2019/08/29

【観劇 ロンドン】"The Doctor" (Almeida Theatre, 2019.8.26)

"The Doctor"

Almeida Theatre 公演
観劇日:2019.8.26 19:30-22:20
劇場:Almeida Theatre

演出:Robert Icke
脚本:Robert Icke(Arthur Schnitzler, "Professor Bernhardi"に基づく)
セット&コスチューム・デザイン:Hildegard Bechtler
照明:Natasha Chivers
音響・音楽:Tom Gibbons

出演:
Juliet Stevenson (Professor Ruth Wolff)
Pamela Nombete (a doctor)
Paul Higgins (a catholic priest)
Mariah Louca (a PR director of the hospital)
Daniel Rabin (a doctor)
Olivier Alvin-Wilson ()
Nathalie Armin (a politician)
Kirsty Rider (a trainee doctor)
Joy Richardson (Ruth's partner)

☆☆☆☆☆ / 5

『1984年』を劇にして演出したロバート・アイクの、アルメイダのassociate directorとしては最後になる演出作品。前評判通り素晴らしかった。但、全体的な流れは理解出来たが、今回も小さめの声で話しているところはほとんど分からなくてフラストレーションが溜まった。テキストを買って終わりの方を読みながら帰ってきて、大分理解出来た。

原作は20世紀初めのオーストリアの作家で医師、アルチュール・シュニッツラーの2012年の劇、『ベルンハルディ教授』(Arthur Schnitzler, "Professor Bernhardi")。これを演出のアイク自身が、設定を現代イギリスに置き換えたアダプテーション。

場面設定は現代の大病院。ユダヤ人のルース・ウルフ教授はその病院を代表する医師で、創立メンバーのひとり。ある時、自分で避妊しようとして重度の敗血症になり死が確実となっている少女の治療をしていた。そこへ突然やって来たカトリックの司祭が、両親の賛同を得ているので少女に死の前の告解の儀式を行いたいと要求する。しかし、ウルフは、本人の同意を得ていないということで、病院のガイドラインに沿って拒否する。これが病院の外の世界で宗教を軽視した行為として広く報道され、宗教だけでなく、人種、文化、階級等々に関する論争が巻き起こり、彼女は医者としてだけでなく、ひとりの人間としてのモラルを多方面から問われる事態に発展する。病院の運営委員会においても、カトリックの医師から激しく追及を受ける。更に、その頃病院では新しい病棟の建設が計画されていたが、その資金確保にも暗雲が立ちこめ、院内政治においてもウルフは苦境に立たされ、マスコミやSNSを通じて謂わば民衆裁判に遭うという状態になる。同僚は彼女を非難し、友人は離れていき、自宅にまで彼女を脅迫する人達がやって来て怒鳴ったりドアを乱打したり、車に鈎十字の落書きをしたりして、ウルフが身の危険を感じる状況だ。ついには、政治家が介入して第三者機関による調査をすることとなる。最終的には彼女は10年間、医師資格を停止するという宣告を受け、職業人としての命を絶たれるという、現代版『民衆の敵』。

ウルフは、医療の倫理として、患者の同意を得ていない場合、患者の病状にとってもっとも良いと医師が判断した治療法が家族や宗教者の判断に優先するとして、自分は間違ってなかったと頑固に主張する。しかし、それは、反カトリック、(ウルフがユダヤ人だったので)ユダヤ人のキリスト教徒差別、(司祭が黒人だったので)黒人差別、(ウルフが高級私立学校の学歴を持っていたので)エリートの傲慢、等々と様々の専門家や利益団体代表から糾弾される。ウルフは若い頃の堕胎など個人的な事も暴き立てられ、社会的な火炙り状態になり、観客から見ると同情せざるを得ないが、一方で医師としての倫理に固執し一切妥協しない姿は、従前から、同僚達からも頑固で尊大な態度として嫌がられていた。

原作者シュニッツラーはユダヤ人医師であり、原作は第1次大戦頃のオーストリアにあったユダヤ人差別などを反映していると思われるが、現代に置き換えると、ウルフが受けた激しい非難や結果としての医師免許の停止という筋書きには、やや無理がある気がした。但、ユダヤ人が、グループとしては大きな資金力と政治力を持ち、高学歴の富裕層に多いという事実により、彼らを敵視する人々もいることは事実だ。医療の問題については、このケースは既に死が決定的になっていた患者に対する最後の告解の儀式の是非という判断が非常に困難なケースであり、20世紀初めのウィーンならともかく、21世紀の現在においては、担当医がこれほどの社会的制裁を課せられるとは考えにくいと私は思うので、劇の核心部分においてやや説得力を欠く気がした。

セット・デザインのヒルデガード・ベクトラーはイギリスの舞台美術の大御所で、先日の"Hansard"の舞台も担当していたが、この作品も効果的なセットだった。ほぼ何もない円形舞台に会議用の長机と幾つかの椅子が置かれているだけ。病院内での会議や、ウルフが半強制的に出演させられテレビの討論番組を通じて、マスコミやSNS、テレビを見ている視聴者も陪審として参加して、ウルフが一種の「人民裁判」にかけられる様子を上手く伝えるセットだった。

ロバート・アイクの舞台にしばしば出ているというジュリエット・スティーヴンスンの熱演が素晴らしかったし、彼女を弁護したり非難したりする役の助演者達も皆説得力があった。今回の渡英で観た最後の劇だったが、私の力不足で台詞が分からないところは多かったとは言え、大変満足して劇場を後にした。

斜め前に柱があり少し視野がさえぎられる席だったので、値段は20ポンド(今のレートで2600円)。でも、見づらさは、小さなアルメイダでは、ほとんど苦にならない程度。世界的なスタッフと主演者による上演をこの値段で見られるなんて、ロンドンの演劇はやはり素晴らしく、その為にイギリスまでわざわざ行く甲斐があると思った。但、以前に増して台詞が分からなくなっているので、そうできる場合には前もってテキストを読んで出かけようと思う。それにしても、今回は体調悪くて、劇もたった5本しか見られず、他にはろくに何もできず、年齢をひしひしと感じた。

2019/08/26

【観劇 ロンドン】"Appropriate" (Donmar Warehouse, 2019.8.24)

"Appropriate" (Donmar Warehouse)

Donmar Warehouse 公演
観劇日:2019.8.24 14:30-17:00(休憩20分を含む)
劇場:Donmar warehouse

演出:Ola Ince
脚本:Branden Jacobs-Jenkins
デザイン:Fly Davis
照明:Anna Eaton
音響:Donato Wharton

出演:
Monica Dolan (Toni Lafayette)
Charles Furness (Rhys, Toni's son)
Steven Mackintosh (Bo Lafayette)
Jaimi Barbakoff (Rachael, Bo's wife)
Isabella Pappas (Cassidy, Bo & Rachael's daughter)
Edward Hoggs (Franz Lafayette)
Tafline Steen (River Rayner)

☆☆☆☆ / 5

脚本のブランドン・ジェイコブス=ジェンキンズは近年目覚ましい活躍で、イギリスでもその傑出した才能が認められつつあるアメリカの新進劇作家とのことだ。この作品はオニールやミラー、ウィリアムズの伝統をストレートに継承するアメリカ合衆国の家族劇。アメリカ文化に染みついた「ファミリー」という、ほとんど幽霊のような怨念を、現代の味付けでアップデートしてみせる。オニールやミラーと違い、シリアスでありながらも誇張された台詞の連続により、半ば喜劇とも言える仕上がりになっている。

劇の設定は、アーカンサス州にあるラファイエット家のかってのプランテーション屋敷(と言っても、そんな大邸宅ではないようだ)。時期は2011年頃の夏。屋敷の主人であった父親が亡くなり、財産を処分するために長女のトニと彼女の息子のライス、長男のボーと彼の妻レイチェルや子供達2人、そして長年音信不通だった次男のフランツとガールフレンドのリバーまでもが突然現れ、一族が空き家になった屋敷に集まる。財産を処分して、出来れば遺産の残りを手に入れたいと思っていた3人だが、父親の残したがらくたの片付けをするうちに、見たくない過去の遺物を見せられて、自分達自身の、そしてラファイエット家の過去を否応なく見直すことになった。

ブランドン・ジェイコブス=ジェンキンズは黒人作家なので、アメリカの黒人家庭をめぐる劇を見ることになるんだろうと何となく想像していたのだが、出てくるのは全員白人。但、ラファイエット家の背景として、かって一家のプランテーションでは黒人奴隷が働かされており、一家の富は奴隷労働によって作られた。そうした奴隷達の埋められた墓地が屋敷のそばにあり、不動産としての売却を難しくしている。更に父親の遺品を整理していると、写真を貼ったアルバムが見つかるが、その写真というのが、死んだ(おそらくリンチされた?)黒人の遺体を撮ったものだった。父親は表面上は露骨な差別は見せなかったようだが、公民権運動の前の南部で半生を過ごした世代であろうから、子供達は知らなかった別の顔を持っていたようだ。更に、ボーの子供がクー・クラックス・クランのマスクらしきものまで発見する。

子供達自身もそれぞれの問題を抱え、自分は一家の中でも特に苦労させられたと思っている。特にフランツは、麻薬やアル中で苦しみ、ローティーンの女児と性交をして警察に捕まった前科もある。トニは父親の介護を押しつけられたと思って不満やるかたなく、ボーは介護費用などを自分が負担したのに感謝されていないと思っている。更に彼は今までは経済的には豊かだったが、丁度失職したところで、父親の遺産が少しでも助けにならないかと思っている。

しかし、この屋敷、この家族に染みついた遺産は、ここで奴隷として働き、名もなく死んで埋められていった数知れぬ奴隷達の遺産なのであるが、ラファイエット家の誰ひとりとしてその事に思いを巡らせる人はいない。それどころか、ボーが父親が残した黒人の遺体を撮った昔の写真がマニアの間では高く売れるらしい、と聞きつけて、皆にわかに興奮する。彼らにとっては、リンチで殺されたかも知れない黒人の遺体の写真も、ボー曰く、価値ある「アンティック」にしか過ぎない。観客としては、登場人物誰ひとりとして感情移入出来ない一家である。劇の背後で白人一家のドタバタを見つめるのは、プランテーションで亡くなった多くの黒人奴隷の魂だろう。

南部のプランテーション屋敷のゴシックな雰囲気を上手く出したセット、照明、音響だった。演技も皆達者で文句のつけようがない。特にトニを演じたモニカ・ドランは迫力があった。但、いつも思うのだが、こういう風に激しく相手を責め合うアメリカのリアリズム劇の会話は、日本人の私にはなかなか想像しづらい面はある。

この前に見た"Hansard"がさっぱり分からなかったのに懲りて、今回はテキストを3分の2ほど予め読んでおいたので、台詞はほぼ理解出来、楽しめた。それに"Hansard"はテキスト自体が難しくて読んでも分からない表現が多かったが、この劇の内容はストレートで分かりやすい。でも私としては、前者の行間を読ませるような台詞のほうが好きだな。分かればの話だが(笑)。

【観劇 ロンドン】"Hansard" (Lyttelton Theatre, National Theatre, 2019.8.22)

"Hansard" (Lyttelton Theatre, National Theatre)


National Theatre 公演
観劇日:2019.8.22 19:30-21:00(休憩なし)
劇場:Lyttelton Theatre, National Theatre

演出:Simon Godwin
脚本:Simon Woods
セット・デザイン、コスチューム:Hildegard Bechtler
照明:Jackie Shemaesh
音響:Christopher Shutt
音楽:Michael Bruce

出演:
Lindsay Duncan (Diana Hesketh)
Alex Jennings (Robin Hesketh)

私の好きな名優ふたりが登場するお芝居に大いに期待していた公演だったが、まったく台詞が分からず、何が起こっているのか大体の筋書きも分からないまま終わってしまった。イギリスでこれまで見た劇でも、これほど内容が分からないままだったのは始めて。とは言え、見たという事を思い出す為、自分の備忘録としてメモをしておく。私はもう10年近く前から、健康診断などで聴力が衰えつつあると診断されているのだが、元々英語のリスニング力の乏しさに加え、改めて聴力の衰えを痛切に感じた。

それで、見終わった後にテキストを買って読んでいるところなので、やっと内容が分かってきた。しかし、英語自体が、イギリス人にしか分からないような諷刺が沢山盛り込まれていて非常に難しく、聞き取れても分からない部分が多かっただろう。実際、辞書を引いたり、ネットで検索したりしないと理解出来ない表現や事項もかなりある。

上記のキャスト一覧のように、出演はアレックス・ジェニングスとリンゼイ・ダンカンのふたり。ジェニングスが演じるのはイングランドの中部、おそらくコッツウォルズ地方の一部を選挙区とする保守党の国会議員(MP)でサッチャー政権の大臣のひとり、ロビン・ヘスケス。ダンカン演ずるのは彼の妻、ダイアナ。プログラムによると、この劇の場面となっているのは、1988年5月28日土曜日のコッツウォルズにある彼らの自宅。英国政治においては、1979年から90年までがサッチャー政権なので、その末期ということになる。ロビンはウィークデイは国会議員としてロンドンや仕事先で過ごし、週末に自宅(本宅)のあるコッツウォルズに帰宅する。この朝も11時に帰宅し、荷物を置いて、自分でトーストを焼いたりコーヒーを入れたりして遅い朝食を食べつつ、妻のダイアナと話し始める。最初はお互いに軽い皮肉を言い合ったりしていたが、そのうち、政治や社会に関するふたりの人生観、社会観の根本的な違い、階級の違い、そして、今までは二人ともなるべく触れないようにしていたらしい、思春期に亡くなった息子のことが話題に上り、険悪な言い争いに発展する。

時代背景として、この1988年にイギリス議会は地方行政法のセクション28(Section 28, the Local Government Act 1988)を通したことは劇の理解に重要だ。この法律により、イギリスの公立学校では、ホモセクシュアリティを是認するような教育が禁止された。ダイアナは、保守党議員としてこの立法を推進したロビンを厳しく責める。

ロビンは代々上流階級で、政治家でありながら貧しい人々や人種やセクシュアリティーにおけるマイノリティーの人々に対してはまったく共感できず、票を入れる人数としてしか考えていない。そして、彼の選挙区は豊かな田園地帯であるコッツウォルズであり、極めて保守的な選挙民が多い地域だ。一方、ダイアナは中産階級の割合慎ましい家庭出身のようで、夫と比べるとリベラルな価値観を持っている。そもそもダイアナは結婚したときから階級の違いで夫の家族とは相いれず、よそ者扱いをされていた。週末だけ一緒に過ごす単身赴任の夫婦であり、しかもダイアナは夫の浮気を疑っている。国会議員としての体裁を繕うだけの夫婦のように見え、長年の気持ちのすれ違いが想像出来る。しかし二人の間に決定的な溝を作っているのは、息子の死だった・・・。

劇場で見ていた間は台詞はほとんど分からなかったけれども、それでも二人の俳優が創り出す緊張感がひしひしと伝わる公演だった。それだけに台詞が分からないのが何とももどかしい。しかし、都合でこれを見た日はプレビュー公演の初日。名優とは言え、特にアレックス・ジェニングは何度が台詞に詰まっていた。また、大きなリットルトン劇場での公演にしては、リンゼイ・ダンカンの声は小さすぎて、おそらくイギリス人でもかなり聞き取りにくいところがあったのではないだろうか。プリビュー期間が終わる頃にはもっと磨きがかかることだろう。

趣味の良い、簡素でありながら高級感ある家具調度を置いたセット。しかし、生活感が乏しいのがこの夫婦の有様を表していた。

テキストを読んでみると、イギリス社会における階級や多様性について多くの事を学べる大変興味深い劇だと分かった。

(注)この法律はStonewallなど、同性愛者の権利を守る運動をしている人々から大きな反発を受ける。2000年には労働党政権がSection 28の破棄を含む地方行政法の改定を議会に提案するが、保守党は賛否が分かれ、貴族院で廃案となった。この時の保守党の影の内閣の教育担当が後に首相になるテレザ・メイで、彼女はこの廃案を「常識の勝利」("A victory for common sense")と賞賛した。しかし、2003年には保守党も党議拘束を外して各議員の自由投票に任せることになり、Section 28の破棄が決まった。但、ケント州の地方議会だけは、Section 28に代わり、学校ではヘテロ・セクシュアリティーに基づく結婚と家族が社会の基礎である、という条例を通したが、この条例はようやく2010年の差別禁止法(Equality Act)により無効となる(ケント州の保守性の分かるエピソードだ)。2009年には当時の保守党党首デヴィッド・キャメロンが、この法律によりゲイの人々を傷つけたことに対し謝罪した。(以上、ウィキペディアの記事を参考にした)。

2019/08/22

【観劇、ロンドン】"A Midsummer Night's Dream" (Bridge Theatre, London, 2019.8.21)

"A Midsummer Night's Dream" (Bridge Theatre, London)

Bridge Theatre 公演
観劇日:2019.8.21 19:30-22:30 (インターバル20分含む)
劇場:Bridge Theatre, London

演出:Nicholas Hytner
脚本:William Shakespeare
デザイン:Bunny Christie
照明:Bruno Poet
音楽:Grant Olding
音響:Paul Arditti
衣装:Christina Cunningham
動作指導 (Movement Director):Arlene Phillips
殺陣指導 (Fight Director):Kate Waters

出演:
Oliver Chris (Theseus / Oberon)
Gwendoline Christie (Hippolyta / Titania)
David Moorst (Puck / Philostrate, Athenian official)

Isis Hainsworth (Hermia)
Tessa Bonham Jones (Helena)
Kit Young (Lysander)
Paul Adeyefa (Demetrius)
Kevin McMonagle (Egeus, Henry's father)

Hammed Animashaun (Bottom)
Felicity Montagu (Quince)
Jermain Freeman (Flute)
Ami Metcalf (Snout)
Jamie-Rose Monk (Snug)
Francis Lovehall (Starveling)

☆☆☆☆☆ / 5

斬新なアイデアに溢れたニコラス・ハイトナーの劇団の快作。観客を楽しませる術を心得た彼の才能が満開の公演だった。

去年の3月にも同じ劇場でハイトナー演出の『ジュリアス・シーザー』を見たが、その時と同じく、平土間に観客の多くを立たせ、大音響のロック音楽と共に、立っている観客を動かしながら公演に巻き込むというスタイル。こういうのを英語で、"a promnade performance"と言うらしい。私はギャラリーの椅子席に座っていたが、劇場全体を公演の祝祭的な雰囲気に巻き込む演出に飲み込まれた。

とにかく種々の斬新なアイデアが一杯だ。既にどこかで見たようなモチーフもあるが、ハイトナーの味付けを得て、生き返っている。まず何と言っても大きなアイデアはシーシアスとタイターニアの役割の転倒、つまり、台詞の付け替えを行って、惚れ薬の魔法でボトムと一夜の情事に耽るのはシーシアスになっているのだ。もともとこの劇は非常に家父長的な筋書きで、シーシアスが戦争で手に入れたタイターニアを支配するところから始まり、彼女や反抗する恋人達を意のままにするというストーリーが基本の流れ。そこをひっくり返して、タイターニアが権力で妻を縛り付ける夫に対し一矢をを報いる、という爽快な筋書きにした。台詞をこれほど大きく付け替えるのは、シェイクスピアのテキストの熱心な信奉者には腹立たしく、そこで評価が大きく分かれると思うが、一種のアダプテーションの試みと考えれば、大変興味深い。こういうのを多くの公演でやるようになるとウンザリしてくるとは思うが、まだほとんどないと思うのでとても面白かった。私にとっては、この劇につきまとう(そして多くのシェイクスピア劇でも同様だが)、家父長的な後味の悪さを払拭してくれた。また、それに関連して、ヘレナとハーミアの友情が昂じてふたりがキスをしたり、さらにはどさくさにまぎれてライサンダーとディミートリアスまでキスするなど、恋愛は異性同士の専有物ではないという今らしい演出もあった。町の職人達も、男女入れ混じったキャスト。但、劇評を読むと、タイターニアとシーシアスの台詞の入れ替えから、つじつまの合わないところが出て来てしまっているらしいが、細かい台詞が分からない私にはその問題も気づかなかった。しっかり台詞が頭に入っていて、しかも良く聞き取れる人が見ると、印象は大分違ってくるかも知れない。

劇は平土間からせり上がってくる幾つかのステージの上で繰り広げられるが、更にその上にベッドが置かれたり、空中にベッドがつり下げられたりして、立体的な空間の利用になっている。また、俳優の多くがベッドの上で演技をするので、劇全体がまさに一夜の夢、お祭り、ファンタジー、であることをコンスタントに思いださせる仕掛けになっている。ベッドに俳優が陣取るのは、中世劇の類推から見ると、『堅忍の城』の写本と同じである。

視覚的に素晴らしかったのは、4人の妖精達を空中を舞うサーカス芸人のように使っていること。実際、プログラムによると妖精を演じたひとりはサーカスの訓練を受けた人、もうひとりは、ポール・アート(垂直の鉄棒使った器械体操)の専門家のようだ。彼らが、天井からつり下げられたり、鉄棒をくるくる回ったりして、劇場空間を立体的に埋めていく。つまり劇場全体がお祭りにやって来たサーカス小屋の雰囲気になっていた。そうした中、ボトムらの職人達はピエロとも言える。サーカスを重ねる演出は以前ウェブスターの劇の公演でも見たし、ピーター・ブルックの『真夏の夜の夢』の延長線上にもある。但、ブルックの真っ白で何もない舞台と違い、ハイトナーの舞台は過剰なまでにカラフルで装飾的なにぎやかさだ。

俳優の中では、オベロンとタイターニアの台詞の入れ替えにより、タイターニアを演じたグェンドリン・クリスティーが大変堂々として、目立った。大柄の女性で、緑のドレスが素晴らしく映えていた。またボトムを演じたハメッド・アニマショウン(Hammed Animashaun )も観客を乗せるのが実に巧み。

土間に立っている観客を演出の意図通りに動かす、アクロバティックな演技を安全に行う、せり上がるステージや動いたりつり上げたりするベッドを使用する、など1つ間違えば劇の進行がストップしたり、怪我に繋がる事故さえ起こりかねない演出だが、時計の歯車が噛み合うように、素晴らしくなめらかに進んでいて驚く。

色々な楽しいアイデア溢れる演出、そしてハイトナーのアイデアを実現する超一流のスタッフに感心する。文字通り「一夜の夢」を見た思いだ。

2019/08/19

【小説の感想】Andrew Taylor, "The Ashes of London" (HarperCollins, 2016)

Andrew Taylor, "The Ashes of London"
(HarperCollins, 2016)  482 pages.

☆☆☆☆ / 5

ロンドンの書店の棚で見て買った本。アンドリュー・テイラーという作家は始めて読むが、クライム・フィクションの分野では既に大変よく知られたベストセラー作家のようだ。これは私の好きな歴史・犯罪小説のジャンルに入る。

小説の舞台は1666年9月のロンドン大火とそれに続く日々。旧市街の多くが焼け落ち、当時からロンドンのランドマークだったセント・ポール寺院もほぼ消失した大災害。またこの時期は1642年から始まった清教徒革命と共和国時代という怒濤の時代が終わりを告げて、1660年に王政復古がなされ、処刑された前王の息子チャールズ2世がその治世を始めて間もない時代であり、イングランドは政治的にも不安定な時期でもあった。

ストーリーはふたりの男女を軸にして進行する。ひとりはジェイムズ・マーウッド(James Marwood)。急進派清教徒グループ、「第5の君主主義者」(The Fifth Monarchists)に属していた印刷職人の父を持ち、王政復古によって非常に難しい処世を迫られており、また認知症で世話が必要になっている父を守りつつ、何とか生活の糧を得ようと奔走している。その彼が大火災の最中に偶然出会い、炎から命を救ったのが若い女性のキャサリン・ラベット(Catherine Lovett)だった。しかしその時は大火災の混乱の中であり、2人はすぐにはぐれてしまう。彼女もまた「第5の君主主義者」の中心人物、トマス・ラベットを父に持ち、その父は前王の殺害者のひとりとしてチャールズ2世に追われる身で、どこにいるか分からない。彼女自身は叔父夫婦の世話になっているが、非常に居心地の悪い思いをしている。

マーウッドは勇ましいスパイや刑事でも、頭の切れる弁護士や学者でもなく、政治や宗教の嵐の中で何とかサバイバルしようとする庶民に過ぎない。しかし彼の父が過激派であったことに加え、偶然王殺し(a regicide)として追われる大罪人ラベットの娘を救ってしまったために役人達の手足として無理矢理利用されることになり、ラベット父娘の行く方を追うことになる。一方、まだ子供のような心を持ったキャサリン・ラベットは、政治にも宗教にも関心はなく、ただ自分の好きな建築デザインの夢を見、紙に建物の図を書いて過ごしている。しかし世話になっていた叔父オルダーリーの息子、つまり彼女のいとこのエドワードからレイプされ、彼女はエドワードの片目をナイフで刺して逃亡する。ジェイムズ・マーウッドもキャサリン・ラベットも、静かに生きたいと願うにもかかわらず、運命の歯車の回るままに、半ば焼け野が原になったロンドンや、廃墟と化したセント・ポール寺院を走り回る。

ジェイムズ・マーウッドは一人称の語りで登場し、彼自身は純朴な若者だが、それほど個性的な人物ではなく、むしろ他の登場人物を結びつける狂言回しみたいな役回りだ。一方、キャサリンはこの時代の女性には考えられないことだったとは思うが、ある叔母の影響で建築に興味を持ち、夢中で建物の絵を描いている間は辛い事も時間も忘れるというユニークな人物。しかし、レイプにあったり、父による宗教の押しつけに苦しんだりして、自分に合った生き方なんて夢のまた夢だ。しかし、彼女の才能に気づいた建築家で、クリストファー・レンの同僚ヘイクスビー(Hakesby)によってしばし匿われる。

歴史的に大変興味深い時代設定と、大火災の後のロンドン、特にセント・ボール寺院の廃墟を舞台にして、歴史小説としての濃密な雰囲気が楽しめる。マーウッドはその役柄から、やや個性に乏しいが、キャサリンやその他の登場人物は良く書き分けられている。特にジェイムズの父が認知症で、昔の過激派活動家時代の事を口走ったり、突然行く方が分からなくなったりして息子が冷や汗をかく場面は、現代の作家らしい工夫で、大変効果的。

エンターティンメント小説として手慣れた筆致だと感じたので、作者アンドリュー・テイラーの他の作品もそのうち読んで見よう。和訳の出ている小説もあるようだ。

(注) "The Fifth Monarchists"という急進派清教徒のグループは作者が作り上げたフィクションではなく、実際に存在し、革命期のイングランドで大きな勢力を持っていた。リンクをはった英語版ウィキペディアに解説がある。「第5の君主主義者」という和名は私が勝手に訳した名称なので、歴史の本では別の名前になっているかもしれない。この名称は元々旧約聖書のダニエル書におけるネブカドネザル王の夢で出てくる過去の王国に由来しており、それらの王国は、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマと解釈された。そして第5の君主主義者達は、次の王国として、この地上にイエスが治める千年王国がやって来ると信じていた。第5の君主主義者の有力メンバー、トマス・ハリソン(Thomas Harrison)やジョン・ケイリュー(John Carew)は共和国政府がチャールズ1世に死刑宣告をした裁判の裁判官(comissioners)であり、王政復古の後は王殺し(regicides)としてむごたらしい手段(絞首刑の後、馬で引きずられ、手足に綱をつけて4つに引き裂かれる)で処刑された。こうした実在した人々がトマス・ラベットのモデルなのだろう。

2019/08/18

【観劇 ロンドン】"Peter Gynt" (Oliver Theatre, National Theatre, 2019.8.17)

"Peter Gynt" (Oliver Theatre, National Theatre)

National Theatre 公演
観劇日:2019.8.17 13:00-16:20
劇場:Oliver Theatre

演出:Jonathan Kent
脚本:David Hare
原作:Henrik Ibsen
デザイン:Richard Hudson
照明:Mark Henderson
音響:Kevin Amos
衣装:Cara Newman

出演:
James McArdle (Peter Gynt)
Ann Louise Ross (Agatha, Peter's mother)
Guy Henry (Ballon / The Weird Passenger)
Oliver Ford Davies (The Button Moulder)
Jonathan Coy (The king of trolls / Begriffenfeldt)
Anya Chalotra (Sabine, Peter's girl friend)

☆☆☆☆ / 5

数日前にロンドンにやって来たが、それでなくてもいつも体調の悪い私は、旅の疲れと時差でずっと具合が悪く宿舎でほとんど寝ていた。今回は観劇の予定も少ないが、17日にやっと観劇に出かけた。

さて、"Peter Gynt"と名前だけ英語化しているが、イプセンの『ペール・ギュント』を現代のイギリスに置き換えたデヴィッド・ヘアのアダプテーション。但、話の筋は原作を忠実に追っているらしい。ウィキペディア日本語版に非常に簡単な粗筋あり。英語版を見ると大変詳しい粗筋。但、台詞は勿論、出来事の背景などヘアがかなり変更している部分もあるようだ。

主人公のピーターはスコットランド人の男性になっていて、演じているジェイムズ・マカードルもスコットランド生まれの俳優。ディヴィッド・テナントが素で話しているような感じ。というわけで、彼や彼のお母さんのアガサの台詞はとっても難しくてさっぱり理解不能。でもとてもカラフルでファンタジックなセット・デザインで、舞台を眺めているだけで楽しめる。

私にとって特に興味深かったのは、この劇の中世劇的な性格が大変はっきりと浮き彫りになっていた点。主人公のピーターと彼を取り巻く様々の世俗的な誘惑は、ヘアの手によって、現代社会の物質的な欲望への諷刺になっている。特にゴルフ・コース場面はトランプを思いださざるを得ない。しかし、そうした欲望を体現する様々な人物はカリカチュアになっており、寓意的。つまり、ピーターという「万人」の寓意と、彼に次から次に近づいては去って行く欲望の寓意を描く道徳劇、という枠組が際立つ。彼を誘う悪徳の中には、ガイ・ヘンリー演じる悪魔らしき人物もいる。そして人生の終わりに近づくと、彼の死を予告するボタン職人(The Button Moulder)が現れて、彼に彼岸への旅立ちの覚悟を迫る。これは正に神の使者である「死」(Death)の寓意か(演じるのは、ベテランのオリヴァー・フォード・ディヴィス)。死期を迎えるピーターは彼の人生の証人を求められるが、欲望や野心、浮薄な暮らしで時間を浪費してきた彼には死の旅路へと送り出してくれる友人はいなかった。しかし、そこに彼を待ち続けていた若い頃の許嫁のサビーネが現れて、彼を慰める。最後の時まで彼に付き添って元気づけるサビーネの姿は、道徳劇で言うと女性の役である「慈悲」(Lady Mercy)だろうか(但、中世において女性の役を演じたのは男性)。

イプセンはノルウェーの民話から大分題材を取ったそうなので、原作ではフォークロア的な感じがあるのだが、今回のモダンなアダプテーションでは現代の道徳劇になっていて、デイヴィッド・ヘアらしい作品だ。前半で出てくるトロール(妖精)の結婚式の場面は、『不思議の国のアリス』みたいで特に見栄えが良くて、楽しいシーン。トロールの王様を演じるジョナサン・コイがピリッと印象的。

『マンカインド』などと同様、随所にユーモラスなキャラクターが散りばめられているので大いに笑えそうなんだが、英語があまり分からない悲しさよ!しかし3時間半くらいの長丁場にもかかわらず、ほとんど退屈しなかった。

ジェイムズ・マカードルは出ずっぱりだが声も枯れず、良く動き、説得力もあって見応えある俳優だ。ガイ・ヘンリーやオリヴァー・フォード・ディヴィスが要所を締めているし、その他の俳優も素晴らしい。ナショナル・シアターの俳優達のクオリティーの高さを堪能した。

自分自身も年齢を重ねて身体も弱ってきて、平和ではあったがほとんど何の成果も残さなかった我が人生をふり返る昨今なので、この劇は可笑しいところは多くても、かなり切実に胸に迫った。