2016/03/22

【英・アイルランド・仏映画】「ジミー、野を駆ける伝説」(2014)

原題:"Jimmy's Hall"

監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ロビー・ライアン

出演:
バリー・ウォード (ジミー・グラルトン)
フランシス・マギー (モシー、ジミーの親友)
アイリーン・ヘンリー (アリス、ジミーの母)
ウーナ (シモーヌ・カービー、ジミーの昔の恋人)
ステラ (ステラ・マクガール)
ジム・ノートン (シェリダン神父、教区教会の主任司祭)
アンドリュー・スコット (シーマス神父、若い司祭)
ブライアン・F・オバーン (デニス・オキーフ、大地主)
アシュリン・フランシオーシ (マリー・オキーフ)

☆☆☆☆ / 5

2014年の映画で、日本では去年(2015年)の1月に公開された。私は公開前から見たいと思っていたのだが、そのうち行こうと思いつつ上映期間が終わってしまい、見逃した。先日WOWOWで放送され、録画して見た。

物語は1930年代、世界恐慌後のアイルランドにおいて、実際に存在した社会主義の活動家ジェイムズ(ジミー)・グラルトン(James Gralton, 1886-1945)の姿に基づいているそうだが、細部はフィクションだろう。

ジミーは、アイルランドの北部、リートリム州(County Leitrim)の小さな農村で生まれ育ったが、1920年頃、アイルランドの独立戦争に参加し、地域の人望を集めた。その後、彼はアメリカに移住していたが、年老いた母の世話をし、農業を営むために10年ぶりに故郷の村に帰ってきたところで物語は始まる。この当時のアイルランドは、映画からうかがえる限りでは、政府とカトリック教会、そして大地主達が、権力と押しつけのモラルで、貧しい農民達をがんじがらめにしていた。その象徴的な存在が教区教会の司祭、シェリダン神父であり、地主で資本家のデニス・オキーフ。

ジミーは昔の仲間に歓迎され、皆と農作業に励んだりして静かな暮らしを始める。しかし、彼が10年前に様々な社会活動や教育を行っていたささやかなトタン張りの建物(「ジミーのホール」)のことを聞きつけた10代の若者達が、廃屋のようになっているホールを整備し、昔のような活動を再開して欲しい、とジミーにせがむ。もめ事の種を避けて、目立たない暮らしをしようとしていたジミーだったが、再三の願いを断り切れず、皆と力を合わせてホールを再開。詩の朗読、絵画教室、音楽とダンス等々、様々な活動が熱心に行われるようになる。特に、アイルランド特有のダンスのシーンが素晴らしい。

しかし、厳格で禁欲的なモラルを貧しい教区民に押しつけて支配したいシェリダン神父や、共産主義や組合活動を蛇蠍のごとく嫌う地主のオキーフら村の支配階級は、ジミー達の文化活動に実際以上に政治的、階級闘争的な側面を読み込んで、破壊分子として危険視し、何かにつけて抑圧しようとした。折しも、貧しい農家がオキーフから家を取り上げられるという事件が起き、住民と地主が激しく対立する。それを望んでいなかったジミーも、否応なく政治的対立の構図に引き込まれていく・・・。

ケン・ローチの映画は、私にはどれを見ても気に入ることは分かっていたが、これは特にfeel-goodタイプの作品。社会の問題を描きつつも、踊りや音楽とか、若者達の明るさなどで、全体が楽しい雰囲気で溢れていて、非常に楽しめた。幕切れも希望を抱かせる爽やかな終わり方をしている。映画が始まった途端、画面一杯に広がるまぶしい程の緑の景色も印象的。アイルランドらしさを前面に押し出したローチの演出だ。そして、映画の主要な場面を占めるダンスのシーンが圧巻。アイルランドの音楽や踊りと、ジミーがアメリカから持ち帰った黒人の音楽や踊りが混じり合うあたりも、虐げられた者達への共感を芸能を通じて表現したいというローチのメッセージが感じられる。アイルランドの音楽と踊りが堪能出来るだけでも、見る価値がある映画だ。日本における新劇やプロレタリア文学もそうだが、かっては洋の東西を問わず、芸術家や文化人が労働者の中に入っていったり、労働者自身が色々な文化活動を通して自分達を高めようとしたりした運動は各国にあった。イギリスの演劇では、ナショナルで上演された”Pitman Painters”など記憶に残る。ジミー達の活動もそうしたものとしても捉えられるだろう。

私はアイルランド史についてわずかな知識しか無いが、この映画を通してうかがえる限り、警察や地元の資産家とつるんだカトリック教会による精神的、物理的抑圧が凄まじい。ジミーのホールに行く人々を逐一監視して、教会で名前を読み上げてさらし者にしたり、商店主には不買運動を示唆して脅かし、教会では日曜の説教を利用してジミー達の文化活動を悪魔の誘惑のように糾弾する。まるで全体主義の国家のようだ。主任司祭シェリダンを演じたジム・ノートンは大変説得力ある演技で、彼こそまさに悪魔に見えた。彼はジミーが誠実で、誘惑に屈せず、決してひるまない強い精神の持ち主であることを尊敬しつつ、それ故に尚更彼を怖れ、迫害する。大恐慌後、全世界で人々が貧困に打ちひしがれ、独裁者スターリンに率いられたソビエトが革命後の混乱を乗り越えて国力を伸ばしつつあった時代、欧米の資本家や宗教指導者にとっては、共産主義が如何に大きな、そして現実的な脅威であったかが想像出来る。

英領の北アイルランドも含め、アイルランドにおけるカトリック教会、いやプロテスタントも含めてキリスト教諸派の影響力の大きさを再認識させる映画だった。21世紀の今になっても、北アイルランドでは宗派の違いを発端としたテロ事件が止んでいない。また、医療上の特殊な例外を除いて、北でも共和国でも堕胎が非合法で、望まない妊娠をしてしまった多くの女性がイングランドに渡って手術を受けているような国である。

この映画は、左翼社会運動家の視点から歴史上のヒーローを讃美しており、歴史を客観的に描いてはいないだろう。シェリダン神父がジミーの誠実さを認めることや、若いシーマス神父がシェリダン達に反対することなど、多少の陰影はあるが、実際は、農民の側も、支配層も、もっと複雑な動きがあっただろうと推測するが、それを冷静に分析するのはローチが目ざしている仕事ではない。

出演者の中で、私が良く見る俳優と言うと、アンドリュー・スコットくらい。誰も大スターの出ない映画だが、それでも世界中で公開され、満足した観客も多いことだろう。ケン・ローチと彼を支える脚本のポール・ラヴァティやプロデューサーのレベッカ・オブライエンなどのチームに大きな拍手!!

2016/03/16

【イギリス映画】“Suffragette”(サフラジェット)(2015年)

監督:Sarah Gavron
脚本:Abi Morgan
制作:Alison Owen, Faye Ward
音楽:Alexandre Desplat

出演:
Carey Mulligan (Maud Watts)
Helena Bonham Carter (Edith Ellyn)
Anne-Marie Duff (Violet Miller)
Natalie Press (Emily Davidson)
Meryl Streep (Emmeline Pankhurst)
Romola Garai (Alice Haughton)
Brendan Gleeson (Steed)
Ben Whishaw (Sonney Watts)
Samuel West (Benedict)

☆☆☆☆☆ / 5

(まだ日本公開前の映画です。これから見ようと思う人は、以下は読まない方が良いかも知れません。日本公開時のタイトルがどうなるかは知りません。)

イギリスにおける第一次世界大戦直前の女性参政権運動の様子を描いた映画。昨年(2015)の10月にイギリスで封切られた。日本でもおそらく今年か来年あたり公開されることと思う。題名の”Suffragette”は女性参政権運動家を表す言葉。昨年のイギリスでの公開前から是非見たいと思っていたが、日本公開を待ちきれず、アマゾンUKでDVDの予約が可能になったので、予約していたら先日発売になり、送られてきた。

私が期待していた通り、大いに楽しめたし、公平に見ても大変良い映画だと思う。歴史的事実を描きつつも、両性の平等と女性の政治参加を応援する、フェミニズムの視点に立つ映画であり、映画の最後には、各国で女性参政権が獲得された年を示し、例えばサウジアラビアのように未だに女性の政治・社会参加が限られている国々もある中、現在と未来へのメッセージを投げかけてもいる。

イギリスにおける婦人参政権運動の最も有名な指導者、エメリン・パンクハーストや、エプソン競馬場で国王ジョージ5世に直訴しようとして命を落としたエミリー・ディヴィッドソンなど実在した人物も出てくるが、基本的な物語は、架空の人物モード・ワッツという20歳代の若い洗濯婦で一児の母親である女性が、職場の同僚ヴァイオレット・ミラーに誘われて、徐々に主体性を持った運動家に育っていくプロセスを描きながら、1912年から13年にかけての婦人参政権運動を描く、この頃、彼女たちは、政界やマスコミ、そして多くの国民の関心を高めるために、投石、放火などの実力行使に訴えたが、そうした流れを史実にかなり忠実に描いているようだ。

イギリスの婦人参政権運動がパンクハースト家のような上流階級、あるいはミドルクラスだけでなく、モードのような女性を多く巻き込んでいたとしたら、この運動には階級闘争的な面もあったということだろうか。劣悪な洗濯工場で、体を壊したり、怪我をしたり、監督の男性の性暴力に苦しんだりしつつ、日々長時間労働を強いられていたモードやヴァイオレットの様子は、まさに囚人の暮らしであり、20世紀になっても、ディケンズの時代とさして変わらない状況が続いていたことがうかがえる。更に、モードは学校にもろくに行っておらず、十代前半から洗濯婦として働き始めていた。彼女の夫ソニーも同じ工場で働いており、2人には男の子がひとりいて、モードにとっては唯一生きる喜びになっていたが、そうしたささやかな幸福も、彼女が運動に加わることで大きな打撃を被ることになる。また、登場する運動家の中には下院議員の妻アリス・ホートン、妻の運動に理解ある夫と共に薬局を営むイーディスなどもいるが、色々な階級の女性たちが、女性の解放の為に協力して立ち上がっている様子を描こうという意図だろう。下院議員の妻であるアリスでさえ、その自由と体は夫の所有物である。伝わってくるメッセージは、参政権の獲得なくしては、あらゆる階層の女性を隷属状態から解放出来ないということだ。

警察の特殊部隊による活動家のリストアップと監視、警察官による暴力、尋問や懐柔策など、リアリティーがあり、今も昔も、そして洋の東西を問わず変わらないなと思った。70年安保前後の、新左翼の活動家達の経験も思い出した。

私はキャリー・マリガンの舞台や映画、テレビ・ドラマなどを見た記憶がなく、多分これが初めてだと思うが、非常に良い印象を持った。監督や制作者の意図もあると思うが、メークをほとんどつけてない(ように見える)顔で、ワーキングクラスの洗濯婦を自然に演じることが出来ていた。成長する運動家のたくましさも、そして、運動のなかで、妻として、母親として悩む様子も上手く演じていた。それ以外の女優陣も豪華。特に、私にとって主役以上に印象的だったのは、ヴァイオレットを演じたアンヌーマリー・ダフ。舞台で何度か見た女優だが、彼女の台詞と表情の雄弁さにはいつも感心する。ヘレナ・ボナム・カーター、ロモラ・ガライなど、脇役の女優陣も演技達者。カメオで、メリル・ストリープがエメリン・パンクハーストを演じたのも、はまり役だったと思う。

衣装、セット、そしてロンドンの通りの様子など、実に良く出来たピリオド・ドラマになっている。スタッフの熱意と徹底したリサーチがうかがえる。スターを目立たせて彼らの人気で客を集めようとする映画ではなく、飽くまで女性参政権運動家達を描きたいという制作者達の意図が感じられた。そうした作品だからこそ、女優達がより一層輝いて魅力的に見えた。

この映画では、戦闘的な女性参政権運動に焦点を当てているが、これ以外にも、ミリセント・フォーセットに率いられたサフラジスト(Suffragists)と呼ばれる穏健なグループもあり、議会へのロビー活動を通じての政治参加への模索も行われていた。自由党、労働党、労働運動や知識人達との関係など、女性参政権運動にも多様な顔があった。そうした点はこの映画では分からないが、2時間に満たない作品に大局的な視点を求めるのは無理な注文だろう。私も知らないことばかりなので、この映画をきっかけにして、もう少し映画の背景を学んで見たいと思った。先進国の中では、両性の平等に関して極めて保守的で、家父長的であり、「フェミニズム」という言葉がしばしば揶揄される日本においてこそ、特に若い女性達にこの映画を広く見て、考えて欲しいと思う。ちなみに、モードの夫役として、日本人女性にかなり人気のあるらしい(?)ベン・ウィショーも出演。彼が出ているという理由だけでこの映画を見る女性にも、映画のメッセージが心に響くと良いが。

なお、この映画に描かれた時代は第一次世界大戦直前。大戦後、戦争中の女性による社会の多様な職域での活躍が評価されて、1918年には人民代表法 (Representation of the People Act〉が制定され、30歳以上の女性の多く(地位や財産に制限あり)に選挙権が認められ、28年には21歳以上の全ての男女に選挙権が認められるようになった。(なお、この1918年に初めて男子普通選挙権も認められた。それまでは、戸主選挙権であったが、すべての21歳以上の成人男子に認められるようになった。)イギリスにおける女性解放の歴史上、暴力を含む実力行使を行ったサフラジェット達がどれだけの役割を果たしたかは議論が分かれそうだが、それを考える上でもこの映画は見る価値がある。忘れてならないのは、投票などの民主主義の最低限の権利は勿論、平和的なデモでさえも弾圧されていた時代だったということだ。つまり、アパルトヘイト時代の南アフリカにおける黒人達やANCの状況と似ている。そういう状態で、女性たちが延々と平和的手段だけで運動を続けることに意味があったのか疑問であり、実力行使は起こるべくして起こったと言える。

写真は、エメリン・パンクハースト(写真の出典はこちら)。

















[2016年9月14日追記]
この映画、日本公開が決まったようですが、その邦題が『未来を花束にして』。宣伝方針としては、原作の政治色、フェミニズム色を出来るだけ消して、きれいな女優さんたちが、時代の荒波に揉まれつつも、けなげに頑張る昔の女性を演じました、というところでしょうか。日本社会の家父長的な性格を示すなんとも皮肉な題名となりました。

2016/03/09

【イタリア映画】「ローマの教室で—我らの佳き日々—」 (2012年)

監督:ジョゼッペ・ピッチョーニ

出演:
マルゲリータ・ブイ (ジュリアーナ)
リッカルド・スカマルチョ (ジョバンニ)
ロベルト・ヘルリッカ (フィオリート)

☆☆☆☆ / 5

先日WOWOWで放送されたのを録画しておいて見た。気楽に楽しめる学園ドラマ。

ジュリアーナはローマの公立高校の校長。なかなか素敵な先生。彼女の高校へ新しい補助教員のジョバンニが着任する。金八先生みたいに肩に力は入ってない、自然体の若い男性だが、新任なので、それなりにやる気はある。彼を迎えるのはベテランの美術史(そんな授業があるのか、とちょっと驚く)の先生、フィオリート。この先生がまだ定年になってないの?と思うくらいのお爺さん。彼は哲学や文学にも詳しいようで大変なインテリだが、とてもシニカル。やる気のない生徒達に本気で教えても無駄、というような事をしばしばジョバンニに言う。彼自身、生きる希望を無くしているようで、惰性で仕事をしている。しかし、こんな教師だったら、思春期の難しい子供達をコントロールして、授業を成立させることは不可能だと思うんだけどね。

この学校は公立なので、色々と問題を抱えた子もいる。家庭に問題があり、また授業をしばしばさぼってかなり年長の男と付き合っているアンジェラ、母子家庭だが母親が出ていって帰ってこない男の子や、真面目な優等生だけど、自己破壊的なガールフレンドと付き合って大問題を起こす男の子など、色々いる。勉強だけじゃなく、これらの子供の家庭問題とか精神的問題の対応に奔走するジョバンニやジュリアーナの苦労と喜びを描く。

あまりシリアスじゃなく、大人も子供も、皆「まあ、どうにかなるさ」みたいな雰囲気を持ちつつ生きているところが良い。イタリア映画らしさかしらね。そして、かなり散文的で、特にエモーショナルなドラマにするわけでもなく、子供達のエピソードもあまり詳しく説明されないまま終わったりしているところも、かえって自然で良い。

突拍子もない、ピントの外れた老教師フィオリートは、突然大昔の卒業生から電話がかかってきて、大変な敬愛の言葉を受ける。この卒業生が非常に魅力的な大人の女性。2人は師弟のような、でも少しは恋人のような間になる。おかげで、立ち枯れた老木が突然蘇って、生きる喜びを感じ、授業でも熱弁をふるうようになるところが微笑ましい。私のような老人男性からみると、ありえないファンタジーだが、まあファンタジーとして楽しめた(^_^)。

魅力的な校長先生ジュリアーナは、母親に家出され、自分も病気になって入院する男の子を、まるで息子のように世話をする。実の母子のようになっていく2人の様子も心温まる。

アルバイトに出かけて、へとへとになって帰宅した後に見たのだが、とても癒やされた。