2014/06/11

『錬金術師』(東京芸術劇場シアターウエスト、2014.6.1)

『錬金術師』 

演劇集団「円」公演
観劇日: 2014.6.1   14:00-16:10
劇場: 東京芸術劇場シアター・ウエスト

演出: 鈴木勝秀
原作: ベン・ジョンソン
翻訳: 安西徹雄
美術: 二村周作
衣装: 西原梨恵
照明: 倉本泰史
音響: 井上正弘


☆☆☆☆☆/ 5

私には珍しく2日続けて観劇。『テンペスト』でかなり落胆したのだが、こっちが後で良かった!日本人でもこれだけ上手く英国ルネサンス劇がやれるんだ、というお手本みたいな舞台。無茶苦茶面白い。始まった途端に、ぐいぐい観客を引き込む橋爪、金田の演技力に仰天。

特に何の工夫もない小さな裸の舞台。劇が始まる前、ふたつのペンキを塗りたくったマネキンみたいな人形が舞台に置いてある。床にも、汚いペンキみたいなものがごてごて塗ってあった。私は、ルオーのドンキホーテの絵のイメージを借りてきたのかな、と想像したがどうだろう。近代初期ロンドンの猥雑なイメージを喚起するのは良かったかもしれない。劇の最初と最後にはこの公演のオリジナルと思われる口上がついていたが、不要な感じがした。特に最後はエピローグがちゃんとあるのに、更にそれに付け加えるような口上があって、しつこくなった。また、途中、インターバルが無くて、その代わりに主演役者を休ませるためだろうか、馬鹿馬鹿しいオリジナルのギャグというか漫才をいれてしまったのだが、知らない人が聞くとあれもジョンソン作と思われては困る。それに、その部分がちっとも面白くない。役者が休むためにはちゃんと休憩時間と取ってくれた方が良かったし、観客としても、結構集中を強いられる舞台なので、15分くらい真ん中で一息つきたい気がした。

ストーリーは細かく追うとかなりややこしいが、詰まるところはこれ: 

ロンドンでペストが大流行。大金持ちラブウィット(Lovewit)は自分の屋敷を執事のジェレミー、別名フェイス隊長 (Jeremy, or Captain Face)に任せて疎開する。その留守宅を存分に利用して、フェイスは、友人のペテン師サトル(Subtle)と売春婦のドル(Dol)とつるんで、次から次へと欲に目の眩んだ信じやすい連中を騙して金銀を巻き上げる。サトルは、錬金術師の博士を装い、今まさに新時代を切り開く真の錬金術を発見する瀬戸際という触れ込み(誰か思い出しません?)。今彼の技術に投資しておけば、それが何十倍かになって返ってくるという。この策にひっかかるのが、代書屋ダッパー(Dapper)だの、たばこ屋のおかみ、ドラッガー(Dragger、原作では男)、また既に金持ちなのに更に財産を増やしたいジェントリーのマンモン(Sir Epicure Mammon、注1)、新興宗教(原作では再洗礼派、Anabaptists)の神父達ホールサム(Wholesome)とアナニアス(Ananias)だの、田舎から出て来たカモの未亡人プライアント(Dame Pliant)と弟のカストリル(Kastril)といった、一癖も二癖もある個性豊かな綿々。これらの面白い輩が短時間の間に忙しく出たり入ったりし、ペテン師トリオは息つく暇もない。最後にはこうしたカモたちが鉢合わせしそうになって、時間と場所を上手くやりくりしつつ騙そうとする手管が面白い。結局、ペテン師3人組の方が、土壇場で、苦労していない奴にまんまと油揚をさらわれてしまうのだが・・・。フェイスやサトルのような小悪党は可愛いもので、大悪党はもっと上の奴ら、というわけだ。

ロンドンの巷にうごめくアクの強い輩は、『カンタベリー物語』の序歌を思わせる。人間の愚かさや欲望のある面を取り上げて誇張した性格付けは、ルネサンス劇において如何に道徳劇の伝統が綿々と息づいているかを証明しているし、そもそも、彼らの名前からして寓意的名前である。

この劇に出てくる職業で、代書屋とあるのは、英語では"clerk"。こういう下っ端の代書屋、事務官、司法書士、を兼ねたような連中が中世末から近代初期のロンドンにはかなりいて、私はとても興味を持っているので、その意味でも面白かった。それから、再洗礼派(anabaptists)のふたり。これはピューリタン急進派の一派(注2)。ピューリタンは演劇の廃止を叫んでいたので、ジョンソンの諷刺の舌鋒もこの二人には特に辛辣だ。また、プライアントとカストリルのようなロンドンに出て来たお上りさんをカモにして一儲けするというのは当時の文学で結構書かれたテーマで、ロバート・グリーンなど幾つかそういう散文を書いている。こういう一種の犯罪ものをエンターテインメントとして劇場で見るというのは、今なら大衆的なクライム・ノベルとかテレビの犯罪ドラマを見るのと似ているかと思う。フェイスやサトルみたいな連中は"cony-catcher"と呼んだようだ。"cony"とはウサギのことだが、日本語で言えばカモ。フォルスタッフと彼の仲間もこの手の連中の一種かな。

何もない舞台で、大変巧みに台詞を言っているだけなんだけど、途轍もなく面白い。円って、新劇臭い、お説教をたれるような「これが正しい演技です」というところが無くて良い。橋爪さんの個性かな。日頃テレビで軽く仕事をこなしているのが、かえってプラスになって、舞台に上がると溜まっているエネルギーを一気に放出して暴れまくるのか。要は緩急、強弱のつけ方と、間の取り方、タイミングなんだろうと思う。それを受ける金田も見事にキャッチボール。この2人が上手いと、他の俳優さんの演技も、橋爪キャプテンと金田似非博士に引きずられるように、見栄えが良くなる。特に、売春婦ドルを演じた朴璐美のすれっからしだが、憎めないところが良い。こんな上手くて素敵な女優があまり有名にもならずにいるなんて勿体ない!イギリス人俳優だったら、もっとエロチックになったところだろうが、日本人がやると可愛いらしい。橋爪、金田に匹敵する名演は、煙草屋のおかみドラッガーの谷川清美。欲深い中年女ぶりが、とても表情豊かで可笑しい。神父ホールサムの伊藤鐘一、アナイアスの戎哲史も役柄にぴったりの演技で印象に残る。

演劇集団円は30年以上前にジョンソンの作品を安西徹雄先生の訳・演出で、橋爪巧も出演して上演している。中谷昇も油がのっていた頃で、出演していたと思う。私は『錬金術師』は見ていないが、大変お世話になっていた大学の恩師に招待して貰って『ヴォルポーネ』を見ている。新宿3丁目あたりの円のスタジオでだったかなあ。この舞台が途轍もなく面白かった。舞台に天蓋付きのベッドがあり、その柱を橋爪さんがよじ登っていた記憶がある。貧乏大学院生だったので、チケット代は恩師が払って下さったと思う。今から思うと、色々お世話になったのに、その後、たまにしか連絡せず、本当に恩知らずな教え子で申し訳ない。またあの頃、既に故人になられたもう一人の恩師からも演劇に連れて行って貰った記憶がある。今演劇が好きなのも、この二先生のご親切のおかげである面も大きい。『ヴォルポーネ』の折は奥様と2人の息子さんも一緒で(当時は多分小学校低学年)、この2人もきゃっきゃとはしゃいでおもしろがっていたから、ジョンソンの戯曲と橋爪さん達は凄い!日本の劇団、劇場は『真夏の夜の夢』とか『リア王』ばかりやらず、たまにはジョンソンもやって欲しい。でも、このスピーディな劇を、タイミングをずらさず一気呵成にやれるのは、生半可な俳優にはできないな。

(注1)Mammonというのは聖書に出てくる悪の根源としての富。更に、物欲の神とか悪魔を表すようになった。

(注2)再洗礼派(Anabaptists)の流れは現代にも続き、その中でもメノナイト(Mennonites)やアーミッシュ(Armish)は良く知られている。メノナイトは広く世界で宣教活動をしており、日本にもかなりの信者がおられるようだ。

『テンペスト』(新国立劇場、2014.5.31)

『テンペスト』 


新国立劇場公演
観劇日: 2014.5.31   13:00-15:30(休憩含む)
劇場: 新国立劇場

演出: 白井晃
原作: ウィリアム・シェイクスピア
翻訳: 松岡和子
美術: 小竹信節
衣装: 勝柴次朗
照明: 井上正弘
音楽: mama!milk

☆☆☆ / 5

色々工夫があるプロダクションだったが、面白くない。新国立劇場はかなり予算もあり、広い人材を集められるから、こちらも期待するのだが、その期待には応えてくれなかった。

ヴィジュアル面で、小道具・大道具は贅沢。工夫は多い。エアリアルは車椅子で入場。障害に加え、足を固定されている感じで、謂わば足かせをはめられて、飛べないエアリアル。プロスペローの奴隷ということだろう。一度エアリエルは、つり上げられて「宙乗り」をするが、歌舞伎、あるいは、「エンジェルズ・イン・アメリカ」を思い出す。キャリバンの方は普通だった。嵐のシーンから舞台を無数の段ボール箱で一杯にし、それを動かしつつ嵐を表現。最初は新鮮だったが、それをそのままずっと舞台に置いて利用。その段ボールの中からは本が取り出され、舞台の脇にも本が積み上げられている。これが「プロスペローの本」というわけだ。最後にはその段ボールと本が片付けられる。大手書店かアマゾンの倉庫みたいな感じ。ヘルメットをかぶった男やエプロンをつけた女がそれらの箱を整理している。薄暗く、舞台裏、という印象。メルヘンチックなのどかな感じが醸し出されるが、それでかえって眠くなる。発想は面白いが、何だか地味過ぎ。箱の数は多すぎるし、色も、例えばピンクやグリーンや群青の箱がステージを一杯にしたら、なんて考えた。

後半、ミランダ達の結婚が近づくと、舞台は一気に明るくなってミラーボールの光が舞うダンスホールに早変わりする。「真夏の夜の夢」みたいだと思った。「テンペスト」って「真夏の夜の夢」に結構似ているな、と再確認。ここでやっと目が覚める思い。それまでずっと眠い。

上演時間が休憩を除くと正味2時間ちょっとくらいだろうか。シェイクスピア作品としてはあまりに短くないだろうか?部分的なシーンのカットではなく、台詞が全体的にかなりカットされていると思う。それで、台詞に含まれるあの素晴らしいシェイクスピアのイメージの世界がちっとも伝わらない。何だかとても言いやすいよう枝葉を取り除かれてしまっているようだ。これがつまらない事の最大の原因と思う。

演技陣、素人の私から見ても上手くない。多くの人が台詞の強弱や緩急に乏しく、やっと台詞を言っている感じを受ける。特に碓井将大のエアリエル、台詞を棒読みしている印象。古谷一行のプロスペローも単調だ。長谷川初範(アントーニオ)や羽場裕一(セバスチャン)などのベテランが脇役で出ていて、あまり目立たないが、活用されていない。若い恋人2人(高野志穂、伊礼彼方)は地味で魅力が乏しい。下手でももっとカリスマのある人を、と思った。キャリバン(河内大和)、トリンキュロー(野間口徹)、ステファノ(桜井章喜)の3バカトリオもまったく笑えない。段ボール箱の山の隙間からかくれんぼみたいに出たり入ったりするんだが、劇の筋を知らない人から見ると、なにやってるの?という感じじゃなかろうか。

俳優は皆、一生懸命やっているし、演出やデザイナーも色々工夫しているのだが、空回りという印象は否めない。やはり、台詞をカットしすぎたのだろう。またカットしないと上手く言えないのかもしれない。シェイクスピアの台詞は四方八方に植物が生い茂り絡まり合ったEnglish gardenが見せるような美しさで、日本語でも経験が非常に大事だと思う。歌舞伎ほどとは言わないが、400年以上前の作品だからたとえ翻訳でやるにしろ、俳優にも一定の訓練と作品への理解が必要だ。演出家自身も、どういう台詞回しをして欲しいか、しっかりしたヴィジョンが必要で、またプロダクション公演でも、それを実際に言えるような俳優を日頃から自分のチームとして集め、自分の考えを浸透させておく必要がある。そう考えると、日本のプロダクション公演で、レベルの高いシェイクスピアを期待するのは本当に難しいと改めて感じた。俳優も演出家も、少なくとも毎年シェイクスピアをやると良いと思うけど・・・。蜷川の場合、脇役にシェイクスピアを繰り返しやってきた俳優を揃えて、若い主役の足りないところを上手く補っているし、また、経験の乏しい俳優もベテランの演技から学びつつ稽古が出来ているだろうと推測するが、今回は上手く行ってないように思う。