2013/11/12

映画『あなたになら言える秘密のこと』("The Secret Life of Words")


『あなたになら言える秘密のこと』("The Secret Life of Words")
          スペイン映画、2005年、日本公開2007年

監督・脚本:イザベル・コイシェ
制作:アウグスティン&ペドロ・アルモドバル、エステル・ガルシア
撮影:ジャン=クロード・ラリュー

出演:
サラ・ポーリー (ハンナ)
ティム・ロビンス (ジョゼフ)
ハビエル・カマラ (サイモン)
エディー・マーサン (ビクター)
スティーブン・マッキントッシュ (医師)
ジュリィー・クリスティ (インゲ、心理カウンセラー)

☆☆☆☆ / 5

しばらく前に、イザベル・コイシェ監督、サラ・ポーリー主演の『死ぬまでにしたい10のこと』を見て、とても感銘を受けたので、同じ2人、そしてまたアルモドバル兄弟(アウグスティンはペドロの弟)が制作で協力したもう一つの作品のDVDを買って、見た。スペイン映画だが、英語の作品。舞台も主にUK。

ストーリーは:
過去の苦難の記憶を胸に秘め、誰とも言葉を交わすことなくひたすら孤独な毎日を送る若い女性、ハンナ。工場でも黙々と仕事をこなす彼女だったが、ある日、働き過ぎが問題となり、無理やり1ヵ月の休暇を取らされてしまう。宛てもなく長距離バスに乗り込んだ彼女は、ひょんなことから海の真ん中に浮かぶ油田掘削所でジョゼフという男性の看護をして過ごすことに。彼は事故でひどい火傷を負い、一時的に視力を失っていた。それでもユーモアを失わないジョゼフは彼女に名前や出身地を質問するが、ハンナは決して答えようとしない。この油田掘削所で働いている男たちは、それぞれに事情を抱えた者たちばかり。閉ざされた空間でそんな風変わりな男たちと生活を共にするうち、ハンナも少しずつ人間らしい感情を取り戻していくが…。(粗筋はwww.allcinema.netより引用)

見始めてすぐに引き込まれた。静かな始まりだが、主人公の日常の一コマ一コマ(工場の風景、ひとり暮らしのアパート、上役との面接、そして、バスの中や海辺のホテルの一部屋等々)が何故か印象的。私の好きな俳優、エディー・マーサンが出て来て、これからどうなるのかな、とワクワク。でもその後は、静かに静かに物語が進む。主な舞台は海上の油田基地。事故で火災が起こりその後は掘削を停止中。そこに残った10人にも満たない男達とハンナの静かな日々。火災で大やけどや骨折をし一時的に失明してもいるジョゼフの看護に、今は工場労働者だがかって看護婦をした経験のあるハンナが派遣される。どちらも心に深い傷を負ったふたりが、共に取り返しのつかないトラウマに悩まされているだけに、お互いに対し徐々に心を開いていける。

そこまでは、ありそうなストーリー。飾り気の無い演出と、俳優達の名演が楽しいが、ついうとうとした時もあって、5分くらい前に戻って見なおしたりもした。しかし、終わりに近くなって、ハンナが過去の話をしはじめたところで、それまで伏されていた彼女の過去に、聴衆は愕然とする。今の彼女の静かな日常と、彼女の語る過去とのギャップは凄まじい。

目の前で苦しむジョゼフの大火傷や失明が、ハンナが負った過去の心の傷の一種のメタファーとして機能しているように思う。ジョゼフが置かれている盲目の暗闇や全身の痛みは、ハンナの心の鏡のようだ。

真面目すぎて休暇を取らないハンナは、勤務していた工場の管理職の男に、南国のビーチなどに出かけて長期休暇を取るように勧められた。しかし、彼女の出かけたのは寒々しい北の海辺。北海の大海原に、鉄の櫓に支えられてぽつんと立つ油田基地が、ハンナにとって、そしてそこで事故に遭ったジョゼフにとっても療養所か保養地のような役割を果たす。外国人、同性愛者、孤独な海洋学者、地上勤務になじめない物静かな管理職など、普通の暮らしからはみ出てしまった者達が、平和に共存し、そうあるべき世界のミクロコスモスを作る。北の海の絶え間なく押し寄せる波や、甲板にたたきつける雨が、不思議な優しさをかもし出す。

見終わって直ぐ、ほとんどの部分をもう1回見た。

映画としては、観客を惹きつける力がどれだけあるか、やや疑問に思う人もあるかもしれない。ハリウッドの娯楽作品のように、観客を始終惹きつけようとする作品では無く、見る側も理解しようとする努力が必要。ハンナやジョゼフ以外の登場人物の人生が持っている小さなドラマは印象的だが、それらが有機的に組み合わされてひとつに収斂するわけでもない。しかし、無理矢理エクサイティングにせずに、散文的で、ハンナとジョゼフのドラマの背景を作るだけのところが、かえって自然で、良いとも思える。

主役の2人はもちろんだが、エディー・マーサン、スティーブン・マッキントッシュ、ジュリー・クリスティなどのイギリス俳優の脇役がとても個性的で素晴らしい。

ハンナが語る自分の過去やナレーションとして出てくる子供の語りがどういう風に事実を反映しているのか、良く分からないところがある。トラウマを覆う深い霧のように、過去の傷が見え隠れしつつ終わる。いくらか曖昧なまま残して見る者に考えさせ、容易い解答やカタルシスを与えないのは、脚本も自ら書いたコイシェ監督の意図だろう。誰しも見て損はない、私達の多くがテレビで見、新聞で読んだ現代史を思い出すためにも。そして同じ事を繰り返さないためにも。

(付け足し)ちょっと面白かったエピソード:
・ハンナの勤めている工場の管理職(工場長か)、自分が行ってみたい南国旅行のツアーのパンフレットを山ほどため込んでいて、ハンナに、行ってみたら、と勧める。
・ビクター(エディー・マーサン)とハンナが中華らしきものを食べている店、Jポップが流れていたみたいだ。
・ビクターは、ハンナを車に載せた時、「散らかっていてごめん」と謝ったり、「汚くないか」と尋ねる。小さい子供がいてオモチャとか縫いぐるみとかが散乱しているし、子供のもどしたものが残っていたりするらしい。こういうディテールって、さすが女性の書いた脚本だね、と感心した。
・ハンナはもの凄い潔癖症か?大きい四角の石鹸を自宅に山ほどストックしており、いつも新しい石鹸を使い、多分1回使うと捨てるらしい。でも、看護婦として患者の下の世話なども平気で出来る。あの石鹸、欲しいなと思った。
・ジョセフは溲瓶でハンナに小水を取ってもらうが、その時、彼は言う、「子供の頃、お袋に最後の一滴までちゃんと出しなさいと言われたよ」。そうなんだよね、トイレを汚したり、パンツやズボンがおしっこ臭くなっちゃいけない、とお袋に良く言われたものだ(^_^)。
・機関士のふたりはむさ苦しい、毛むくじゃらで、洒落っ気なしで、無礼な言葉使いの労働者。外国の洒落た料理を作るシェフのサイモンに文句たらたらで、バーガーとフライドポテトにしろ、とうるさい。彼らはそれぞれ陸の上には愛する奥さんと小さい子供たちを持っていて、ハンナに写真を見せて悦に入ったりする。それなのに、お互いに首ったけ。ひとりが「人生は分からん」と言う台詞が素晴らしい!こういう小さなディテールの積み重ねがこの映画をとても暖かく、面白いものにしていると思う。

なお、主演のサラ・ポーリーはカナダ人だが、政治活動でも知られた人のようだ。地元の社会民主主義政党、Ontario New Demoratic Partyを支持し、選挙運動に協力したりしてきた。デモに参加して警官に殴られ、歯を折られたこともあるそうだ。彼女は映画監督としての仕事もしている。その一作、"Away from Her" (2006) は2013年にノーベル賞を受賞したカナダ人小説家アリス・マンローの短編小説に基づいた映画である。

2013/11/06

アメリカの友人へのメールと福島原発処理の恐怖

先日、学生時代に知り合い、それ以降40年近く通信が続いているアメリカの友人から久しぶりにメールを貰ったので、自分や家族の近況などを知らせた。その折、日本の様子について書いているうちに原発の事にも触れざるを得なかった。親しい友人への私信として書いたものなので、いささか穏やかでない言葉も混じっているが、かえって私の偽らざる気持ちが現れているとも言える。英語だが、その原発についての部分を、ここにも載せることにしたい。

以下はその文章:

I am very angry with our stupid government which still pursues the energy policy using nuclear power despite the disastrous Fukushima accident. The accident itself is still very much an ongoing affair, and even if things go as they planned, it would take decades or perhaps more than a hundred years to contain it completely and reach the end of it. The melted core of the reactor is still in there, extremely hot and constantly emitting deadly radioactive materials which contaminate the underground and sea water around the plant. The scientists don't really know what to do with it, and they are forced to find new technological methods as they go forwards. Thus it really could turn worse again and threaten the safety of the Tokyo area if they fail to contain it. We have about 50 nuclear plants in this earthquake- and typhoon-infested country. It is a modern doomsday come true! I think we Japanese are in a collective amnesia, allowing our God-forsaken government to keep nuclear power plants. 

福島では安全な廃炉の見通しもつかず、地下水を汚染し、海に放射能を垂れ流し。海底や海産物はどんどん汚染されているだろう。一両日中にも始まるらしい4号機の1533本の使用済み燃料棒の搬出は、やらなければならないことらしいが、気の遠くなるような長く危険な作業。その間にいつ大事故が起こるかも知れず、日本のマスコミはわずかしか報じないが、他国では大変不安視しているようだ。私の友人には、事故が起こった時にどうしたら関東地方から逃げられるか真剣に悩んでいる人もいる。危険度については私にはわからないが、それについては京大の小出先生の話を聞いて欲しい。もしこの燃料棒が浸かっているプールが大地震などの事故で壊れて汚染水が周辺に流れ出てしまうと、首都圏全体が汚染の危機にさらされるくらい危険らしい。問題は、この作業がどのくらい大きな不安要因があるか、どのくらい危険かということを、素人の国民がほとんど理解していないし、政府もマスコミも知らせようとしていないということだ。更に、4号機の燃料棒は何とか取り出せても、既に炉芯が溶けて崩れている炉では、安全な炉の解体なんて夢のような話ではないだろうか。小出先生によると、今現在、その解体の技術はないそうだ。結局チェルノブイリみたいに、鉛漬けにして被ってしまうのか?その鉛などの壁も何十年か毎に取り替えねばならない。そうこうしているうちに、また福島を大地震が襲わないと誰が言えるだろうか?でもとにかく廃炉に向けた作業は進めて貰うより仕方ない。属する組織は何であれ、現場で奮闘する方々の懸命の努力には頭が下がるし、感謝したい。

東北大震災による原発事故で一歩間違えば首都圏全体が避難を迫られるような爆発になったかもしれなかった。それなのにまた原発を推進し、トルコのような地震国にまで売ろうとする政府、原発再稼働の推進をする連立政権を支持する多くの国民・・・。原発が無ければ電気の供給が不安定になったり、電気代がどんどん上がり、企業はやっていけない、と言われる。原発なしなんて、机上の空論とか、非現実的とも。しかし、目先の経済がどうなるか、というレベルの問題じゃ無いと思うが・・・。本当に東日本に住む私達自身の命の安全、そして特に小さな子供達の未来がかかっている問題だ。私も小さな子供がいたり、子供を作るつもりの若い夫婦だったら、関西以西に転職しようと必死になったかも知れない。

先々、炉芯が溶け出た炉がどうなるかは更に心配だが、まず始まるのは、4号機の燃料棒1533本 (!) の取り出し作業。これは来年いっぱいかかるらしいが、日常の雑事で紛れはしても、気が気じゃない。何だか、毎日ロシアン・ルーレットを見ているような・・・。

これを書いていて連想したのは、毒をはき続けながら暴れるドラゴンに単身戦いを挑んで、ドラゴンを退治はしたが、自らも命を落とすベーオウルフ。ドラゴンが何故暴れたかって?盗人が宝の塚から宝を盗んだから。放射能をはき出しながら暴れ続ける原発は、人間の思い上がりや強欲が生んだ、本当に黙示録的な怪物だ。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』も思い出させるし、何より新約聖書のヨハネ黙示録を再読してみようと思った。

2013/10/21

『エドワード二世』(新国立劇場、2013.10.20)


無いものねだりはするが、貴重な公演であり、楽しめた
『エドワード二世』 

新国立劇場公演
観劇日: 2013.10.20   13:00-16:00
劇場: 新国立劇場小劇場

演出: 森新太郎
原作: クリストファー・マーロー
美術: 堀尾幸男
衣装: 西原梨恵
照明: 中川隆一
音楽: 藤田赤目

出演:
榎本佑(エドワード二世)
中村中(イザベラ)
下総源太郎(ギャヴィストン)
安西慎太郎(エドワード王子)
窪塚俊介(ケント伯エドマンド)
原康義(ウォリック、ウィンチェスター司教)
大谷亮介(ランカスター、修道院長)
木下浩之(ペンブルック、トラッセル)
大鷹明良(アランデル、マトレヴィス)
中村彰男(レスター)
瑳川哲朗(モーティマー・Sr)
石田佳央(モーティマー・Jr)
谷田歩(スペンサー)
長谷川志(ボールドック)
石住昭彦 (カンタベリー大司教、ガーニー)
小田豊 (コヴェントリー大司教、ボーモント、エノーのサー・ジョン)
木下浩之 (トラッセル)
西本裕行 (ライトボーン)

☆☆☆☆ / 5

沢山の俳優、豪華なステージ・セット、やはり新国立は日本の舞台としてはお金がかかっている。しかもこの珍しい演目を選んだ事も大いに評価したい!幾つか気になることはあったが、それでも終わってみればかなり楽しかった。

プロットについては、新国立劇場のホームページにもあるし、私がこの夏ナショナル・シアターの"Edward II"を見た時の感想でも書いているので、それらをどうぞ。

全体が黄金に輝くステージ、時々運び込まれる巨大な王座も黄金。きらびやかでもあり、けばけばしくもある。豪華な王宮のようでもあるが、歌舞伎町、新宿2丁目やソーホーのクラブに迷い込んだとも感じる。時々、特にギャヴィストンの登場と共に流れるあやしげで安っぽい音色のサックスの音楽がそのキャバレー風の雰囲気を強める。そのギャヴィストンは、イザベラの取りなしで追放を解かれて呼び戻された時、カーニヴァルの踊り手のような、ドラッグ・クイーンの扮装で腰を振りつつ現れる。但、演じるのは中年のおじさんである下総源太郎なので、その効果はまったくエロティックではなく、コミカル。

良くも悪しくも榎本佑の作るエドワード像によってこの公演の好き嫌いは分かれるだろう。彼独特の、あるいは彼のお父さんも持っているあの脱力感、動作や台詞において常に少し的を外し、かる〜い息を抜いた演技で見せる。他の役者達、特にモーティマーやランカスターなどの大貴族達がひどく力を込めた怒鳴るような台詞の言い方をするので、それとくっきりした対称をなすように意図されているのだろう。エドワードはマーローの台詞自体からして弱々しい王だが、一方で愚痴っぽい人間に良く見られるように、妙に厚かましいところ、粘着質なしつこいところもある。榎本のエドワードはそのキャラクターを一層掘り崩し、愚痴を言い、自己憐憫している自分を自ら笑い飛ばす。しばしばずる賢そうな油断無い視線を飛ばして、弱さと同居する図太さ、計算高さを強調した性格付けだ。芸人のように弱さを自己演出したこのエドワードは、その意味で謂わば道化の王、フール・キングと言えるだろう。新宿のドラッグ・クイーンのような(?)ギャヴィストンとペアになると、まさに芸人ペア。

但、このような脱力感を特徴とするエドワードを延々と見せられ、ギャヴィストンの追放、帰還、追放、帰還、と続くと、それで無くとも結構長い前半、かなり単調になり、退屈した。インターバルに入った時点で、正直、「うーん、榎本エドワードは面白いキャラクターだけど、劇としては何だか面白くないなあ」と感じた。一因としては、中年おじさんの下総ギャヴィストンに魅力を感じない。酔っ払ったあか抜けないオヤジの宴会の座敷芸みたい・・・。他にやり方は無かったのか・・・。下品であろうが、やはり若く美しく妖艶なギャヴィストンであったら、と思わざるを得なかった。例えば、スペンサー役の谷田さんと代わっていたらどうだろう?

残念に思ったのが、大貴族達、特にモーティマーやランカスターが矢鱈と怒鳴ること。野外公演でも大劇場でも無いんだから、何故あれほど怒鳴らせるんだろう。1人ならともかく、貴族皆が声をからして怒鳴るから、これは演出家の意図だろう。脱力感の王とのコントラストを狙うのは分かるが、正直言って耳鳴りがした。特に小さめの劇場では、声を張り上げないで上手く強弱をつけながら怒りや威嚇を表現するのが俳優の技量であると思うし、貴族を演じた人達はキャリアを積んだ芸達者が揃っているのだから、充分にそれが出来たはずなんだが、ご本人達も納得してないのでは? 静かでありながら恐ろしい、迫力を感じる、というのが一番凄みがあるはず。

イザベラの中村中はすくっと立った姿勢とスタイルの良さが美しくて、とても見栄えのする王妃。声も歌手だけあって響きが良く、丁寧な台詞回しで聞き取りやすい。ただし、丁寧に台詞を言うあまり、感情が充分伝わってくるところまで至っておらず、教科書に忠実な優等生の演技という印象。もっとスマートさをかなぐり捨てた毒が欲しい。一方、キャラクター造形に好き嫌いはあっても、榎本エドワードの台詞の巧みさには感服し、大きな拍手!ルネサンス劇の、日本語としては言いづらい台詞を、とちる事も無く実になめらかに言ってみせる。天賦の才能!

最後だったので特に残念だったのが刺客ライトボーン。役の名前からしても動きの軽快な若者にこの役を振って欲しい。Lightbornとは悪魔ルシファー(Lucifer)の英語名。イギリス演劇では、悪魔はステージを飛び跳ねる身軽さが特徴だ。老人の役者さんには合っていない。更に、まるで歌舞伎の千両役者みたいなもったいぶった大見得。彼の台詞のおかげで最後にかなりガクッときた。大ベテランの重すぎる演技に、演出家は遠慮して口出しできなかった、というのは考え過ぎ?

全体に俳優の平均年齢が高すぎで、台詞のトーンも演技も重すぎる。蜷川シェイクスピアでもそうなんだが、ルネサンス劇の台詞を安心してゆだねられる常連の役者がかなり固定化している感じがし、同じ顔ぶれが長年繰り返し出ていて、自然と年齢が上がってきている。元々大変上手な人達でも、やはり年取った人が多くなりすぎるのは問題だし、自分達では意識して無くても、演技も台詞もスローになってくる。AUNなどの活動が貴重だが、シェイクスピアなどの経験の豊かな俳優や小劇団がもっと必要なのでは?あるいは演出家がもっと広く目配りして若いキャストを発掘して欲しい気がする。

とまあ、幾つか気になったことを書いたが、後半、国政の変転が加速してテンポが良くなり、悲劇性が増してくるとかなり引き込まれて、終わった時には満足感が残った。あの脱力感にはいささか疑問を感じるが、それでも榎本佑の役者としてのレベルの高さは感じた。一方、下総さんの技量を問うというわけでなくて、ギャヴィストン役の俳優の選択、そしてモーティマーやランカスターなどの台詞のデリバリーには工夫が欲しかった。

河合先生の翻訳は、聞いて分かりやすく、言うにも言い易そうな、日常的日本語の訳。しかし、この劇の内容からそうなる面もあるかとは思うが、ルネサンス劇の詩の優美さを伝えている感じはしない。

この夏ナショナル・シアターで見た時は、英語なので私には台詞の細部は分からないままになってしまったが、今回翻訳で聞いて、この劇が如何に階級の差を強く問題にしているか実感した。成り上がり者のギャヴィストンやスペンサーと、モーティマーを始めとするバロンの対立こそ、劇の最大の要点なんだな。歴史上は、ギャヴィストンもスペンサーもジェントリーであり、"lesser nobility"と呼ばれる下級貴族なわけだが、そうした点は抑えられ、彼らの身分の低さ、その卑しい身分に伴う下劣な品性(ホモセクシュアリティーもその一部)が繰り返し貴族達により強調される。確かにギャヴィストンは下品な男だが、一方で、モーティマー・Jrに代表される貴族達は、権力に飢えた醜悪なモンスターだ。靴屋の息子として生まれ、ボールドックのように、学問と才能、そして権力に取り入ることでのし上がってきたマーロー自身の半生が重なって見えた。更に、大貴族による国政干渉を出来るだけ退け、ジェントリーを国政や地方の要職につけ、また法律家などの知識層を側近として重用したチューダー朝政治を反映してもいるのだろうか。

(追記)その後、この劇についての幾つかのブログの感想や、プロの批評家が書いた新聞の評など読んだ。その中では、シェイクスピアなどの研究をしておられるsaebouさんの評が同感だったり、教えられる事が多かった。追放を解かれて王宮に帰還したギャヴィストンの緑の衣装は、アイルランドから帰ったからなのか。ハハハ。

2013/10/19

映画『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")





家族への愛と最後の恋愛:
『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")
(2003、カナダ・スペイン映画)

監督:イザベル・コイシェ(コヘット) [Isabel Coixet]
脚本:イザベル・コイシェ
制作:ペドロ・アルモドバル
音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ
撮影:ジャン=クロード・ラリュー


出演:
サラ・ポーリー (アン)
スコット・スピードマン (ドン、アンの夫)
デボラ・ハリー (アンの母親)
アルフレッド・モリナ (アンの父親)
マーク・ラファロ (リー、測量士)
レオノール・ワトリング (アンの隣人)
ジュリアン・リッチングス (トンプソン医師)
アマンダ・プラマー (ローリー、アンの同僚)
マリア・デ・メディロス (美容師)

☆☆☆☆ / 5

今月初め新聞のテレビ欄を見ていて、NHKの衛星放送でこの映画の放送予定を見つけ、制作者が私の好きなアルモドバル監督であったので、録画しておいて、先日見た。

(粗筋)
「23歳のアンは、母親の家の裏庭にあるトレーラーハウスで失業中の夫と幼い2人の娘と暮らし、時間に追われる忙しい毎日を送っていた。だがある日、彼女は突然腹痛に襲われて病院に運ばれる。そして検査の結果、医師から余命2ヵ月の宣告を受ける。若さのせいでガンの進行が早く、すでに全身に転移してしまっていた。アンはこのことを誰にも打ち明けないと決意し、ノートに死ぬまでにしたいことを書き出していった。それはちょうど10項目になった。そしてその日から、彼女はその秘密のリストを一つずつ実行していくのだった…。」(www.allcinema.netより引用)

アルモドバルの映画では無いが、彼が制作を引き受けただけあって、なかなか感動的な作品。彼の作品に見られるようなちょっとファンタジックなおとぎ話風の面があり、逆に偶然が重なりすぎるなど、リアリティーに乏しくて不自然という感想も出てくるだろう。現代の寓話と言えるだろうか。昔いくらか読んだラテンアメリカの小説などを思い出しつつ、文学でも映画でも、スペイン語圏の物語って、英語圏の物語よりもファンタジックな面が強いのかなと思ったりしている。逆に言うと、英米、特にイギリスって、他国の物語と比べ、身も蓋もない現実的な話が多いという気もする。

さて、アンは17歳の時に最初の子を出産し、多くのミドル・クラスの子が高校・大学で青春を楽しむ時期を、生活と子育てに追われつつ、貧しいながら必死で生きてきた。夫はお人好しで、彼女を大変愛し大事にしてくれるが、映画が始まる時点では失業中で、生活は不安定。彼女自身も大学の掃除婦として働いている。父親は長らく刑務所に入っており、妻(アンの母)とも娘のアンとも絶縁状態。その母親は彼女を愛し、孫娘達の世話などサポートしてくれているのだが、とても陰気な性格で、いつもネガティブなことばかりいうので、顔を合わすと気が滅入る。

というような暮らしのアンが、突然あと2ヶ月しか生きられない、と宣告されたのだからたまらない。これまでだって、ろくに「生きた」という充実感の無い生活を送っていたわけだから。彼女は癌の事を誰にも知らせず、しばし呆然としているが、夜中のカフェでノートを取り出して、標題通り「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出す。全部は思い出せないが、例えば「ヘヤー・スタイルを変える」とか、「家族と海岸に行く」なんていう日常的なこともあれば、「刑務所の(絶縁状態にある)父親に会いに行く」、「子供達が18になるまでの誕生日のメッセージをテープに吹き込んでおく」というような重いものもある。そうした中でも最も重要なことは、「新しい恋をする」こと。そして、リーというひとり暮らしの測量士とそのカフェで出会い、恋に落ちる・・・。このあたりは、かなりご都合主事的なプロットだが、これはおとぎ話であると考えるべき。

突然死を宣告されて、わずかな残された期間をどう生きるか真剣に考える、というお話というと、黒澤明の『生きる』を思い浮かべる人が多いに違いない。それ以外にも、文学や映画、テレビ・ドラマなどでたくさんありそうだ。現実にだって、こういう事は誰にも起こりうる。いや、大多数の人は人生で一度は、程度の差こそあれ、こういう切羽詰まった気持ちを経験するのでは無かろうか。大変ユニバーサルな状況設定だ。これのもっとも原初的な形が、中世道徳劇、『エブリマン』とか『マンカインド』。そうしてみると、アンを取り巻く人々も、どこか中世道徳劇風の寓意的な人物に見えてくる。中世劇だと、例えば、「好色」、「友情」、「悔悛」、「物欲」、「慈悲」等々の寓意的人物が、死を宣告された主人公に近づいて来て、彼を誘惑したり、諭したりする。主人公は色々と懊悩を経た挙げ句、最後には悔悛の上で、神に召されることになる。カトリックの教えを伝える教訓的な劇であるから、結論は現代の映画とは大きく異なるが、構造は似ている。もちろん、現代のこの映画では、主人公アンは、自分の生きた証しを家族の心に刻みつけ、また家族が平和に愛に満ちて生きられるように出来るだけの事をする。と同時に、これまでに出来なかった自分の人生の為のささやかな希望を実現しようとする: ヘヤー・スタイルを変えてみようというのはそのひとつで、実に慎ましい。しかし、誰にも内緒で恋人を作りセックスまでしたのは、かなり大きな決断で、この映画の一番のクライマックス。夫は良い人で、彼女や娘達を充分に愛してくれ、浮気をしたりはしない。でも、何の説明も無いが、彼女の「私の人生、これで良かったのかしら。このまま死んでしまったら悔しい」、という気持ちが切なく伝わってきた。1人の人間の人生にとって、家族への愛と並んで、男女の(あるいは、ひとによっては同性への)性愛というものが如何に大事かを強く感じさせる作品だ。

日本人が作ると非常にセンチメンタルになりそうな題材だが、淡々と、まるでビデオ・ダイアリーのように撮られているところが大変良く、いささか不自然な設定を補っている。つまりおとぎ話をドキュメンタリーのように撮っているのだ。死の直前の苦しみなど、具体的に肉体の死にいたる局面は描かれていないので、不十分と感じる観客も多いかも知れないが、そこはおとぎ話と考えるよりないだろう。ロケの場所はバンクーバーらしいのだが、土地柄を感じさせない。ロンドンとか東京、パリなど、その場所に個性のあるところよりも、ロケ地の無機質さが、道徳劇のような一般性を強めていて良い。

20歳位の若い人、働き盛りで落ち着いて人生を考える暇のない多忙な世代の人、そして私のように老境にさしかかり自分の死を現実として感じ始めた(あるいは感じている)人、人生の色々な段階にいる人にとって面白いと感じさせる要素を持っていると思う。

2013/10/16

ナショナル・シアターの新芸術監督は Rufus Norris



昨日10月15日朝に記者会見があり、National Theatreの新しい芸術監督がRufus Norrisと発表された。着任は2015年4月。既にNTのassociate directorとして活躍している人で、Guardian紙の下馬評でも第一に上がっていた。私は残念ながら彼の演出作品を見たことがないが、イギリスの演劇人の間では非常に良い人選と評価されているようで、Whatsonstage.comのMichael Coveneyなども好意的に受け止めている。彼は俳優の出身。名門演劇学校のRADAを出ているが、多くの著名な演劇人と違い、オックスブリッジ出身ではない。ちなみに、これまでのNTの芸術監督はOlivierを除いて、皆、ケンブリッジ出身らしい。

最近、彼が監督した公演作品としては、NTで"London Road" (2011)や"Amen Corner" (2013)。2004年にAlmeidaで監督したDavid Eldridge作の"Festen"で特に大きな注目を集めたようだ。彼の奥様はTanya Ronderという劇作家で(写真で一緒に写っている方)、Norrisは彼女と幾つか一緒に仕事をしている。

Norrisはミュージカル("Cabaret" 2012)やオペラ("Doctor Dee" 2011)も監督しており、多彩な監督だ。

映画も2本監督しているそうで、カンヌでも上演された"Broken" (2012)は、The Best British Independent Filmという賞を取っている。

舞台の監督としての経歴を見ると、現代劇、新作、海外の劇などが主で、シェイクスピアなどの英国ルネッサンスの古典やカワード、プリーストリー等、イギリスの現代古典などがほとんど見当たらないように見える。シェイクスピアは2002年の修業時代に小さな劇場で"Tempest"をやったことがあるだけのようである(注)。Hytnerはそのレパートリーの広さが素晴らしく、ルネッサンスからビクトリア朝、そして現代劇、新作まで幅広く演出し、しかもほとんどの公演は成功をおさめた。NorrisはNTの芸術監督になるので、自分で何でもこなす必要はないが、NT全体としては、Hytner時代同様、色々な時代とジャンルに挑戦し、新しい演出手法や古典の読み直し、埋もれた作品の掘り起こしなどに挑戦し続けることが期待される。

Norrisの経歴、特に作品については、このサイトが特に詳しい(彼のエージェントのサイト)。

英語版Wikipediaでも項目が設けられているが、なんと昨日の発表後直ぐに、彼の芸術監督就任が書き込まれていたのには驚いた。

なお、Hytnerの退任と同時に、事務方のトップでHytnerを支えてきたExective DirectorのNick Starrも退任する。National Theatreにとっては、こちらの後任人事がどうなるかも、芸術監督同様に重要であるに違いない。HytnerとStarrは、Michael Grandageのように、おそらくWest Endに本拠地を置く劇団を主宰すると見られている。

(注)GuardianのMichael Billington曰わく、NorrisのCVから見る特徴は"the catholicity of taste"だという。この"catholicity"とは、おそらくuniversality、つまり幅広さを示しているのだろう。確かに彼はかなり広いジャンルの作品を監督してきたようだ。しかしそのBillingtonもNorrisのCVにはShakespeareが欠けているとも書いている。それ以外のイギリス演劇の古典も見当たらないようだ。

2013/10/15

新しい章を書き始めた


1週間くらい前から論文の新しい章を書き始めた。これが最後の章になる予定だが、1万語以上(大体30ページ以上)、出来れば1万5千語に近い長さにするつもりなので、いつになったら終わるか分からない(それが終わった後も、難関のイントロダクションが待っている)。この章の終わりの方は、どうなるか、まだ漠然としたまま書き始めている。材料となるノートは沢山取ってあり、それをまとめて大まかなアウトラインも作ってあるのだが、集めた材料の取捨選択があまり出来ておらず、書き始めてみると、なかなか思うように材料を生かせない。相当な分量の材料を切り捨てないといけない。まとまった長さ、英文で言うと1万語以上の文章というのは書き始めの序論が特に難しい。最初に文章全体の方向を定めなければならないのだが、理論的な事に弱い私は、ここでまず躓いてしまって、苦吟している。但、書けるところから書いていき、書けないところは後で調べて書き足したり修正したりしようという方針なので、論旨がずれていたりしても、ところどころ穴があいていても、まずは先へ進み、章を一旦完成させるつもりでやっている。1人で書く論文と違い、大学院生で指導教授もいるのだから、後で客観的なアドバイスも貰え、修正できる。

書く内容と共に難しいのが、気力の維持である。日常の色々な雑事があり、また、アルバイトの非常勤講師や、時々引き受けているゲスト講師、社会人講座などの準備もある。私の場合体調が悪い日も多く、また、定職の無い今では、研究・教育上の仲間に会うこともほとんどなく、完成したとしても学会で評価されるとか、本として出版できるわけでもない。研究書や論文を読むにも、専任職を持つ研究者と違い、なかなか手に入りにくいという研究環境の問題もある。その中で、自分の知的好奇心だけをエネルギー源として勉強し書き進めるのは、思ったより骨が折れる。それでもイギリスに居た間は、芝居に行くこと以外は雑事や雑念が少なく、自分の勉強に集中出来たが、帰国後は、その他の事が色々と気にかかる。引退したのに何故こう勉強の心配ばかりしているのか、馬鹿馬鹿しく思うこともある。

というような具合で、前回の長い章を書いて以来、かなり苦しんできた。書き終わりそうも無い、と思う時もあったが、今は新しい章を実際に書き始めただけでも、少しほっとしている。いつ論文全体が終わるか分からないが、諦めなければ終わるという感触だけはある。

2013/09/18

『かもめ』(シアター・コクーン、2013.9.16)

最悪の演出
『かもめ』 
シス・カンパニー公演

観劇日: 2013.9.16   13:00-15:10
劇場:Bunkamura シアター・コクーン

演出・上演台本:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
原作:アントン・チェーホフ
美術:島次郎
衣装:伊藤佐智子
照明:小川幾雄
音響:水越佳一
制作:北村明子

出演:
生田斗真 (トレープレフ)
蒼井優 (ニーナ)
野村萬斎 (トリゴーリン)
大竹しのぶ (アルカージナ)
山崎一 (ソーリン)
梅沢昌代 (ポリーナ)
西尾まり (マーシャ)
小野武彦 (シャムラーエフ)
浅野和之 (ドールン)
中山祐一朗 (メドヴェジェンコ)

☆★★★★


シアター・コクーンでチェーホフの『かもめ』を見た。生田斗真、蒼井優、野村萬斎、大竹しのぶ、浅野和之などの豪華な出演者、そして人気の演出家、ケラリーノ・サンドロヴィッチによる演出と台本。この演出家は、私の周辺ではあまり良い評判は聞いてないので期待はしていなかったが、演目は大変好きなので、それなりに楽しめるだろうと思っていた。しかし、前半30分過ぎたところぐらいで早くも、「こりゃ駄目じゃ」!インターバルにたどり着いた時には、これほどひどい上演を見るのは久しぶり、とため息。

若くて上手とは言いがたい生田斗真を除くと、主な俳優は概して問題ないし、脇を固めているのも、浅野和之とか、小野武彦など芸達者。でも演出がひどい。とにかく、チェーホフのテキストが持つ雰囲気を如何にしてぶち壊すか、ということばかり考えているとしか思えない。チェーホフは、ロシア帝政末期の地主階級の没落を背景に、中産階級もふくめ、時代の変化に翻弄される人々の姿を哀愁と暖かいユーモアを込めて描いているので、伝統的にはそういうややロマンチックな、憂いに溢れた雰囲気の舞台となるだろう。でも、今はそうした伝統的な、あるいは新劇的な解釈を超えて、何か新しい、現代的な味付けをしようという試みがあって当然だろう。サンドロビッチのやり方は、徹底的にロマンチックなところを排して、スラップスティック的演技とか、ブレヒトみたいな異化作用を入れて、観客を感傷に浸ることから引きはがそうとしているように見える。それは結構としても、では上演としてどういうものを目指しているのか、観客をどうひきつけるかということが全く見えてこない。ただのファルスにしてしまいたいのか。特に、若すぎるとしか思えない山崎一演じるソーリンにどたばたをやらせ、苦笑い。感動を呼ぶはずのキャラクターなんだけどな。大竹しのぶのアルカージナも突拍子も無い、ブラック・ユーモアとしか思えない金切り声を突然連発。全体に漫画的でふくらみのないキャラクターを並べてしまった。更に最後のニーナの熱い台詞のあたりでは、突然電気が点滅したりして、観客の気をそらすが何故?但し、蒼井優のニーナは説得力を感じた。

けっしてすべて気に入ったわけではなかったが、蜷川幸雄がやはりシアター・コクーンのスタジオで演出した『かもめ』を私は見ているが(1999年、原田美恵子、宮本裕子、高橋洋など主演)、かなり楽しめた。それと比べると、とても比較できるレベルではない。良い俳優、良いスタッフを得て、この惨状!カーテン・コールもどこかそっけなかったが、きっと俳優たちもこの公演が上手く行っていないと分かっているのだろうと思える。

明るく、快活な雰囲気をかもし出す島次郎のシンプルなデザインと小川幾雄の照明は、舞台の出来とは関係なく、印象深かった。ロシア風の重苦しさを剥ぎ落とし、一貫したトーンを作り上げていたと思う。折角の立派なセットの効果が上がらず、もったいない。

ちなみに、Young Vicでは去年の秋、現代ロシアに場所を置き換え、言葉も大幅に今の若者風に変えた『三人姉妹』を上演し、批評家の好き嫌いはあるにしても、一定の評価を得たようだ。サンドロヴッチの試みを日本の批評家たちはどう思っているのだろうか。マスコミやスポンサーに遠慮して率直な評論が出ないし出来ない日本では、イギリスのような論議が見えてこないのがもどかしい。結局制作者が女性に人気のある役者を揃えた時点で劇場が埋まることが予測できて、公演としては成功なのか?

小劇場の公演ならつべこべ言う気はしないが、1万円近くのチケット代を払ってこれでは・・・。つい先日、たった15ポンドで見たフィンバラ劇場の無名の俳優達による慎ましい演目が懐かしくなる。

それで思い出したけど、蜷川演出作品の常連だった高橋洋、2008年にニナガワ・スタジオを退団し、舞台に出なくなった。いい役者だと思ったけどなあ。何か事情があったのだろうが、蜷川の舞台で見られなくなりとても残念に感じている。今回は、野村、大竹、蒼井など、客を呼べる大物俳優は十分そろえたのだから、その他の役では、女性客集めのためのジャニーズ事務所俳優の起用よりも、演劇で地道に修行を重ねてきた若い舞台俳優にチャンスをあげて欲しかった。

2013/09/15

"Fishskin Trousers" (Finborough Theatre, 2013.9.7)


中世の伝説と現代を繋ぐモノローグ
"Fishskin Tousers"

Finborough Theatre公演
観劇日:2013.9.7  19:30-20:45
劇場:Finborough Theatre, London

演出:Robert Price
脚本:Elizabeth Kuti
照明:Matt Leventhall
衣装:Felicity Gray

出演:
Jessica Carroll (Mab, a servant in Orford Castle, Suffolk, in 1173)
Brett Brown (Ben, a scientist on Orford Ness, in 1973)
Eva Traynor (Mog, a primary school teacher, at Orford, in 2003)

☆☆☆ / 5

この夏のロンドン滞在中、最後に見た劇。この小さなフリンジの劇場、Finboroughは、私のお気に入りの劇場で、いつもとても興味深い劇をやってくれる。切符の値段も、フル・プライスで15ポンド以下と、大変気軽に見られる。だからその時の演目が自分に合わない劇でも気にならない。今回は、3人の俳優によるモノローグを織り合わせた作品で、英語の理解に大いに難がある私には、かなり理解出来ないところがあったが、それでも楽しめた。

劇全体の土台となっているのはイングランド東部、サフォーク州のオルフォード(Orford)という町を舞台にした中世(12世紀)の伝説。オルフォードの漁師の網にワイルドマン(半獣半人の怪物)がかかった。普通ワイルドマンというと森の住人であるが、このワイルドマンは、海に住む、男性の人魚のようなもの。最初に登場する人物は、12世紀オルフォードに住む召使いの娘Mab。彼女のモノローグで、このワイルドマンが捕まり、オルフォード城の城主の牢に閉じ込められ、拷問にかけられた経緯が語られる。Mabはこの怪物に同情し、密かに彼を連れ出して海へ戻す。

約800年後の1973年、オルフォードの岬(Orford Ness)では、英軍の最先端のレーダーの研究が行われていて、オーストラリア人の若者で、アメリカの大学の研究者であるBenもチームの一員として派遣されていた。彼は大学時代に学生寮のいじめで亡くなった友人を見殺しにしたという深い罪の意識に苦しんでいた。彼はパブの給仕のMabelと知り合って夜の浜辺にデートでかけるが、奇妙な音を絶えず聞く。彼らは舟で海にこぎ出すが、MabelはBenに彼女が通っている学校の美術の授業のために作っている「魚の皮のズボン」(fishskin trousers)を着るように言う。Benは一種のワイルドマンになって海に戻って行くのだろうか・・・。

更にその30年後、小学校の先生のMogは、妻のある男性と関係を持ち、妊娠しており、ひどく悩んで、自殺を考えつつ海辺に出かける。彼女も、海から上ってくる、忘れがたい叫び声を聞く。

3つの時代の3人の若者が、ワイルドマンの伝説によって結びあわさせる。3人の俳優が交互にそれぞれの物語を語り、最初ばらばらに見えた3つの物語が、少しずつ繋がっていく。中世の伝説と現代が幻想的に溶け合う、とても良く出来た劇だ。何も小道具のない裸のステージで、俳優同士の対話もなく、ひたすら言葉の力でじっくりと観客を引き込む。それを支える3人の俳優の演技というか、語りが素晴らしかった。モノローグの劇はあまり好きでは無いが、今回はかなり満足できた。

ちなみに、この劇のベースとなっている伝説は、ネットで調べてみると、12世紀の年代記、"The Chronicles of Ralph of Coggeshall" (1187)に実際に記されているそうだ。ラテン語原典は、Rolls Series, ed., Joseph Stevenson (1875)にあり、また、近々、Harriet Websterによる英訳も付いた新しいエディションが発売されるそうである。オルフォードのワイルドマンについては、こちらが詳しい

Elizabeth Kutiの脚本も発売されている: "Fishskin Trousers" (Nick Hern Books, 2013)。この本には、標題の作品と共に、Kutiによる2本の一幕劇も収録されている。

2013/09/09

Ian Rankin, "The Impossible Dead" (2011; Orion Books, 2012) 423 pages


スコットランド独立運動過激派を背景にしたミステリ
Ian Rankin, "The Impossible Dead"
(2011; Orion Books, 2012)  423 pages.

☆☆☆☆ / 5

スコットランドのミステリー作家、Ian Rankinの新しいシリーズ、The Inspector Foxシリーズの第2作目。Rankinはまだまだ若いが(1960年生まれ)最近のインタビューで、これからしばらくお休みを取ると言っているので、このシリーズが今後どうなるか分からないが、既に出た2冊とも読んで見てとても気に入った。今後Rankinが書いてくれるなら、続けて読みたいシリーズになった。

エジンバラ警察で、不祥事などを捜査する部門"Complaints and Conduct"のチーフ、Malcolm Foxは、今回、エジンバラ近隣のFife郡の警察署に勤める3名の刑事の汚職の嫌疑を捜査するために派遣される。この3名は、不祥事を起こした同僚のPaul Carterをかばい、情報を隠しているらしい。この事件の中心にいる刑事Carterは既に逮捕され、公判を待つ間留置されていた。彼を汚職の嫌疑で警察に告発したのは、元刑事でPaul Caterの叔父でもあるAlan Carterであった。FoxがAlanの話を聞いた頃、Paulは突然保釈される。ところが、Paulの保釈のすぐ後で、彼の叔父のAlanは何者かに殺害された。当然、恨みを抱いていると見られる甥のAlanに疑いが及ぶ。しかしそれではあまりにも台本通り、と言う気がしたFoxは、Carterが調べていた80年代のスコットランド独立運動の大物の事故死と何らかの関係があるのではないかと疑い、自分もAlan Carterの調査した後をたどって、過去の記録を洗い、証人達に話を聞き始める。そうすると、スコットランド独立運動の過激な一派に関わった者達の、その後の様々な生き方が明らかになってくる・・・。

事件の捜査中、養護施設に預けてあったFoxの父親が倒れて意識不明になり入院し、彼は忙しい仕事の間を縫って病院に通う。父の看護をめぐって、Foxは、やさしく繊細だが劣等感が強く精神不安定な妹Judeとの関係で苦労する。また、昔、警察の研修会で知り合って一晩を共にした人妻、Evelyn Millsとも再会し、相手が今も好意を抱いていることを知るなど、事件の捜査と並行して、彼のプライベートな生活にも波風が立つ。

2013年の今現在、連合王国ではスコットランドで、Scottish Nationalist Party(スコットランド国民党)が安定した政権を続けており、来年にもスコットランドの独立を国民投票にかけると公約しているが、どうなりますか。

非常に複雑に入り組んだプロットを作り上げ、それが登場人物のキャラクターと深く結びついて展開するのは、Rankinのどの作品にも言える特徴だと思うが、この作品でもその腕は全く鈍っていない。更に、ごく普通の常識人のようでありながら、相当に執念深く相手を追い詰めるMalcolm Foxという人物が大変魅力的。煙草も酒もやらず(彼はかってアル中で、大失敗している)、Millsにも惹かれるが相手の家庭を壊すようなことはしない。同僚のKayeを除いては友だちと呼べる人も無いようだ。真面目な警察官であり勤め人で、周囲の同僚や上司には信頼されているようなんだが、何故か、かなり孤独な男。また新しい作品で出会いたい。このシリーズはまだ日本語では出版されていないようだが(?)、当然翻訳されつつあると思うので、読めるのは時間の問題でしょうね。

Malcolm Foxシリーズ第1作目の"The Complaints"についても感想を書いています。

2013/09/07

George Brant, "Grounded" (Gate Theatre, 2013.9.5)


無人戦闘機を操縦する女性パイロット
"Grounded"

Gate Theatre公演
観劇日:2013.9.5  19:30-20:35 (no interval)
劇場:Gate Theatre, London

演出:Christopher Haydon
脚本:George Brant
セット:Oliver Townsend
照明:Mark Howland
音響:Tom Gibbons

出演:
Lucy Ellinson (The Pilot)

☆☆☆ / 5

無人の偵察機が米軍によって使われ出してからかなり経つと思うが、近年は戦闘機など攻撃用にも使われている。ウィキペディアによると、こうした攻撃用無人飛行機(Unmanned Combat Air Vehicle [UCAV] )は「テロとの戦争」において、現在もパキスタン国内などで米軍により使われているそうだ。更に、これらを操縦する軍人の精神的ストレスの大きさも既に問題となっているようだ。この劇はそうした題材を正面から扱ったひとり芝居。非常に緊迫した1時間で、大変良く書かれ、演じられており、私も身を乗り出すようにして見た。しかし、どうしても私には、この作品に限らず、演劇作品としてのひとり芝居の不自然さが引っかかってしまって、その面での不満は残った。とても大事なテーマを扱った劇であり、ひとり芝居では無く、複数の俳優が出る劇であったら、と思った。この夏のエジンバラ・フェスティバルで好評を博してGate Theatreにトランスファーした公演。

主人公は米軍でも珍しい女性の戦闘機のパイロット。大変自信にあふれ、空を飛ぶことを人生最大の生きがいにしている。男達はそんな彼女に恐れをなしてか、なかなか近寄ってこない。しかし、Ericという若者だけが、軍服を着た彼女にオタクみたいに惹かれて、彼女は彼とつき合い、結婚(あるいは同棲?)し、子供を産む。ところが職場復帰した彼女は第一線の戦闘機操縦の仕事からはずされ、ネバダ州の砂漠の真ん中にある基地で無人戦闘機のパイロットとしての勤務を命じられる。空を飛べなくなった彼女はそれだけでもショックであったが、戦場から遠く離れた、平和な米国内の基地で、中東、あるいは中央アジアの戦場を飛ぶ無人戦闘機を操ってターゲットを殺害、あるいは爆撃し、人を殺す、という日常の「業務」(この仕事を皮肉っぽく'chair force'と呼んでいた)が彼女の心をむしばみ始める。ラスベガスに住み、朝起きて、娘のSamを保育所に預け、1時間ほど砂漠の中の道を運転して9時に出勤。そして午後5時まで、画面を見つつ無人戦闘機で敵を追い詰め、射殺し、そして、夕方5時になったら、仕事をやめて、車を運転し、Samを保育所に迎えに行き、家に帰ってEricやSamと静かな夜を過ごす。モニターの向こうの残虐な戦場、静かで冷徹な仕事場、そして平和な日常の暮らしという3つの場面のもの凄い隔たりが二重三重に彼女を追い詰める。最初彼女は、地上勤務の疑似パイロットになったことに差別されたと感じ、仕事に大変不満を感じる。しかしモニターを見つつ敵を追い詰め、爆撃や射殺をしていく作業が、まるでコンピューター・ゲームに興じる一般人のように彼女を捕らえて、彼女は夢中で仕事に打ち込み、家庭をおろそかにするほどになる。しかし、やがてゲームでのように容易に人を殺していくことの罪の意識も生まれている。彼女の心の中では徐々に、ネバダの砂漠と中東の砂漠の境が分からなくなり、通勤で運転する乗用車と無人戦闘機が、更に、標的にしている人達の姿と自分の家族のイメージが重なり始める・・・。

芝居が始まる前、開場した時から主演のEllinsonは小さな舞台の上に仁王立ちになって、入ってくる我々観客の1人1人を睨みつけるように凝視している。Gateの小さなステージ全体が、その彼女をおおうように白い紗の布でおおわれ、それを通して我々はモニターをのぞき込むように、あるいは刑務所や精神病棟の一室をのぞくようにして彼女の演技をみる。彼女がアメリカの基地から遠く離れた人々を遠隔攻撃するのと同じように、傍観者としての私達観客(一般市民)の罪も示されているのだろうか。

脚本を読んだことがなかったので、細部は良く分からないところが多かったが、それでも大変説得力ある劇だった。特にただ1人の出演者のLucy Ellinsonの能力を讃えたい。逞しく、自信溢れたパイロットが、内面から徐々に崩壊していくプロセスを雄弁に演じた。☆を3つにするか、4つにするかとても迷った。ひとり芝居故の不自然さと、ひとり芝居だから生まれた緊迫感、どちらを考慮すべきか、なかなか難しい。

ここで描かれるパイロットは精神に異常をきたすが、こうした業務をまるでコンピューター・ゲーム同様に仕事としてこなして、遠く離れた異国にいる敵を遠隔操作により効果的に殺害し、そしてシフトが終われば平和な日常生活を飄々と過ごしている軍人も多いのだろうか。正気を失わずにそうできる人の方が、ある意味、この主人公より余程異常だ。折しも化学兵器の利用をめぐって、シリア政府軍を米軍が攻撃すべきか、大きな国際問題になっている。オバマ大統領は地上軍は派遣せず、飽くまで爆撃、ミサイル攻撃などに限定するらしいが、無人戦闘機の使用も同じことだろう。血みどろの地上戦は残虐だ。しかし、一方の側に殺人の残虐さを忘れさせるような兵器による攻撃は一層残虐に思えた。

2013/08/31

"A Midsummer Night's Dream" (Shakespeare's Globe, 2013.08.30)


馬鹿笑いで夢から叩き起こされた。
"A Midsummer Night's Dream"

Shakespeare's Globe公演
観劇日:2013.8.30   19:30-22:40
劇場:Shakespeare's Globe

演出:Dominic Dromgoole
脚本:William Shakespeare
セット:Jonathan Fensom
音楽:Claire van Kampen
振付:Siân Williams


出演:
John Light (Oberon / Theseus)
Michelle Terry (Titania / Hippolyta)
Matthew Tennyson (Puck)
Pearce Quigley (Bottom)

☆☆ / 5

見る予定にはしてなかったのだが、昨日グローブ座のそばで、夕方、妻と知人夫婦と4人で食事したので、その後のこの演目を急遽見ることにした。

町の職人達のインタールードのシーンを中心に、駄洒落たっぷりのファースになってしまい、この劇のロマンチックで幻想的な面が台無し。HermiaとHelenaのストーリーを、Bottomとインタールードが飲み込んでしまった印象だ。特に最後のインタールード・シーンは、観客の笑いを取るために延々と続き、私は本当にうんざりした。アメリカ人などの観光客がとても多くて、何でも楽しんでやろうという姿勢が、公演の内容に関して大甘になってしまう。彼らにとっては演目は、シェイクスピアでなくても、寄席の芸でも良いんだろうか。特にBottomがロバになるところと、インタールード場面がしつこく笑いを取る演技となったので、前半に比べて後半が台無し。その結果、劇全体の印象がとても悪いまま終わってしまった。

しかし、公演の発想には注目すべき点もあった。劇はエリザベス朝の衣装に身を包んだ、Theseus率いる男達と、Hippolyta率いる女たちの、一種の仮面舞踏会で始まる。互いにとても攻撃的な身振りでこの両者を対峙させる振付で、男と女の対立をテキストにある以上に強調した出だしだ。この男女の争いの強調はその後も続くが、サブプロットのファルスにかき消されがち。

TitaniaとOberon、彼らの手下の妖精達の扮装や性格付けなどから見て、全体が伝統的な「ワイルドマン/グリーンマン」(森の野人)の味付けでまとめられていた。妖精達も、角を生やし、ある者は獣の仮面をかぶり、バックスキンの衣装等をまとって、半獣半人のようだ。Puckは、凄く細い、遠くから見るとまるで十代半ばみたいな容姿の俳優で、森の妖精にぴったり。エリザベス朝のピーターパン。ちょっと風変わりな歩き方やジェスチャーで大変個性豊かで、この公演で一番印象的な造形だった。Oberonは赤銅色に日焼けした上半身をいつも見せ、とても頑丈で逞しいワイルド・マン。それに合わせるようにTitaniaとHippolytaも、無愛想で、夫に対してアグレッシブに作ってあった。そういう荒削りの野性味豊かな登場人物の造形が公演の大きな特徴だろう。

インタールードのシーンも基本は悪くはないのだが、こういう劇場とか、ウエストエンドの商業劇場でやると、観客の反応に引きずられて延々と駄洒落を引き延ばし、シェイクスピアの喜劇が、お笑いの劇になってしまいがち。それで良いなら高い切符を買って劇場に来る必要はない。監督や役者は悪のりせず、馬鹿笑いを押さえるように、さらっとした演出・演技をやって欲しいと思う。個人的には、グローブ座では喜劇は見ない方が良いと思った。

(追記)この公演、批評は概して良いようだ。こういう上演を良いと思う人がイギリスでもマジョリティーなんだろう。私は陰気な人間なもので(苦笑)。もしこれからご覧になる方がおられれば、私の感想を気にせず、素直に楽しんで下さい。

2013/08/30

"Edward II" (National Theatre, 2013.8.29)


久々に見たマーロー作品。楽しめた。
"Edward II"

National Theatre公演
観劇日:2013.08.29  19:30-22:15 (with a 25 min. interval)
劇場: Olivier, National Theatre

演出:Joe Hill-Gibbins
脚本:Christopher Marlowe
セット:Lizzie Clachan
照明:James Farncombe
ヴィデオ・デザイン:Chris Konkek
音響:Paul Ardetti
音楽:Gary Yershon
ムーブメント:Imogen Knight
衣装:Alex Lowde

出演:
John Heffernan (King Edward II)
Vanessa Kirby (Queen Isabella)
Kirsty Bushell (Kent, King's sister)
Bettrys Jones (Prince Edward, later Edward III)
Kyle Soller (Piers Gaveston / Lightborn, the executioner)
Nathaniel Martello-While (Hugh Spencer, the king's favourite)
Ben Addis (Baldock, a scholar and clerk)
Kobna Holdbrook-Smith (Mortimer Jr.)
Paul Bentall (Mortimer Sr., the uncle of Mrtimer Jr.)
Alex Beckett (The Earl of Lancaster)
Matthew Pidgeon (Guy, the Earl of Warwick)
Penny Layden (The Earl of Penbroke)
Stephen Wilson (The Bishop of Coventry)
David Sibley (The Archbishop of Canterbury)

☆☆☆☆/ 5

Christopher Marlowe作の古典戯曲の上演。とは言ってもMarlowe作品が上演されることはイギリスでもそう多くは無く、私ははじめて舞台で見た。その意味で大変貴重な経験だったし、そもそも私はMarloweの戯曲が大好きで、今回見られて大変幸運だった。古典ではあるが一般の演劇愛好者にはあまり染みのない戯曲と思うので、私自身の復習も兼ねて、長くなるが以下に粗筋を整理しておく。

(粗筋) この劇は、特にこの公演では、Edward IIの戴冠から死、そしてプリンス、つまりEdward IIIの戴冠までを、Edwardと二人の"favourites"(寵臣)、 GavestonとSpencer (Junior)との関係、そしてそれに反発する大貴族や妃Isabella of Franceとの関係を中心に描く。

この公演では、まずEdwardの華々しい、きらびやかな戴冠の場面で始まる。しかし、これはMarloweの脚本にはなく、劇の最後にあるEdward IIIの戴冠と対称を成し、政権が一周したことをくっきりと示すためだろう。そして脚本の本編に入ると、追放されていた寵臣Gavestonが帰国を許されて、華々しく登場。そして彼とEdwardの関係が念入りに描かれる。王は、卑しい生まれであるが溺愛するGavestonに振り回され、彼に様々の高貴な身分と領地を与えるが、国政はおろそかにして国家の安寧を危うくしている。怒った大貴族たち、特にMortimerやLancasterはGavestonを再度追放するように王に迫る。カンタベリー大司教の介入により、王はやむを得ずGavestonを再度追放することに同意する。

しかし、妃Isabellaは王の愛情を取り戻すためにGavestonを呼び戻すことを許可するよう貴族達に懇願し、貴族達もこれに耳を傾け、Gavestonは又々呼び戻される。しかし、Gavestonは戻るやいなや貴族達と対立。これまで王を支持していた彼の妹のKentもGavestonへの王の肩入れに反発し、貴族達に加わる(原作では、Kentは王の弟Edmund, Earl of Kentである)。GavestonはHugh SpencerとBaldockを王の取り巻きに加える。

内乱となり、貴族達はGavestonを逮捕。王は、Gavestonの処刑前に一目会いたいという願いをBaldockに託し、貴族達もそれに同意するが、Warwickの企みにより、Gavestonはすぐに処刑される。妃もついに王を見捨て、息子のプリンスを伴ってフランスに戻る。内乱は続き、王の軍はついに貴族達の連合軍を破り、LancasterとWarwickを処刑。Mortimer Jr.、Kent、そして王妃は、Prince Edwardを押し立ててフランスで軍を起こし、イングランドを攻撃。王は、Hugh SpencerをGavestonの後釜に据える。王の軍は反乱軍に敗戦。王は逮捕され投獄、Spencerなどの取り巻きは処刑される。

Isabellaは今や彼女の愛人となったMortimer Jr.とイングランドを支配。Pembrokeとカンタベリー大司教は王に王位を息子に譲るよう説得する。一方、Kentは再度王を支持し、彼の命を助けようとするが失敗。彼女はMortimerの前に引き出され、プリンスの反対にも関わらず、処刑を宣告される。王は牢獄で拷問され、ついに退位。プリンスはEdward IIIとして戴冠。その一方、Edward IIは刺客のLightborn (=the devil, Lucifer) によって、殺害される(尻から長い鉄の棒を突きさした)。新国王は父親の殺害を知り、Mortimerの処刑と母Isabellaの投獄を命じる。

私が見たのはプリビューの2日目。従って、多少未完成なところがあった気がする。英語が良く聞き取れない私にも、台詞の間違いらしきところも気がついたし、インターバルでは大規模な舞台セットを組み替えるために、約25分を要した。

公演は現代的な味付け。最初の戴冠式と、途中貴族や家来が付けていた甲冑だけは疑似中世風だったが、あとは現代服。現代的、不協和音の混じる音楽・音響。台詞の美しさを強調するところもない。内乱のシーンでも、戦うような仕草をするだけで、剣をふるっての殺陣もなく、かなり迫力に欠けた。本当に現代的にするんだったら、銃で撃ち合ったりさせてはどうかと思う。先日見たHytner演出の"Othello"と比べると、現在の戦争とか内乱を連想させるような公演では無い。このあたり、私には、何故、今風にしなければいけないのか、良く分からないまま。

この公演の最も目だった特徴は、ステージの左右上方に2つの大きなスクリーンを作り、そこにステージでは見えない、ないしはよく見えない、舞台裏のシーンを、ウェッブカムでの中継映像として流すという試みだ。例えば、最初の方で、ステージ上に王やGavestonがいて、舞台裏の小部屋では貴族達がひそひそとGaveston追放の相談をしている時、その舞台裏の映像を、カメラを持ち仮面を被った黒子のような出で立ちの家来が手持ちカメラで撮影して、舞台上のモニターに映し出す。表舞台とは別に背後で色々な策謀がなされているという、宮廷政治の複雑さを示し、臨場感を増そうという工夫だろうか。映像と舞台を組み合わせ、シェイクスピアなど古典も演出するのは、例えば、Robert LepageやRupert Gooldの作品で、しばしばやられてきたし、これらの監督の作品では大変上手く行った場合もある。しかし、今回は画面が揺れる手持ちカメラで見づらいし(人によっては船酔いに似た気分になるだろう)、画面を見たり舞台を見たりと注意が散漫になる。特に上記の貴族達の相談の場面では、2つのスクリーンに別の映像が映り、しかも舞台上にも注目しなければならず、どのシーンにも中途半端にしか観客は注意できなくて、全く機能していなかった。公演の前半が後半に比べて良くないと感じた理由のひとつは、このウェッブカムの映像のためだろう。

前半のセットは、きらびやかな宮廷では無く、楽屋裏みたいな、ベニヤ張りのみすぼらしい背景。楽屋落ちの劇ですよ、と示す意図だろうかとも思ったり、でも私には意図が飲み込めないままだった。前半の終わりの内乱のシーンでは、このセットを倒して国家(王室)が崩壊するのを示す。後半では、この倒れたパネルなどを組み替えて、オリヴィエのステージの上に約3メートルの高さがある土台を組み上げ、その上に椅子や小道具を置いて、IsabellaとMortimerが陣取る。貴族達の会話や、王の牢獄場面などは下のステージで行われる。この、上方のみすぼらしい小宮廷は、仮の政権であることを示すため、そしてMortimerが偽りの為政者であることを示すために建てられたのであろう。彼がこの上で大声を上げると、如何にもmock-kingという感じだった。それは良いのだが、この山に載せられた為に、IsabellaとMortimerの位置が結果的にステージのかなり後方になり観客から遠く感じられ、見づらくなった。

Edward IIを演じたJohn Heffernan、大貴族達に押しまくられて、味方は少なく如何にも自信なさそうな表情を見せる一方、それと裏腹に、Gavestonへの執着だけはなかなか譲らない粘着質の頑固さも、印象に残る。そのGavestonを演じたKyle Sollerは、街のチンピラのような浅薄さを強調。もの凄い身の軽さでステージや観客の間をバッタか何かのように飛び回り度肝を抜く。最初に登場したときは、観客席上段から突如現れ、通路の手すりの上を台詞を言いながら歩きつつステージへと向かった。ただし、後半のSpencerもそうだが、王とそのfavouritesの退廃的なホモセクシュアリティが、何だか、街の娼夫とそのパトロンの安っぽい関係のようにも見えてしまい、耽美的な面が出ないのが残念。私の好みとしては、美しくてほれぼれするような優美なカップルであって欲しかったが・・・。しかし、そもそもプロダクションの意図がそうでは無いからなあ。吸い付き腰も合わせていつまでも離れないキスは、日本の舞台では男女の俳優でも見られないような迫力で圧巻。こういう大胆な身体性は日本人の観客には新鮮だ。この役のSollerはGavestonが殺された後、Edwardの殺害者として登場するのは皮肉。しかも殺し方も、尻から鉄の棒を突きさすという強烈さ!面白い工夫としては、KentとPenbrokeを女性にしたこと。先日の"Othello"で兵士に女性を混ぜたり、Emiliaを兵士にしたのと同様、配役のジェンダーで常識を覆してみるのは面白い試みだと思った。特に、黒いスーツと高いハイヒールを履き、細いが筋肉質のKent (Kirsty Bushell)が激しく他の貴族と言い争うシーンは、男同士よりも迫力があった。また、彼女が処刑される前に地面に這いつくばり、下着姿でMortimerと言い合うところも、女性の身体に込められた意思の強さが力強く表現されていた。しばしば王と他の貴族の仲介役として両者をとりなすPenbroke (Penny Layden)を女優にして、柔らかい印象にしたのも、上手く役柄とはまっていたと思う。私から見ると、配役の中で際立つ存在感を放っていたのは、Isabellaを演じたVanessa Kirby。私は彼女をナショナルの"Women Beware Women"で見ていた。1988年生まれで、まだ若いが多くの賞を取ったり、ノミネートされたりしている才能ある俳優で、凄いステージ・プレゼンスがあるな、と今回再認識した。Isabellaは、王に見捨てられ、不幸な女性だが、やがて愛人を使って王を死に追いやり実権を握る。哀れで弱々しくも、逞しくも、狡くもあり、どういう面を強調するか、俳優の腕が振るえる面白い役だと思うが、原作を呼んだ印象よりも、今回のIsabellaは遙かに強力な、勇ましい、意思の強い女に見えた。KentとIsabellaがこの劇の代表的戦士、と感じるふたりの名演。

公演全体の意図がイマイチ良く分からなかったが、俳優の演技には満足したし、久々にMarlowe作品をステージで見ることが出来、楽しい時間を過ごせたので、主観的な評価は☆4つ。シェイクスピアを見る機会が圧倒的に多いから、彼の様な善悪の判断とか予定調和の無いMarloweの世界が実に新鮮で面白い。随分長くなったがまだ書き足りないこともある。Marlowe自身の事や、書かれた時代、そしてEdwardの時代のことなど、プログラムを読んだり、少し調べたりし、多分この戯曲についてもう1回ブログに書きたいと思っている。

日本では今年10月、新国立劇場でこの劇をやるそうだ。森新太郎演出、河合祥一郎訳、榎本佑主演。私も見るつもりであり、楽しみだ。ナショナルの公演ではどうだった、とか野暮なことを言わずに、素直に楽しみたい。

2013/08/27

Luigi Pirandello, "Liolà" (National Theatre, 2013.8.26)


シチリアとアイルランドの田舎の物語
"Liolà"

National Theatre公演
観劇日:2013.8.26   19:30-21:00 (no interval)
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Richard Eyre
脚本:Luigi Pirandello
翻案:Tanya Ronder
デザイン:Anthony Ward
照明:Neil Austin
音響:Rich Walsh
音楽:Orlando Gough
振付:Scarlett Mackmin

出演:
James Hayes (Simone Palumbo, a landowner)
Lisa Dwyer Hogg (Mita Palumbo, Simone's wife)
Rosaleen Linehan (Gesa, Mita's aunt)
Rory Keenan (Liolà)
Charlotte Bradley (Ninfa, Liolà's mother)
Eileen Walsh (Càrmina)
Aisling O'Sullivan (Croce Azzara)
Jessica Regan (Tuzza Azzara, Croce's daughter)

☆☆☆ / 5

私は何も知らないが、ルイジ・ピランデルロは20世紀前半のイタリアの生んだ世界的作家。この作品はこれまであまり上演されてこなかった作品のようである。今回のTanya Ronderのバージョンがどのくらい原作に忠実かどうかは分からない。イギリスで外国の劇を取り上げるときには、かなり大幅な改作がなされ、翻訳と言うより、翻案と呼ぶべき台本が多いので、相当に変えられているのかも知れない。脚本の改変ではないが、特に大きな違いを生んだのは、場面設定をアイルランドとだぶらせたこと。俳優をアイルランド人にするか、ないしはアイルランド訛りを話させて、半ばアイルランドの田舎の物語にしている。その結果、イギリス人の観客にはより身近に感じられるかも知れないが、私にとっての実際上の問題点として、台詞が非常に分かりにくくて、筋を追えないところが多く、あまり楽しめなかった。

場面設定は1916年の夏、シチリアの田舎の村。移民、あるいは出稼ぎのためだろうか、男達がほとんどいない。残っている男は、60歳代の大地主、Simoneと、若いプレイボーイのLiolà。Simoneは若い妻MItaはいるが子供が出来ず、跡継ぎがいなくて焦っている。一方、能天気なLiolàは村の多くの娘と関係を持ち、3人の息子を作り、その息子達は彼の母親Ninfaが育てている。更に彼はTuzzaという娘を妊娠させてしまうが、この娘はSimoneの若いいとこだった。そこでSimoneはTuzzaの赤ん坊を自分とMitaの子供として貰い受けるというアイデアを思いつく。しかし、この、夫に都合の良いプランに簡単に同意できないのが妻のMitaである。妊娠が出来ないのは彼女のせいでは無く、夫のSimoneが歳を取りすぎているからだが、まるで自分に責任があるかのように見えるのも腹立たしい。そこで、彼女は、元々彼を慕っていたLiolàと関係を持って自分の子を作ることにする。SimoneとLiolàは2人の妊婦に挟まれて困った立場に追い込まれる。

と言うような筋書きだそうだが、見ている間、特に中盤はあまり分かってなくて、うとうと。帰宅後ネットで調べて、なるほど、と思ったりしている体たらく。アイリッシュ・アクセントにやられた。それに時代背景や作家のことが全く分かってないのも良くなかった。プログラムも買ってなかったが、買って少しでも読んでおけば良かったと思う。

登場人物の置かれた立場、特に、貧しくて男達が村を出ており(アイルランドと同じ)、封建的・家父長的な社会の中、女性達は気の毒であり、悲しいお話である。しかし、Pillandello、そして特にRichard Eyreの演出意図は、そうした状況の中でも逞しく生きる女性達のエネルギーを讃えることだろう。全体に明るく、コメディータッチで、歌やライブ・ミュージックがふんだんに使われいて、半ばミュージカルみたいな時もあった。作品の内容、演出家の意図や場面設定、笑いと悲しみが入り交じった雰囲気等々、フリールの"Dancing at the Lughnasa"を彷彿とさせた。但、この劇はあくまで明るく、あれほど繊細でも、感動的でも無かったが。

Anthony Wardのデザイン、Orlando Goughの音楽、そして常にステージの一角を占めていたミュージシャン達が、シチリアの明るい風土を上手くかもし出していた。

時間が1時間半という小品で、食い足りない感じがした。オフウエストエンドのアルメイダとか、フリンジなどだったら、かなり満足できただろうが、National TheatreのLytteltonでの演目として選ばれるのに適切かどうか、やや疑問を感じる。但、スポンサーのTravelexの補助のおかげで、私の席はとても見やすかったが、たったの12ポンド(約1500円)!リビューはかなり良く、「思いがけない傑作」などの評価もあった。私ももう少し台詞の英語が分かればずっと面白かっただろうに、と悔しい。

2013/08/26

ITVのドラマ、"Vera"の第3シリーズ開始


今日は8月26日、バンク・ホリデーの月曜日。ノッティングヒル・カーニヴァルの日です。良い天気で、行楽にはぴったり。この週末がイギリスでの夏の終わり、と言う感じで、この後は秋の気配がしてきます。私は先週の水曜夜あたりから風邪気味で、折角ロンドンに来ていながら寝たり起きたり、部屋で少し勉強したりと、冴えない毎日です。でも無理しても気分が悪くなるので、大人しくしています。

というわけで、テレビを見て過ごすことも多いので、最近見たテレビから "Vera"の第3シリーズ第1話について。昨日25日の夜に放映されたばかりです。"Vera"は私がイギリスにずっと住んでいた2011年に第1シリーズが始まり、ブログにも書きました。日本でも有料チャンネルで放送されているようです。北イングランドのそのまた一番北に位置するノーサンバーランド地方を舞台にしたクライム・ドラマ。原作者は、私は読んだことないのですが、大変人気のあるクライム・ノベリストのアン・クリーブス。ストーリーは、伝統的な、アガサ・クリスティーみたいな感じです。私にとっては、そして多くの視聴者にとってもそうだと思うのですが、このドラマの魅力は、美しいノーサンバーランドの風景!そしてそれを十二分に意識したカメラワーク。ひとつひとつのショットが絵になっています。主役のBrenda Blethyn(ブレンダ・ブレジン)と共に、最大の魅力です。また、聞き取りは難しいですが、きれいな方言も耳に快いです。私はずっと字幕を出して見ています。でないと筋がちっとも分からないでしょう。放送時間は大体2時間ですが、民放でコマーシャルが入るので、90分程度でしょうか。1時間枠のドラマよりはゆったりしたペースで、事件の背後にある謎がゆっくりと解明されていくところが良いですね。

主人公はVera Stanhope主任警部(Detective Chief Inspector)。ひとり暮らしの仕事中毒。捜査に夢中になると、もの凄いエネルギーで、他の事が目に入らなくなり、部下の若い二枚目刑事Joe Ashworth (演じるのはDavid Leon、下の写真) を困らせます。Joeはとても素敵な奥さんがいるのですが、不規則な仕事と仕事中毒の上司のために、仕事と家庭の両立に苦労しているのが分かります。Vera自身はお酒好きで、伴侶もおらず、田舎の一軒家にひとり暮らしで、心の中も孤独そう。伝統的なハードボイルドの探偵の女性版かな。但、猛烈な仕事ぶりの一方で、たまに男性刑事と違う繊細な心配りを見せたりするところが魅力。Veraを演じる俳優Brenda Brethynは、演劇、映画、テレビドラマで長く活躍してきた著名な女優ですが、映画では、マイク・リーの『秘密と嘘』(1996) の主な出演者のひとり、そして、キーラ・ナイトリーが主演した『高慢と偏見』(2005) でミセス・ベネットを演じたので、思い当たる方も多いかと思います。

昨日見た第1話では、別荘地でウィークエンドを楽しみにやって来た若い女性の3人組のひとりが、突然遠くからショットガンで射殺されます。彼女のバックグラウンドを調べても殺される理由が見当たりません。そのうち、どうも彼女は人違いで撃たれたらしいという疑いが生まれます。別荘には他の人が滞在しているはずだったので、その人を誰かが狙っていたわけです・・・。

来週の夜、宿舎に居ればもう一話見られると思うので楽しみです。第2シリーズは見てないと思うので、DVD買おうかなあ。なお、安定した人気があるらしく、既に第4シリーズが撮影中とのこと。Brenda Blethynは67歳を過ぎているそうなのですが、元気ですねえ。



2013/08/22

National Theatreと周辺の風景

昨日ナショナル・シアターに行ったついでに写真を撮ったので、載せておきます。まずは川向こうから見た外観。



そして入り口の当たりを川側から見たところ。打ちっ放しのコンクリートの殺風景な建物で、建物が出来た当初(1976年)はかなり批判もあったらしいです。でも当時の流行りだったんでしょうね。なお、その前の組織としてのナショナル・シアターは、多くの方がご存じの通り、Waterloo駅そばの美しいOld Vic Theatreで上演を行っていました。当時の芸術監督はローレンス・オリヴィエ (1963-73)、今の建物に移る前後は ピーター・ホール (1973-88) でした。





次はロビーです。まだこの時は空いているけど、開演近くなると人がぎっしり。音楽の演奏なども良く行われ、劇を見ない人も楽しめます。この日はやってなかったな。奥にカフェがあり、飲み物やサンドイッチ、サラダなどの他、いくらか温かい料理もありますが、開演近くなると込んできて、座るテーブルがなくなります。食事する時はやや早めに。その他にも上階にカフェテリアや結構立派なレストランなども(行ったこと無し)あります。まあこのあたりはレストランやカフェは他にもたくさんありますから、ここで食べる必要はなし。私は大抵サンドイッチを持っていって、ロビーで食べたりしています。エントランスの直ぐそばにはブック・ショップが有り、演劇関連の書籍やDVD、劇のテキストなどが豊富。絵はがき、マグカップ、Tシャツなどのロンドン土産みたいな品物も少しあります。





 これは帰りにWaterloo Bridgeの上から撮ったナショナル・シアター。遠く向こうにぼんやり白く見えるのはセント・ポール寺院。手前の赤い建物は"Shed"(小屋)という簡易劇場。ナショナル・シアターは大きい順にOlivier、Littelton、Cottesloeという3つの劇場で出来ているのですが、そのうちの小さなスタジオ・シアターのCottesloeが今改築中。その間にCottesloeの代わりとして今年、Shedが建てられたらしいです。今回私は行く予定はありません。Cottesloeが改築なった後は、Dorfman Theatreと呼ばれることになっています。Dorfmanという名前は、ナショナルにいつも多額の寄付をし、その恩恵により安い切符を売ることを可能にしてくれているTravelexという会社の経営者Lloyd Dorfmanの名前から取ったようです。Travelexは外貨両替を主な仕事とする会社です。Dorfmanさんはナショナルのディレクター以外にも色々なチャリティーの仕事もやっていて、その方面でも大変社会に貢献している方です。事業家の鏡ですね。


ついでに、同じ頃ナショナル・シアターの周辺で撮った写真も追加します。最初は、お馴染みセント・ポール寺院です。

次は新しいロンドン名物の高層ビル、The Shard。"shard"という単語はガラスの破片などを示す語。尖ったガラス片みたいですからね。
この民間ビルは昨年11月完成。設計したのはイタリア人建築家、レンゾ・ピアノ(関西国際空港ターミナルの設計者)。72階、306メートルあり、EU域内で一番高いビルだそうです。72階には展望デッキがあり、観光客を集めていて、スカイツリーみたいにかなり待たないと登れないとか。Shard London Bridgeとも呼ばれます。34〜52階はシャングリラ・ホテル、その他は色々なテナントのオフィスが入るそうです。その中には、カタールのテレビ局、アルジャジーラのスタジオも含まれます。ビルは民間企業とカタール政府が主な出資者とのこと。計画が発表された頃、ロンドンの景観を壊すとして、English Heritageなどから批判されたそうですが、出来てしまいました。"Shard"という名前は、English Heritageが批判した際に使った言葉(「ロンドンの歴史的心臓部に突き刺さるガラス片」)から取られたようです。(Wikipedia日本語&英語版より)写真は撮りましたけれど、個人的にはEnglish Heritageの反対に共感。The Shardのあるサザークは多くの古い建物が残る地区であり、周辺のLondon Bridge等の歴史的景観の調和を壊すことになっているのではないかと思えます。作るなら既に高層ビルが建ち並ぶDockland地区などがふさわしいかったとは思います。

最後はナショナル・シアターの近くから、テムズにまたがり、チャリング・クロス駅方面に通じる歩道橋、The Golden Jubilee Bridges。
右側に見える鉄橋がThe Hungerford Bridgeで、これは鉄道のための橋で、1845年建設。The Golden Jubilee Bridgesはこの古い橋の両側に2002年に作られた2本の歩道橋で、The Hungerford Bridgeの土台に支えられています。名前の通り、女王の戴冠50周年を記念して作られました。天気の良い夏の日は最高ですが、冬渡るのはさむ〜い。


2013/08/21

"Strange Interlude" (National Theatre, 2013.8.20)


文字通り「奇妙なインタールード」
"Strange Interlude"

National Theatre 公演
観劇日:2013.8.20  19:00-22:15 
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Simon Godwin
脚本:Eugene O'Neill
セット:Soutra Gilmour
照明:Guy Hoare
音響:Christopher Shutt
音楽:Michael Bruce

出演:
Anne-Marie Duff (Nina Leeds)
Darren Pettie (Edmund Darrell)
Jason Watkins (Sam Evans, Nina's husband)
Charles Edwards (Charles Marsden)
Patrick Drury (Professor Henry Leeds, Nina's father)
Geraldine Alexander (Mrs Amos Evans, Sam's father)
Wilf Scorlding (Gordon Evans, Nina and Sam's son)
Emily Plumtree (Madeline Arnold)

☆☆☆ / 5

人生は「奇妙なインタールード」だと、主人公のNina Leedsが言う事が2度あったと思うが、この劇自体も、"a strange interlude" と言えるだろうか。同じような台詞で、『マクベス』の終わりの「人生は歩く影法師」を追い出す:

Life's but a walking shadow, a poor player,
That struts and frets his hour upon the stage,
And then is heard no more. 

「奇妙な劇」のようなNina達の人生、そしてそれを描いた「奇妙な劇」、2重に「奇妙」。オニールの発想の原点はどこにあったのか知らないが、実際、私にはこの劇はシェイクスピアなどのルネサンス劇を思い出させた。少なくとも、20世紀のリアリズム劇とはかなり違う。

劇は、大学教授の娘で主人公のNinaが、第一次大戦でフィアンセのGordonを失った時から始まる。この後の彼女の一生は、成就しなかったGordonとの愛の残像を追い求めることに費やされたとも言える。すさんだ気持ちに安らぎを与え、安定した家庭を持って人生を立て直すために、彼女は平凡だが自分に夢中の勤め人、Sam Evansと結婚する。一方、Ninaの父親を慕っていたマザコンの作家、Charles Marsdenも彼女に想いを寄せているが、Ninaは全く相手にしない。その後彼は、一生Ninaの傍観者であり併走者として、彼女とSamの回りをうろうろしつつ、劇全体の語り手(an expositor)、兼、フールの役を演じ続ける。

Samは退屈な男ながらも愛情溢れ、Ninaは彼の子を宿し、ふたりは幸福をつかんだように思えた。しかし、NinaはSamの母から、夫の一家には狂人が続出し、Samの父を始め、ほとんどがその為に亡くなったか、精神病院で一生を終えたことを知らされる。これを聞いてNinaは夫との幸せな家庭を維持する為に、大胆な試みを思いつく。つまり、妊娠した子を堕胎し、その後、別の男性の子を宿そうと決心する。その相手として選んだのが、医者のNed Darrellである。医者として、科学的にこの「実験」に協力をしてくれる人物とにらんでNinaが選んだNedであったが、ふたりの関係は本人達の当初の意図に反して肉体だけに終わらず、2人は深く愛し合うようになり、その後の人生設計を大きく揺るがす。NinaはNedの子を産み、最初の恋人の名を取ってGordonと名づけるが、Samは自分の息子と思い込み夫婦はそれまで同様に生きていく。一方傷心のNedはその後の人生の多くを海外でNinaから遠く離れて過ごすことになる・・・。

といったプロットで、簡単に言うと、Ned、Sam、そしてCharlesの3人の男が、魅力的なNinaに振り回されるというお話。劇としてstrangeなのは、台詞の多くがモノローグで、しかも、そのかなりの部分が観客にしか聞こえない"aside"(わき台詞)だということ。これはたびたび観客に直接語りかけるルネサンス劇ではお馴染みの手法だが、20世紀のリアリズム劇では禁じ手ではなかろうか。現代の物語をシェイクスピアみたいな調子でやったらどうなるか、という実験とも言えるだろう。わき台詞が入る度にメインの台詞のトーンを掘り崩すような働きをする。それが一種の異化効果を生み、悲劇的な背景や出来事が多いにも関わらず全く悲劇にはならず、喜劇になっていく。最初の1時間弱は、私はこのペースに慣れず退屈に感じたが、インターバルが近づく頃には、段々と、不思議なくらい面白くなっていたし、観客からも度々笑い声が上がった。Samは妻の堕胎とか子供の出自を知らない哀れな天然のフール、Charlesは頭は良いが救いようがないくらい気弱なフール、そしてNedは色男のフール、に見えた。Ninaは、不運にも見舞われたし、悪気もなかったのだが、結果的に3人の真面目な男達をきりきり舞いさせて、彼らの人生を狂わせた、謂わば、ファム・ファタールだし、伝統的反女性主義の悪女像そのものではないとしてもそれに接している。そういう意味では、19世紀的な女性観というか、古めかしい劇である。Samが自分の息子が実子ではないことに気づかない(?)とか、血筋に精神病患者が沢山出ているからといって堕胎をするとか、現代の観客には信じがたかったり、受け入れられない点もあり、1928年というこの劇の古さを感じる。その一方で、出生前診断により、異常が発見された胎児の堕胎などが行われるようになった今、笑い事で済まされない問題も含まれている。また、Tennessee Williamsと同様、O'Neillにとっても狂気が重いテーマだったんだろうと認識させられた。

Anne-Marie Duff、上手い! 無邪気さと打算が奇妙に入り交じった魅力的女性像を上手く作り上げた。彼女は、テクニックを超えて、何だか俳優になるために生まれてきたような天然の巧さというかな、そういう才能を感じさせる女優だ。他の俳優も好演していたが、特にCharles Marsdenを演じたCharles Edwardsの絶妙なわき台詞が印象に残る。演じる役者としては、手腕の発揮出来る面白い役柄だろう。一方、Samを演じたJason Watkinsは、馬鹿なお人好しぶりをやや強調しすぎでは、と感じた。

この劇はカットしないと5時間かかるそうで、2日に分けて上演されたこともあったらしいが、今回はインターバルを除くと約3時間に収めてあった。長いらしい、と覚悟して行ったが、そうでも無かったし、特に中盤は時間を忘れる面白さだった。但、私には、1回見れば充分、という劇ではある。リビューをパラパラ見ると、Financial TimesのIan Shuttleworthは2つ星を付けている一方、TelegraphのCharles Spencerは5つ! この実験を上手く行っていると見るかどうかで、好き嫌いが分かれそうだ。リビューがこういう風に大きく別れたことは、かなり変わったコンセプトで書かれているか、演出されている証拠だろう。今回の上演チームは、スタッフも俳優も上演が大変難しい劇と上手く取り組んだと思う。National Theatreでなければ出来ない冒険だ。なお、Robert Z. Leonardが監督、Norma Shearer、Clark Gableなどが出ているハリウッド映画もある。109分という短さだから、原作戯曲の3分の1以下にカットされている。

(蛇足)少し前の席にレイフ・ファインズが座っていて、回りの人は皆きょろきょろ。意外と小柄に見え、目立たない人だったなあ。昔、『コリオレーナス』の舞台で見た時は大きく見えた。

2013/08/20

グローブ座の様子

これまでにもこのブログに載せたとは思いますが、『テンペスト』の感想を書いたついでに、観劇した時に撮った写真を載せておきます(またか、と言われそう)。グローブ座内部は他の劇場同様もちろん写真撮影禁止ですが、多分始まる前は自由のようで(あるいは大目に見られていて?)、注意されることはないようです。でも役者が出て来たら、どんなに誘惑に駆られても、絶対写真を撮らないようにしましょう。

最初は直ぐそばのThe Southwark Bridgeから撮った遠景。グローブ座のすぐ後ろに、TATE.ORG.UKと書いてあるビル、テイト・モダンですね。


そして内部。ステージの背後の建物を当時の表現で"tiring house"と言います。「楽屋」といったところですね。この"tire"は「疲れる」という意味の動詞から来たのではなく、衣服を意味する語"attire"の語幹部分と共通の語で、「衣類をまとう」という意味です。従って役者が扮装を付ける場所ですね。椅子席のあるところは"gallery"と呼ばれています。今回のステージは、下の写真で分かるように、いつもよりも広くしてあり、丸くなっていますが、普通は長方形です。あまり大きくすると脇に座ったり立ったりしている観客には見えにくくなって不親切なんですけどね。見えづらい椅子席はいくらかお安くなっています。正面の1階と2階の一番前あたりが一番見えやすいかな。でも、一番前は日射しが強い日は直射日光がまともに当たって、暑いしまぶしくもありますね。立ち見席や前の方の列の席の方は、帽子を持って行くことをお勧めします。
"tiring house"の3階部分は閉められていますが、ここに楽士が陣取っていたらしいとも言われます。今回は楽士は2階にいました。 


土間の立ち見部分は"pit"と呼ばれます。そこで見る人は当時の言葉で"groundling"。椅子はありませんし、地面に座ることも許されていません。この部分のチケットは5ポンドで、毎回700枚が売りに出されるとのことです。ちなみに、gallery席は857席だそうですので、合わせて1557席。エリザベス朝のオープン・エアー劇場の収容人数は、1500から最大3000人程度までと言われています。結構良い商売していましたね。

私も十数年前、立ってみたことがありますが、今はとてもそんな体力ありません。膝も痛くなるだろうなあ。暑い日には結構倒れる観客が出ます。飲料水は必需品です。逆に雨が降ればずぶ濡れになる可能性もあります。ロンドンでは激しい雨は珍しいですが、立ち見の方は天気予報のチェックと、濡れるのが嫌な方は携帯用カッパの用意をしたほうが良いでしょう。gallery席の上は屋根がありますが、風が吹けば前の列は少しは濡れます。雨が降らなくても、夏の天気の良い夜でも終演頃は結構肌寒くなることが多いので、最後まで半袖のTシャツではしんどいかも知れません。私のようなひ弱な方はお気をつけ下さい(^_^)。

しかし、毎年イギリス来ても、見物しないから、写真と言えばNational TheatreとShakespeare's Globeがあるサウス・バンクあたりばっかり(苦笑)。

2013/08/19

"The Tempest" (Shakespeare's Globe, 2013.8.18)


オーソドックスな公演、但、エアリアルはお休み・・・
"The Tempest"

Shakespeare's Globe 公演
観劇日:2013.8.18 18:30-21:30
劇場:Shakespeare's Globe, Bankside

演出:Jeremy Herrin
脚本:William Shakespeare
セット:Max Jones
音楽:Stephen Warbeck
振付:Siân Williams
衣装:Nichola Fitchett
テキスト指導:Giles Block

出演:
Roger Allam (Prospero)
Jessie Buckley (Miranda)
William Mannering (Sebastian)
James Garnon (Caliban)
Matthew Raymond (Ariel)
Jason Baughan (Antonio)
Pip Donaghy (Gonzalo)
Peter Hamilton Dyer (Alonso)
Joshua Jones (Ferdinando)
Sam Cox (Stephano)
Trevor Fox (Trinculo)
Amanda Wilkin (Ceres / Spirit)
Sarah Sweeney (Iris / Spirit)

☆☆☆ / 5

グローブ座らしい、観客とのやり取りに溢れた楽しい公演。特に奇をてらうところなく、グローブの特性と俳優達の演技を生かしていた。特にRoger AllamのProsperoは観客の注目を一身に集める迫力があり、私には、彼だけでもこの公演を見る価値があった。残念ながら、この日18日で公演は終わり、これから渡英という方には間に合わない。私にとって、特に不運だったのは、この公演のもうひとりの看板役者で、テレビドラマ"Merlin"の主役Colin Morganが病気で休演したこと。私はMorganのファンじゃないので、彼が出ていなくても良いのだが、アンダー・スタディも置いていないらしい。したがって、船員などをやる端役の俳優、Matthew Raymondが突然Arielの台詞を台本片手に読むことになったそうだ。劇の終わり近くでは、Arielの台詞をProsperoが読んだ部分さえあった。ブレヒトじゃないけど、冗談みたいな異化効果! 最初に説明に出て来た人が、「当劇場は公的資金の援助を受けていないのでアンダー・スタディを置く余裕がないことをご理解ください」、と弁解していた。でも端役の人はいるわけだから、そういう人に主な役者の代役を出来るだけ当てておくことは出来ないのかなあ。Arielは雰囲気作りの上でとても大事なので、その部分が白けることで、全体の印象がガタ落ちした。

とは言え、それ以外の部分は大いに楽しい、エンターテイメント性溢れる公演だった。 Prosperoと台本を持ったAriel役の役者のぎこちないやり取りも含め、Globeにやってくる観客は観光客も多くて大甘だから、何でも楽しんで、失敗にも笑いが起こる。これで良いのか、と思う時もあり、役者が笑いを取ろうという姿勢があざとく見えるときもある。しかし、概して、そういう観客の笑いを起点として舞台作りをする姿勢が上手く機能していると思った。こういう双方向性の共感に満ちたシェイクスピアは、ナショナル・シアターでは無理だし、RSCでもかなり難しいだろう。このオープン・エアーの円形劇場ならではの雰囲気が作り出す不思議な化学反応がある。劇が始まる前は、試合直前のスポーツ・スタジアムみたいな雰囲気だろうか。Globeは商業劇場なんだから、頭でっかちの試みをするよりも、とにかくシェイクスピア作品で演劇鑑賞に慣れていない観客を楽しませることが大事だ。若い観客もとても多いし、立ち見の安い料金も含めて、Globeが演劇のすそ野を広げている功績を賞賛したい。

Globeは、昔同様、大規模な舞台装置は使わないが、オーセンティックな衣装が光った。特にミラノ大公一行のエリザベス朝の服は良く出来ていて印象的。また、小道具も良い。London Townというサイトからコピーさせていただいたが、嵐のシーンでの小さな船、終わり近くでCalivan達を撃退する妖精が持っていた骸骨のモンスターなど、見て楽しかった:



Roger AllamのProspero以外の役柄では、James Garnonの、日本の赤鬼みたいなCalibanが可愛く、ちょっと哀れで良かった。飄々とした台詞回しのTrinculo、伝統的なフールの衣装をまとったStephanoも楽しい。その他、個人的には、上の写真に写っている妖精のひとりを演じたSarah Sweeneyがあやしげな雰囲気で凄みある存在感が印象に残った。

最後に観客の手拍子に合わせて俳優がみんなで踊るのもGlobeらしい。シェイクスピアをほとんど知らなくても、(私もそうだが)英語があまり聞き取れなくても楽しめる。だから一層、Colin Morganが病気だったのは仕方ないとして、Arielのアンダー・スタディがいなかったのが惜しまれた。

2013/08/18

"Othello" (Olivier, National Theatre, 2013.8.17)


現代的なアイデアに溢れた
"Othello"

National Theatre公演
観劇日:2013.8.17  19:15-22:30
劇場: Olivier, National Theatre

演出:Nicholas Hytner
脚本:William Shakespeare
デザイン:Vicki Mortimer
照明:Jon Clark
音響:Gareth Fry
音楽:Nick Powell
音響:Gareth Fry

出演:
Adrian Lester (Othello)
Rory Kinnear (Iago)
Jonathan Bailey (Cassio, Othello's lieutenant)
Tom Robertson (Roderigo)
Olivia Vinall (Desdemona)
William Chubb (Desdemona's father)
Lyndsey Marshal (Emilia, Iago's wife)
Rokhsaneh Ghawam-Shahidi (Bianca)

☆☆☆☆☆ / 5

Hytner演出作品らしい、政治的で現代的な"Othello"。私はとても楽しめた。しかし、シェイクスピアの台詞の美しさとか、リリカルなシーンを味わいたいという観客は失望するだろう。

Vicki Mortimerのデザインでは、この公演の舞台を、建前は地中海のキプロスでも、おそらくイラクかアフガニスタンに派兵した英軍の陣地とだぶらせつつ設定している。Desdemonaとベニスのセネター、Biancaなどを除き、Othelloを始めとするほぼ全員が迷彩色の軍服やカーキ色のTシャツを身につけている。異色だったのはEmiliaも軍服を身にまとい、そうした兵士の1人として位置づけられていることだ。更に現代の英国軍であるから、人種も性も多様である。兵士の中には数名の黒人や中東系の外見の男も、Emiliaを含め、約3名の女性兵士も混じる。これにより、Othelloが差別に苦しむ黒人将軍という視点は明らかに薄くなった。彼は確かにムーア人ではあるが、その事で際立つのは肌の色ではなく、彼がアウトサイダーの成り上がり者であるという点だ。この方がむしろシェイクスピアの同時代の視点に近いのではないかと思った。20世紀後半の"Othello"はあの時代の雰囲気を映し、白人の中のただひとりの黒人将軍という点を際立たせ、人種差別の問題に焦点を当ててきたが、今回の公演を見て、そうした解釈が決して普遍的なものではないと分かった。

多くの公演では、舞台はキプロスらしく地中海的な明るさで始まると思うが、この舞台の場面設定は、土気色のモノトーンの乾燥地帯だ。外の世界から遮断され、分厚いコンクリートの壁で囲まれ、ゲート付近は金網と鉄条網が張り巡らされ、衛兵によって厳重に警備されている。現在のイラクやアフガニスタンにおいても、西側政府や国際機関関係者は、セキュリティーのために、外部の者が入れない特殊な地域で閉鎖的生活を送る人が多いと思うが、Othello将軍率いる軍隊も同様の環境に置かれている。しかし、その中で、ナイーブで、異民族、アウトサイダーの成り上がり者で、しかも貴族の娘を妻にしたばかりの将軍の孤立は際立つ。彼の精神状態は、若く美しい妻を手に入れたことの喜びと、昇進や戦勝とで、極度の高揚感に包まれているが、それが他の兵士の面前で、妻を抱擁したりするときに特に目立つ。しかし、妻とのそうしたプライベートな生活を軍の規律の中に持ち込むことに対する部下の兵士達が感じる違和感、不快感と自身の孤立を彼は理解していない。彼のナイーブさは、それに輪をかけて子供っぽいDesdemonaのナイーブさによって増幅される。しかし妻の浮気の疑いというひび割れを通じて、自分の孤独が明らかになると、仕事上の副官Iago以外に悩みを打ち明ける者も、頼る者もいないOthelloの内面の崩壊は一気に進む。

Rory KinnearのIagoは、やはり彼がナショナルでHytner演出の下で演じたHamletを大いに思い出させた。劇の始まるベニスでの場面、美しい新妻を得、また軍の会議を主宰する将軍の傍らで、Iagoは、結婚の祝宴で浮かれるClaudiusとGertrudeのそばで鬱屈するHamletのように、憂鬱な、不満一杯の面持ちで立ちつくす。こういうシーンのKinnearは実に絵になり、私は大好きだ。自分が軍内の昇進において、Cassioに先を越されたことで、Othelloを酷く恨み、Cassioを妬んでいる。Iagoが後にOthelloに警告する有名な台詞、「ああ閣下、緑の目をした嫉妬心にご警戒を。あれは人の心を食い散らし、あざ笑うのです・・・」 (O, beware, my lord, of jealousy; / It is the green-eyed monster which doth mock / The meat it feeds on . . . .) 、あれは若いCassioに役職を奪われたことに憤る彼自身の嫉妬心を注ぎ込んだ言葉のような気がした。彼は最終的には悪魔の化身であり、同情すべきところのほとんど無い人物であるが、しかし、Kinnear演じるIagoはHamletのような懊悩するアンチ・ヒーローの一面も見せ、『失楽園』のサタンを連想させる。

乾燥した占領地の、牢獄のような塀と金網の中、潤いのかけらもないプレハブの宿舎や娯楽室、そして男性用トイレなどで、Othello、Iago、Desdemonaの一種の三角関係が煮つまっていく。階級による上下関係が圧倒的に重要な軍人の世界と、繊細な機微が必要な男女の愛が、色々なシーンで不協和音を立てる。カジュアルな大学生のような格好で跳ね回るDesdemonaと、回りの人々の軍服、敬礼、直立不動が対照的。Othello自身、妻と話す時も軍服で、ずっと拳銃をベルトに下げ、更に、しばしば腕を後ろで組んで軍人の姿勢でDesdemonaに命令するように話す。一旦戦争が始まれば、武器をふるい敵を殺すことを仕事とする軍人が、精神のバランスを壊した時の難しさは、ベトナム、イラク、アフガニスタン戦争などでの兵士の暴発行為や帰還兵のトラウマなどで良く知られている。実際、Desdemona殺害のシーンは、ドメスティック・バイオレンスの暴走とも映った。しかし、その為に、最後のシーンのリリカルな悲劇性がガクッと失われてしまい、残念でもあった。そういう意図のプロダクションだから仕方ないが。

この劇、シェイクスピア作品の中でもシンプルで、とても道徳劇的だ。エブリマンとしてのOthello、ヴァイスとしてのIago、道化的なRoderigo。最後にOthelloがDesdemonaを殺害するベッドは、道徳劇の代表作『堅忍の城』("The Castle of Perseverance") のベッドを連想させる。そもそも、このOthelloの陣地自体が、「城」と言えぬ事も無い。しかし、Othelloにとって不運なことは、種々の試練を経て魂の救済へと導く道徳劇と大きく違い、徳目 (Virtues) を示し主人公の誤りを正すキャラクターが見当たらない。ひとり孤立したOthelloはヴァイスの言いなりになるばかりで、焦燥感にかられ悲劇的な自己破壊へと一直線に突き進む。

Adrian Lesterは悩める普通の夫で、かつ現代の軍人を巧みに演じ、身近に感じるOthelloだった。Rory Kinnearと共に、このプロダクションの意図を良く伝えていた。Olivia Vinallは普通すぎるくらいの若妻。いつもロンドンの街角で見かける奥さん、という感じ。プロダクションの性格故か、EmiliaやCassioなどの影は薄かった。

2013/08/16

大英図書館にて


以前にも載せたことがあるかとは思うのですが、大英図書館(The British Library)の写真です。キングス・クロス=セント・パンクラスの駅のそばにあります。今週は月曜から今日木曜まで4日間ここに通いました。2枚目の写真の上にちょっと見えている古い建物は、隣接するセント・パンクラス駅の駅舎の一部です。




入るとロビーです。

日本の国会図書館と同様、リファレンス書籍を除き、本はほとんど閉架です。リーダーの登録をし、閲覧室に入って本を注文します。あるいは、あらかじめオンラインで注文しておくことも出来ます。多くの本は1時間強くらいで出て来ます。リーダーになるには英語の住所証明などが必要ですが、外国人でも、研究者でなく一般の旅行者でもリーダーの登録が可能です。また使用料は不要です。但、日本にいる間に準備をしておく必要はあるでしょう。書類を揃える上でやや面倒なのは、英語のIDです。ひとつは自筆サインを証明するもので、パスポートが一番ですが、もう一つは英語の住所が書かれた公的書類です。英語圏在住の方は銀行、クレジットカード会社や公共料金の3ヶ月以内の領収書や請求書などが便利ですが、日本に住んでおられる方でも英語である必要があるので、銀行や役所などに英語の住所を書いた書類を発行できるか問い合わせる必要があります。大学生は、おそらく大学で発行してくれるでしょう。そういう手段がない方の場合、ネットで検索すれば、公的書類を英語に翻訳する専門業者もあります。閲覧者カード(リーダーズ・パス)には写真が付きますが、それは登録の時にその場で撮ってくれます。

日本の国会図書館同様、単に閲覧室に入ってみたい、英語の本を読みたいというだけでリーダー登録をするのは面倒すぎるし、この図書館の趣旨にも合わないでしょう。何か特に調べたいテーマがある方には大変便利な施設です。研究者の方で、研究に貴重書の閲覧をしたい場合は、あらかじめ申し込む必要があるそうです。ペンは使えず、ノートは鉛筆で取るか、ノート・パソコンを持ち込みます。従って、鉛筆の用意が必要です(忘れた時は一階のギフトショップでも買えます。他の荷物やコートは地下のクロークかコインロッカーに預けます。ほとんどの人はパソコンを持ち込んでノートを取っています。

閉架書庫のほとんどは地下にあるんだろうと思いますが、ロビーからも一部がガラス張りになっていて、見ることが出来ます。


建物の前の広場と中二階にカフェ、更に一階にカフェテリアもあり、閲覧者だけでなく、旅行者も利用できます。カフェは写っていませんが、中二階部分:

また常設展 (Sir John Ritblat Gallery)、及び有料の特別展を常時やっていて、登録したリーダーだけではなく、本好きの観光客も色々楽しめます。無料の常設展では、中世の美しい彩色写本、近代小説の手稿、ビートルズの原稿、その他、多くの古典的文学作品の作者による原稿、古地図等々、色々な珍しい本や原稿が見られます。また、今は「プロパガンダ」という特別展をやっています。写真の左奥にあるのが、その大きなポスター:

勿論ギフトショップもありますよ!本も色々売っていますが、絵はがきやカード、その他、お土産になりそうな小物もたくさんあります。イギリスに行けない方でも、このギフトショップのオンラインショッピングも出来ます。大英図書館は出版もしていて、本に関する本を沢山出しており、また専門書ばかりでなく、一般向け書籍も多いです。ショップと言えば、お隣のセント・パンクラス・インターナショナルの駅もお店レストラン、カフェなどかなりあって、お買い物の好きな人、お土産を買いたい人、余り高くない手軽な食事を取りたい人には便利です。

日本にいると遠く離れていてまず会わないような人に、ここに来ると偶然ばったり会ったりします。今週は同じ閲覧室で、日本の高専に勤めておられる友人を何度か見かけました。

閲覧室の机や椅子は、こちらの大柄の人達に合わせて作られていることもあって、とても大きくて快適です。パソコン利用の為のコンセントもあります。また、登録すれば無料で無線LANが使え、勉強しながらオンライン辞書などを使いたい時は便利です。但、利用者が多いためか、スピードがとてもゆっくりで、良く接続が切れる時もあります。従って、閉架の本の閲覧をリクエストするには、あらかじめ宿舎で大英図書館のホームページをから予約して出かけるか、着いてからなら閲覧室に備え付けのコンピュータ端末を使う方が手っ取り早いかもしれません。私の場合、利用の手順は次のようになります:
1 出かける前に図書館のホームページから目的とする本を検索し予約する。その際、利用する閲覧室を指定する。
2 図書館に着いたら、まずクロークかコインロッカーに荷物を預ける。備え付けの透明のビニール袋にノートや筆記用具など閲覧時に必要な私物を入れる。
3 リーダーズ・パスを示して、本の予約の際に指定していた閲覧室に入室。閲覧室は複数あり、どの部屋でも使えるようだ。但、開架のリファレンス書籍などの関係から自分の専門分野の閲覧室が良いかもしれない。慣れてくると、部屋の雰囲気とか友だちと打ち合わせて一緒の部屋とか(勿論おしゃべりは厳禁)、色々と好みで選ぶようだ。
4 適当な席を選び、席の番号をメモ(私はすぐ忘れるので)。
5 カウンターに行って、リーダーズ・パスを示す(つまり、名前を知らせる)と、予約していた本を持ってきてくれる。その際、席番号を言う。
途中、手洗いとか食事で退室する時は、ほとんどの人はパソコンなどを席に置いたままです。リーダーのみしか入れないのでかなり安全性は高いと思います(但、保証の限りではありません)。帰宅する際は、入り口の職員に持ち物を見せます。自分で持ち込んだ本だけは、図書館の蔵書でないか念入りに調べられます。翌日も読みたい本は、3日間まで自分用にリザーブしておくことが出来ますので、返却の際に"I want to hold this book for tomorrow"などと言うと閉架書架に戻さないで、カウンターの裏の書架に取っておいてくれます。

最後の写真は、建物の前の広場にある大きな像。Eduardo Paolozzi作で下につけてある銅板に ' "Newton" after William Blake' (1995)と銘打たれています:

この像を作ったサー・エドゥアルド・パオロッツィ (1924-2005) はスコットランド人の著名な彫刻家。この作品は1795のウィリアム・ブレイクによる版画を基に作られていて、描かれている人物は万有引力の法則で有名なサー・アイザック・ニュートンだそうです。彫刻家の意図は、科学と芸術の融合を示したいとのことのようです。ここで手にコンパスを持って何かをデザインしているニュートンの姿勢は、世界を創造している神の姿を暗示しているとのこと。詳しくはこちら

2013/08/12

ロンドン滞在中

ちょっと近況報告。8月9日土曜日にロンドンにやって来ました。今日は12日ですが、まだひどい時差ボケで、今朝も5時に目がバッチリ覚めました。それで、夕方くらいからボーッとして怠くなってきて、9時頃には猛烈に眠くて、10時頃寝てしまいます。でも気温と湿度は天国ですね。疲れ方が全然違います。

今回は1ヶ月の滞在。彼がバカンスで海外に行ってなければ大学の指導教授に会い、大英図書館で日本では読みにくい文献を読み、その他は無為にのんびり避暑をするつもりです。ここに来る前は夏バテでかなりお腹が悪く、体もだるかったので、こちらに来て少しは健康を回復したいと思います。観劇も今のところ3本予定しています。これから演目を調べて、値段も考えつつ、もう少し見るでしょう。美術館や博物館などにも行きたいし、落ち着いて小説なども読みたいですね。ブログもぼちぼち更新していこうと思いますので、常連の方(がいたとして?)、コメントなどよろしくお願いします。ただし、商用コメントはお断り!

ボーッとしている時はBBCニュースチャンネルをだらだら見ていますが、こちらも景気悪いみたいですね。政府の財政カットも引き続き厳しく行われているし、庶民は大変でしょう。でも、ロンドンにいると、街を歩く人に観光客が多く混じっているためか、人々の表情は明るいです。日本より、子供や乳母車を押しているお父さん、お母さんが多いのも、街を明るくにぎやかにしています。

2013/08/11

Ian Rankin, "The Complaints" (2009; Orion Books, 2010)


刑事Malcom Foxシリーズの第一作
Ian Rankin, "The Complaints"

(2009; Orion Books, 2010) 452  pages.

☆☆☆☆★ / 5

Ian Rankinと言えば、現役で活躍中のUKのクライム・ノベリストの中で、一二の人気を争う作家だが、彼の主なシリーズ、Inspector Rebusシリーズは、Rebusの警察の定年と共に一応"Exit Music"というタイトルで終わりを告げた(その後、何かの作品で復活させたらしいが)。私はこの"Exit Music"は読んでいて、ブログでも感想を書いている。しかし、作家としてのRankinはまだまだ油ののりきった歳であり、創作意欲は旺盛だ。その彼が始めたのが、このInspector Malcom Foxを主人公とした新シリーズ。この主人公とセッティングがいささか風変わり。Foxはエジンバラ警察の"Complaints and Conduct"という部門のチーフで、二人の部下を率いている。この部門は、警察官の汚職とか、その他の不適切な行動を捜査する部門のようだ。前のシリーズのRebusは一匹狼で、非常に個性の強い、謂わばはぐれ者の刑事だったが、Foxは概して穏やかでバランスの取れた人格を備えている。介護施設に入っている父に対しては模範的なやさしい息子。家庭で問題を抱える妹のJudeにもとても親切な兄。上司やチームの同僚との関係も良いようだ。捜査手法も丁寧で、事件の詳細を細かく解きほぐしていく。但、RebusとFoxに共通しているのは、全てが明るみに出るまで妥協せず、権力にも屈せず、徹底的に捜査を進める執拗さだ。

このシリーズ第一作は、まずFoxのチームによるGlen Heatonというベテラン刑事の汚職に関する捜査が終わろうとしているところで始まる。関係者の聞き取りも終わり、まもなくHeatonの告発書類を提出しようという時になって一連の無関係のように見える事件がFoxの回りで起こる。職場では、Jamie Breckという新進気鋭の優秀な若手刑事が児童ポルノのシンジケートに関わっているという疑いをかけられていて、Foxのチームは、児童ポルノ捜査チームと協力してBreckを取り調べるようにと命じられる。ところがBreckに近づいたFoxは彼が思っていたような人物とは全く違い、優秀なだけでなく、真っ当な正義感を備えた刑事に見えることに当惑させられる。BreckはFoxが自分のことを捜査中とは知らず、Foxに親愛の情を見せ始め、二人の関係は複雑化する。もし仮にBreckが無実だとすると、彼は何故捜査の対象になっているのか、そこに警察内部の何らかの作為が働いているのだろうか・・・。

一方、Foxの妹Judeのパートナーであり、前科もあるやくざっぽい男でFoxとは常々仲の悪かったVince Faulknerが死体となって発見される。FoxはVinceが嫌いではあったが、嘆く妹の気持ちを少しでも慰めたいと、自分の担当ではないVince殺害の捜査に口を突っ込むが、その捜査を担っているのが、ちょうど彼が告発しようとしているGlen Heatonの同僚達であり、大変気まずいことになる。Heaton自身は謹慎中であるが、特にHeatonと仲の良い刑事のGilesは、ことごとくFoxと妹のJudeに嫌がらせをして苦しめる。更に状況を複雑にするのは、Jamie Breckもこのチームのひとりであるという事実だ。FoxはBreckと仲が良くなったので、彼を利用してVince殺害の捜査に関わろうとし、Breckは警察の規則に反してFoxを助けるが、やがて彼らはこうした越権行為をとがめられ、ふたりとも謹慎を命じられる。しかし、それにも関わらず、ふたりは個人的に捜査を続ける。そうしているうちに、エジンバラの事業家Charles Broganが行く方不明になるが、彼はリーマンショック以降の金融危機による不況のため、不動産取引で大失敗をして破産状態にあったらしく、自殺したのではないかと疑われる。しかし、このBroganと殺されたVince Faulknerは関係があったらしい・・・。Broganの事業への投資者には、大物ギャングの影も垣間見え、事件は大きく広がっていく。

Rankinは、かなり込み入った事件と人間関係を複雑な織物のように実に巧みにより合わせていき、終盤を除いては特に息をつかせないドラマが展開するわけでもないのに、私みたいなスロー・リーダーでも、飽きずに読み終えることが出来た。Rebusシリーズは一匹狼の刑事を主人公にした、スコットランド版ハードボイルドとでも言えるだろうが、Malcom Foxはタフガイ・タイプではなく、それどころか部署は殺人課でもなく、極めて地味な、サラリーマン的な部署に所属する。同僚の汚職を調べるので他の刑事からは白い目で見られ、日頃から組織内では村八分状態という、孤独な仕事だ。様々の警察小説が試みられてきたが、こういう刑事を取り上げたシリーズはこれが初めてではないだろうか。変人の一匹狼ではなく、地味だが優秀な刑事が、大きな組織の中で孤独な戦いを強いられるという設定は、企業で働く会社員などにも共感しやすい主人公ではなかろうか。彼の老いた父親や出来の悪い妹に対する優しさも、小説に暖かみを沿えている。

何故私はRankinが好きなのか考えてみると、どうも登場人物の会話を特に面白く感じているようだ。とても間が良い。比較的短い会話が淡々と続くが、その行間の雰囲気が豊かだ。そういう意味で、演劇的な魅力のある作家だと思う。

Rebusシリーズもかなり好きだが、この新シリーズもRankinが書き続ける限り読んでいきたいと思わせる第一作だった。既にシリーズ第二作も出版されている。

2013/08/05

吉田鋼太郎さん、凄い!




吉田鋼太郎さんの出たドラマが終わったので、ひと言書いておきたい。

昨日、NHKのドラマ、「七つの会議」最終回を録画で見終えた。吉田鋼太郎さん、いぶし銀の良い役柄を貰ったなあ。舞台と違い、抑制の効いた演技で説得力あった。嬉しい。これでも舞台でも一層良い役が回ってくると良いな。


上智大学の演劇サークル「シェイクスピア研究会」で英語原文でシェイクスピアを演じて以来、出口典雄さんのシェイクスピア・シアター、ご自分と栗田芳宏さんが主宰した劇団AUNなどでキャリアを積みつつ、シェイクスピア一筋!日本で彼ほど沢山シェイクスピアを演じてきた役者があるだろうか。けっして美声でも響きの良い声でもないが、彼がシェイクスピアの台詞を言っているのを聞くと、台詞が体にしみ込んでいると感じる。日頃シェイクスピアをやらない役者は、ちゃんと台詞が入っていても苦労して言っていると感じることが多いが、彼は自由自在、朝飯前、と言う感じだ。今では彼の実力を認めない演出家はいないだろう。蜷川作品には欠かせない存在になっているし、他の大きなプロダクションにも次々出るようになった。もっと器用にテレビや映画の世界に入って、楽な生活を手に入れる機会もあっただろうけど、日本語でのシェイクスピアにひたすらこだわり続けてここまでやって来た。尊敬するなあ。私は彼より年上で、彼みたいに格好良くもないが、いつも共感しつつ見ている。近い世代の私にとっては、大スター。


2013/08/02

『私立探偵ヴァルグ』('Varg Veum') (WOWOW)



先日たまたま新聞のテレビ欄を見ていて気づき、これは何だろう、と思って、2つのエピソードを録画して見た。近年イギリスで大変人気が出て、その後日本やアメリカでもファンが増えているように見える北欧のクライム・ドラマのひとつ。北欧発クライム・ドラマのブームはスウェーデンのWallanderシリーズで始まって、BBCでケネス・ブラナー主演のイギリス版が出来たが、直接北欧のドラマを字幕付きで見て、主演俳優が人気を集めるようになったのはソフィー・グローベール主演のデンマークのドラマ'The Killing'からだろう。その後、日本でも、'The Killing'に続いて、スウェーデン・デンマーク共同制作の'The Bridge'などが、海外ドラマ専門の有料チャンネルで放送されたらしい。'The Killing'の第一シリーズは間もなく日本語字幕版DVDが発売されるようだ。

さて、この北欧クライム・ドラマから日本への新しい輸入品が、この『私立探偵ヴァルグ』('Varg Veum')。私は今回第一シリーズと第二シリーズの4つのエピソードから2つを見たが、大変楽しめた。もともと劇場用に作られた映画のようで、それだけ念入りに出来ている。他の北欧ドラマと同様、このドラマもセンチメンタルな甘ったるいところがないのが魅力。現代の探偵ドラマであるから、誘拐や暴力、レイプなどが描かれるが、アメリカのドラマにしばしばみられるような暴力や性を殊更に売りものにすることはなく、主人公ヴァルグの事件の執拗な追及、彼の一匹狼としての、社会的な常識とか権威にたじろがないエネルギーが魅力であり、扱う題材は現代的でも、シャーロック・ホームズのような伝統的私立探偵ドラマと言えるだろう。あるいは、主人公の雰囲気からすれば、ハメット、スピレーン、チャンドラー等々のアメリカの古典的なハードボイルド小説や、暗く冷たい背景はフランス映画のフィルム・ノワールとも共通する雰囲気があり、懐かしく感じた。'The Killing'、'The Bridge'、あるいはBBCで放送されたフランスのドラマ『スパイラル』(原題 'Engrenages')などは、1つの事件を延々と描き、込み入ったプロットや複雑な人間模様を作り上げるところが魅力だが、このシリーズは元は劇場用だから2時間弱で完結するので、見るには便利。犯罪小説とかドラマが好きな方には勧めたい。WOWOWで8月13日に2つのエピソードが再放送される英語字幕付きDVDも発売されていて、ちょっと誘惑されるな。写真は主人公の探偵ヴァルグ。非常に大柄な、如何にもゲルマン人という体格の男性。ワイルドな雰囲気で、(このタイプのたくましい男性の好きな)女性(あるいは同性)にはたまらない魅力を持つかも。私の見た2つのエピソードだけでは良く分からないが、複雑な過去を持った人物であることがほのめかされており、ハードな外面とは対称的に繊細な内面を伺わせるところが魅力でもある。嫌々ながら彼と協力して事件を捜査するハムレ警部との、友人、師弟、競争相手などの意識の入り交じった、ちょっとねじれた関係も楽しめる。ポワロとジャップ刑事みたいに、私立探偵と刑事のつかず離れずのコンビも、ホームズとワトソンのような探偵とその助手のコンビとは又違った味わいがある。

2013/07/28

WOWOWのドラマ「ハリーズ・ロー、裏通り法律事務所」('Harry's Law')



WOWOWでやっている連続ドラマ、「ハリーズ・ロー、裏通り法律事務所」が気に入っている。

文字通り弁護士もの。「ペリー・メイソン」などのような、昔から良くある法廷ドラマ。そして私は法廷を舞台にしたドラマや映画が大好き。丁々発止のやり取りが楽しい。このドラマ、主演のキャシー・ベイツを始め、芸達者が揃っていて、台詞のやり取りを聞いているだけで楽しい。私は普通アメリカのドラマはあまり見ない。刑事ものはけばけばしすぎ、リアリティーに乏しいか、暴力シーンばかり目に付いて見たくないし、そのほかのアメリカドラマもあまりにもつくりもの臭い。ところが、このドラマだけは毎回失望しない。何故だろう。

ベイツ演じる主人公のベテラン女性弁護士ハリー(ハリエットの愛称)・コーンは、正義感の強い弁護士ではあるが、護身用の銃を身近に置き、自分の身は自分の身で守る、概して政府の市民生活への介入は少ないほうが良いという伝統的な共和党員のようだ。人種とかジェンダーの問題ではリベラルだが、決していわゆる人権派弁護士ではなさそうだ。そういう中道に位置する彼女が、やはり色々な意見を持った仲間達や、裁判官、検察官達と共に、毎回試行錯誤しつつ、時には間違いを犯しつつも、色々な社会問題の答を裁判を通じて見出そうとする。どの登場人物も善悪とか、良心的かそうでないかとか、一面的に描かれていないところが良い。裁判の結果も、明らかにハリーの弁護に正義があると思われる訴訟で敗れたり、その逆だったりすることもあり、また、そもそも、ほとんどの裁判において、100パーセント正義とか不正であるとか断言できないというむつかしさが描かれている。娯楽番組なので、弁護士たちの恋愛とか、彼らの家庭問題とか、周辺的なエピソードも沢山あり、「アメリカの法曹とは・・・」とお勉強するような番組ではないんだけど、娯楽番組の枠内で、アメリカの社会問題とか、法律が市民生活でどう生きているのか、あるいは、生かされてないか、いくらかでも学べるのではなかろうか。

私が特に面白いと思うのは、陪審のいる裁判と、居ない裁判の違い。前者は英米の色々な法廷ドラマでもお馴染みで、たとえば「12人の怒れる男」など有名だが、後者は、a magistrate's courtかなと思う。治安判事の裁判である。判事が一人で判断し、判決を出す。したがって、どういう判事に当たるかで、判決も大きく変わりそうで、それを踏まえて弁論の戦術を立てるようだ。どちらの場合も、テレビドラマという性格もあり現実の裁判を反映しているかどうか分からないが、弁護士や検事の説得力、つまりどのくらい雄弁(oratory)をふるえるかでかなり結果が左右される。私は裁判の傍聴の経験がないが、日本の裁判の弁論はどうなんだろう。

今現在やっているシリーズは再放送の第一シリーズのようで、ウィークディに毎日放映していて、録画してぼちぼち見ている。既に見た第二シリーズと比べて、地元の町の人々とのつながり、弁護士の助手をしている黒人の若者マルコムの成長、事務所の周辺で起こる若いギャングのトラブルの対処、ハリーの事務所が建物の2階ではなく、靴屋の店舗の一部となっていることなど、ローカルな人間ドラマが多い。一方第二シリーズ、「続ハリーズ・ロー、裏通り法律事務所」では、そうしたローカルな話題が減って、より一般的な法廷番組になっていた。俳優も新しく2人がレギュラーになり(オリヴァーとキャシーという新キャラクター、この2人はアメリカでは良く知られた俳優が演じていると思う)、その代わり、若いマルコムや靴屋のマネージャーのお茶目なジェナがほとんど出なくなったのは残念。第一シリーズが好評だったので、ギャラが高いが知名度のある俳優でグレード・アップしたのかな。法廷ものとしては第二シリーズのほうが緊迫感があるが、最初のシリーズの身近な、サブタイトル通り「裏通り法律事務所」の雰囲気も捨てがたい。

洋の東西を問わず、テレビ・ドラマのヒーロー、ヒロインは、若いか、せいぜい40才前までくらいのスタイリッシュな美男美女というのが普通だが、この番組は1948年生まれのベイツ演じるハリーが主人公で、準主役級で彼女の忠実な協力者のトニー・ジェファーソンを演じるクリストファー・マクドナルドも1955年生まれ。ふたりの間の世代に位置する私には、共感しやすい嬉しい配役。

2013/07/22

『ドレッサー』 (シス・カンパニー公演、2013.7.21)

シス・カンパニー公演
観劇日: 2013.7.21   13:30-16:10
劇場: 世田谷パブリック・シアター

演出: 三谷幸喜
原作: ロナルド・ハーウッド
翻訳: 徐賀世子
美術: 松井るみ
衣装: 有村淳
照明: 服部基
音響: 加藤温
制作: 北村明子

出演:
橋爪功 (座長)
大泉洋 (ノーマン)
秋山菜津子(座長夫人、コーディリア役)
銀粉蝶 (マッジ、舞台監督)
浅野和之 (ジェフリー・ソーントン、フール役の俳優)
梶原善 (オクセンビー、左翼俳優)
平岩紙 (アイリーン)

☆☆☆☆★

こりゃ楽しい!とずっと思いながら見ることができた。芝居見物の楽しさを十分に味わい尽くした2時間40分だった。

お話はシンプルで、頭のボケかけた私でも筋なんか気にする必要なし。時は第2次大戦中、爆撃の音が始終聞こえるロンドンの劇場の舞台裏。主人公の一人、年寄りの、シェイクスピア劇団の「座長」(なぜか固有名詞がつけられていない)が『リア王』の舞台をつとめようとするが、舞台の始まる前の昼間から街角で正気を失なって病院に担ぎ込まれるわ、その後、楽屋に入っても台詞は出てこないわ、怖くなって、もうやっぱりだめだ、と言い出すわで、一座は大騒ぎ。その老役者を、長年付き人をつとめ献身的に世話してきたノーマンが、なだめたりすかしたりして、なんとか舞台に押し出す。妻でコーディリアを演じる「夫人」(彼女も名前を与えられてない)、20年来の舞台監督で密かに座長を慕ってもいるマッジも、ノーマンとともに座長を慰めたり叱ったりして全力投球。周囲のそうした必死の努力に支えられて座長はなんとか無事に舞台を最後までつとめる。それどころか、今夜は日頃にも増してよい演技ができたようで、大変な拍手喝采を受け、自分でも今夜の自分の演技に満足して、楽屋でもしばし興奮が治まらないほど。しかし、彼の体はその日の、そして長年の酷使に疲れきっていた・・・。

座長を演じた橋爪功と付け人ノーマンの大泉洋の掛け合いが、タイミングがばっちりあって見事。 ほとんどの役者がひどく芝居がかった大げさな演技。私はそういう演技が嫌いなのだが、この劇ばかりは、芝居がかっているところが面白さの源なので、これで二重マルである。橋本功は、特に何もしなくても面白いし、舞台化粧をした顔を見ているだけで絵になるところは、ほとんど歌舞伎役者のよう。大泉洋は、その橋爪にしっかり支えられ、まるでひらひら舞うチョウチョのように動き回りながら、自在に台詞を操っていた。この2人を含め、非常に台詞の多い劇なのに、誰一人台詞を言い損ねたりしないところがすごい。他の脇役も効果的だったが、特に浅野和之のうらぶれたフール役の役者が印象に残る。浅野さんは上手い。私のもっとも好きな日本人俳優のひとり。彼がノーマンをやってもきっと面白いに違いないので(ただし、客は呼べないだろうけど)、今回は割合小さい役で、もったいないくらいだ。

この劇は、座長率いるシェイクスピア劇団がまさに公演している『リア王』と、それを演じている座長以下の俳優やスタッフたちのドラマが、上手く表裏をなすように作られている。正気を失いかけたり、体が段々弱っていったり、専横であったりするリアは、まさに座長自身の姿でもある。そして、座長にさんざののしられたり、こき使われたりしつつ、彼を慕って献身的に使えるノーマンは、リアに付き従ったフール。但し、フールは『リア王』の途中で居なくなるが、こちらのフールは最後まで一緒。最後は彼はコーディリアのようでもあり、あるいは、リアとフールが入れ替わったようでもあった。一方、彼の献身という角度から見ると、ケントやエドガーのようでもあるね。背後でロンドン・ブリッツの爆撃音が響き渡り、『リア王』の嵐や終盤の戦場のとどろきとも重なる。

同じように名優にまつわる劇と言うと、以前に新国立劇場でやったサルトル作の『キーン』を思い出す。あの話は女性関係が大きな笑いの種になっていた。この劇では、座長と若い駆け出しの女優アイリーンとのやり取りが、短くはあるが、結構楽しい。老境を迎えた座長だが、きらきらした若い女性にひきつけられたように見える。彼女と2人きりになると、「部屋の鍵を締めろ」なんて命じて、若い娘の足を触ったり、彼女を抱きかかえたりというエッチじじいぶり。しかし、実は、自分の体力がなくなって『リア王』の終盤で妻演じるコーディリアを抱えるのがしんどくなってきているので、少しでも体重の軽いコーディリアを探しているだけ、とノーマンがアイリーンに種明かしして、笑える。

セットや衣装もとても良い。かなりお金もかかっている。古めかしいイギリスの劇場の楽屋の雰囲気がかなり良く出ている。真っ赤なカーテンが特にそうした古風な劇場の雰囲気にふさわしい。マッジの着ていたツイードのスーツとか、リア王の昔風の衣装や化粧とか、保守的で田舎臭い巡業劇団の雰囲気が上手く出た。

この劇の内容、私には相当に見につまされた。忍び寄る、いや怒涛のように襲ってくると言って良い「老い」、頭も気力も体力も刻々衰えている昨今の私は、「座長」を気楽に笑っている余裕など無い。一方で、座長に一身をささげてきたが、自分自身には何も残らず、フールのように巨星の周りをひらひらとして、やがて主人にも別れを言うことになるノーマンも、職業人として何の成果も上げられず、職場の変化にもついていけずに挫折した自分と重なって見えた。見ている間中楽しかったが、今はじっくり思い出すのが辛い内容だなあ。

とはいえ、芸達者に支えられた楽しい上演。演劇人と演劇好きの観客がカーテンの向こうとこちらでお互いに拍手して楽しんでいるような内向きの楽屋劇で、脚本自体は私が興味を持つタイプではない。出来が悪ければ腹立たしく思っただろうが、すぐれた役者とスタッフの技量が精巧な時計の動きのように噛み合った立派な公演でした。