2011/10/17

アングロ・ノルマンの『アダム劇』についてのノート

フランス文学研究者caminさんのブログ、「フランス中世演劇史のまとめ」で、12世紀のアングロ・ノルマン劇、『アダム劇』("Ordo Repraesentationis Adae")の項につけた私のコメントを、自分のための備忘録としてまとめてみました。なお、アングロ・ノルマン方言とは、イギリスで使われた中世のフランス語方言です。『アダム劇』はこのフランス語による12世紀の宗教劇で、聖書の物語、特にアダムの楽園追放などの創世記のことが詳しく描かれています。非常にリアリスティックな心理描写、現代劇のように詳しいト書きに特徴があり、中世西欧演劇の中でも出色の傑作と言えます。エーリヒ・アウエルバッハの名著『ミメーシス』でも詳しく取り上げられています。

(以下はコメントから)

英文学では、悪魔の心理をこの劇でのように細かく書いたのは、中世末の聖史劇でも例がなく、おそらくこの次はミルトンの『失楽園』でしょう。そのくらい時代を先取りしていると思います。また、これほどの精緻さはないのですが、アングロ・サクソン時代の古英語詩、"Genesis B"もやはりミルトン的な悪魔を描いています。"Genesis B"、『アダム劇』、そしてミルトンの間に何らかの関連、影響関係などがあるとすると面白いですが・・・。ミルトンの時代にはアングロ・サクソン文学の研究をする国学者や好古家もいましたので、ミルトンが"Genesis B"について何か知っていた可能性が皆無とは言えないとは思いますが・・・。

この劇のテキストはアングロ・ノルマン方言で書かれています。従って、イングランド文学の一部として、中世英文学のアンソロジーに英訳を入れた学者もいます(D W Robertson Jr., ed., "The Literature of Medieval England" [1970] )。ただ、写本だけがイングランドで作られ残されたけれど、もともとの上演はFrancian(パリ付近のフランス語方言)など他の地域でなされた可能性もありますが。ただ、『アダム劇』と並び称される"La Seinte Resureccion"(『聖なる復活』)もアングロ・ノルマン方言の作品であり、この時代のイングランド教会において、高度に発展したフランス語の演劇文化が目覚めていた可能性は否定できません。caminさんが指摘されているような精密なト書き、そしてそのト書きに見て取れる言葉に対する懸念の一部も、若い修道士とか教会学校の子供達と言った、考えられる上演者にとって台詞が外国語であったかもしれないと考えると幾らかは納得がいきます。

イングランドでなされた劇であれば、仏語文学自体が孤立しており、継続的な伝統を形成し得なかったとも言えます。ロマンスや叙事詩に比べ、演劇は写本の伝播によって伝わる確立がずっと低いので、他の仏語地域に写本として広まらなかったのではないかと思えます。一方、同時代のアングロ・ノルマン作品、マリ・ド・フランスの『レ』は、広く読まれたようで、模倣した作品が現れるなどの影響が出ていますね。

『アダム劇』がイングランドでの作品とすると、イングランドでは大陸と比べ典礼劇の写本が少なくて、典礼劇がそれ程行われなかった可能性も高い、ということと、『アダム劇』の後継が現れなかったことの間に、何らかの関係があるかも知れません。まあ、全てはこの劇に関する私の知識不足に起因する勝手な推測ですが・・・。

なおイングランドでは、15世紀の写本でShrewsbury Fragmentsという典礼劇(とも解釈されます)の断片が残っています。これは英語半分、ラテン語半分です。 (caminさんのブログへのコメントはここまで)

アングロ・ノルマンとは言え、仏語劇であり、私も参考書もほとんど持っておらず、暗い分野ですので、読者からの訂正など、色々とお教えいただけると幸いです。

2011/10/10

典礼劇の観衆:'The Fleury playbook'より

前のポストで書いたように、ラテン典礼劇、特に、「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulchriとか、 Quem Quaeritis playsなどと呼ばれ、イースターに行われたとされる典礼劇)の観衆は一体誰であったのか、興味深い点である。聖職者(修道士など)だけか、他の教会関係者(例えば使用人とか、付属学校のの生徒)も含むか、あるいは広く周辺の町の一般の信徒も見ているのか、分かりにくい。先日、大学図書館に行った折、英語の劇について論文集を捜していると、Dumbar H. Ogdenという学者がこれについて書いている1994年の論文にたまたま出会った(末尾参照)。彼の論文の冒頭に書かれている事を念頭に置いて、David Bevington編のアンソロジー、"Medieval Drama"に収められている、"Fleury playbook"*の「聖墓訪問の劇」のひとつ、Ad Faciendam Similitudinem Dominici Sepulcriを点検した。劇の中で、観衆について興味深い箇所をメモしておく。

この「聖墓訪問の劇」ではキリストが死後、墓所から消えており、墓参りに来たマリア達が驚いて他の者に知らせ、そしてマリア達はその後、復活したキリストと再会する。そこで、庭師(hortulanus)の姿をしたキリストはマリア達に声をかけて言う。以下の引用はラテン語(カッコ内はBevington版についている英訳):

Noli me tangere, nondum enim ascendi ad Patrem meum, et Patrem vestrum, Deum meum, et Deum vestrum.
(Do not touch me, for I have not ascended to my Father, and to your Father, my God, and your God.)

Sic discedat hortulanus. Maria vero conversa ad populum dicat:
(Thus let the gardener [i.e., Christ] depart. But let Mary [Magdalen] say, turn towards the people.)

Congratulamini mihi omnes qui diligitis Dominum, quia quem quaerebam ap[p]aruit mihi, et dum flerem ad monumentum, vidi Dominum meum, alleluia.
(Congratulate me, all you who love the Lord, because he whom I sought has appeared to me, and weeping at the tomb, I saw my Lord, alleluia.)

上記引用文のイタリック部分はト書きであるが、ここで、マグダラのマリアは、'populum' (people)に向かって話しかけている、とある。

この後天使が墓の扉の所に現れてキリストの再生を告げ、「悲しい表情を捨ててこの事を他の者達に告げよ」、と言う(Vultum tristem iam mutate; / Jhesum vivum nunciate)。マリア達は墓から立ち去り、人々に話しかける:

Tunc mulieres discendentes a sepulcro dicant ad plebem:
(Then let the women departing from the sepulchre say to the people:)

Surrexit Dominus de sepulcro, qui pro nobis perpendit in ligno, alleluia.
(The Lord has risen from the sepulchre, who for us hung on the cross, alleluia.)

Hoc facto, espandano sindonem, dicentes ad plebem:
(This done, let them spread out the shroud, saying to the people:)

Cernite, vos socii, sunt corpolis ista beati
Lintea, quae vacuo jacuere relicta sepulcro.
(Behold you companions, here is the shroud of the blessed body
Which lay abandoned in the empty tomb.)

ここではマリア達が2度、'plebem < plebs'(people, plebeians, populace)に呼びかけている。この劇における'populum'や'plebem'は単に劇の役の上での「人々」であり、彼らが教会の外から劇を見にやって来た平信徒を表すとは断定できないと考えることも出来る。しかし、一方で、この劇が教会の外の人々にも開かれていたとしたら、マリアを演じる聖職者達が、劇中の場所と時間から一歩外に踏み出して、劇を見ている観衆である平信徒達に向けて、イエスの復活の喜ばしい知らせを告げていると考えれば、教育的な宗教劇としてこれほど効果的な場面はない。加えて、これはまさに復活祭の朝課(matins)の終わりに上演されているのである。聖職者達が、古代エルサレムにおけるキリストの復活を祝うパフォーマンス(あるいは儀式)に会衆を巻き込み、会衆がエルサレムの町の人々に重ねられることで、永久の神の真実が今この瞬間によみがえる。時と場所を越えて、教会という閉ざされたステージが、世界を象徴する瞬間とも言えよう。

今回のポストは、冒頭に書いているように、次の論文に多くを負うている。

Dunbar H. Ogden, 'The Visitatio Sepulchri: Public Enactment and Hidden Rite', The Early Drama, Art and Music Review, 16 (1994) pp. 95-102; reprinted in Clifford Davidson, ed., The Dramatic Tradition of the Middle Ages (New York: AMS Press, 2004), pp. 28-35.

この論文では、その他、イングランドと大陸の幾つかの典礼劇を検討し、教会・修道院の性格や建物の構造により、典礼劇の上演が平信徒の観衆に開かれたものもあれば、そうではなく、聖職者だけの閉ざされた上演もあったと、説得力を持って論じている。

テキストの引用文は、次のアンソロジーのpp. 43-44から取っている:

David Bevington, ed., Medieval Drama (Boston: Houghton Mifflin, 1975)

* 'The Fleury playbook'は、中世ラテン典礼劇を多く収めた重要な写本であるが、フランスの中央部、ロワレ県(Loiret)にあるベネディクト会修道院、St-Benoit-sur-Loire (Fleury Abbey)において書かれたと考えられている(但、Bevingtonによると、1552年以前に遡ってこのコネクションを証明する証拠はないようである)。この修道院は西ヨーロッパでも最も重要なベネディクト会修道院だそうである。このplaybookについては、Wikipedia仏語版に独立した解説がある


なお、Fleuryの修道院については、Wikipediaの英語版、または仏語版(英語版より詳しい)。

(追記)最初にこのポストを書いた時、「観客」という近代的な言葉を使っていたが、典礼劇の場合、あくまで「劇を見たり聞いたりした人々」の意味であり、「客」とは言えない。劇が儀式でもあるなら尚更であり、彼らは遠くから「のぞき見る者」、あるいは儀式に「参列した会衆」であろう。英語の'audience'なら構わないのだが。強いて言えば「観衆」か「聴衆」のほうが良さそうだ。ちなみに、教会周辺の村や町から来た平信徒の場合、劇はあまりよく見えなくても、作品によっては、彼らの入れない内陣や地下聖堂(cript)からもれ聞こえる修道士の歌声に耳をすませている「聴衆」も多かったかもしれない。現代の大劇場で、遠く離れた天井桟敷の安い席からオペラを聴くつつましい観客のように。おそらく儀式性の強い(しばしば初期の)典礼劇では、平信徒は、謂わば傍観者としてそれを見せて(あるいは、単に遠くから聞かせて)貰ったに過ぎないだろう。しかし、そうした信徒の興味に促され、聖職者達は、この儀式が信徒に神の神秘を教える役に立つことに気づいただろう。そこで、修道院によっては、典礼劇が平信徒の観衆を意識して、時には教育的な意図を持って書かれるに至ったのではなかろうか。

2011/10/09

典礼劇の観衆についての推論

先日書いた記事の続きとして、典礼劇の観衆についてもメモ程度のことを書いておきたい。Caminさん(片山幹生さん)のブログ、「中世フランス演劇史のまとめ」に書かせていただいたコメントを修正したり、書き加えたりした部分が多いことをお断りしておく。

基本的に典礼劇の多くは儀式の形を保っており、実際、復活祭に行われる「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulcri, Quem Quaeritis plays)は当日の一連のお務めの一端として行われたと思われる。従って、典礼劇の主体は、演技をする人々(あるいは儀式を執り行う人々)も、見ている人々も、教会(修道院)の聖職者、及び使用人等の教会関係者であり、広く平信徒に見せるのが主眼ではないだろう。Caminさんは、典礼劇は基本的に聖職者が聖職者のために執り行ったと考えておられるようだ。これは、あくまでどこを強調するか、という問題だが、私は、観衆としての一般信徒の重要性をもっと考慮して良いと思う。そこで、私は、次のようなコメントをCaminさんのブログにつけた:

教会や修道院にはたくさんの下働きの人達がいました。教会学校もあり、かならずしも聖職者にはならない少年達も出入りしていたと思います。修道院は宿泊施設として貴族などにも使われたでしょう。更に10世紀くらいまでは、少なくともイングランドでは、教区教会そのものが大変少なく、教区も整備されていなかったと思われるようなので、各地の修道院(ミンスター)が地域の宗教の拠点であり、平信徒を指導したと考えられるようです。アイルランドなどのケルト教会ではその傾向は一層強かったようです。また、多くの修道院は大貴族などの寄進による設立で、貴族の私設教会的な意味もあったと思うので、そういうパトロンに典礼劇を見せた可能性もあります。平信徒の入れない内陣で演じられたとしても、町や村の人達が隔壁の間からそれを鑑賞したということもあり得ないでしょうか。いずれにせよ、私にとっては、典礼劇の観衆を理解するためには、当時の修道院と地域社会の関係も勉強してみなければならないという気がしました。 

12世紀以降の『ダニエル劇』とか、アングロ・ノルマンの劇などの場合は、"Quem Quaeritis"劇とは異次元の作品で、昔、一読した印象では、その規模の大きさとか、近代語使用から、地域社会との結びつき無しとはとても思えませんでした。

以上のコメントの中でも、特に私は、中世のベネディクト会などの修道会、カテドラル・チャプター(聖堂参事会)の多くが、現代の私達が考えるような、世俗を捨てた人々の隔絶されたスペースばかりではなく、地域社会と一体化した、人的交流の多いスペースであったことを考慮する必要があると思っている。特に大修道院やカテドラルの身廊(nave)と建物のまわりの構内(precinct)は、ほとんど街角の一部と言える様相を呈しているところもあり、例えばカンタベリーとかセント・ポールの身廊は、平時は色々な用事や、観光も兼ねた巡礼やお参りで訪れる人でごった返していたことだろう。商談や待ち合わせに利用する人もいたのではないか。実際、身廊の中ではないにしても、セント・ポール前の階段は、弁護士がクライアントを捜す決まった場所としてチョーサーでも言及されているし、構内では行商をする人々もいただろう。そういう賑やかな場所であったから、教会周辺での売春婦の客引きに対する不満をどこかで読んだ覚えもある。教会前の広場では雄牛虐めなどの残虐な見せ物が行われることもあった*。更に修道会が世俗の芸人(ミンストレル)を娯楽のために招き入れて芸を披露させることさえある。そのような、世俗との色々なレベルの交流が盛んな多くの修道院やカテドラルにおける典礼劇は、教会に集まる平信徒への教化・啓蒙も目的の一部として上演された可能性が高いように思う。

一方で、修道会の中には、非常に規律が厳しく、閉鎖性の高い修道会もあり、そういうところでは、あくまで、仲間の修道士の間での神をたたえる儀式の一端としての典礼劇であり、世俗の人々は意識されていないだろう。

このように、典礼劇の観衆や、目的には、世俗の観客にも見せることを目的とした場合から、まったくそうでないものまで様々のスペクトラムがあったのではないか、というのが、私の今のところの主観的な感想である。修道会のあり方に大変なバラエティーがあったようであるから、典礼劇にも大きな差があったと思う。個別の典礼劇の上演を、そのテキストに加え、分かるものについては上演された修道院の記録を踏まえた上で検討し、そうした個別研究を総合して始めて、典礼劇の観衆についての像が結びそうである。

以上、ちゃんと勉強していないので、根拠に乏しい推測であるから鵜呑みにしないで欲しい。今後暇を見てもう少し調べることが出来たら、このトピックについてまた書きたいと思っている。

*カンタベリー大聖堂前の広場Butter-marketは、かってBullstakeと呼ばれていた。以前に書いたこのブログ・エントリーを参照

2011/10/05

典礼劇の行われた場所は?

9月30日のポストで触れた片山幹生先生のブログ「フランス中世演劇史のまとめ」のポストをひとつずつ読んでいるが、大変勉強になる。今のところラテン典礼劇について書かれているが、私は20歳代前半に典礼劇を少し読んだだけで、その後は新しい知識を仕入れてないので、素人も同然だ(従って、この後の文に間違いもあると思うので、コメント欄でご教示願いたい)。これらの劇はラテン語で書かれているので、狭い意味での英文学(English Literature)とは言えない。しかし、イングランドで書かれたり上演されたものについては、イングランドの文学(Literature of Medieval England)の一部であると言える。更に、演劇史の一環としては、中世演劇の始まりであり、大変重要なジャンルだから、近代語の中世劇を学んでいる者にとっても、いや西欧の演劇史を学ぶ者はある程度知っておかないといけない。

片山さん(と呼ばせていただきます)は、典礼劇の観衆や上演場所、言語について比較的詳しく解説されていて、学んだり考えさせられたりする点が多い。

典礼劇は10世紀に始まり、11-13世紀頃に最盛期であったと思われる。Chuch Dramaなんて言われたりするが、上演場所は、実際は修道会所属の大修道院やカテドラルがほとんどだろう。例外的な場合はあるかもしれないが、小さな教区教会などで一般の信徒によって行われたとは思えない。というのは、これはラテン語であり、また、劇の多くはそれなりの準備とか(大きな道具類とかセットを必要とする大規模な作品もある)、知識を要するだろうから。基本的には聖職者集団が、神をたたえる儀式の一環として上演した、という性格だろう。

片山さんは、このポストで、最初の「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulcri / Quem Quaeritis plays)のような典礼劇は、基本的に一般信徒が入れない奥の内陣(chacel)で行われていて、彼らが入れる身廊(nave、教会の入り口から内陣の前まで)は使われなかったのではないか、という可能性を示唆しておられる。学者の意見も分かれる点のようで、興味深い。

カテドラル建築の一例として、カンタベリー大聖堂の例を挙げてみたい(このポスト末尾の写真も参照)。内陣と身廊の間にはスクリーン(screen)などと呼ばれる壁や仕切りがある。カンタベリー大聖堂では、もの凄く大きな門のようなものである。その門を通して中を「のぞき見る」ことは可能であるが、それほど多くの人が出来るわけではない。更に、スクリーンの手前は階段になっており、数段のステップがあるので、のぞき見る人もそう多くはないと思われる。観劇に適したスペースとは言えず、あくまでのぞき見る感じだろう。

そのスクリーンをくぐって内陣に入ると、そこは「教会の中の教会」のようなスペースである。入ったところは両側に階段状のベンチが3列程度しつらえてあり、まるで左右2面からステージを挟む小劇場のようになっている。ここが聖歌隊席(choir, quire)である。中央の廊下状になったスペースはかなり狭い(2〜3メートル)が、しかし、簡単な演劇を上演するには適したスペースではある。内陣を更に奥に行くと、今は木の椅子が置いてある割合広いスペースがあり、その向こうには6段程度の階段があって更に一段高くなっており、そして祭壇(altar)が置かれている。この祭壇前、階段下のスペースも上演に利用できそうである。

片山さんは疑問を呈しておられるが、彼のあげておられる学者のベルナール・フェーブル*によると(以下は片山さんのブログの引用)、
フェーブルは「聖墓訪問」の劇が教会の広大な内部空間をダイナミックに使って上演されたと記述している。彼は典礼劇の専門家ではないので、この部分の記述については文章中で挙げられている他、カール・ヤングやギュスタヴ・コエンなどによる先行研究に参照したに違いない。三人の聖女は教会の東にある内陣から、平信徒が座る身廊を通過し、教会の入口のそばの西側の部分に至る広大な空間を移動したとある。
身廊から内陣まで、教会の空間を一杯に利用した場合、かなりスクリーンが邪魔になり、行われているパフォーマンスがよく見えない時が多いだろう。内陣の聖歌隊席、あるいはその向こうのスペースを使うか、最初から身廊の非常に広い空間を使うか、どちらか一方のほうが合理的に見える。

しかし、そもそも聖史劇の多くは儀式、あるいは儀式の一部であると考えると、「観客/観衆」とか、「観衆がどこにいたか」を考える必要は無いかもしれない。参加者にとって都合が良いスペースであれば良いわけである。また、見ている人々がいるとして、彼らが一箇所にとどまっていたかどうかも怪しく、上演が進むに従って、演技者と共に動くことも考えられる。仮に身廊で演技が始まり、内陣へと移動したとすると、見ている人も演技者の後に続いてぞろぞろと歩いた、謂わば行進したとも考えられる。行列形式の動き(processinal movement)は中世の演劇の特色のひとつである。後の英語の聖史劇の一部が山車の上で行われ、観衆の多くは見たい山車を求めて動いたと推測されるように、中世の演劇は、上演スペースも観衆のいる場所も移動可能である。観衆と上演スペースの「固定化」は、「観客」を一箇所に閉じ込めて入場料を取り、それ以外の人を閉め出すことになった近代劇の産物である。

片山さんが書かれているように、「聖墓訪問の劇」などのシンプルな典礼劇は内陣のみの上演が適していると思われるし、大規模な劇の場合は、内陣のみでは無理なように思えるので、身廊か、あるいは、内陣と身廊の双方が使われたかも知れない。しかし、「聖墓訪問の劇」でも内陣以外のスペースが使われなかったとは言えないだろう。但、以上は何の裏付けもない素人考えであり、今後勉強してみたい課題である。

典礼劇の観衆等については、ポストを改めて書きたい。また、このポストも今後色々と考えて、適宜加筆訂正します。

*片山さんが言及しておられるフェーブルの文献とは、Bernard Faivre, 'La Piété et la fête (des origines à 1548)', Le Théâtre en France du Moyen Âge à nos jour, ed. Jacqueline de Jomaron (Paris: Armand Colin, 1992), pp. 17-101.

カンタベリー大聖堂のスクリーン:



















ここのスクリーンは建物内にある強大な門のようだ。入り口は大きい。

カンタベリー大聖堂のスクリーンから見た内陣(chancel):



















手前が聖歌隊席で、奥に見えるのが祭壇。

カンタベリー大聖堂のスクリーンから見た身廊(nave):



















突き当たりに西の出入り口。

ヨーク大聖堂の身廊部分から見たスクリーン:



















カンタベリー大聖堂のスクリーンとは全く違い、低い屏風のような作り。入り口は大変狭い。

上のスクリーンを拡大した写真:



















ヨーク大聖堂のスクリーンから見た内陣、特に聖歌隊席(choir)付近:

2011/10/01

WOWOWの『下町ロケット』を見て。

直木賞受賞作の小説を原作としたテレビドラマ(全5回)。再放送があり、妻が録画しておいてくれたので、まとめて3日で見た。とても楽しめた。

私の父は小さな下請け企業の管理職をやっていた。最初は事務所もなく、社長の自宅でそろばんをはじいていたらしい。そういう小さい会社。事務職であるから、このドラマで言うと、銀行から出向してきた経理担当の方みたいな役割だ。子供の頃、父の猛烈な働き方を見て、会社員は大変だというのをつくづく感じていた。でも、今振りかえると、大変でもとても充実していたみたいで、会社の頃の知り合いとは退職後もずっと付き合っていて、羨ましい人間関係である。ドラマを見ながら、これほど華々しくはなくても、父の職場でも、幾らかは同様の熱いシーンはあったんだろうな、と思った。

このドラマ、配役が豪華。脇役も、良く知られたベテランを配置し、下手な人がいない。だから、全体にとても厚みを感じる。ストーリーはエンターティメントなので、最後は予定調和のハッピーエンドだし、人物像も複雑なキャラクター作りがされてなくて、皆、善悪がはっきりしていることは物足りないが、番組がそういう性格なんだから仕方ないか。現実は、例えば会社の乗っ取りを謀る側にも、それなりに正当化しうるビジネス上の理屈とかモラルみたいなものがあるんだろうけどね。

寺島しのぶ、一番格好いい! 正義を守る弁護士なんて、今時食っていけないだろうけど、夢物語でも、見て楽しかった。但、彼女を見つつ引っかかったのは、では他の女性はどうか、ということ。皆、恋人とか、奥さんや母親、娘の役割。働く男達と、彼らが保護する女性達のパターン。これ、英語で言うと"patronizing"(イギリス人はとても嫌う態度)。科学者や技術者や営業部員に女性がいないじゃん! きっと現実もそういう時代だったんだよねえ。それがこのドラマを、サラリー「マン」オンリーのドラマにしてしまっていたのは残念。舞台が今の会社だったら、大分違っている(?)と思いたい。

こういう男ばかりのドラマ、イギリスではまず見ないなあ。どんなドラマでも、強い男と同様に、強い女が出てくる。たまには、時代錯誤、と思う程。つまり、そんな昔に女性の管理職がいたのか、とか。でも無理矢理でも主要なキャラクターに女性を入れる気がする。でないと、イギリス人女性が見たら気分を害するのじゃないかな。