2011/12/18

『みんな我が子』(新国立劇場、2011.12.17)

今の日本にも通じる傑作
『みんな我が子』 

新国立劇場公演
観劇日:2011.12.17    14:00-16:25
劇場:新国立劇場 小劇場

演出:ダニエル・カトナー  Daniel Kutner
原作:アーサー・ミラー Arthur Miller
翻訳:伊藤美代子
美術:堀尾幸男
照明:笠原俊幸
音響:長野朋美
衣裳:宮本宣子

出演:
ジョー・ケラー:長塚京三
ケイト・ケラー:麻実れい
クリス・ケラー:田島優成
アン・ディーヴァー:朝海ひかる
ジョージ・ディーヴァー:柄本佑
ドクター・ジム・ベイリス:隆大介
スー・ベイリス:山下容莉枝
フランク・リュピイ:加治将樹
リディア・リュピイ:浜崎茜

☆☆☆ ☆/ 5

久しぶりの観劇であったが、素晴らしい演目と、芸達者達の演技で、大変満足して劇場を後にした。アーサー・ミラーの3つの傑作(『セールスマンの死』、『坩堝』、そしてこの作品)は、多少演技や演出にばらつきはあっても、はずれのない説得力を見せる名作だ。今回は、主演の夫婦を演じた2人は素晴らしい存在感で、失望する訳もない。また、クリス役の田島優成、スー・ベイリスの山下容莉枝が、特に説得力を感じさせた。朝海ひかる、私ははじめて見たと思う。可愛いし、素敵な女優で、爽やかなんだけど、どうしても宝塚の人は、あの作りものの、うわずったような宝塚色が抜けない。他の人なら、とつい考えてしまった。

私はウエスト・エンドとナショナル・シアター(コテスロー)で2つのHoward Davis版を見てしまったので、それと比べてしまうのはどうしようもない。ナショナルでの公演は随分前でもう忘れてしまったが、去年の夏に見たウエストエンドでのデビッド・スーシェ、ゾーイ・ワナメーカー、ジェミナ・ルーパー等の演技は、健忘症の私でもまだ記憶に新しい。欧米人同士であるイギリス人が原文のテキストでやるのと、全く異文化の日本人が、異質の言語である日本語に翻訳されたテキストでやるのでは、基本的なところで違うのは仕方ない。翻訳も、しばしば人工的な台詞が気になった。長塚京三のジョー・ケラーは、スマートすぎ、線が細い。アメリカの田舎町の中小企業のオヤジである。ずる賢く、ふてぶてしい男なんだが、長塚版だと、繊細で都会的に見えてしまう。ケイトも、麻実れいはあか抜けすぎ、町工場の社長の奥様には見えない。とまあ、ケチを付けると少しの不満はあるのだが、それは日本での公演であるから言っても仕方ないこと。

セットも明るくてスマートすぎる印象を受けた。演技が見やすい、明るいセットだが、劇の内容は非常に重苦しいので、いまひとつそぐわないと感じた。逆に明暗のコントラストを感じさせる、という意見もあるだろうが。

目先のビジネスとか、組織の中や地域の評判に捕らわれて、「何とかなるだろう」と道徳的な問題に目をつむり、それが人命に関わる大事件になる。更に、そこで小人根性になって自分の誤りを認められず、嘘を嘘で塗り固め、自己正当化を図り袋小路に陥る・・・、と考えること、この劇と同じような事は、福島の原発事故に関して、(朝日新聞の連載「プロメテウスの罠」で報じられているように)色々な組織で繰り返し見られたことではないだろうか。しかも、日本の役所や企業の場合、ジョー・ケラーのような人で、そのまま嘘の上塗りをして最後までごまかし続け、ケラーのように「会社とは(役所とは/政治とは)そんなものだ」とうそぶいて人生を終える場合が多いのではないか。個人の倫理観が弱く、組織の力が圧倒的に強い日本でこそ、一層説得力を感じる劇かも知れない。

粗筋をお知りになりたい方は、ウエストエンドで見た時のブログ・エントリーをご覧下さい。