2020/04/22

オープン・アクセスの古典の翻訳がない

新コロナウィルスの影響でほとんどの、いや、ほぼすべての日本の大学では、今学期、オンライン授業に移行しており、多くの大学では、4月下旬から、ゴールデンウィーク明けに徐々に授業が始まりつつある。私も非常勤講師として1つの大学で講義を続けているのだが、その学校は5月下旬の開講で、まだ少し余裕があり、今、オンライン授業に合わせて授業計画を修正中だ。

大学の授業がオンラインになっても、学生がキャンパスに入り、図書館や実験室を使ったり出来れば良いのだが、非常事態宣言以降、首都圏にあるほとんどのキャンパスは入構禁止となっている。文化系の学生にとっては、特に図書館が使えないのは痛い。講義で古典的な文学作品を解説しても、その作品を自分で購入しないと読めない。そこで、インターネット上に適当な翻訳作品がないか調べてみたが、著作権フリーの英米文学作品の翻訳はネット上にあまりにも少ないのに愕然とした。中世英文学の古典で言うと、おそらく『カンタベリー物語』も『アーサー王の死』も『農夫ピアズ』も『エヴリマン』も『ベーオウルフ』も、私が知る限り、ない。シェイクスピアだってこれだけ種々の翻訳が溢れているのに、フリーでオンラインで読める訳はどれだけあるのだろうか。青空文庫のシェイクスピアは、坪内逍遙訳の『ロミオとジュリエット』のみ。他は皆、作業中とのこと。

紀要リポジトリなどにあって、URLを示せば足りるような作品があると、和訳の上手下手とか学問的な正確さに多少問題はあっても、学生や教師にとっては大変助かるだろう。初期の『カンタベリー物語』訳などは、70年の著作権を過ぎているものもあると思うが、そういう訳は書籍、それも絶版本でしか手に入らない。英語の場合、中世英文学では TEAMS Middle English Texts など、定評のあるオンラインの教育用エディションが無料で読め、印刷も出来る。その他にも、あらゆる作品、批評、啓蒙的な概説がオンラインで読めるし、日頃から大学の教材として使われている。チョーサーでは、慶應義塾大学の堀田隆一先生の英語史ブログでオンラインで読めるチョーサー学習のサイトが色々と紹介されているが、皆英語のサイトだ。最近では、"Open Access Companion to the Canterbury Tales" という素晴らしいサイトが加わっている。

日本の場合、先生達は翻訳をしても、最初から紙の本として出版し、フリーの紀要類やオンラインサイトで読めるものは極めて少ないし、出版が難しいような珍しい、地味な作品に限られる。これは、書籍として出版していないと学問的な業績として評価されにくいということもあるだろう。日本でも今後は学会や研究会などでもっとオンラインの英米文学の翻訳や教材を充実する手立てを考えてはどうかと思った。この点で特筆すべきは、国際アーサー王学会日本支部のサイトにある「アーサー王伝説解説」だ。それ程分量は多くはないが、どの大学の学生にも近づきやすい分かりやすい解説が揃っている。


2020/04/21

17世紀に出版された英語のトーマス・ベケット伝

最近はブログ記事について紹介するブログが続いて恐縮だが、今回は、カンタベリー大聖堂に残る古書を紹介するアカデミック・エッセイのシリーズ、"Picture This"の一篇について。筆者はケント大学の博士課程学生で、既に学会などで活躍中の Anna Hegland さんで、タイトルは、"Piercing a Puzzle Together"。1639年、つまり清教徒革命の直前にパリで出版された英語のトーマス・ベケット伝:"The life or the ecclesiasticall historie of S. Thomas Archbishope of Canterbury (1639)"。ベケット信仰というと中世のそれしか知らない私には大変興味深いエッセイだ。

しかも、リンク先を見ていただくと分かるように、この本には挿絵がかなり付いている。ところがこれらの挿絵はもともとこの本と一緒に出版されたのではなく、後にこの本を手に入れた読者のひとりが貼り付けたものらしい。

さて、Heglandさんの記述に沿ってこの本の来歴を順にさかのぼって紹介しよう。まずこの本の原作は16世紀イタリアの教会史学者、Caesar Baroius (1538-1607)によるラテン語のベケット伝で、これは1586-88年頃に流通していた。このラテン語の著作が、いつかは分からないが英語に翻訳され、パリに在ったColloniaeという出版業者から1639年に出版された(この時点では挿絵は付いてなかったようだ)。このColloniaeは、"widow of J. Blageart"(J. Blageartの未亡人)という女性により運営されていたそうで、他にも商業出版に広く関わっていた。この時代は勿論イングランドではカトリックの活動など到底不可能な時代だったが、こうして英語のカトリック出版物を印刷して、大陸で売り、そしておそらくイングランドにも密輸していたのだろうか。

この本には、その後18世紀に所有していた読者のサイン、"J. M. Teale, 28th Jan 1786, Maidstone Kent"という書き込みがある。つまり、この本はいつの時点でか分からないがイングランドに運ばれ、(大陸において、あるいはイングランドで)挿絵が加えられ、そして18世紀末にケント州のメイドストーンに住むJ. M. Tealeという人の手に渡ったわけである。1778年に発布された法律The Catholic Relief Act(カトリック解放法)により、イングランドのカトリック教徒はやっと土地所有や軍隊への入隊が認められたくらいで、Tealeさんの時代はまだまだ2等市民といった差別を受けていたと言って良いだろう。そうした時代、ひっそりとこの書物は読まれたのだろうか。

1170年のクリスマスに暗殺されたベケット、その後中世における熱烈な信仰の高まりと、宗教改革による聖者信仰の弾圧。そうした歴史の後に書かれ出版され、おそらく信仰の支えとして読み継がれたのがこの本。なかなかドラマチックだなあ、と感銘を受けたのでした。