2016/04/28

"Skylight" NT Live(「スカイライト」ナショナル・シアター・ライブ)

観劇日:2016.4.27  18:45-21:30 (約20分のインターバル)
劇場:吉祥寺オデオン (録画場所はウエストエンドのウインダムズ劇場)

演出:Stephen Daldry
脚本:David Hare
デザイン:Bob Crowley

出演:
Bill Nighy (Tom Sergeant, an owner of restaurant chain)
Cary Mulligan (Kyra Hollis, a secondary school teacher)
Matthew Beard (Edward Sergeant, Tom’s son)

☆☆☆☆ / 5

先日の「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を大いに楽しんだことに味をしめ、かつディヴィッド・ヘアーは私の大好きな劇作家でもあるので、「スカイライト」にも行ってきたが、期待通り、大満足。もともと、1995年にナショナル・シアターの小劇場、コッテスローで上演され、ウエスト・エンド、そしてブロードウェイにも進出した、実績ある作品だそうだ。今回の再演は2015年。1995年というと、ジョン・メージャー首相(在任:1990-97)の後半、サッチャー主義を引きずりながらも国家の方向が定まらず、次期政権を狙うことになる労働党の勢いが増している時代。20年を経ての再演だが、初演当時の社会や政治状況を強く反映したヘアーらしい作品であるにも関わらず、今回も良い劇評を得、観客にも好評だったようだ。俳優の演技やダルドリーの演出など、プロダクションの質の高さは重要な要因だが、95年のイギリス社会の問題意識が現在も未だに有効であることも一因だろうと思った。

(ストーリー)舞台は全て、中等学校の教師、キーラ・ホリスのうらぶれたワンルーム・アパートで展開する。彼女は貧しい地区にある公立学校の教師。生徒に唾を吐きかけられたり、給食係の女性が生徒に襲われたりと、何かと問題のある学校のようだが、やる気のある生徒のために時間外に補習をするなど理想に燃えて頑張っており、仕事に生きがいを感じている。ある日、彼女のアパートに、以前同居し、また社員としても雇われていた企業経営者トム・サージャントの息子エドワードがやって来る。彼女はサージャント家から突然居なくなったのだが、エドワードは彼女にかなりなついていた。エドワードは母アリスが病気で亡くなったこと、そして残された父トムが大変寂しがっていることをキーラに伝え、父に会いに行って欲しいと言う。その当時、トムとキーラは、アリスに隠れて愛人関係を続けていたのであった。しかし、キーラはエドワードの頼みを断る。エドワードが帰った後、たまたま、今度はトムがやってくる。トムはキーラの貧しい住居やつつましい生活の様子を見、ハードな仕事の事を聞き、彼の家に戻ってきて欲しいと思うが・・・。

と言う風にストーリーを書くと、3人の、そして今はもう亡くなっているアリスを含めると4人の家庭劇ということになる。ボブ・クローリーのセットはリアリティーに溢れ、如何にもロンドンの、ねずみやゴキブリが出そうな安アパート。しかし、実際のところ、不動産価格が企業や外国人資産家の投資の為に高騰しているロンドンでは、教師や看護婦など地味な公的サービスを担う人々は、あまり治安や環境の良くない地区のベッド・シット(bed-sit)と呼ばれる古いワンルーム・アパートにしか住めなくなっている。セットをみて、オズボーンの「怒りを込めてふり返れ」のセットみたいだな、と思ったのは私だけではないだろう。

トムはサッチャーやブレアが強調した起業家精神を体現する人物。なぜ大学をトップの成績で出て、かっては彼の下でビジネスでも才能を大いに発揮したキーラが、この薄汚い地区に住み、最低の給料なのにストレスばかり多い仕事で能力を浪費しているのか、どうしても理解出来ない。彼女がその気になれば、彼と暖かい家庭を作り、彼の下で立派なキャリアを再開することが出来るのに。一方、キーラは、子供達のために全力を傾ける今の仕事に大変大きな意義を感じており、また、サージャント家に居候していた時のバブルみたいな贅沢な生活とは違い、あまり豊かでない庶民の1人として、普通の暮らしをすることに意味を見いだしてもいる。トムも確かにそういうキーラの純粋さに、自分にはないものを見て魅力を感じたのだろうが、しかし今や遠くの世界に暮らして、手が届かなくなってしまった彼女を何とか説得し、2人で豊かな家庭を作ろうとする。キーラは、彼女の理想や暮らしぶりを本当には理解せず、自分から歩み寄ることのないトムとの間に、越えがたい隔たりを感じるのだった。

貧富の激しい格差、庶民がまともな住居に住めないような不動産価格、一部の富裕層の飛び抜けた豊かさ、等々、戯曲が書かれた20年前以上に、今の日本やイギリス、特に東京やロンドンにぴったり当てはまる作品だ。更に着目したのは、作者が、トムの性格に、家父長的な、女性を支配せずにはおれない気質をはっきりと書き込んでいる点だ。家庭においても、仕事でも、自分の下で、自分の計画と価値観に沿って働かせ、配偶者(あるいはパートナー)の人生を支配したいという、多くの悪気のない善良な男達の根本的な差別意識を、ヘアーは明確に浮き彫りにしている。トムはキーラを深く愛し、彼女を幸せにしたいと心から思っている。しかし、自分の価値観に沿った「家庭」という檻の中で暮らす人形であるかぎり、できる限りの幸福や豊かさを女性に保証はするが、それを越えた自立は絶対に認めたくないのが、トムに心底染みついた考え方だろう。やはり女は主人たる夫の所有物なのである。男が女性を大事に処遇し、女は力関係の不平等を受け入れるという、安定的な不平等関係に立って成り立つ幸福をトムはキーラに求める。だからこそ、相手に未練は残っていても、今つきあっている男は居なくても、息子とは大いに意気投合しても、キーラはトムの下へは帰れない。私にとっては、このジェンダーにまつわる問題意識が、この劇でもっとも面白い点だった。

良いことばかりで大きな問題点は何もない公演だが、やはりマリガンとナイという俳優の組み合わせは、ちょっと年齢の差がリアリティーを越えているような・・・。イギリス人女性としてはかなり「かわいい」タイプの顔をしたマリガンと、温厚で知的な老人の風貌を持つナイの愛人としての組み合わせはありそうにない。が、そう思うのは、私が日本人だからかもしれない。イギリスでは日本のようには年齢の差にこだわらないから、観客も違和感ないのかもしれない。また、ガツガツした起業家精神に溢れ、若い女性を愛人にしたトムを演じるには、ナイはどうも育ちの良いジェントルマンの雰囲気を崩し切れていない。おそらく初演のマイケル・ガンボンのほうがその点では良かったのではと想像する。また、ナイもマリガンも上品な雰囲気溢れる俳優なので、脚本における2人のどろどろした腐れ縁が、随分とクリーンなものに見えてはいないだろうか。男女の愛情というよりは、ベテラン経営者と彼の大事に育てた弟子のようでもある。でも、そういう二人で男女関係に陥る場合も結構あると思うし、私個人としては、これはこれでとても説得力があったので、問題なしではあるが。

しかし、ナイは上手い。台詞のタイミングが絶妙。ちょっと間を置いたり、イントネーションにひねりを入れて観客の笑いを誘う。生の劇場公演の録画だから、イギリス人観客の笑いが良く聞こえたが、我々にはそれ程台詞のニュアンスが分からず、あるいは分かっても実感できずに笑うところまで行かないのは残念だが。マリガンと、エドワード役のビアードも達者な演技だった。マリガンは、内面では色々と葛藤がありながら、表面は「涼しい」微笑を浮かべて相手との距離を感じさせるところが印象的。

私はヘアー作品では、イラク戦争の開戦に至る経緯を描く”Stuff Happens”(2004) と、リーマン・ショック以後の経済危機を舞台化した”Power of Yes”(2009) という、時代の全体像をつかもうとするスケールの大きな群像劇を見てきたが、今回は一部屋で繰り広げられる家庭劇で、彼の多彩な才能を実感した。21世紀の今にぴったりのキッチン・シンク・ドラマ。

2016/04/20

“The Curious Incident of the Dog in the Night-Time“ NT Live (「夜中に犬に起こった奇妙な事件」ナショナル・シアター・ライブ)

観劇日:2016.4.19 (171分、休憩1回)
劇場:吉祥寺オデオン

演出:マリアンヌ・エリオット
原作:マーク・ハッドン
脚本:サイモン・スティーブンス
セット:バニー・クリスティー
照明:ポール・コンスタブル
音響:イアン・ディッキンソン
音楽:エイドリアン・サットン
映像:フィン・ロス

出演:
ルーク・トレッダウェイ (クリストファー)
ニコラ・ウォーカー (ジュディ、母親)
ユーナ・スタッブス (ミセス・アレクサンダー、近所の老婦人)
ニーブ・キューザック (シボーン、特殊学級の先生)
ポ−ル・リッター (エド、父親)

☆☆☆☆☆/ 5

NT Liveの映像を通してだけれど、久しぶりにイギリスの舞台を見た。工夫に満ちた舞台で、非常に楽しめた。2012年の制作だが、初演ではオリヴィエ賞など多くの演劇賞を獲得し、2016年の今になってもロンドンではギールグッド劇場でロングランしており、また全世界で NT Liveを通じて上映され続けているのもうなずける傑作だ。

物語は、マーク・ハッドンの小説を原作としており、自閉症スペクトラムの15歳の少年、クリストファーを主人公に、彼の父母、そして特殊学級の先生を中心に描く。

クリストファーは2年前に母親を心臓発作で失い、今は父親と地方の小都市スウィンドンで暮らしている。自閉症で日常の社会生活では色々な困難はあるが、数学では人並み外れた能力を持っている。ある日彼は庭で隣人のシアーズさんの犬が、熊手(干し草かきに使う大きなやつ)で無惨に刺し殺されているのを見つけ、非常にショックを受ける。彼は、その「殺犬」の犯人を捜そうとして近所の家を戸別訪問して話を聞こうとするが、自閉症の彼には到底理解出来ない複雑な事情を聞いて混乱する。犬の死に端を発した彼の冒険は、彼をロンドンへ向かわせるが、旅は困難を極める・・・。

自閉症の少年の心を描きながら、しかし、観客は父や母、先生など健常者の大人の視点も理解しなければいけない。脚本のスティーブンスと演出のエリオットは、そういう2つの視野を絡み合わせつつ、巧みに舞台を構成している。そして、それを実現させたデザイン、照明、音響担当等のスタッフの力も非常に大きい。例えば、クリストファーの書く「本」(実は日記)を彼自身に読ませたり、先生のシボーンに読ませたりして、視点をずらしつつ、彼の内面を照射する。ある意味、デジタルの世界のように整然と構成されているクリストファーの思考形態は、照明による四角い線で格子状に区切られた舞台と、その世界を飛び交う数字や記号で表される。一方、父母など、彼のまわりの人間達の心や行動はあまりにもぐちゃぐちゃで、クリストファーには到底、シャーローク・ホームズのようにはきれいに解読できない。キャパシティーを越えてあふれ出す情報を前にして、クリストファーは混乱し、パニックを起こす。

障害を持った人を健常者の子供と比べるのは不正確とは思うが、見終わった後、私は自分の子供の頃の気持ちを思いだした。大人の言っている言葉が分からない、彼らの言う正しい事、間違った事、しなければならない、してはならない事の意味が分からない、そういう気持ち。大人の世界が無限の謎解きパズルのようで、不思議なことばかりだった。喜ばれると思ったことが大人を困らせたり、いけないことと思ったのに褒められたり。そして、同じ日本語なのに、大人同士の会話は、何が何だか分からなくて、暗号が飛び交う空間のようだった。

常々感じていることだけど、人と人を結びつける感情のコード、言語とかジェスチャーとかそれらのタイミングとか組み合わせとか強弱とか、そういうものは、人それぞれ違っていて、誰が正しいとか、何が正常とか言いがたい。ただし、大多数の人々を結びつけるコードの共通項によって世界は動いているので、そういうマジョリティーのコードとは違ったシステムを持っている人は、この大人の世界では上手く機能できない。子供達もそうだが、自閉症スペクトラムの人達も、ダウン症の人達もそうだ。でも彼らは彼らの世界においては首尾一貫して機能しているとも言える。それどころか、クリストファーのように、通常のコードで動く人々には理解出来ない世界を持っていたりするのだろう。クリストファーが数学に取り組んだり、天空を見上げたりするとき、彼の想像力は私達の思いもよらないパラレル・ワールドで無限大にはじけ、私達には見えない世界を見ている。クリストファーのように、整然とした世界で上手く機能し、それを越えるとパンクするというある意味分かりやすい宇宙に生きている人と視線を重ねて見ると、彼の父母やシアーズ夫妻のような人々は何と不完全で混乱していることか。劇を見終わる頃には、彼らこそ、不可解な衝動にがんじがらめの、救いようのない「障害者」に見えてきたから不思議だ。

クリストファーを演じたルーク・トレッダウェイは、15歳の少年にしては歳取りすぎて見えるが、これは映像によるクローズアップで見た為もあり、舞台ではそう目立たないだろうと思う。それ以外は完璧。自閉症の少年になりきった演技は入念な準備を要したことだろう。彼の細部まで行き届いた演技は、映画「博士と彼女のセオリー」でALS患者となったホーキンズ博士を演じたエディー・レドメインを彷彿とさせた。母親を演じたニコラ・ウォーカー、父親役のポール・リッターもクリストファーに振り回される大人を上手に、陰影を感じさせつつ演じている。そして、クリストファーの世界と大人達の世界の仲立ちをし、少し離れたり、内側に入ったりしつつクリストファーを見続けるシボーン先生の役柄と、それを演じたニーブ・キューザックが大変印象的だ。

普通の映画を見るよりは大分高価だが(3000円)、十二分にお釣りの来る満足感を得られた。私は社会の問題を描く劇や、シェイクスピアやイプセンなどの西洋古典が好きなので、この劇にはあまり期待せずに出かけたが、予想が良い意味で完全にはずれて良かった。