン修道院の院長で、司教でもあったSt Cuthbertが使っていた聖書だと言われる。しかし現在のオーナーは大英図書館、つまりイギリス国家ではなく、イギリスのイエズス会 (The Society of Jesus) で、まもなく売りに出すとのこと。その前に大英図書館に買い取るかどうかの相談があり、その値段が9百万ポンド(11億円以上)!現在625万ポンドほど都合がついたようであるが、まだ275万ポンド不足しているとのこと。巨額であるが、大丈夫なのだろうか。大英図書館は、こういう大口の寄付をする色々な団体や個人と話し合いをしているらしい。もし大英図書館の手に入れば、ロンドンの大英図書館に半年、ダラムの世界遺産サイトに半年、保管・展示されるとのことである。

この本は、アングロ・サクソン時代に北イングランドにあったノーサンバーランド王国に住んでいたキリスト教の聖者、St Cuthbertの遺体と共に698年頃にリンディスファーンの修道院に埋められた。その後、バイキングの来襲を避けるためにダラム大聖堂に移設されたらしい。アングロ・サクソン時代が終わり、ノルマン朝になった1104年にこの大聖堂で発見された。

私は不勉強で、この聖書についてこれまで知らなかったが、7世紀の書物が美しい表紙も含め、これほど完全な状態で残存していることに大変驚く。大きさは8.9センチx13センチ。表紙は赤い光沢のあるレザーで、文様が刻まれている。この装丁 (binding) は、ヨーロッパ最古のものであるとのこと。

St Cuthbert (c. 635-687)はノーサンブリアに生まれ、Melrose, Ripon, Lindisfarneなどの修道院で活動した。リンディスファーンの修道院長、及び685年には司教となった。禁欲的な生活と、奇跡を起こしたことで知られている。698年には聖者とされている。中世のイングランドにおいて最も強い信仰を集めた、人気のある聖者のひとり。

以下はSt Cuthbert Gospelの1ページと、St Cuthbertの肖像:




Wikipediaの解説 "Stonyhurst Bible"

BBCウェブサイトのニュースより(British Libraryの学芸員によるビデオ解説あり)

2011/07/17

Arnold Wesker, "Chicken Soup with Barley" (Royal Court Theatre, 2011.7.16)

第二次大戦を挟んで労働者階級家族がたどった軌跡
"Chicken Soup with Barley"





Royal Court Theatre 公演
観劇日:2011.7.16  14:30-16:50
劇場:Royal Court Jerwood Theatre Downstairs

演出:Dominic Cooke
脚本:Arnold Wesker
セット・コスチューム:Ultz
照明:Charles Balfour
音響:Gareth Fry
音楽:Gary Yershon
方言指導:Penny Dyer

出演:
Samantha Spiro (Sarah Kahn)
Danny Webb (Harry Kahn, Sarah's husband)
Jenna Augen (Ada Kahn, their daughter)
Tom Rosenthal (Ronny Kahn, their son)
Alexis Zegerman (Cissie Kahn, Harry's sister)
Harry Peacock (Monty Blatt)
Rebecca Gethings (Bessie Blatt, his wife)
Joel Gillman (Dave Simmonds)
Ilan Goodman (Prince Silver)
Steve Furst (Hymie Kossof)

☆☆☆☆ / 5

1958年初演のこの劇は、既に英文学史やイギリス演劇史の本でも触れられている。Arnold Weskerは、John Osborneの"Look Back in Anger" (1956)以降、ワーキング・クラスを描いた一連の作家、Angry Young Menのひとりであり、彼の作品は、所謂kitchen sink dramaのひとつ。しかし、"Look Back in Anger"の主人公達は、やり場のない不満や怒りを抱える、さまよえる魂とでも言うべき浮き草のような連中で、またかなりミドルクラス臭い雰囲気を持っているのに対し、Weskerのこの作品は、ロンドンのイーストエンドのワーキング・クラス家庭、それもユダヤ人で左翼の運動に関わっている人々として、しっかり定義づけられていて、時代と地域に深く根を下ろしている点が、私にとっては大変興味深かった。更に、劇のカバーする時代はナチスの台頭も著しい1936年から、戦争直後の45、46年、そして、戦後のイギリスの社会が確立された55年から56年、という3部に分けられている。イギリス社会の中における左翼ワーキング・クラスの変化を大変分かりやすく見ることが出来、外国人の私にとってはイギリス現代史の勉強にもなり、自国の事をふりかえる機縁にもなる。但、おそらく今75歳くらい以上の人々だと、この劇の時代をかなり生きてきて、生々しい感慨があると思うが、現在のほとんどの観客にとっては、既に歴史的な劇になったという印象はあった。

第1幕は1936年10月4日。ロンドンの下町の屋根裏部屋に住むKahn一家は、近所の友人達と共にデモに出かけようとしている。皆意気盛んで、警察と対決し、イギリスにおけるファシスト、モズリーの黒シャツ達も恐れていない。デモで警官に頭を殴られて血を流して返ってくる者もいるが、彼らは労働者階級の力を信じていて、希望に溢れている。これからスペイン内戦の国際旅団(市民義勇軍)に参加しようという者(Dave Simmonds)さえいる。こうした人達の中心にいるのは、Kahn家の女家長とも言うべき、エネルギッシュなSarah。だらしない夫のHarryを叱咤激励しつつ、皆にお茶や食べ物をふるまい、元気づけ、そして自分もデモに出かけていく。

第2幕の1946年のシーンでは雰囲気はがらっと変わっている。彼らの住居は幾らか良くなっている。しかし、夫のHarryはだらしなくて、景気が良くて求人は多いにも関わらず職を転々とし、この時は失業状態。娘のAdaは成人し、スペインの国際旅団に加わったDaveと結婚しているが、戦争は終わったにも関わらず夫はまだ帰国しておらず、孤独を囲っている。彼女は母Sarahの左翼運動には全く関心を示さない。息子のRonnieは母に感化されたのか、本屋の店員をしつつ、socialist poetになるんだ、という夢のような話をしているが、Sarahは手に職をつけるように勧めている。生活は良くなったが、かってのワーキング・クラスのコミュニティーが徐々にほころびを見せ、一体感が薄れつつあるのが感じられる。しかしSarahは依然としてエネルギー一杯で、元気に、忙しくふるまっている。一方、夫のHarryは途中で(Act Oneの終わりで)脳梗塞になり、かなりの後遺症が残る。元々意志の弱い人だったが、一層だらしなくなり、Sarahに頼り切っている。

第3幕は1955年、56年。イギリスも日本同様、戦後の成長期に入りつつある。また、NHSによる国民皆保険や今も続く社会保障制度が確立している。かってSarah達がデモやストライキをして要求していたものがかなり現実になったようだ。Sarahは社会保障費を貰うための面倒な書類を書いたり、役所の窓口が不親切なのをこぼしている。経済的には改善したようだが、労働者達は幸福になったのだろうか。Harryは2度目の脳梗塞を患い、歩くのも不自由で、失禁することもある状態。Sarahと一緒にデモに出かけたかっての同僚もみなばらばらになり、カード・ゲームをしたり、想い出を語り合いに集まることがあるだけ。更に、1956年、ハンガリー市民による反抗をソビエト軍が血の粛清をしたことが、かって共産主義に夢を託した彼らに決定的な幻滅を与えた。社会の動きに関心を持ち続け、左翼の理想を捨ててはいないSarahも、夫は病気、娘は遠くに住み、社会や政治について議論をする人もおらず、孤独は深い。


この劇の初演は1958年、CoventryのBelgrade Theatreだが、その後すぐにRoyal Courtでロンドンでの初演が行われている。それから半世紀ちょっと経った今、同じ劇場でリバイバルされているわけだ。第3幕の憂鬱な状況の後、イギリスの、いや、日本でもそうだが、労働者階級は、そして左翼運動はどうなったのか、色々と考えさせられた。

主役のSarah Kahnを演じたSamantha Spiroのダイナミックな演技が大変印象的。昨今のキャリア・ウーマンを描いたテレビ・ドラマなんか到底かなわない力強く粘り強い女性の闘士だ。また、劇のキャラクターとしてはSarahの引き立て役でもあるHarry Kahn役のDanny Webbは、夫の意志の弱さ、子供っぽさやだらしなさを大変上手く表現していた。セットや衣装もそれぞれの時代を良く表しており秀逸。脇役の演技やワーキング・クラスのアクセントも含め、隅々まで注意の行き届いたケチの付けようのないプロダクション。各紙の批評家も絶賛。特にGuardianのMichael Billingtonは5つ星だが、如何にも彼の好きそうな劇。座席の後ろは立ち見で見ている人でぎっしりだった。しかし、日本人の私にはやはりやや距離を感じる内容ではある。

同時代のピンターやベケットの抽象的な作品と違い、この劇は社会や政治の流れと密接に結びついているので、どうしても徐々に古びてしまうのは仕方がない。幾ら優れた公演でも、初演時のインパクトにはとても及ばないとは思う。しかし、それをかなり補っているのが家族のドラマ。ワーキング・クラスの一家族、そして彼らを包むコミュニティーの姿が生き生きとよみがえった作品だった。

劇の幕切れで、Sarahの息子Ronnieはハンガリー動乱の悲惨な結果など、左翼運動に徹底的に幻滅している。その思いはSarahも十分理解している。しかし、それでも彼女が言う言葉が感動的だ:

So what if it all means nothing? When you know that you can start again. Please, Ronnie, don't let me finish this life thinking I lived for nothing. We got through, didn't we?  We got scars but we got through. You hear me, Ronnie? (She crasps him and moans.) You've got to care, you've got to care or you'll die.

(拙訳) それで(これまでやって来たことが)全て何にもならなかったとしたらどうなのよ。そう分かったら、もう一度始めるのよ。ねえロニー、私の人生、何にもならなかったなんて思って終わらせないでよ。私達生き抜いてきたじゃない? 傷だらけになったけど、でも生き抜いたわ。ロニー、聞いてる? [彼女は彼を握りしめ、うめくように言う] 世の中のことに関心を持ち続けなきゃいけないわ。関心をね。でなきゃ死んだも同然よ。

(追記)GuardianのウェッブサイトにWeskerのインタビューがあり、この劇についても述べている。大変自伝的色彩の濃い劇のようであり、Kahn家の両親は自分の父母、そしてRonnieが彼自身をベースにしているようだ。彼の母親は一生コミュニストだったそうである。彼は時代の流れを背景にしつつ、家族の崩壊を描きたかったそうである。

2011/07/16

"Double Lesson" (Channel Four, 2011.7.15)

教師が限界に達する時
"Double Lesson"


Channel Four   2011.7.15  19:30-20:00

監督:George Kay
出演:Phil Davis (David De Gale, a secondary school teacher)

たった30分の単発ドラマ。しかも出てくる俳優はPhil Davisひとりで、場所も普通の民家の部屋と玄関口だけ。主人公が勤め先の学校で起こったことを回想するだけのドラマ。モノローグであり、ラジオドラマでも構わないような作品。にも関わらず、私にとっては、これほど衝撃を受けるドラマを見るのは年に1本もあるかないかと思う。イギリスに来て以来では、BBCの"Five Daughters"以来である。おそらく、私が20年以上教師をしていたからだろう。教壇に立った人なら、このドラマは痛切に心に迫るに違いない。しかし、一つの職業人の終わりを描いたドラマとして、素晴らしい作品。

主人公のDavid Galeは中学高校の先生。国語(English)担当のようだ。もうすぐ定年退職を控えている。しかし、妻は病気で(多分乳癌と思う)手術が間近のようで、そのストレスをかなり感じつつ生活している。彼は学校で生徒の嫌がらせにも苦しみ続けているが、自分が管理職であるために相談する人もいない(教師というのはかなり孤独な職業だ)。ある日教室で彼の我慢は限界に達し、生徒に突然暴力行為を働く。彼は殺人未遂で告発される。これから判決を受けるという朝、これまでの苦痛と孤独を淡々と振りかえる。

Phil Davisはこれまでもドラマで何度も見ている。最近では"Whiltechapel", "Sherlock", "Ashes to Ashes"などに出ているようだ。"Whitechapel"での切り裂きジャック・マニアの役は、忘れっぽい私でも良く覚えている。大変印象的な個性を持った俳優だ。演出やシナリオ執筆もする才人のようだ。今回も実力発揮で、画面に釘付けになった。

そのうち再放送もあると思うが、イギリスにおられる方は当分の間チャンネル4のサイトで見ることが出来る。是非お勧めしたい。

2011/07/10

Nikolai Gogol: "Government Inspector" (Young Vic, 2011.7.9)





古典を徹底したスラップスティックにして大成功
"Government Inspector"



Young Vic公演
観劇日:2011.7.9  14:30-17:00
劇場:Young Vic Theatre

演出:Richard Jones
原作:Nikolai Gogol
翻案:David Harrower
セット:Miriam Buether
照明:Mimi Jordan Sherin
音楽・音響:David Sawer
衣装:Claire Murphy

出演:
Julian Barratt (mayor)
Doon Mackichan (Anna, mayor's wife)
Louise Brealey (Maria, mayor's daughter)
Kyle Soller (Khlestakov、フレスタコーフ)
Callum Dixon (Osip, Khlestakov's servant)
Bruce MacKinnon (judge / shopkeeper)
Eric MacLennan (head of hospitals / shopkeeper)
Simon Müller (school superintendent / shopkeeper)
Amanda Lawrence (postmaster / sergeant's widow)
Steven Beard (Doctor / waiter / shopkeeper)
David Webber (police superintendent / shopkeeper)
Jack Brough (Dobchinsky, a local landowner)
Fergus Craig (Bobchinsky, a local landowner)

☆☆☆☆ / 5

この日は体調不良で最低のコンディション。喜劇を楽しむ気分ではなかったにも関わらず、この公演は大変意外なことに、面白かった。脚本を全部読んでいったのだが、読んでいる間は、古めかしくて、これじゃ到底面白い公演にはならないだろうと思っていた。また、これが翻訳ではなく、翻案 (versionとある)のも気に入らなかった。何か変な細工をして、原作が台無しになっているのではないかと。蓋を開けてみると、とんでもない細工だらけ。ところが、予想を裏切りとても面白かった。

ゴーゴリの『検察官』("Government Inspector")はロシアの田舎町の市長や役人、小市民のせこい汚職や腐敗を諷刺した喜劇。田舎町に、首都の下っ端公務員だが、遊び人で、ギャンブルで借金だらけのフレスタコーフ(Khlestakov)が使用人のOsipと共にやってくる。手持ちの金も尽き、宿屋からは食事も出してもらえないで、ひもじい思いをしている有様。ところがちょうどその頃、その町に政府の検察官がやってくるという知らせが市長の親戚からあった。市長や町のお偉方はこのフレスタコーフを、すっかり検察官本人と勘違いしてしまい、町中のお化粧直しをして表面をつくろうと共に、賄賂の嵐で、彼を丸め込もうとする。一方、いい加減極まりない若者のフレスタコーフは、この誤解を幸いとして、精一杯の贅沢をし、賄賂をせしめ、市長の娘や妻を誘惑し、そしてあと一歩でばれそうだという時に、さっさと町を後にする。市長達が気づいた時は後の祭り。しかも本物の検察官が到着したので、出頭せよ、という公文書が市長のもとに届く。

テキストを読んだ時は、今更こんなこと書かれても、という感じの古めかしい社会批判のリアリズム劇と思えた。しかし今回の公演では徹底的にスラップスティックにして、脚本からは感じにくいドタバタ、デフォルメされた演技、表情、衣装などで、地味な風刺劇が、ドリフターズの喜劇みたいになっていた。妙に明るい照明、チープな、学芸会の手作りのような衣装、オーバーな演技、ステージ中を走り回るアクション、前に座っていた母親の観客が思わず連れてきた子供の目をふさいでしまったようなあからさまな濡れ場、おもちゃ箱から飛びだしてきたような小道具(走り回るネズミ、市長の似顔絵が描いてある風船、賄賂を持った手が飛び出してくる花瓶、等々)。普通の喜劇なら明らかにやりすぎかと思えるのだが、やり過ぎもここまで徹底すると、ユニークさになっている。終わってみると、劇全体が一種のファンタジー、検察官と人違いされたために、ワードローブの向こうの国に入ってしまい、願ったことが何もかも思い通りになった若者の一夜の夢、あるいは、ウサギならぬネズミに連れられて別世界に迷いこんだ「不思議の国のフレスタコーフ」、という感じ。「アリス」のように、この不思議の世界も、不協和音、暴力、冷酷に満ちており、単なる馬鹿話ではなく、十分に諷刺の毒も効いている。

ひとりひとりの配役がよく計算されて造形されていて感心した。フレスタコーフや市長は勿論だが、ほとんど台詞のないドクターなどが何かするだけでとても愉快。市長の、大柄な妻と彼の小さな娘のコンビが、安キャバレーのコスチュームみたいな服を着て色気を振りまき、なんともおかしなお笑いコンビになっていて出色。

しばし体調の悪さを忘れ、楽しいひとときを過ごさせてもらった。しかし、前の席のお母さん、びっくりしてる10歳前後の娘達を前にしてえらく慌てていたが、後でどんな説明をしたのやら・・・。

次の写真はYoung Vic前。



















一方、直ぐそばのOld Vicでは、サム・メンデス演出の"Richard III"が始まっていた:

2011/07/07

"The Pride" (Crucible Theatre, Sheffield, 2011.7.5)

愛、孤独、アイデンティティー
"The Pride"





Crucible Theatre公演
観劇日:2011.7.5 19:45-22:00
劇場:Studio, Crucible Theatre, Sheffield

演出:Daniel Evans
脚本:Alexi Kaye Cambell
セット、衣装デザイン:James Cotterill
照明:Johanna Town
作曲:Olly Fox

出演:
1958年
Daniel Evans (Oliver, a children's author)
Jamie Sives (Phillip, a businessman)
Claire Price (Sylvia, Oliver's wife and a painter)
Jay Simpson (The Doctor)

2008年
Daniel Evans (Oliver, a freelance writer)
Jamie Sives (Phillip)
Claire Price (Sylvia, an actor)
Jay Simpson (The Man in Nazi cosume / Peter [a magazine editor] )

☆☆☆☆☆ / 5

この劇は実に台詞が素晴らしい。それで、まずは台詞を一部引用したい。親しい友人同志のSylviaとOliverの会話(2008年のシーン、訳文は下にあり):

OLIVER. Sometimes . . .

SYLVIA. What?

OLIVER. Do you ever get that thing?

SYLVIA. What thing?

OLIVER. When you've just fallen asleep, just before the dreams begin. Or maybe just after you've woken up and your eyes are open even though your mind might still be dreaming.

SYLVIA. What about it?

OIVER. The brevity of life strikes you. The brevity. The randomness. A flash in the pan.

SYLVIA. I've had that.

OLIVER. And I kind of feel then that the only thing that matters is finding some meaning, some reason, something you can slap the face of brevity with. And say I was here. I existed. I was. And then I think that the only two ways to do that are through work and relationships. How you changed people. How people changed you. And how you held on. To each other. Or at least gave it a damn good try. That's what defines your flash in the pan.

SYLVIA. Amen. (p. 94)

Text: Alexi Kaye Chambell, The Pride (London: Nick Hern Books, 2008)

(拙訳)
OLIVER. 時々ね・・・。

SYLVIA. なに?

OLIVER. ああいう気持ち感じることある?

SYLVIA. 何のこと?

OLIVER. 今にも眠りそうになっている時、ちょうど夢が始まりそうな時。それとか、目が覚めてまぶたが開こうとしてるけど頭はまだ夢の中っていうような時ね。

SYLVIA. それで・・・。

OLIVER. 人生の短さにぎょっとするんだよね。あっという間。いい加減で。まぐれの連続みたいな感じ。

SYLVIA. 私も感じたことある。

OLIVER. それで唯一大事なことがあるとしたら、その人生の短さに抵抗するために、何かその意味っていうか、理由を見つけることだと思うんだ。そして、俺はここに居たぞって言えるような。存在したんだ、生きてたんだってね。それをやれるにはふたつしか方法がなくて、仕事と人間関係だと思う。どうほかの人を変えたか。ほかの人が自分をどう変えたか。そしてその人間関係を続けたかどうか。お互いに。少なくとも続けようと精一杯やってみたかどうか。それが、人生のまぐれを決めていくんだよね。

SYLVIA. 異議なし。
(訳文終わり)

名前は同じだが血縁と言ったような直接の関係はない3人の男女、Oliver, Philip, Sylvia、の、1958年と2008年の人間関係を通じて、愛、孤独、アイデンティティーというような人間の基本的な問題に正面から取り組んだ作品。更に、OliverとPhilipはどちらのシーンでも同性愛で、お互いに引かれ合い、関係を持つので、それぞれの時代においてゲイの人々がどう扱われているか、半世紀の間にゲイの人を取り巻く環境が如何に変わったかも鮮やかに示してくれる。しかし、狭い意味のゲイの人達を扱った劇ではなく、現代人の多くが感じる孤独感を掘り下げた作品である。

58年の場面では、PhilipとSylviaは結婚しているが、表面はほがらかで明るく見える2人の夫婦仲は実は虚ろである。ある夜、挿絵作家のSylviaは一緒に仕事をしている児童文学作家のOliverを自宅に招く。OliverとPhilipの間にはすぐに強い電流が流れ始める。しかし、お堅いビジネスマンのPhilipは自分の気持ちを押し殺そうと異常なまでの努力をし、最後には彼の性的欲望を治療しようと医者にかかったりする。何しろこの頃のイギリスでは同性愛は道徳的に堕落した (pervert)、一種の病気とされ、同性愛の行為は違法であり(法律の改定は67年)、50年代には何千人もの人々が逮捕されていたくらいだった。医者は彼に薬剤による一種のショック療法を与えて、同性との性行為に嫌悪感を起こさせるような治療をすることになる。この場面が実によく書けている(以下のシーンの前で、医者が治療方法を説明したところ):

PHILIP. Yes.
  [pause]
The thing is, Doctor . . .

DOCTOR. Yes?

PHILIP. What I need to know is . . . the other things. The other feelings. I mean, the ones that aren't exclusively sexual.

DOCTOR. Yes.

PHILIP. Do they . . .  will they . . .
    There is awkward pause.

DOCTOR. The nurse will be ready for you now. And I will be seeing you again in the morning. (p. 102)

(拙訳)
PHILIP. わかりました。
[沈黙]
あのう、先生・・・。

DOCTOR. 何ですか。

PHILIP. 私が知りたいのは・・・もうひとつのことなんですが。気持ちの問題という。つまり、セックスとかそう言うのじゃない、気持ちのことなんですけど。

DOCTOR. はい。

PHILIP. そういう気持ちって・・・これから・・・。
[しばしぎこちない沈黙]

DOCTOR. そろそろ看護婦が用意しているでしょう。私は明日の朝お会いします。
(訳文終わり)

作者は、ゲイの人が何かというと彼らのセックスで定義される傾向、そしてそれが今もそれ程変わっていないかも知れないと観客に気づかせてくれる。

2008年の場面では、OliverとPhilipはくっついたり離れたりのカップルで、Sylviaは2人の悩みを聞いてやる親しい友人。2人はなかなか壊れない絆を感じてはいるのだが、精神的にも大変不安定なOliverが衝動的に相手構わずセックスをするので、真面目なPhilipは付き合いきれないと言って、関係を切ったところ。要するに異性愛、同性愛に関係なく、色々なカップルで起こりそうなシチュエーションである。半世紀経った今、ゲイの人々をめぐる環境は如何に変わったかが分かる(しかし変わらないところもあるのはOliverと雑誌編集者の会話でうかがえる)。

58年のシーンが大変押し殺された緊迫感に富み、素晴らしい。抑圧された2人の男性。Oliverは何とか自分に素直に生きたいと、積極的に出口を捜し、Philipとの関係を続けようとするが、PhilipはOliverに引かれつつも、何とかそれを押し殺し、自己否定しようと必死である。彼の無理に抑圧された感情が、暴力的な表現を取る時もある。もっとも悲痛なのは1人で苦しむSylviaである。彼女は夫がゲイであることを知るようになり、夫婦の間には超えがたい溝が出来る。彼女は、2人の関係を正直に見つめようとし、夫を理解しようと必死だが、夫は完全に自己否定をしているために、とりつく島もない。彼女は子供が出来たらその孤独感が埋められるかも知れないと、必死に望む。しかし一方で、子供を求める気持ちに疑問も感じている:

SYLVIA. But then I started to question why I wanted it so much. A child. Why it meant everything to me. The desperation. Sometimes I prayed with my whole body. I would lie next to you in bed and pray with my whole body to feel it . . . the beginning of it. The stirrings. A new life inside me. I was sure I'd know  the very night it happened.

PHILIP. For God's sake.

SYLVIA. And I thought it's natural, it's because I'm a woman. To be  a mother. That's all. So I prayed and prayed and prayed.

PHILIP. What are you saying?

SYLVIA. But then I realised that there was something else. I wanted a child because I was frightened of us being left alone. Philip. The two of us. Just us. Alone.  (p. 49)

(拙訳)
SYLVIA. でも、何故そんなに欲しいのか不思議でもあったわ。子供を。何故それが私にとってそれだけ大事だったのか。必死だったのよね。時々、全身で祈ってた。ベッドであなたの横に寝ていて、体中でそれを感じられるよう祈ってた・・・その始めの時を。かすかな動き。自分の体の中で生まれる新しい命。命が始まる最初の夜、それがきっと感じられると信じてたわ。

PHILIP. もうやめてくれ。

SYLVIA. そしてそう感じるのが自然だと思ってた。何故って、わたし女だから。母親になるってこと。それだけだって。それで、子供できて欲しいって、神様にお祈りして、お祈りして、お祈りして・・・。

PHILIP. 君、何が言いたいんだ。

SYLVIA. でも、それから何か別のことがあるって気がついた。子供が欲しかったのは、ふたりで残されるのが怖かったから。フィリップ、あなたと、ふたりだけで。私達、ふたりだけ・・・。
(訳文終わり)

聞いていて痛々しいことこの上ない台詞だった。

台本を7割くらい読んでから出かけたのだが、台本自体が大変面白い。チェーホフとかラティガンみたいな感じがある。現代演劇に関心のある方には、台本を読むだけでもお薦めできる。随所に輝くような台詞がある。但、欠点ではないかと思ったのは、せっかく素晴らしい台詞やシーンが多いのに、58年のシーンと2008年のシーンがかなり小刻みに交互に現れて、ややエピソディックになってしまい、劇全体としてのインパクトを薄めてしまったのではないかという点。また、全体として、2008年のシーンよりも58年のシーンの方に焦点を置いたらもっと力強い作品になったと思う。

4人の俳優は皆芸達者。Olivierを演じたDaniel EvansはCrucible Theatreの芸術監督でもあり、前任者で、大変好評だったSamuel Westに続いて、actor=directorである。端正な容姿に、50年代のお洒落なスーツとネクタイやベストがとてもよく似合っていた(写真左)。神経質そうな微笑みが印象的。Sylviaを演じたClaire Priceを私が見るのはこれが3本目。女優としては地味な人ではあるが、ルネサンスの古典も現代劇でもよどみない台詞回し。孤独感の表現が雄弁だった。

時代に合わせて照明や調度、衣服やヘアースタイルなどに大変細かく気を配ったJames Cotterillのデザインも、2つの時代の雰囲気と半世紀の時の流れを見事に浮き彫りにしていた。

この劇は2008年にRoyal Courtで1ヶ月初演されて以来、イギリスでは2度目の上演とのこと。しかし、既にアメリカ、ドイツ、スウェーデン、ギリシャで上演されているそうだ。2008年にはオリビエ賞と批評家協会賞(Critics' Circle Award)を受賞している。節操がないと思われるくらいイギリスの劇を次々と翻訳上演する日本で、未だに上演がないのは残念。是非やって欲しい。いや、ほとんどのゲイの人達が自分のアイデンティティーを隠して生きざるを得ない日本だからこそ、上演して欲しい傑作。

うーん、ロンドンだったらもう一回見るんだけど、そうできないのが悔しい。この台本、繰り返し読みたい本だ。

(追記)2011年12月、tpt (Theatre Project Tokyo)がこの劇を日暮里の小劇場、「d-倉庫」で上演することが、tptのブログで分かった。上演されるのは嬉しいが、もっと大きな商業劇場や新国立劇場などではないのが残念。

下の写真はCrucible Theatre。



2011/07/04

十字架に付けられた"boke" (3): 騎士の識字とThe Pastons of Norfolk

前回のポストを読み返していて、もうひとつ面白いと思える点があった。それは次の台詞である:

Yee, as I am a trew knyght,
I am the best Latyn wright
Of this company.
(まさに俺が真の騎士であるように、
ラテン語も俺たちの中では一番出来るからな。)

ここでこの騎士は自分が字が読めることを如何にも自慢げに吹聴しているのである。しかも、それを自分が騎士であることと重ねて述べている。騎士であっても字が読めることが自慢できる技術であったのだろう。というのは、識字というのは一種のテクニカルな技術であり、職人的な能力である。普通身分の高い人々はそんなことは使用人にやらせればよい。勿論彼らは学校に行ったりもしないし、この時代にはまだオックスフォードやケンブリッジ大学に行く騎士の子弟は少なかったはずだ。そして、騎士にとっては、第一に習得すべきは武芸である、という考えが強かっただろう。これはルネサンス期になっても言えること。しかし、時代の流れは徐々に変わりつつある。文書能力が、騎士や大貴族自身にも持つに望ましい技術とされる時代となりつつあったのではないか、ということがこの短い台詞からもうかがえる。

それで思い出したのか、The Paston Lettersのパストン家(The Pastons of Norfolk)である。この劇が書かれた15世紀、ノーフォークのジェントリーとして大きな勢力を誇ったパストン家だが、もともと15世紀になる頃、Clement Paston (died 1429) は貧しい農民だった。しかし巧みな農地経営により財産を築き息子William Pastonをロンドンの法曹学院に入れる。William Paston I (1378-1444) は辣腕の法律家として成功し、ロンドンの王立民事裁判所 (The Court of Common Pleas) の裁判官という、イングランドの法曹としては最高の地位のひとつにまで登り詰め、それと共に自分の領地を増やしていく。彼は騎士Sir Edmund Berryの娘Agnesと結婚して社会的地位も更に高めた。彼の息子John Paston I (1421-1466) もやはり成功した法律家であり、その息子で同名のJohn Paston II (1442-1479) は宮廷人としてパラ戦争中にEdward IV、そして後にHenry VIの軍隊の一部として、郎党の者を引き連れて参戦した。彼はまた騎士に叙され、Sir John Pastonとなった。なお、パストン家は、上流階級の豊かな家系として18世紀初めまで続く。

このように、15世紀には学問、特に法律を修めることにより平民が階級の壁を乗り越える例が出て来ており、この傾向はチューダー朝になると一層顕著になる(Sir Thomas Moreはその代表格であろう)。騎士がラテン語の能力を自慢する事もあれば、平民が学問を武器に大きな富と地位を獲得することもあったのである。

写真はパストン家が、親しかったSir John Fastolfから1459年に遺贈されたNorfolkのCaister Castle。しかしこの血縁でもないパストンへの遺産相続には疑義を挟む者も多く、パストン家は代々この城の所有権をめぐって、John Mowbray, the 3rd Duke of Norfolk等の貴族と激しい闘争(現実の戦い、あるいは法廷闘争)を続けなければならなかった。なお、シェイクスピアの描いた人物の中でも特に有名なフォルスタッフ (Falstaff)の名前は、Sir Fastolfから来たという説もあるようだ。


下の写真はThe Paston Lettersの一部。William Paston IIIが兄弟のJohn Paston IIIに1478頃送った英語の私信。このように15世紀には私信は英語も多用されただろう。しかし、法的文書や公文書ではまだラテン語が多かった。法廷記録ではフランス語も使われた。パストン家は古くからの騎士ではなく、法律家として台頭した家系なので、一般の騎士と比べると教育のレベルは特に高かったと思われる。


2011/07/01

十字架に付けられた"boke" (2): 兵士達の識字能力

6月26日のブログで書いた中世聖史劇のTonweley Cycleの1場面について、更に付け加えたい。(もしまだの方は、まずそちらをざっと読んでいただけると幸いです。)

この聖史劇のシーンでは、4人の兵士(テキストではTortorと指定されており、これはキリストのtorturer[拷問者])を指す)が、十字架のキリストの頭上に付けられた紙、又は板、に書かれた文に気づいて以下の会話をしている。

[4 Tortor]
Go we fast and let vs look
What is wretyn on yond boke,
And what it may bemoan.
(さあすぐに行って見てみよう
あの本に何が書かれているかを、
そしてそれが何の意味かを。)

[1 Tortor]
A, the more I look thereon,
A, the more I thynke I fon -- [confounded]
All is not worth a beyn!
(ああ、よく見ればよく見るほど、分からん!
何が何なんだか、ちんぷんかんぷん。)

[2 Tortor]
Yis, forsothe, me thynk I se
Theron writen langage thre:
Ebrew and Latyn
And Grew, me thynk, writen theron,
For it is hard for to expound.
(いや確かに、3つの言葉でかかれているようだぞ:
ヘブライ語、ラテン語、それにギリシャ語だ。
だから意味を取るのは大変だな。)

[3 Tortor]
Thou red, by Appolyn.  [by devil, a swearing]
(お前、さっさと説明しろよ。)

[4 Tortor]
Yee, as I am a trew knyght,
I am the best Latyn wright
Of this company.
I will go withoutten delay
And tell you what it is to say.
Behald, syrs, witterly!  [intelligently]
Yonder is wretyn 'Iesus of Nazareyn,
He is king of Iues,' I weyn.
(まさに俺が真の騎士であるように、
ラテン語も俺たちの中では一番出来るからな。
もったいつけずに、何が書いてあるか
言ってやろう。
さあ聞くが良いぞ、耳を澄ましてな!
あそこには、「ナザレのイエス、
彼はユダヤ人の王」とあるんじゃ、分かったか!
(Stevens and Cawley edition, Play23, ll. 578-97))

さて、この部分は聖書ではどうなっているか。前回既に触れた以外のことはほどんどないが、この部分は主として、ヨハネ福音書19:19-20を元にしているようなので、その部分を引用しておく。

「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには『ユダヤ人の王、ナザレのイエス』と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシャの国語で書いてあった。」 (John 19:19-20)

参考までに、欽定訳聖書ではこうなっている:

And Pilate wrote a title, and put it on the cross.
And the writing was, JESUS OF NAZARETH, THE
KING OF THE JEWS. This title then read many of
the Jews: for the place where Jesus was crucified
was nigh [near] to the city: and it was written in Hebrew,
and Greek, and Latin.

中世において読まれたのは英語の聖書ではなく(この頃聖書の英訳は禁止されていた)、ラテン語聖書であるが、そのラテン語のウルガタ聖書では次の様になっている:

scripsit autem et titulum Pilatus et posuit super crucem
erat autem scriptum Iesus Nazarenus rex Iudaeorum.
hunc ergo titulum multi legerunt Iudaeorum quia prope
civitatem erat locus ubi crucifixus est Iesus et erat
scriptum hebraice graece et latine

Johnでは兵士ではなく、勿論騎士でもなく、多くのユダヤ人 (multi . . . Iudaeorum) となっているが、限られた劇の出演者では、この位の変更は良くあると言える。また、英語の聖史劇ではユダヤ人群衆とローマ兵の区別はほとんどされていない場合が多い。

さて、前置きが長くなったが、ここで私が大変面白いと思うのは、この4人の兵士の識字能力 (literacy) である。中身がちゃんと分かるのは4番目の兵士だけのようだ。1番目の兵士は全くお手上げで何も分からないと認めている。彼は字は読めないのだろう。2人目の兵士はこれが3カ国語で書かれていることは理解しているが、内容は'hard'と言って、分からないようである。3人目の兵士については、1行しかしゃべってないので、おそらく字は読めないだろうと推測するのみ。4人目の兵士は、ヘブライ語とギリシャ語は分からないと推測されるが、ラテン語を読める。

これを純粋にキリストの亡くなった頃のエルサレムの出来事とした場合、言語はどうなるのか、私はよく分からないし、調べていないが、少なくとも新約聖書はギリシャ語である。しかし、兵隊が総督ピラトの元で働くローマ兵だとしたら、ラテン語を話しているかも知れない。一方、現地のユダヤ人などを兵士として雇っているとしたら、ヘブライ語だろうか。

しかし、これは中世末期のイングランド、ヨークシャーで書かれた劇であるので、丁度現代イギリスや日本のシェイクスピアの多くが現代服をつけ、現代風のマナーで演じられるように、様々の「中世化」(medievalisation)がなされているのは言うまでもない。ここにいるのは、実際は第4の兵士が自らを指して言うように、中世末期の'knyght'(騎士)なのである。騎士と言えば、身分はかなり高く、もちろん農民やほとんどの都市住民よりも豊かな階級であるが、4人騎士がいて、そのうちの一人だけが、極めて簡単な'Iesus Nazarenus, Rex Iudaeorum' (ユダヤ人の王, ナザレのイエス)という程度のラテン語を読めたという言うわけである。4人だけだが、ここでは識字率25パーセント。上記拙訳はある程度意訳してあるが、第4の騎士はかなり自慢げである。ラテン語の識字は、騎士が自慢できる程度に珍しかったということだろうか。また、彼は、自分が'Latyn wright'だと言っているが、wrightは特別のスキルを持っ者というニュアンスだろう。

さて、ここから色々と難しい問題が出てくる:
1. では彼らは英語の文は読めたのか。それとも書き言葉は全く駄目だったのか。
2. イングランドのやっと字の読める程度の人々が、ギリシャ文字やヘブライ語の文字をそれと認識できたのか。
3. そして勿論、実際のイングランドの中世末期における騎士階級の識字率はどのくらいだったのか。

正直に言って、どの問いにも答を持ち合わせていない。識字の問題には大変興味があるのだが、まだ専門の文献をほとんど読んでいない。更に、中世末の識字は、専門的に研究している歴史家にとっても、根拠に出来る資料が少なくて大変困難な問題である。一例としては、例えば、裁判の証人のサインなどで、自分で名前を書いている者と、名前の代わりとなる印(十字や花丸みたいな形が多いようだ。末尾の写真も参照)を書いている人の割合を非常に多くの記録に当たって調査したりするようだ。しかし、自分の名前だけサインできたからと言って、それで実用的識字能力があるとは到底言えないのは歴然としている。

1.については、実際に使われた書き言葉は、かっての日本の漢文のように、ラテン語が主であったので、「読み書き」の能力は即ちラテン語の読み書きを指した。しかし、この劇の書かれた15世紀頃より、英語が書き言葉としてもかなり広く使われるようになりつつあり、特に平民や女性においては、ラテン語は使えないが英語では簡単な読み書きが可能な人が増えつつあったのではないかと思える。

2.については、ほとんどの人は、かなり教育のある聖職者も含め、ギリシャ文字やヘブライ語の文字を見たことも無く、それと認識できなかったと思われる。ギリシャ語やヘブライ語の教育が大学などで成されるのは16世紀、ルネサンスになってからであり、この時代は、イングランドにはそうした文献もほとんどなかったはずだ(但、ラテン語訳のギリシャ古典などは読まれていた)。この部分は、Johnの記述に沿ってこのような台詞となっているのではないか。

3.はと言うと、どうなんだろう。中世の間は、識字率は人口の10パーセントを大きく下回る程度だったはず。但、騎士階級は土地財産の譲渡や管理、各種の裁判における法的な役割(有力者は治安判事などを勤めることも多い)などのために、文書をかなり扱う必要はあった。しかし、豊かな騎士や大貴族は専門職である書記を抱えていて、自分で文書を読み書きする必要はない。逆に商人、特にロンドンの富裕な商人などは、文書能力に長けているのが当然となりつつあった。都市では平民向けの学校も発展していた。一方、大貴族やジェントリー階級の屋敷には子供の世話係、つまり家庭教師やお抱えの聖職者がいて、子供の教育が任せられたが、その中心は武術や狩りなどになることも多かったようである。

簡単な結論を言うと、騎士達のラテン語識字能力は、こういうやり取りが観客に自然に響く程度に珍しかったと言うことだろう。中世の識字については、かなり前から関心を持っているテーマ。私は歴史学専攻ではなく、それ自体については初歩的な知識しか持ち合わせていないが、文学作品のより良い理解のために、今度も勉強してみたい。

簡単な研究ノートのような感じで、堅い内容になりましたが、ご意見、ご感想などありましたら、歓迎します。


上の写真はウィリアム征服王 (William the Conqueror) やその妻Matilda、Thomas, Archbishop of YorkやLanfranc, Archbishop of Canterbury等の聖職者数名が署名したウィンチェスター協約 (The Accord of Winchester, 1072) の一部。十字がサインである。但、この文書に関しては、ここに署名した人々は文字が書けないのではなく、当時の法的文書の書式に沿って十字のサインをしたようである。



上は、読み書きの出来なかったジャンヌ・ダルク (Joan of Arc) の手紙。下にサイン('Jehanne' )がある。本文は、彼女が文字の書ける人に口述筆記したようだ。彼女は文字が書けなかったが、サインすることだけは覚えたと見られている。こういう人も多かったに違いない。