2014/04/30

ラファエル前派展(森美術館 2014.3.11)

3月11日、ラファエル前派展に行ってきたので、個人的感想などメモしておきたい。

ラファエル前派の絵は、イギリスのTate Britainで繰り返し見ている。ロンドンの美術館や博物館でも、ナショナル・ギャラリー以上に繰り返し行ったところだ。行く度にラファエル前派の部屋は大抵少しは眺めているので、今回見た絵も、有名なものはほとんどテイトで見ている。今回見て感じたのは、ラファエル前派の画家達は、女性が好き、ということ(笑)。とにかく、女性の肖像の割合が非常に高い気がする。ロセッティの絵で、良く知られた作品が多く来ていたようだが、彼の描く女性はたくましい。ジェーン・モリスやファニー・コンフォースをモデルにした絵では、描かれた女性は、がっちりした体格や肩、太い首、大きな顎などが印象的。更にふさふさと波打つ髪、大きな鼻に肉厚の唇・・・。顔の造りはともかく、体の外観は、労働者階級の印象で、人工的で貴族的なネオクラシシズム絵画の女性とは大きく異なるので、当時の人には大変新鮮だったのではないか。あくまで男性からの視点だとしても、女性美の感覚が大きく変貌した時代だったのだろうと思う。

私は若い頃はラファエル前派には全く関心がなく、名前を知っているだけに過ぎなかったが、近年かなり好きになった。特に留学中にTate Britainに何度も行って、ラファエル前派の絵の多くに見飽きぬ魅力を感じた。物語性があるので、絵の色彩とか構図にそれほど興味がない私のような者でも、眺めていて楽しいし、想像を膨らませられる。特に、しばしば文学的な題材、それも中世が取り上げられるのも、私には楽しい。昔は、こういう近現代の疑似中世趣味を何だがうさんくさく感じていたし、近現代画家の描く中世は、本当の中世とは似て非なるものだ。しかし、最近は、学問の世界でも近現代における中世趣味(medievalism)への関心も高まり、研究も進み、私もそういう傾向に影響されたし、中世趣味がそれぞれの時代の社会状況を反映している点も興味を感じる。16世紀の知識人は、ギリシャ・ローマの古典古代への関心を通じて、中世的な考えを超克しようとした。それとは逆に、19世紀には、それまで看過されてきた中世の見直しを通じて、ネオクラシカルな保守的芸術や学問とは違った視点を提供したわけだ。ラファエル前派が始まる頃は、チャーチスト運動が展開して、労働者の権利が主張し始められた時代だ。全体的にはラファエル前派に政治的傾向を見いだすのは難しいだろうが、ウィリアム・モリスのように、この周辺の人々は社会主義的傾向もある。その後、19世紀から20世紀初頭にかけて中世文学のテキスト編纂に携わった人々には社会主義に近い人々が散見される。中世という時代が、産業革命以降、非人間的な面が目立ち始めた近代文明に対するアンチテーゼとして捉えられた面はある。ロセッティの描く女性の逞しい庶民的な美にもそういう時代の波を読み取ることも出来る気がした。

主観的には、同時代のフランスの絵と比べて、ラファエル前派の絵って、あか抜けないというか、優美さに欠けるというか、田舎くさいと言うか・・・。やはり、ヨーロッパの島国、イングランドらしいという気がする。色彩も、くすんでいたり、けばけばしかったりして、どうしてもっときれいに、例えば、ルノアールとかモネみたいに描けないんだろう、と思ったりもする。しかし、イングランドのお屋敷などの、オークの家具とか、チューダー朝風の調度の間にこれらの絵が掛けられることを考えると、印象派の絵のような華やかな明るい色彩の絵画は浮いてしまうんだろう。イングランドの長く暗い冬に眺めるにも、このほうが良い。私としては、印象派の絵より、このあか抜けないラファエル前派の田舎くささが気に入っている。

「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義 1860-1900」展(三菱一号館美術館 2014.4.28)

連休の間、日頃単調で何も無い私の生活にもちょっと楽しい行事があった。その最初がこれ。チケットは長年の友人であるご夫妻からいただいた(サンキュー!)。有楽町駅近くの三菱一号美術館は始めて出かけた。素敵な建築物と聞いていたが、噂通りなかなか良かった。この時代の洋館、良いですね。東京都立美術館もちょっと似てたかな。これはクイーン・アン様式というそうだ。

しばらく前に行ったラファエル前派展の、時代的にはその後に続く時代の美術。また、これはヴィクトリア&アルバート・ミュージアム(V&A)の所蔵品による展覧会なので、絵画や彫刻だけでなく、家具、磁器、書物、タイル、タペストリー、写真、アクセサリー、建築デザイン・・・ええっと、まだあったかな、とにかく色んなジャンルにわたる作品が展示されていた。その時代の英国の豊かなミドルクラスの人々(the upper middle class)あたりの趣味を反映した、人々の暮らしを全体的に見られる展覧会。但、私の好みからすると、ちょっと総花的か?V&Aにはどのジャンルでも膨大な作品があるから、どれかに集中した方が・・・というのは無いものねだりか。でもやはり絵画が多くて、印象に残った。

その絵画だが、ラファエル前派の後で見ると、つい比べてしまうのは仕方ない。で、私としてはガクッとする面はある。この展覧会のチラシやホームページの背景にもなっているアルバート・ムーアの「真夏」とか「花」などその典型だが、どうもきれいすぎというか、装飾品としての絵画という印象で、描かれている人(大抵女性)の人間的魅力が伝わってこない。ラファエル前派の描く女性と比べ、いささか物足りない。きれいだとは思うけど・・・。そういった中で、フレデリック・レイトンの「パヴォニア」、ロセッティの「愛の杯」などは、個性的な女性が描かれて、気に入った。ジョージ・ワッツの「孔雀の羽を手にする習作」のヌードも大変魅力的。この時代の人、大変孔雀が好きみたいだ。あちこちにあった。特にウィリアム・ド・モーガンの青と緑を基調とした美しい大皿に描かれた大きな孔雀は印象的。結局、見終わって振りかえると、私は、唯美派の本丸(?)である19世紀末の作品よりも、今回の絵画でも1850年前後のラファエル前派の作品が良かったなと感じていたわけだ。時代が進むにつれ、絵に生気や思想がなくなっていくような印象を受ける。その代わりに、「美」だけを純粋に追い求めたから唯美主義と呼ばれるのだろうか。絵画の装飾品化、商品化/商業化(commodification / commercialization)とも見ることもできそうだ。一方で、そうした世紀末の絵画は、陶磁器とか織物とか家具などのジャンルにおける繊細な作品と大変上手くマッチしているとも言える。絵画や調度品、そしてインテリア・デザインと建築全体、更におそらく庭園に至るまで、セットとして統一された雰囲気を醸成するのかも知れない。例えば、ウィティック・マナー(Wightwick Manor)のように。

私はモリスのタイルとかタペストリーに興味があったが、確か1点ずつくらいしかなかった。一方、建築のデザインはたくさんあったなあ。そのあたりは、私は駆け足(^_^)。

音声ガイドを借りた。ラファエル前派展ではとても役だったし、パネルを読む面倒がなくて良かったが、今回の音声ガイドははずれ! 作品そのものの解説が聞きたいのに、イントロならともかく、ひとつひとつの展示品のガイドにおいても美術史、文化史に関する前置きが長すぎる。更に、パネルの解説も、V&Aの学者の書いたものを訳しただけで、こなれてない日本語訳が読みづらい。向こうの学者の文章を参考にするにしても、新たに書きおろすべきだ。音声ガイドや解説が分かりにくくて作品を見るブレーキになっては、本末転倒。

ミュージアム・カフェに寄ろうと思っていたがかなりの人が待っていたので諦めた。ギフトショップは、素敵なものもあったが高い。私などは絵はがきで精一杯。

とまあ、色々文句もつけたかもしれないが、美術館の立派な建物も含め、楽しいお出かけだった。5月6日まで。まだの方、お勧めします。展覧会のウェッブ・サイト

2014/04/28

NHKスペシャル「調査報告 女性たちの貧困ー新たな連鎖の衝撃ー」

現代日本の女性、特の若い女性の貧困を取り上げたNHKスペシャル。1月に放送され、私も見ましたが「クローズアップ現代」のほぼ同内容の番組を修正、かつ拡大したドキュメンタリーです。番組紹介ページから引用させていただきます:

10代20代の女性の間で深刻化する貧困の実態を描いた今年1月のクローズアップ現代「あしたが見えない」。放送後、番組サイトが異例のページビューを記録した。通常8千程度のページビューが、60万を超えたのである。そして、寄せられたのは「他人事では決してない」という切実な声だった。いま、若い女性たちの間で何が広がっているのか。取材を進め見えてきたのは、親の世代の貧困が、子の世代へと引き継がれ、特に若い女性たちに重くのしかかるという“現実”だった。

「クローズアップ現代」では、貧困に苦しむ若い女性、特にシングルマザーが、他に仕事がなく風俗産業に流れ込む様子が取り上げられていたと思いますが、今回はその面はカットされていました。その分、何とか教育を受けて貧困から抜け出したいと努力する女性の奮闘ぶりが克明に取り上げられ、多少希望を抱かせる内容となっていたと思います。風俗業界やAV映画で働く女性と貧困の関係も重要な社会問題なので、改めてそれに特化して取り上げて欲しいと思いました。

イギリスではまだ伝統的な労働者階級の残滓があり、彼らのプライドも感じられますが、日本は総中流の幻想が醒めた後、貧しい女性が文字通り「サイレント・プア」になって孤立してしまい、行政にも充分見えていないのが一層問題を深刻にしています。家庭、地域、親戚、学校、地方行政、といった個人を幾重にも取り囲んでいるはずの大小のコミュニティーが希薄になり、あるいは崩壊し、ひとりとなった若い女性(老人もそうですが)が、どのレベルのセイフティー・ネットにも引っかからず、貧困の可視化さえもされず、食費を削ってまで必死でひとりでもがいている状況があります。

今の日本やアメリカ、中韓のように、貧富の差が極端になってくると、中上流の人達は、貧困でもがき苦しむ人達を横目で見ながら、物質的文化的豊かさを楽しむという社会になり、彼らの子供達は冷淡であることを学びつつ育ちます。社会全体が、一種の経済的アパルトヘイト化し、誰もが精神的に貧しい社会となっていきます。

ボランティアとして、あるいはNPOや行政機関の職員として、日々貧困の現場で格闘し、苦しんでいる人々と向き合っている人もおられます。ですが、私も含め、皆がそういう生き方を選ぶことは出来ません。しかし、自己実現や自分のまわりの人の豊かさを追いかけるだけで満足してしまっている人間ばかりでは、日本社会は物質的にも、そしてそれ以上に精神的にも貧しい社会になると思いつつ、見ました。もう高度成長経済は望めない今、社会の富の再分配をもっと計らないといけないと思うし、子供や若者の貧困を取り除くために、他の面で国民ひとりひとりが大きな犠牲を払わなければいけないでしょう。そういう政治を求めたいのですが、今の政権はどうなんでしょうか。経団連の代弁ばかりしているようにしか、見えません。

再放送は5月1日深夜午前0時40分から。ひとりでも多くの人に見て欲しい番組です。

2014/04/21

NHKの新ドラマ・シリーズ、「サイレント・プア」

NHKの新ドラマシリーズ、「サイレント・プア」を2話まで見た。深田恭子を社会福祉協議会のコミュニティー・ソーシャル・ワーカーにしてアピールしているけれど、内容は実に重いドラマ。適度にセンチメンタリズムもあり、毎回救いのある終わり方をするが、現実にある福祉の谷間について取り上げている。

豊中市社会福祉協議会が協力しており、主人公もモデルとなる方があるそうだ。社会福祉専攻の大学教員などでも、Twitterで強く推薦されている方もいた。ドキュメンタリーでも、教育番組でもないが、公共放送でしかできない良いドラマだと思う。

第2回は、ひどい持病を持ち貧困に苦しむシングルマザーが、両親を介護し、しかも弟はひきこもりで部屋から出られないという、複合的な問題を抱えた家庭の話だった。確かに、一つ歯車が狂い始めると、次々におかしくなる家庭があっても不思議じゃない。

現実に福祉の現場の人が見ると、こんなもんじゃない、と言いたいこともあるだろうとは思うが、しかし、現場で地味な仕事に心血注いでいる方々に光が当たり、また、今の社会が抱えている困難な問題に、硬いドキュメンタリーではなくてフィクションとして考える機会ができるのはとても良いことと思う。

深田恭子演じる主人公がマリアさまに見えた。もちろん、この主人公みたいに献身的に仕事をしていたら、燃え尽きてしまうだろうけどね。

番組のサイト 

2014/04/16

ハリー・チェイピン:アメリカの吟遊詩人

スザンヌ・ヴェガのコンサートに行って以来、昔買ったけど最近かけてなかったCDとか、今はCDも持ってないけど昔頻繁に聞いていた曲をネットで捜して聞いたりしている。前回のブログでアメリカ留学していた頃聞いたロック歌手の事を書いたが、最近は滅多にロックを聴かなくなってしまった。しかし、20歳代の当時から聞いていて未だに頻繁に聞く歌手もいる。最近もほとんど毎週のようにかけるのが、ハリー・チェイピン(Harry Chapin, 1942-1981)だ。ボブ・ディランのような、所謂フォーク・ロックのシンガー・ソングライター。1981年に、交通事故で夭折している。彼の歌は、特に名作”Taxi”や”Cat’s in the Cradle”においてのように、歌詞が魅力的なストーリーを持っていて、じっくり聞かせる。特に前者は、文芸批評などでいうところの、「アメリカン・ドリーム」をテーマとした歌で、なかなか文学的で聞き応えがある。タクシーの運転手が、昔ハイスクールで同級生だった女性を客として乗せることになったという話。彼は高校生の時は飛行機のパイロットになる夢を持っていたし、彼女はハリウッド・スターになるはずだったが・・・。歌詞はこちら。



とってもアメリカらしい歌だ。チェイピンは世界の貧困と飢餓のために様々のチャリティー活動をするなど、社会活動家としても尊敬を集めた人で、死後に連邦議会から Congressional Gold Medal という大変名誉ある勲章を受けている。また、彼の奥様を含め、家族は彼の死後、Harry Chapin Foundationという財団を設立して、今も彼の残した社会事業を継続している。彼の母方の祖父は、ケネス・バーク(Kenneth Burke)という、20世紀のアメリカを代表する文学批評家だった事も知られている。

そういう伝記的な事を知らずとも、彼の歌は、人柄が偲ばれる暖かさに溢れている。彼の作品では、人生の様々な変転に直面している人達への暖かい視線がリリカルな歌詞とメロディーに乗って歌われる。アメリカの吟遊詩人と呼びたい歌手。さて、最後に、”Cat’s in the Cradle”。愛し合っているはずの父と息子のすれ違いを歌った作品。歌詞はこちら



ボブ・シーガー: ミッド・ウエストの風

先日、スザンヌ・ヴェガのCDは何を持っていたかなあ、と思って引き出しや棚を引っかき回していて、ボブ・シーガーのCD、”Bob Seger: Greatest Hits” を引っ張り出して、聞いている。ちょっと想い出があるので、書いておこう。

私は、35年くらい前、20歳代の半ばに、アメリカで、生でボブ・シーガーの歌を聴いている。その頃私は中西部の田舎町の大学に留学していて、毎日朝から夜寝るまで勉強だけの日々を送っていた。アメリカであろうと日本であろうと、ひとづきあいも会話をするのも苦手な私は、友達も、クラスで話す相手もおらず、また肝心の授業には全くついて行けないし、それを相談する人もおらず、毎日苦しい日々だった。

そうしたある日、多分コーヒーショップかなんかでひとりで食事を取っていたんだろうと思うが、同世代の見知らぬアメリカ人男性が話しかけてきた。彼は学部・大学院で日本語・日本文化を専攻し、日本人女性と結婚していて、日本の事を話したがっていた。その後彼と週1回くらい会うようになり、レポートの英語を直したりもしてくれるなど、お世話になったし、彼とたわいないおしゃべりをするのは、随分気分転換になった。他に話し相手も無い私には、英語のスピーキングの練習にもなったと思う。結局その面では大して上達しなかったが(^_^)。

その彼が、夏休みだっと思うが、突然、コンサートに行こうとやってきて、車に乗っけてくれ何時間もドライブして大きな野球場らしき場所に連れて行ってくれた。行ってみると、かなりの規模の、野外のロック・フェスだった。私は、日本での学生時代に色々ロックのレコードは聴いていたが、アメリカに来る前に皆売ってしまい、ポップスの事はすっかり忘れていたし、どんなグループが流行っているかも知らなかった。そのロック・フェスでは沢山のグループや歌手が出て来たが、元々知らなかった人達がほとんどだったと思う。しかし、後ろの方で出演した3グループだけは覚えている。多分最後に出て来たのが、Bob Seger and the Silver Bullet Bandだったと思う。その他に、ナザレス(Nazareth)、フォーリナー(Foreigner)も出た。この3つのバンドが一同に会するだけでも、考えて見ればロック・ファンにとってはえらく豪華なフェスだろうな、と今になって思うが、当時の私には猫に小判だった。それに、料金をその友達に払った覚えもない。きっとチケット代、安くなかっただろう。今となっては申し訳ないかぎり。ボブ・シーガーもナザレスもフォーリナーも、35年くらい経った今も音楽活動を継続している現役のロック・ミュージシャンだ。

で、前置きが長くなったが、そのボブ・シーガーが歌った曲で、未だに心に残っているのが、傑作、”Night Moves”:



はっきりとは思いだせないが、これも演奏されたのではないだろうか, “Roll Me Away”。この曲を聞くと、広大なミッド・ウェストのコーンフィールド、どこまでも続くハイウェイ、蒸し暑い夏の夜や凍り付く冬のブリザード、そして何と言ってもアメリカの広さを思い出す:



ボブ・シーガーはシカゴのミューシャンで、ニューヨークっ子のスザンヌ・ヴェガの物静かでアーバンな世界とは全く違う、ミッドウェストらしい雰囲気でいっぱい。私にとって懐かしいアメリカではある。トラック・ストップで、パンプキンパイなんかほおばりながら聞くとたまらない。アメリカらしいアメリカ。

私をこのロック・フェスに連れて行ってくれた彼とは、その後音信不通になってしまった。と言うか、アメリカで知り合った人とはほぼ関係が切れてしまっている。彼にも、もう会うことはないだろうが、もし会えたらお礼を言って食事でもご馳走したいものだ。

若いときはロックを聴いていても、歳取ったら、歌謡曲とか聞くようになるのかな、と学生時代は思っていたけど、ロックで育った世代は、いつまで経ってもロックみたいね(^_^)。とても歌謡曲なんか聴けない。だから、年寄りの冷や水でも、未だにシーガーもフォーリナーもストーンズも神経痛やら高血圧を押して活動中(^_^)。ちなみに中学生の時、私が最初に買ったLPレコードは、ステッペンウルフ、その後がドアーズとクリーム(クラプトンのバンド)。ということで、お馴染み(?)、”Born to Be Wild”で終わりにします。アメリカ映画を変えた『イージー・ライダー』のテーマソング。これも、実にアメリカ臭い! 今聞いても充分楽しい。


スザンヌ・ヴェガ コンサート EX Theatre (六本木) 2014.04.07

音楽にはあまり縁のない私が唯一そのコンサートに複数回行っているのがスザンヌ・ヴェガ。ロンドンのカドガン・ホールのコンサートに2度行っている。東京でも聞けて幸運だった。

新しいアルバム、”Tales from the Realm of the Queen of Pentacles” のワールド・プロモーション・ツアーのひとつとして、東京と大阪でコンサートをしている。

唱った曲は、新しいアルバムからと、彼女の初期のクラシック(*は新アルバムから):
Marlene on the Wall
Caramel
The Fool’s Complaint*
Crack in the Wall*
Jacob and the Angel*
Small Blue Thing
Gypsy
Queen and the Soldier
Don’t Uncork*
Song the the Stoic*
Left of Centre
Some Journey
I Never Wear White*
Luka
Tom’s Diner
(以下、アンコールで)
Undertow
Horizon*
Rosemary

始まった途端に、何だかもの凄く幸せな気分になった。古い友人に久々に会った感覚かな。何しろ25年以上聞き続けているから。ほぼ毎週、一度は聞かないことは珍しい。この十数年アイルランドの歌手を聞くことが多くなったんだけど、ヴェガだけは私の変わらぬ定番。

コンサートが終わった後も、帰り道も、帰ってからも、夜、夢の中でも、ずっと彼女の歌が響き続けた。

ロンドンのコンサートでは、前座の人が出て来て30分弱演奏した後、ヴェガが出て来たが、今回は7時半の開演時間きっかりに彼女自身の”Malene on the Wall”で始まった。古い歌は皆私がよく聞いてきた歌。私は彼女のオリジナルアルバムは全て持っているはず。ベストアルバムなどのアンソロジーも全部じゃないけど何枚もある。ニュー・アルバムも既に買っていて、何度も聞いているのだが、他のアルバムと比べて、いまひとつピンと来ないと感じていた。でも、コンサートで聞いてみて、やはりCDで聞くのとは違う魅力を感じた。特に、”Song of the Stoic”と”Horizon”は良かった。歌詞に年齢を経て書ける深みを感じる。”Luka”とか、”Queen and the Soldier”といった若さを感じる歌とは違う今の彼女の世界。その意味で、私はこの前のオリジナル・アルバム”Beauty and Crime”の円熟した叙情がたまらなく好きなんだが、今回全く唱われなかったのはとても残念だった。

伴奏は、ロンドンでは3人くらいいたと思うが、今回はギターのGerry Leonardひとり。それでも見劣りしなかった。Gerry Leonardは、ヴェガも紹介していたが、デヴィッド・ボウイのミュージカル・ディレクターを務めた事もあるかなり有名なミュージシャンらしい。英語版ウィキペディアにも独自の項目があった。今回のアルバムの曲の作曲はほとんどがヴェガと彼の共作。

観客は老若男女、様々の人がいた。外国人(と言っても、東アジアの人は見分けがつかないので、見て分かるのは白人だけだけど)もかなりいた。一番多かったのは、30、40歳代の男性だろうか。となりの席のオジサン、もの凄いファンのようで、体を揺すりながら聞いて、手が痛くなるほど拍手して、えらく興奮してたな(^_^)。ちょっとうるさかったけど、熱烈なファンのようなので許せた。

これからまたコンサートのことを思い出しつつCDを聞いて楽しめる。また東京に来て欲しい。

ヴェガの曲を聴いてみようという方はこちらに4曲。本屋さんで開かれた最近のミニ・コンサートのライブ。アメリカの公共放送、National Public Radioの番組の録音のようだ。曲は、”Luka”, “Crack in the Wall”, “I Never Wear White”, “Tom’s Diner”。単なる書店での録音なので音響などは多くを望めないが、この素朴さがヴェガらしくて良い:


2014/04/06

“The Fall” (2013年、BBC Northern Ireland制作テレビ・ドラマ)


1時間のエピソードが5回で完結するシリーズドラマ。BBC北アイルランドの制作で、舞台になっているのもベルファスト。主演はGillian AndersonとJamie Dornan。と言っても、Dornanの方は私は全く知らず、このドラマに出た時点でほぼ無名の人らしい。スターは、Gillian Andersonだけ。脇役で、2、3人、他のドラマの脇役で見た記憶がある人が出ているくらい。

ベルファストで連続女性殺人事件が起こるが、地元の警察は犯人逮捕に繋がる手がかりをつかめず、ロンドン警視庁(The Metropolitan Police、略してMet)から敏腕刑事、DCI Stella Gibson (Gillian Anderson) が陣頭指揮を取るべくやってくる。彼女は最初から全く愛想のない冷たい態度で、まわりの男性刑事を圧倒するというか、畏れさせているように見える(英米の警察ドラマでは、こういう切れ者の女性上司は定番になった)。一方、視聴者には犯人は最初から知らされている。公務員のようだが、家族を犯罪や事故で亡くした人のカウンセラー(grief counsellor)をしているPaul Spector (Jamie Dornan)が一連の殺人を犯している。この2人は、目的は違うが、どちらも偏執狂的な一途さで、犯罪捜査と殺人の準備にあたる。かなりスローなドラマで、時にはそのもったいぶったあざとさにうんざりしかねない。にも関わらず、画面から目を離せない緊張感がずっと持続する。ユーモアや遊びの要素がかけらもなく、一貫して黒々としたサスペンス感が張り詰めたドラマ。暴力やセックスのシーンもかなりある。好き嫌いがはっきり別れそうだ。

私にとって特に興味深かったのは、このドラマの設定された場所や背景。まず、タイトルがThe Fallとなっているのだが、これは何を表すのか私には未だ判然としていない。人間の堕罪を意図しているのか。但、殺人が起こった場所のひとつに、The Falls Roadという通りがあるので少しは関係がありそうだ。調べてみると、これはベルファストのメインストリートのひとつらしく、しかも共和国派(つまりカトリック・コミュニティー)の牙城らしい。更に、途中では、プロテスタント (the loyalists) の牙城であり有名なShankill Roadも出て来て(The Falls Roadの近く)、Spectorがその通りにある、カウンセリングしているクライアントの家に行くと、カトリック系のならず者にからまれて、「用もないのに来ると命はないぞ」、と脅される。ドラマだから鵜呑みには出来ないが、未だに、こんな所もあるのかしら、と驚いたりいぶかったりした。こういう、歴史的にも暴力に支配された土地柄を背景にしているために、政治的犯罪を扱ってはいなくても、荒涼とした雰囲気が醸成される。

Anderson演じるStella Gibsonの力強いキャラクターが面白い。ずば抜けた能力と冷静さ、ドライさが、上役も部下も警察の男達を引きつけ、また反発させる。彼女は、捜査を始めた途端に、自分より若い既婚者の刑事に目をつけ、自分のホテルの部屋番号を言って誘い、何だか実用一点張りという感じの、ジムで運動しているみたいなドライなセックスをする(北欧ドラマThe Bridgeの女刑事Saga Norénを思い出した)。彼女自身がこの”one-night stand”を「女が男を抱いたのであって、その逆ではなかった」と表現している。やがてその若い刑事が殺され、彼女もふたりの関係について取り調べを受けるが、全く動じない。殺人犯のSpectorと彼女の間にはほとんど直接の接点は無いが、SpectorはGibsonに自分と似た要素があると感じ、惹きつけられる。しかし、視聴者は、Gibsonに感情移入は出来ず、またそれを期待されてもいない。

Spectorのキャラクターは、良き妻と2人の可愛い子供に恵まれているが、平凡な家庭生活の裏に、激烈な抑圧感を抱え込んで生きていて、それをDormanが見事に表現している。洋の東西を問わず、狂気としか思えない残忍な殺人があるが、こういう人が犯すのだろうか、と感じさせる脚本と役作りに仕上がっている。

ひとつ、大きく評価が分かれるのは、終わり方。Amazon.co.ukのカスタマー評を見ると、終わり方が気に食わないので嫌い、という人が大分いるようだ。確かに、はっきりしない結末。多分次のシリーズに含みを残すためだろうか。その第2シリーズは今年放映される予定のようである。

この前にブログに書いたデンマークのクライム・ドラマThe Killing 1と比べると、もちろんあちらの方が数段面白い。主人公達、特にサラ・ルンドは、Stellaより大変魅力的で、感情移入もできる。しかし、視聴者が共感しがたい冷たさこそ、Stellaの魅力でもある。The Prime Suspect(『第一容疑者』)ほどは面白くないが、主役のキャラクターから言って、その流れのドラマとも言える。かなり迫力あるドラマなのでクライム・ドラマの愛好者には勧められるが、例えば、『フロスト警部』とか、『モース警部』の類の、のんびり楽しめる一般的なエンターテイメントにはならないでしょう。

2014/04/03

"The Killing" (キリング)シーズン1


やっと見終わった、The Killing 1 ! いやはや長い。ひとつの殺人事件を扱うだけの連続ドラマなのに、全20話だからね。随分前、イギリス留学中に、10話くらいまで見ていて、iPlayerで追いかけたんだけど、時間切れで、半分程度しか見られなかった。その後、日本でも有料海外ドラマ・チャンネルで放送され、日本語字幕付きDVDも発売されていて、日本でもファンがいるようだ。デンマークのクライム・ドラマで、スウェーデンの『ワランダー』と共に、世界的な北欧クライム・ドラマ・ブームの皮切りとなった傑作だ。すでに、第3シリーズまで作られている。第2、第3シリーズはそれぞれ10話ずつ。また、アメリカで第1シリーズの短いリメーク版も作られた。去年の夏ロンドンに行った折、オックスフォード・ストリートのHMVでシリーズ1のDVD5枚組ボックスが安い値段で売られていたので買ってきて、昨年末から少しずつ見てきた。デンマーク語はもちろん分からないので、英語字幕で見るから、時々字幕が追い切れない台詞もあり、20話もあると、最初の方で何があったかなんて、終わりになる頃には、私の乏しい記憶力では忘れている。更に、途中で退屈する時もあったけど、それでもやめられず、最後まで見ることになった。

上記の様に、半分くらいはBBCで放送時に既に見ていたのだが、せっかく買ったDVDなので、最初から見なおした。大分忘れていると言う事もあるが、2度目に見た部分でも、話の大筋は分かっていても登場人物の変化を追っていくだけで、結構面白かった。更に今回は、10話くらい見たところで、犯人を知ってしまったんだよね(^_^)。これは内容から推量したのではなくて、偶々見ていたガーディアン紙のテレビ・リビューのビデオ・クリップで、第1シリーズの犯人をリビューアーが言っちゃったんだ!昔のドラマだから、もうそんな事気にする人もいないということなんだろうけど・・・。ガクッときたけど、それでも見続ける価値は充分あった。このドラマの面白さは、基本的に、キャラクターの心理描写だから。クライム・フィクションで言うと、イアン・ランキンとかP. D. ジェイムズを読むような感じ。犯人にたどり着く紆余曲折から、ランキンの読後感に近いかなあ。

物語全体の大枠は、ナナ・ビルク・ラールセンというコペンハーゲンの高校生が行く方不明になり、やがて死体で発見される。その後の捜査期間の20日間を、犯人逮捕まで、1日1エピソードとして描いている。

ストーリーは幾つかの大きな筋を織り合わせて出来ているが、特に、刑事サラ・ルンドとイエン・マイヤーの犯罪捜査と、若手政治家トロールス・ハートマンと市長ポール・ブレマーを中心としたコペンハーゲン政界内の権力闘争が大きな2本柱と言えるだろう。更に、殺されたナナの家族、父のタイス・ビルク・ラールセン、母のペニレ、そして彼らの周辺の人々、また、ナナの教師などの学校関係者などが、それぞれに様々な葛藤を抱えていて、心理的にも複雑なドラマを繰り広げる。

サラ・ルンドの、食らいついたら離さないしつこい捜査、それに振り回される部下のマイヤーの哀れさ、更に二転三転する捜査対象に翻弄されるビルク・ラールセン一家やハートマンと彼の2人の側近、リエとモーテン、のキャラクター描写も魅力的。被害者家族、タイスとペニレの夫婦は特に悲痛だ。警察の捜査に一喜一憂し、怒ったり絶望したり、警察を信じたり不信に陥ったりと、良く描けている。タイス夫婦の幼い息子達も哀れ。

政界の権力闘争は、それ自体がドラマとして独立できそうなくらい面白い。特に引き込まれたのは、市長のポール・ブレマーの底知れぬ老獪さ。野心溢れ、エネルギッシュなハートマンを様々な方向から執拗に揺さぶる。ある時は相手を懐柔したかと思えば、ある時は徹底的に相手の弱みを針でつつくように責め立てる。ハートマンはこの化け物のような政治家に翻弄されるが、一方で彼も貪欲な野心を持ち、目的の為には、どんな人物も切り捨てる冷酷さを備えていて、ブレマーの好敵手と言える。私はこういう腹の奥底の知れない政治家とか、野心たっぷりの人などを描くドラマや小説にかなり興味がある。特にブレマーのような人には、お近づきにはなりたくないが、ドラマで見るのはとても面白い。

イギリスのクライム・ドラマもそうだが、日本の娯楽ドラマでうんざりさせられるお涙頂戴のセンチメンタリズムがないところも良い。最後、精神的にもずたずたになったサラ・ルンドが警察署を無言で出ていくところがとても印象的。

私は子供の時以来、春、特に3月4月が大嫌いで、毎年憂鬱な気分で過ごすんだが、このドラマを見ている間は気が紛れ、ありがたかった。

(関連記事)2011年5月の記事で、幾つかその頃見ていたドラマについて書いていて、最後にThe Killingにも触れていた。