2018/10/31

市民講座は難しい

昨日は以前常勤で働いていた職場での市民講座の企画を、ああでもない、こうでもない、と考えていた。研究者としての実力も、また知名度もない私が、受講料を払ってくださる一般の方々を集めるのは大変難しくて、いつも本当は開催して貰えない程しか受講者が集まっていない。事務局に心配と無駄な労力をかけっぱなし。市民講座の企画を考える度に、自分の能力の無さを痛感し落ち込む。

今年前期は、別のところの市民講座で、企画しても受講者が集まらず開催できないという事態になり、事務局に大きな迷惑をかけた。講師として審査していただき、その上でパンフレットに載せるなど、一定のお金と労力はかかっているだろうが、無駄になった。私は、常勤教員の頃は他人がやりたがらない所謂「雑務」係としてこき使われていると思っていたが、仕事を辞めた今となっては私の職業人としての価値はそうした雑務をやることくらいしか無かったことに気づく。


2018/10/29

歴史学の研究会に出席

10月27日土曜日は「イギリス史研究会」という歴史学の研究会に出席した。発表者は中世イングランドの説教研究の第一人者で慶應義塾大学文学部の赤江雄一先生。説教は文学の一部でもあり、Siegfried WenzelやAlan Fretcherなどの中世英文学研究者も盛んに研究しており、興味を持っていた。英米の学者は演劇との関連も研究している。
 
赤江先生の学会発表は聞いたことがあったが、今回は研究会で時間的余裕があったので、先生は基礎知識から始めて今研究されている高度な問題まで懇切丁寧に話して下さり、私のような初心者にも大変分かりやすく、興味を持って聞けた。

主なトピックは説教の中に表れるラテン語・英語の混じった(「マカロニック、macaronic 」と言う)文章についてだった。マカロニックな表現は様々な文学作品に頻出し、これから私もよく考えたい分野だ。その意味でも、良い学びの機会を与えていただいた。但し、説教というのは独特の形式に則ったかなり特殊な文章なので、先生が導かれた結論は直ぐには他のマカロニックな文章には当てはまらない。私としては広く文学におけるマカロニックな表現の存在意義について、今後も考えていきたい。

近年は言語学者も中世のラテン語と俗語の混淆文には注目し、多くの論文が出ているようだ。また、イングランドでは、仏語と英語の混淆文を研究する人もいる。英語史研究や歴史言語学の方にも注目していただきたい分野。

今回出席したような分野外の研究会や学会に行くのは、新鮮で楽しい(但し、そうでなくて違和感が酷いときもある)。こういう時は全く無名の教師だと気軽に行けて都合良い。名前を知られているような人だと、自分の分野外に突然出かけるのは、招待されない限り抵抗あるだろうし、これらた方もビックリなさるかもしれない。イギリスの大学や研究機関で開催される人文科学のセミナーや学会、特に中世や近代初期関連の学会等は、色んな分野の人が集まる。聞いてもちんぷんかんぷんの事も多いが、日頃考えた事もない視点からの話が聞けて良かった。日本ももう少し交流があって良いと思うが。27日の研究会も、他の参加者は歴史学のかたばかりのようだった。