2015/09/26

『海辺のカフカ』(埼玉芸術劇場、2015.9.19)

『海辺のカフカ』 
埼玉県芸術文化財団、ホリプロ、TBS 公演
観劇日:2015.9.19   18:30-21:55 (20分の休憩含む)
劇場:埼玉芸術劇場

演出:蜷川幸雄
原作:村上春樹
脚本:フランク・ギャラティー
翻訳:平塚隼介
美術:中越司
照明:服部基
音楽:阿部海太郎

出演:
古畑新之 (カフカ、東京に住む15才の少年)
木場勝巳 (ナカタ、知的障害者)
宮沢りえ (佐伯、図書館長/少女)
藤木直人 (大島、図書館員)
鈴木杏 (さくら、美容師)
柿澤勇人 (カラス [カフカの分身])
高橋努 (星野、トラック運転手)
新川将人(ジョニー・ウオーカーの姿の作家)
鳥山昌克(カーネル・サンダースの姿のポン引き)
土井睦月子(アルバイト売春婦の学生)

☆☆☆☆ / 5

私は日本の小説をほとんど読んでない。中学・高校の頃は、明治以降の小説を結構読んだが、それ以後は滅多に読まなくなった。それで村上春樹の作品も読んでなくて、『海辺のカフカ』についても予備知識がないまま、今回観劇した。そのせいで、シェイクスピアなどの英米演劇と違って、かえって自由に楽しめたかも知れない。見て居る間も楽しかったし、見終わってからも色々想像が膨らむ舞台だ。但、最初の30分くらい、何となく劇の世界に入っていけるまでは、疲れて体調が悪ったせいか、うとうとしてしまい、いまひとつ良く憶えてない。でもその後は最後まで本当に楽しかった。

公式サイトによる物語の紹介は:
主人公の「僕」は、自分の分身ともいえるカラスに導かれて「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意し、15歳の誕生日に父親と共に過ごした家を出る。そして四国で身を寄せた甲村図書館で、司書を務める大島や、幼い頃に自分を置いて家を出た母と思われる女性(佐伯)に巡り会い、父親にかけられた〝呪い〟に向き合うことになる。一方、東京に住む、猫と会話のできる不思議な老人ナカタさんは、近所の迷い猫の捜索を引き受けたことがきっかけで、星野が運転する長距離トラックに乗って四国に向かうことになる。それぞれの物語は、いつしか次第にシンクロし…。
この作品についての常識のようだが、オィディプス・コンプレックスが主要なモチーフになっている。カフカの父、ジョニー・ウォーカーはナカタさんという知的障害者によって殺害される(正しくは、ナカタさんを脅迫して、自分を殺させる)。一方で、カフカはその事件以前に父親のもとから家出して、知り合った美容師のおねえさんと共に、四国へ向かう。殺人犯にさせられたナカタさんも、運転手の星野のトラックに乗せて貰って四国へ。カフカは四国で、大島の助けを得て小さな私設図書館に泊まり込むが、そこで働いていたのが、若い頃に彼を残して家を出ていった彼の母親の佐伯。その佐伯は彼を誘惑してセックスをする。つまり、カフカとナカタさんをひとりの人物の分身のように考えると、「父親を殺して母と交わる」というオィディプス伝説の大枠と一致する。もっとも、ナカタさんは穏やかで心優しい知的障害者なのに、無理に殺人を強いられるし、カフカは佐伯に誘惑されるので、どちらも自分からというわけではない。

私にとっては、この話はまず「巡礼」、英語で言うと”pilgrimage”、と見えた。主人公もナカタさんも東京から四国へと旅をする。四国というとお遍路さんの地、そして、ナカタさんが不思議な石を見つけるのは神社の森。カフカも森の中で戦争の時代を生き続ける逃亡兵に出会う。2人は、四国の森で時間や空間の切れ目に入り込み、異次元空間、所謂「異界」(the other world)に迷い込む。宗教的、神話的要素豊かで、ケルトの巡礼譚を思い出した。ナカタさんは猫と会話が出来るが、動物と人間の交流もまたケルト民話のようだ。ただし、こういう要素は日本の民話でもその他の国の民話でも良く出てくると思う。

この巡礼譚は、同時にカフカの成長物語でもある。父親の影響を超克し、母を通して性を知って大人になっていく男の子の旅物語である。母と交わると言うと、かなりドロドロした感じもするが、広くシンボリックに考えると、男の子が女性を、母という身近な人を通じて、性の相手として意識し始めるというのは、具体的な行為に及ばなくても、不思議なことではない。そうした大人の性の入り口にいるカフカの後見人的役割を果たすのが図書館の職員、大島だが、彼が男女を越えた両性的存在であるのも興味深い。

原作はかなり複雑な小説だと思うが、脚本はその筋書きを上手くまとめていて、比較的分かりやすい舞台になっている。蜷川は、彼らしいビジュアルの要素を最大限に活かした。舞台には、蛍光灯で照明された大小の透明な長方形のコンテナみたいなコンパートメントが次々と現れ、それらが舞台上のもう一つの舞台のように機能する。その四角い透明の空間の中でドラマが進行し、一区切りつくと、中世劇のペイジェント・ワゴンやお祭りの山車のように、力強い黒子達に押されて舞台の外に移動する。それらの流れるような動きは実に見事に、時間の流れと空間の移動を感じさせる。まさに「巡礼」の旅にふさわしい。

観客はまるでお祭りの山車の上で繰り広げられる芸能を見るかのように、現れては去って行く複数の透明コンパートメントの中のドラマをのぞき込む。テレビ・モニターの向こうの世界を見るように。こうした複数のシーンを受け手のひとつの視野の中に並列させるのは、マンガのやり方であり、古くは日本の絵巻物とか、西欧の近代初期までの絵画に良く見られる。最後には、こうしたコンパートメントが消えていって、ひとつの舞台に広がって終わった。

それで思い出したのが、同じく蜷川演出の『ペール・ギュント』(1994)。あれはゲームセンターのゲーム機のスクリーンの中で展開するドラマとして設定されていた。小さなスクリーンの中のドラマが舞台全体に広がり、最後は舞台がゲーム機のスクリーンに収斂されて終わった。今回はその逆だ。カフカが分身のナカタさんと共に、幾つかの小さな物語に加わり、最後にまた、カフカに戻っていく。ちなみに、『ペール・ギュント』も、若者の成長物語であり、一種の巡礼譚とも言えるだろう。

透明コンパートメントの中でも異色なのが、佐伯(宮沢りえ)が体を精一杯縮めて入った小型のチェストほどのもの。この小さなコンパートメントは、山車のような大きなコンパートメントを縫うように、なめらかで自在に動き回る。佐伯は、その透明な箱の中から、舞台の他の人物や出来事ではなく、ひたすら観客を無表情に凝視し続ける、まるでテレビをじっと見ているかのように。観客に、自分達の持つドラマを意識させる異化効果を感じた。大きなコンパートメントは、舞台の中の舞台となって、観客と舞台の距離を広げてしまうが、佐伯が観客を凝視し続けることで、観客も含めた劇場全体がひとつのドラマとして結ばれる効果を産むと感じた。

森のシーンで、木々が植わった透明コンパートメントが動くのを見て、『マクベス』での動くバーナムの森を思い出した。そんなところに蜷川の着想があったかも?

ちょっと歌謡曲調のテーマソング、カラフルな照明やネオンサイン、きれいなんだけど、全体として、いつものウェットであか抜けない蜷川節全開っていう感じだったな。先日会った大先輩が、「私、蜷川、嫌いなの」と言っていたけど、それも分かる。昭和歌謡の世界というか・・・。『海辺のカフカ』も、他の演出家がやってみると、全く違うものになって面白いだろう。ちなみに、この脚本は、元々、シカゴの著名な劇団、Steppenwolf Theatre Companyによる上演のために劇団員フランク・ギャラティーが村上の原作を元に英語で書いたものだ。Steppenwolfの公演は2008-09年だった。興味深いことに、Steppenwolfの公演は、休憩も含めて2時間15分だったとのこと。カットもあったかもしれないが、蜷川版よりも台詞中心の劇だったんだろうと想像する。

カフカを演じる古畑新之は、本当に主人公の年齢くらいだそうで、しかも子役経験もほとんどないみたいだ。当然、台詞は下手だし、明らかなタイミングのずれもあった。しかし、その素朴さこそ、蜷川の意図したことだろう。15歳位の役は難しい。演技慣れした子役だと、こましゃくれた感じで悪い印象を生みかねない。今回のキャスティングは適切だと思う。その他では、ナカタ役の木場勝巳が、いつもながら安心して楽しめる演技。鈴木杏の平々凡々のおねえさんぶりにも好感が持てた。対照的に、細かなところまで絵に描いたような幻想の母を演じ続ける宮沢りえも良い。但、大事なセックスのシーンで下着をつけ、透けたカーテンでオブラートに包んだようにしてしまっては、リアリティーがかなり落ちた。スターだから、仕方ないか。他の俳優もそれぞれ好演していたと思うが、特に鳥山昌克(カーネル・サンダースの姿のポン引き)、土井睦月子(売春婦の学生)は、コミカルな役割で大いに楽しませてくれた。

この夜もカーテンコールが3回もあって、しかも3回目はスタンディング・オベーション。あの熱狂によって、余韻に浸ることもしづらいし、じっくりと考える余韻を失いそうになる。

2015/09/23

『NINAGAWA・マクベス』(シアター・コクーン、2015.9.22)

『NINAGAWA・マクベス』 

主催:ホリプロ
観劇日:2015.9.22   13:30-16:15 (20分の休憩含む)
劇場:Bunkamura シアター・コクーン

演出:蜷川幸雄
原作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:小田島雄志
美術:妹尾河童
照明:吉井澄雄
音楽:甲斐正人
音響:高橋克司
振付:花柳寿楽
衣裳:辻村寿三郎

出演:
市村正親 (マクベス)
田中祐子 (マクベス夫人)
橋本さとし (バンクォー、マクベスの戦友)
砂原健佑(フリーアンス、バンクォーの息子)
瑳川哲朗 (ダンカン王)
柳楽優弥 (マルカム、ダンカン王の長男)
内田健司(ドナルベーン、ダンカン王の次男)
吉田鋼太郎 (マクダフ、バンクォーの家臣)
長内映里香(マクダフ夫人)
沢竜二 (門番)
中村京蔵(魔女1)
神山大和(魔女2)
清家栄一(魔女3)

☆☆☆ / 5

蜷川幸雄を世界的な演出家として知らしめた傑作舞台の再演。もう何度目の再演だろうか。おそらくこれが最後になるのだろう。私は一度も見たことがなく、今回のチケット代は今の私には高価すぎたが、これが最後の機会になるかもと思って出かけることにした。一度も見たことが無いとは言え、写真とか、リビューとか、他人から聞いた感想などで、断片的なイメージは湧く。それに、蜷川はビジュアル的要素や音楽を繰り返し使うので、その公演がビジュアルに依存すればするほど、どこかで見たような?という感覚に陥るのだが、今回、特にそうだった。全体が蜷川ムードで埋め尽くされている:散る桜、赤い満月、エモーションを掻き立てる音楽、スタイライズされた殺陣・・・。仏壇というプロセニアムに囲まれた紙芝居。商業演劇、あるいは大衆演劇的要素がいっぱいで、日本人にとって親しみやすいチャンバラ・シェイクスピアになったとも言えるだろう。特に、市村正親という俳優はそういう芝居が身についていて、サービス精神たっぷりだ。最後のモノローグが多い場面では、劇場全体の注目を一身に惹きつけるカリスマを持つ。体の動きも、計算されているかのように一瞬一瞬が絵になっている。しかし、逆に言えば、パターン化しており、実に田舎くさい大衆演劇の看板役者風とも言える。圧倒的な熱演と見るか、役に溺れた独りよがりの演技と見るかは、個々の観客の好みだろう。彼の問題点は、滑舌がやや悪いこと。台詞が潰れて聞き取りにくい。モノローグで1人で話すところでは、ゆっくりと言うので分かりやすいが、ダイアローグでは聞きづらく、従って台詞が生きない。

田中祐子のマクベス夫人は、充分に悪女の凄みを感じさせ、台詞のキレも良い。柳楽優弥が演ずるマルカムも、台詞は良く聞き取れ、姿も内面も真っ直ぐな王子を好演していて、印象に残る。バンクォー役の橋本さとしも、声がとおり、台詞回しが良かった。問題は吉田鋼太郎のマクダフ。マクダフがやたらと目立つ『マクベス』になってしまったのは、制作や演出側に、人気急上昇の彼を見に来るファンにサービスしようという意図があるからだろうか。上手いんだが、役柄以上に派手で目立ちすぎ。吉田はまた、台詞の末尾を張り上げる癖があるようだが、そういう日頃さほど気にならないことまで気になってしまった。3人の魔女を女形にしたのは面白い工夫だが、その動機とか必然性は、私には不可解。3人のうち、1人は本当に女形の訓練を受けたような印象だったが、他の人(少なくとも1人)は、女形の台詞になってないのも気になった。

極めて人工的なセットは、観客とステージの距離を広げ、まるで映画のスクリーンを見ているような感じを与えかねない。その距離を縮め、観客とステージの仲達をする者として、芝居見物をする2人の老婆をステージの両脇に置いたが、これは蜷川の他のプロダクション(多分、『ペリクリー ズ』)でも使われていた手法。埼玉ゴールド・シアターの年配者を配したことでリアリティーを増して良かった。

市村、田中、吉田、柳楽などの人気俳優の個性と、それを包む蜷川組の豪華なセットが、それぞれ印象的な舞台。『NINAGAWA・マクベス』を体験して良かったとは思うが、全体としては、私には不満が残った、シェイクスピアの台詞の面白さ、奥深さが、ビジュアルやスターの輝きに圧倒されて、心に響いてこなかったからだ。それとも、私の感受性が乏しいからだろうか?

3回のカーテンコールと、最後にはスタンディング・オベーション。あの熱狂ぶり、もう少し押さえられないのかなあ。マクベスの死を静かにかみしめつつ、運命と人生の不思議に思いを巡らす時間と雰囲気を奪われた気分。

2015/09/08

ユージン・オニール『夜への長い旅路』(シアター・トラム、2015.9.7)

『夜への長い旅路』 

企画・制作:梅田芸術劇場
観劇日:2015.9.7   18:30-21:00 (休憩1回)
劇場:シアター・トラム

演出:熊林弘高
原作:ユージン・オニール
翻訳・台本:木内宏昌
美術:島次郎
衣装:原まさみ
照明:笠原俊幸
音響:長野朋美

出演:
益岡徹 (ジェイムズ・ティローン)
麻実れい (メアリー、ジェイズの妻)
田中圭 (ジェイミー、長男)
満島真之介 (エドマンド、次男)

☆☆ / 5

ユージン・オニール(1883ー1953)によるアメリカ演劇史上最高傑作と言われる事もある名作の上演。私は原作を読んでないが、そのまま上演すると5時間はかかるという大作らしい。オニールの自伝的作品で、エドマンドがオニールの分身だそうだ。しかし、亡くなった赤ん坊が名前だけ出て来て、その子はユージーンでもある。

映画やテレビが主流になる前の時代、商業的に成功した舞台俳優だったジェイムズ・ティローンとその一家がジェイムズの妻メアリーの麻薬中毒の問題を中心に苦しむある一日の様子を、朝から夜遅くに到るまでを長々と描く、文字通り「夜への長い旅路」。ジェイムズは人気俳優で、広いアメリカを劇場から劇場へ、旅回りの毎日。妻は、自分の音楽への夢を捨て、旅先の安ホテルで夫の帰りを待つ生活を長く続けていた。ジェイムズは、収入は多いだろうが、吝嗇で家族にはケチなことばかり言う。それなのにいい加減な不動産投資に乗せられて借財を作ったりしており、家屋敷は抵当に入っている。妻は昔、息子のユージーンを失って以来、麻薬中毒に苦しんで、最近まで施設に入院していたが、今は家に戻っている。しかし、家族は彼女が今日にもまた麻薬を始めるのではないかと気が気ではない。一方、長男ジェイミーは酒浸りで、まともな社会人生活を送れておらず、エドマンドは咳ばかりして、結核を疑われており、この日、専門医から正式な診断を告げられることになっている。そうなれば、彼は療養所行きで、その後には死が待っているかも知れない。4人は、それぞれ、昔抱いていた夢が破れていったことを思い出しつつ、互いに今の不幸の責任を押しつけ合い、いがみ合う。時間が経ち、夜になるにつれ、家族の窮地は刻々と深まっていく・・・・。

古典的な三一致の法則(劇の時間と劇中の物語の時間が一致し、1つの場面で行われる形式)をほぼ守る長尺の劇。但、実際は、5時間を越えるテキストそのままの上演は滅多になく、かなりカットせざるを得ないようだ。そこで今回の上演だが、どのくらい時間がかかるのか知らずに見始めたところ、あっという間に休憩時間。その時点で、1時間。そこでロビーの貼り紙を見て、休憩を含め2時間半、正味2時間15分程度の公演と知った。道理で、さっさと話が進む。しつこい会話劇と思ったのにあっさりしたものになっている。謂わば、「夜への短い旅路」。原作を読んでいない私が偉そうなことは言えないが、5時間もある劇を半分以下にカットしてしまって、それで、この作品を上演しました、と胸を張って言えるのだろうか、と思った。カットのせいかどうか分からないが、物語の背景がかなり薄くしか語られない印象だし、ユージーンの死にまつわるメアリーのショックも、いまひとつそのインパクトが伝わってこない気がした。

原作ではコネチカットの海辺のティローン家の屋敷が舞台。今回のステージは、ほぼ何もない、裸の、幅広い廊下みたいな舞台で、奥に扉がある。両側には砂地みたいな場所があり、戸外を示す。モダンな、一種の「何もない空間」で、意図的にこの劇の時代や地域の背景を切り捨てて、ユニバーサルな家族の劇に仕立てようという演出上の意図を感じた。衣装も、麻実れいはドレスだが、益岡徹はしわくちゃのスーツみたいなもの(上はベストだけだったか)、若い2人は現代のカジュアルウェア。ボディータッチが多く、息子達が取っ組み合ったりして、20世紀初頭の人々の振るまいとは思えない。ジェイムズとメアリーの間にある教養とか育ちとか感受性の差なども、あまり伝わらない。もっとそういうことをうかがわせる台詞が沢山あるはずと思った。演技の問題と台詞のカットが重なってか、息子2人の生活感やキャラクターの違い、特にエドマンドの繊細さが感じられない。それでもオニールは面白くて、後半はある程度引き込まれた。しかし、ずっと、「こんなはずじゃない」という気持ちが続いた。

この劇はオニールが自分自身の家族と人生を通じて、今昔のアメリカという国の夢とその挫折の原型を描いている点に、その説得力の源があると思う。夢、成功、欺瞞、嘘、犠牲・・・、そういったものが家族を追い詰めるプロセスが、長い時間見ている間に、観客にじわじわと、真綿で締められるように迫ってきて、最後には、苦しいほどの悲痛な気持ちを与えて終わる。つまり、『セールスマンの死』とか、『欲望という名の電車』同様、アメリカン・ドリームの挫折を描いた傑作と言える。しかし、今回、アメリカ的なものが感じにくいユニバーサルな家族劇にしてしまい、この点はすっかり霞んでしまった。それで得たものはあったのだろうか。

初日だから、台詞や俳優同士のタイミングに多少の問題はあったようだが、これは仕方ないだろう。このブログでも良く書いているように、私も俳優の演技を見る目には、全く自信がない。その上で、若い2人の俳優はものたりないと感じた。田中圭は、アル中の人生破綻者には見えず、荒れてはいても、格好良すぎるお兄さんのままだ。満島真之介は台詞が棒読みみたいに単調なところが時々あったし、重い結核で苦しんでいるには元気に見えすぎる。ジェイムズを演じる益岡徹は、ジェイムズのキャラクターが要求する家長としての権威、力強さ、虚勢が出ていただろうか。そして、麻実れいだが、立ち姿が美しい実に見栄えのする俳優だが、それだけに、麻薬中毒で崩れていく人物としてのリアリティーには決定的に欠けていた。最後は狂ったオフェーリアのような滅びの姿だったが、美しすぎる。

珍しいオニールの作品を上演して貰った事に感謝したいし、一定の満足感はあった。しかし、期待があるだけに、物足りなさも大いに感じた。飽きるぐらい、退屈するくらい、3時間半はやってほしいな。

2015/09/04

Sara Paretsky, “Critical Mass” (2013)

Sara Paretsky, “Critical Mass”

(2013; New York: Hodder & Stoughton, 2014)  465 pages.

☆☆☆☆ / 5

私にとって、ParetskyのV. I. Wawshawski シリーズは、どの作品も楽しめる定番ミステリ。2回読んだ作品もあり、今回も期待を裏切らない。ナチス時代のウィーンで原子力を研究していた科学者達と現代のシカゴのハイテク企業の間にある繋がりは何か、シカゴの女性私立探偵V. I. がいつもの様に全力で、体を張って追及する。

V. I. は親友の医者、Lotty Herschelから行く方不明の麻薬中毒患者(ジャンキー)Judy Binderの捜索依頼を受ける。Judyは消息を絶つ前に、助けを求める必死の電話をV. I. にかけていた。Judyの母親KätheとLottyは、戦前のウィーンで一緒に育った幼なじみ。Judyには息子Martinがおり、コンピューターやセキュリティーを扱うハイテク企業Metargonの研修生だったが、彼もまた消え失せてしまった。Judyに麻薬を売っていた売人Ricky Schalaflyの繋がりから、V. I. が麻薬工場と化していた打ち捨てられた農場に行くと、そこにはカラスに食い荒らされ、腐敗した売人の死体があった。更にそこに残されていた古い写真には、戦前のウィーンにあった放射線化学研究所という原子力研究機関の研究チームが写っていた。そのチームのひとりが、Kätheの母親で、天才的科学者Martina Saginorだった。Lotty、Käthe、Martinaはユダヤ人であったので、ウィーンを脱出し、アメリカに流れ着いた。その過程で、Martinaは才能を搾取され、発明を盗まれてしまう。一方、ウィーンの研究所の同僚達も、ナチスの信奉者だった者も含め、米国の「ペイパークリップ作戦」(The Project Paperclip)と呼ばれる作戦により、アメリカに移民して、立派な研究職を得ており、その中には後のMetargon関係者も含まれていた。Martinaのアメリカでの足取りは全く分かっていなかったが、V. I. は Judy BinderとMartinを捜すうちに、ウィーンの研究所におけるユダヤ人や女性科学者達の搾取と迫害、軍需ハイテク企業やアメリカ政府の国土安全保障省(The Department of Homeland Security)の暗黒部に分け入ることになる・・・・。

ミステリとは言え、リベラルな視点からアメリカの社会問題を扱うParetskyらしい作品。軍事関連のハイテク企業と、通常の法律や個人のプライバシーを国家の安全の名の下にいとも容易く踏みにじる国家安全保障省の闇。それらをたどると、ナチスによるユダヤ人迫害によって破壊された人生や、今昔の科学界の女性差別に行き着く。Project Paperclipは実際に行われた作戦で、このおかげで沢山のドイツの研究者が太平洋戦争の為の武器開発、特に原爆の開発や、その後のロケット開発の為にアメリカに連れてこられた。その中には、おそらく、ナチスの一員として残虐行為に荷担した者もかなり含まれていたのではないか、とParetskyは末尾の「歴史的ノート」に書いている。表題の”Critical Mass”とは、原子力における「臨界量」(核分裂の連鎖反応が持続する核分裂物質の最少質量)のことだそうだ。

V. I. はいつもながらエネルギッシュ。Paretskyはアクション・シーンの書き方が上手くて、息もつかせない。但、戦前のウィーン、戦後のシカゴ、そして今のシカゴと、3つの時代を行きつ戻りつするストーリーを英語で読むのは、かなり集中力を要し、私の読解力や英語力を越えている時もあった。Mr Contreras、Lotty、Max、彼女の愛犬たちなど、いつものV. I. ファミリーとの和やかなシーンが込み入ったプロットや目まぐるしいアクション・シーンを適度に和らげてくれる。全体として、大変満足感ある小説に仕上がっている。

(追記)以上を書いた後で検索して見たら、『セプテンバー・ラプソディー』というタイトルでハヤカワ・ミステリ文庫から和訳が出ていた。和訳が早々に出ているのは結構だし、短期間で翻訳された山本やよいさんにも敬意を表したい。私も、最初にパレツキーを読んだのは翻訳を通してだった。それにしても、出版社の意向だろうけど、このヤワなタイトルには不満。シリアスな社会問題を扱った内容の雰囲気をぶち壊し。女性の探偵だから女性読者が多いだろうと考え、そうなるとハードな社会小説風のタイトルだと売れない、という想定だろうか?だとしたら、パレツキーの女性ファンを馬鹿にしてないか? そもそも、訳本のパステル色の表紙のイラストが本の内容にそぐわないんだけど。英語版とえらい違いだ。

2015/09/02

イプセン『人民の敵』(吉祥寺シアター、2015.8.30)

オフィス・コットーネ公演『人民の敵』 

観劇日:2015.8.30   14:00-17:00
劇場:吉祥寺シアター

演出:森新太郎
原作:ヘンリック・イプセン
翻訳:原千代海
構成・上演台本:フジノサツコ
美術:長田佳代子
照明:奥田賢太
音響:原島正治

出演:
瀬川亮(トマス・ストックマン、湯治場の勤務医)
山本亨 (ベーテル・ストックマン市長、トマスの兄)
松永玲子 (トマスの妻)
有薗芳記 (ホブスタ、新聞「民報」の編集者)
青山勝 (アスラクセン、家主組合の組合長、印刷所オーナー)
塩野谷政幸 (ホルステル、船長)
若松武史 (モルテン・キール、製革工場主、トマスの義父)

☆☆☆☆/ 5

本当に久しぶりの観劇だったが、良い劇を見させていただいた。イプセンの劇でも滅多に上演されない作品で、今回初めて見た。素晴らしい戯曲、公害や民主主義の脆弱さを扱い、19世紀(1882)の作品と思えない先見性を持っている。演出は、近年活躍している森新太郎。

ストックマン医師は、ある田舎町の湯治場に勤める医師。彼は最近、温泉のお湯が製革工場から出る汚水のバクテリアで汚染されていることを発見した。ナイーブな事に、ストックマンは、その発見でで自分は町の人々から英雄視されるに違いないと有頂天になっている。何しろ、優れた科学的な知見により、正しい事をしているのだから。しかし、もちろん、こんな事が公になれば温泉の人気はガタ落ちだし、温泉の配管を改修するために巨額の費用と長い休業を必要とすることになる。ストックマンの兄の市長は何とか発表を押さえようと説得にかかる。市長と政治的には対立していた新聞編集者や家主組合の組合長などは、最初、ストックマンを支援するが、温泉の改修や休業の事を聞いた途端にストックマンと対立。妻でさえ、身重で、これからの生活の事を考えると、夫の正義感に首をかしげる。医師は最後には妻と旧友の船長以外、誰ひとり支援者もなく、孤立していく。

上のようにまとめると、まるで善と悪の人物が対立するような構図だが、トマス・ストックマンは立派な聖人ではない。劇のほとんどでは、彼の行動は子供っぽい名誉欲、功名心にかられてのことであり、正義や真理を純粋に追い求めているわけではない。自分の発見が町にどういう深刻な影響を与え、どんな反響を巻き起こすかまったく予想せずに有頂天になっているあたりは、世間知らずの科学者のステレオタイプで、カリカチュアとも見える。しかし、兄に説教され、ホブスタやアスラクセンに裏切られ、妻にも責められることで、彼は裸にされて、自分の置かれた状況を理解する。彼に最後まで寄り添うのは、悩みつつも夫を支える妻と、友情を体現したような船長の2人のみ。

子供のようなナイーブな主人公が、様々の善悪の人物の誘惑や励ましに翻弄されつつ、自己認識に到る、という筋書きは、『エブリマン』のような中世道徳劇の伝統を思わせる。ストックマンが、悪魔のような市長や義父からの誘惑を退けてあえて人民の敵に甘んじるというのは、謂わば、世俗から離脱し、神の教えに戻ると言えるかも知れない。死を前にして神の元に帰って行く道徳劇の主人公を思い出す。ノルウェー人の作品ではあるが、イプセンはイギリスの道徳劇を知っていたのか、それともノルウェーにそういう劇の伝統があるのだろうか。一方で、ディケンズのような19世紀の小説も含めて、直接の影響関係はなくても、西欧文学全体に、こうした道徳劇的な文学の伝統が綿々として続いているとも言えるだろう。自我の成長とか覚醒を、最も原初的な姿で劇化したのが、道徳劇なのだから。

四角い舞台を観客席が四方から囲むように劇場を使って、心理的に観客を劇に包み込む。イギリスで言うと、Orange Tree Theatreと同じ形。2階席には客を入れず、後半で、集まった市民達が烏合の衆として様々にストックマンに罵声を浴びせかけ、彼を民衆の敵に仕立て上げる。受難劇でキリストを断罪するユダヤ人のようだ。そうした2階の俳優達(市民達)と舞台の俳優に挟まれた、我々実際の観客もまた、烏合の衆の一部と化すという、シェイクスピア上演などではよく使われる仕掛け。舞台には、椅子しかセットはなしで、裸の舞台は、極めて道徳劇風である。

俳優は皆熱演であったが、小劇場にふさわしくない大声を張り上げての演技には、年寄りの私には、耳鳴りがしそうな時もあった。概して、もっと押さえて、緩急、強弱のめりはりをつけた台詞回しができないものだろうかと、ずっと思いながら聞いていた。その中で、市長を演じる山本亨は、役柄や台詞の質によるとは言え、押さえた演技で俳優としての優れた技術を感じさせた。市長とトマスの義父モルテン・キール(若松武史)の演技は、これらのキャラクターのメフィストフェレス的な側面を充分に浮き上がらせた。但、若松はちょっと役をいじりすぎとは思った。ホブスタとアスラクセンのふたりも、かなり面白い皮肉な造形なので、ふたりのベテラン俳優はそれなりに上手く演じてはいたが、もっともっと面白く、ベン・ジョンソンの喜劇の人物のように演じられそうな気がした。ストックマン医師を演じた瀬川亮は、精一杯の頑張りを感じたし、甘いマスクにすねた表情が似合っていたが、フォルテシモの時が多すぎ、まだ成長の余地があるような・・・?

公害が及ぼす危険、それを告発した者を町の経済的利益の為に圧殺する市長、マスコミ、経済界の指導者、そして一般市民達。中世劇と関連づけて書いてしまったが、非常に現代的な作品で、日本の水俣病、新潟水俣病、カネミ油症、原爆病、そして福島原発・・・と繰り返されてきた事件と同じ展開とも言える。告発者が聖人君子とは限らない点も、マスコミが風見鶏のように寝返る点、圧力をかける側は告発者の弱点として、生活の基盤や家族を攻める点なども、大変リアリティー豊か。市長がどこかの政治家にそっくりに見えた観客は多いだろう。

関連する歴史的事実として、ノルウェーでは、1814年に憲法を制定したが、それが定める選挙は、当時、世界でも最も民主的なもののひとつだったとのこと。この時、全ての公職を持つ男性と土地を持つ男性に選挙権が付与された。ノルウェーの場合、多くの農民が土地を所有していたので、選挙権保持者は大変多かったらしい。しかし、全ての成人男性に選挙権が与えられたのは、この劇の書かれた大分後の1898年、そして、女性が選挙権を得て、真の普通選挙となったのは1923年。どちらもイングランドよりは大分早い。いずれにせよ、西欧諸国の中でも特に早くから民主主義国家の骨格が形作られた国だからこそ、「大衆」の愚かしさも認識されていたのだろう。また、民主主義とは言っても、アスラクセンに代表される有産階級が政治を牛耳っており、労働者とか使用人などが出てこないのも、当時のノルウェー社会の限られた民主主義を反映しているのだろうか。以上はこのサイトから