2012/03/29

"Collaborators" (Cottesloe, National Theatre, 2012.3.28)

スターリンとブルガーコフ
"Collaborators"

劇場:Cottesloe, National Theatre
製作:National Theatre
観劇日・時間:2012.3.28, 19:30-22:00 (1 interval)

脚本:John Hodge
演出:Nicholas Hytner
デザイン:Bob Crowley
照明:Jon Clark
音響:Paul Arditti
音楽:George Fenton

配役:
Mikhail Bulgakov: Alex Jennings
Yelena, his wife: Jacqueline Defferary
Joseph Stalin: Simon Russell Beale
Vladimir, a censorship officer: Mark Addy
Grigory, a young writer: William Postlethwaite
Praskovya, a teacher: Maggie Service
Anna, an actress: Jess Murphy
Doctor: Nick Sampson
Vassily, ex-aristocrat: Patrick Godfrey


今回は、疲れのせいか、食事が重かったのか、劇を見る前にすでにとても眠くて大失敗。前半ずっとこくりこくりしていて、半分居眠りしたままインターバルになってしまったので、ちゃんとした感想が書けない。でも後半はしっかり見たので、一応感じたとことを書いておこう。

John Hodgeが書いた新作戯曲を国立劇場の芸術監督Nicholas Hytnerが演出。彼はこうした政治劇は上手い。主演はAlex JenningsとSimon Russell Bealeという芸達者で、この3人なら駄作は考えにくいし、実際なかなか面白いアイデアを巧みに舞台化した作品だが、前半の眠気を吹き飛ばしてくれるほどではなかったし、一生懸命見ていた後半も、いまひとつ引き込まれなかったのは何故?私の期待が大きすぎたかも。

題材は、ソビエト連邦、20世紀前半の大作家ミカエル・ブルガーコフとソ連の文化統制、そしてスターリンとの関係。スターリンの支配下にあるソ連は、厳しく芸術家を統制し、また、全土で粛清を進めていたのは言うまでもない。その中で、体制批判の筆を折らずに何とか生き延び、かつ執筆活動を続けたいブルガーコフだが、仲間も発表の場を奪われ、自分自身や妻にも危険が迫る。国家の検閲官が彼の自宅を訪れ、彼をどこか分からぬ場所に連行するが、そこに現れたのはスターリンその人自身だった(ここはフィクション)。ブルガーコフはスターリンを英雄視する伝記劇を書くよう命じられるが、到底不可能と言う。そうするとスターリン自身がその原稿を書いて、それをブルガーコフの名前で発行するということにしようと提案。事実上の命令である。スターリンの自伝劇をブルガーコフが書いたことにするというのだ。その見返りとして、ブルガーコフは自分の新作『モリエール』の公演を許されるという条件である。一種の隠れた転向、仲間たちに対する裏切りである。スターリンとの役割の交代はそれだけに及ばず、二人で協力して執筆するうちに、ブルガーコフはスターリンに政治についてもアイデアを提供するようになる。そして、自分の友人たちにまで、強権政治を国家安寧のために正当化するようなことを言うようになった。そして、そのつもりではなかったにしても、ブルガーコフのその場逃れのアイデアがスターリンに取り上げられて、大粛清の引き金を引くことにさえなってしまう。

これをストレートにやると、国家権力の恐ろしさを描く非常にシリアスで暗い劇になりそうだが、Hytnerは、ブルガーコフの作品を手本として、大変幻想的で、ユーモアをふんだんに取り込んだ、謂わば、全体主義ソ連を舞台にした『不思議の国のアリス』みたいにして見せた。戸棚の中に若者が住んでいたり、その戸棚を入り口にしてスターリンが出たり入ったり。キャロルだけでなく、C S ルイスも思い起こさせる。役者が踊りながらテーブルや椅子を運び込んで場面転換をしたシーンなど、ファンタジックで、上手いなあ、とため息。俳優の演技も、演出意図に沿って、デフォルメした、やや漫画的でギクシャクした動きや台詞による人物造形である。全体としては暗く青みがかった照明に、明るいハイライトをさっとあてて、明暗がくっきり分かれる舞台作りも巧み。人の生死、歴史の動きを、乱調のジャズに乗せて表現した。

そう書いてみるととても面白い劇のようなんだが、いまひとつ心に響かないのはどうしてだろう。軽いトーンで進めてしまったために、スターリンの恐ろしさ、ブルガーコフの置かれた状況の悲痛さのインパクトが十分伝わらなくなった気がする。『アリス』的にしつつも、カフカの『審判』のような恐ろしさがかもし出せなかったものか、と残念。また、ブルガーコフがスターリンに利用されただけで劇が終わるのも、これでいいのか、という気がした。実際には、彼は作品の発表ができないまま、後にソ連時代の文学の金字塔となる名作をひそかに書き続けていたのではなかったか。私が居眠りしていて前半が良くつかめなかったのかもしれないが(というわけで☆は付けていません)。もっと良いコンディションで見たかった。もう一回しっかりと見たいものだが、残念。でもこの公演、4月31日からOlivierにトランスファーするそうだから、それから2,3ヶ月は続きそうだ。

2012/03/28

"Bingo: Scenes of Money and Death" (Young Vic Theatre, 2012.3.27)

シェイクスピアの晩年の苦悶を通じて芸術家と
実人生の関係を探る
"Bingo: Scenes of Money and Death"

劇場:Young Vic
製作:Chichester Festival Theatre and Young Vic
観劇日・時間:2012.3.27  19:30-22:00 (1 interval)

原作者:Edward Bond
演出:Angus Jackson
デザイン:Robert Innes Hopkins
音響:Ian Dickinson for Autograph
音楽:Stephen Warbeck
照明:Tim Mitchell

配役:
William Shakespeare: Patrick Stewart
Judith (his daughter): Catherine Cusack
Ben Johnson: Richard McCabe
Old Man: John McEnery
Son: Alex Price
Young Woman: Michelle Tate
Old Woman: Ellie Haddington
Willaim Combe: Matthew Marsh

☆☆☆☆/5

不思議な劇だ。私の英語力不足以上に、内容理解の上でもよく分からない部分もかなりあった。しかし見終わった時に圧倒的なインパクトを感じた上演だった。リビューも大きく評価が割れているようで、一般の観客の印象も様々だろう。

シェイクスピアは晩年ロンドンからストラットフォードに戻って、あの巨大な(町で2番目に大きなお屋敷だそうだ)New Placeと呼ばれる家で、悠々自適の生活をした、と私は想像していた。しかし、作者エドワード・ボンドは、当時の地方都市の厳しい時代背景を、芸術家としてのバードが一家庭人として長年留守にしていた自分の家族に溶け込めない様子と組み合わせ、彼が苦悩の晩年を送ったと解釈している(ちょっと夏目漱石みだいだな)。その想像の当否は分からないが、この作品の一番の要点は、芸術家と現実生活のねじれた関係と言うことだろう。

作品のひとつの柱は、ウィリアム(ウィル)と娘Judithの関係。娘は母親(ウィルの妻のアン)と共に、シェイクスピアから長年捨てられてきたと思っている。そして知識人で大劇作家の父との間に越えがたい溝を抱えている。ウィルのほうも、どうやって娘や、病気で寝たきりのアンとの関係を取り繕えば良いのか分からず悩む。作品では人間の心理のこまごました面まで理解しているように見えるウィルが、自分の家族のこととなると、何を言っても裏目に出る。ただ、このあたりの台詞や行動、もっと分かりやすく出来たと思うが、どうも難解で、実感として迫りにくい。ウィルの心がいまひとつ私も理解できなかったが、英語の理解不足のためもありそうだ。台本を読んでみたい。

大変豊かに描かれているのは、ウィルの周りの社会。当時のイングランドの地方では、Enclosure(囲い込み)と呼ばれる公有地の牧草地化が進み、そうした公有地に大きく頼っていた零細農家が大地主によって取り込まれていった。また、ピューリタンなど教条的な宗教改革者たちのために、社会全体が不寛容になっていた。ウィルはそうした社会の傾向に悩みつつも、一方で賢い投資家として、町の有力者Combeに手を貸してEnclosureに協力する。彼が一時守ってやろうとした若い女性の浮浪者は、絞首刑になって、その遺骸は長らくさらされたまま。狂信的とも言える(ピューリタンの?)説教師は、後に自分の父親を殺害する。

ウィルと、彼と親しいちょっとピントのはずれた老人との関係はリアとフールにそっくり。『リア王』におけるパブリックとプライベートのねじれた関係は、この作品にも当てはまる。老人を演じたJohn McEneryが大変印象的。娘のJudithは長年父に捨てられてきたと思い込んでいる意固地で現実的な娘。突然、長年の単身赴任から帰宅した父に戸惑う中年の生活に疲れたオールドミス。彼女のいちいち棘の立つ台詞がウィルの胸に突き刺さる。Catherine Cusackは説得力たっぷり。しかし、説得力といえば、何と言ってもウィルを訪れたBen Jonsonを演じたRichard McCabeが凄い迫力だ。シェイクスピアへの才能と世俗的な豊かさへの嫉妬心、自分の経済的苦境への不安など、屈折した心理を畳み掛ける台詞で吐き出す。この劇が気に入らない評者でも、Ben JonsonのキャラクターとMcCabeの演技だけでは高く評価すると思う。出番は比較的短いが、役者冥利に尽きる役柄だろう。いかにも地方都市の財界人といった風貌のWilliam Combeを演じたMatthew Marshも忘れがたい。「こういう人、いるいる」、と日本の財界人やら、管理職やらを思い出しつつ、見た。

衣装が凄い!席が前から2列目の席だったのでよく見えたが、まさに、今使っています、というリアリティー。庶民の素朴な服も、Combeの豪華な服地の装いも素晴らしい。こういう細部でも、日本でやるシェイクスピア劇なんかと比べて超えがたい差が出来てしまうんだろうが、自分の国の歴史的コスチュームなんだから仕方ない。これなんかを見てると、日本のシェイクスピア劇の衣装は、西欧人のデザインで西欧人の歌手の着た蝶々さんの和服みたいなもんだ。

シンプルな舞台に本物の暖炉の火が燃え続け、大きなアクセントとなっていた(日本では消防法がうるさくて不可能かな?)。途中で使われた雪とその純白を照らす照明も効果的!また、絞首刑になった若い女の死に顔は、ミラーの『坩堝』がかもし出した空気を思い出させた。Robert Innes HopkinsのデザインとTim Mitchellの照明を賞賛したい。

マッケランやデンチなど、出てくるだけで、技術的な上手い下手を超えて、その人の経てきた人生、持っている人格で役を分厚く出来るような俳優がいると思うが、パトリック・ステュアートもそういう役者だと思えた。この人がシェイクスピアです、といわれても、ほとんどの役者では納得できないだろう。でも彼は本当にシェイクスピアに見えた。私の大好きなタイプの劇、素晴らしい脚本、素晴らしい役者たち!

今は、批評家の間でも評価が大きく分かれるこの劇だが、数十年後にはどういう評価を受けているだろうなあ。

2012/03/25

"Hay Fever" (Noël Coward Theatre, 2012.3.24)

カワードの言葉の魔力が凄い
"Hay Fever"

劇場:Noël Coward Theatre
観劇日・時間:2012.3.24, 19:30-21:30 (1 interval)

脚本:Noël Coward
演出:Howard Davies
デザイン・衣装:Bunny Christie
音響:Mike Walker
照明:Mark Henderson

配役:
Judis Bliss (ex-actress): Lindsay Duncan
David Bliss (novelist, Judis's husband): Kevin R McNally
Simon Bliss (their son): Freddie Fox
Sorel Bliss (their daughter): Phoebe Waller-Bridge
Richard Greatham: Jeremy Northam
Myra Arundel: Olivia Coleman
Sandy Tyrell: Sam Callis
Jackie Corydon: Amy Morgan
Clara (maid): Jenny Galloway

☆☆☆☆★/5

Judith Blissは元女優で、一年ほど前に引退し、悠々自適の生活を楽しんでいる。夫は小説家で、一日の大半を書斎に閉じこもる生活。夫婦は、それぞれ人生をもう少し華やかなものにしたいと思い、ある週末、自宅にそれぞれ異性の友人を招くが、あわよくばひと時の気楽なロマンスを楽しみたいとの虫の良い打算をいだいている。一方で、2人の間には年頃の娘Sorelと息子Simonがいる。ふたりとも我侭でボヘミアン、そして能天気でピンボケのどら息子と娘。この2人もまたその週末にそれぞれの恋人を招いてしまったから、合わせて4人の客が泊まりにくることになり、大騒動。それでなくてもぶっきらぼうな家政婦のClaraは、一段とご機嫌斜め。やってきた客は、とぼけた4人家族に皆てんでに振り回され、そのうち、客同士で仲良くなったり、Bliss家の突拍子もない振る舞いに対してこぼしあったりする。主に個々のシーンのおかしさ、台詞での言葉のずれでずっこけたりして笑わせるのだが、大きなプロットらしいプロットはない。どたばたシーンは少しはあるが、'Private Lives'と比べてもアクションは多くは無くて、あくまで言葉の面白さがミソの劇。それでこれだけ面白くなるんだから、脚本自体の言葉が実に巧みに書いてあるのだと思う。残念ながら、戯曲を読んでないので、可笑しなところが聞き取れない時が多くて、大変悔しかった。

劇はBliss家の田舎の邸宅の居間を舞台としているが、女優や小説家、そして画学生(息子Simon)の家らしく、画家のスタジオのような、田舎風なのにモダンなインテリア。ビクトリア朝風のドローイング・ルーム・ドラマのかび臭さを感じさせない。

Lindsay Duncanはあらためて褒めるのもおこがましいが上手い。Jeremy Northamも凄い。日ごろ、低い苦みばしった声の渋い二枚目役者として、私はイギリスの男優の中でも特に好きな人なんだが、この劇の役どころは、朴訥で内気、ソフトで不器用な公務員(外交官のようだ)。これがあのNortham?としばらく分からなかった。他では、特にBliss家のバカ息子、バカ娘が、実に突拍子も無い連中で愉快。特にPhoebe Waller-Bridgeは最高の滑稽さ!息子を演じたFreddie Foxは、透き通るような白い肌と金髪の美男だが、BBCのクライム・ドラマ, 'The Shadow Lane'でホモセクシュアルのギャングの若い愛人、そしてやがて自分も残忍な犯罪に手を染める冷血の若者を好演していて覚えている。彼はEmilia Foxの弟で、Edward Foxの息子。

最終的にこの劇の心温まるところは、そろそろ老境の入り口に立ち、倦怠感漂う夫婦と、親を離れ始める年頃の子供からなる一家がばらばらになりそうな時期にさしかかるが、それぞれの恋人をだしにしてお互いの愛情を確かめ合い、一家の結束を取り戻すというところか。ただ笑わせるだけでない家族のドラマとしての骨組みが全体を支えている。さすがCowardの代表作と見なされるだけはある。劇のタイプとしては私の最も好きな内容の作品ではないので付けた星は4つだけど、この種の公演ではこれ以上は望めないと思える最高のエンタティメント。それにしても、だしに使われた恋人たちは大迷惑!

2012/03/23

ロンドン・アングロ・サクソン・シンポジウムに行ってきました。

The First London Anglo-Saxon Symposium
'The Anglo-Saxons: Who? Where? When? Why?'

Institute of English Studies, University of London, 21 March 2012

昨日21日、ロンドン大学のInstitute of English Studies(英文学研究所)で開かれた標題の学会に行ってきた。私はアングロ・サクソンの文学や歴史の研究をしているわけではないが、この学会は、開催の主旨に、一般の、関心のある聴衆も歓迎すると書いてあったので、気軽に聴講できるかな、と思って参加。それに、今年の1月から2月にかけて私自身も初歩的な内容であるが、アングロサクソンについての公開講座を担当したので、久しぶりにあらためて興味を喚起され、もっと学びたいと思っていたところでもあった。

3時から始まり7時過ぎに終わるまで、20分の発表が6つ、15分の発表が2つという盛りだくさんの学会。一般の人らしき聴衆もかなり混じり、また学部生もある程度いたと思う。70-80人くらいだろうか。比較的小さな部屋で、満員だった。イギリスの学会に行くと、いつも自分の語学力の壁で苦労するが、今回も例外でなく、十分に理解して満足できるほど吸収した発表はひとつもない。しかし、ある程度面白く聞けた発表もあり、行って良かったとは思う。一般の聴衆も加わっていることを意識して、発表者は初歩的なイントロダクションも含めて、話をしていたので、内容は普通の学会より理解しやすかった。この学会は、同じように一般聴衆にも開かれた形でこれからも毎年開きたいと、開催者の先生が言っていたので、来年もこの季節にあるかもしれない。たまたまロンドンに来る機会があったら、また聴講したい。日本の大学の先生も一応春休み期間中だが、今頃は絶対に休めない卒業式があり、また新年度の準備で忙しい時期なので、なかなか出席は難しいだろうなあ。私はこの分野の研究書や論文を読むことはないので、講師の先生は私の知らない人ばかりだったが、司会をした先生は、Jane RobertsやClare Leesなど、私でも名前を知っている大御所が含まれていた。

さて、聞いた事で、大分理解できたことの中から、興味を引かれた点を、私の主観的な感想も交えつつ2,3紹介してみたい。ただ、私の英語力も理解力も自分でも全く当てにならないので、発表の正確な報告は出来ないので、その点をご了解の上、割り引いて読んでください。

2つの最初の発表では、アングロ・サクソン人のブリテン島侵略について、歴史学と考古学の2人の先生が論じた。昔の一般的な歴史書や教科書などでは、アングロ・サクソンがケルト人(ブリトン人)を、のちにイングランドと名づけられるようになる地域から追い出した、というように書かれているが、もっと段階的な侵略(かつ移民)であり、またブリトン人との同化のプロセスであった、ということが色々な状況証拠から説明された。こういう人種的な問題については、大昔のことでも、その時代の歴史学者の視点によって記述が大きく変化してきた。19世紀から20世紀始めの学者、特にドイツの学者などはそうだが、ゲルマン民族の民族的優位性を当前とする立場であり、アングロ・サクソン人に肩入れした視点で書く傾向があった。20世紀、特に第2次大戦以降、現在のイングランドはもちろんのこと、歴史的にも連合王国が多民族多文化社会として見直しをされ、また西欧全体としてはホロコーストの深い反省の元にたった現在の歴史学は、基本的な視点が大きく違い、中世のイギリスもいくつもの民族の交じり合った社会と考えるようになったわけである。アングロ・サクソン人の社会にも多くのブリトン人奴隷が存在し、Ine's Lawなどの法律で彼らの処遇について触れてもいる。また、ブリトン人を大量に虐殺したり、ウェールズなどの周辺地域に追い出してしまったりするには、あまりに彼らの数は多かったはずとのこと。Stentonなどが地名にケルト系の名前が非常に少ないことを挙げているが、これもあまり当てにならないらしく、イングランド西部には結構ケルト由来の名前は残るそうだ。そもそも5-6世紀頃は、農耕経済で、大きな町は出来にくく、したがってその後ずっと継承されるような地名も出来にくかったはずだ。そして何よりもこの時代の歴史的文献として最も重要視されるビードの『英国教会史』だが、ビードはブリトン人に大変敵意を持っていたことは明らかなので、その点を割り引いて読む必要があるという。彼の居たのが北イングランドで、北方の異民族との争いにおびえていたことがそうした傾向を生んだのかもしれない。

更に、昔の研究者はアングロ・サクソン人の侵入と言う時点からのみこの過渡期を見がちであったが、前提となるローマ時代のブリテン島についての知識や研究がこれまで不十分であったとのこと。Roman Britainと言っても、単純なものではなく、色々な地域差や民族的な複雑さも含んでいた。たとえばブリテン島に来たローマ兵だって、イタリア半島から来た人なんてごくわずかで帝国の各地からやってきた多民族・多言語の混成部隊で、更にそのローマ人が現地のブリトン人と交じり合っていた。ローマ人はブリテン島にローマ帝国風の建物を建てたというが、ロンドンなど大都市の一部の建物を除き、当時の建物のほとんどは木造の農家で、アングロ・サクソン時代の農家と大して変わりない。ローマ風のVillaがイングランドでも建てられたが限定的で、4世紀に限られるとのこと。また、「アングロ・サクソン人の侵入」というが、実際にはフリージア人の移民も大量にあったそうだ。最近は、DNAの解析から民族移動を調べる研究も行われているが、これはあまり助けになるような成果は上がっていないとの頃。

(サトン・フーの金貨)

もうひとつの話で、私の関心を持つことからはかなり遠いが大変面白いと感じたのは、大英博物館の方が話したアングロ・サクソン時代のコインについての話。ローマ人はブリテン島でコインを鋳造し、貨幣経済が発達していたが、彼らがブリテン島を去り、5世紀の始め(510年頃?)にコインの鋳造もストップした。しかし、ローマのコインの使用は終わったわけではなく、その後も数十年間(a few decadesと言っていたと思う)はそれ以前に作られた帝国のコインがの流通が続いた。発掘物によると、コインの使用は東部で多く、西部では少ないそうだ(これは東部が大陸との交易が多いためかもしれない?)。その後、5、6世紀、そして7世紀の始めまで、ブリテン島ではコインは鋳造されないが、その期間の発掘物からもコインが発見され続けている。後の時期の発掘物になるにつれ、ローマ時代のコインから、フランク王国や西ゴート王国のコインに変わってきているようだ。コインは必ずしも金銭として利用されるとは限らず、ペンダントとして、あるいは首飾りにつけられたりして、装身具としても利用されることが多かった。また金銭として利用される際、1枚のコインの金や銀の量を調節するために、コインを半分とか3分の1とかカットしたり、逆に、そうした断片を別のコインに打ち付けて金や銀の量を増やし、価値を増したりもしたそうで、これは大変面白いと思った。更に、まったくコインの形をしていない金や銀の小片も、貨幣として利用されたらしい。

イングランドで鋳造されたコインとしては7世紀始め(620年代から640年代頃)が始まりだそうだが、最初のコインは、金銭としての利用か、ペンダントかはよく分からない。5-7世紀のコインは、貨幣としての機能的な意味に加え、シンボリックな意味も大きかった。つまり、発行した為政者の権威づけ。特に、ローマの、そしてキリスト教徒の支配者としてのアイデンティティーの表現と誇示であるとか、価値体系を支配できるという権力の誇示、そして貴重な金銀を集めてコインを鋳造できるという富の誇示、など。実際に庶民の日常生活での使用頻度はそう高くなかったのではないか(この点は聞き逃した)。なお、サトン・フー遺跡(7世紀)では多くのコインが発見されているが、2009年の大発見、スタフォードシャーのアングロ・サクソン遺跡(7-8世紀)では、3500点もの発掘物があるにもかかわらず、コインは全く無いと言っておられた。Wikipediaによると、スタフォードシャー遺跡では軍事的な色彩の物品が出ており、女性だけが使うものは全く無く、日常生活に使うようなものは少ないようである。

また、コインの話に続いて、『ベーオウルフ』における'Economy'についての発表もあった。 英語の聴解力が十分でないことに加えて、私自身が作品自体に疎いので細部が良く理解できなかったが、それでもこの古典について今まで考えていなかった新しい視点を提供してくれた。この作品は、伝統的には、ゲルマン民族の英雄観とか、キリスト教的な視点からの寓意的解釈、異教的要素の探求などの研究が多かったと思うが、今回の講演では、作品に貸し借りや支払いに関する語句が大変多いことに注目している。たとえば現代英語で言えば、'pay(ment)', 'repay(ment)', 'debt', 'indebted(ness)', 'reward', 'gift'等々に関連した表現である。こうした表現は、アングロ・サクソン人の価値観、主従関係などと密接に関連し、物語の骨格をなしている。一種の'economy of exchanges'(交換経済)が伺える。主人公ベーオウルフは、非常に几帳面にこのexchangeのモラルに忠実だが、それが微妙に崩れた時、波乱が起こる。グレンデルや宝の塚を暴いた盗賊、そしてドラゴンは、そうした交換システムの滑らかな働きを乱すものたちだ。そういう中で、交換の媒体になるもの(ギフト、報酬、女性)に注目したり、それが我々から見て妥当かどうかを検討したりも出来る(ベーオウルフがフロースガールから受けたギフトは、彼の命がけの働きに見合うものだったのだろうか、とも問いかけておられた)。

アングロ・サクソン時代の文字や写本についての講演もあったが、英語が良く分からなかった。ただ、ルーン文字と古英語、そしてラテン語が混在することがあるというのは、当然かもしれないが、言われてみてなるほどと思った。有名な'Franks Casket' {British Museum所蔵)もその一例。一方、'The Dream of the Rood'(十字架の夢)という詩がルーン文字で刻まれていることで有名なラズウェルの十字架(Ruthwell Cross)はルーン文字で刻まれた古英語と共にラテン・アルファベットによるラテン語も刻印されているそうだ。また、写本でも、アルファベットで書かれた写本の余白にルーン文字のコメンタリーが書き加えられているものもあるとのこと。ラテン語と古英語、そしてアルファベットとルーン文字の混在、なかなか面白い。ラズウェル・クロスの場合、古英語の文がルーンで刻まれている。古ノルド語など、他のゲルマン語もルーンで刻まれている例は多いだろうが、では、ラテン語がルーンで刻まれることはあったのかしら。やはりこの文字はゲルマン語と切り離せないものだったのだろうか。

(Franks Casket)

(Ruthwell Cross)

残りの発表は、残念ながらさっぱり分かりませんでしたが、どうも私には関心の無い内容だったような気がするので、まあいいか。

2012/03/21

Museum of Londonの中世彫刻から

昨日20日もまたMuseum of Londonに行って、前回見終わらなかったものを見てきました。その中から、中世の彫刻の写真を載せます。

最初はSt Christopher(聖クリストフォロス)の彫刻2点。彼は3世紀(または4世紀)頃の小アジア(今のトルコ)の殉教者とされていますが、中世に生まれ広まった伝説によれば、子供のキリストを背中に背負って、水かさの増した川を命をかけて渡った、という話が伝わっており、旅人や船乗り、渡し守などの守護聖人として大変人気のある聖者で、中世の教会には沢山の彫刻があったようです。また絵画でもかなり残っています。最初の彫刻はキリストを背中に背負っています:


次の顔の彫りものはJohn the Baptist(洗礼者ヨハネ)だそうですが、どこでわかるんだろう?


次は、擬人化された4人の徳(Four Virtues)です。もともとはロンドンのギルドホール(大体において市役所にあたる場所)のポーチにあったようですが、1788年にポーチが破壊され、これらの彫刻は売却されました。20世紀にウェールズの庭で発見されたとの事。女性の姿で、表わしているのはTemperance(中庸)、Fortitude(強さ)、Justice(正義)、そしてPrudence(慎重)。但し、どれがどれを指しているのか、確定していないとのこと。4人のうち2人は足元に誰か(罪人でしょうか)を踏みつけにしているので、その2人がFortitudeとJusticeのいずれかであることは間違いないでしょう。昔はきっと見る人にすぐわかるようになっていたのかと思いますが、今はかなり磨り減ったり壊れたりしていますからね。作者は14世紀始めの石工の親方(Master Mason)John Croxtoneとのこと。




最後は2つの木彫の天使。ロンドンの建物から取り除かれたものらしい。1400年ごろ製作。木で出来ているせいもあってか、素朴なあたたかみを感じます。羽は鳥の羽みたいですね。着衣は修道士の服のようです。



2012/03/20

"Filumena" (Almeida Theatre, 2012.3.19)

苦しい人生をしぶとく生きぬく肝っ玉母さんの話
"Filumena"

劇場:Almeida Theatre
製作:Almeida Theatre
観劇日・時間:2012.3.19  19:30-21:30 (one interval)

原作者:Eduardo De Filippo
翻訳:Tanya Ronder
演出:Michael Attenborough
デザイン:Robert Jones
音響:John Leonard
照明:Tim Mitchell

配役:
Filumena: Samantha Shapiro
Domenico: Clive Wood
Rosalia: Sheila Reid
Alfredo: Geoffrey Freshwater
Umberto: Brodie Ross
Riccardo: Luke Norris
Michele: Richard Riddell
Diana: Emily Plumtree
Lucia / Teresina: Victoria Lloyd

☆☆☆/5

イタリアの20世紀中盤の大作家Eduardo De Filippoの劇。プログラムによると、ナポリの土地の文化と方言に深く根ざした作家だそうです。演出は芸術監督のMichael Attenborough。主演は演劇でもテレビでも人気者のSamantha Shapiro。Shapiroは、ロイヤル・コート'Chichen Soup with Barley'で見ましたが、今回もその時とやや似た役柄で、下町の肝っ玉母さん、という感じ。とても威勢の良い、貧しい中年女性をエネルギッシュに演じています。20数年間、お手伝いさん兼おめかけさんとして金持ちの愛人Domenicoに尽くしつつ、あちこち家計を節約したり旦那の物をくすねて貯めたお金を3人の隠し子(Umberto, Richardo, Michele)にこっそり仕送りして立派に成人させた女性。しかし、いつまでたってもDomenicoが結婚してくれないばかりか、ついには二十歳過ぎの若い恋人を作ったので、頭に来て一計を案じ、やはり使用人の老婆Rosaliaと、医者のAlfredoの手助けを得て、死にいたる大病に罹ったふりをし、彼からやっと結婚を勝ち取ります。でも謂わば詐欺で得た結婚ですから、そう上手くは行かず、その後旦那は弁護士の手を借りて結婚を解消しようとして紆余曲折。学問の無いFilomenaはまたまた苦労。でも最後はハッピーエンドの喜劇です。まあ、なんということも無いとも言える劇ですが、とっても楽しい気分にさせてくれました。Filumenaは食うや食わずで飢えに苦しむほどの生い立ち。教育も受けておらず、弁護士が法律文書を示しても、インテリの息子が手紙を書きたいと言っても、彼女は字が読めずお手上げ。若いときは売春まがいのことを(いや、完全な売春かも。英語がちょっと分からなかった)して生き延びました。ビットリオ・デ・シーカなど、ネオリアリズムの映画監督の作品で見るような、戦前や戦後すぐのイタリアの貧しさがうかがえる作品でもあり、その点はシリアスな底流が背景にあります。

Samantha Shapiroは気持ちの良い役柄と演技で、見て楽しい。また、Domenicoを演じたClive Woodは脂ぎった中年男(52歳の設定)にしっくり会う俳優。Filumenaを助ける老婆のRosaliaは、本当に年配の役者さんがやっているのですが、上手で、大変印象に残りました。劇場に入った途端に目が覚めるような鮮やかなセット。場面はナポリの下町の中庭ですが、明るい、赤みががかった茶色の建物の壁、緑と青の中間のような鮮やかな扉の色と、沢山の花やつる草の緑が大変きれいなRobert Jonesのセットと、それを引き立てるTim Mitchellの照明でした。

苦労の多い人生を、逞しく生きぬく庶民のお上さんを描き、短くて軽い劇ですが、とても幸せな気分になって劇場を出ることが出来ました。こういう劇も時々は良いな。

'The Pardoner's Tale'の木彫パネル

先日Museum of Londonに行って、展示品の写真を沢山撮り、今整理しているのだが、その中でも面白いものを一部紹介していきたい。但し、下手な写真で済みません。今日の写真では、真ん中に、ガラスケースの枠の影が黒く入ってしまっています。

さて、今回は木彫の板。1410年頃のものらしい。結構良く知られたパネルではないかな。私はどこか本の挿絵で見たことがある。これはもともと家具のチェストの側面だったようだが、1枚のパネルだけが展示されていた。描かれている図は、チョーサーの'The Pardoner's Tale'(「免罪符売りの話」)。『カンタベリー物語』の中でももっとも人気があり、有名な話のひとつ。パネルの全体は:


多分、チェストの側面すべてに(あるいは上も)彫り物がしてあり、物語が順番に描いてあったのだろう。このパネルは、物語の終わりのほうの3つのシーンを描いている。3分割して見てみよう。

まずは、町に食料を買いに行った若者の一人が薬屋(apothecary)で、宝の番をするために残してきた仲間を毒殺するための薬を買うところだろう。
お兄さんと薬屋の大きさの違いが面白い。

次は町から戻ってきた仲間を、残っていた2人が宝の分け前を増やすために、襲って殺すところ。短剣で頭のあたりを刺している。怖いねえ。


 そして最後は、宝物をを2人でせしめて大喜びの若者2人が、今殺したばかりの仲間が買ってきた毒の入った飲み物を飲もうというところだろう。
手前にある長方形はテーブルで、カップやナイフ、それに皿の役割をするtrencherという木の板が見える。謂わばテーブル用のまな板。trencherは固いパンで作られていることもあり、食事の後は肉汁などのしみこんだ皿ごと食べてしまったり、貧しい人に恵んだりしたらしい。足元にいるのは犬でしょうね。

これだけ見ても、パネルの絵の元になったお話が、貪欲を戒める教訓話だと分かる。このチェストに、金銀とかお金とか、絹の織り込まれた贅沢な衣類とかしまってあったとしたら、それこそ自己矛盾して、おかしいな。チェスト自体が非常に手の込んだぜいたく品であり、相当なお金持ちの所有物だったろう。

2012/03/18

中世の靴(Museum of Londonの展示物から)

少し前に中世の靴についてブログに書いたのだが、その後ロンドン博物館(Museum of London)に出かけた際、発掘された中世の靴があったので、写真に撮ってきた。子供の靴もあり、見るだけでなかなか楽しい。また、靴に文様が描かれていて、当時の職人の手作業の技術の高さを実感した。最初は通気の良さそうな夏向きのメッシュの靴と子供の靴:


次もやはり大人の靴と子供の靴。どちらの靴にも描いてある細かい模様に注目したい:


中世末期ののファッショナブルな人たちは先のとがった靴を愛用した。模様にも注目:


寒いときにはブーツも。近年若い女性がはいているもこもこしたブーツに似ていない?


次は靴ではないが、皮でできた一種のストッキング。室内履きとして使われたのだろうか?


皮でできたものとして、子供用らしい暖かそうな胴着もあった。右はやはり子供用のミトン:


こうしてみると、中世ロンドンの人々は、色々な工夫をして寒さに対抗していたのだと分かる。

"Farewell to the Theatre" (Hamstead Theatre, 2012.3.17)

演劇が持つ力を静かに見せてくれる
"Farewell to the Theatre"

劇場:Hamstead Theatre
製作:Hamstead Theatre
観劇日・時間:2012.3.15  15:00-16:40(休憩なし)

原作者:Richard Nelson
演出:Roger Michell
デザイン:Hildegard Bechtler
音響:John Leonard
照明:Rick Fisher

配役:
Harley Granville Barker (playwright and director): Ben Chaplin
Dorothy Blackwell (manageress of the boarding house): Jemma Redgrave
Henry Smith (Dorothy's brother, associate professor): Louis Hilyer
George Scully (Henry and Dorothy's cousin, teacher): Andrew Havill
Beatrice Hale (actress and itinerant lecturer): Tara Fitzgerald
Frank Spraight (Dickens recitalist): Jason Watkins
Charles Massinger (student of Williams College): William French


☆☆☆☆/5

'Preface to Shakespeare'シリーズで今でも学者や学生がお世話になっている20世紀始めの演出家、劇作家、俳優、そして学者であったHarley Granville Barkerを主人公にして書き下ろされたRichard Nelsonの新作。Nelsonはアメリカ人で、多くのヒット作を持つ著名な劇作家のようだが、私は彼の作品を見た記憶がない。先日、このブログにも時々コメントをいただくBPさんとお会いした折、面白かったとお聞きし、見ることにした(BPさん、良い情報を下さりありがとうございます)。

時は第1次大戦中。しかしまだアメリカが参戦していない頃。HarleyはアメリカのマサチューセッツのWilliams Collegeという大学に滞在して、講義などしている。彼は自分の演劇の仕事にも、人生そのものにも情熱を失っているように見え、ややシニカルな言葉を口にすることが多い。若い愛人がいて、結婚も破綻し、妻と離婚の相談をしているが、泥沼状態になるのではないかと恐れている。彼の周りに集まった人々も皆、多かれ少なかれ、沈滞した人生を送っている。キャストはCharlesを除き皆、アメリカで教職とか講演などで生活しているイギリス人たち。なぜアメリカにやってきて、なぜそこに居続けているのか、自分たちでも分からないし、イギリスに帰国して一から再出発する元気も能力も無さそうな人々の様子が淡々と描かれる。上司の教授のハラスメントにおびえて暮らすHenryと淡々と皆の世話をするだけのDorothy、女優だったが今は不安定な旅回りの講師業のBeatrice、Dickensの作品の朗読で糊口をしのぐFrank、大学勤めのいとこのHenryの仕事を狙っている男子校教師のGeorge。落ちぶれたインテリ集団というところか。40歳代のFrankを除いては皆30代なのに、もうすでに人生が大方終わったかのような雰囲気さえ感じさせる。もうすぐ、Henryが指導し、Charlesがリーダーを務める学生劇団による『十二夜』の公演が始まるという時、Frankに電報が着くがその内容は・・・。

最後に、イギリスでクリスマスの季節などにやる民衆劇、Mummers' playを皆で演じて終わる(日本で言うと、お神楽とか獅子舞みたいなもの)。

簡単なテーブルやベンチだけの簡素な舞台。シンプルな照明や音響。俳優たちの演技だけで観客を釘付けにする素晴らしい脚本と演技陣だ。これほど私的に入れ込んでみることが出来る舞台も珍しく、個人的には満点をつけたいと思った。ただ、1時間40分の、小品と言っても良い作品なので、4つの☆にした。

この劇の主な眼目は二つあると思う。ひとつは演劇の人間をよみがえらせる力。失意の友を慰めるために上演される最後のMummers' playがその証だ。もうひとつは、違った文化の中で暮らす人の孤独。この劇の場合はアメリカのイギリス人(イングランド人)が感じる喪失感である。民衆劇であり、イギリス人の季節の暮らしに深く結びついたMummers' playは登場人物の、そうしたイギリスへの望郷の念を凝縮したもの。

『十二夜』の上演シーンは演じられないが、そこで修羅場がある。舞台の外の、劇中には名前しか出てこないボス教授のProfessor Westonの辛らつな評価や大学教員同士のごたごたで、折角の学生演劇の喜びが台無しになる。見る人が悪いのだ。一方で、Frankひとりのためだけに演じられたMummers' playは、単純な子供だましの劇のようでありながら、Frankに大きな喜びと感動を与え、また演じた友人たちも満足感に包まれる。確かに演劇や文学作品を分析したり評価したりするのは避けられないし、必要なことでもある。しかし、その一方で、学者や批評家の野心や、学生が良い成績を取るために、演劇やその他の文学作品を心をこめて味わうことが出来なくなることもあるなと、考えさせられた。

比較的小さなHamsteadの割合前のほうに座れたので、俳優の表情が十分味わえた。Frankを演じるJason Watkinsと、いつも背景にいて皆を静かに見つめるDorothy役のJemma Redgrave (Corin Redgraveの娘)の2人が大変印象的。何も言わない時の俳優の表情の変化や間の取り方に味わいを感じる劇。また台詞も細かい工夫が沢山詰め込まれていると感じた。前もって台本を読んでいったのだが、面白くて、電車で降りる駅を乗り過ごしてしまった。

ところで、この劇のタイトルは、Granville Barker自身の劇をそのまま使っている。もともとの'Farewell to the Theatre'も読まなきゃ。彼の劇としては、2008年にAlmeidaで代表作らしい'Waste'を見ているが、もの凄く感動した記憶がある。

(追記)その後、いくつか劇評を拾い読みしてみたが、結構辛口のものもあった。しかし、ObserverのSusannah Clappはトップで取り上げて絶賛。GuardianのBillingtonも4つ星で賞賛していた。Clappはこの公演での沈黙の雄弁さを特に褒めていた:'I don't think I've ever been to a play (even one by Pinter) in which silences and gaps are so important.'  Ben Chaplinという主役の俳優、テレビで時々見る顔だと思うが、舞台でしっかり見たのは初めて。Granville Barker本人にそっくりだそうだ。Jason Watkinsはあちこちで見かけるおなじみの俳優。地味な持ち味を生かした実に味のある演技。地味で目立たないタイプであることが、かえって役者の個性になるタイプの人。Tara Fitzgerald扮するBeatriceは、自分よりも15歳も若い20歳のCharlesに完全に目が眩んで、かいがいしく恋人兼母親を演じているのだが、実に馬鹿で、哀れ!われわれ男は、女性は最終的には冷静で計算高いと思いがちだが、ここまで馬鹿になれる人もいるかしら?

なぜ私がこの劇にこれほど惹きつけられたのか、劇本来の良さもあるけど、この劇の人物たちが感じる疎外感に共感したからだろう。私はイギリスにいてもアメリカでも、その土地の人にまったく溶け込めず、友人も出来なかった。いや、内向的性格のためなので、それは日本にいても同じだが。背景でただ黙々と雑事をするだけで自分の気持ちを表現できず、いつも観察者でしかないDrothyに非常に共感してしまった。もうひとつは、このMummers' playのような民衆劇は、中世演劇と同じ文化基盤に立つ面があり、E K Chambersの昔から、中世劇の学者が研究対象としてきたので、こうして劇の一部として上演されて、とても親しみを感じたことも、この劇が好きになった一因だろう。更に、場面設定が大学ということで、親分教授のハラスメントと言ってよい処遇に苦しめられていつも情けない思いをしているHenryとか、大学の職が得られないかとやきもきしている中高の男子校教師のGeorgeを見ていると、「こういう人たち、いるいる」と思わざるを得ない(私自身は前職では、親切な同僚や上司に恵まれたけど、でも直接の上司によるいじめに似た扱いで辞めた先生も知っている。)

2012/03/16

Eastbridge Hospital (Canterbury) へ行く

昨日15日は木曜で、大学のセミナーがある日。カンタベリーに行ってきました。さわやかな晴天で、体調がいささか芳しくないにもかかわらず、気分良く過ごせた一日でした。夜、帰宅したときは疲労困憊でしたが。

ということで、爽やかなウエストゲート・タワーの姿。最初は町の外側から、そして次は内側からの写真です。


そして、カンタベリーのメイン・ストリートのSt Peter's Street。この通りは途中からHigh Streetと名前が変わり、そしてその後すぐSt George's Streetという名前になって町の反対側の出口に至ります。

さて、昨日はまず中世のホスピタル、Eastbridge Hospitalに入ってみました。High Streetの真ん中、買い物客や観光客がごった返す通りにあり、私もカンタベリー滞在中はほとんど毎日のように前を通りましたが、十数年前に一度入った記憶があるだけ。今回じっくりと見てきました。12世紀の素晴らしい壁画があり、仰天!ということで、メモも取ってきたので、やや詳しく書いてみます。
Eastbridge Hospital正面

この建物の簡単な歴史

ホスピタルというと今は病院ですが、中世のホスピタルは今の英語の'host'とか'hospitality'の意味と関連していて、宿泊施設を指します。それも貧しい人のためのものを指すことが多いと思います。このEastbridge Hospitalは、カンタベリーにトマス・ベケットのお墓に参りにやってきた巡礼たちの中でも、一般の宿屋に泊まる余裕のない貧しい人たちを収容するために作られました。ベケットがなくなったのが1170年ですが1180年頃作られました(1176年にはすでに在ったと言う説も)。作ったのはカンタベリーの裕福な商人、Edward FitzOdbold。最初の院長(Master)はRalph Becketで、聖者となったトマスの甥だそうです。そばにはスタウワー川(The Stour)が流れ、橋(The King's Bridge)が架かっており、ここでは通行料の徴収が行われたとの事。川の水が度々ホスピタルの地下室(Undercroft)に浸水したようです。橋の向こうはKing's Mill(水車のついた建物)があり、羊毛製品の製造が行われていたようです。ホスピタルは12世紀の建物なので、基本的にロマネスク様式。この時期はロマネスクからゴシックへの過渡期ですが、一部ゴシック風の部分も見られるとの事(この点は私は良く分かりませんでした)。建物は下から次のような4つの部分から出来ています:
Entrance hall(玄関)
Undercroft(地下室)
Infirmary hall(病気の人などの部屋)
Chapel(礼拝堂)
カンタベリー巡礼は、カトリック信仰が弱まると共に、衰えて来て、巡礼者は少なくなります。16世紀前半には宗教改革で修道院など多くの宗教施設が破壊されましたが、Eastbrige Hospitalは大聖堂の一部などではなかったので生き残りましたが、現実には使われることは少なく、荒れていたことでしょう。1584年ごろには地下室は当初の目的では使われなくなり、その後最近まで石炭の倉庫(coal cellar)として使われました。一方、16世紀の国教会の大司教、マシュー・パーカーがホスピタルを慈善事業のために整備し、チャペルに20人の生徒を収容する学校を設立しました。この学校は1880年まで続き、多くの卒業生を出しています。歴史については、英語版Wikipediaに更に詳しい解説があります。

Entrance Hall(入り口)

ここは大変狭い、言わば玄関の間。天井が地下室などと少し違いました。

そして、地下のUndercroftへ降りていく入り口:

Undercroft(地下室)

ここは巡礼たちの寝所だったとのこと。踏み固めた土の床の上に漆喰を塗り、その上に藁を沢山敷いて寝たそうです。寒かっただろうなあ。何しろ暖房ないんですから。昨日もひんやりして、しばらく居たら、寒がりの私は、かなり体が冷えました。また地下室はほとんど採光もなく、それ以外の部屋も当時は基本的に窓ガラスは大変高価で、大聖堂や一部のお城、お屋敷の窓にしかなかったと思われるので、かなり吹きさらしです。木の、謂わば雨戸、あるいはよろい戸のようなものがあって、夜や雨の時は閉めたとは思いますが、そうなると昼間でも真っ暗でしょう。ただし、中世後半に、いったいどの位の建物、どの位の豊かさの人が、窓ガラスを使ったのか、それは私も知りません。ステンドグラスが残っている大聖堂などは昔からガラスがはめられていたのはもちろんですが、つつましい教区教会などは、当時からガラスがあったのかどうか。また農民や一般の庶民の家はガラスは使わなかったでしょうが、裕福な商人の家はどうでしょうか?ご存知の方がいらしたら是非コメント欄で教えてください。
さて、柱は重々しい造りで、いかにもノルマン風です:

Infirmary Hall(病人の部屋)

2階にあるかなり広々とした広間。この部屋の壁に大きなテンペラ画が描いてあり、吃驚しました。絵は、写真をクリックし、大きな画面でご覧ください。

中央にキリスト。かれを4角で4人の福音書作者が囲むという構図ですが、下の2人は消えており、右上ももう良く見えません。ただ、左上のマタイはまだはっきりしており、名前も書いてあります。

大きさは大体の見当で、上下が約3m、横幅は、上の部分が約4m、下が約2mくらいです。12世紀終わりから、13世紀はじめにかけての製作と考えられていて、ホスピタルが出来た頃の絵。おそらく大聖堂で壁画などを書いていた人の一人('one of the Cathedral school of painters')だろうとのこと。かなり劣化はしているのですが、中世前半の雰囲気を伝える、素朴だが堂々としたキリスト像です。西欧中世の絵でもこういう古いものをみると、キリストがお釈迦様と似ているような気がするのは私だけかしら。

Chapel

3階です。ここは天井の材木が素晴らしい。最初からあるものかどうか分からないですが、とにかく古いのがわかる、見ごたえある天井です。2枚目の写真の画面をクリックして、木の古さを見てください。


昨日は、Eastbridge Hospitalの後、Roman Museumを見学したのですが、その話はまた改めて書ければと思います。

2012/03/14

Royal Manuscripts展終了(展示後半の感想)



Royal Manuscripts展、3月13日に最終日を迎えました。結局私は昨日と一昨日続けて行って、計4回行ったことになりました。さすがに4回行けばすべての絵を割合時間をかけて見られたと思います。専門家でないので、鑑賞するといっても限界があるのですが、楽しい時間でした。ちょっと忘れた頃にまた見たいなんて思うんですが、もう終わってしまい残念。

展覧会後半の方にある絵での中で特に印象に残ったのは、Matthew Parisの書いたパレスチナ巡礼のルート・マップ。ロンドンからフランス、イタリアを通る道筋、そしてパレスチナの地図を文章と可愛らしい絵で解説してくれます。13世紀の実用的な観光ガイドとも受け取れます。フランス語の解説が読めればずいぶんのおしろいだろうな。読めなくて悔しいです。パレスチナ、そして十字軍の都市Acre(アッコ、アクレ)の地図にはふたこぶラクダの絵も入っていて、又ドーム状の形の屋根の建物がいくつも書かれています。面白いのは、パレスチナの教会の天井から出ている十字架が横棒がひとつでなく2つ。これはビザンチンで使われたPatriarchal Crossというものか、または東フランスのLorraine Crossというものらしいがどちらなんだろう?十字架の意匠も色々とあるんですねえ。

おそらく巡礼たちを収容したホスピタルがいくらか目につきました(la mansion del hospital seint johan、聖ヨハネのホスピタルの建物、という名前が読めました)。le templeとあったけれど、これは何だろう?la porte [.. .] seint nicholasという門。le chastel le roi de Acreは文字通り、アッコの王のお城かな。ヨルダン川とかベツレヘムなど、私でも何とか分かる名前も。名所絵図というところかな。昔の日本のそれを思わせます。海には船。沢山のオールを漕いで進む船やら、帆をかけて進む船やら。それら船の帆の模様も私には謎。ひとつの船の帆には十字らしきものと何か細かい印、もう一隻の帆にはお馴染みの三日月と星のマークがあります。この時代にはまだイスラムの印とは取られないようなんですが、何を表すんでしょう。全体に、パズルを見ているみたいでした。

Royal Manuscripts展では巡礼用の図とか本はこれ一点みたいでしたが(一点と言っても、たしか8ページでワンセットでした)、巡礼のガイドブック類は沢山書かれたようですね。しかし、作者のMatthew Paris自身は、聖地巡礼には行っていないそうです。大英博物館による写本全体のより詳しい記述と写真はこちらです。

聖書の解説書(グロス、コメンタリー)が何冊かあったのですが、こういう書物にははっきりした伝統的形式があったということを学びました。12世紀頃までは、まず聖書の文章が書かれ(見たテキストは赤字でした)、その後に、その聖書の文章の解説が続くという素直な形式。12世紀頃を境に、聖書本文とグロスを横に並べる形式になったとのこと。Peter Lombardによるパウロの手紙についてのグロスが2つ並んでいたのですが、ひとつは12世紀後半の写本で、前者の古い形式、後者は13世紀の写本で、新しい形式。新しい形式では、ページ全体が2つのコラムに分かれ、更に各コラムがかなりの部分左右に分かれて左に大きな字で聖書の文章、右にグロス。但し、グロスの文章量が圧倒的に多いので、聖書の文章は途中で終わり、後はグロスばかりになります。そのほかにもページの左右のマージンにところどころ細かい字で何か書いてあるけれど、これは見出しかなあ。うーむ、分からないことばかりだなあ。

11-13世紀ごろの百科全書的な写本が何冊かあり、記憶に残りました。この頃、中世のルネッサンスがあり、世界への視野が広がったのでしょう。セビリアのイジドールスのEtimologiae(『語源』)の11世紀末の写本がありました。解説によると、最初の百科事典とみなし得る書物だそうで、その後の多くの書物に影響を与えたとのこと。確か、アルファベット順に書かれているそうです(?)。いくらか挿絵もあり。おそらくカンタベリーで製作されたとのこと。こうした早い時代、カンタベリーの写本工房は大変多くの重要な文献を次々に筆写してたのですねえ。そのイジドールスから多大な影響を受けていると言われるラバーヌス・マウルス(Rabanus Maurus)のDe rerum naturis(『自然界の物事について』)という写本もそばに並んでいました。こちらは聖オールバンズ修道院の製作で12世紀半ばごろ。そうした自然界への関心とともに、地理的な、イングランドの外への関心も生まれたようです。そばには、Gerald of Walesの、Topographia Hibernica(『アイルランド地誌』)。12世紀終わりから13世紀はじめにかけての写本。おそらくリンカーン(都市の名前)での作成。そして地理的な関心はイングランドの周辺部方を超えて海のかなたへも。その次に並んでいたのは、Roman d'Alexandre en Prose and other texts(『アレクサンドロス物語』とその他のテキスト)。14世紀(1340年ごろ)のパリの写本です。こうして並べられてみると、中世半ばのインテリたちの視野が広がっていくのが、写本という形で現れているようですね。そうしているうちに14世紀にはイタリア・ルネッサンスの始まりです。ルネッサンスはそう突然始まったわけでもなさそうです。

書いているときりがないので、今日はこのあたりで。

2012/03/11

Royal Manuscripts展 再訪

(Thomas Hoccleve, Regement of Princes, London, c. 1411-1413, Arundel 38, f. 37, from Wikipedia)


3月2日に行ったBritish MuseumのRoyal Manuscripts展覧会、あの日は十分時間をかけて見たとは言えなかったし、混んでいて見られない絵が多かったので、今日、2度目、行ってきました。今日は開館と同時に9時半過ぎ、入場。そして、前回見ないままに終わった最後のほうを中心にじっくり3時間以上見ました。開館時は、ほとんどの入場者が、当然ながら最初の部屋に固まるので、そちらを通過して真ん中以降を先に見れば、ほぼ貸しきり状態。もの凄く贅沢な気分で、それぞれの絵につけてある説明を全部ゆっくり読みつつ、時間をかけて鑑賞しました。

会場はコの字型になっていて、テーマ別に6つのセクションに分けられています。すなわち、
  1 Edward IV
  2 The Christian Monarch
  3 Royal Identities
  4 How to be a King
  5 The World's Knowledge
  6 The European Monarch
また、壁際に並んだ写本は、アングロ・サクソン時代、ノルマン朝、プランタジネット朝、チューダー朝、と時代順になっていました。8世紀から16世紀までの写本で、一部に彩色刊本もあったと思います。パンフレットによると、150冊以上の展示だそうです。

(以下、大英図書館のウェッブサイトに何度かリンクを貼ってありますが、リンク先の頁は最初は説明ばかりですが、下のほうにスクロールしていただくと、写本のサムネール・ピクチャーがありますので、クリックしてご覧になってください。更にそのピクチャーをもう一度クリックすると、拡大された写真も見られます。)

最初のセクションがEdward IVと銘打たれているのは、Royal Manuscript Collectionの中心をなすのが、Edward IV (在位1461-70 & 1471-83)が収集した豪華彩色写本50冊から構成されているためだということです。一冊一冊が、大変大きく、彩色も極めて豪華で細密。王家の至宝、という感じでした。一例をあげて、大英図書館のサイトにリンクすると、Jean de Wavrinのイングランド史、'Recueil de chroniques d'Engleterre' 。ほとんどがフランドルのブルージュ(現在、ベルギーの都市)で作られた写本です。この時代、ブルージュは西欧の豪華写本製作の中心地だったんですね。また、こうした写本の多くが、ブルージュなどのバーガンディー公国(フランドルを中心とした地域にあり、フランス国王に匹敵する国力を誇っていました)で作られていることは、当時のバーガンディーの豊かさと文化的影響力の大きさを感じさせます。

私は写本とか中世美術の知識はほとんど持ち合わせていないので、折角素晴らしい写本を見ても、ただただきれいだなあ、と感嘆するばかりで、猫に小判です。いくらか専門的な知識のある人ならずっと有意義に鑑賞できるんでしょうけど。でもただじっと見るだけでも楽しい。

今回の渡英、私のスーパーバイザーがイギリスを留守にしていて会うことが出来ず、一番大事な目的が空振りに終わってしまうのですが、しかし、この展覧会を見られたので、十分その埋め合わせが出来ました。本当に、中世の絵画を見るという点では、一生に一回の素晴らしい機会を与えられたと感じました。

中世末期やチューダー朝の写本の豪華さ、素晴らしさは言うまでもありませんが、私には、アングロ・サクソン時代やノルマン朝の写本も同じくらい感銘を与えてくれました。8世紀前半にリンディスファーンの修道院で作られた福音書(Royal 1 B vii)があり、開かれていたページには、ラテン語のマタイ伝とともに、古英語の文章も書き込まれていました。その文章は、当時のイングランド(ウェッセクス)王、Athelstan(治世c. 924/5-39)が奴隷のEadhelmを開放した、と言う意味のことが書いてあるようで、王の温情あふれる処置を記録したものだそうです。つまり、古英語の書き込みはずっと後になって追加されたんですね。

やはりこの時代の古い写本としては、11世紀の中盤のカンタベリーで作られた写本で、おそらく、大聖堂(Christ Church Monastery)で作られ使われた、色々な文章を集めたcompendiumと呼ばれる種類の本 (Cotton Tiberius A. iii.) がありました。ベネディクト会戒律集とか、様々な実用的、あるいは教育的文章が入っているそうですが、その中には、ローマ教会の儀式集成であるRegularis Concordiaもあるそうです。Regularis Concordiaに収められた復活祭の儀式の一部が、ラテン典礼劇として成長していく、つまり西欧における中世演劇の芽生えがこの本にあるわけで、そこのページが開かれているわけではないにしても、ちょっと感動!

同じくChrist Churchに関連する写本として、11世紀はじめに製作されたThe Cnut Gospelという写本もありました。ラテン語の福音書とともに、やはり古英語で、クヌート王とChrist Churchの結びつきを記す文が書いてあるそうです。

中世末の写本としては、有名なフロワッサールの年代記 (Jean Froissart, 'Chnonique') の豪華さ、精密さも素晴らしい!1500年頃、ロンドンで作られたと思われる'Speculum humanae salvationis'の写本Harley 2838では、開いたページにアダムとイブの堕罪、楽園追放、2人の労働する姿、そしてノアの箱舟、という4枚の絵が描かれていましたが、中世聖史劇の場面を想像しつつ鑑賞しました。楽園での堕罪の場面で、蛇が、胴体は蛇でも、顔は人間の女の顔をしているのです。これは先日、美術史家の金沢百枝先生が新潮社のウェッブサイトに書かれたことから教わった興味深い点。

著名な文学作品としては、中英語でThomas Hoccleve, 'Regiment of Princes'や、John Lydgate, 'Troy Book'、そして、仏語ではGuillaume de Lorris & Jean de Meun, 'Roman de la Rose'などの写本もありました(Lydgateや『薔薇物語』の写本は何種類もあり)。もちろん、それら以外にもかなりの文学作品がコレクションに含まれています。

Royal Manuscripts展では、今まで歴史の本の挿絵などで見た記憶がある絵にかなり出会いました。たとえば、Matthew ParisのHistoria Anglorumのウィリアム征服王の絵など、たびたび見ています。

3時間半近く立って見ていて、かなり疲れましたが、大満足で帰宅しました。

2012/03/08

Museum of Londonに出かける(2012.3.5)

3月5日、ロンドン博物館の中世セクションをじっくり見てきました。何時間見ても飽きないです。時間が足りず、そのうち疲れてきて、途中で切り上げましたが、また出かけるつもりです。

靴が何足もあるのですが、子供の靴が可愛らしい! 10センチちょっと位の、大変丁寧に縫われた小さな靴!もちろん大人の靴も色々あり、おなじみ、ファッショナブルな尖った靴もあります。あの靴のつま先にはコケが詰めてあったそうです。皮にきれいな装飾が施してある贅沢な靴が何足もありました。

他では、おしゃれや身だしなみの道具に気をとられました。頭飾り(wimple)を支える針金。骨や木で作った櫛もいくつもあります。大きなコインほどしかない小さな、蓋付きの手鏡。つまようじ。耳かき!鼻眼鏡の枠。眼鏡は印刷が広まる頃から需要も高まったとの説明あり。暖かそうな子供の胴着とミトン。他に面白いものとしては、男性用ガーター。そういえばタイツみたいなものをはいていますからね。実用であるとともに、ひとに見せるアクセサリーだったとのこと。女性のヘアネット。沢山のピルグリム・バッジ(巡礼者のおみやげです)。

商人の町ロンドンの発掘品にふさわしく、商工業の人が持っていそうな日常生活の品の展示が多く、剣や鎧のような中世の騎士の武具は割合少ない感じでした。

中世のトランペットもありました。西欧でもっとも古いものとか。細くて、ながーい!人の背丈以上の長さがあったと思います。絵画にあるとおりですね。鍵も結構ありました。チェス、その他のゲームのこまがありましたが、面白いものでは、相手をだますために特別な細工をして作られた駒もあります。

St Catherineをかたどったお菓子の型も。ベーカーや菓子職人は、こうした聖者の姿をしたお菓子を作って、祝日に売り出すのだそうです。今でもありそうですね。日本なら、弘法大師羊羹、とか?

写真を沢山撮りました。そのうち、ブログにも何枚か載せたいと思いますが、とりあえず今日は文章のみで失礼。今日はこれから大学のセミナーに出かけてきます。

"Travelling Light" (Lyttelton, National Theatre, 2012.3.6)

映画の草創期における失われたユダヤ人コミュニティー
"Travelling Light"

劇場:Lyttelton, National Theatre
製作:National Theatre
観劇日・時間:2012.3.6,  14:15-16:45

原作者:Nicholas Wright
演出:Nicholas Hytner
デザイン:Bob Crowley
衣装:Vicki Mortimer
照明:Bruno Poet
音響:Rich Walsh
音楽:Grant Olding

配役:
Motl Mendel, a young director: Damian Molony
Anna Mazowicka, Damian's lover: Lauren O'Neill
Jacob Bindel, a local timber-merchant and Motl's financial backer: Antony Sher
Tsippa, Motl's aunt: Sue Kelvin
Maurice Montgomery: Paul Jesson
Ida, Jacob's wife: Abigail McKern
Aron, Jacob's son: Jonathan Woolf

☆☆☆★★/5

20 世紀前半のポーランドの小さなユダヤ人町('shtetl' と言うそうです)で、映画作りが始まった頃を描いてい ます。小説で言うと、アイザック・シンガーのポーランドを舞台にした 作品のよ うな世界。第2次大戦で消え去ったユダヤ人コミュニティーの暖かさと頑固さ。 そして、映画産業が、ハリウッドだけでなく、旧世界の古いユ ダヤ人コミュニ ティーから始まったという歴史の面白さを、ある若き映画監督Motl(Damian Molony)の青春を通して描きます。そのMotlは、自分の 子を妊娠した恋人Annaを捨 ててアメリカにわたり、ハリウッドで成功しますが、語り手としてストーリーの狂言 回しになって出てきます。

Motlの資金提供者であり、地元の材木業者のJacob Bindel(Antony Sher)が、一種のプロデューサーとして、事細かにMotlに口を出し、二人が対立するのは、今の映画作りと変わらず、笑いを誘います。Antony Sherが無教養だけどお人よしの田舎の親爺を熱演。彼のファンには、それだけでも十分楽しめる舞台でしょう。しかし一方で、無骨な親爺であることを強調しすぎる、しつこい演技と思う人もいるかも知れません。

Hytnerはイギリス生まれのユダヤ人、そしてAntony Sherは南ア生まれのユダヤ人。二人の、自分たちのルーツへの思い入れがこもった、愛情たっぷりの作品でしょう。そう思えば、Sherの多少あくの強い演技も理解できます。

セットや衣装はすばらしく、古いポーランドのユダヤ人町が、まるでシンガーの描く世 界はこうであったか、と言わんばかりに贅沢に背景を飾っています。民話的な 雰囲気があふれるセットでした。

全体のトーンはノスタルジックで、ストーリーもユーモアに あふれ た暖かい内容の劇ですが、特に深みや悲劇性はなく、私はすぐ忘れてしまいそうす。国立劇場で、芸術監督のHytner自身がやらなくてもいいんじゃないか、という印象は持ちました。但し、ほろ苦い青春譜、そして歴史の大きな流れを感じさせる物語で、見て損のない作品です。映画の好きな人、映画史に関心のある人には一層面白いでしょう。

2012/03/04

"The Lady from the Sea" (The Rose Theatre, 2012.3.3)

イプセンのメランコリックなコメディー
"The Lady from the Sea"

製作:The Rose Theatre
劇場:The Rose Theatre, Kingston
観劇日、時間:2012.3.3、14:30-c.17:00

原作者:Henrik Ibsen
翻訳:Stephen Unwin
演出:Stephen Unwin
デザイン:Simon Higlett
衣装:Mark Bouman
音響:John Leonard
音楽:Corin Buckeridge

配役:
Doctor Wangel: Malcolm Storry
Ellida Wangel: Joely Richardson
Bolette (their elder daughter): Madeleine Worrall
Hilde (their younger daughter): Alexandra Moen
Arnholm (Bolette's former tutor): Richard Dillane
Ballasted (a painter & Jack-of-all-trades): Robert Goodale
Hans Lyngstrand (a sickly artist): Sam Crane
The Stranger: Gudmundur Thorvaldsson

☆☆☆☆★/5

27日にロンドンにやってきました。今回は3月末まで滞在します。昨日3月3日に今回の滞在で初めて劇場に出かけました。お腹が悪くてぐったりしていたのと、時差ぼけで、最初のほうでかなり居眠りしてしまい、残念!でもその後は結構楽しみました。この作品は西欧古典的な意味での「喜劇」で、色々と混乱を経て、最後は調和で終わる、という筋書きです。'Doll's House'を喜劇にしたような作品です。チェーホフとシェイクス ピアのTwelfth Nightを混ぜたような雰囲気。明るさとメランコリーが、気まぐれな天気のように入れ替わりつつ進行します。かごの中に閉じ込められている、と感じる妻、それに気づかない、人が良く悪意のない夫。外へ出たいという妻の欲望に一気にはけ口を与えるThe Strangerという、謎めいた突然の訪問者。軽口を言って雰囲気作りをするフール役の絵描きで便利屋の男。病気療養中の欝気味の彫刻家。人の世話ばかり焼いて、自分を犠牲にしていると感じ、不満が募っている長女。その長女を、自分の家からの脱出を餌にして口説く年配の教師。若さが横溢して、今は悩みを 知らない次女。本当にチェーホフやシェイクスピアに出てくるような人ばかり。なかなか面白かったです。

明るい照明とクリーム色のセットや衣装で、いかにも保養地のような雰囲気が良く出ていて、効果的でした。エリーダは海から船に乗ってきてやってくるThe Strangerに誘われて、また海に戻りそうになるのですが、否応なく海へ引きつけられるというモチーフに民話的なものを感じさせ、'Little Eyolf'に似た雰囲気もあります。エリーダには、どこか人間離れしたものがあり、日本の夕鶴のお話も思い出されました。

Joely Richardsonは2009年に亡くなられたNatasha Richarsonの妹。お姉さんよりもやや地味で、硬質な感じの女優。でもそれほど若くもないのにすらっとした見栄えの良い体躯はお母さん譲り。演技も良かったです。彼女を支える名優のMalcolm Storryも文句なし。その他の役者もほころびのない演技陣でした。

2012/03/03

大英図書館特別展、Royal Manuscripts: The Genius of Illustration

Royal Manuscripts: The Genius of Illustration
大英図書館特別展「王室の手稿本:写本挿絵の天才」




British LibraryのRoyal Manuscripts展に行ってきました。もの凄い数の豪華写本に圧倒されました。数もすごいし、一冊一冊が途方もなく豪華!挿絵やページの周囲の装飾など、非常に手が込んでいる写本が多く、有名なベリー候の時祷書に匹敵するような美しい写本がたくさんあります!3月13日までの開催。昨日はかなり混んでいました。普通の絵画の展覧会のように観客が少し離れて鑑賞することが出来ず、皆、ディスプレイケースに覆いかぶさるようにしてじっと見ているので、少しでも混んでくると、かなり見づらくなります。

無料のオーディオガイドあり。448ページの豪華なカタログが出ていて、ペーパー版で25ポンドと割安です。落とすと足の骨が折れるくらい重いですけど。

私にとっては、絵の美しさとともに、そこに書かれている絵の内容に興味が惹かれます。多くの写本は聖書とか祈祷書で、聖書の物語の一こまが描かれているのですが、それが中世の聖書劇の内容とどう重なっているか、違っているかが、特に面白く感じました。また、描かれている人物の服、武具、食べている食物、建物や家具、動物などのディテールに興味が尽きません。

私は英文学を勉強しているので、普通、研究書についている写真とか、ファクシミリなどで接する写本は英語の写本が多いわけです。しかし、この展覧会では、庶民の言葉であった英語で書かれた写本が少ないのは想定できます。ラテン語の写本が多いのも、聖書とか祈祷書が多いため、当然です。一方で、色々なフランス語の写本が私が想像していた以上に多いのは、中世後期の王侯貴族の言語使用状況を考える上で、当然とは言え、なるほどねえ、と改めて思いました。

もうひとつ興味を引かれたのは、王室の女性たちが使用した本です。たとえば、Catherine of Franceの時祷書(Hours)やIsabel of Yorkの詩篇書(psalter)などが展示されています。こうしたラテン語の本を、おそらくこれらの女性は自由に読むことが出来、日常的に使っていたようです。また、子供の読み書きの教科書としてこれらを利用したかもしれません。こうした本は個人の祈りのための本ですが、同時に、大変小さくて持ち運びやすく、もっとも身近な持ち物のひとつとして、彼女たちの日常生活に欠かせないものであったことでしょう。王室の女性たちの多くの識字と教育程度がかなり高度なものであったことをうかがわせます。また、これらの私的な本には、本人か、あるいは他の人により、さまざまの大切な書き込みがなされて、一種の備忘録的役割も果たしたようです。

特別展は、入室できる出来る時間が決まっているので、私の予約した時間が来るまで常設展を見ていました。混んだ特別展と違い、常設展のほうは人も少なく、じっくり見られます。メルカトールの古地図とかシェイクスピア時代の劇の初期刊本など印象に残りましたが、特に、すでにこのブログでも触れたアングロ・サクソン時代の聖書、St Cuthbert's Gospelを見られたのは良かったです。これは、表紙をつけて製本された形で残っている本としては、イギリスのみならず、ヨーロッパで最古の本とされています。同じケースには中世初期の大知識人、ビードの『英国教会史』の写本も並んでいました。

更に、常設展では、Rheimsの司教Fulcoがアルフレッド王に宛てて書いた手紙(写し)が見られたのも嬉しかったです。王は大陸から知識人を集めるために、FulcoにGrimbald of St Bertinを送ってくれるようにと依頼をしていたのだということです。

豪華な彩色写本は、一葉一葉が精密な工芸品。それが一冊に綴じられて何十頁、時には百何十頁とかあるんですから凄いです。Jean de Wavrin (c. 1400-c. 1472[-75] ) の『イングランド年代記拾遺』というきわめて豪華な彩色写本が展示されていたのですが、全6巻本で、作者は完成までに22年を要したとか!写本の中身が読めるわけではないのですが、色々と見られて目の保養になった気分です。実はじっくり見ているうちに1時間以上経ち、疲れて集中できなくなって帰宅したのですが、まだ半分弱しか見ていないので、また行くつもりにしています。

どういう彩色写本があるか、一部がGuardian紙のウェッブサイトで見られます。

修道女フィデルマ・シリーズの1巻、Peter Tremayne, "The Haunted Abott"

Peter Tremayne, "The Haunted Abott"
(2002; Headline, 2003) 360 pages

☆☆☆☆★ / 5

中世初期、紀元666年、アイルランド人修道女で法律家、そしてアイルランドの王国Cashelの王の妹でもあるSister Fidelmaと彼女の連れのイングランド人修道士Eadulfは、カンタベリーでの仕事を終えてアイルランドに帰国する前にEadulfの故郷の村に寄ろうとする。ところが最寄の修道院の修道士でEadulfの幼馴染であるBotulfから、是非自分の修道院、Aldred's Abbey、に寄ってくれ、との知らせが届き、激しい雪の中、真夜中に到着する。しかし着いてみるとBotulfはその日に何者かに殺害されていた。更に、その修道院を支配する院長、Abbot Cild、は何かに呪われたかのような鬼気迫る様子で、二人に敵意を剥き出しにし、Botulfの死は、異国の魔女、Fidelmaの仕業だと決め付ける。二人は否応なく事件の真相を解明するために奔走することになる。しかし、次々と殺人事件が起こる。Cildの兄弟でアウトローのAldhereとCildの兄弟間の憎悪、Cildの死んだ妻、Gelgeis、の亡霊の出現、隣国の領土的野心や、更にアイルランドの部族まで巻き込んだ争い、等々がこれらの事件の背後にあった。

この修道女フィデルマ・シリーズはこれまでも何冊も読んできたが、今回は特に興味を引いた。というのも、舞台がイングランドで、丁度異教とキリスト教がせめぎあっている7世紀という面白い時期だからだ。Cild率いる修道士が武器を取って犯罪者を追いかけたりなど、この頃は修道士と言っても結構おっかない、僧兵みたいな連中も居たのかなとも思わせる。フィクションだから鵜呑みに出来ないが、時代背景を想像しつつ読むと面白かった。

このシリーズで一貫して表現されている中世アイルランドにおける女性の地位の高さだが、これはどの位歴史的真実を反映しているのだろう(どなたか、お教えください)。当時のアイルランドについてはまったく無知なのだが、そのうちこの点についてちょっと勉強してみたい。

中世イングランドを舞台にした軽い歴史捕物帖、そしてフェミニスト・ヒロインのお話として、楽しい娯楽小説だ。