2018/02/26

中世の主婦 —BBC Historyextraの記事より—

BBCが作っているウェッブマガジン、'BBC Historyextra'、に載った記事、 'What Was Life Like for a Medieval Housewife?' (筆者は歴史作家のToni Mountさん)が面白かったので、紹介したい。西欧の中世末期、庶民の女性がどう暮らしていたかを紹介する一般読者向けの、分かりやすい記事だ。

筆者がこの記事を書くに当たって主な材料としているのは中世の3つの作品。最初は、よく知られている、仏語で書かれた『パリの夫』(Le Ménagier de Paris、英訳名は The Goodman of Paris)。そして、中英語で書かれた二つの面白いバラッドが紹介されている。ひとつは、'How the Good Wif taughte hir Doughtir'、もうひとつは、'A Ballad of a Tyrannical Husband'。特に最後の作品は、農民の家庭の主婦の生活が垣間見えて貴重。これらの短い詩はどちらもMedieval Institute Publicationsから出ている中英語で書かれた短い詩の作品集に載っており、オンラインでも読める。

私にとって面白く感じたのは、「粉屋の話」や「商人の話」のような年齢の不釣り合いな、老人の夫と十代の妻と言った組み合わせは、当時の人々(特に男性?)には、妻にとっても良い結婚であると見なされたということ。つまり人生経験豊富な夫がまだ思春期の若妻に半ば父親のように色々と知恵を授けて教育することで、妻は年寄りの夫が他界した後も、良縁を得、世帯経営の能力あるマネージャーになれるという。まあ、そういう考え方もあるだろうが、一方で、「商人の話」のジャニュアリのように若妻を利用するだけというけしからぬ老人もいて、不釣り合いな結婚に眉をひそめる人々が当時からいたことも確かだ。

'How the Good Wif taughte hir Doughtir'では、「バースの女房のプロローグ」でも見られるように、女性がしてはならないことが(例えば、仕事を放り出してあちこち出かけおしゃべりに耽るなど)、ミソジニーの視点から述べられている。その中で面白いと思ったのは、女性が通ってはならない「悪所」の例。まずは、酒場(tavern)。つまり酒場に通う女性もいたということ!更に、先日のブログでも触れたが、レスリングが上がっている。中世においてもこのスポーツはとても広く行われ、おそらく賭博行為も伴っていたのだろうと推測される。更に、'shooting at cock'(原作では、'cock schetyng') とあるのは何だろうか。オンラインで読めるエディションの注を見ていると、杭に繋がれた雄鳥に向かって石を投げるか、あるいは矢を射るスポーツだったようだ。かなり残酷な遊びだが、これもおそらく金銭を賭けて楽しまれた一種の興業、と仮定すると、女性が自分でやるというより、男達がやっているのを見物し、賭けに参加したのかもしれない。酒場やレスリング、そして雄鳥を射る賭場など、こういうところに出入りする女性は身持ちの悪い女(strumpet)だとその後に書かれている。しかし、こうしてみると、中世の女性も、家の中でおとなしく家事に奔走している人ばかりではなかったとわかり、ちょっとホッとする(^_^)。

その後に紹介されるバラッド、'A Ballad of a Tyrannical Husband' では、外で汗を流して厳しい畑仕事をしている自分と比べ、家にいる妻は十分な働きをしていないと文句を言う夫に対し、あなたは主婦の仕事がどんなに忙しいか分かってない、という妻の苛立ちが書かれている。それで、この夫婦は、「では一日お互いの持ち場を交替して、配偶者の仕事がどれほどのものか体験してみよう」と言うことで合意する。残念ながら、連れ合いの一日を体験した結果までは書かれていないのは、このバラッドが未完ということだろうか。面白いのは、外で働いている男の仕事の大切さと辛さを妻は充分分かってないし、感謝してない、という夫と、私が家で遊んでいるとでも思ってるの、という妻の憤りという夫婦の家事労働に関する認識の違い(あるいは夫の無理解)は中世末期の西欧でも、現代の日本でも、大して変わらないということだ。

この記事の筆者 Toni Mount は、中世西欧を題材にしたフィクション、ノン・フィクションを多く出版している作家。

2018/02/15

『わが輩は猫である』に出てくる中世英文学作品

ツィッターで漱石の愛読者の方から教えていただいたのだが、『わが輩は猫である』で登場する理系の研究者、水島寒月が、猫(わが輩)の主人である苦沙弥先生や若い友人の迷亭君とのおしゃべりで、以下の様に、絞首刑について延々とうんちくを傾ける場面がある:

「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフの中に絞首架即ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマンの中には仮令兇漢でも二度絞める法はないと云う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。....」

この「ベオウルフの中に絞首架即ちガルガと申す字が見えます」という点だが、「ガルガ」とは古英語の 'galga' (gallows 絞首台)のこと。この単語は、『ベーオウルフ』では、F. Klaeberのエディションで2446行に出て来る(その場所では与格屈折形の galgan)。その前後の文の訳は「息子が絞首台にぶら下がるのを経験する年寄りの悲しみのようなものだ」となる。この場面では、主人公ベーオウルフが、自分の育て親フレーゼル王が、王の次男が弓矢の事故で長男を殺してしまった時に感じたであろうやり場のない悲しみを、物語っている。その他にも、galg-mod (sad in mind)、galg-treowum (gallows-trees, pl.) などの複合語の一部としても出てくる(『ベーオウルフ』に出てくる galga については、古英語を専門にされている先生にご教示いただいた。深謝!)。

一方、「ピヤース・プローマンの中には仮令兇漢でも二度絞める法はないと云う句があるのです」という箇所についてだが、中英語文学を代表する傑作『農夫ピアズ』には、主にA、B、Cの3つのバージョンがあり、そのうちのCの21節424-28行あたりにこの一説が出てくる。その部分を和訳すると大体こうなるようだ:「たとえ反逆者であったとしても、重罪人を一度以上絞首刑にするのはこの世の習いではない。そしてもし盗人が死刑に処せられるところに国王がやって来てその盗人を見たならば、王が彼を彼を助命してやることを法は望むだろう。」

私が手元で参照したのは、Walter W Skeatという昔の学者が19世紀末に編集した2巻本で、A、B、Cのテキストを並べたパラレル・テキスト・エディション。Skeat のエディションにはこの箇所に詳しい注が付いており、中世から近代初期において、絞首刑の執行が失敗し死刑囚が生き残った場合には、その者は再度死刑には処せられないというのが通例であったと、具体的な例を引きつつ書かれている。

興味深いことにこのSkeatの注には、やはりブラックストーン(18世紀の法学者で裁判官 Sir William Blackstone、1723-1780)の時代には、中世末期とは違い、死刑囚が死ぬまで刑罰を繰り返すようになっていたと書かれている。とすると、漱石はSkeatのエディション(初版1886年)とこの注釈を読んで『わが輩は猫である』の上記の部分を書いたのだろうか。そこで、東北大学の漱石文庫をオンラインで検索すると、漱石が Skeat のエディションを持っていたことが分かる。

それにしても漱石は『農夫ピアズ』のみならず、難解な古英語原文で『ベーオウルフ』を読んでいたのだろうか。「ガロウズ」というような現代英語のカナ表記でなく、「ガルガ」という古英語をカタカナに移した表記をしているので、読んだ可能性はある。もしそうだとすると恐るべき学識だ。尤もこの頃の英文学者は、まさに英文学全体を研究していたのだろうし、漱石は、古英語に近いドイツ語もかなり出来ただろうから、『ベーオウルフ』原文を読んだとしても不思議はない。一応、東北大学図書館の漱石の蔵書目録に "Beowulf" を入れてみたが作品のエディションは出てこなかった。コメントをいただいた古英語文学の専門家の先生によると、漱石が原作を読んだとすると、当時普及していた Benjamin Thorpe 編のエディションを参照した可能性が高いとのことだ。このエディションは現代英語のついた対訳版で、1855年に初版が出て、何度か改訂版が出ている。

(追記)
 上記を書いた後、最初に『わが輩は猫である』のこの部分について知らせて下さった方が更に関連する他の文書が載っているサイトを見つけて、ご親切にお教え下さった。感謝したい。それらの文書にざっと目を通してみたが、寒月の死刑に関するうんちくの記述は、『ベーオウルフ』や『農夫ピアズ』、ブラックストーンへの言及も含め、アイルランドの医学者でトリニティー・コレッジの教授であった Samuel Haughton(1821-97) が書いた論文、'On Hanging: Considered from a Mechanical and Physiological Point of View'(1866)に大方を負っているようである。彼はこの論文において、如何にして効果的に一瞬にして絞首刑を終わらせるか、つまり死刑囚にとって絞首刑をどうしたら出来るだけ苦痛のないものに出来るかについて、科学的な専門家として、古今の例も挙げつつ論じている。この論文はインターネットで読むことが出来る。『ベーオウルフ』や『農夫ピアズ』に触れた部分は、6-7ページ。なお、Samuel Haughton についてはウィキペディア英語版に説明がある

更にもう一つ教えていただいたのは、物理学者、中谷宇吉郎の随筆のひとつ。漱石が Haughton の論文を利用してこの部分を書いた経緯については、東京帝国大学で、漱石の友人で寒月のモデルと言われる寺田寅彦の教えを受けた中谷の随筆に詳しく書かれている(青空文庫より)。つまり、寺田寅彦がこの論文を読んで漱石に薦めたことで、『わが輩は猫である』の寒月の台詞に取り入れられることになったようだ。

但、だからと言って、漱石が『ベーオウルフ』や『農夫ピアズ』を読んでいなかったかというと、そうは言えないだろう。少なくとも、後者については、漱石の蔵書に Skeat と J. F. Davis (B-text, Prologue & Passus I-VII) のエディションなど、2種の原作テキストがあることを教えていただいた。

2018/02/11

ラングランドと1381年の叛徒たち(Sebastian Sobecki教授のブログより)

オランダのフローニンゲン大学(University of Groningen)教授のSebastian Sobecki先生によるOUP Blog, 'Poaching with Piers Plowman' 
とても興味深いので、ちょっと紹介する。私の誤読もあるかも知れないので、ご関心のある方は、正確にはブログ原文を読んでください。

教授は『農夫ピアズ』('Piers Plowman')の B text と1381年の大反乱(ワット・タイラーの乱)の叛徒たちとの関連を当時の文書で裏付ける。英語英文学の研究者には周知のとおり、中英語文学の傑作『農夫ピアズ』には、大きく分けて3つのバージョン(A, B, C texts)がある。その3つのバージョンのうち、初期(c. 1967-70)に書かれ、もっとも短い A text は1381年のケント州の叛徒の間で知られており、大反乱の指導者の一人 John Ball はこの作品に言及している。しかし、最も長く、自己検閲もされてない B text (c. 1977-79)と叛徒たちの関係は証明されてなかった。Sobecki教授の調査によると、1381年の反乱の少し前、ノーフォークのシェリフであったRichard Holdychは、地元民と激しく対立していたらしい。その頃彼が王立民事裁判所(The Court of Common Pleas)に提出した訴訟文書で、'William Longwille’という名前の密猟者(poacher)が出てくるそうだ。この名前は『農夫ピアズ』の作者名として通常使われている 'William Langland' によく似た名前だが、大反乱の叛徒たちが触れている名前でもある。しかし、この作者と目されている人物の名前は『農夫ピアズ』の A text には書かれておらず、B text になって登場する。つまり、B text の15節にこのように作者が自分の名前を名乗る場面がある:

“ ‘I have lived in the land’, said I, ‘my name is Long Will’ ” (Passus 15, line 152)

この行の単語のうち、land, long, willを組み合わせて、逆から読むと、Will Langland。Will は William のことなので、「ウィリアム・ラングランド」となるわけ。しかも、そのまま左から右へ読むと、最後は、Long Will という先程の法律文書に出てくる密猟者と同じ名前だ。だからと言って、この名前を使ったノーフォークの密猟者やあるいはその後の名前の使用者が『農夫ピアズ』の作者とは必ずしも言えないが、これらの反乱者は、『農夫ピアズ』の B text を読んでいた可能性が高いとは言えるだろう。

このブログはSobecki教授が今年、OUP の学術誌、Review of English Studies に発表した論文('Hares, Rabbits, Pheasants: Piers Plowman and William Longewille, a Norfolk Rebel in 1381')を短くまとめた文章のようだ。この基になっているRESの論文が今オープン・アクセスで読める(リンクはブログの最下部に付いています)。

2018/02/10

中世のイングランドにおけるレスリングの記録


中世や近代初期のイングランドにおけるレスリングについてMiranda Vaneというライターが書評紙、London Review of Books のウェッブページに短いブログを書いている。レスリングは、中世の教会のミゼリコード(聖歌隊席椅子の装飾)で頻繁に彫られているのが見受けられるとのことだ。実際のミゼリコードに彫られているレスリングの写真としてウィキペディアにこの写真が載っている。これがあるのは、シュロップシャーのラドローにある St Lawrence's Church

この記事を読み、中世イングランドのレスリングということで、まずチョーサーが『カンタベリー物語』のプロローグの中で描いている巡礼の粉屋を思いだした:'over al ther he cam, / At wrastlynge he wolde have alwey the ram'(彼はどこに出かけても、レスリングでいつも雄羊の賞品を勝ち取っていました)。更に、「荘園管理人の話」で出てくる粉屋シムキンも、'Pipen he koude . . . / . . . and wel wrastle and sheete' (彼は笛を吹いたり . . . 、レスリングをしたり、矢を射たりするのが上手に出来ました)と描かれている。都会で宮仕えをする文人チョーサーから見ると、こうした野卑な粉屋たちにぴったりのスポーツが、レスリングというわけだ。

中英語文学には他にも色々とレスリングへの言及があるだろうと思う。それで、中英語のアンソロジーを開いてみると、14世紀後半(1375年頃)の説教詩、Robert Mannyng of Brunneの 'Handlyng Synne' にこういうのがあった:

Karolles, wrastlynges, or somour games,
Whoso euer haunteth any swyche shames
Yn cherche other Yn chercheyard,
Of sacrylage he may be aferd;
Or entyrludes, or syngynge,
Or tabure bete, or other pypynge--
Alle swyche thyng forbodyn es
Whyle the prest stondeth at messe.

キャロルやレスリングやサマー・ゲーム、
そういう恥ずべき行いで、教会や教会の境内に出かける人は皆
神への冒涜を犯していると、恐れなければならない;
あるいは、インタールード(劇)とか、歌を歌うとか、
太鼓叩きとか、笛を吹くとかー
そうした事は皆、司祭がミサをあげている間は
禁じられているのである。
(原文の出典はSisam, 'Fourteenth Century Verse and Prose', p. 4)

これを読んで思ったのは、レスリングも、演劇を含む、あまり望ましくない色々なエンターテインメントの一つと見なされていて、しばしば教会の境内、おそらく時には教会内部の身廊などで行われていたということだ。ミサの間はやっちゃいけない、と言っているのは、恐れ多くもミサの間でもレスリングをやるという不心得者がいたことも示している。

レスリングは、エンターテイメントの一つとして、トロント大学から出ている『英国初期演劇資料集』(Records of Early English Drama) でリストアップされる項目にもなっている。私が持っている巻のうち2,3冊の巻末索引を見てみたが、sports などの項目の下位項目として挙げてあった。但し、索引に全くリストアップされてない巻もある(編集方針の違いか、実際に資料が見つからないのか?)。オックスフォードの巻(2 vols, Vol. 1, pp. 12-13 [Toronto, 2004] )では、ニュー・コレッジ学寮の1398年頃の規則(ラテン語)が、ダンス(saltus)やレスリング(luctacio)、その他の遊びで、学寮の建物の装飾などが損傷したり、あるいは静けさがかき乱されたりすることがあるので、これらの活動を禁止する、と定めている。長々とした規則だが例として一部抜粋する。「チャペルや広間で、ダンスやレスリングやその他の規則違反の娯楽をしてはならない事について」(De Saltribus luctacionibus & alijs ludis inordinatis in Capella vel aula non fiendis)という規則の一部:

. . . per saltus luctaciones alios ve incautos & inordinatos ludos in aula vel in Capella ipsa forsan fiendos defacili & casualiter verisimiliter ledi poterint deturpari ammoueri frangi cancellari seu alias damnificari dictus quoque murus in parte vel in toto deterior fieri vel eciam debilitari. (Vol. 1, p. 12)

(英訳) . . . dances, wrestling matches, and any other careless and irregular games from taking place in the chapel or the aforesaid hall ever at any time, by which (activities), or any one of them, damage or loss could be inflicted on the images, sculptures, glass windows, paintings, or other aforesaid sumptuous works or the aforesaid chief wall in thier construction or structure, in material or in form by any means. (trans. by Patrick Gregory; Vol. 2, p. 913)

他にも初期中英語ロマンスとしては有名な作品の『デーン人、ハベロック』( 'Havelok the Dane' )にもレスリングへの言及はある。古いところではどのくらいさかのぼれるのだろうか?古英語文学ではどうだろう?

中世演劇の勉強をしている私としても、中英語文学におけるレスリングというテーマで調べてみるのも面白そうだと思う。欧米では誰か既にやっていそうだ。

2018/02/07

NHK ETV特集「長すぎた入院:精神医療・知られざる実態」

2月5日、月曜に放送されたNHK ETV特集「長すぎた入院:精神医療・知られざる実態」を見た。

福島第一の原発事故の為に周辺にあった5つの病院から多数の患者が他の病院に移された。その結果、それらの患者の多く、いや大多数が最早入院の必要のない人だと分かった。そうした患者を一時的に受け入れて診断し、入院の必要のない人は社会に戻す手助けをしている矢吹病院の医師によると、受け入れた40人のうち、入院治療の必要な患者はたったの2人、つまり5パーセントに過ぎないという。多くの患者は数十年入院を強いられたまま、つまり社会的入院という監獄に入れられた状態で人生を終えつつある中高年の収容者である。番組が追う元患者「時男」さんも、青年期に統合失調症で入院し、その後症状は改善し、今は普通の人以上に普通の健康な精神を持つ大変真面目な性格の人のようだが、根強い差別の中で、家族からも見放され、受け入れる人も場所もないまま、原発事故で退院のきっかけをつかむまで、39年間もの間放っておかれた。「自分にとっては、原発事故があって本当に良かった」、と彼は言う。出たい、自由になりたい、と思い続けてきた彼は、まさに袴田さんのようなえん罪被害者と同じ。矢吹病院にやってきた長期入院者の中には、夫が酒乱で入院し、それと一緒に何の精神病も患ってない妻まで入院させられ、そのまま無実の囚人のように閉じ込められた女性も含まれていた(彼女には軽い知的障害があり、自分を守ることが出来なかったのである)。日本は、北朝鮮を笑えない収容所列島である。これらの患者を収容していた病院は、事実上、患者を食いものにして経営されていたわけだし、こういう状態を日本の精神医療の関係者や厚労省は放置してきたわけだ。「時男」さんが若い頃彼を診察していた一人の医師が言うには、当時時男さんが居た病院は、患者200人に対し、医師は一人だけという状態だったそうである。また、地域の差別の中で家族も退院を望むのをためらう。長期入院者の家族にとっては、精神病院は謂わば大昔の座敷牢と化していた。
「普通」から外れ、少数者になると、どこまでも差別され、人間扱いされなくなるのが日本の社会。この国は本当に恐ろしいと、道行く「普通の」人々を見て思う。
原発事故で幸いにも外に出られた時男さんのような人の背後には、日本中で数万人、十数万人の長期入院者がいる。その人達の多くは、おそらく入院の必要のない、謂わば囚人なのだろう。番組で紹介されたデータでは、日本には世界の精神科病床のおよそ2割が集中、平均の入院日数は、他の先進国の精神病院では28日、日本ではその約10倍の270日。日本の精神病院に1年以上入院している人18万人、5年以上の人も1万人いるそうだ。

何故我々日本人はこれほどまでに冷たくなれるんだろう。親切な人も沢山いるのに・・・。私にはよく分からない。背筋が冷たくなる番組だった。