2013/10/21

『エドワード二世』(新国立劇場、2013.10.20)


無いものねだりはするが、貴重な公演であり、楽しめた
『エドワード二世』 

新国立劇場公演
観劇日: 2013.10.20   13:00-16:00
劇場: 新国立劇場小劇場

演出: 森新太郎
原作: クリストファー・マーロー
美術: 堀尾幸男
衣装: 西原梨恵
照明: 中川隆一
音楽: 藤田赤目

出演:
榎本佑(エドワード二世)
中村中(イザベラ)
下総源太郎(ギャヴィストン)
安西慎太郎(エドワード王子)
窪塚俊介(ケント伯エドマンド)
原康義(ウォリック、ウィンチェスター司教)
大谷亮介(ランカスター、修道院長)
木下浩之(ペンブルック、トラッセル)
大鷹明良(アランデル、マトレヴィス)
中村彰男(レスター)
瑳川哲朗(モーティマー・Sr)
石田佳央(モーティマー・Jr)
谷田歩(スペンサー)
長谷川志(ボールドック)
石住昭彦 (カンタベリー大司教、ガーニー)
小田豊 (コヴェントリー大司教、ボーモント、エノーのサー・ジョン)
木下浩之 (トラッセル)
西本裕行 (ライトボーン)

☆☆☆☆ / 5

沢山の俳優、豪華なステージ・セット、やはり新国立は日本の舞台としてはお金がかかっている。しかもこの珍しい演目を選んだ事も大いに評価したい!幾つか気になることはあったが、それでも終わってみればかなり楽しかった。

プロットについては、新国立劇場のホームページにもあるし、私がこの夏ナショナル・シアターの"Edward II"を見た時の感想でも書いているので、それらをどうぞ。

全体が黄金に輝くステージ、時々運び込まれる巨大な王座も黄金。きらびやかでもあり、けばけばしくもある。豪華な王宮のようでもあるが、歌舞伎町、新宿2丁目やソーホーのクラブに迷い込んだとも感じる。時々、特にギャヴィストンの登場と共に流れるあやしげで安っぽい音色のサックスの音楽がそのキャバレー風の雰囲気を強める。そのギャヴィストンは、イザベラの取りなしで追放を解かれて呼び戻された時、カーニヴァルの踊り手のような、ドラッグ・クイーンの扮装で腰を振りつつ現れる。但、演じるのは中年のおじさんである下総源太郎なので、その効果はまったくエロティックではなく、コミカル。

良くも悪しくも榎本佑の作るエドワード像によってこの公演の好き嫌いは分かれるだろう。彼独特の、あるいは彼のお父さんも持っているあの脱力感、動作や台詞において常に少し的を外し、かる〜い息を抜いた演技で見せる。他の役者達、特にモーティマーやランカスターなどの大貴族達がひどく力を込めた怒鳴るような台詞の言い方をするので、それとくっきりした対称をなすように意図されているのだろう。エドワードはマーローの台詞自体からして弱々しい王だが、一方で愚痴っぽい人間に良く見られるように、妙に厚かましいところ、粘着質なしつこいところもある。榎本のエドワードはそのキャラクターを一層掘り崩し、愚痴を言い、自己憐憫している自分を自ら笑い飛ばす。しばしばずる賢そうな油断無い視線を飛ばして、弱さと同居する図太さ、計算高さを強調した性格付けだ。芸人のように弱さを自己演出したこのエドワードは、その意味で謂わば道化の王、フール・キングと言えるだろう。新宿のドラッグ・クイーンのような(?)ギャヴィストンとペアになると、まさに芸人ペア。

但、このような脱力感を特徴とするエドワードを延々と見せられ、ギャヴィストンの追放、帰還、追放、帰還、と続くと、それで無くとも結構長い前半、かなり単調になり、退屈した。インターバルに入った時点で、正直、「うーん、榎本エドワードは面白いキャラクターだけど、劇としては何だか面白くないなあ」と感じた。一因としては、中年おじさんの下総ギャヴィストンに魅力を感じない。酔っ払ったあか抜けないオヤジの宴会の座敷芸みたい・・・。他にやり方は無かったのか・・・。下品であろうが、やはり若く美しく妖艶なギャヴィストンであったら、と思わざるを得なかった。例えば、スペンサー役の谷田さんと代わっていたらどうだろう?

残念に思ったのが、大貴族達、特にモーティマーやランカスターが矢鱈と怒鳴ること。野外公演でも大劇場でも無いんだから、何故あれほど怒鳴らせるんだろう。1人ならともかく、貴族皆が声をからして怒鳴るから、これは演出家の意図だろう。脱力感の王とのコントラストを狙うのは分かるが、正直言って耳鳴りがした。特に小さめの劇場では、声を張り上げないで上手く強弱をつけながら怒りや威嚇を表現するのが俳優の技量であると思うし、貴族を演じた人達はキャリアを積んだ芸達者が揃っているのだから、充分にそれが出来たはずなんだが、ご本人達も納得してないのでは? 静かでありながら恐ろしい、迫力を感じる、というのが一番凄みがあるはず。

イザベラの中村中はすくっと立った姿勢とスタイルの良さが美しくて、とても見栄えのする王妃。声も歌手だけあって響きが良く、丁寧な台詞回しで聞き取りやすい。ただし、丁寧に台詞を言うあまり、感情が充分伝わってくるところまで至っておらず、教科書に忠実な優等生の演技という印象。もっとスマートさをかなぐり捨てた毒が欲しい。一方、キャラクター造形に好き嫌いはあっても、榎本エドワードの台詞の巧みさには感服し、大きな拍手!ルネサンス劇の、日本語としては言いづらい台詞を、とちる事も無く実になめらかに言ってみせる。天賦の才能!

最後だったので特に残念だったのが刺客ライトボーン。役の名前からしても動きの軽快な若者にこの役を振って欲しい。Lightbornとは悪魔ルシファー(Lucifer)の英語名。イギリス演劇では、悪魔はステージを飛び跳ねる身軽さが特徴だ。老人の役者さんには合っていない。更に、まるで歌舞伎の千両役者みたいなもったいぶった大見得。彼の台詞のおかげで最後にかなりガクッときた。大ベテランの重すぎる演技に、演出家は遠慮して口出しできなかった、というのは考え過ぎ?

全体に俳優の平均年齢が高すぎで、台詞のトーンも演技も重すぎる。蜷川シェイクスピアでもそうなんだが、ルネサンス劇の台詞を安心してゆだねられる常連の役者がかなり固定化している感じがし、同じ顔ぶれが長年繰り返し出ていて、自然と年齢が上がってきている。元々大変上手な人達でも、やはり年取った人が多くなりすぎるのは問題だし、自分達では意識して無くても、演技も台詞もスローになってくる。AUNなどの活動が貴重だが、シェイクスピアなどの経験の豊かな俳優や小劇団がもっと必要なのでは?あるいは演出家がもっと広く目配りして若いキャストを発掘して欲しい気がする。

とまあ、幾つか気になったことを書いたが、後半、国政の変転が加速してテンポが良くなり、悲劇性が増してくるとかなり引き込まれて、終わった時には満足感が残った。あの脱力感にはいささか疑問を感じるが、それでも榎本佑の役者としてのレベルの高さは感じた。一方、下総さんの技量を問うというわけでなくて、ギャヴィストン役の俳優の選択、そしてモーティマーやランカスターなどの台詞のデリバリーには工夫が欲しかった。

河合先生の翻訳は、聞いて分かりやすく、言うにも言い易そうな、日常的日本語の訳。しかし、この劇の内容からそうなる面もあるかとは思うが、ルネサンス劇の詩の優美さを伝えている感じはしない。

この夏ナショナル・シアターで見た時は、英語なので私には台詞の細部は分からないままになってしまったが、今回翻訳で聞いて、この劇が如何に階級の差を強く問題にしているか実感した。成り上がり者のギャヴィストンやスペンサーと、モーティマーを始めとするバロンの対立こそ、劇の最大の要点なんだな。歴史上は、ギャヴィストンもスペンサーもジェントリーであり、"lesser nobility"と呼ばれる下級貴族なわけだが、そうした点は抑えられ、彼らの身分の低さ、その卑しい身分に伴う下劣な品性(ホモセクシュアリティーもその一部)が繰り返し貴族達により強調される。確かにギャヴィストンは下品な男だが、一方で、モーティマー・Jrに代表される貴族達は、権力に飢えた醜悪なモンスターだ。靴屋の息子として生まれ、ボールドックのように、学問と才能、そして権力に取り入ることでのし上がってきたマーロー自身の半生が重なって見えた。更に、大貴族による国政干渉を出来るだけ退け、ジェントリーを国政や地方の要職につけ、また法律家などの知識層を側近として重用したチューダー朝政治を反映してもいるのだろうか。

(追記)その後、この劇についての幾つかのブログの感想や、プロの批評家が書いた新聞の評など読んだ。その中では、シェイクスピアなどの研究をしておられるsaebouさんの評が同感だったり、教えられる事が多かった。追放を解かれて王宮に帰還したギャヴィストンの緑の衣装は、アイルランドから帰ったからなのか。ハハハ。

2013/10/19

映画『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")





家族への愛と最後の恋愛:
『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")
(2003、カナダ・スペイン映画)

監督:イザベル・コイシェ(コヘット) [Isabel Coixet]
脚本:イザベル・コイシェ
制作:ペドロ・アルモドバル
音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ
撮影:ジャン=クロード・ラリュー


出演:
サラ・ポーリー (アン)
スコット・スピードマン (ドン、アンの夫)
デボラ・ハリー (アンの母親)
アルフレッド・モリナ (アンの父親)
マーク・ラファロ (リー、測量士)
レオノール・ワトリング (アンの隣人)
ジュリアン・リッチングス (トンプソン医師)
アマンダ・プラマー (ローリー、アンの同僚)
マリア・デ・メディロス (美容師)

☆☆☆☆ / 5

今月初め新聞のテレビ欄を見ていて、NHKの衛星放送でこの映画の放送予定を見つけ、制作者が私の好きなアルモドバル監督であったので、録画しておいて、先日見た。

(粗筋)
「23歳のアンは、母親の家の裏庭にあるトレーラーハウスで失業中の夫と幼い2人の娘と暮らし、時間に追われる忙しい毎日を送っていた。だがある日、彼女は突然腹痛に襲われて病院に運ばれる。そして検査の結果、医師から余命2ヵ月の宣告を受ける。若さのせいでガンの進行が早く、すでに全身に転移してしまっていた。アンはこのことを誰にも打ち明けないと決意し、ノートに死ぬまでにしたいことを書き出していった。それはちょうど10項目になった。そしてその日から、彼女はその秘密のリストを一つずつ実行していくのだった…。」(www.allcinema.netより引用)

アルモドバルの映画では無いが、彼が制作を引き受けただけあって、なかなか感動的な作品。彼の作品に見られるようなちょっとファンタジックなおとぎ話風の面があり、逆に偶然が重なりすぎるなど、リアリティーに乏しくて不自然という感想も出てくるだろう。現代の寓話と言えるだろうか。昔いくらか読んだラテンアメリカの小説などを思い出しつつ、文学でも映画でも、スペイン語圏の物語って、英語圏の物語よりもファンタジックな面が強いのかなと思ったりしている。逆に言うと、英米、特にイギリスって、他国の物語と比べ、身も蓋もない現実的な話が多いという気もする。

さて、アンは17歳の時に最初の子を出産し、多くのミドル・クラスの子が高校・大学で青春を楽しむ時期を、生活と子育てに追われつつ、貧しいながら必死で生きてきた。夫はお人好しで、彼女を大変愛し大事にしてくれるが、映画が始まる時点では失業中で、生活は不安定。彼女自身も大学の掃除婦として働いている。父親は長らく刑務所に入っており、妻(アンの母)とも娘のアンとも絶縁状態。その母親は彼女を愛し、孫娘達の世話などサポートしてくれているのだが、とても陰気な性格で、いつもネガティブなことばかりいうので、顔を合わすと気が滅入る。

というような暮らしのアンが、突然あと2ヶ月しか生きられない、と宣告されたのだからたまらない。これまでだって、ろくに「生きた」という充実感の無い生活を送っていたわけだから。彼女は癌の事を誰にも知らせず、しばし呆然としているが、夜中のカフェでノートを取り出して、標題通り「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出す。全部は思い出せないが、例えば「ヘヤー・スタイルを変える」とか、「家族と海岸に行く」なんていう日常的なこともあれば、「刑務所の(絶縁状態にある)父親に会いに行く」、「子供達が18になるまでの誕生日のメッセージをテープに吹き込んでおく」というような重いものもある。そうした中でも最も重要なことは、「新しい恋をする」こと。そして、リーというひとり暮らしの測量士とそのカフェで出会い、恋に落ちる・・・。このあたりは、かなりご都合主事的なプロットだが、これはおとぎ話であると考えるべき。

突然死を宣告されて、わずかな残された期間をどう生きるか真剣に考える、というお話というと、黒澤明の『生きる』を思い浮かべる人が多いに違いない。それ以外にも、文学や映画、テレビ・ドラマなどでたくさんありそうだ。現実にだって、こういう事は誰にも起こりうる。いや、大多数の人は人生で一度は、程度の差こそあれ、こういう切羽詰まった気持ちを経験するのでは無かろうか。大変ユニバーサルな状況設定だ。これのもっとも原初的な形が、中世道徳劇、『エブリマン』とか『マンカインド』。そうしてみると、アンを取り巻く人々も、どこか中世道徳劇風の寓意的な人物に見えてくる。中世劇だと、例えば、「好色」、「友情」、「悔悛」、「物欲」、「慈悲」等々の寓意的人物が、死を宣告された主人公に近づいて来て、彼を誘惑したり、諭したりする。主人公は色々と懊悩を経た挙げ句、最後には悔悛の上で、神に召されることになる。カトリックの教えを伝える教訓的な劇であるから、結論は現代の映画とは大きく異なるが、構造は似ている。もちろん、現代のこの映画では、主人公アンは、自分の生きた証しを家族の心に刻みつけ、また家族が平和に愛に満ちて生きられるように出来るだけの事をする。と同時に、これまでに出来なかった自分の人生の為のささやかな希望を実現しようとする: ヘヤー・スタイルを変えてみようというのはそのひとつで、実に慎ましい。しかし、誰にも内緒で恋人を作りセックスまでしたのは、かなり大きな決断で、この映画の一番のクライマックス。夫は良い人で、彼女や娘達を充分に愛してくれ、浮気をしたりはしない。でも、何の説明も無いが、彼女の「私の人生、これで良かったのかしら。このまま死んでしまったら悔しい」、という気持ちが切なく伝わってきた。1人の人間の人生にとって、家族への愛と並んで、男女の(あるいは、ひとによっては同性への)性愛というものが如何に大事かを強く感じさせる作品だ。

日本人が作ると非常にセンチメンタルになりそうな題材だが、淡々と、まるでビデオ・ダイアリーのように撮られているところが大変良く、いささか不自然な設定を補っている。つまりおとぎ話をドキュメンタリーのように撮っているのだ。死の直前の苦しみなど、具体的に肉体の死にいたる局面は描かれていないので、不十分と感じる観客も多いかも知れないが、そこはおとぎ話と考えるよりないだろう。ロケの場所はバンクーバーらしいのだが、土地柄を感じさせない。ロンドンとか東京、パリなど、その場所に個性のあるところよりも、ロケ地の無機質さが、道徳劇のような一般性を強めていて良い。

20歳位の若い人、働き盛りで落ち着いて人生を考える暇のない多忙な世代の人、そして私のように老境にさしかかり自分の死を現実として感じ始めた(あるいは感じている)人、人生の色々な段階にいる人にとって面白いと感じさせる要素を持っていると思う。

2013/10/16

ナショナル・シアターの新芸術監督は Rufus Norris



昨日10月15日朝に記者会見があり、National Theatreの新しい芸術監督がRufus Norrisと発表された。着任は2015年4月。既にNTのassociate directorとして活躍している人で、Guardian紙の下馬評でも第一に上がっていた。私は残念ながら彼の演出作品を見たことがないが、イギリスの演劇人の間では非常に良い人選と評価されているようで、Whatsonstage.comのMichael Coveneyなども好意的に受け止めている。彼は俳優の出身。名門演劇学校のRADAを出ているが、多くの著名な演劇人と違い、オックスブリッジ出身ではない。ちなみに、これまでのNTの芸術監督はOlivierを除いて、皆、ケンブリッジ出身らしい。

最近、彼が監督した公演作品としては、NTで"London Road" (2011)や"Amen Corner" (2013)。2004年にAlmeidaで監督したDavid Eldridge作の"Festen"で特に大きな注目を集めたようだ。彼の奥様はTanya Ronderという劇作家で(写真で一緒に写っている方)、Norrisは彼女と幾つか一緒に仕事をしている。

Norrisはミュージカル("Cabaret" 2012)やオペラ("Doctor Dee" 2011)も監督しており、多彩な監督だ。

映画も2本監督しているそうで、カンヌでも上演された"Broken" (2012)は、The Best British Independent Filmという賞を取っている。

舞台の監督としての経歴を見ると、現代劇、新作、海外の劇などが主で、シェイクスピアなどの英国ルネッサンスの古典やカワード、プリーストリー等、イギリスの現代古典などがほとんど見当たらないように見える。シェイクスピアは2002年の修業時代に小さな劇場で"Tempest"をやったことがあるだけのようである(注)。Hytnerはそのレパートリーの広さが素晴らしく、ルネッサンスからビクトリア朝、そして現代劇、新作まで幅広く演出し、しかもほとんどの公演は成功をおさめた。NorrisはNTの芸術監督になるので、自分で何でもこなす必要はないが、NT全体としては、Hytner時代同様、色々な時代とジャンルに挑戦し、新しい演出手法や古典の読み直し、埋もれた作品の掘り起こしなどに挑戦し続けることが期待される。

Norrisの経歴、特に作品については、このサイトが特に詳しい(彼のエージェントのサイト)。

英語版Wikipediaでも項目が設けられているが、なんと昨日の発表後直ぐに、彼の芸術監督就任が書き込まれていたのには驚いた。

なお、Hytnerの退任と同時に、事務方のトップでHytnerを支えてきたExective DirectorのNick Starrも退任する。National Theatreにとっては、こちらの後任人事がどうなるかも、芸術監督同様に重要であるに違いない。HytnerとStarrは、Michael Grandageのように、おそらくWest Endに本拠地を置く劇団を主宰すると見られている。

(注)GuardianのMichael Billington曰わく、NorrisのCVから見る特徴は"the catholicity of taste"だという。この"catholicity"とは、おそらくuniversality、つまり幅広さを示しているのだろう。確かに彼はかなり広いジャンルの作品を監督してきたようだ。しかしそのBillingtonもNorrisのCVにはShakespeareが欠けているとも書いている。それ以外のイギリス演劇の古典も見当たらないようだ。

2013/10/15

新しい章を書き始めた


1週間くらい前から論文の新しい章を書き始めた。これが最後の章になる予定だが、1万語以上(大体30ページ以上)、出来れば1万5千語に近い長さにするつもりなので、いつになったら終わるか分からない(それが終わった後も、難関のイントロダクションが待っている)。この章の終わりの方は、どうなるか、まだ漠然としたまま書き始めている。材料となるノートは沢山取ってあり、それをまとめて大まかなアウトラインも作ってあるのだが、集めた材料の取捨選択があまり出来ておらず、書き始めてみると、なかなか思うように材料を生かせない。相当な分量の材料を切り捨てないといけない。まとまった長さ、英文で言うと1万語以上の文章というのは書き始めの序論が特に難しい。最初に文章全体の方向を定めなければならないのだが、理論的な事に弱い私は、ここでまず躓いてしまって、苦吟している。但、書けるところから書いていき、書けないところは後で調べて書き足したり修正したりしようという方針なので、論旨がずれていたりしても、ところどころ穴があいていても、まずは先へ進み、章を一旦完成させるつもりでやっている。1人で書く論文と違い、大学院生で指導教授もいるのだから、後で客観的なアドバイスも貰え、修正できる。

書く内容と共に難しいのが、気力の維持である。日常の色々な雑事があり、また、アルバイトの非常勤講師や、時々引き受けているゲスト講師、社会人講座などの準備もある。私の場合体調が悪い日も多く、また、定職の無い今では、研究・教育上の仲間に会うこともほとんどなく、完成したとしても学会で評価されるとか、本として出版できるわけでもない。研究書や論文を読むにも、専任職を持つ研究者と違い、なかなか手に入りにくいという研究環境の問題もある。その中で、自分の知的好奇心だけをエネルギー源として勉強し書き進めるのは、思ったより骨が折れる。それでもイギリスに居た間は、芝居に行くこと以外は雑事や雑念が少なく、自分の勉強に集中出来たが、帰国後は、その他の事が色々と気にかかる。引退したのに何故こう勉強の心配ばかりしているのか、馬鹿馬鹿しく思うこともある。

というような具合で、前回の長い章を書いて以来、かなり苦しんできた。書き終わりそうも無い、と思う時もあったが、今は新しい章を実際に書き始めただけでも、少しほっとしている。いつ論文全体が終わるか分からないが、諦めなければ終わるという感触だけはある。