2016/05/15

【講演】 片山幹生、杉山博昭先生のフランス中世劇とフィレンツェの聖史劇についての講演

西洋比較演劇研究会 5月14日(土)14時〜18時15分 成城大学

1. 片山幹生「中世フランス演劇とは何か?
  ― フランス演劇史における中世の位置づけとその可能性について」

2. 杉山博昭「聖史劇の宗教画、宗教画の聖史劇
  ― ルネサンス期イタリアの眼差しが媒介する照応関係」

西洋比較演劇研究会で中世演劇、聖史劇関連の発表というか、講演が2件あると聞いて、聴講してきた。片山先生については、「中世フランス演劇史のまとめ」というブログ形式の、極めて学問的な演劇史を書いておられて、以前から参考にさせていただいている。このブログでも以前取り上げた。杉山先生は、2月に早稲田大学で、「観客発信メディアWL」主催の講演をお聞きし、このブログでもその時の感想を書いた。従って、二人とも私にはある程度馴染みのあるお名前である。

さて、今回の公演は、最初の片山先生が古代ローマの末期以降、典礼劇の時代、13世紀の都市演劇、15-16世紀の聖史劇や世俗劇など、大変バラエティーに富むフランス演劇を概観する講演、そして杉山先生は、2月の講演で扱われたように、15世紀フィレンツェの美術作品と聖史劇の関係を主に話された。当日の様子を知ろうと検索エンジンなどで来られる方もいるかもしれないが、ここは個人的なブログなので、以下はバランスの取れたレポートと言うより私の私的感想であり、備忘録として、参考になった点、特に興味を引かれた点、そして残された疑問などをメモしておきたい。

片山幹生先生の講演だが、概説なのでここでは細かい内容紹介は省くとして、全体として感じたのは、現存するフランス中世演劇のテキストの多様さ、豊かさだ。英語の中世演劇のテキストというと聖史劇の4大サイクル、『エブリマン』や『堅忍の城』など、道徳劇が数本が主なもの。その他は、Digby写本の『マグダラのマリア』他のわずか2,3作の聖人劇、Brome写本の『アブラハムとイサク』などの幾つかの単独の劇、コベントリーやノリッジの聖史劇のサイクルの一部など、西欧の主要な言語に比べるとおそらくかなり少ない。フランス語では、その点、うんざりするほど長い、多数の聖史劇(ミステール)や道徳劇(モラリテ)をはじめ、阿呆劇(ソティ)、笑劇(ファルス)といったイングランドでは殆ど見られないジャンルの数多くの劇もある。私も若い頃、現存テキストの少ないイングランドの中世劇と比べて、フランスの中世劇研究者を大変羨ましく思ったくらいだ。しかし、現存作品の多さ故の苦労もあるだろう。テキスト研究も殆どされていない作品が多いようだし、ましてや、細かい上演記録の掘り起こしは、まだまだ先が長いという状況ではないかと推察する。長大な作品が幾つもあるとは知っていたが、シモン・グレバンという作家の『使徒行伝の聖史劇』など、6万2千行くらいだそうである。古仏語の長編叙事詩『ロランの歌』が約4千行、古英語の同じく長編叙事詩『ベーオウルフ』は3千行少し、と比べるともの凄い長さと分かる。残ったテキストの乏しいブリテン島の劇の場合、英米の多くの研究者達は上演にまつわる資料の発掘に力を注いできた。中世演劇の最初から、清教徒革命の始まる前、つまりシェイクスピア時代のロンドンも含めて、膨大な上演関連資料が、『英国初期演劇資料集』(The Records of Early English Drama, 略称REED)にまとめられつつある。大冊の本が既に30巻以上出版されており、更に順次インターネット上でも公開されつつある。フランスの上演資料も色々個別には出版されていると思うが、まだまだ写本のまま埋もれた資料が多いのではなかろうか。

片山先生は、ラテン語典礼劇についてもかなり触れて下さった。1960年代くらいまでは、典礼劇は英仏独語などの近代語劇を用意したものという進化論的な考えが強かったが、現在では、「演劇的な典礼」とも言える全く別のジャンルとして、14,15世紀まで生き延びたことを片山先生も確認されていた。典礼劇が終わっていく1つのきっかけは、1545年から63年まで繰り返し開催されたカトリック教会のトリエント公会議において、典礼のトロウプスを禁ずるという決定が成されたことがきっかけだとか。最盛期以降、典礼劇がどのような流れをたどったか、私も知らないので参考になったし、今後詳しく学ぶ必要があると思った。ちなみにこの講演以外の話だが、どこかで読んだが(記憶は定かでない)、戦国時代から安土桃山時代、日本にやって来た宣教師によって多くのラテン語の祈り(オラシォ)が伝えられたが、その中には演劇形式のものもあったとか。ラテン典礼劇が日本にも伝わっていたのだろうか。

ラテン語の典礼劇については、近代語劇と基本的にまったく別のジャンルの芸術であり、そもそも演劇的な形をした「典礼」の一種であるという考えに基本的に賛成ではあるが、私はその考え方が近年強くなりすぎているのでないかとも思う。例えばラテン語の劇でも、ボーヴェ大聖堂の『ダニエル劇』とか、『聖パウロの改宗』のような聖者劇、ベネディクトボイアルンの受難劇など、大規模で、「客」とは呼べないにしても、充分に「観衆」を意識し、また作品によってはおそらく地元の人々の上演への協力や参加も考えられる劇もあり、ラテン語にかなり近代語が混じって使われている場合もある。これらは、12世紀のフランス語劇の『アダム劇』と同様に、一般的なラテン典礼劇とは別に考える必要がありそうだ。つまり、やはり典礼劇とは別に、あるいはそれから発展して、教会を上演場所とし、儀式を越えた、観衆のための「見せる」演劇の発達があったというべきではないだろうか。但、それらが、14,15世紀の聖史劇や道徳劇の誕生に繋がったかというと、それはまったく別の問題だが。フランスの都市アラスで13世紀に、一気に高度な演劇文化が開花したように、その前に発展を準備する下地が乏しくても、条件が整えば高度な演劇が短期間で開花する場合があり、12世紀の西欧に幾つかそのような演劇の盛んな大聖堂のコミュニティーがあったのではないだろうか。アラスの演劇については、杉山先生は今回簡単に触れられただけだが、大変詳しいようなので、次の機会にはお話しを聞きたいものだ。発祥から、様々なジャンル、そして現代への影響まで、中世劇全般に関する片山先生の広範な知識がうかがえる講演だった。その点で、私の勉強をふり返ると、自分の興味あるテーマだけは細かく掘り下げていても、イギリス中世劇のその他の部分については知らない事だらけで、フランスと違って作品は少ないのに、ろくに読んでないものさえある。これまでついつい趣味的な勉強に終始してしまいがち。少なくとももっとこのジャンル全体への目配りもしなくては、と反省させられた。

最後に片山先生は、現代文学や演劇における中世劇の影響について、ガブリエレ・ダヌンツィオの『聖セバスチャンの殉教』、ポール・クローデルやダリオ・フォの作品にも少し触れられた。これらの作家作品については私は全く読んだこともなく無知であるが、そういう視点で研究することも出来るのか、と教えられた。それぞれの作家作品における中世劇の影響について、詳しい講演などあると良いな。

後半の杉山博昭先生による、15世紀フィレンツェの聖史劇の話は2月の講演と重なる部分が大分あったので、全体的な内容については、そちらもご覧下されば幸いです。

杉山先生の講演タイトルが示すように、フィレンツェの聖史劇は15世紀イタリア、ボッティチェリの同時代に栄え、「ルネサンス劇」の一部と言う事になる。聖史劇というと英仏独など、他の言語の文化では「中世劇」に分類されているが、当時のヨーロッパの先進国イタリアではルネサンス花盛りの時期である。この中世とルネサンス、あるいは近代初期の文化や文学における時代区分は難しく、かつ重要な問題で、現在も英米の学会でも盛んに議論がされているようだ。今回も公演後、聴衆からコメントが出されていた。

さて、2月の講演同様、杉山先生の講演の主旨は、ボッティチェリなどの当時のフィレンツェの画家達が、受胎告知やキリストの昇天などの絵画を描くにあたり、実際に目撃した聖史劇のイメージを部分的に使って絵を書いている事は明らかだという点。従って、上演がどうなされていたかも、こうした絵を参照することである程度分かる、ということだった。特に、描かれた天使の羽根に見られる舞台衣装の痕跡、天使の光輪がやはり舞台のコスチュームを映している形跡、舞台で使われた天球を表す大道具と絵画の天球の相似、そうした大道具についての当時書かれた記述や描かれた図、その他興味深い具体的な資料に満ちた発表だった。近代科学の発祥の地であるイタリアであるから、そうしたメカニカルな歯車を使った大道具や、特殊効果に使われた花火なども、今聞いても驚くレベルだったようで、聖堂の中で観客の度肝を抜くスペクタクルを繰り広げたシーンもあったらしい。歌舞伎の宙乗り同様に、教会の空間をロープを伝って天使が素早く移動したりというようなシーンも想定されるそうだ。

イングランドの中世劇と比べて面白いのは、フィレンツェでは比較的短い、聖書のエピソード1つ(受胎告知とか、キリストの昇天など)を取り上げた聖史劇が盛んだったこと。イングランドでは、天地創造から、旧約の物語、新約のイエスの誕生や伝道、受難、そして最後の審判など、キリスト教から見た人類の歴史全体を取り上げる所謂「サイクル劇」の形式が主である。フィレンツェにもサイクル形式の聖史劇もあったそうではあるが。イングランドでも、テキストの現存しない無数の宗教劇が上演されていたのは確実であり、全体としては、多くの短い宗教劇があったとは思う。

大変驚いたことして、イタリアでは聖史劇の脚本が、上演されなくなった後の16世紀に千の単位の部数で印刷されて、広く読まれたそうだ。多くの人々が、聖書の物語を分かりやすい「ドラマチックな」形で読む手段として、劇の台本を読んだわけである。当時のフィレンツェの識字率は40〜50パーセントあったと杉山先生はおっしゃっていたがこれもイングランドと比べ、驚異的高さ。但、男女別、また識字の内容(ラテン語かイタリア語かなど)には触れられなかった。恐らく成人男性の識字率で、ラテン語・イタリア語の区別なくいずれかの言語、ということだろうか? 脚本は写本としても残っているそうだし、杉山先生自身、写本に直接当たって研究されているようで、素晴らしい。この写本の性質とか使用用途についての詳しい説明はなかったが、これも聞いてみたいことだった。英語の写本の場合、一種の記録として市当局が保存用に作ったもの(ヨーク劇)、上演が行われなくなった16世紀に好古家が書物のコレクションとして筆写させたと考えられるもの(チェスター劇)、用途も実際の上演に基づいた写本かどうかも分からないもの(タウンリー劇、Nタウン劇)など、それぞれ、独特である。劇の写本のあり方は、単純に「読む」ために作られることはまずないので、考慮すべき点が多い。

フィレンツェでもイングランド同様、女性の役は若い男性(少年)が演じたそうである。この点は、日本も含め、多くの伝統演劇に共通する点。しかし、これは前回の講演の時も疑問が残った点だが、女性はどのような形、あるいは地域でもイタリア語の演劇から排除されていたのだろうか。例えば、世俗劇はどうなのだろう。近年、尼僧院における演劇(convent drama)の研究などもなされており、イタリアでもそういう場所では女性が演劇を行ったかも知れない。同じく女優の存在は、フランスではどうだったんだろう?

杉山先生の講演は、フィレンツェの聖史劇、それも美術と演劇の関係に的を絞ったものであったので、イタリアの聖史劇全体に関しては、例えば聖史劇の起源など、聞いてみたいことが沢山残った。しかし、これは私がご本人の著書やイタリア演劇史の概説書などでまず基本事項を勉強してから、直接質問すべき事だろう。

以上、今後も考えるために、個人的な感想や疑問を思いつくままメモしてみた。

この研究会は私は会員ではなく、今回インターネットのお知らせで知って聴講させていただいたのだが、それぞれ、講演時間も1時間半近く、更に質問時間もとても長くて、質問も多岐に渡り、大変な努力をして講演と質疑応答をやっていただいた。講師のお二人に深く感謝したい。勉強になった。

2016/05/06

“King Lear“ (NT Live) 『リア王』(ナショナル・シアター・ライブ)

観劇日:2016.5.3  15:15-18:15(休憩1回)
劇場:キネマ旬報シアター(柏駅前)

演出:Sam Mendes
セット:Anthony Ward
照明:Paul Pyant
音響:Paul Arditti
音楽:Paddy Cunian

出演:
Simon Russell Beale (Lear)
Kate Fleetwood (Goneril)
Anna Maxwell Martin (Regan)
Olivia Vinall (Cordelia)
Stephen Boxer (The Earl of Gloucester)
Stanley Townsend (The Earl of Kent)
Adrian Scarborough (Fool)
Tom Brooke (Edgar)
Sam Troughton (Edmund)
Paapa Essiedu (The Duke of Burgundy)

☆☆☆☆ / 5

ゴールデンウィークの真ん中の一日、我が家からはかなり遠い柏市にあるキネマ旬報シアターまで電車に乗って、サイモン・ラッセル・ビール主演、サム・メンデス演出の『リア王』を見に出かけた。ラッセル・ビールは映画やテレビなどでは主役をすることはなく、出ても本当に小さな脇役程度だが、イギリスの演劇ファンの間では絶大な人気を誇り、ナショナルやロイヤル・シェイクスピアに出る時は主役。次はRSCでプロスペローを演じると聞いた。彼の巧さは、シェイクスピアの台詞を韻文として謳いあげる能力の高さにあると思う。そういう意味で、古典的な役者だ。彼は音楽が大好きなようで、BBCのクラシック番組の司会をやったこともある。台詞をメロディアスに発音する力はそんなところから来ているのかも知れない。しかし、今回の公演では、専制的なリアの性格を強調するためか、力んだ台詞が多くて、彼の長所が目立たなかった印象。

休憩の後にサム・メンデスやラッセル・ビール、その他の専門家のインタビューがあって、そこでラッセル・ビールがリアの認知症のことを意識したと述べていた。また、専門家が、リアの狂気は、、認知症の中でも特にレビー小体認知症を思わせる点があると指摘していた。そう言われると、狂気と正気がまだらに現れる後半は、確かにリアは認知症に苦しんでいたのかも知れない。そういう目で見ると、そもそも自分の感情のコントロールが聞かなくなり、ゴネリルやリーガンから見ても常識をはずれた判断をしてしまう冒頭の部分から、リアは既に認知症の症状を持っていたと言えるだろう。そういうことを恐らく意識して演出された舞台かな。

全体としてオーソドックスで、特に奇抜な点はないと思うが、黒っぽいセットと衣装で統一された冒頭の宮廷のシーンは、儀式的で、独裁国家の雰囲気をかもし出していた。しかし、特にナチスとか、現代の強権的な国家などを連想させるわけではなく、権力に溺れた者の自滅を普遍的に描こうとしているようだ。身体的な狂気と、政治的独裁のおごりが重なり、リアは怒りの爆発の中で、当然の結果として自らを滅ぼし、人間らしさを失っていくというストーリーに見える。嵐のシーン以降も、そういう流れだから、なかなか老王の哀れさは感じられず、いよいよ最後、コーディリアとの再会の場面になって、やっと人生のはかなさを感じさせるリアになった。俳優サイモン・ラッセル・ビールがまだ若く、演技がエネルギッシュで、身体的な弱々しさを感じないという点も一因だろう。デレク・ジャコビやナイジェル・ホーソンの悲しみのリアとは対照的な、謂わば、怒りのリア。でも、最後になって、その狂った怒りから目覚めたときの哀れさは胸を打つ。

その怒りが最も端的、かつ効果的に現れるのが、ショッキングなフールの殺害の場面。リアの制御不能の狂気を上手く表現していた。

ケイト・フリートウッドの、冷たい面構えのゴネリル、人間くさい邪悪さに溢れたアンナ・マックスウェル・マーティンのリーガンの姉妹が印象的。これらの役は実に良い役で、どの俳優も目立つ。エイドリアン・スカーバラのフールは、あまりに普通すぎた。その他、脇役陣も安定した演技。主役の役作りについては、私の好みのリアとは言いがたいが、プロダクション全体としては大いに満足できた。

これはナショナル・シアターの一番大きな劇場、オリヴィエでの公演。NTライブで見ることの長所は、劇場ではなかなか分からない俳優の表情がよく見えること。しかし、欠点としては、オリヴィエの大きな舞台や劇場全体を包むスケールの大きさが消えてしまい、ドンマーのような小劇場とかウェストエンドの商業劇場の額縁舞台を見るのとあまり違った感じがしないこと。特に冒頭の宮殿のシーンは、儀式の感覚がかなり失われ、マイナスだったのではないか。また、これまでのNTライブでも感じたが、ボリュームが大きすぎる。耳鳴りがしそうなくらいの音で、台詞の味わいが消えかねない。普通の映画では圧倒的な音量で観客を包み込むことが多いが、演劇では観客は能動的に、耳を澄まして台詞に聞き入る。舞台を再現した映像では、普通の映画とは違った音量設定にすべきでは。