2015/10/26

演劇集団「円」公演『フォースタス』(東京芸術劇場、2015.10.25)

『フォースタス』 

演劇集団「円」公演
観劇日: 2015.10.25   14:00-15:50 (休憩無し)
劇場: 東京芸術劇場 シアター・ウエスト

演出: 鈴木勝秀
原作: クリストファー・マーロー
上演台本:鈴木勝秀
美術: 伊東雅子
衣装: 西原梨恵
照明: 倉本泰史
音響: 井上正弘
制作: 宮本良太、加藤晶子

出演:
井上倫宏(ジョン・フォースタス博士)
乙倉遙 (メフィストフィリス)
藤田宗久 (ローマ法王エードリアン)
高間智子 (ベルゼバブ、他)
横尾香代子 (ルシファー、他)

☆ ☆/ 5

円は、去年同じ東京芸術劇場でベン・ジョンソンの『錬金術師』をやり、多くの観客の喝采を浴びた。演出は今回同様鈴木勝秀だったが、出演者には今回と違い、人気者の橋本功、金田明夫の2人が出ていない。その他、前回特に印象に残っている役者達の名前が見当たらないのが残念。私はこの作品はルネサンス劇の中でも特に好きな劇で、昨年の円のジョンソン作品の面白さもあり、期待して出かけたが、その期待を完全に裏切られ、大いに失望。退屈だった。

そもそも『錬金術師』は円を中心となって支えた安西徹雄先生の翻訳を使っていたが、今回は「翻訳者」の名前がなく、演出の鈴木勝秀が「上演台本」なるものを書いたことになっている。上演時間の短さを見ると、カットも非常に多いのだろう。つまり、翻案と言って良い台本だ。カットに加え、あちこちに現代日本の時事ネタを入れ、また全体を老人ホームに入っている孤独な大学教授フォースタスの話にするなど、台詞も構造も作り替えている。英国ルネッサンス詩劇としてのマーローを味わうつもりなど毛頭ないかのようだ。壊し、作り替える事でしか西欧古典を「消化」できないと思っている一部の演劇人の悪いところが出た気がする。それでも上手く行っていれば文句はないのだが、私から見ると失敗。

但、この失敗に同情すべき点は大いにある。マーローの『フォースタス博士』は上演の難しい作品だ。劇の目ざすところは違っても、この劇の構造は中世道徳劇そのもの。つまり、主人公は悩み、人生の方向を見失った人間であり、それに様々の寓意化された誘惑や悪魔が襲いかかり、現世の欲望の成就と引き替えに、永遠の魂を手に入れようとする。道徳劇であれば最後に悔い改めて神のもとに帰ろうとするのだが、この劇では絶望し、地獄へ落ちる。擬人化された悪徳の概念をどう表現するか、演出家、衣装、そして俳優にとって困難な課題。ひとつのやり方は、現代の物欲や性欲、貪欲と重ねて、現代のシティーとかウオール街といったところにうごめく人間模様を思い起こさせるような場面に重ね合わせることだろう。ロンドンで大ヒットした『エンロン』みたいに。但、そのためには、衣装とかセットや照明などで、かなりの専門的技術と高額な費用が必要になりそうで、今回のような劇団では難しい。もうひとつのやり方は、シンプルな衣装やセットで寓意性を活かし、役者の演技に集中するやり方。円の場合、これしかないだろう。でも、魂の奪い合いを、妙に安っぽくけばけばしい衣装と演技でコメディーにしようとしており、笑えもせず、見ていてしらけた。

この劇の最大の魅力は主人公の魂の彷徨であり、彼とメフィストフィリスとのやり取りにある。この2人が上手く噛み合えば劇は面白くなり、他の役は彼らの引き立て役として機能する。別の劇で言えば、オセローとイアゴーみたいなコンビ。今回、残念ながら、主演の井上倫宏は、充分な苦悩が感じられなかったし、メフィストフィリスの乙倉遙とも噛み合っていなかった。また、『オセロー』の本当の主人公で、劇の核心がイアゴーであるように、メフィストフィリスこそ、この劇の中心、複雑な顔を見せる存在。過去の挫折と嫉妬にさいなまれるイアゴーのように、悪魔メフィストフィリスもまた、人間に神の寵愛を奪われた存在なのだから。しかし、鈴木の演出も、乙倉の演技も、そういう陰影を表現出来たとは思えない。何よりもマーローの台詞の深い読みこみが必要だが、表面のチャラチャラした面白くもない仕掛けに目を取られているうちに劇が終わってしまった感がある。