2016/07/22

BBCのドラマ、”Rev.”と、ショアディッチの聖レナード教会

イギリスに居た頃とても楽しく見ていたコメディ・ドラマ、BBCの "Rev."、シリーズ1~3を英語版のDVDで購入して、見始めた。私の好きなイギリスがいっぱいで、たまらない。主役のトム・ホランダーが上手い!奥さん役のオリヴィア・コールマンが魅力的。そしてサイモン・マクバーニーをはじめとする芸達者な脇役陣が豪華で、素晴らしいアンサンブル。英語はアクセントが難しいので、英語字幕を一生懸命追いながら、何とか理解している(^_^)。問題だらけだけど人情あふれる下町のロンドンの多民族社会を、お人好しで寂しがり屋の教区司祭の日常を通して描いている。なお、”Rev.” は”Reverend”の省略で、聖職者の敬称。「・・・師」といった言葉。

BBCの”Rev.”のサイト。クリップは国外では見られません。

このDVDにはドラマ以外にも、俳優や演出家、脚本家へのインタビューなど付録のビデオが色々ついている。その付録のひとつで、ドラマのロケ地として使われている教会を、教区司祭が自ら紹介したクリップがあった。

この教会は、ロンドンの北東部、ショアディッチ(Shoredich)にある聖レナード教会(St. Leonard’s)。電車だと、地上を走るロンドン・オーヴァーグラウンドの Shoredich High Street 駅から北に少し歩いたところにあるようだ。ドラマの設定同様、イーストエンドの下町にある教会。アングロ・サクソン時代からおそらくここに教会があったであろうと推測されているが、ノルマン人によって壊されて新しい教会が建てられたらしい。それが12世紀。しかし、その後も改築を繰り返し、結局、18世紀に大きく破損したのを機に全く新しく建て替えられた。20世紀末にも老朽化が進み、1990年に大幅な改築がなされて今に至っているそうだ。ドラマで見ると、教区教会としてはかなり大きくて立派な建物で、素晴らしいパイプオルガンがある。

さて、何故わざわざこの教会の事を書くことにしたかというと、ここにイングランドのルネサンス演劇の中心人物のひとり、ジェイムズ・バーベッジ(James Burbage}とその息子リチャード(Richard Burbage)が埋葬されているから。前回のブログでも書いたように、そもそも、ショアディッチというのは最初の常設商業劇場、シアター座(The Theater)と、その後すぐ出来たカーテン座(The Curtain)の在った地区でもあり、バーベッジ一家ゆかりの地なのである。ビデオによると、お墓は教会の地下の墓所にあり、特別に開けてもらわないと見られないらしい。この地下の墓所は、戦時中は防空壕としても使用されたそうである。地下はどうかわからないが、予め問い合わせすれば、司祭さん(Revd. Paul Turp)が自ら教会の案内をしてくださるとのこと。

更に、ここに埋葬されている重要人物として、エリザベス朝の喜劇役者、リチャード・タールトン(Richard Tarleton)がいる。彼は当時ナンバー・ワンの人気役者と言っても良い人で、エリザベス女王のお気に入りだったそうであり、また、劇団、女王一座(Queen’s Men)の中心人物のひとりでもあった。才能豊かで、バラッドやパンフレットも執筆していて、現存してはいないが劇も書いている。

私も、ロンドンにまた行くことがあったら、訪れてみたい教会。教会のホームページ。メニューの”History”のところに教会の歴史が詳しく書いてあります。

2016/07/12

ルネサンス劇場、カーテン座の発掘

今年の前半が終わったが、この間、私が一番興奮したニュースは、多分カーテン座(The Curtain)の発掘だろう。この劇場は、シェイクスピアの活躍した時代にロンドンにあった屋根のない大型商業劇場(パブリック・プレイハウス)のひとつ。1577年にオープンし、1624年まで使われており、シェイクスピアの属していた宮内大臣一座も使っているので、シェイクスピア作品も多く上演されたと見られ、『ロミオとジュリエット』や『ヘンリー5世』などは明らかにカーテン座でも上演されたそうである。

この劇場はロンドンの旧市街から北東方向の郊外、ショアディッチにあった。ほとんどの他の劇場同様、城壁の外に建てられ、近くには、最初の演劇専用商業劇場であるシアター座(The Theater、1576-96年)もあった。カーテン座の場所は長らく分からなかったようだが、2012年の6月、ロンドン博物館の考古学部門(MOLA)によりその場所が確定され、それ以来発掘が続いていたようである。私も発掘に関して、このブログで以前にも触れている
 
ルネサンス期ロンドンの劇場の場所、シアター座とカーテン座は地図の右上
(Wikipediaより)


発掘が続いているこの地域は、The Stage という名称の総合的な開発地域で、やがて高級アパート、ショッピング街、そして新しい劇場やカーテン座の展示場を含む商業地域となるらしい。

さて、今回の発掘でもっとも衝撃的だった新事実は、これまでカーテン座もグローブやローズ同様、円筒に近い多角形の劇場と推測されており、それを裏付ける当時の絵もあるのだが、発掘してみると、実は長方形であることが分かったのである。シェイクスピアの時代の劇場のうち、屋根がないタイプの大型野外劇場(「パブリック・プレイハウス」と呼ばれる)には次の様な施設がある。年号は開場した年:

シアター座 (The Theater 1576)多角形/円形
カーテン座 (The Curtain 1577)  長方形
ローズ座 (The Rose 1587 ) 多角形/円形(但、改築した後は長方形に近い)
白鳥座 (The Swan 1595 ) 多角形/円形
グローブ座 (The Globe 1599 ) 多角形/円形
フォーチュン座 (The Fortune 1600 ) 長方形
ホープ座 (The Hope 1614 ) 多角形/円形

これまでは、例外的にフォーチュン座が長方形で、その他は基本的に円筒に近い多角形の建物で、カーテン座もその1つだと思われてきた:
 
当時の絵にあるカーテン座(多角形状の建物)(Wikipediaより)


しかし、今回の発掘により、長方形タイプが複数在ったことが分かり、改築後のローズも入れると、3つとなる。イングランドのルネサンス劇場は、基本的に円形で張り出し舞台、という従来からのパターンでは考えられなくなったように思う。また、カーテン座は元々借家の連なりを劇場に改築した建物で、劇場としての使用を終えた後は、また借家にもどされたようだ。ガーディアンの記事を引用すると、’a conversion of an earlier tenement – essentially a block of flats – and was later converted back into a tenement again’ ということだ。考えようによっては、新しくゼロから建築された劇場は円筒形になり、そうでない建物は宿屋劇場(inn-theatres)を含め、長方形になると言う事だろうか。

発掘では、最高で1.5メートル位のレンガを積んだ劇場の壁が発見されており、また、立ち見の観客がいた平土間(pit)の部分は砂利が敷かれているとのこと。他の発掘物としては、陶磁器で出来ている、上演で使われたかも知れない笛の破片、骨で出来た櫛、鉛の代用コイン(飲み物の引換券かも知れないという)、そして財布の金具などがあるそうだ。

なお、カーテン座の「カーテン」は、現代の劇場で使われるようなカーテンから来ている名前ではなく、劇場のそばを通っていた通りの名前、カーテン通り(Curtain Road)に由来するそうだ。更に、この名前は、中世にあった修道院の外壁(これを ‘curtain wall’ と言う)から取られている。

詳しくは、ガーディアン紙の記事を参照。

2016/07/09

異端審問の時代ー15世紀のイギリスと今の日本

勉強しているうちに副産物として出て来た考えを以下に書いてみました。

チョーサーが、代表作『カンタベリー物語』の巡礼のひとりとして描く教区司祭は、聖書の教えに忠実な生き方をして、まるでキリストが中世のイギリスに蘇ったような清貧の、気高い聖職者。しかし「どうもあの人、時代遅れでついていけないね」、とまわりから思われているふしがある。バースから来た男好きの女房も、字も読めないはずだが、多分男達からの耳学問のおかげか、聖書の内容を良く知っている。彼女は、教会の禁欲的な教えに対して、聖書の知識を振りかざして「聖書のどこにそんなことが書いてあるの」と反発する。男達からは「聖書、聖書と、うるさい女だ」、と煙たがられていることだろう。この2人は、一方は超真面目人間で、他方は人生享楽型だが、意外と似ているところもあって、それは2人とも聖書に重きを置いている点と、世間、特に教会の主流派、が押しつける生き方に楯突いている点。だから、後世の学者からは、彼らは隠れたウィクリフ派(異端派)と解釈されることもある。

チョーサーが『カンタベリー物語』を書いた14世紀末頃は、こういう人物は、多少眉をひそめられることはあっても、特に官憲から咎められたりすることもなかっただろう。しかし15世紀になり、1401年に、教会と世俗権力が協力して異端を死刑にできる法律(De Heretico Comburendo)ができ、1408年にはアランデル大司教の教会令(Constitutions)という細かな異端禁令が発布されるに及び、あれよあれよと言う間に異端取り締まりが激化。かなりの人が逮捕、審問、そして処罰され、残酷な火あぶりの刑になる人もあった。同時に、正当派か異端派かがはっきりと色分けされ、ウィクリフ派でなくても、新しい信仰の形を模索したり、教会の改革を唱える者は異端というレッテルを貼られかねない危険な時代になる。高位聖職者や正統派の知識人と見なされていた人たちまで、異端の疑いをかけられる。例えば、セント・アサフやチチェスターの司教を歴任したレジナルド・ピコックは、多くの論文を発表した知識人でもあったが、ウィクリフ派を批判しつつも理性的な論理を強調し、教会権力への恭順を軽んじたことが異端の疑いを招いて解任された。同時代の人々にカルト的な人気を集めた女性神秘主義者マージェリー・ケンプは異端審問にかけられた。マージェリー・ケンプはバースの女房に血肉を与えたような人物であったから、バースの女房が15世紀に生きていたら、彼女も異端審問にかけられたかも知れない。また、ラテン語の出来ない庶民が聖書を直接理解できるようにしたいとラテン語の聖書を英語に訳すことは犯罪行為と見なされ、英訳聖書の所持は異端の確固たる証拠とされた。英訳聖書に限らず、英語の書物を所持しているだけで、疑いの目で見られることもあった。そのような弾圧が進む中、1413年、異端派の大物で、百年戦争の英雄でもあった騎士オールドカースルと配下の者たちによる反乱が勃発。この乱が厳しく鎮圧された後は、異端派(ウィクリフ派)は、天草の乱の後のキリシタンのように、ひたすら地下に潜行し、隠れて禁書である英訳聖書を学びつつ、細々と15世紀を生きのびることになる。文学でもチョーサーやガワー、ラングランドなどが排出した14世紀は、知的に大変ダイナミックな時代だった。しかし、異端派の弾圧と共に、15世紀の知識人は言動に気をつけ、当局の意向を伺いつつ生きることになった。

不勉強にて、この流れを今更ながら復習しているんだけど、私はつい、上の「聖書」を「憲法」に置き換えて考えてしまった。今この時、2016年の日本で、憲法を守りたい、憲法に沿って生きていたい、と思う人々が徐々に少数派で異端派と見なされるようになり、多数派とくっきり色分けされつつある気がする。学校で「平和教育」をする教師が咎められたり、自治体などが管理する公共施設に集まって戦争や平和について学ぶ集会を開こうとする人々が、会場使用を断られたりすることが報道されている。「平和」と戦後「憲法」が徐々に、学び守るべき正統から、排除すべき異端へと押しやられつつあるのではないだろうか。

中世イギリスのウィクリフ派の場合、14世紀末の王、リチャード2世の周辺には、程度の差こそあれ、かなりの数の賛同者や庇護者がいた。リチャード王の即位の頃、最も強力な権力者だった前王エドワードの息子、ジョン・オブ・ゴーントはウィクリフ個人を保護したし、リチャード王の側近には何人も「ロラード・ナイト」と呼ばれるウィクリフ派がいた。ウィクリフが教師をしていたオックスフォード大学には、ウィクリフに共感する知識人も多く、当初は教会権力に抵抗してウィクリフを庇った。ウィクリフ自身もロンドンなどの教区教会を使って説教をしたとされる。しかし、リチャードが失墜して、1399年に王位簒奪者ヘンリー・ボリングブルック(ヘンリー4世)に取って代わられた頃から時代の流れは速度を増し、情勢は一転する。大司教など教会指導者と世俗権力が手を結み、前述のような立法処置を経て、州長官や治安判事など世俗の権力も利用してウィクリフ派を探し出し、審問にかけ始める。

さて、今の日本だが、このあと20年、30年経ったときに、第2次大戦後に出来た平和憲法は、15世紀の英語訳聖書のように、異端の書と言われるようになるのだろうか。国民は国体の司祭たる自民党政府の教えだけを守り、許可無くしては、もう廃止され、禁書となってしまった「平和憲法」に触れられないかもしれない。その時には、教区司祭やバースの女房のような生き方や言動は許されるのだろうか。