2015/05/29

展覧会「ボッティチェリとルネサンス」






ボッティチェリとルネサンス:フィレンツェの富と美 
(Bunkamura ザ・ミュージアム、2015.5.26午後)

都心で用事があって、それを済ませた後、標記の展覧会に行って来た。とても楽しく見ることが出来た。親しい友人夫妻から招待券をいただいて出かけた。ご夫妻にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)というと、美術に疎い私でも、「春」(プリマヴェーラ)とか、「ヴィーナスの誕生」などが思い浮かぶ。今回、チラシによると「国内市場最大規模」の展覧会だそうで、かなりの数(17点)の彼の作品が見られた。中でも巨大なフレスコ画「受胎告知」(243 x 555 cm)は大変見応えがあった。但、彼の「工房」の作品となっている絵の中には、素人目にも平面的で深みに欠けるものはあった。

彼の絵に描かれる男女の、私にとっての魅力は、独特の透明感、生きた人間としての生臭さがない美、みたいなもの。そう言うと失礼かも知れないが、もの凄く良く出来た陶器の人形とかロボットを、美しい絵にしたような感じがする。描かれるのは天使とかマリア様だから、むしろ、汗をかいたり、体臭がしたりしそうな人間くささよりも、リアリティーを越えた美しさがふさわしいと思っても許されるかも知れない。特に、どこを見ているか分からないような、透明感溢れる目がきれい。目を伏せていたり、つぶっていたりしても、そのまぶたやまつげに、表現しがたい魅力がある。マリアとか天使の姿勢や表情は、細かいところまでパターン化していると思うので、一種の様式美なのだろうか。しかし、そうしたパターンを使いながら、その制約を生かして、他の平凡な画家とは違う魅力を作り出すところが天才なんだろう。

今回の展覧会が私にとって特に面白かったのは、副題になっている「フィレンツェの富と美」に焦点を当てていることだ。英語のタイトルでは、’Money and Beauty: Botticelli and the Renaissance in Florence’ となっている。ボッティチェリはフィレンツェに生まれ、あの町で成功し、そして亡くなっている。作品の良き顧客であったコジモ(1389-1464)とロレンツォ(1449-92)の2人を中心としたメディチ家の支配するフィレンツェの経済界、政治、国際金融などと関連づけて、彼の作品を展示している。最初の展示室には、当時のフィレンツェの金貨、フィオリーノ金貨、がたくさん並べられていた。そして、1540年頃の絵、マリヌス・ファン・レイメルヴァーレに基づく模写「高利貸し」。これに描かれた金融業者のずる賢そうな表情がとても良い。後のイギリスのホガースの絵のような諷刺画を思いださせると共に、中世の絵画や演劇における寓意的な悪徳(「吝嗇」など)を表す人物のようでもある。更にこの関連で印象に残った絵は、フランチェスコ・ボッティチーニ作「大天使ラファエルとトビアス」(1485年頃)。旧約聖書の「トビト記」で語られる話を絵にしてあるそうで、天使が少年トビアスの手を取って旅立つシーンが描かれている。「トビト記」は、病気の父親が、貸した金の回収のために息子のトビアスを旅に出すが、両親の祈りを聞き入れたラファエルが旅に同行したという話だそうだ。天使が借金取りを保護してくれるという、如何にも金融業者の喜びそうな題材の絵である。前述の「高利貸し」の絵とは違って、ここでは大天使もトビアスも美しい、理想化された姿で描かれている。

ところで、当時、カトリック教会はキリスト教徒に、原則として、利子を目的とする金融業に従事することを禁止していた。そのため、中世においてはユダヤ人がその役割を担ったのは、『ベニスの商人』を見れば良く分かる。一方で、そうは言っても、様々な形で金の貸し借りは行われ、実際上金融業は盛んだったし、メディチ家もそれによって巨万の富を築いたそうだ。彼らが主に用いた手段は、国際金融において為替の差額を利用して利子を取ることだった。メディチ銀行発行の為替手形も展示されていた。ちなみに、15世紀頃のイングランドの宗教裁判所における民事裁判の多くは、借金の支払いに関するものだったというから、可笑しい。

聖母子の絵が何枚かあったが、マリアは、他の画家の絵でもしばしばそうであるように、赤い服の上に濃紺、ないし青のガウンを羽織っている場合が多い。赤い服は当時、奢侈条例で規制され、原則禁止された色だったと展示の説明にあった。但、奢侈条例で贅沢品を規制することで、商業活動を抑えることになり、市政府は困った。そこで、富裕層は罰金を払えばそうした贅沢品も購入出来るという制度が作られた。一種の累進的な消費税であり、現代にも通じる。しかし、金があれば法律を越えて(あるいは新しい法を作って)何でも出来、社会の格差も広がる、というのでは、庶民の間では不満も高まるだろう。

15世紀末になると、フィレンツェではメディチ家が失脚し、フランシスコ会指導者のジオラモ・サヴォナローラ(1452-98)が世の贅沢を糾弾し、禁欲的な信仰に戻るように唱える。彼は民衆に支持されて政治的権力を得、神権政治を行う。修道女プラウティッラ・ネッリによる「聖人としてのジオラモ・サヴォナローラ」(1550年頃)という絵も展示されていた。修道士の装束に身をまとった、如何にも厳格で禁欲的そうな人物の横顔が描かれている。この頃には、ボッティチェリもサヴォナローラに感化されてか、あるいは変化した世間に順応してか、絵も地味なものに変わっていったそうだ。そのサヴォナローラも、教皇から裁判にかけられ、絞首刑の後に火刑にされるという2重の刑罰を受ける。ボッティチェリの晩年も貧しく孤独なものだったらしい。

彼は一生結婚しなかった。ある高貴な既婚女性を一方的に愛し続けた、という伝説もあるそうだし、また、ホモセクシュアル、ないし、バイセクシュアル、という説もある(Wikipedia英語版による)。絵を見ているとホモセクシュアル説にはうなずける。彼の描く人々は、性別を超えた美しさを放っていると感じる。私は、ラファエル、ミケランジェロ、ダヴィンチなどよりも好きだ。彼は死後長らく美術史では忘れ去られた存在だったらしいが、彼の再評価を行ったのはラファエル前派の人達だったとのこと。なるほど、と思った。

展覧会のホームページに色々な解説や絵の画像、そして紹介ビデオがある。

2015/05/23

Jacob Savereyによるオランダの中世劇 (?) の絵とブリューゲル2世の絵

オランダの大学の先生、Johan Oostermanのツィッターを見ていると、中世劇のシーンの画像があった。中世劇の絵は色々な本やウェッブで見ているが、このオランダの画家Jacob Savereyによる中世劇のシーンは今まで見たことがなかった。

ハーグにあるマウリッツハイス美術館(Mauritshuis Museum of Fine Arts)に所蔵されているJacob Saverey, the Elderが1598年頃に書いた絵、「聖セバスチャンのお祭り」(Fair on Saint Sebastian's Day)の一部だそうである。残念ながら、あまり大きくない絵(41.5 x 62 cm)のごく一部なので、かなりぼんやりしている。絵全体はこうなっている

絵の右上のほうに、小さく野外ステージのまわりに集まっている人々が描かれている。もう17世紀に手が届くという時代であるから、「中世劇」とい うより、初期近代演劇、というべきだろうか。民衆演劇は、中世末から近代初期までそれほど変化していないと思うので、呼び方はどちらでもかまわないだろう。

ところで、この関連で有名な絵は、 ピーテル・ブリューゲル2世の「田舎の祭り」。16世紀末から17世紀にかけての時期の絵だ。こちらはパブリック・ドメインにある画像なのでコピーしておく:

真ん中に野外舞台が設えられて、劇が演じられている。そのあたりだけを切り取ると、


カーテンがあり、その裏が楽屋みたいになっている。ステージの背後をカーテンで隠すというアイデア、随分早くから始まったんだな、とちょっと意外。こういう風に後にカーテンを垂らすという慣例から、劇場が出来ると始まる前や終わった後に、前にカーテンを垂らすというアイデアが起こったのだろうか? イングランドでも、『マンカインド』など小さなグループによる劇はこういうステージで上演されたかも知れない。

2015/05/15

BBCの新しいピリオド・ドラマ:"Jonathan Strange and Mr Norrell"

イギリスのBBCテレビで、先日、新しい本格的ピリオド・ドラマが始まりました。19世紀初期を舞台に、科学と産業革命の時代に抗って活躍する魔術師達を描く"Jonathan Strange and Mr Norrell”、全7話。主役のひとり、Mr Norrellには、私の大好きな俳優Eddie Marsan (エディー・マーサン)、もうひとりの主役Jonathan Strange役は、Bertie Carvel。他にサミュエル・ウェストも出演。コスチュームを見るだけで楽しそうです。

物語の枠組は: Mr Norrellはヨークシャーの田舎に住む魔術師。ヨーク大聖堂の石像を動かして見せ、彼の魔術の威力を見せつけます。彼のポテンシャルの大きさを知った召使いのJohn Childermass (演じるのはEnzo Cilenti) は、ロンドンへ行って対仏戦争において、魔術で国を助けるようにと主人を説き伏せ、2人は上京します。一方、ロンドンでは、 若者Jonathan Strangeが、魔術師Vinculus (Paul Kaye) と遭遇します。VinculusはJonathanが大魔術師になる運命にあると吹き込み、Jonathanは魔術師修行を始めました・・・。

ある記事では、この番組は、『ハリー・ポッター』と『虚栄の市(Vanity Fair)』 と『ドクター・フー』を混ぜ合わせたような感じ、と表現しています。歴史的な壮大さ、ファンタジックな面白さ、そして奇想や特撮の魅力、というところでしょうか! 期待が膨らみます。

このYouTube videoの予告篇が雰囲気を伝えています。


エディー・マーサンの声が何とも言えない魅力。たまりません。

BBCの番組サイトは、こちら

2015/05/04

【イギリス映画】『家族の波紋』(Archipelago)2010年制作

連休の夜、先日WOWOWで録画した再放送のイギリス映画を見た。ジョアンナ・ホッグ脚本および監督の2010年のイギリス映画。日本では劇場公開してないらしいが、DVDが今年の夏、発売されることになっている。私個人は、描かれている題材やテーマにそれ程興味が持てず、特に面白いとも感じなかったが、かと言って、退屈もしなかった。とても知的な映画だが、見る人によっては、徹底的に退屈と思うかもしれない。

出演
エドワード (息子):トム・ヒドルストン
パトリシア (母):ケイト・フェイ
シンシア(娘) :リディア・レオナード
クリストファー (画家、絵画教師):クリストファー・ベイカー
ローズ(料理人) :エイミー・ロイド

☆☆☆/5

以下のストーリーは、WOWOWの紹介文より:

裕福な家庭に育った青年エドワードは、ボランティア活動のため1年間アフリカへ旅立つことになった。母パトリシアは息子との別れを惜しむため、シリー諸島にある別荘で旅立ちまでの間を過ごそうと家族を集める。エドワードと姉のシンシア、それに料理人のローズと絵画教師クリストファーが島にやって来るが、父だけが現われない。美しい島で優雅な日々を過ごしながら、家族の間には漠然とした不安が漂い・・・。

という話だが、何も大きな事件は起こらない。家族の間のわだかまりと緊張感を描くのみ。エドワードは、リベラルなミドルクラス。30歳位で、安定した職を捨てて、アフリカのボランティア活動に身を投じようとしているが、実際的で保守的な姉のシンシアはその無鉄砲さが許せず、イライラしている。エドワードの方は、姉が、そして大なり小なり母も、人生の最大の転機を祝福してくれないことに大いに不満だ。そもそも、こうして母や姉が別荘で使用人付きの休暇を用意したこと自体、彼がこれから踏み出そうとしている「清貧の」生活のアンチテーゼであり、無言の圧力と感じている。姉弟の間には、表面では穏やかに言葉を交わしていても、緊張感が漂う。母のパトリシアは、エドワードと暖かい別れのひとときを過ごしたいと、期待に満ちてこの機会を作ったのに、子供達がピリピリしているので、段々憂うつになってくる。父親も来ることになっているようで、時々電話もかかってくるのだが、本人は現れず、パトリシアを一層悩ませる。いつも育児は自分に任せきりだった夫は自分にとって何だったのか、自分が人生を捧げてきた子供の教育は失敗に終わったのか---子供達の争いを通して、パトリシア自身の人生の価値も問われる。

アッパー・ミドルクラスの人らしく、シンシアは使用人を使用人として扱うが、エドワードは、まるで友人のように雇われた料理人のローズを遇し、自ら朝食を出したり、皿を洗ったりするので、シンシアは怒るし、ローズは当惑する。ローズはインテリジェントな女性で、英語もスタンダード・イングリッシュ。料理の「プロフェッショナル」だ。雇われ絵画教師のクリストファーは、母親と息子の相談相手になる。一方、エドワードはボランティア活動に身を投じて、豊かさを捨てようとしている。使用人達の存在は、かってのアッパー・ミドルクラスの家庭におけるものとは大きく違う。外国人の私からすると、イギリスの階級差の変容が感じられ、興味深かった。知性のありそうなローズがどのような気持ちでこの家族を観察しているか、観客にははっきりとは知らされないが、想像を膨らませられる。

シンシアの咎めるような言葉には反駁しつつも、エドワード自身も自分の後先を顧みない進路の変更に、充分には自信が持てない。アフリカに行って、エイズ予防の性教育の為に働こうとしているのだが、それが本当に現地の人々の暮らしに違いを生むような成果を上げられるのか心許なく感じ、絵の家庭教師のクリストファーに悩みを打ち明ける。また、クロエというガールフレンドがいるようだが、1年も離れたままになることも不安である。

原作の題名、"Archipelago"は「群島」という意味。シリー諸島のことも意味するだろうが、家族がひとつひとつの島のように、血縁で結びついていながら深い海で隔てられてもいる、その孤独も指しているのだろう。

コーンウォールの沖合にあるシリー諸島の灰色の風景が非常に美しく、登場人物の心象風景を見事に表現している。繰り返し見て、細部を検討すると、色々な発見がありそうな映画。ただし、映像や語りのテクニックが如何に面白くても、英国アッパー・ミドルクラスの人々の悩みに興味を感じる人は、そう多くはないだろう。限られた観客にのみ訴えかける映画に思えた。

主演のトム・ヒドルストンはコリオレーナスの名演などで、実力を発揮しており、主人公の揺れる心理を上手く表現。他の俳優も難しい役を巧みにこなしている。

2015/05/03

Dick Gaughan, "Workers' Song"

今日5月3日の朝日新聞にイギリスの労働者の「ゼロ時間契約」の記事が出た。雇用主の都合の良い時に都合の良い時間だけ働かせられる契約。ある週には30時間、しかし、別の週には10時間働く、という不規則で不安定な労働を、しかも最低賃金で強いられるイギリスの若者のケースが取り上げられていた。それでもこの人は大学院出である。こういうその日暮らしの不安定な労働をしている人は、イギリスにはとても多い。

日本でもイギリスでも、労働者の権利はここ20年くらいで無惨に踏みにじられ、労働組合もどんどん弱体化してきた。それで、久しぶりに、スコットランドのフォークシンガー、Dick Gaughanのプロテスト・ソング、"Workers' Song”を聞いている。アイルランドやスコットランド、ウェールズなどのケルト系シンガーの中でも、私が特に好きな人だ。


私の乏しいリスニング力では、英語の歌を聴いて歌詞を理解するのはなかなか難しいんだが、幸い、ネットのDick Gaughan自身のサイトに歌詞がある。 この歌はEd Pickfordという人の作だそうだ。

Dick Gaughanは私の最も好きな歌手のひとり。シャープな歌声に加え、彼が歌う歌の内容も素晴らしい。 代表作は、"Handful of Earth"というアルバム。他にも良い歌が沢山。

2015/05/01

西欧文学研究の衰退について(内田樹先生のブログを読んで)

内田樹先生が、能や舞などの稽古事に関連して、ブログで、仏文学研究の衰退の一因について触れているが、英米文学を含む、他の外国文学研究についても同じ事が言えるかも知れない。


高度に専門的な議論に拘泥して、裾野を広げたり、わかりやすい議論をすることを怠ってしまった大学教師達。ふと気がついて足下を見ると、日本に仏文学研究を支えてきた裾野(つまり、フランス文学の愛読者、素人だけど玄人顔負けに関心のある人、仏文学大好きの熱心な学生などか)がなくなってしまっていたと、言われている。一部引用すると、
他の歴史的理由もあるかも知れないが、私は(私をも含めた)専門家たちが「裾野の拡大」のための努力を止めてしまったからではないかと思っている。「脱構築」だとか「ポストモダン」だとか「対象a」だとか、難解な専門用語を操り、俗衆の頭上で玄人同士にだけ通じる内輪話に興じているうちに、気がついたら仏文科には学生がぱたりと来なくなってしまっていた。
欧米文学研究者は、この20-30年の間に、欧米文学の紹介者、啓蒙者から、高度のテクノクラートになっていった。欧米の大学院で学位を取り、欧米の学会で発表し活躍する少数の知的エリートが生き残った。今、仏語や独語、あるいはそうした言語の文学の専門家として大学の専任教員になる人は、当該国で博士号を持っているのが当たり前になった。その一方、内田先生の言う「旦那芸」の延長のような学者は落ちこぼれの能なし扱いされつつあり、絶滅しつつある。全体としては、日本の大学において仏文学の学科はほとんどなくなり、学部の専攻分野として勉強できるところも非常に少なくなった。従って、日本で仏文学の大学院レベルの教育をして、専門家を養成する素地が消えてしまったということ。戦後、いや明治以降、先人が長年かけて築き上げてきた研究と人材育成の伝統が消えつつあるのだろう。寂しいことだ。

時代の変化、高校生の変化、大学というものに対する考え方の世界的な変化、その他色々な理由はある。しかし、内田先生が反省しておられるような点もなかったとは言いがたいと思う。