tag:blogger.com,1999:blog-40701469879111633882024-03-19T20:43:51.613+09:00Sweet Showers in April: 勉強、読書、観劇の備忘録勉強のこぼれ話、読んだ小説や、東京やロンドンで見た劇の感想など。Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.comBlogger548125tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-10348131906083664932023-05-31T13:29:00.013+09:002023-05-31T14:55:24.099+09:00原基晶先生の新しい論文「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」のまとめと感想<p>ツィッターで評判になっていた新刊書<a href="http://shoraisha.com/main/book/9784879844361.html" target="_blank">『イタリアの文化と日本 日本におけるイタリア学の歴史』</a>(ジョヴァンニ・デサンティス、土肥秀行編、イタリア文化会館・大阪監修、松籟社、2023年2月、¥2200)を買った。本を整理しつつある今、新しい本はなるべく買わないように努力しているのだが、知人の原基晶先生が論文を寄稿されているので、買うことにした。とても美しいデザインのハードカバー。映画や美術を主に論じた論文もあるので図版も多数入っており、しかもその一部はカラーという贅沢さ。にもかかわらず、そして学術的な本なのに、2,200円という破格の安さに吃驚させられた。</p><p>さて私はまず巻頭の原基晶先生の論文を読んで非常に勉強になり、自分の専門分野へのヒントも大きかったので、このブログでは、自分の学習ノートを兼ねて、この論文の概要と私の感想をまとめておきたい。原先生の論文は巻頭の第1部「文学」の、更にその第1章、「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」pp. 15-46。まさにこのタイトルにあるとおり、論文は、ダンテ・アリギエリ(1265-1321)から、ボッカッチョやペトラルカを経て、ルネサンスの詩人ルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)に至る古典的な作品が日本でどのように翻訳されてきたか、そして代表的な翻訳の背後にはどのような解釈と思想があったかを分析する。その際、各時代の日本の文化や出版事情がこうした翻訳に色濃く反映されていることを指摘して、日本の翻訳文化論ともなっている。章を更に6つのセクションに分けてあり、更に一部のセクションではその下位区分もある。見出しを拾うだけで論文の構造がわかるので、まずそれを記しておこう。</p><p> 1. (イタリア)ルネサンス文学の受容史※</p><p> 2. ダンテ</p><p> 2.1 明治・大正のダンテ</p><p> 2.2 ダンテと帝国日本</p><p> 2.3 民主化後のダンテ</p><p> 2.4 比較文学的アプローチの終焉</p><p> 3. 『デカメロン』</p><p> 3.1 明治初期の翻訳に始まって</p><p> 3.2 戦後の翻訳</p><p> 3.3 現代文学からの視点と比較文学的視点の衝突</p><p> 4. ペトラルカ</p><p> 5. ルネサンスの文学</p><p> 6. 未来の翻訳のために</p><p> ※第1章のタイトルにあるカッコは本文通り。</p><p><br /></p><p>論文全体のイントロダクションである「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」で、筆者は中世・ルネサンス文学の受容と現代文学のそれが大きく異なる点を指摘する。即ち、日本においては「ルネサンスの側面が強調されて大手出版社が発信者となり、その読者である一般的な市民層が受容者となってきた。そこではイタリア史より世界史が意識され、現在の〈世界〉とその主要な動力である西洋が重要視されていることは明白だ。」(p.16)。つまり、日本の教養ある市民にとってイタリアは歴史的に「ルネサンス」という西洋文化の黄金期の中心であったと言う点で重要であり、それ以降の近代後期から現在に至る国民国家としてのイタリアの歴史や文化は、主に幾つかのステレオタイプ(例えば、ファッション、グルメ、映画、戦時中のファシズム、等々)でかろうじて記憶されるに過ぎないというわけだ。これは「ルネサンス」という言葉自体が表しているように、かっての西欧史のギリシャ・ローマ文明中心史観の一端である。「ギリシャ」という国や民族、そしてギリシャ語・ギリシャ文学も、現代のそれはほとんど顧みられず、輝かしい西欧文明の源泉としてもっぱら称揚されて来たことと類似する。大まかには、かって我々日本人の頭に浸透していた西欧の文化史では、ギリシャ・ローマを起点として文明を確立し、それから逸脱したり(中世)、再発見したり(繰り返される大小のルネサンス)してきたことになる。それは例えば、「暗黒の中世」の後にやって来た「華開くイタリア・ルネサンス」といった姿で、今でもテレビなど大衆的な情報メディアで拡散されている。</p><p>第2のセクションで、原先生は時代を追ってダンテ、特に『神曲』の翻訳について、その傾向をまとめ、批評する。『神曲』の主要な日本語訳については、彼の名著『ダンテ論 「神曲」と個人の出現』(青土社、2021)でより詳しく論じられたことでもあるが、本書は、明治・大正の翻訳から論じはじめている点が新しい、そして私にとって興味深い視点が含まれている。つまり、「そもそもダンテへの関心は英文学のミルトンとの関係から始まり(日本初の『神曲』翻訳は1903年のミルトン研究で知られる繁野天來『ダンテ神曲物語』)、カーライルの『英雄崇拝論』の影響で広がった」(p. 17)。更に、内村鑑三は「中世キリスト教の厳格な信者というダンテ像を提示」した(pp. 17-18)。内村はダンテやシェイクスピアを、「世界文学」に屹立する西洋の「大文学」の文豪として、称賛した。同様のことは詩人で英文学者の上田敏も言っているようだが、彼らの「論の根底にあったのは、まさに富国強兵と脱亜入欧という思想」であった(p. 18)。もっとも、イタリアは英仏独等と比べ、到底大国とは言いがたい。ということは、これら日本の知識人にとっては、ダンテは、同時代の国家としてのイタリアとは結びついていないのである。私には、ダンテと英文学者の縁が興味深い。上記の英文学者との関係は、更に竹内藻風や生田長江による英訳からの重訳へと続く。私が若い頃、一般読者の多くが読んだ和訳は、英文学者で、ウィリアム・ブレイク研究で博士論文を書いた寿岳文章訳の『神曲』(1974-76)だった。</p><p> 日本における西洋の巨大な知の源泉としての『神曲』理解からは、キリスト教的観点も中世の、あるいは現代のイタリアの文脈に照らしたダンテ作品という観点も抜け落ちていた。また、イタリア語・イタリア文学の研究が、英仏独文学のように充分になされていなかった日本においては、厳密な文献学的研究・翻訳には至らず、「世界をリードする西洋の〈人間〉概念をしるためには、比較文学的観点からの翻訳が求められたのだ」(p. 21)。ダンテを西洋が生んだ手本と見る観点は、軍国主義の時代にあってはファシズムと結びつき、一部のイタリア文学研究者の積極的なファシズム宣伝活動にまでいたるようだ。</p><p> 民主主義国家に変貌したと標榜する第二次大戦後の日本においては、ダンテは民主主義の出発点として理解されていたルネサンスを代表する詩人、という評価になり、「世界・・・的な価値を持ち、それゆえに、世界を構成する〈人間〉を理解するためにも重要だと考えられた」(p. 22)。つまり富国強兵への教本から民主主義の教科書へと衣替えさせられたのである。こうした比較文学/世界文学的な観点に基づいてなされたのが、平川祐弘の口語訳であり、それに続く寿岳文章訳だった。</p><p> しかし、現実世界が多極化し、文学・文化はもちろん、政治経済においても、北米と西ヨーロッパを頂点とした価値体系がかなりの程度崩れた今、古典古代に始まりルネサンスにおいて再興されたとする西欧的教養には昔日の輝きはない。西欧的教養への信頼をベースにした世界文学全集とか、出版社が出す講座ものなどはほとんど消え失せ、文学翻訳の業界自体が急激に縮小してしまったのである。</p><p>第3のセクションで、原先生はジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-75)作の『デカメロン』の翻訳を俎上に載せる。この作品の最初の翻訳は明治15年(1882)に大久保勘三郎(経歴等不詳らしい)の訳で出ており、恐らくフランス語からの重訳だそうだ。さらに戯作者としても知られる高瀬羽皐(うこう)が1886-87にやはりフランス語からの重訳で3種類の抄訳を出している。当時の翻訳は江戸の大衆的戯作文学の伝統の延長上にあり、この後、近代小説へと変化する途上だった。この後、『デカメロン』は、大衆通俗小説の系列として広まっていく。ダンテの『神曲』がハイブローで崇高な文学の代表と考えられたとすると、ボッカッチョの『デカメロン』はダンテ作品がカバーしていない民衆のたくましく猥雑な生命力を捉えた作品として印象づけられてきた。</p><p> 第2次大戦後、河島英昭による抄訳が講談社の世界文学全集から出たが、これは「現在の翻訳で文献学的に求められる作業をはじめに行った」訳業だった(p. 29)。この翻訳は「世界文学全集」という「比較文学/世界文学」と戦後の西洋的教養主義の枠組を使って出版され、抄訳という不完全な形だったが、イタリア文学の研究という視点から、イタリアの専門家の文献学的な研究に基づいた刊本を基になされた学問的翻訳だったようだ。この流れを受け継ぎ、『デカメロン』の全訳を完成したのが平川祐弘だった。河島訳は当時最先端の知識人であったボッカッチョによる『デカメロン』の、「民衆文化との、ある種の断絶があったことも明らかにしている」のに対し、平川訳は「むしろヨーロッパの散文に流れる民衆的な流れを意識しており、卑猥の問題も民衆文化の力強さの表現とする」(p. 31)。ボッカッチョからも大きな影響を受け、彼の作品を種本に使っているチョーサーについて考えると、この点はよく分かる。チョーサーは都市の富裕な商人の息子で、少年時代から王室に仕え、生涯の多くを高級官僚として過ごしたが、作品においては、宮廷文化やヨーロッパの知的伝統を広く、かつ深く反映していると共に、『カンタベリ物語』では、イングランドの民衆と彼らの日常生活や文化にも細かく目配りをし、それが作品の魅力を飛躍的に高めた。ボッカッチョにもそうした両面があり、翻訳者によってはどちらかの面が強調されるのだろう。</p><p>第4セクションではペトラルカ(1304-74)が短く取り上げられているが、ここで原先生が主に書いているのは、日本における「ルネサンス」概念についてである。イタリアでは、そして世界の中世文学研究者にとっても、13世紀後半から14世紀始めにかけて生きたダンテは、どうみても中世の詩人であるが、日本の教育では彼はルネサンスを代表する詩人として扱われてきており、その名残は今も残る。日本におけるルネサンス文学の概念では、教皇庁に支配されたラテン語による中世文明から脱して、民衆の言葉であり、人間性の解放を象徴する俗語による文学の創始者としてダンテが位置づけられる。そうすると、ラテン語作品が重要なペトラルカの作品の中で、俗語の代表作『カンツォニエレ』が特に注目され、しかも「ダンテの恋愛叙情詩のエピゴーネン(模倣)と受け取られてしまう」そうだ(p. 33)。</p><p>第5セクションは「ルネサンスの文学」と銘打たれており、次の文で始まる:「イタリア本国であれば、盛期ルネサンス文学の代表といえばアリオストの叙事詩『狂えるオルランド』であろう」(p. 33)。原先生は、彼自身の責任で「盛期ルネサンス文学の代表作は・・・」と言わずに、「イタリア本国であれば」という枕詞を付けている。その前のセクションでも、「イタリアでは中世に分類されるダンテ」という言い回しが使われていた。この論文では、こうしたイタリアにおける中世・ルネサンス概念と、日本におけるそれらとの違いが問題にされているので、こうした言い方が使われるのだろうが、文学史における時代区分は難しい。国や時代における観点の違いに加え、そもそも「中世」という歴史で使う一般的用語と、「ルネサンス」という文化史の用語を混ぜて使う事に矛盾が含まれている。後者の特徴のひとつが古典古代の「文芸復興」だとしたら、中世の間にも何度もそれは行われたし、イタリア半島においては古典古代の文芸の影響は絶えることが無かったと言えるかも知れない。</p><p> 『狂えるオルランド』は20世紀後半までの翻訳や解説では「宗教的桎梏から人間精神が解放されたルネサンスという空間で可能となった人間の自由な感情を活き活きと表現し、青春の美しさと儚さを謳っていると解釈」されてきたそうである(p. 34)。これはロマン主義に影響を受けた、やはり比較文学的/世界文学的な見方に基づいた翻訳ということなのだろう。しかし、『狂えるオルランド』は当時のローカルな背景、即ちメディチ家の政略結婚など、が色濃く反映されており、ロマン主義的解釈とは正反対のニュアンスが浮かび上がる。従って、この詩は、イタリア半島の政治状況をよく検討した上で翻訳する必要がある、と原先生は詩の一節を選んで試訳を挙げながら論じている。</p><p>論文の結論部である第6セクションで、筆者はこれまで論じてきたことを手短にまとめつつ、「日本のルネサンス概念は近・現代日本の非宗教的空間というフィクションを成立させるために形成されたと結論づけることができる」と述べる(p. 38)。つまりイタリアの「当時の社会・政治空間における宗教色」を無視し、戦前であれば富国強兵を目ざす日本から見た西欧の偉人としてダンテ以下のルネサンスの詩人を称揚し、戦後は民主主義と人間中心主義の源泉であるルネサンス詩人として同じくイタリアの詩人たちを翻訳してきたのだろう。こうした傾向は英・独・仏など、他の西欧の国々の大作家についても言えるだろうが、イタリアは国民国家としての成立が遅く、現在でも政治経済における大国とは言いがたく、日本のアカデミアにおける文学・語学の研究者層もあまり厚くない。イタリア研究者が比較的少ない中、地道な文献学的研究に基づいた翻訳がされにくく、また各時代の地域史への注意が不十分だったのだろう。最近までの既訳に見られるこれらの問題点を払拭し、『神曲』をイタリアにおける文献学の基礎に立ち、同時代の政治・社会・宗教の文脈に置いて訳し直したのが、原先生の講談社学術文庫版の翻訳と言えるが、ここに半生をかけて『神曲』新訳に取り組んだ筆者の自負が見える。</p><p>本論を読んで、中世英文学を専攻してきた私として最も刺激を受けたのは、イタリアの14-16世紀文学における、そして広く文学史や文化史における、時代区分(periodisation)についての原先生の考えである。既に書いたように、原先生はダンテを中世の詩人であるとか、アリオストをルネサンスの詩人だとか、自分自身の定義としては書かず、「イタリアでは」といった枕詞を付けて形容している。また、第1のセクションのタイトルは、「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」となっていて、わざわざ「イタリア」をカッコでくくり、読者に「(イタリア)ルネサンス」の定義について考えるように促している。本論で議論になっているのは、客観的な、あるいは学問的な「中世」とか「ルネサンス」の定義ではなく、日本においてそれらの時代区分が、戦前の国家主義や戦後は特に世界文学/比較文学の枠組で使われ、同時代の、あるいは現代イタリアの文脈とは異なるという事だろう。14世紀初期(1307-21年頃)に書かれた『神曲』は現在では中世の作品と考えるのが妥当であり、またチョーサー(1340年代前半-1400)より大分前に亡くなっているペトラルカやボッカッチョも中世の詩人と見做されることがあるかもしれない。しかし、美術と同様、イタリア・ルネサンスは北方諸国のルネサンスとは異なった時期にやってきたと考える事も出来る。だがそもそもこうした「中世」や「ルネサンス」という用語自体が極めて便宜的であり、そうした定義の根底に揺るぎなく存在するのは、古典古代を起点とする西欧中心史観なのだろう。これらのラベルの曖昧さ、ご都合主義を踏まえて、この時期の文学作品を見る(あるいは専門家は、研究したり、翻訳する)必要があるだろう。更に、この論文で使われた過去の翻訳の分析方法や視点が、中世・ルネサンス文学の他の古典の翻訳を分析する際にもテンプレートになりそうだ。</p><p> 多くの情報に溢れた刺激的な一章を読ませていただいた。研究者に限らず、西洋の「中世・ルネサンス文学」に興味を持つ一般読者にとっても大変おもしろい論文だと思うので、是非お勧めしたい。引きつづき、この論集の他の章も読んでいきたい。</p><p>(なお、原基晶先生の『ダンテ論 「神曲」と「個人」の出現』についても以前に<a href="http://playsandbooks.blogspot.com/2022/03/blog-post.html">ブログを書きました。</a>)</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-42240823804292813192023-03-23T13:35:00.000+09:002023-03-23T13:35:26.871+09:00松田隆美先生の最終講義を聴く。<p> 3月19日はオンラインで、今年度で慶應義塾大学文学部を退職される松田隆美先生の最終講義を視聴した。残念ながら、私は近年の加齢による聴力低下と頭の働きの衰えによる理解力低下で、充分理解出来たとは言えないが、パワーポイントとハンドアウトの和訳されたテキストのおかげで、大体の流れは追うことが出来た。松田先生の広範にして、高度な研究が1時間ほどの講義時間にぎっしり詰まっていた。</p><p>講演の題目は「旅のナラティヴと中世英文学研究」。『カンタベリ物語』、『サー・ガウェインと緑の騎士』、『マージェリー・ケンプの書』、『マンデヴィルの旅』などの旅を扱う中英語作品を取り上げつつ、ラテン文学やイタリア文学を引用して、ヨーロッパ全体の思想や文脈から解説された。実際にでかけた旅と、メタファーとしての旅、魂の巡歴としての旅、書物や地図上の旅(あるいは写本自体の移動)など、創造力の中で様々な方角へ拡大再生産され、飛翔する旅や移動を自由自在に説き起こしておられた。ヨーロッパの文学・思想・歴史などについての松田先生の圧倒的な知識には、お話を聴く度にいつも仰天せざるを得ない。</p><p>松田先生の学問の基礎には、若い頃からヨーロッパの諸国語(中世のイタリア語やフランス語、そして特にラテン語と現代西欧諸語)を自由自在に読まれる卓越した語学力、そして、欧米の学会水準で研究・教育を維持される能力と大変な努力があるかと思う。慶應義塾の中世文学研究の伝統を受け継ぎつつ、イングランドでも博士号を取得され、世界的な権威者達と研究交流をされてきた。先生の教え子達も、それを受け継ぎ、皆さん国際的に活躍されている。先生は、講演の中で、現在、中世英語英文学研究のすそ野が縮小し、学会会員数も非常に減少していることを嘆いておられた。これは中世英語英文学だけでなく、人文科学全体に言えるので如何ともしがたいが、そうした環境に抵抗し続けて、優秀な後進を育ててこられた松田先生の努力に敬意を表したい。</p><p>私は先生に2,3度ご挨拶したことがある程度で、お話をしたことはほぼないと言える。しかし、松田先生は記憶しておられないかもしれないが、一度だけ学会発表の司会をしていただいたことがある。感謝すると共に、大学者に司会をしていただき、私にとって良い思い出となっている。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-88051595294979078362022-05-03T13:00:00.001+09:002022-05-03T13:03:12.530+09:00C.J. Sansom, "Tombland"に描かれた巡回裁判(assize)に見られる論点<p> 前回のブログで感想を書いたC.J.サンソムの"Tombland"には、チューダー朝期の巡回裁判(assize)の描写がある。私は中世・初期近代の法に関すること全般に関心があるが、特に裁判については強い興味を持っており、この作品の裁判の場面を面白く読んだ。そもそも主人公で探偵役のマシュー・シャードレイクは上級法廷弁護士(serjeant-at-law)のようである。この作品ではほとんどの場合、単にlawyerと呼ばれているが、巡回裁判で同業のフラワーデュー弁護士に会ったときに、相手から"Serjeant Shardlake?" (Pan Books edition, p. 217) と呼び止められているところを見ると、"serjeant-at-law"(上級法廷弁護士)のようだ。こうした法廷弁護士の主な仕事場は、少なくとも中世末期においては、ロンドンのウェストミンスター・ホールにあった王室裁判所のはずであるが、ウェストミンスターの裁判所が休廷している期間には地方を巡回する裁判で裁判官などを務めることもあった。チョーサーの『カンタベリ物語』の冒頭で紹介されるカンタベリに赴く巡礼のひとりも上級法廷弁護士である。彼は「たびたび巡回裁判の判事を勤めたが、それも/開封勅許状と全権委任状によるものだった」(Justice he was ful often in assise, / By patente and by plein commissioun.)とあり、裁判官として巡回裁判を取り仕切っていたことが分かる(和訳は『カンタベリ物語』共同新訳版、p. 23、原文はペンギンブックス版、ed. Jill Mann, ll. 314-15)。</p><p> この部分に付けられた訳注は「上級法廷弁護士」を次のように説明している:「国王裁判所(法廷)で従事する特別の弁護士集団で、民事高等裁判所 Court of Common Pleas で弁護を行った」とある。また、"assise"(「巡回裁判」)に付けられている注は、「州の裁判法廷で、ある一定期間、民事訴訟を扱った。巡回裁判判事は王室訓令による」と書かれている。ジル・マンによるペンギン版の新しいエディションにもやや詳しいが大体において同じような内容の注がついており、参考文献が付記されている(pp. 810-11)。</p><p> これらの注を見、更に "Tombland" をふり返って見ると、幾らか分からない点が出てくる。まず、serjeant-at-lawがCourt of Common Pleasで弁論を行った法廷弁護士とすると、他のウェストミンスー法廷、つまり王座裁判所(King's Bench)とか、大法官庁(the Chancery)で活動した法律家はどういった人々か、やはりserjeants-at-lawなのだろうか?更に、注によると assizes では民事事件を扱ったとあるが、1972年まで続いた長い巡回裁判の歴史では、民事と刑事の両方を扱ったのが原則のようである。"Tombland"でも、巡回裁判が数日開かれるが、最初は民事を扱い、最後に刑事事件を扱っている。作者のサンソムは、前回のブログでも書いたように暦史学の博士号を持ち、事務弁護士としてのキャリアも長いので、このあたりの事実は確認した上で描いているだろう。巻末の参考文献には、裁判の記述については、J.S. Cockburn, "A History of English Assizes 1558-1714" (Cambridge UP, 1972) が特に参考になったとある(p. 866)。<a href="http://legalhistoryblog.blogspot.com/2010/09/james-s-cockburn.html" target="_blank">J.S. コックバーンはイングランド初期近代の法制史における大家</a>で、2010年に亡くなられたが、彼の何冊かの本は今もスタンダード・ワークとして参照されていると思う。私もこの本は持っていて、博士論文を書いた時に一部参照したが、通読はしてないので、一度熟読したいと思っている。中世後期、assizesとは別に、刑事裁判のためには、oyer and terminer と、gaol delibery という2つの特別法廷が各地を巡回していたが、これらは assizes を開く裁判官により開かれるようになったらしい。近代初期にはおそらく assizes において民事も刑事も扱われるようになったのではないか(J.H. Baker, "An Introduction to English Legal History", 4th ed. [Butterworths, 2002], pp. 20-22 参照)。</p><p> "Tombland" の裁判と関係する場面(pp. 210-11)を読んで、2,3面白い点に気づいた。巡回裁判の裁判官や助手などの一行がノリッジの街に入る場面もそのひとつ。騎馬の一行は、裁判官を筆頭に黒服に身を包んだ助手、書記官など。そして彼らの後には地元のジェントリや王室の役人が、それぞれ数名のお付きの者と共に、やってくる。総勢約50人ほどの行列(procession)である。町の中心のギルドホール(市庁舎にあたる)まで来ると、市長やその他ノリッジの有力商人達が出迎え、晩餐会などが開かれる。王族や大貴族の都市入場のように、王室の裁判官の到来は、地方の都市にとって大きな行事であり、地方の人々にとって王権の発揚を直接目にする機会でもある。そしてもちろん、町の人々も多く集まってこれらの行列を出迎えたことだろう。ドラマティックな一種のパフォーマンスとして興味深い行事だ。この巡回裁判判事(assize judges)の到着時における演劇的とも言える歓迎ぶりについては、上記コックバーンの著書が記しているが、鐘の音や音楽、そして時によってはラテン語の式辞、などで出迎えられたとあり(pp. 65-66)、サンソムをこれを参考にして書いたのだろう。</p><p> サンソムの描く裁判シーンで(本書のpp. 265-92)もう一点興味深いのは、巡回裁判にかけられた被告のジョン・ブーリンのために被告側弁護人が弁論をふるうことはなく、被告本人のブーリンが自分で弁論をする点である。彼の裁判場面では、従って、彼自身が証言すると共に、現在であれば弁護人がするはずの、証人に対する質問もする。ブーリンは社会的地位のあるジェントルマンで地主であり、文字が読め、知識人ではないにしてもある程度の教育を受けていると考えられるから、たまに短気を起こして我を忘れることがあるが、弁護士のようにしっかりした質問もする。またそのために前もってシャードレイク弁護士から色々と指導を受けている。イギリスのテレビ・ドラマや映画で、法廷弁護士達の激論を見慣れた私たちには不思議なのだが、刑事裁判において被告側弁護人が登場するのは18世紀の前半に過ぎない。それまでは被告は自分自身で弁護をしなければならなかった。その余裕のある裕福な被告は、この小説でのように、法律家を雇って前もってどう弁論すべきかアドバイスを受けたと思うが、慎ましい平民などは法律家の助言を得る費用もなく、ろくに何も言えないまま沈黙したのではなかろうか。この小説にも、シャードレイクが裁判の前に被告にアドバイスを与える場面がある(pp. 256-57)。ジョン・ブーリンが「私は裁判でどういう行動をしたら良いだろうか」("... how should I conduct myself at the trial?")と尋ねると、シャードレイクは言う:「刑事案件は短時間で審理が終わります。30分以上続くことはないでしょう。裁判官の質問に正しく、正直に答えなさい。検屍官が死体の発見についての証拠を述べ、その後、ミッドナイトの納屋で斧とブーツを見つけた巡査が(証言するでしょう)」("Criminal cases are short, it should not last more than half an hour. Answer the judge's questions truthfully and honestly. The coroner will give evidence about finding the body, then the constable who discovered the axe and the boots in Midnight's stable", p. 256)。そして、p. 270以降で実際に裁判の場面が描かれるが、裁判の冒頭で、レインバード裁判官は弁護士であるシャードレイクが出席しているのを見て、彼の顔を見ながら念を押す、「強調しておかねばならないが、君は証人として証言することが出来るだけで、被告側弁護人として行動することはできないからね」("I must stress you can only give evidence as a witness, not act as counsel for the accused", p. 271)。</p><p> この小説の描写で見る限り、被告側弁護人が登場しないだけでなく、告発側の法律家、つまり検察官にあたる人物もいない。裁判は、裁判官の差配の下で、まず裁判所書記(the clerk of the court)が告発状を読み上げ、それにより事件の概要が明らかにされる。次に、検視官(the coroner)が検屍法廷(the coroner's court)での審判の結果、告発状をにあるようにエディス・ブーリンが夫ジョンに殺害されたと認める、と証言する。その後、巡査(the constable)が証拠物件等に関する細かな事実を証言し、また証拠物件のハンマーとブーツが陪審員に提示される。それから、裁判長により予め決められている証人が順に証言し、裁判長が質問、また被告のジョン・ブーリンも、今であれば弁護士がするような反対尋問をする。ジョン・ブーリンを支援しているシャードレイク弁護士は、エディスの父親ガウェン・レイノルズの証言が納得出来ず、立ち上がって発言する、「裁判長、反論します。今の発言は証言ではなく、推論に過ぎません」("I must object, my Lord. This is speculation, not evidence")。しかし、レインバード裁判長はその発言をすぐに押しとどめる、「シャードレイク弁護士、君に警告しておいたはずだが、君はここでは被告側弁護士ではないのだよ」("I warned you, Serjeant Shardlake, you are not here as counsel", p. 273)。但、レインバードはシャードレイクの疑義に促されるように、レイノルズに疑問点を質すことになる。こういう具合で、裁判長、色々な証人、そして被告が発言しつつ裁判は進行する。</p><p> なお、この裁判は1549年、チューダー朝中期に行われたので、裁判における言語も英語が使われていたと思うが、中世における裁判だと、文書だけでなく、口頭弁論もフランス語、特に Law French と呼ばれるやや特殊な専門的フランス語、が使用された。陪審員が議事を理解する必要があり、特に刑事裁判においては、被告も弁論を行うよう強いられているので、実際にどのくらい仏語やラテン語が使われたかは疑問も付されている。少なくとも、常時翻訳されつつ進行する必要があるだろう。このあたりは、中世の裁判を考える上で大変興味深い論点であり、英語史研究の上でも問題となるのではないか。(<a href="http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2010-03-17-1.html" target="_blank">堀田隆一先生の英語史ブログ</a>参照)。</p><p> これはあくまで現代の作家がフィクションとして描いた16世紀半ばの裁判場面であるから、当時の実際の裁判とはかなり違っているかも知れないが、色々と考える機縁にはなり、興味深かった。専門外の私には分からない事が多いので、ブログ読者のコメントや訂正などあればありがたい。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-6076617396897986972022-04-30T13:10:00.007+09:002022-04-30T16:51:32.952+09:00【イギリスの小説】 C.J. Sansom, "Tombland" (2018) <p><a href="https://www.amazon.co.jp/Tombland-Shardlake-C-J-Sansom/dp/1447284496/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=31KR2EHMCLZRW&keywords=sansom+tombland&qid=1651304957&s=english-books&sprefix=sansom+tombland%2Cenglish-books%2C198&sr=1-1" target="_blank"> C.J. Sansom, "Tombland" </a>(2018; Pan Books, 2019) 866 pages</p><p>評価:☆☆☆☆☆ / 5</p><p> C.J. サンソムによるチューダー朝ミステリ、法廷弁護士マシュー・シャードレイク(Matthew Shardlake)シリーズの7冊目で、最新刊(とは言っても2018年刊)。私はこのシリーズは全部読んでおり(ブログで感想も書いている)、この作品も随分前にペーパーバックスを買ってあったのだが、何しろ、小説本文で約800頁、解説も含めると866頁という大冊で、英語になると一層読むのが遅い私には、なかなかな手が出ず、読み始めてから約40日かけてやっと読了した。それだけ長くかかると、最初に読んだ辺りは段々忘れてきて、放り出しそうになることが多いが、この小説は一貫して面白くて、ゆっくりとだが着実に読み進み、最後は読み終えるのが残念に思ったくらいだった。</p><p> 今までの作品の評判を見ても、イギリスの中世・初期近代歴史ミステリ・シリーズの中でも、このシリーズは最も評価が高いのではないだろうか。ミステリとしての筋書きの面白さと共に、歴史小説としても充分に楽しめ、歴史的な背景の記述も正確と言われている。作者のサンソムは、歴史学で博士号も取っており、また事務弁護士としてのキャリアも長いので、法律にも詳しいはず。今回は、特に歴史小説としての面が強く、私は非常に満足した。一方、ミステリとはあまり関係ない部分も長くて、主にそうした面を期待する読者にはやや不満かも知れない。</p><p> 今回、物語が起こるのは1549年、まだ12才にしかならないエドワード6世の治世。但、実権を握るのは護国卿、サマセット公エドワード・シーモア。マシューは、当時16才で、後に女王となるエリザベス・チューダーの屋敷に呼び出される。エリザベスの母方の遠縁の親類、ノーフォークの地主ジョン・ブーリン(John Boleyn)の長く行く方不明だった妻エディスの惨殺死体が見つかった。エリザベスは信頼するマシューにこの殺人事件の真相を解明するよう命じる。マシューは弁護士見習いの助手ニコラス・オヴァートン(Nicholas Overton)と、事件のあったノーフォークの主要都市(当時、イングランド第2の都市)ノリッジへと向かう。その頃、以前マシューの助手を務めていたジャック・バラク(Jack Barak)も巡回裁判(assize court)関連の仕事でノリッジに滞在していて、マシューと再会し、事件の解明に協力する。題名の"Tombland"はノリッジの中心部、マシュー達が宿を取った街区の地名である。しかし、その後描かれる血なまぐさい動乱を象徴する様なタイトルでもある。</p><p> この年、ノリッジとその近郊では<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Kett%27s_Rebellion" target="_blank">「ケットの乱」(Kett's Rebellion)</a>と呼ばれる民衆の大反乱が起こり、ノリッジも反乱軍に占領される。マシュー達も否応なくこの反乱に巻き込まれる。彼は反乱の首謀者ロバード・ケットに拘束され、反乱軍の法律顧問としての仕事を強要される。護国卿サマセット公は2度に渡り軍を送って、反乱を鎮圧しようとし、激しい戦闘となる。そうした戦乱の中でもマシューは粘り強くエディス・ブーリンの殺人捜査を続ける。</p><p> 巻末に60頁にわたってケットの乱についての解説があり、またその後にかなり詳しい文献の説明もあって、作者が相当深くリサーチをした上で書いた事が分かる。チューダー朝史の一コマを描いた啓蒙的な歴史書としても読める一冊だ。特に後半のケットの乱を描いた部分は力が入っていて、本筋の殺人事件を忘れるほど。マシューは法廷弁護士という知的エリートで、生まれながらの貴族とかジェントルマンという上流階層ではないが、新興の"middling class"と呼ばれる豊かなエリート層。また助手のニコラスは、親の命令に逆らって勘当されているので今は財産は全くないが、元々ジェントルマン階層の家の生まれ。この、完全な庶民でもなく、また伝統的なジェントルマンとも言えない2人が、反乱軍の人々と彼らと敵対する政府やジェントルマン階層との間に挟まれて思い悩む様子が大きな見どころ。</p><p> 巻末の解説を読むと、ケットの乱がノーフォークにおける孤立した民衆反乱ではなく、1540年代に起こった様々の社会問題によりイングランドの多くの庶民の不満が沸騰点に達して、起こるべくして起こった反乱であったことが理解出来る。主要な原因としては、「コモン」と呼ばれる共有地の、大地主たちによる一方的占拠(「囲い込み、enclosure」と呼ばれる)による農民の生活苦がある。更に、天候不順による不作、スコットランドでの不毛で不人気な戦争の戦費を賄うための増税、不良な貨幣の乱発に端を発したインフレ、政府による急進的なプロテスタント政策の押しつけ等々、他の要素も重なった。そして、これらの問題はノーフォークでだけでなく、特に南部や中部の多くの地方で共通していたので、反乱も各地で起こっていた。こうしたことも、作品に取り入れられているので重厚さが増しており、また歴史の勉強にもなった。ミステリとしてはもちろん、歴史小説の好きな方にもお勧めしたい本。</p><p> なおこのシリーズは<a href="https://www.amazon.co.jp/-/en/C・J・サンソム/dp/4087606945/ref=sr_1_1?qid=1651292612&refinements=p_27%3AC・J・サンソム&s=books&sr=1-1&text=C・J・サンソム&language=ja_JP" target="_blank">集英社文庫で翻訳出版</a>が進んでおり、既に3作品の翻訳が出ているので、この作品もやがて日本語で読めることになると思う。是非より多くの方に読んで欲しい。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-61990126351380807342022-04-02T11:57:00.004+09:002022-04-02T21:55:05.308+09:00 退職者の新年度<p> 今日は2022年4月2日。昨日、新聞やテレビでは新入社員関連の記事とかニュースなどが伝えられている。新年度と言っても無職の私には何の変化もなく暮らしているだけなので、せめてブログで今年度何をするか(あるいは、しないか)について書いて気分を変えることにした。</p><p> 私にとって今年度の大きな変化としては、先日のブログでも書いたように、1科目だけやっていた非常勤講師職がなくなったことだ。教員生活の完全な終わりということで感慨深かった。一昨年の前期以来、コロナウィルス流行のおかげでほとんどがオンライン授業であり、また昨年度後期は担当科目の履修登録者がゼロだったので、この2年はキャンパスに行くことは少なかったが、それでも非常勤講師としての所属があり、図書館やオンライン資料が利用できること、そして少額とは言え毎月一定のお小遣いが入って年金を補えたことは大きかった。これからは図書館で内外の学術書を借りたり、他大学から論文のコピーを取り寄せてもらったり、オンラインの有料データベースや辞書、オンライン・ジャーナルなどを閲覧したりも出来なくなるので、実験などが不要な文学研究とは言え、研究活動は事実上難しくなる。非常勤先大学の紀要という論文出版の手段もなくなる。大した業績はあげていない、否はっきり言って最底レベルの研究者でしかない私だが、研究を取るとほとんど何も残らない人生を送ってきたので、これはかなり辛い状態だ。勉強する事以外に趣味も乏しく、大学や学会でつきあってきた人を除き、友だちはいない。しかも、留学するために早めに退職したので、職場や研究上での知人・友人とはもう通信もほぼなくなった。ここで、頭を切り替えて、新しく人生を始めるつもりで頑張らないといけないと思っている。とは言ってもこれから新たな趣味を見つけて打ち込むような才覚も体力もないので、今までやってきたことの中から好きなことを育てていこうと思っている。</p><p> まずは勉強。論文の投稿や研究発表は出来なくても、そして新しい研究資料は手に入らなくても、自分で勉強する事は出来る。幸い、読んでいない研究書や中世の文学作品のテキストが沢山積んであるので、それらを丁寧に読むだけで充分余生を送れそうだ。チョーサーもラングランドもガワーも中世劇やインタールードも読んでいない作品や詳しく勉強していない作品だらけだ。研究資料としては古すぎる本でも、私個人の勉強のためには充分だ。</p><p> 私は学部生時代は大変な映画ファンだった。3年生の時には大学の授業をさぼって映画に行ってばかりいて、沢山単位を落としてしまい、4年生で大忙しになったくらいだ。今やシニア料金が利用できるので、どんどん映画に行こうと思う。毎月、2,3本、あるいはもっと多く、見たい。</p><p> このブログでも特に留学中にはよく感想を書いていたように、演劇も大好きだ。特に英米演劇は専門とも近いので、劇のチケットは高価なので費用は結構痛いけれども、たまには出かけたい。</p><p> その他、専門外の読書(特に英米の小説やミステリ、歴史書など)、ラテン語初等文法の復習、海外ドラマ(妻がNetflixに入っているので利用させてもらう)などもある。もちろん、生活全体で言えば、家事や病院通い、日々の買い物など必要な用事もあるので、老後生活、けして暇ではない。ボケ防止のためにも、だらだらせず、また体に無理をせず、そして、(フルタイムの職を早く退職したので少ない)私の年金に見合ったレベルで、できるだけ楽しく充実した生活を送りたい。</p><p> </p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-43135861814162865432022-03-15T16:58:00.003+09:002022-03-17T12:07:47.898+09:00 傭兵としての『カンタベリ物語』の騎士<p><span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN";"> ロシアによるウクライナの侵略戦争にシリアやチェチェンの傭兵が狩り出されるようだ。また、ウクライナ側にも多国籍の志願兵や軍事専門家が集まっている。こうした事を聞いて、『カンタベリ物語』の序歌に出てくる騎士を思いだした。序歌ではこの騎士の広範囲にわたる戦歴を次のように紹介している:</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><br /></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;"><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> . . . </span>キリスト教国はもとより異教の国においても</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">彼[チョーサーの騎士]ほど遠方まで侵攻した者はおらず、</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">その武勇の故につねに尊敬されていた。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">アレクサンドリア攻略戦のときも参戦していた。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">プロシアでは、諸国の騎士を差し置いて</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">たびたび宴会では上席を与えられた。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">リトアニアやロシアの遠征にも加わったが、</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">同じ階級のキリスト教徒で彼ほど幾度も転戦した者はいない。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">グラナダではアルヘシラス城攻囲戦に参加、</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">ベンマリンにも攻め入った。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">アヤスとアッタリアを占領した折にも</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">現地にいたのだ。東地中海では</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">名高い上陸作戦にしばしば加わった。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">死を賭した大激戦に赴くこと十五回、</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">トレムセンではキリスト教信仰のため</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">三度も一騎打ちをし、いずれも敵を倒した。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">あるときは、この勇敢な騎士は</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">パラティアの領主に加担して</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">トルコの異教徒と戦ったこともあった。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">(『カンタベリ物語 共同新訳版』[悠書館、2021]<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 8-9</span>)</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><br /></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"> 彼は北アフリカ(アレクサンドリア、ベンマリン、トレムセン)、小アジア(アッタリア、パラティア)、東欧(リトアニア)、ロシア、イベリア半島(グラナダ)、西アジア(アヤス)その他の戦地を転戦した百戦錬磨の職業軍人だった。シリアからウクライナの戦地にやってくる傭兵や、ウクライナ軍の顧問として働く西側の軍事アドバイザーなどを思いださせる。人は(大抵は、「男」は)、いつの時代も不毛な戦いで名声を競う。しかし彼らは宗教と正義の旗印の下で戦う。チョーサーは書く:</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><br /></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">こうして彼はいつも大いに声望をあげたのだった。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">剛勇なひとであったが、思慮分別に富み、</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">物腰はまるで乙女のようにおだやかだった。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">これまでどんな類の人に対しても</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">無礼な言葉を使ったことはなかった。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;">彼こそ誠の気高い最高の騎士であった。(前掲書、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 9-10</span>)。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><br /></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"> 上記のテキストの後半部分を見る限り、詩人はこの騎士を理想の騎士像として讃えているように見えるが、皮肉なチョーサーの事だから、文字通りに受け取るべきか判断が難しい。また、騎士が従事したのは<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">14</span>世紀、各地で行われた十字軍だが、この頃には、十字軍が始まった頃の聖地エルサレム奪回という目的ではなくなっており、キリスト教国の君主による周辺の異教徒(ムスリム教徒や東欧・ロシアのスラブ人など)を相手にした戦いで、現代の視点から見ると帝国主義的な戦争と言って良いかも知れない。また、一人の騎士が長期間にわたってこれだけの戦歴を積むことはあり得ないという見方もある。彼は現実に存在した騎士のリアリスティックなポートレイトではなく、当時の騎士のひとつの理想像を示す寓意的な(アレゴリカルな)人物と言って良いだろう。但、そのアレゴリーには、チョーサー独特のひねりが加えられている可能性もある。理想化しているように見えて、皮肉な視点がまったくないと言えるだろうか。</p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><br /></p>
<p style="font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;"> しかし、今回私が関心を持っているのは、チョーサーがこの騎士を理想として描いているかどうかではなく、彼が傭兵(</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">a mercenary</span><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">)か否かであり、その点では彼の転戦ぶりから見て、やはり傭兵として描かれていると私は思う。『カンタベリ物語』の序歌で描かれた騎士を契約で戦う傭兵と見て、理想化された騎士の像とは違うという視点を提案したのは、映画「モンティ・パイソン」シリーズで知られる故テリー・ジョーンズの著書『チョーサーの騎士:中世における傭兵の肖像』</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> "Chaucer's Knight: The Portrait of Medieval Mercenary" (Methuen, 1980) </span><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">だった。彼は大学には属していなかったが、この本は大変良く出来たアカデミックな本として未だに読まれている。但、チョーサーのテキストを過度にうがった読み方をしているとして反発も大きかった。</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">"The Oxford Companion to Chaucer" (2003) </span><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">において、中世英文学の権威、ダグラス・グレイは、ジョーンズのような解釈に対して、「このような見方を裏付ける歴史的な証拠には説得力がない」(</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">"The historical evidence for this last view is not convincing . . . .")</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> (p. 270)</span><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN;">と書いている。しかし、今ではジョーンズの本は少なくとも新しい解釈をもたらした重要な研究という評価は定着しているだろう。</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><br /></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"> 比較的最近の研究で私の手許にあるものとしては、『歴史学者が見るチョーサー:「カンタベリ物語」の序歌』<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">"Historians on Chaucer: The 'General Prologue' to the Canterbury Tales", ed. by Stephn H. Rigby with the assistance of Alastair J. Minnis (Oxford UP, 2014) </span>の第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>章で、編者自身の筆による<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> "The Knight" </span>がある。リグビーはマンチェスター大学の歴史学名誉教授で、著名な中世史学者であり、本書のように、文学についても重要な論考を出している。彼はチョーサーによるこの理想的な騎士像に皮肉を読み取るのは難しいと考えており、こうした騎士像は<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">14</span>世紀末においても理想として通用していたという考えだ<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> (pp. 61-62)</span>。一方でこの騎士のように各地の十字軍に参加したイングランドの騎士が多くいたことも確認しており、特にリトアニアなどバルト海沿岸地方の戦争には、イングランドを代表する大貴族達が参戦している。<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1390</span>年の(つまり『カンタベリ物語』執筆の少し前頃の)リトアニアでの戦争には、後にヘンリー<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>世となるダービー伯、ヘンリー・ボリングブルックも加わっていた<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> (p. 59)</span>。リグビー教授の指摘のうち特に興味深いのは、チョーサーの騎士が「パラティアの領主に加担して/トルコの異教徒と戦ったこともあった」ことだ。この場合、騎士の仕えた主人も敵方も共に異教徒であり、キリスト教を守る十字軍とは言いがたい。リグビーは、騎士の戦った相手がキリスト教徒ではないので、当時の人々から見ると異教徒に仕えて他の異教徒と戦うのは問題なかった、と考えている<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> (pp, 56-58)</span>。但、現在の私たちの感覚から言うと、これは傭兵以外の何ものでもないだろう。その観点から見ると、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">14</span>世紀末の騎士であるにも関わらず、彼が百年戦争に出征したという記述はまったくなく、フランスや低地諸国の地名も一切出てこないのは注目すべきだろう。つまり彼はキリスト教徒とは一度も戦っておらず、これは歴戦の勇者としては不自然なくらいである。この点は、彼の後に紹介される騎士見習い(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">The Squire</span>)が百年戦争の各地を転戦していたのとは大きく異なる。このことからも、「序歌」の騎士が寓意的人物と言って良い程に理想化されていることがうかがえるだろう。既に述べたように、彼は常にキリスト教と正義の旗印の下で戦った「誠の気高い最高の騎士」だったのである。</p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><br /></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"> さて、現在進行中のウクライナ侵略戦争に話を戻すと、ウクライナのネット・メディアによれば、ロシアが募っているとされるシリアの義勇兵として、既に登録を済ませた人が<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>万人いるそうだ。シリアは長年の戦争で破壊され、疲弊した全体主義の国だ。そんな破壊され尽くしたような国から、他の民主主義国を破壊するために<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>万人もの人(ほぼ全員男だろう)がやってくると思うと背筋が寒くなる。</p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-size: 12px; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><br /></p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-63712451477113737862022-03-11T12:31:00.002+09:002022-03-11T12:31:36.472+09:00 非常勤講師としても退職しました。<p> 昨日3月10日、今年度まで非常勤講師として1科目だけ教えてきた大学の講師室に行って、メール・ボックスを片付けてきました。電話をかけて講師室付きの職員さんに頼むことも出来たかも知れませんが、職員さんに余計な作業を頼むのも気が引けましたし、事務書類や残っている教材プリントに加え、個人宛郵便物などももしかしたらあるかも知れないので、念のために出かけました。</p><p> この学校には4年間勤めました。ちょっと古風な雰囲気のある大学でしたが、事務職員さんは丁寧で親切だし、大学のサイズの割には図書館は大変充実しているし、教室やキャンパス全体はきれいだし、教室のAV機器も充実しているし、その他、全体的に大変素晴らしい大学で、私が今まで常勤・非常勤で勤めた大学のなかでも一番快適に仕事ができたと思います。でも非常勤講師の定年まであと2年間を残して退職することにしました。ひとつは、昨年の冬から春にかけてかなり腰痛があり、通勤や授業に苦労したことです(腰痛はその後大体おさまっています)。またそれ以前から、往復で3時間かかる通勤時間は、体力のない私にはかなり辛くて、非常勤のあと3日間くらいは疲れが残ってごろごろしていました。それでも、もうひとつのことがなければ続けたと思うのですが、それは履修者がいなくなったことです。私の科目は選択科目でしたが、今学期は履修者ゼロで、開講されませんでした。その前の学期は2名の履修者でした。昨年度以前も履修者は5名程度でしかも学期中に授業を放棄する学生が多かったです。教室に行っても電灯が付いてなくて誰もいない、という日も複数回あり、実に情けない思いをしました。私の昔の専任校もそうでしたが、履修者が5〜10人程度の選択科目は、その年度は休講となり、それ以降は科目がなくなって、担当の非常勤講師もその科目だけなら辞めて貰うか、他の科目を担当してもらう事が多いです。この学校はその点とても親切で、そういうルールは無いようなんですが、しかし学生から全く興味を持ってもらえない科目を教えるのは辛いし、学校にも申し訳なく感じていたので、今年度で辞めることにしました。</p><p> 若い頃なら、授業のやり方を色々と変えて試してみて、学生の反応を見たと思いますが、教員の仕事もあと2年、しかも体に無理して遠くまで通う元気もなく、これが潮時と思いました。英米文学専攻の学部学科ではなかったので、私の授業内容が学生の興味とずれており、また、専門外の学生の興味を引きつけるには教師としての力量が足りなかったのだと思います。</p><p> 今学期は履修者はいなかったので、結局、実質的な業務の上での退職は昨年の夏でした。しかし、それ以後も今月まで、オンラインの辞書やジャーナルなどの図書館の資料は利用でき、大学に籍を置いていることで勉強の上では助けられました。今月でそれもなくなってしまうかと思うと残念ですが、今まで良くしていただいた大学に感謝しています。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-83888432474056934192022-03-06T12:15:00.009+09:002022-04-02T08:10:15.363+09:00 原基晶著『ダンテ論―「神曲」と〈個人〉の出現』 ―まとめと感想―<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; text-align: center;"><span style="font-size: medium;"><span>原基晶著『ダンテ論</span><span>―</span><span>「神曲」と〈個人〉の出現』(青土社、</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2021</span><span>年</span><span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">12</span><span>月)</span></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; text-align: center;"><span style="font-size: medium;">―まとめと感想―</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">本書の著者、原基晶先生にはおそらく<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>数年前に世界文学会で始めてお目にかかった。その時は現代イタリア文学についての先生の口頭発表をお聞きしたので、彼が中世文学に傾倒し、『神曲』を翻訳されているとは知らなかった。その後彼は講談社学術文庫から『神曲』全<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>巻を出版されるという日本の翻訳史に残る偉業を達成され、更にこの度、博士論文を基にして本書を刊行された。私はイタリア語を学んでおらず、イタリア文学全般や、ダンテの事もほとんど知らない一般読者なので、本書を正しく評価することなど到底出来ない。しかし、そう断った上で、本書が大変魅力的な内容に溢れており、『神曲』やその他のダンテの作品の理解に有用であるのみならず、広く西欧文化への教養を深めたい多くの読者に役立つ良書だと確信している。また、私自身は中世英文学を専攻し。ダンテの影響を大きく受けたと思われるジェフリー・チョーサーについても関心を持っているので、中世西欧文学を研究してきた者として、この本の内容を私なりにまとめつつ、学び、感じたことを、各章毎に一種の備忘録兼学習ノートとして残しておきたいと思い、以下の様な文章を書くに至った。</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">まずは目次を書いておこう。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">はじめに</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>章 詩人の伝記</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>章 ダンテ批評史</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>章 失われた自筆原稿を求めて</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>章 フランチェスカ・ダ・リミニと「私」</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">5</span>章 ベアトリーチェ神話の終焉と預言する詩人</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章 『神曲』と「個人」の出現</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章 ベアトリーチェの微笑</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">補論 『これが人間か』―アウシュビッツと詩について</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">終章 結論</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">あとがき</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">参考文献</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">注</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">本文<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">353</span>頁(縦書き)、参考文献と注<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">36</span>頁(横書き)、計<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">389</span>頁。なお、巻末の参考文献と注のページ・ナンバーは、本文とは別に打ってある。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 博士論文を基にした本であるから、いきなり難しい理論や先行研究の概括で始まるかと思いきや、第1章は門外漢が入りやすいように、ダンテの生涯を紹介することで始まっており、博士論文の内容はおそらく第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>章以下に反映されているのだろう。あとがきによると、この章は、博士論文の書籍化にあたって明治大学の坂本邦暢先生の助言により付け加えられたそうだが(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 353</span>)、坂本先生は本書の成功に多大な貢献をされたと言えるだろう。ここでの時代背景や伝記的事実のわかりやすい解説により、私のような素人にとって、本書の敷居がぐっと低くなった。と同時にこの章に書かれている歴史的な事実の検証は、原先生のダンテ論の核心に繋がっている。つまり、イタリアのアイデンティティーとしてのダンテ、そしてロマン主義の思想が作り上げてきたダンテといった既存のダンテ像に幾重にも塗り重ねられた修辞を取り払い、不明の部分も含めて今分かる限りの歴史的事実に基づいたありのままの彼の実像に迫りつつ『神曲』を読み直す試みがこの本の意図だからだ。第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>章では、従来語られてきた没落貴族の息子としてのダンテは虚像で、彼は小規模金融業者の家系、つまり今で言う中産階級の平民だったと著者は明らかにする。従って『神曲』は新興都市中産階級が生んだ文学だ。中世後半における都市の発展とそれが生んだ都市市民階層の勃興なくしてダンテ、そして彼の跡に続くイタリア・ルネサンスの文学はあり得なかったのだろう。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> ダンテ批評史を扱う第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>章では、ダンテは晩年『神曲』を書く以前から著名な文学者であり、『神曲』は出版されるとすぐに有名になって、古代ローマの古典同様に大学でも講じられる程の、当時における現代古典として扱われたと語られる。古代ローマの文学に対してのように、『神曲』には、当時から注釈も付けられた(これを原先生は「古注」と呼んでいる)。この「出版」は、文化的には周辺部にあるイングランドとはまったく事情が違う。ダンテの時代はまだ印刷がなかったが、イタリアでは、写本を、初期刊本に匹敵するくらい、大規模に筆写(つまり「出版」)できたらしい。ほとんどは一度に<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>冊写された写本を回し読みしたり、数人に朗読するだけだった中世イングランドとは、出発点から大違いである。つまりダンテは「出版」当初から、チョーサーのように少数の文学愛好者の知人・友人・パトロンだけではなく、数多くの知識人に、つまり世間の批評にさらされ続けた。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 中世英文学の代表的な作品は、チョーサーなど数名を除けば、写本が<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">19</span>世紀か<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>世紀に再発見されたか、あるいは好古家たち、つまり少数の古文書愛好家の間で保存され、読み続けられた。ということは、現存する大多数の中世英文学作品は、直接的にはロマン主義の解釈を経ずに、ヴィクトリア朝以降の、アカデミズムの発展と共に再発見され、文献学者による解釈が始まった。だから、中世英文学作品の批評は最初テキスト批評が中心であり、フィロロジストの独壇場で、文学作品としては充分な議論に乏しかった。それと比べると、ダンテ作品は書かれてからずっと、文学作品としてヨーロッパ中のインテリたちの批評眼にさらされてきた。その結果、良くも悪しくもロマン主義とそれに影響された批評家や学者の作った伝統が非常に分厚く、それらひとつひとつを解体(脱構築)しながら研究していかねばならないようだ。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>章では、これまでの校訂版や日本語翻訳が厳密な文献学的視点で検討される。その作業の題材として、イタリア語原典における主要なエディションであるペトロッキ版とサペーニョ版を取り上げ、特に『地獄篇』の最初の<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>行を徹底的に解析する。その目に見える違いは、ひとつのカンマ(イタリア語で「ヴィルゴラ」)の打ち方と<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">"ché"</span>という単語にアクセントを付けるかどうかという<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>点で、それがふたりの校訂者の作品解釈の違いをどう表しているかを丁寧に解説してみせるところは、校訂者の仕事がどういうものか知らない読者にとっては、目を見張る部分ではないだろうか。これに続く既存の日本語訳の精緻な解説と批評では、先人達の仕事に敬意を払いつつも、いやそれだけに厳しく各翻訳の問題点を指摘している。敬意を払うという事は、つまり率直な意見を書くということでもあると推察する。原先生は、特にどういう刊本に依拠してどのように訳したのかについて、細かく目配りしておられる。そもそも依拠した刊本を示してない翻訳もあり、また、複数の刊本や英訳などを参照したようだが、どこでどういう解釈を採用したか分からない場合もあるようだ。古典の翻訳における写本、初期刊本、現代の校訂本、そして翻訳への流れにおいて、その各プロセスの詳細を読者に明らかにしておくのが現在の常識となっているが、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>世紀のある時期まではそうした水面下の部分は専門家だけが分かっておれば良い、という傾向があった。過去においては充分に受け入れられていた慣行が今や非常識に見えるのは仕方ない事で、必ずしも過去の学者を責められない。しかし、原先生がこうして各翻訳の特徴をまとめてくださったのは、ダンテの愛読者やこれから研究を始めようとする方にとっては助かるだろう。そしてそれ以上に、他分野の大学生、大学院生や一般読者にとって、本文校訂の作業とは何か、興味深く垣間見せてくれる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この章では、「地獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">5</span>歌に描かれるパオロとフランチェスカのエピソードを題材にして、『神曲』の登場人物であるダンテと、作品を書いた詩人ダンテを同一視するか、すべきでないか、という古くから論じられてきた問題が議論される。その前提として、パオロとフランチェスカの愛、そしてそもそも『神曲』の登場人物としてのこの<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>人と実際に生きていたラヴェンナ僭主の娘フランチェスカ・ダ・リミニとリミニ僭主の三男、パオロ・マラテスタがどのくらい一致するのか、精密に分析されている。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> フランチェスカは自分の夫でパオロの兄ジャンチョットと結婚していたのに、義弟パオロと不倫の愛に落ちた。しかし、古来、フランチェスカの無垢や夫ジャンチョットの容姿や身体の障害などを挙げて、彼女に同情し、理想化する解釈があったらしい。やがて、『神曲』の歴史的背景(この場合、恋人たちの伝記的「事実」)を切り捨て、学問的な分析を退けて、テキストが訴えかける感情に身を任せるのが正しいダンテの読み方だというロマン主義的解釈が優勢になり、その影響は<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>世紀まで色濃く残ったようだ。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 更に、「地獄篇」の登場人物としてのダンテはパオロとフランチェスカの悲恋に同情するが(ロマンチックなダンテ像)、この文学キャラクターとしての「ダンテ」は『神曲』作者のダンテとは別人であるから、作者ダンテがパオロとフランチェスカに同情しているとは限らない、と原先生は言う。そうすると、美しい愛を謳えあげたように見える「地獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">5</span>歌の描写も、違ったものに見えてくる。事実、テキストを詳細に検討すると、ダンテ以前に確立していた宮廷風恋愛の文学における恋人たちの様式化された描写をダンテは取り入れているようだ。従って、フランチェスカは同情すべき理想的な恋人ではなく、しかし現実に存在したフランチェスカ・ダ・リミニでもなく、謂わばアレゴリカルな世俗的愛の体現者として描かれていることになる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 更に、この章の後半で、著者は読者にこうした描写の背景を理解させるために、『神曲』が一種の詩論としても解釈できるという学説を示し、当時のイタリア詩の重鎮で、清新体派の(創始者とされる)ダンテの師、グイド・グィニツェッリと、ダンテのライヴァルで、当時、詩人として大きな権威を誇ったグイド・カヴァルカンティについて、詩の引用を分析しながら、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>数ページにわたって詳しく解説する(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 141-65</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> グィニツェッリ、そして同じく清新体派の伝統に連なるダンテ、が詩作において表現する「愛」は、ロマンティックで肉体的な感情の発露ではなく、「哲学的、神学的に定義され、人間的な次元を超越した何か」であり、キリスト教神秘主義に類似した「見神の体験」、あるいは「神と人間を結びつける『愛』という概念」であった(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 143</span>)。原先生は、清新体派の愛についての解釈では、以前の日本のダンテ研究者にはこうした「哲学的・神学的理解が抜け落ちて」いたと言う(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 143</span>)。例として、原先生はグィニツェッリの「第五カンツォーネ」を引用しつつ、そこで描かれる「自然」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">natura</span>)は、「神から発して星々を経て地上にまで降りてくる影響の総体のことであり、グィニツェッリのこの詩は、人間の発生・・・と神が吹き込む霊(愛)の関係を含んでいる」と指摘する(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 145</span>)。このあたりは抽象的な議論で、予備知識のない読者がすぐに納得するのは難しいが、第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章においてより大きな視野から詳述されることになる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 一方、ダンテが退けたカヴァルカンティの描く愛については、彼の代表作「貴婦人よ、我に頼みたまえ」を俎上に挙げて検討する。解釈の難しい詩のようであり、原先生の言葉をそのまま引用すると、「この詩は人間の認識の能力を司る能力と、その認識から生まれた美が人間に対してふるう力、つまり愛の関係を、当時の疑似生物学的思想によって説明したものである。ここに感情の表現は含まれていない。」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 156</span>)カヴァルカンティも、グィニツェッリ同様、愛を感情表現からではなく、極めて理知的に捉えていると言えるだろう。この詩によると「『愛は知覚されたものから創造され』、具体的には『視覚によって得られた視線から出現する』。それは個的な女性の美ではなく、グィニツェッリの詩の解説で述べた脳の認識の抽象化=『普遍化』により、抽象的な美の認識に至る。・・・しかしながらカヴァルカンティの場合、その美は神の認識へとは繋がらず、知性の死と結びついている(そもそも永遠の霊的魂の存在を否定している)。」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 160</span>)</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> ここは抽象的な議論で、理解が難しいが、第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章とかなり関連しているので、本書を最後まで一度読んだ後で再読すると分かりやすい。当面、この章においては、文学キャラクターとしての作中のダンテは『神曲』作者とは別人であり、作中のダンテが同情したフランチェスカの悲恋を理想化するのは、ロマンティックな読み方に偏っていると理解出来た。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">5</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 前章に続き、この章でも既存の、かなりロマン主義の影響を受けた、従来の(特に日本における)ダンテ像を見直す作業が続く。特に章の終盤では、原先生独自の解釈が色濃く出て、深く迫力のある<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>章になっていると思う。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> ベアトリーチェについては、既に第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>章で「ベアトリーチェというフィクション」というセクションがあり(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 28-33</span>)、歴史的な事実により、ダンテはベアトリーチェの恋人ではないことが言明されており、これはまた、現在、世界のダンテ研究者によって共有されている認識のようだ。この章でも、ダンテと実在したベアトリーチェの実人生がほとんど交錯しないことが示される(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 176</span>)。このベアトリーチェというファースト・ネームは英語ではベアトリス(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">Beatrice</span>)で今もよくある名だが、「祝福を運ぶ者」という原義で抽象的な意味を持っている。つまり、道徳劇や寓意的な文学作品の登場人物のような寓意的(アレゴリカルな)名前なのである。『神曲』と共に、ベアトリーチェが登場する『新生』の解釈においては、近年の研究者はベアトリーチェを聖者伝の聖者のような人物と考えているようだ。登場人物のダンテは、ベアトリーチェという(ロマンチックな恋人ではなく)ガイドとしての聖女に案内されて神へと近づくのである。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> こうしてヴェルギリウス、その後はベアトリーチェに導かれて、地獄、煉獄、天国を巡る「ダンテ」という登場人物は、『神曲』の読者の目の代わりをする。原先生によると、「そう、『私』はダンテであると同時に『私達』なのだ」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 181</span>)。登場人物ダンテがヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれるように、私たち読者も、作中人物としてのダンテの案内により、人類の救済を求める旅路を行くのだろう。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 更に、作中のダンテが地上を離れて煉獄や地獄を巡り、そしてついに天国に達するということは、地上に降りてきたイエスが肉体の死を経て地獄を解放したのち天国に帰って行く道のりとも重なる。原先生は登場人物としての「ダンテ」を<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>つの役割に分割し、「旅人ダンテ」と「詩人(預言者)ダンテ」と名づける。前者はヴェルギリウスとベアトリーチェに道案内された文字通りの旅人であり、読者の目や耳となる人、後者はキリストと重なり、「この世界に戻った後、神からの預言を人々にもたらす」人である(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 189</span>)。このキリストと重なる預言者ダンテは、中世文学でしばしば現れる神の「予型」(フィグーラ、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">figura</span>)とも解釈される。私の勉強してきた中世の聖史劇では、神の予型として解釈されるのは、アベル、ノア、イサクといった旧約聖書の人物だが、『神曲』では登場人物ダンテがそのように解釈されうるようだ。と同時にダンテは現実に存在した歴史上の人物で、『神曲』を書いている詩人自身でもある。ダンテという預言者を通して、この世、即ちイタリアの現実世界へ神の意図を知らしめようとするのが『神曲』という作品なのであろう。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 本書の後半、特にこの第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">50</span>頁)と第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">53</span>頁)は概念的な議論が長く続き、即物的で頭の悪い私にはあまり理解出来ず、苦労して読んだ。段々と結論に向けて進んで行く道程は、ダンテの描く煉獄山を思い起こさせる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 本章では前章に続き、予型論(フィグーラ論)から始まる。この予型論の先駆者として、古典的な文芸批評を何冊か書き、今も読み続けられるエーリッヒ・アウエルバッハの予型論によるダンテの理解が紹介される。アウエルバッハのフィグーラ論を利用する事が、原先生のダンテ論の重要な柱であると思ったが、しかし、これを利用する事で先生の本全体がかなり難解なものになってしまった気がする。アウエルバッハのフィグーラ論は「通常のアレゴリーとは区別」される(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 204</span>)。即ち、</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">フィグーラの両極は時間的に分けられているが、両者は、現実的な出来事、あるいは形姿として、時間の内部に横たわっている。(中略)[その一方で]大多数のアレゴリー、文学あるいは造形美術のそれは、徳(たとえば、知恵)や情熱(嫉妬)、あるいは制度(法律)また、ひょっとすると歴史的現象の最も一般的な総合(平和、祖国)を表現する。決して特定の出来事の完全な歴史的内容を表現することはない。(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 204</span>、但、この一節はアウエルバッハ「フィギューラ」の和訳からの引用。出典について詳しくは本書の巻末注<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 19</span>参照)</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">原先生は更にアウエルバッハのこの考えを解説して書く、「個的特徴を持たず、抽象的、類型的な存在でしかないアレゴリー的表象と異なり、ダンテが予型論で描くのは、歴史上の特定の人物の、彼を表象する現実的な事件である」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 205</span>)。つまり、作中人物としてのダンテやベアトリーチェといった歴史上でも存在した人物も、アレゴリカルな意味を帯びて登場するということだろう。但これだけだと、ではアレゴリカルな意味を帯びた人物を多用する西洋近代小説や演劇作品(たとえば、ディケンズの多くの作品)とダンテはどう違うのか、と思うが、中世文学である『神曲』においては、アレゴリカルな意味を帯びつつ描かれる歴史上の個人は、全知全能で時間を超越する神の視線の下で、その歴史的な限界を超えていくことになる。更に引用すると、</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;"><span style="font-size: medium;">・・・ダンテ自身は彼の現在として地獄や煉獄、そして天国さえも通過していくが、死者たち、つまりフィグーラの成就であるはずの登場人物たちは永遠の位相に住んでいるからだ。これに対しては、アウエルバッハは地上の事物の一致の延長線上にプラトン的な永遠なるものの出現を見ており、それは「時間の違いが存在しない神の摂理においてはいつもすでに成就されたまま横たわっている」としている。(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 206</span>、鈎括弧内の引用は、前掲アウエルバッハ「フィギューラ」より、巻末注<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">10</span>、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 19</span>参照)</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 24px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">言い替えると、『神曲』という物語、一種の巡礼記、においてダンテという登場人物は時間を経ながら順番に地獄、煉獄、天国と回っていくが、そこで彼が出会う人々(永遠の魂たち)は時間を超越した世界に存在する。『神曲』は人の時間と永遠とが交わるという、おおよそ不可能な表現を試みた作品であるが、天国や地獄を描くのであればそうならざるを得ない。原先生の別の表現を引くと、「歴史的事実がアレゴリーとして読み込まれ、神の言葉としての永遠の位相に反映されるのが神学者のアレゴリーであり、それはアウエルバッハのいう『フィグーラ』をも含む」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 208</span>)ということらしい。このあたりは、中世の哲学や神学の文章を読み慣れている方々には分かりやすいかも知れないが、一般の読者にはかなり難しいところであり、私も十分理解しているか心許ない。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この神の視野の下にある永遠ということを突き詰めていくと、結局、我々人間のすることは皆予め決定されているという宿命論(決定論)にたどり着く。こうした考えが中世の社会や学問にどう根づいていたかを本章では歴史的に説明し(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 212ff.</span>)、イタリアにおける封建領主社会から都市と都市市民階級の勃興への流れ、イスラム占星術の影響とダンテの先達ブルネット・ラティーニの思想などに触れる。細かく書かないが、このあたり、大変勉強になる。ラティーニはイスラム文化の影響を受け、決定論的であり、原先生の言葉では、「『運命』あるいは『定め』が人間の行動を決定し、人間の側の自由意志が否定されているかのような気配がある」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 223</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> そうしたことを踏まえ、ジェフリー・チョーサーの作品でもお馴染みの「運命(あるいは、運命の女神)と人の自由意志」の議論が展開される。ラティーニが、神の与えた運命の前では人間の自由な意志の存在する余地はない、と否定的な考えを採るのに対して、登場人物ダンテは第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">15</span>歌の<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">93</span>行で、「運命の女神に対する備えは、彼女が何を望もうとも、できています」と言う(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 226</span>)。確かに人間には神の深い意図を常に理解することは出来ないが、「事物の変転のなかに、ダンテは神慮があると考え、己の自由意志により理性を駆使して正しい道を選ぼうとする」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 226-27</span>)。これはチョーサーの作品やその他多くの中世の文学作品にもうかがえる考えであり、また中世の文学や哲学などを越えて、信仰の表明とも言えるだろう。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> さて、この後、原先生は一旦概念的議論を離れて、同時代のフィレンツェと都市の金融業、特に高利貸し、について解説する。神が与える宿命が人間を縛っているために神の思惑は分からないと決定論的に見てしまうと、世界で起こっていることは善悪問わず何でも認める、つまり弱肉強食の経済原理の全肯定、現代的に言えば新自由主義的な経済活動の肯定に繋がりかねない。そこでは平民(「ポポロ」)の生活を食い荒らす大規模金融業者と少数の権力者、外国勢力などが支配する国家観が出現する。フィレンツェの小市民で、選ばれて頭領の<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>人として政治にも関わったダンテは、こうした流れに棹さすが、母国を追われ、『神曲』執筆時には亡命者となっていた。詩人ダンテの考えでは、人はそれが宿命と考えて欲に溺れて他者を食い物にしてはならず、自由意志を働かせて他者と共存し(「平和」の希求)、より良く国を治め、正しく生きねばならない。原先生の言葉では、「人は神からの贈り物としての自然に働きかけて、その恵みによって命をつながなければならないとダンテは主張する。それゆえ金銭が金銭を産み、財をそれ自体で生むという利子は本来あってはならないとする。」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 235-36</span>)</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> こうして見ると、神から富や権力を与えられながら、自由意志を行使してより良く生きる道を選ばなかった者たちはまさに地獄に堕ちるに値し、実際、『神曲』ではそうした人々の慟哭が地獄を満たしている。一方で、市井に生きる慎ましい職人や商人などは、生活を立てることに全力で向かわざるを得ず、生き方を選ぶための富も権力も元々与えられてはいない。生まれ育った都市から、ダンテがしたように亡命することも出来ない無名の人たちは、庶民の冷静な知恵を働かせつつ、人生を過ごしている。彼らは「困難に立ち向かって正しい行いを貫徹した天国の聖人でもなく、神慮に逆らって己の行いをこそ是とした地獄の罪人ともことなる」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 243</span>)。こうした人たちが生き残るためにやむを得ず犯さざるを得なかった罪を悔悛し、神の御許に赴くべく試練を受け止めるのがダンテの描く煉獄である。そうして彼らは煉獄山を、まるでサンティアゴ・デ・コンポステーラやエルサレムを目ざす巡礼たちのように登っていき、罪を認めて悔悛しつつ、一歩一歩神へと近づいていくわけである。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章は「ダンテにおける平和」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 245-50</span>)と題されたセクションで終わる。ここで原先生はダンテが『神曲』と同時期に書いたとされる『帝国論』を素材にして、中世における国家、社会の各組織(身分、職業、一族、都市、その他)、そして個人の関係について論じる。この書物の中で、ダンテは、国家や、社会の各組織はもちろんだが、個人に対しても「永遠なる神が自己の業なる自然を通じてそれがために人類全体を想像した最善の目的が存在する」と書く(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 247</span>、この引用はダンテ『帝政論』の日本語訳より。巻末注<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">37</span>、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 21</span>参照)。そしてこの神により個々人が、従って人類全体が与えられている最善を志向する知恵をダンテは「可動的知性」(ラテン語で、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">'intellectus possibilis' </span>)と名づけている。この「可動的知性」、神の示した最善を求める指向性は、個人が「座して安らうこと」、そして人類全体の「平和の静けさないし安らぎ」の中で「最も自由に、そして最も容易に遂行できる」とする(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 248</span>、語句の引用は引きつづき『帝政論』より)。更に人の自由意志を最終的には否定する決定論者がその拠り所のひとつとする「天空の影響」も神の作った「自然」の一環であり、個人の可動的知性を開花させるために存在するとダンテは考えた。「こうして、ダンテにおいては等しく神に与えられた個別の魂のそれぞれの多様な人生が重要視されることになり、その目的のためには[一都市や一国家を越えた]人類全体の平和が必要とされたのである。」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 249</span>)</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章はダンテの思想の根幹を捉えようという試みで、圧巻であり、読めば読むほど説得力が増すと感じた。ダンテが社会の組織や国家の枠を越えて人類の平和を希求したという点は、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">21</span>世紀の私たちへの原先生のメッセージでもあるだろう。但、本章は抽象的な議論が続き、読者にとってかなり難解でもある。ひとつひとつのセクションをよく理解しておかないと、原先生の思考がどう繋がって進行しているのか分からなくなりそうだ。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この章は、第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章の最後に扱ったトピックでもある「世界平和という思想」をタイトルとしたセクションで始まる。前章では概念的な議論であったが、ここではその思想が生まれた中世西欧の社会的背景の説明で始まる。都市の勃興と都市が生んだ市民層を経済的に支えていたのは商業の発展だった。それ以前の、圧倒的多数の貧しい農民と彼らを支配する騎士たち、つまり戦士階級の文化とは異なり、大多数の慎ましい市民層は政治の安定と平和により栄えることが出来た。しかし、大銀行家を中心とした一握りの富裕層は封建領主と結びつき、合議制と平和を求める市民層と対立する。ではダンテはこうしたイタリアの現実の下で、どういう国家の統治を求めていたのか。原先生は、『神曲』、特に「天国篇」とほぼ同時期に書かれたとされるダンテの『帝国論』を手がかりに、この作品と「天国篇」のテキストを引き比べつつ、第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章で議論された人間個人の「自由意志」の問題と絡めて、「世界平和」の議論を進める。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 原先生によると、ダンテの考えでは、神は人への最大の贈り物として「意志の自由」を与えているが(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 259</span>、「天国篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">5</span>歌など参照)、この自由意志の行使には正しい方向性を持った「知性」による「判断」が必要とされる(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 261</span>)。そしてこの「知性」もまた神に与えられたものであり、「人間の魂の本質部分」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 261</span>、「煉獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">25</span>歌参照)である。ダンテの言う神に与えられた知性は、既に出て来た「可動的知性」、つまり自ら己を振り返る力を持つ自由意志と一体となった知性である。『帝政論』は地上世界のあるべき姿を書いた書物であるので、「人間が最も自由な状態に置かれているならば、人間個人が神を志向することは揺るがない」はずである(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 269</span>)。しかし、『神曲』では、そのあるべき「『最も自由な状態』が地上で実現されていないために、過ちを犯してしまう可能性が強調されている」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 269</span>)。さて、この神を志向する上で欠かせない「自由な状態」、あるいは「座して安らうこと」は、社会や国家における、更に人類全体の普遍的な平和へと繋がっており、神へと向かう「条件」なのである(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 271</span>)。そしてこの国家の平和を担うべきとダンテが考えた権力者が、皇帝だった。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> さて、例えばチョーサーの作品で見られるように、中世文学で自由意志の概念と両立するか否かが問われるのが、天体の影響である。天体の影響、運命の女神、宿命等々と言い替えられるこれらの抗いがたい力を前にして、人の自由意志はどう位置づけられるのか。ダンテにおいては、こうした「運命」も神の創られた「『自然』の営為の一部であり・・・、その開花は人類全体として考えれば神の偉大さを示す称賛になる」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 272</span>)。但、ダンテにとって、そのような「開花」は平和な状態、安らげる世界の存在を「条件」としているが、それぞれ世俗世界と精神世界を導くべき皇帝と教皇が彼らのなすべき務めを果たしていないために平和が存在せず、多くの人々は暗い森に入り込んで神への真っ直ぐな道を見失い、死後に地獄や煉獄へと堕ちてしまっているというのが、ダンテが見ていた現実のようである。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章後半、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">273</span>頁以降で原先生は主として「天国篇」について解説し、そこで本章のタイトルでもある「ベアトリーチェの微笑」とは何かを明らかにする。詩人は「地獄篇」と「煉獄篇」で「導きの歪んだ地上世界の姿と、その世界の中で苦しむ一人一人の人間の姿」を描いた(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 272</span>)。こうした地獄や煉獄の描写のダンテ流のリアリズムを理念上支える世界平和の思想が『帝政論』と『天国篇』で開示される。つまり、「地獄篇」や「煉獄篇」では、「この人は生きている時こうだったから、死んだ後はこういう所に堕ちた」ことが描かれるのに対して、「天国篇」では、そうした「現実描写」はなく、「登場する人物たちの地上における具体的な認識、判断、行動を示すことで天国への道を示すとともに、それぞれの魂の置かれた天空が、その魂の持つ『力』(徳)が実行された結果として、その居場所となったことも表示する」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 273</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> では具体的にはダンテの天国はどう描かれているのか。原先生は煉獄山の頂上で登場人物ダンテがガイド、ヴェルギリウスと別れるところから話を始める。ヴェルギリウスは登場人物ダンテにとっての知性であり、判断力であったが、ダンテは彼の自由意志を行使してヴェルギリウスの後を歩き、導き手の祝福を得て天国へと入る。ここで原先生は「天国篇」第1歌冒頭の<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>行を細かく分析する:</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">万物を動かされる方の栄光は</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">全宇宙をあまねく貫き、その反射は</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">あるところでは強く、別なところでは弱く輝く。</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 276</span>、講談社学術文庫版<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> p. 18</span>)</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">かみ砕いて考えると、「万物を動かされる方」、つまり神から光線が発せられ、被造物はそれを受けて「反射」するが、その反射の輝きは強弱がある、ということだ。この神の光線の発射は、天地創造の、そしてその後の世界のあり方の表現であり、詩的語彙を使えば、神と被造物との「愛」の交換ということになる。原先生の文章を引用すれば、「全事物は神の愛ゆえにその有り様とともに創造され、その存在は喜び、つまり神への愛を返す」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 278</span>)。煉獄の旅の完了と共にダンテは神の国に入ることが許されて、「神の恵み」そのものを意味するベアトリーチェと出会う(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">"Beatrice", Latin "Beatrix": one who brings happiess</span>)。原先生はここで第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>章で詳しく解説されたパオロとフランチェスカの愛に言及しつつ、地獄に堕ちた恋人たちの愛も、天国の神への愛と、愛の性質としては共通していると指摘するが、しかしこれらの恋人たちの「恋愛が地獄に堕とされているのは、具体的な肉体=物質の持つ美に執着し、そこから抽象的な美の徳や神の愛に気づけなかった結果であることが分かる」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 282</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> さて、「煉獄篇」の最後でベアトリーチェに出会った登場人物ダンテは、彼女の「聖なる微笑は/古[いにしえ]の網でこれほどまでに目を自らのもとに誘い込んでいた」と述べる(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 284</span>、第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">32</span>歌、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">ll. 5-6</span>、文庫版<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 470</span>)。つまり、「ベアトリーチェは神から発せられた光線を受けて反射光を放ち輝く何かである。それが、本来は世俗の表現に使われる『微笑』として姿かたちを与えられている」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 284</span>)。ベアトリーチェという光り輝く者まで議論を進めたところで、原先生は読者に再び「地獄篇」冒頭の「暗い森の中をさまよっている自分[我ら]」を思いださせる。ここまでの懇切丁寧な議論により、地上世界にいる「我ら」はしばしば神の光を見失い、「まっすぐに続く道」即ちキリストの跡を追えなくなって、暗い森の中に迷い込んでいることが分かる。つまり、人は自由意志を充分に働かせずに「気づきの機会を逃してしまった」のである(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 286</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この後、原先生は、神の光を正しく反射できなかった、即ち自由意志を行使するにあたり、正しく「判断」出来なかった人物の例として、ダンテのライヴァルであったグイド・カヴァルカンティについてしばらく語る(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 286-92</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この章の最後では、「地獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">26</span>歌に登場する古代ギリシャの英雄オデュッセウス(英語名「ユリシーズ」)を通して、「地上における神の世界のアレゴリー」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 292</span>)が検証される。ダンテはホメーロスの原典を知らず、西欧中世においては教会説話などで広まっていたオデュッセウス像を基に人物を造形した。彼の描くオデュッセウスは世界の果てを目指し、神の怒りに触れて地獄の最下層、マレボルジュに堕とされる。このオデュッセウス像はふたつの要素を基に出来た。ひとつは、トロイ攻めの木馬のトリックを発案した詐欺のアレゴリーであり、もうひとつは、真理と天国を求めて旅立つ信仰のアレゴリーである。但、『神曲』で描かれたオデュッセウスの場合、後者の要素は、真理の探究ではなく、やみくもな好奇心にすり替わってしまう。「地獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>歌で、彼は次のように語る:</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">わが息子への深い愛情も、老いた父への</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">敬愛も、ペーネロペイア[彼の貞淑な妻]を幸せにしたはずの</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">誠実な愛も、</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">わが心に燃える炎に打ち克つことはできなかった。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">私はなりたかった、世界の事物と、</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;">だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。</span></p>
<p style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;"><span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal;"> (</span>p. 298<span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal;">、「地獄篇」第</span>26<span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal;">歌</span> ll. 94-100<span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal;">、文庫版</span> p. 391<span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal;">、</span></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;"> なお、本書<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 298</span>で第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>歌となっているのは誤記と思われる。)</span></p><p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px 0px 0px 36px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">家族への愛を捨て、徳を高めることを怠り、つまり自由意志の判断を誤って、オデュッセウスは欲望に突き動かされて大海原の果てを目ざすが、死後にマレボルジュに堕ちる羽目になる。ここで原先生は、アウシュビッツを生き抜いた作家プリモ・レーヴィの言葉を引用しつつ、レーヴィにとって、そしてダンテにとって、「大海原」は「自由と生命の象徴」であったと言う(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 302</span>)。但、この「大海原」に旅立って、その結果地獄に堕ちたオデュッセウスをどう考えるべきかについて、原先生は<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">302-03</span>頁で触れつつも、この章では明快な答を与えていないようで、読者はもう一度、レーヴィとオデュッセウスについて次の補章で詳しく考える事になる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章の結びは、登場人物ダンテが天国の頂点、至高天(エンピレオ)に到達し、彼の魂が光線となって神へと向かうことを確認して終わる。彼は「暗い森」から出発して、「真っ直ぐな道」、つまりキリストを見出し、「彼自身がその光線となって神のもとに戻ったのだ」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 305</span>)。本書の読者は、まるでヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれた旅人ダンテのように、原先生の文章に導かれて『神曲』とダンテの世界を巡り、ここで一応の終着点に到達する。しかし、上記のように、まだ幾らかの疑問が残っており、それが補論で論じられる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">補論</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 何のために「補論」なるものがついているのか、目次を見ただけでは疑問だったが、読んで見ると、この本にとって、そして原先生の研究姿勢にとって、無くてはならない文章である。既に述べたように、本書は博士論文を元にして書かれているそうだ。一般的に博士論文では、それまでの研究を踏まえて、先行研究においてあまり論じられていないテーマを見つけ、深く掘り下げて、その学問分野に貢献することが求められる。結果的に、基礎知識に乏しい一般読者には理解しがたい、学者に対してだけ関心を呼ぶような論文が出来上がる。一方本書は、ダンテの『神曲』という、日本でも義務教育の教科書を通じて誰しも名前を聞いたことがあり、多くの人が一部でも読んでいる世界文学の古典を通じて、最終的に「人はどう生きるべきか」、「人の生きる意味は何か」という愚直で、時空を越えたユニバーサルな問いかけをしている本だと思う。この補論で、原先生は、アウシュヴィッツで友人ジャンに『神曲』について語ったユダヤ系イタリア人作家プリモ・レーヴィの自伝的作品『これが人間か』(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1947</span>)を取り上げ、『神曲』が大昔の外国文学の書物というだけではなく、現在を生きる私たちにとって切実な意味を帯びうる作品だと教えてくれる。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この作品名(正確には『これが一人の男だろうか』)は作者自身によるのではなく、出版社が考えたもので、レーヴィ自身は『どん底』、あるいは『沈んだ者たち』という題名を希望していた。これら採用されなかったタイトルは、『神曲』の地獄とそこに「沈んだ者たち」を示唆していたようだ。とりわけ「『地獄篇』第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">20</span>歌の冒頭にある・・・『闇に沈んだ者どもをめぐる曲』という言葉の引用なのだ」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 314</span>)。そして、第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章で触れられていたように、『神曲』のオデュッセウスも地獄に沈んだ者のひとりだった。そして、原先生は『これが人間か』巻頭の詩も「天国篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>歌冒頭の詩句と共鳴していると指摘する(但、この類似はイタリア語を解しない私には分かりづらくてやや無理があるようにも見えたが)。少なくとも、詩人ダンテは、天国の海を渡る登場人物ダンテと、故郷と家族を捨てて果てしない旅に出て地獄に堕ちたオデュッセウスを比較するように描く。こうしてみると、レーヴィは『これが人間か』の冒頭からダンテの描いたオデュッセウスを意識していたわけだ。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 但、『神曲』のオデュッセウスは地獄で永遠の苦行を続ける。煉獄に送られた者たちと違い、彼に救済の望みはない。これは異教の時代に生まれ、神の知恵に触れる機会を与えられなかったオデュッセウスにとって仕方ないことなのか(ダンテはオデュッセウスの不条理な運命に同情的だという説もあるそうだ[<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 317</span>])。キリストの降臨以前に生きた彼は、正しい判断を下すために必要な神からの知恵を持たなかった。第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章で原先生が指摘したように、オデュッセウスは言う「私はなりたかった、世界の事物と、/人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。/だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 298</span>、「地獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">26</span>歌<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> ll. 94-100</span>、文庫版<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;"> p. 391</span>)オデュッセウスは知恵を求めていたが、その機会を与えられていなかった。彼と同様に、プリモ・レーヴィもこの世の地獄であったアウシュヴィッツで救いの希望のないままに生きていた。オデュッセウスとレーヴィの物語は、それゆえ「神の決定の不可知、さらに踏み込むと、不条理を描いていると考えられる」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 317</span>)。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> レーヴィは収容所で収容者の食事を取りに行く道すがらフランス人ジャンにイタリア語の簡単なレッスンをしたが、その教材として途切れ途切れになる記憶を辿りながら『神曲』をフランス語に訳す。彼はジャンに「耳と精神を開くのだ」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 318</span>)と語りかけ、謂わば『神曲』の講読をしつつ、自分自身、まるで黙示録のラッパを聞き、神の啓示に打たれたかのように我を忘れる。それは「地獄篇」第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">25</span>歌、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">67-72</span>行に描かれた「ダンテが煉獄で人間の成り立ちの自然描写的真理を聞かされる場面のオマージュ」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 319</span>)だそうである。第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>章で詳しく述べられたように、ダンテは、人間は正しい判断を行うための「知性」を神から与えられており、そしてその判断に基づいて「自由意志」を行使すべきと考えた。但、自由に知性を働かせ、正しく判断するためには、安らぎと平和が必要だったはずだが、アウシュヴィッツの収容者たちにはそのような平和は許されていない。収容者は「分断され、人間として扱われていない」、「枠場に捕らわれた」人々である(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 320</span>)。彼らは、文字通りこの世の地獄で獣のように生きざるを得ず、自らを殺すための道具である十字架を背負わされてゴルゴダの丘を上るイエスになぞらえられる(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 320</span>)。にもかかわらず、レーヴィには『神曲』のおかげで「ある種の真理の啓示ともいえる瞬間があり、それゆえに彼もまた、ダンテのように真理を地上に届ける決意を担うことになったのである」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 320</span>)。但、彼とジャンの肩にかかっていたのは十字架ではなく、当番として彼らが運んでいた<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">50</span>キロもある大鍋だったが。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> ダンテは<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">13</span>世紀始めに『神曲』を書き終えたが、彼の死後、イタリアを始めとしてヨーロッパ全体を黒死病が襲い、人口の<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">3</span>分の<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">1</span>を超える人が亡くなる。プリモ・レーヴィはホロコーストによりヨーロッパのユダヤ人コミュニティの多くが殲滅されるにいたる時代を生きた。ペストやホロコーストというこの世の地獄を前にして、人は神の全知(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">Providence</span>)をどう受け止めれば良いのだろうか。レーヴィはアウシュヴィッツという極限状況下で、『神曲』について語ることで彼の物語を紡いで、地獄で生き続ける意味を探ろうとしたのだろう。原先生の言葉を引用すると、「人は、物ごとを理解するには、必ず物語を必要とする。思考することを否定するような場所を描くにあたり、己の持っていた人間を取り戻すためには、思考を取り戻すためには、彼には文学が必要だったのだ。」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 324</span>)</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 原先生は、この補論を本書の最後に加えることで、ダンテの描いた宇宙とそこにうごめく人々の物語を通じて、現代におけるダンテの読者に、「人はどう生きるべきか」という愚直な問いを考え続けるよう促していると思う。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">終章 結論</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> この章では、一般的に博士論文はそうなっていると思うが、本書全体の意図と(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 329</span>)、各章毎のかなり詳しいまとめ(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 329-44</span>)が書かれていて、本書を読んで良く分からないままの部分があっても、ここを読むと復習が出来るようになっており、親切だ。但、ここで新しく付け加えられた記述もある。第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>章についてのまとめでは(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 332-35</span>)、ジーン・<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">A</span>・ブラッカー『ルネサンス都市フィレンツェ』の翻訳者(森田義之、松本典昭)の解説のかなり長い引用など、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">4</span>章を補完する新たな解説が加えられているので、注意が必要だ。原先生自身、「本論文では扱わなかったが、個人の概念については・・・」という文章で議論を始め、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">12</span>、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">13</span>世紀の中世における所謂「ルネサンス」と、そうした時代における「個人の誕生」と言われる文化・思想の変化について概括している。西欧文化史や思想史における「個人」とは何か、またそもそも「ルネサンス」とは何かと言う問いへの答は非常に難しく、歴史学者や文学史家それぞれの視点の置き方により大いに違うだろう。原先生が訴えようとしているのは、かっては「ルネサンス」とか「個人」と言う時には、文化史の巨人しか視野に入っておらず、庶民への注意が抜け落ちていたこと。そして、中世の商業と都市の発展の中で、知識人のみならず、一般の庶民に対しても、「個人」の存在、精神(あるいは自由な意志)の表現を見ることが出来る、ということだろうか?但、私の理解で先生の真意をくみ取っているかどうか心許ない。そして、一人の一般読者としての私はそこに問題を感じる。つまり、本書は副題が「『神曲』と〈個人〉の出現」となっており、ダンテにとって、そして中世西欧における、「個人」とは何か、ということが本書の最終的な理解のために必要なのだろうが、こうして結論部のまとめで新たに補強しなければならないようでは、読者に不親切なのではないか。本書は、読者として、イタリア文学研究者だけでなく、一般の教養人も念頭に置いていると思うが、副題に書かれている点が不消化のままに読了される方が多いかもしれないと危惧する。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> なお、この部分に「自我という個人の概念の覚醒は十二世紀のカロリング・ルネサンスや・・・」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 332</span>)とあるが、ここでの「カロリング・ルネサンス」がフランク王国のカール大帝(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">814</span>年没)時代の文化を指すとすれば、十二世紀というのは書き間違いだろうか。一方で、カール大帝の時代や、英文学で言えば、『ベーオウルフ』や古英語の叙情詩など、<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">8</span>~<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">11</span>世紀のアングロ・サクソン文学にも充分に個人の感情の発露は見られる。つまり視点によっては、中世における「個人の誕生/出現」をどの時代に見出すかには大きな幅がありそうだ。そう考えてみると、副題のつけ方に改良の余地があったか、もしそうでなければ「〈個人〉の出現」という点について、本論全体を通してくさびを打つようにこの主題を読者に思い起こさせ、終章にあるような(例えば先行する中世におけるルネサンスとか、「個人」概念の変化について)充分な説明が必要だったのではないか。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> <span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">341</span>頁では、補論について簡潔にまとめられている。私は補論を読んでいる間は、レーヴィのオデュッセウスとダンテのオデュッセウスがどう重なり、どう異なっているのか充分に理解したと言えなかったし、補論の最後(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">pp. 324-25</span>)は、文学的な終わり方をしていて、簡潔なサマリーとはなっていない。しかしこの終章において、レーヴィの見たオデュッセウスは『神曲』をインスピレーションとしつつもダンテのそれとは違い、「自分たちを仮託できるような、肯定的な存在だった」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 342.</span>)と述べられていて納得出来た。と同時に、補論の本体で何故私は理解出来なかったのかと残念でもある。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;">あとがき</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> あとがきは次の一文で始まっている:「ここまでお読みになってくださった賢明な読者諸氏にはお分かりのことと思うが、本書『ダンテ論』は、ダンテ論の無効を宣言している。』(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 355</span>)この文を読んだ「賢明でない読者たち」は、原先生の言っている意味が分からないだろう。そして私もそのひとりだ。これまで<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">344</span>頁を費やして『ダンテ論』を書いておいて、それは「無効」だと言われる。その意図は次の段落で説明されるわけだが、こういう文学的な(屈折した、と言うべきか)修辞が読者を遠ざけないだろうか。但、そういう原先生の態度を作ったのは、ダンテを絶対視しがちな従来の日本のダンテ研究の風土や翻訳者たちの態度でもあったようだ。そこで彼は、そうしたダンテ信仰の土台を、伝記的事実の洗い直し、過去の翻訳の批判的検討、テキスト校訂作業の解説、ロマン主義によって形成されたダンテ像の検討、その他の手順を踏んでひとつひとつ脱構築し、最後に残った中世のダンテのメッセージを読み解こうとされている。そのプロセスにおいて、彼が目ざしたのは、恩師河島英昭先生から教わった、現代にも通じるダンテ、つまり普遍的な文学作品としてのダンテだった。原先生をそのまま引用すると、「・・・ダンテを今ここで読む意味を探し求めていたのかも知れない。言い替えると私たちもその一員であるこの世界の中に『神曲』を位置づけること、それは文学の普遍性の問題と言ってもよいだろう。そしてこの「普遍性」こそは、遠い昔に[恩師の河島英昭]先生から預けられた宿題だった」(<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">p. 349</span>)。だからこそ、原先生は、補論でプリモ・レーヴィを論じないわけにはいかなかったのだろう。</span></p><p style="font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-size: medium;"> </span><span style="font-family: Hiragino Mincho ProN; font-size: medium;">更にあとがきを読むと、本書の執筆において沢山の方々が原先生を熱心に応援し、本書に形を与える手助けをしたか分かる。彼は同好の人々を引きつけ、彼を助けたいと思わせる才能を持っておられるようだ。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px; min-height: 18px;"><span style="font-size: medium;"><br /></span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> さて、随分長い「まとめと感想」になってしまった。もっと要点だけ整理してからブログとしてアップロードすべきとは思うが、学術誌の書評論文ではなく、個人の楽しみで書いているのでこのままでご容赦願いたい。章を追う毎に長くなっているのは、ひとつには後の方の章、特に第<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">6</span>,<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">7</span>章が実際に長いからでもあるが、私がこれらの章をより大きな興味を持って読み、詳しい学習ノートを残しておきたかったからである。ここでその内容を再度繰り返す必要はないが、神の永遠の視線の下にある人間の運命、そしてそのキリスト教の世界観の中での自由意志の役割などについてのダンテの考え方など、中世英文学を読む上でも大変参考になった。更に、アウエルバッハのフィグーラ論、ダンテにおける予型論的人物、「個人の出現」に関する原先生の考えなど、私が全て理解出来たとも、また必ずしも同意できるとも言えないけれども、それだけに考える種を豊富に提供していただいた。今後も本書を読み返したい。『神曲』やその他のダンテの著作も今後再読、あるいは新たに読んでみたいという意欲が湧いた。私が特に著者に共感するのは、ダンテを今を生きる私たちの視点で読んでいることだ。どんな古典も常にそれぞれの時代の視点で読み直される。文学史におけるルネサンスや「個人」の息吹以上に、原先生は中世イタリアに生きたひとりの詩人としてのダンテに、ヒューマニズム、人間中心主義、の普遍的な「光線」を見ていると思った。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> 最後に、無いものねだりとは分かっているが、本書にこれがあったらという希望を<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>点付け加えたい。ひとつは索引。本文<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">353</span>頁、更に注・参考文献<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">36</span>頁ある本書を、一読するだけでなくその後も研究資料や参考書として充分活用してもらうためには、簡単でも索引は欲しい。もうひとつは、図版。既にカラー図版が<span style="font-family: Times; font-stretch: normal; line-height: normal;">2</span>頁と、中世のフィレンツェの地図などが少し含まれているが、『神曲』には見事な彩色写本画が沢山描かれており、それらを見ると中世、初期近代の人々が考えたダンテの地獄、煉獄、天国が良く分かるので、(価格の上昇を押さえて欲しい気持ちもある一方で)そうした図版がもう少しあると、一般読者には親切だったであろう。</span></p>
<p style="font-family: "Hiragino Mincho ProN"; font-stretch: normal; line-height: normal; margin: 0px;"><span style="font-size: medium;"> このような素晴らしい本を世に出し、日本語の読者にダンテの普遍性を再認識させて下さった原先生にお礼を申し上げたい。今後、学術誌などで、専門家からの批評が出ることを期待したい。 </span></p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-74361061040548388622022-02-14T11:49:00.009+09:002022-04-11T09:23:31.887+09:00原基晶『ダンテ論—「神曲」と〈個人〉の出現』の書評が朝日新聞に掲載<p>原基晶『ダンテ論—「神曲」と〈個人〉の出現』(青土社)の犬塚元教授による書評が朝日新聞(2022年2月12日朝刊)に掲載</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEjvpR_M4dFUJjSO1593glZeMNzV_vBqVhkNYzav4rYB7B9-Kt5lXEH3xz9n_S_C4umL8II_dQuK8BJZV2OHyhJJFFMPX3nqwiqCkEGL4hRWaRvFDraLgXFYbyR9i5BE8ZvHQbGrppnFqsHktOdiu80DF8mu_U-pr058KFSObFAPBADpi9FoKKvZeA82=s499" style="clear: right; float: right; margin-bottom: 1em; margin-left: 1em;"><img border="0" data-original-height="499" data-original-width="341" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/a/AVvXsEjvpR_M4dFUJjSO1593glZeMNzV_vBqVhkNYzav4rYB7B9-Kt5lXEH3xz9n_S_C4umL8II_dQuK8BJZV2OHyhJJFFMPX3nqwiqCkEGL4hRWaRvFDraLgXFYbyR9i5BE8ZvHQbGrppnFqsHktOdiu80DF8mu_U-pr058KFSObFAPBADpi9FoKKvZeA82=s320" width="219" /></a></div><br /><p><br /></p><p> 昨年11月26日、随分以前から予告され、多くの読者が心待ちにしていた<a href="http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3568" target="_blank">原基晶先生の『ダンテ論』が青土社から出版された</a>。私は出版前から予約していて、発売当日に本屋に取りに行った(アマゾンを使いたくないので、日本語の本は出来るだけ近隣の本屋から取り寄せることにしている)。</p><p> 日記を見ると私は『ダンテ論』を11月30日に読み始め、遅くとも12月13日以前に一旦読み終わっている。その後感想をブログに書こうと思い、思いついたことを断片的に書き始めたが、途中で挫折。この本、大変読み応えがあるのだが、抽象的な議論が特に苦手な私には、難解な部分が多い。前半(1-4章)は作品の時代背景、詩人ダンテや彼の周辺の人物の伝記的事実の洗い直し、テキストについての文献学的議論など具体的なことが書いてあり、比較的分かりやすく、興味を持って読めたが、後半(5-7章)ではつまづき、表面をなぞるだけの読書になって不消化のままだ。それで12月の半ばから2回目を、今度は書き込みしたり、メモを取ったりしつつ熟読していて、未だに読み終わっていない。またその間、しばらく挫折し、正月前後は他の本を読んでいた(英語の本を1冊読了した)。本書は私に向いてないからもう読むのは止そう、と思ったこともあるが、しばらく日を置いてもう少し読み進むと、また面白いところに出会い、未だにだらだら読んでいる。</p><p> さて、私がそういう風にてこずっている<a href="https://book.asahi.com/article/14546566" target="_blank">『ダンテ論』の書評が先週の土曜日(2月12日)の朝日新聞朝刊読書欄に掲載</a>された。グーグルで検索して見る限りにおいて、これが新聞・雑誌における本書の最初の書評のようだ。一応リンクを貼っておくが、購読者のみ読める。もちろん、大新聞の書評であるから、数多くの出版物の中で、特に取り上げる価値があると書評委員から見做されたわけで、書評が載っただけで賞賛を意味するが、書評の内容においても絶賛と言って良いだろう。評者は法政大学法学部教授で政治学・政治思想専攻の犬塚元先生。著書から見ると、ヒュームの政治学などを特に研究されているようだが、近代政治思想の専門家ということで、ダンテの政治思想にも力点がある原先生の『ダンテ論』書評に適した評者だろう。</p><p> 書評は「この本の魅力は、要約だけでは伝わらないはずだ」という一文で始まり、すぐに改行されている。即ちこの文は短い書評の副題的な役割の文であり、また、そのイントロダクションでもある。最初から、「私の書評では到底伝えきれないので、皆さんご自分で読んでくださいね」と宣言しているわけで、狡い文だ。ある意味、新聞書評の短さでは言いたい事を伝えきれないと正直に告白しているとも言える。そのあと、書評の中心部分では主に前半、特に第3章に焦点を当てて、原先生のフィロロジカルなテキスト分析の魅力を分かりやすく述べていて、読者が本書を手に取りたいと思うようにいざなっている。但、東西の古代・中世の古典を研究している人々からすると、写本やテキストに関する文献学的な前提はかなり共通している。ダンテという、世界文学の中でずば抜けて多くの研究がなされてきた詩人であるから、目配りすべきことは非常に多く、かつ精密でなければならず、原先生の鮮やかな手際を評者は絶賛し、「『創られた伝統』を越えてという要約だけでは、本書の凄(すご)みは語り尽くせない。例えば第3章。『神曲』冒頭3行だけを論じる圧巻の章だ」と書いている。</p><p> 本書の真の魅力であり「凄み」は5章以下の後半にあると私は思うが、そこを短い書評で伝える事は出来ないので、山本先生は最後に書く、「著者は、ダンテの時代の注釈書を手がかりに、アレゴリーとして、自らの読み方を示していく。こうして私たちは、『神曲』の優れた翻訳者の、作業の舞台裏に招待されたわけである」と。「招待されて」いるんだから、皆さん、読みましょう、というわけだ。実に上手にまとめられた書評で、私には到底こうは書けない。短い書評のお手本みたいな文章だと思った。</p><p> この書評を読んで、一段と『神曲』と原先生の『ダンテ論』への関心が高まった。これが良い書評の果たすべき役割だろう。</p><p> なお、私自身の感想も<a href="https://playsandbooks.blogspot.com/2022/03/blog-post.html" target="_blank">このブログで書きました</a>。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-6938751676258549212021-11-09T15:57:00.001+09:002021-11-09T15:57:19.591+09:00『カンタベリ物語』オンライン読書会(2021/10/30)の感想<p> 大分時間が経ってしまいましたが、10月30日夜にあった<a href="https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/02sqz1kjt9x11.html" target="_blank">「『カンタベリ物語』オンライン読書会」</a>(ヒロ・ヒライ先生主宰)の感想を書いておきます。このオンライン読書会は、池上忠弘監修『カンタベリ物語 新共同訳版』(悠書館、本年10月刊行)を記念して、企画されました(<a href="https://www.yushokan.co.jp/canterbury-tales/#gsc.tab=0" target="_blank">『カンタベリ物語 新共同訳版』</a>については前回のエントリ参照)。西欧科学史、特に錬金術の歴史などの専門家で、長年欧米で教育・研究をされてきたヒロ・ヒライ先生が主催され、ネット上でZOOMを使って開催されました。参加費は2,000円で、有料の講演会、プラス参加者との質疑応答よりなります。1時間半の予定でしたが、2時間10分以上続き、大いに盛り上がって、充実した会となりました。</p><p>まず3人の豪華な講師陣(ヒライ先生、中世英語英文学研究者で明治大学准教授の狩野晃一先生、YouTube番組、「スケザネ図書館」で人気の書評家、渡辺祐真[スケザネ]さん)のミニレクチャーを約1時間聴き、その上で、参加者全員が少なくとも1回以上はコメントなど言うことが出来て、皆さん満足できたと思います。有料だったので、参加者数は限られていたのですが(定員20人で、実際の参加者は講師陣も含め16人とのことでした)、その分、中味が濃くて、こういう会があっても良いなと思いました。</p><p>新共同訳をベースにして話し合ったのですが、ヒライ先生の専門的知見によれば、解題に修正すべき点もあるとのことで、他分野の専門家との交流が大切だと痛感しました。渡辺祐真(スケザネ)さんのコメントはなかなか鋭く、驚嘆しました。分野を問わず、文学的な感性を発揮出来る書評家の方の見識は凄いと思いました。</p><p>この読書会の話を始めて知った時には、『カンタベリ物語』のなかで、よりによってあまり面白くなく、ほとんど誰も読まない(?)「律修参事会員の話」を取り上げるなんて、と思いました。更に、このお話は、謂わば中世の科学実験を巡る詐欺の話で、錬金術に関する専門用語だらけです。正直言って、子供の時から化学が苦手な私としては、ちょつと拒否反応を感じます。一方、学会・研究会でお世話になっている優秀な研究者の狩野先生が出られるので、出ようかと思ったり、でも話自体に興味が持てないので無駄かなと思ったり、最後まで迷いました。とにかく「律修参事会員の話」自体を長年読んでいなかったので、この機会に読み直してみたのですが、そうすると実に色々と考えさせる話であると分かり、参加することにしました。結果的に、私にとって大変勉強になりました。</p><p>このお話は、現代と多くの共通点があります。中世の知識における物体を元素から組み直して新しい物体に変化させるという試みが描かれているのですが、今で言えば一種の核融合、あるいは遺伝子操作みたいな試みに比較されるでしょう。アラブ世界から盛期中世に西欧にもたらされた科学知識がイングランドにも伝わり、こういう文学作品にも既に一種のパロディとして反映されているわけです。この伝統は、更にルネサンス期にはベン・ジョンソンの『錬金術師』を生むことになります。</p><p>律修参事会員(キャノン)と召使の2人は後から巡礼団に加わり、最初の宿屋の場面にはいません。お話のコンテストという前提を共有せず、恐らく面白い話をするつもりもないのです。召使が話すのは主人の仕事が虚業であること、そしてもう一人のキャノンの詐欺について聞いた実話です。つまり自分の体験した実話と、ひとから聞いた実話と思われる話、ふたつともノン・フィクションです。チョーサーは『カンタベリ物語』において、このお話以前に、ロマンス、ファブリオー、説教、聖者伝、動物寓話、等々、様々の中世の物語のジャンルを試し終えて、もうやることが無くなったのか、自分の興味ある現代的なテーマについて現実のお話をしてみようと思ったのかも知れません。彼は元々科学には並々ならぬ関心を持ち、他に天体観測器についての論文みたいな文章を書いています。そして、彼の同時代には偽金作り、つまり一種の錬金術、を使った詐欺事件も発生していて、その事件の裁判に専門家証人として関わったのが彼の同僚だった、という発見が最近ありました。とは言え、彼はそういう実際に起こった事件をそのまま書いている訳ではありません。『カンタベリ物語』という全体がフィクションという枠組の中で、実際に起こったこととして、この召使に語らせているわけです。ジャンルをいじるのが好きなチョーサーらしい実験です。</p><p>読書会で出なかった質問/コメントとして、この「律修参事会員」(キャノン、the Canon)は何者か?という疑問が残りました。律修参事会については私もよく知りませんが、一種の修道会で、イングランドの場合大体においてアウグスティヌス会がそれに当たるようです。普通、会の僧院で暮らすのだと思いますが、この巡礼に加わろうとしたキャノンは、日頃、召使(yeoman)を雇って、詐欺まがいの錬金術実験に入れ込んでいると語られています。彼のような男が何故キャノンでいれられるのか、不思議に思いました。</p><p>その他にも色んな疑問を生んだ楽しい読書会でした。ヒライ先生はじめ、講師の方々にお礼を申し上げます。</p><p><br /></p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-9242620312412691452021-07-06T14:36:00.003+09:002021-07-06T14:53:33.390+09:00池上忠弘監修『カンタベリ物語 共同新訳版』(悠書館)を戴きました。<p> 学会や研究会でお世話になっている3人の先生方から連名で、池上忠弘監修『カンタベリ物語 共同新訳版』(悠書館、2021年7月刊)をお贈りいただきました。私にまでお心配りいただき深く感謝致しております。手に取ってみると、思った以上の美本です。<a href="https://www.yushokan.co.jp/canterbury-tales/#gsc.tab=0" target="_blank">出版社の紹介ページはこちら。</a></p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjyS_cgesjZq5mzh4kTkHylzrhCGNaX54_g29X4xu1xO_KK0G4v3o4z2zbpOIAwshmWv87pxRJ0oalxqqTVJDK9c21C_lqeDw_cRkxEsFdk3RsS6Tzn1FVmk-3bXegcjs-Jp9PpmcB040Y/s2048/%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E6%2596%25B0%25E8%25A8%25B3%25E8%25A1%25A8%25E7%25B4%2599.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="2048" data-original-width="1536" height="359" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEjyS_cgesjZq5mzh4kTkHylzrhCGNaX54_g29X4xu1xO_KK0G4v3o4z2zbpOIAwshmWv87pxRJ0oalxqqTVJDK9c21C_lqeDw_cRkxEsFdk3RsS6Tzn1FVmk-3bXegcjs-Jp9PpmcB040Y/w269-h359/%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E6%2596%25B0%25E8%25A8%25B3%25E8%25A1%25A8%25E7%25B4%2599.jpeg" width="269" /></a></div><p>四六版で、1033頁。上質の紙が使ってあると思います。カバーの写真は『カンタベリ物語』の代表的写本、エルズミア写本の二葉、「メリベウスの話」と「女子修道院長の話」の冒頭が使われています。また本の最初にもカラー図版が4頁あり、エルズミア写本のから23人の巡礼の挿絵が取られています。それぞれのお話とその序は、まず最初に解題が付けられ、話の後には注が付けられるという順序で並んでいます。話の本文の字は割合大きくて、歳を取って目の弱い私にも読みやすいです。ほとんどの話とその解題、注はひとりの方が担当しているようですが、長い話などは数人で分担している場合もあります。i-xi頁は監修者の池上忠弘先生と瀬谷幸男先生による「『カンタベリ物語』の共同新訳によせて」という文章で、そこに詩人の略歴や『カンタベリ物語』全体の概説などが簡潔に記されています。また、最後に狩野晃一先生による「編訳者あとがき」がありこの大作の共同訳というプロジェクトのこれまでの経緯が書かれています。</p><div class="separator" style="clear: both; text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiUpbiEHCvK5KM1DU7Tg3y9DeuJZi3fUSnki_TAEIBr9P9l-4CqOTwTDjmF33uCUrrvhJWShB9wOEPW9cYlEbSxGXcfDlV-wXAtQ4feEHsIjS45mg7d12Ty4vamjC-SQN8hsFuEbPV2SqY/s2048/%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E6%2596%25B0%25E8%25A8%25B3%25E6%259C%25AC%25E6%2596%2587.jpeg" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1536" data-original-width="2048" height="303" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiUpbiEHCvK5KM1DU7Tg3y9DeuJZi3fUSnki_TAEIBr9P9l-4CqOTwTDjmF33uCUrrvhJWShB9wOEPW9cYlEbSxGXcfDlV-wXAtQ4feEHsIjS45mg7d12Ty4vamjC-SQN8hsFuEbPV2SqY/w404-h303/%25E5%2585%25B1%25E5%2590%258C%25E6%2596%25B0%25E8%25A8%25B3%25E6%259C%25AC%25E6%2596%2587.jpeg" width="404" /></a></div><p>あとがきによると既にこの構想は1990年代に始まり、その後休眠状態の時もありましたが、2005-09年頃には訳稿が揃いつつあったそうです。それから24人が訳したものを編集して行く作業が大変で、長い時間がかかったようです。訳文の正確さなどをめぐり、編集委員会を作って検討を重ねるうちに長い年月が流れたようです。編集委員会は池上先生を中心に毎月開かれ、まるで大学院の授業のようであったとか。これは24人の優秀な中世文学者の巡礼の旅であったわけです。そして完成、出版に至るまでに監修者の池上先生、河崎征俊先生、松田英先生の3人の碩学が彼岸に旅立たれました。しかし、こうして見事な美しい本として刊行されて、池上先生もあの世でさぞ喜んでおられることでしょう。この綿密な編集プロセスの中に、共同訳の意味があるのだろうと想います。恐らくその間に訳が一層正確で、また、こなれたものになり、ケアレスミスがなくなり、更にそれぞれの翻訳者のチョーサー理解も深化したのではないでしょうか。皆さんの長い年月にわたる努力を知ると、感嘆し、尊敬するしかありません。これから長く愛読させていただきたいと思います。本を贈って下さった3人だけでなく、ひとりのチョーサー愛読者として、翻訳者全員にお礼を申し上げたいと思います。</p><p>更に奥付の裏に嬉しいニュースが書いてありました。この書物には「解説編」が出ることになっており、タイトルは『チョーサー巡礼』(仮題)とのこと。オックスフォード大学やケンブリッジ大学の出版局から出されているような、日本語版のチョーサー・コンパニオン/ハンドブック、とでも言うべき本になりそうです。案内によると、目次には次のような項目が含まれるようです:</p><p></p><blockquote>チョーサーの伝記、『カンタベリ物語』の写本、チョーサーの英語、中世ラテン文学とチョーサー、チョーサーとフランス文学の伝統、クリスチーヌ・ド・ピザン、シャルル・ドルレアン、アングロ・ノルマン文学、チョーサーと中世イタリア文学、耐える女の表象、チョーサー文学の時代背景、14世紀西ヨーロッパ美術の“近代性”、中世の音楽、チョーサー関連年表/文献表など。</blockquote><p></p><p>凄い項目が並んでいますね。翻訳者の中にこれだけ広い事項について書く人材が揃っているということでしょう。中世後半のイギリス文学事典、といった感じです。出版されるのが楽しみです!</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-14992185459110098722021-07-03T11:38:00.005+09:002021-07-03T12:22:09.008+09:00学会役員・委員の苦境<p> 去年から学会の委員のお仕事で苦しんでいる方の声を学会のオンライン・ミーティングやニュースレター、あるいはSNSなど、あちこちで聞いたり読んだりする。私の所属学会でも、中堅の先生方に沢山の仕事が押し寄せて、大変気の毒なことになっている。委員長が、他の学会の委員長もやっていたり、委員の後任が見つからず、任期を延長して務めたりされている。こういうのを「やり甲斐詐欺」だという声も時々聞く。誰かがこうした役員の方々を「詐欺」、つまり意図的に欺しているというわけではないだろうけど、仕事を押しつけられた方々はそう思いたいのも良く分かる。苦しんでいるのに無理解、あるいは分かっていても見て見ぬ振り、と思われるかも知れない。</p><p>私の分野において、こうした苦境の主な原因は外国文学・語学系のポストの減少による学会員数の急速な減少。それに伴い、複数学会の役員の仕事を兼務したり、そうした多忙な仕事を次々と休む期間もなくやったりされている。もう一つの要因は、外国文学・語学の分野で、学会・研究会が増えたこと。会員数は急速に減っているのに、必要な役員数は、会員が一番多い時代と変わらないか、増えてしまっている。当然、兼務をされる方も増える。そうして、役員に推挙される方々は、能力や人望があり、研究面で原稿依頼や口頭発表依頼、講演依頼などの仕事も多く、また大学内の仕事も頼まれやすい。授業準備でも熱心な方がほとんどだろう。そうなると四面楚歌という感じになる。更に、この1年半は、オンライン授業による授業準備の急激な増加や、オンライン学会開催準備のための様々な苦労も重なったことと思う。</p><p>学会役員として苦しんでいる方々は、引退しているのに注文だけはつける老人達とか、様々な学会のサービスを享受しているが会費を払っているだけで仕事を分担していない一部の会員に対して腹立たしく思っている事だろう。私も会費を払っているだけで、引退した老人会員なので、大変申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だが、私が何か実務作業が出来るわけでもないし、その能力も、またいつも半病人なので雑務をやる健康も持ち合わせない。</p><p>当面出来る事としては、アルバイトなどを活用するという手がある。しかし、これが意外と大変なのだ。信頼出来る学生を見つけるのは難しかったり、時給があまり出せなかったりするし、アルバイトを雇えばそれに伴って、会計処理も増え、書類も増加する。かっては多くの学会が学会事務を、事務請け負い会社に任せていたが、その会社が詐欺を働いて多額の損害が出たこともあった。大きな学会ではパートの職員を長年雇っているところもあるが、長年パート職員を雇うと、学会費収入が減少しつつある現在、こうした職員の継続雇用が難しくなり、非常に難しい雇用問題が発生しかねない。とにかく、会員数の減少に応じて、思い切って、学会もその数と事業を縮小しなければならないと思う。但、反対もあるだろうから、意見を取りまとめて撤退すべきところは撤退するという計画を立てて実行すること自体、大変な労力を要する。それで、ご自分の任期の間何とか無理を承知で頑張り、後任に後の事は任すということになりがち。ずっとそうしてきた結果、今、大変なことになっている。最終的には、役職の引き受け手がなくなれば、学会の事業の縮小や廃止、学会自体の解散などをやらざるを得ないから、これ以上無理と思われる先生方が、はっきりそう言って役員を断ることからしか、抜本的な変化は起こらないかも知れない。</p><p>学会は引退者の余生の生き甲斐に奉仕するためのものではない。今中堅で活躍している方々の研究・教育活動を助け、それに大きな支障のない程度の活動でないと意味がない。活動内容や存続自体を会員数に合わせて柔軟に変えていかないと、会員を不幸にするばかりだろう。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-60985691439949415872021-05-17T12:45:00.006+09:002021-05-17T18:09:53.832+09:00【観劇】『終わりよければすべてよし』( 彩の国さいたま芸術劇場公演 、2021.5.16)<p><b> 『終わりよければすべてよし』 </b></p><p>彩の国さいたま芸術劇場公演</p><p>観劇日: 2021.5.16 13:00-15:45(15分のインターバル含む)</p><p>劇場:埼玉芸術劇場 大ホール </p><p><br /></p><p>演出: 吉田鋼太郎</p><p>原作: ウィリアム・シェイクスピア</p><p>美術: 秋山光洋</p><p>衣装: 西原梨恵</p><p>照明: 原田保</p><p>音楽: 角張正雄</p><p><br /></p><p>出演:</p><p> バートラム:藤原竜也</p><p> ヘレン:石原さとみ</p><p>デュメイン(弟):溝端淳平</p><p>デュメイン(兄):河内大和</p><p>ラフュー卿:正名僕蔵</p><p>ダイアナ:山名花純</p><p>ルシヨン伯爵夫人:宮本裕子</p><p>バローレス:横田栄司</p><p>フランス王:吉田鋼太郎</p><p><br /></p><p> ☆☆☆ / 5</p><p><br /></p><p>最後にいつどこの劇場で演劇を見たか思いだせない。そのくらい久しぶりに劇を見た。近年、ブログも途絶えがちになっているので、記録も取っていない。そのくらい久しぶりに出かけた今回の舞台は非常に刺激的で、シェイクスピアなので色々と考えさせてもくれ、大変楽しめた。吉田鋼太郎さんを始め、埼玉芸術劇場の劇場関係者、そして俳優やスタッフの方々には、このコロナウィルスが広がる難しい状況下で公演して下さったことに深く感謝したい。また、この上演は、埼玉芸術劇場のシェイクスピア全作品上演の最後の作品。1998年に始まり、23年間、全37作品の最後にあたる。記憶力が乏しいので覚えてはいないが、おそらくほぼ全部の上演を見てきた私としても、かなり感慨がある。専任教員をしていた間は、大学に演劇鑑賞会の制度を作ってもらい、ホリプロの方に便宜を図っていただき、何度かかなりのチケットを確保して(30〜40枚くらい)、学生にシェイクスピア作品を見せることが出来たのも良い思い出。あの頃劇場に連れて行った学生達が、その後も演劇を見るようになっていたら嬉しいな。</p><p>さて、今回の上演、蜷川さんが最後までやらなかった作品で、やはりシェイクスピア作品としては面白みに乏しい。筋立てもキャラクターもぱっとせず、思わず聞き惚れる様な台詞もほとんどない印象だった。所謂「問題劇」、あるいは「問題喜劇」(problem play / problem comedy)と後世の学者によって名づけられた作品のひとつ(他には『尺には尺を』、『トロイラスとクレシダ』等、それ以外にも『冬物語』や『ヴェニスの商人』、『アテネのタイモン』などを含める場合もあり)。だから、からっと、めでたしめでたし、で終えられない複雑な印象が残るので、どうしても「わからない」と言う感じがする。また、主人公は一応バートラムみたいだが、ヘレンの方が強い印象を与え、焦点が定まらない。でもそういう「問題劇」的な面が中世的で、私には面白い。そもそも、「喜劇」と「悲劇」をはっきり分けるのはルネサンス演劇以降で、イギリスの中世劇にはそういうレッテルはない。</p><p>作品の出来不出来はともかく、私にとって面白いのは結構中世文学風のモチーフが見られること。実際、シェイクスピアのソースは『デカメロン』に含まれている小話だそうだ。若い男性が彼に恋いこがれる女性に結婚を迫られ、自分の仕える主人に命じられて嫌々結婚せざるを得ない状況になる、というのはチョーサーの「バースの女房の話」と似たストーリー。それに伴って、ヒロインの占める役割が大きくなっている。また、「バースの女房の話」の騎士と同じく、バートラムは自己中心的なろくでなしである。フランス王に、「ヘレナは美徳そのものだから、結婚しろ」というような台詞があったが、彼女は未熟な主人公を改心させる「美徳」みたいな面があり、そう考えると、この作品のベースには(多くのシェイクスピア作品同様)、中世道徳劇の枠組が感じられた。失敗を重ねつつ、美徳に導かれ、最後は恩寵により正しい道を行くことになる、というわけ。カトリックの宗教劇ではないので、神様は出てこず、代わりにフランス王が究極の権威という位置を占める。また、その王は「美徳」を体現するヘレナの医術により、死の床から蘇る。ヘレナ自身も表面的には死から蘇り、結婚に至る。更に彼女がその「蘇り」への糸口を得たのは聖ヤコブへの巡礼に行った時である、など、色々な中世的モチーフが散見される。</p><p>上演を担った人々には大いに感謝するが、上演の出来そのものには不満が点が目立つ。最初に舞台に照明が当たると、一面大きなサルビアのような赤い花が植えられていて、おおっ、とうならせるのは蜷川を思い出させ、その後を期待させる。しかし、舞台装置や照明で印象的だったのはそれだけ。後は全く驚きがない。場面転換の際などに何かもっとアクセントを付けられなかったのか、残念。ドアや窓を上げたり下げたりして、場所の変化を示しているが、機能的な役割を果たしているだけで、それ以上のものが感じられない。右手の大きな像も一体何の意味があるんだか?何か意味を込めているにしても、それを感じられず、インパクトがない。</p><p>妙に思ったのは、ダイアナの友人たちにまるでいかがわしい売春婦のような格好をさせたこと。そして、フィレンツェの宿も、巡礼宿のはずなんだが、背景に浮かび上がる窓にはまるで飾り窓の女のようなシルエット。巡礼宿が売春宿か?テキストを読んでないし、一度見ただけなので良く分からないが、こういうコスチュームや背景により、美徳の鏡としてのヘレンを際立たせるようにしたのかしら?これこそ「いかがわしい」解釈、と思えた。</p><p>俳優陣は上手なベテランと、人気の若手を配置し、それぞれがある程度その役割を果たしているが、演技に特に驚きや新鮮味は感じず、不満はかなりあった。まず、バートラムの藤原竜也だが、彼はいつもの真面目な演技で、冷たいプレイポーイのバートラムにはあまりに堅苦しい。若くてハンサムな溝端淳平の方がずっとはまったと思うが・・・。主要な役はホリプロ、端役はAUNとネクストシアターの面々に割りふる、というやむを得ない制作側の縛りもあるのあろうか。劇の最後はたたみかける台詞に迫力を感じ、ダイアナという役の重要性が際立ったが、山名花純は台詞を一本調子の大声で叫ぶだけで、謳いあげることが出来てない。大変印象的なキャラクターだが、もっと舞台の台詞に習熟した人ならさらにずっと良かっただろう。シェイクスピアでは台詞の量以上に舞台を盛り上げる道化役もちっとも面白くなく、無駄な動きが空回りしていた。宮本裕子や正名僕蔵、横田栄司などのベテランは安定した演技で、堅実にそれぞれの役をこなしていたが、蜷川が俳優の強みを驚くほど引き出したりしたのを思い出すと、今はベテランの演技は本人に任されているのかな、という印象だ。全体として、演出家のコンセプトが感じられず、手堅いが、平凡な上演という印象。</p><p>劇場に置いてあった『埼玉アーツシアター通信』92号(pp. 8-9)に彩の国シェイクスピア・シリーズの上演記録が載っていて、登場した俳優さんたちのことなど、色々と思い出している。最初は大沢たかおと佐藤藍子による『ロミオとジュリエット』。舞台が牢獄という印象的なセットで、ヴィジュアルでイギリスの批評家をうならせた蜷川の才能が満開だった。佐藤藍子がとても良かった気がするが、その後、舞台俳優としては成長したのだろうか(私はよく知らない)。月川悠貴など、このシリーズで特に花開いた役者が思い出される。かえすがえすも残念なのは、ニナガワ・スタジオの生え抜きで、素晴らしいシェイクスピア俳優として順調に成長していた高橋洋が(恐らく蜷川との確執で?)このシリーズから消えてしまったこと。その後も、テレビなどで俳優として仕事を続けているが、彼のシェイクスピア劇での才能が充分活かせなかったのは悔しい。彼はどういう気持ちでこのシリーズの終わりを見ているだろう。それとも、過去の事として、気にもしていないだろうか。</p><p>コロナウィルスは怖いけれど、沢山の人々と期待、緊張、感動を共有できる劇場空間の魅力を改めて実感した良い一日だった。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-33552486236106849872021-03-21T11:00:00.003+09:002021-03-23T08:29:55.069+09:00セバスティアン・ソベッキ教授のオンライン講演会を聴いて<p>3月18日、英国の午後6時(日本時間午前3時)より、ケント大学でAnnual Chaucer Lectureが開催された。この講演会は一般にも公開されていて、毎年著名な学者が講演している。コロナウィルスのために今年はオンラインによる開催。講師は、オランダ、フローニンゲン大学教授で国際チョーサー学会(New Chaucer Society)の学会誌、Studies in the Age of Chaucer、の編集者、セバスティアン・ソベッキ教授(Professor Sebastian Sobecki)だった。この雑誌は、学術誌の格付けを行っているScimago によると、<a href="https://www.rug.nl/let/onze-faculteit/actueel/nieuwsberichten-2018/2018-05-18-sobecki-editor-sac?lang=en" target="_blank">中世英文学の分野でNo. 1の学術誌、中世文学全体でNo. 2</a>とのことで、その編集者であることは、彼が世界の中世英文学研究をリードする学者であることを示している。今回のレクチャーは、世界中から220名以上の人々が聴いたとのこと。その中には著名な学者も多かったそうで、まるで学術論文の参考文献に並んでいる名前を見ているようだ、というコメントもTwitterであった。私はその時間に起きていると体調を崩すと思うので、諦めていたら、幸いなことに、<a href="https://www.youtube.com/watch?v=pDqrFfzIPSg&t=139s" target="_blank">録画がYouTubeにアップされた。</a>残念ながら、質疑応答は入っていないが、それでも大変嬉しい。</p><p>講演タイトルは、"Inner Circles: Reading & Writing in Late Medieval London"(「インナー・サークル:中世末期ロンドンにおけるリーディングとライティング」)。チョーサーやガワーなどの写本がどのように作られ、写されて、拡散したかを、具体的な写本の画像を示しつつ、書体の特徴などから研究するご自分の研究プロジェクトの概要を語っておられる。特に最初に、Staring Pointsとして研究の基礎や大きな枠組を語っておられるが、歴史学、歴史言語学、写本研究、個別の写字生の特徴の判定などについての議論、どういう先行研究が大事かなどは、大変興味深い。</p><p>後半は具体的な写本の議論だが、写字生たちがどういう人だったか、そして彼らの間にあった"Communities of Practice"(「慣習から見たコミュニティ」というようなことか)を浮き上がらせようという姿勢、写本に疎い私にも充分面白い。中世英文学に興味のある者だけでなく、歴史学や英語史の方にも大変刺激的なプレゼンテーションだと思う。英語は、オンラインであることもあり、私にはかなり聞きとりにくかった。</p><p>最初にケントのRyan Perry博士がSobecki教授の紹介をされていたが、言われているように、まだ割合若いようにお見受けするがもの凄い業績を積み重ねておられる。特に写本に詳しくて、写本研究を使って、チョーサーやガワーについて幾つかの新発見をされている。更に近年はトラベル・ライティングのアンソロジーなど出され、その方面でも権威。また、最初のモノグラフでは文学と法制史の接点を研究しておられ、「法と文学」のテーマでも重要な学者。ロンドンの写字生の多くはウエストミンスター・ホールやギルド・ホール、大法官庁(Chancery)などで仕事をしていて、その多くは広い意味での法曹関係者である。今の日本で言うと司法書士みたいな人達にあたるだろうか。こういう人達が文学の写本を読んだり写したり、ホックリーヴみたいに自分で書いたりしている。写本の書体とか癖とか、文法や綴り字、省略の仕方などの特徴などから、今在る写本を分類し、写字生を同定する作業がこれから進んでいくと思うんが、その際、文学写本だけでなく、広く法律文書や商用文書、そしてラテン語やフランス語の写本なども使って写字生をidentifyする必要がある。多言語が使われているビジネス文書なども研究しているLaura Wright教授の名前も出ていた。そうしてロンドン写本の概要、文学受容におけるcommunities of practiceが段々と分かってくる、ということになるのだろう。</p><p>この講演、東アジアでは大変聞きづらい時間に行われたが、中国から聞いた方もいたそうだ。YouTubeに上げてくださったので、こんな素晴らしい講演が無料で、しかも自分の家で聴けて本当に良かった。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com2tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-3575681690855505522021-03-14T11:51:00.003+09:002021-03-14T11:52:55.618+09:00オンライン授業その後<p>昨年のブログ(8月11日)で<a href="https://playsandbooks.blogspot.com/2020/08/blog-post_11.html" target="_blank">「オンライン授業の準備」</a>という文章を書いた。昨年前半のコロナウィルス流行を受けて勤めている非常勤先の大学がほぼ入構禁止となり、授業も全面的にオンラインに移行したのを受けて、私も四苦八苦した様子を書いていた。あの文章では前期のことを書いたのだが、後期も大体同じ感じで進めた。但、前期にWebexというZoomに似たソフトで行ったリアルタイムでの質疑応答のための補講は自由参加としていたが、学期の終わりにはほとんど受講者がいなくなったので、後期はやらなかった。もし希望が多ければやろうとは思っていたのだが、学期始めに学生にリアルタイムの質疑応答の時間を望むかアンケートを取ったところ、ほとんどの学生が、無くて良いか、あっても多分出席しないという反応であった。</p><p>私が担当している講義は前・後期1科目の2科目だが、英文学史を扱っていて、前期は中世から17世紀のミルトンの頃まで、後期は18世紀から第2次世界大戦後の文学まで講義する。従って、後期は近代後期の文学で、デフォーやスウィフトに始まり、ディケンズやブロンテ姉妹他の19世紀の大小説家など、長編小説が多い。前期の授業から学生に沢山の資料をコピーし、スキャンしてファイルで配布していたが、後期は小説の翻訳を一部抜粋して配ることが多かった。小説は叙情詩などと違い、自分で文章を入力したり、数ページをコピーした程度ではあまり意味がない。やはり何十ページ単位で読んでもらわないと特徴が解りにくい。従って、後期は一作品について、文庫本の翻訳を50ページくらい(見開きで25枚くらい)、コピーすることが多かった。コピーした後はマージンをハサミで切り、新しい紙に糊で貼り付け、しばしば最初にイントロダクションみたいな文章も付けて、スキャナーで読み込むのだから、結構時間がかかる。他に、文学史の本の抜粋とか、歴史の本の抜粋も配るから(これらは2〜5ページ程度だが)、資料の準備だけで丸一日以上かかる週が多かった。</p><p>前期同様、学生のホームワークには個別にコメントを返し、毎週のリスポンス・シートへは、全体としてのフィードバックを書いてLMSで配布した。学生の中にはこうしたフィードバックを高く評価してくれた者もいたようだが、厳しい事も書くし、とにかく毎週何か出さないといけないので、履修者は18名だったが、途中で挫折した学生も何名もいた。特に、それまでに単位をかなり落としていたり、編入生や教職履修者だったりして、履修科目数が他の人より多い学生にとっては辛かったようだ。但、教職履修者は熱心な学生が多いので、それでも何とか最後まで続いたと思う。</p><p>私はたった1科目しかやってないが、毎週、平均すればこの科目のために20時間以上使っただろう。昔読んだ作品を思い出したり、時には講義内容を向上させるために、詩や小説などの作品自体や参考書を読んだりする時間もあるから、実際はもっと長い時間をかけている。とても現役の専任教員時代には出来なかっただろうし、非常勤でも何科目もやっていれば不可能だっただろう。この他には家事をしたり、散歩やテレビを見たりして無為な老後を過ごしている私としては、一種の打ち込める生き甲斐になっていたなと今は思う。ほとんど収入にはならないし、対面授業の場合は通勤時間がとても長いのだが、こういう仕事を与えて下さった先生にとても感謝している。</p><p>2021年度の授業が来月から始まる。非常勤先大学からは、100人単位の大人数の講義を除き、原則対面授業を行って欲しいという通知があった。従って、私も、ちょっと怖くはあるが、対面授業に戻るつもりで準備をしている。講義は音声ファイルの配布ではなく、教室で実際に私が話す事になるが、毎週ファイルで資料を配付し、学生にコメントなどを書いて提出させるというやり方は今後も続けることにした。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-53801259983098752652020-09-21T15:56:00.002+09:002020-09-21T15:56:30.883+09:00 英文学史の教科書に見る「中世劇」の記述<p> 秋の学期が近づいたのでふと中世劇に関する英文科や英文学専攻(教員や学生)における一般常識が気になり、手許にある割合新しい文学史の本を開いて見た。一番新しい浦野郁・奥村沙夜香編『よくわかるイギリス文学史』(ミネルヴァ書房、2020、pp.34-35)が良い。割合説明も詳しいし、大きな間違いもない。強いて言えばタウンリー劇を「ウェイクフィールド」の町で行われた劇と考えているところが古いが、これはこの本の参考文献に挙がっていて権威ある松田隆美他『イギリス中世・チューダー朝演劇事典』(慶應義塾大学出版会、1998)が最近の研究からするとやや古くなってきたという問題によるものだろう。なお、英語の文学ではないからか、ラテン典礼劇への言及はなかったが、欲を言えば、ブリテン諸島における中世演劇の始まりとして、やはりラテン典礼劇にもひと言触れて欲しかった。</p><p> 白井義昭『読んで愉しむイギリス文学史入門』(2013)は、薄い本だし(170ページ)、近代小説の専門家が1人で書かれた本なので仕方ないが、中世劇への言及はない。シェイクスピアのところに「大学の才人たち」と呼ばれる劇作家への言及があるが(p. 18)、イギリス演劇が突然始まったような感は残る。</p><p> 石塚久郎他編『イギリス文学入門』(三修社、2014)では、中世英文学の解説部分には演劇の記述はなく、16世紀で少し言及(pp. 34-35)。聖史劇等については「教会劇に起源を持つイギリス演劇は、やがて道徳劇と古典劇を二つの柱として発展していくことになる」という記述で触れていることになっているのだろう。でもこれだけではちょっと残念だ。そのあと、「そしてその幕間に演じられる短い喜劇も発達し、これらは間狂言(interlude)と呼ばれた」とあるが、この表現は不正確と言わざるを得ない。インタールードは大ざっぱな範疇で、喜劇が多いがそればかりとは限らない。また引用の「その幕間に」は文脈から見て「道徳劇の幕間に」という意味のようだが、道徳劇の間に演じられたわけでもなく、そもそも道徳劇もインタールードに含めて考える専門家も多くて、両者を分けることは出来ない。道徳劇やインタールードの定義が英米の専門家の間でもまちまちで、これらはかなり便宜的な名称である。やや古いが(1976)、Glynne Wickhamによるこのジャンルのアンソロジーは、"English Moral Interludes"という書名となっており、道徳劇とインタールードは重複する事の多い名称であることを示している。</p><p> イギリス演劇史の教科書、一ノ瀬和夫、外岡尚美編『たのしく読める英米演劇』(ミネルヴァ書房、2001)は、演劇に絞った本だけあって、前述の数冊と比べるとかなり詳しく、「典礼劇」、「ミステリー・サイクル」、「道徳劇」、「インタールード」という一連の伝統的な解釈による演劇の変化を記述している(p. 2)。但、細かく言うと、典礼劇が変化してミステリー・プレイになったかのように書いてあり、演劇史観としては50年位前までの常識で、古めかしい。また「インタールードと呼ばれる芝居が宮廷などで上演されるようになり、イギリスの演劇も長い中世のくびきから脱することになった。」とあるのには苦笑いさせられる。また、インタールードは既に書いたように、16世紀の短い劇を総称する非常におおざっぱな括りで、宮廷演劇とは限らない。むしろ、宮廷で上演された可能性のある作品はあっても、大多数はそうとは言えないだろう。</p><p> この本には個別の作品解説の部分に『第二の羊飼い劇』の粗筋や解説もある(pp. 4-5)。この作品の解説者は慶應義塾大学のイギリス演劇専門家、小菅隼人先生で、タウンリー写本とウェイクフィールドの町の事をちゃんと説明してあるなど、この時期の出版としてはなかなか正確である。但、今世紀の研究では、タウンリー写本の劇は、最早「サイクル劇」とは言えず、この写本の形でウェイクフィールドで上演されたということも考えにくい。</p><p> 私自身、英文学史やイギリス演劇史の講義を担当してきたが、専門以外では相当にいい加減なことを言ってきた来たと思うので、こういう本を執筆される方々は立派である。総じて希望を書くとすると、中世劇については、典礼劇のこともひと言書いて欲しい。しかし、典礼劇が英語の聖史劇に発展したとは書かないで欲しい。また、中世末期、特に15世紀から16世紀初頭まではイギリス演劇は全国で(つまりロンドン以外でも)もの凄く盛んで、大変洗練された作品も多いことを認識して欲しいと思う。</p><p> 更に、英文学史の教科書に含めるのは難しいだろうが、中世のブリテン島にはラテン語の典礼劇に加え、コーンウォール語やウェールズ語などケルト系言語の演劇もかなりあってテキストも少し残っている。また記録だけ残っている英語の劇なら「おびただしい」と言って良いほどあり、各地で上演されていたことが分かっている。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-84785917801168094712020-08-28T11:22:00.000+09:002020-08-28T11:22:11.810+09:00美術史家、金沢百枝先生の講演「カインとアベル」<p> 昨日、中世美術、特にロマネスク美術、の権威、金沢百枝先生の「青花の会」講演を、池袋の自由学園明日館に聴きに行った。今回のトピックは旧約聖書の「カインとアベル」。英語の聖史劇でも上演されるよく知られた聖書のエピソードで、大変参考になった。</p><p>私が特に興味を引かれたのは、神が兄弟の捧げ物を受け取る場面の表現。絵画では、髪の右手だけが上部に描かれることが多いようだ。でもどうも火で燃やして捧げているらしき絵もあったみたい。タウンリー劇の「アベルの殺害」ではカインは麦の穂を燃やすんだけど、煙ばかりでよく燃えず、神の不興を示すことになっていて、効果的な脚色がなされている。もう一点特に面白かったのは、アベル殺害の道具の多彩なこと。棒で殴るのが多い。まるで野球のバットかゴルフのクラブを振り上げたみたいな姿勢のカインが描かれる。他には、斧か槌みたいな道具、大小の石なども使われている。更にイングランド(一部、フランス)では顎の骨(cheek bone)が多い。これはタウンリー劇とNタウン劇でも表れる。また古英語の <i>Solomon and Saturn</i>、中英語の <i>Cursor Mundi</i>、そして中世末期コーンウォール語の聖史劇などでも表れるようだ。今までこの骨がどんな格好なのか分からなかったが、今回絵画を見て非常に興味深かった。動物(ロバとか馬か?)の顎に歯がずらっと並んだ骨を持っていた。人間の入れ歯を十倍くらい拡大した感じ(笑)。上下の両顎の一方だけというものが普通のようだが、両顎ともに描かれた骨もあった。可笑しいようなグロテスクなような。誰がいつ考えたのかな。</p><p>ちなみに、英語の4つの主要聖史劇は皆「アベルの殺害」を取り上げているが、ヨーク劇は写本が1頁欠落していて、肝心の殺害場面が抜けている。その他の劇では完全に残っているが、チェスターとNタウンは、アダム夫婦の堕罪と楽園追放から連続していて、ごく簡単。一方タウンリー劇の「アベルの殺害」は独立した劇として書かれ、当時の観客にも共感しやすい「中世化」がされており、カインとアベルは、中世ヨークシャーの農夫と羊飼いとして描かれていて、カインの下男も登場する。アダムとイヴの子に下男がいたなんて、聖書の上ではあり得ないんだけどね(笑)。カインはこの下男に暴力を振るうが、下男も負けずに反撃し、殴り返そうとする。アダムとイブの堕罪の後の、秩序の崩壊した社会の有様をこの主人と召使いの関係が表しているとも言えそうだ。英語の聖史劇の中でも最高傑作のひとつと思う。</p><p>勉強になり、また、閉じこもりがちな私には、良い気分転換になった昨夜でした。行きがけはまだ炎天下で、暑くてへとへとになったけど、たまには出かけないとね。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-66108281332097274502020-08-11T11:19:00.003+09:002020-08-11T14:44:27.602+09:00オンライン授業の準備<p> 今年度、首都圏の大学ではどこも全面的に、あるいは部分的に、オンライン授業を行っている。私は非常勤先でたった1科目の講義しかやってないが、それもオンラインになった。技術面でも戸惑うばかりだが、何よりも準備に手間と時間がかかった。初めてのことなので、頑張りすぎたという面もある。そこで、私の1週間のオンライン授業の内容とその準備を紹介してみたい。内容は英文学史の前半、17世紀まで。後期科目では18世紀から第2次世界大戦後までをやることになっている。</p><p>1. 私は、対面授業でも講義科目ではまず大体の原稿を作る。例年の授業ではそれをそのまま朗読はしないが、時々見ながら講義する。そこで、今年は去年の講義原稿を読み直し、そのまま朗読できるように修正したり、間違いを直したりして、ICレコーダーで録音(30-50分)。ファイルをPCに読み込む。</p><p>2. 去年のハンドアウト(講義レジュメ)を修正して詳しくし、文字だけなので写真や地図を入れたり、出典を調べたり、参考書目を付け加えたりする。</p><p>3. 録音した講義(MP3ファイル)と講義のハンドアウトをgoogle driveにアップロードし、履修者と共有。履修者が、ハンドアウトを見ながら講義を聞くようにする。</p><p>4. 毎週3回ぐらい資料をコンビニにコピーしに行く(主に、文学作品の一部抜粋、他には、英文学史や英国史の一部抜粋など)。</p><p>5. コピーした資料(毎週大体3点、30ページくらい)の不要部分をカットして、新しいB5か、A4の用紙に糊で貼り付け、スキャナーで読み込みPDFにする。1枚目に、出典や説明を付ける。</p><p>6. その週に扱う内容により、詩やその他の作品の一部などを、ワードに入力して、対訳の資料を作り、PDFに変換。これは英語原文を味わって貰うため。</p><p>7. 5と6のPDF資料を大学の学習支援システム (LMS) にアップロード。また、コース・ニュースに資料の説明と、その週に提出する課題を提示(リスポンス・シート[300-500字程度、字数の上限なし]、あるいは、特定の資料についてのごく短い[500-1000字程度、上限なし]レポート)。他の科目の作業などもあるだろうから、文字資料が読み切れない場合は、音声講義だけでも聞くように、と言ってある。</p><p>8. 時間割で指定された時間にWebexによりオンラインでリアルタイム授業をして、学生の質問に答え、また音声講義の捕捉や資料の説明をする。質問に答えるだけで簡単に済ますつもりだったけど、やり出すと色々準備もしてしまい、ほとんどの週で、30-60分やった。但、学生の負担を減らすため自由参加とし、出席は取らなかった。結局、最初の3,4回を除き、ほとんどの履修者が出なくなったが、まだ2人ほど出ているので、ずっと続けている。(最終回はひとりだけだった。)</p><p>9. リスポンス・シートを課した週は、そのフィードバックをまとめて(2〜3ページ)、LMSで学生に配布。ホームワークを課した週は、個別のフィードバックをLMSで送信。</p><p>10. 学期末には学期末レポート提出を課しているが(目安は2千〜4千字、但、上限はなし)、この締切はまだ先。</p><p><br /></p><p>科目の主なメディアを音声講義の配信にした理由は、最初、ZoomやWebexの受信には環境が整わない学生が出るかも知れないと恐れたこと。それに、マイペースで休み休み聴ける方が、同時配信より良いだろうと思ったから。また、私自身、内容の間違いなどに後で気づいた時には、録音し直すことが出来る。また、一応Webexの使い方は憶えたけど、うっかり操作を間違えることも多いだろうと思ったので、ローテクの方がやりやすかった。</p><p>今日8月19日、やっと最後のリアルタイム授業終了。一週間、この1科目のためにかかりっきりになった。来学期は何とか省力化しないと自分の勉強ゼロだし、主夫業にもしわ寄せ多し。</p>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-55640576737174399482020-08-03T08:32:00.003+09:002020-08-03T13:04:41.466+09:00橋本侃先生の聖史劇翻訳<div>神奈川大学外国語学部教授だった橋本侃先生が<a href="http://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20090216000381" target="_blank">2009年2月に亡くなられたことを最近になって知った</a>。享年67歳。あまりに早すぎた。</div><div><br /></div><div>私の大学教師としての最初の仕事は、1985年、玉川大学の英語の非常勤講師で、博士課程の2年生の時だった。その頃、玉川大の小さな非常勤講師控え室で、神奈川大学外国語学部の橋本侃先生にお会いした。私より10才位上の世代の方で、専門はシェイクスピア。シェイクスピアに関する単著も2冊ある。私は駆け出しの新任非常勤で、元々人見知りだから、自己紹介して以後はお会いすれば挨拶するくらいで、ちゃんとお話ししたこともなかった。私は自分がつまらなさすぎる人間で話も退屈だから、他人と話をするのに気後れする。</div><div><br /></div><div>橋本先生は、シェイクスピアが第一の研究分野だったようだが、一方で石井美樹子先生と共に、中世イギリス演劇研究会を始められ、日本における中世イギリス演劇研究が盛んだった頃の主要な学者のひとりだった。彼は『中世ウェイクフィールド劇集』(篠崎書林、1987)の6人の編者の1人(他の編者は、黒川樟枝、松田隆美、米村泰明、中道嘉彦)。</div><div><br /></div><div>神奈川大学の紀要の中に眠っているが、橋本先生には驚くべき翻訳の業績がある。彼は、4大中世劇のうち、Nタウン劇とチェスター劇を全訳されていることを最近知った。更にタウンリー劇の最初の数作品(全体の一部を占める短い劇)も訳されている。しかし、タウンリー劇を訳されている途上で、2009年2月、病気で亡くなられたようだ。4大劇のうちの2つまで訳されたというのは素晴らしい業績。きっと書籍としての出版計画も温めておられていたことだろう。残念。</div><div><br /></div><div>今回、授業の配付資料として、タウンリーのノアの洪水の劇を使わせていただいた。そのうち、ネットでわかる範囲内で橋本先生の業績リストを造りたいと思っている。出来れば彼の中世劇の翻訳を本として出したいくらいだが、私のような自分の著書も編著もない非常勤講師ではどうしようもない。</div><div><br /></div><div>日本語で書籍として読めるイングランドの聖史劇の翻訳というと石井美樹子先生訳編の『イギリス中世劇集』(篠崎書林、1983)だけだと思う。これは Peter Huppé, ed. <i>English Mystery Plays: An Selection</i> (Penguin, 1975) というロングセラーの作品集の翻訳で、大変立派なお仕事である。これがなければ、日本のほとんどの読者はイギリスの聖史劇を読めない。但、この作品集は、4大聖史劇から聖書の物語の流れに沿って色々な劇を集めた、まさに「作品集」であって、チェスター劇とか、ヨーク劇といった単一の、所謂「サイクル」の特徴が霞む結果になっている。聖書で言うと、4つの福音書を一つにまとめて一度読めばイエス・キリストのお話がわかるようにしたのと同じ(中世ではこれをGospel Harmonyと言う)。ところが、それぞれの聖史劇には独特の個性があり、聖史劇別に読むとそれが一目瞭然なのである。その意味で、橋本先生のチェスター劇やNタウン劇を通しての翻訳は非常に貴重だ。しかし、何しろ紀要に載ったままなので、一般読者はおろか、イギリス演劇や私のような中世英文学の研究者も知らない方がほとんどだろう。せめて、チェスターやNタウンのひとつを編集したアンソロジーがあると良いのだが。</div><div><br /></div><div>リポジトリに収録されている橋本先生訳聖史劇は、<a href="https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_snippet&index_id=1178&pn=1&count=20&order=1&lang=japanese&page_id=13&block_id=21" target="_blank">このサイトから先生のお名前を入れて検索できる</a>。それ以外の、リポジトリ未収録の聖史劇翻訳は、<a href="http://human.kanagawa-u.ac.jp/gakkai/publ/index.html" target="_blank">神奈川大学の『人文研究』の目次を最初から見ていくと、出て来る</a>。Nタウン劇は、昔使われていた『ルーダス=コベントリー・サイクル劇』という名前になっている。なお、168号(2009年)に橋本先生の追悼記事がいくつか掲載されていた。</div><div><br /></div><div><div>橋本侃先生がシェイクスピア研究者であるにも関わらずずっと中世劇の翻訳にも当たられていたのは、おそらくシェイクスピアの理解には、その直前の、いやほぼ同時代の、聖史劇の理解が必要と思われたからだろう。聖史劇の上演は1570年代まで、そして一部ではおそらく17世紀初めまでやられていたことを考えると、聖史劇もまたチューダー朝演劇の一部なのである。Greg Walkerの編纂した <i>Oxford Anthology of Tudor Drama </i>(2014) には16篇の劇が収録されていて、最後の2篇はシェイクスピアだが、最初の作品はヨーク劇から "The Fall of Angels"。2作目が <i>The Croxton Play of the Sacrament</i>、そして4作目が <i>Everyman</i>。<a href="https://www.oupjapan.co.jp/en/node/14695" target="_blank">この本のdescription</a>を読むとその理屈がよくわかる。シェイクスピア学者の中にも、E K Chambers, David Bevington、最近ではJanette Dillonなど、昔から、中世劇とシェイクスピアの両方を研究した人は数多い。日本の場合、学会の敷居があまりに高いように見える。研究をストップした状態の私の出来る事は何もないが、非常勤先の英文学史で学生に教えるときぐらいは、中世劇とシェイクスピア劇の連続性についても触れるようにしたい。</div></div><div><br /></div><div>それにしても1980年代、中世イギリス演劇研究会が勉強会をし、また『イギリス中世・チューダー朝事典』の編纂が進んでいた頃、日本の中世イギリス演劇研究が何と豊かだったことか、今さらその時代に活躍された先生達のことを学び、驚いている。</div>Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-37727974988835460682020-04-22T11:13:00.000+09:002020-04-22T11:32:16.331+09:00オープン・アクセスの古典の翻訳がない新コロナウィルスの影響でほとんどの、いや、ほぼすべての日本の大学では、今学期、オンライン授業に移行しており、多くの大学では、4月下旬から、ゴールデンウィーク明けに徐々に授業が始まりつつある。私も非常勤講師として1つの大学で講義を続けているのだが、その学校は5月下旬の開講で、まだ少し余裕があり、今、オンライン授業に合わせて授業計画を修正中だ。<br />
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大学の授業がオンラインになっても、学生がキャンパスに入り、図書館や実験室を使ったり出来れば良いのだが、非常事態宣言以降、首都圏にあるほとんどのキャンパスは入構禁止となっている。文化系の学生にとっては、特に図書館が使えないのは痛い。講義で古典的な文学作品を解説しても、その作品を自分で購入しないと読めない。そこで、インターネット上に適当な翻訳作品がないか調べてみたが、著作権フリーの英米文学作品の翻訳はネット上にあまりにも少ないのに愕然とした。中世英文学の古典で言うと、おそらく『カンタベリー物語』も『アーサー王の死』も『農夫ピアズ』も『エヴリマン』も『ベーオウルフ』も、私が知る限り、ない。シェイクスピアだってこれだけ種々の翻訳が溢れているのに、フリーでオンラインで読める訳はどれだけあるのだろうか。<a href="https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person264.html#sakuhin_list_1" target="_blank">青空文庫のシェイクスピア</a>は、坪内逍遙訳の『ロミオとジュリエット』のみ。他は皆、作業中とのこと。<br />
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紀要リポジトリなどにあって、URLを示せば足りるような作品があると、和訳の上手下手とか学問的な正確さに多少問題はあっても、学生や教師にとっては大変助かるだろう。初期の『カンタベリー物語』訳などは、70年の著作権を過ぎているものもあると思うが、そういう訳は書籍、それも絶版本でしか手に入らない。英語の場合、中世英文学では <a href="https://d.lib.rochester.edu/teams/text-online" target="_blank">TEAMS Middle English Texts </a>など、定評のあるオンラインの教育用エディションが無料で読め、印刷も出来る。その他にも、あらゆる作品、批評、啓蒙的な概説がオンラインで読めるし、日頃から大学の教材として使われている。チョーサーでは、慶應義塾大学の堀田隆一先生の英語史ブログで<a href="http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2010-02-11-1.html" target="_blank">オンラインで読めるチョーサー学習のサイト</a>が色々と紹介されているが、皆英語のサイトだ。最近では、<a href="https://opencanterburytales.dsl.lsu.edu/?fbclid=IwAR0kxknGRDAKwZG_GTJXr56LzECpp599e_KWoHSrbzRarF_R7rHyvC1Bt-U" target="_blank">"Open Access Companion to the Canterbury Tales"</a> という素晴らしいサイトが加わっている。<br />
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日本の場合、先生達は翻訳をしても、最初から紙の本として出版し、フリーの紀要類やオンラインサイトで読めるものは極めて少ないし、出版が難しいような珍しい、地味な作品に限られる。これは、書籍として出版していないと学問的な業績として評価されにくいということもあるだろう。日本でも今後は学会や研究会などでもっとオンラインの英米文学の翻訳や教材を充実する手立てを考えてはどうかと思った。この点で特筆すべきは、国際アーサー王学会日本支部のサイトにある<a href="http://arthuriana.jp/legend/index.php" target="_blank">「アーサー王伝説解説」</a>だ。それ程分量は多くはないが、どの大学の学生にも近づきやすい分かりやすい解説が揃っている。<br />
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Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-23147302889704319602020-04-21T10:32:00.001+09:002020-04-21T10:32:15.791+09:0017世紀に出版された英語のトーマス・ベケット伝最近はブログ記事について紹介するブログが続いて恐縮だが、今回は、カンタベリー大聖堂に残る古書を紹介するアカデミック・エッセイのシリーズ、"Picture This"の一篇について。筆者はケント大学の博士課程学生で、既に学会などで活躍中の Anna Hegland さんで、タイトルは、<a href="https://www.canterbury-cathedral.org/heritage/archives/picture-this/piecing-a-puzzle-together/" target="_blank">"Piercing a Puzzle Together"</a>。1639年、つまり清教徒革命の直前にパリで出版された英語のトーマス・ベケット伝:"The life or the ecclesiasticall historie of S. Thomas Archbishope of Canterbury (1639)"。ベケット信仰というと中世のそれしか知らない私には大変興味深いエッセイだ。<br />
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しかも、リンク先を見ていただくと分かるように、この本には挿絵がかなり付いている。ところがこれらの挿絵はもともとこの本と一緒に出版されたのではなく、後にこの本を手に入れた読者のひとりが貼り付けたものらしい。<br />
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さて、Heglandさんの記述に沿ってこの本の来歴を順にさかのぼって紹介しよう。まずこの本の原作は16世紀イタリアの教会史学者、Caesar Baroius (1538-1607)によるラテン語のベケット伝で、これは1586-88年頃に流通していた。このラテン語の著作が、いつかは分からないが英語に翻訳され、パリに在ったColloniaeという出版業者から1639年に出版された(この時点では挿絵は付いてなかったようだ)。このColloniaeは、"widow of J. Blageart"(J. Blageartの未亡人)という女性により運営されていたそうで、他にも商業出版に広く関わっていた。この時代は勿論イングランドではカトリックの活動など到底不可能な時代だったが、こうして英語のカトリック出版物を印刷して、大陸で売り、そしておそらくイングランドにも密輸していたのだろうか。<br />
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この本には、その後18世紀に所有していた読者のサイン、"J. M. Teale, 28th Jan 1786, Maidstone Kent"という書き込みがある。つまり、この本はいつの時点でか分からないがイングランドに運ばれ、(大陸において、あるいはイングランドで)挿絵が加えられ、そして18世紀末にケント州のメイドストーンに住むJ. M. Tealeという人の手に渡ったわけである。1778年に発布された法律The Catholic Relief Act(カトリック解放法)により、イングランドのカトリック教徒はやっと土地所有や軍隊への入隊が認められたくらいで、Tealeさんの時代はまだまだ2等市民といった差別を受けていたと言って良いだろう。そうした時代、ひっそりとこの書物は読まれたのだろうか。<br />
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1170年のクリスマスに暗殺されたベケット、その後中世における熱烈な信仰の高まりと、宗教改革による聖者信仰の弾圧。そうした歴史の後に書かれ出版され、おそらく信仰の支えとして読み継がれたのがこの本。なかなかドラマチックだなあ、と感銘を受けたのでした。<br />
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Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-55726720850982465652020-03-02T17:47:00.001+09:002020-03-02T17:47:58.880+09:00研究と教育の関連米国のボストン・カレッジという大学の中世英文学の教授、エリック・ウェイスコット (Eric Weiskott) さんの学術ブログを愛読している。先日、彼の最近の<a href="https://ericweiskott.com/2020/02/21/tyrannical-curriculum/" target="_blank">ブログ・ポスト、'Tyrannical Curriculum'</a>を読んだ。この文章で、ウェイスコット教授はカリキュラム上の要請と中世英文学の研究・教育の関係について書いている。内容をざっと紹介すると:<br />
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米国の大学で中世英文学を講じるときにはどうしてもまずは最も名前の知られているチョーサー『カンタベリー物語』や『ベーオウルフ』などをやらざるを得ない。その他の作品も、著名度や作品の長さ、授業時間の都合で限定される。そうしたことが、研究対象となる作品にも反映される。一方で、中世イングランドにおいて実際に広く読まれた作品、文学史や文化史上非常に重要な作品がほとんど授業で取り上げられないという問題が起きる。例えば『農夫ピアズ』の後3分の2、ウィクリフ派聖書、リチャード・ロールやガワーのラテン語作品、フロワッサール、等々である。学生と授業でチョーサーのような同じ作品を繰り返し読む事で、先生達は新しい発見をし、学生の意見に教えられ、自分達の研究論文に繋がることは多い。しかし、そのようにして研究が進展する一方で、授業の要請とは外れた多くの作品があまり顧みられないまま眠っている。<br />
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勿論通常の古典的作品から外れた作品をシラバスに載せることもあるが限られている。また、大学院生のTAや若い契約講師は与えられたカリキュラムをこなすだけで、作品を選ぶ自由はない。研究者の中には、研究で扱う作品は授業で扱う作品とは全く別という人もいるが、なかなか困難な選択だ。<br />
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さて、日本ではどうだろう?中世英文学の研究者の大多数は教養課程の英語を教えている。更にその内容は、TOEICや英検の準備だったり、英作文だったりし、教科書を自ら選べない人も多い。日常の授業に真面目に取り組む方は、英語教育に関する最近の学術情報を学び、学会で勉強し、授業法や教材の研究をする必要もある。結局、英語教育も専門分野の研究も、どちらも中途半端にならざるを得ない。教えている学生に真剣に接している人ほど、研究内容と授業はまったく乖離した状況で、国際レベルとは行かなくても、国内で注目されるような専門研究を続けるのも非常に困難と言えるだろう。日本でもアメリカでも、レベルはかなり違うとは言え、研究と教育を上手く結びつけることは難しい。Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-80660258446328071402020-03-02T15:56:00.001+09:002020-03-02T15:57:26.805+09:00ケント州フォードウィッチにやってきたシェイクスピアの劇団ツィッターでリンクを見かけた<a href="https://www.kentonline.co.uk/canterbury/news/historic-church-where-shakespeare-performed-222869/" target="_blank">このオンライン記事</a>にある<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%81" target="_blank">フォードウィッチ(Fordwich)</a>という場所は、カンタベリーの郊外、今はほんの380人位の人口しかない郊外の集落。ここに近代初期、シェイクスピアの劇団が公演にやってきたそうだ。この町は、現在は civil parish(世俗教区)と言われる英国最小の行政単位だが、近代初期には自治都市(borough)として認められ、市長を選んでいたようだ。カンタベリーやアッシュフォードを流れ英仏海峡にいたるスタウアー川(The Stour)の川辺にあり、船着き場として栄えていたらしい。<br />
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フォードウィッチの市長の出納簿(Mayor's Accounts)は1559年以降のものがケント州公文書館に保存されている。そのうちの1604/5年の記録に次のように書かれている:<br />
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To the kinges players vjth of October x s.<br />
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つまり国王の劇団への謝礼として公金から10シリングを支出したわけだ。King's Playersというのは、シェイクスピアが在籍したKing's Menだろう。つまりこの劇団は1605年10月にカンタベリー郊外のこの町で旅公演をしていたわけである。記録はこれだけなので上演場所や演目など、その他の事は全く分からない。しかし、こうした町で人々の集まる大きめの建物というと教会かギルドホールくらいだから、教会で興業が行われた可能性は高い。この市長の出納簿からの抜粋は、<i>REED (Records of Early English Drama) Kent: Diocese of Canterbury</i>, Part 2, p. 602に記載されている。<br />
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出納簿からのその他の演劇上演の記載を見ると、この小さな町に時々首都の劇団が旅公演に来ていたのが分かる。例えば、Earl Leicester's Men, Lord Stafford's Men, Lord Essex's Men, etc. 面白いのは、海外からの(?)King of Bohemia's Players (1620/1)というのも来ている。またThe Children's Players of Queen's Chapelという有名な首都の子供劇団も1590/1に14シリング4ペンスの謝礼を受けとっている。<br />
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自治都市であったとは言え、こうしたプロの有名劇団が小さな町であるフォードウィッチに何故来たのか、不思議ではある。直ぐそば(歩いて1時間半程度だろうか)にはカンタベリーという主要都市があったので、そこからも人々が劇を見に来ただろうとは推測するが・・・。Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-29821937588459016782020-02-11T11:20:00.000+09:002020-02-11T15:14:59.719+09:00【イギリスのテレビドラマ】新旧の『主任警部/刑事モース』シリーズとジョン・ソウの一家ツイッターで新旧の『主任警部/刑事モース』シリーズについて面白いことを知った。最近 NHK BS でリマスター版が放送されている『主任警部モース』(<i>Inspector Morse</i>)の主役を演じているのはジョン・ソウ(John Thaw) だが、ソウの最初の配偶者は<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Sally_Alexander" target="_blank">サリー・アレクサンダー</a>というかなり著名なフェミニズムの活動家で、ロンドン大学ゴールドスミス・コレッジの教師だった(今も存命で、現在は名誉教授のようだ)。彼女はイギリスで最初に開かれた女性解放運動(Women's Liberation Movement)の全国会議開催を組織した人とのことだ。<br />
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それで、この夫婦には<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Abigail_Thaw" target="_blank">アビゲイル・ソウ</a>というお嬢さんがいて、俳優をされている。そのアビゲイルさんが、『主任警部モース』のスピンオフドラマ『刑事モース・オックスフォード事件簿』(<i>Endeavour</i>)で新聞記者ドロシア・フラジルを演じている。このスピンオフ・ドラマのイギリスにおける最新シリーズ(シリーズ7)では、アビゲイル・ソウ演じるドロシアが、俳優の実の母である若き日のサリー・アレクサンダーに会うシーンがある。そのサリーを演じているのがなんとアビゲイル・ソウの実の娘モリーだそうだ。つまりジョン・ソウとサリー・アレクサンダーの孫娘。オックスフォードの情報ウェッブサイト、<a href="https://www.oxinabox.co.uk/its-a-family-affair-john-thaws-daughter-abigail-stars-in-endeavours-new-series-with-her-own-daughter-playing-her-mother/" target="_blank">Ox in a Box</a> の記事でこの共演のことを報じている。どうも孫娘のモリーはプロの俳優ではないようだ。<br />
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アビゲイル・ソウって、写真を見ると、色々なドラマの脇役などで良く見る顔と思うけど、私は今までジョン・ソウの娘とは気づいてなかった。ちなみに、ジョン・ソウはサリー・アレクサンダーと離婚した後、有名な俳優のシーラ・ハンコックと結婚し、亡くなるまで一緒だった。警部/刑事モース・シリーズは、私はオリジナルの<i> Inspector Morse </i>もスピンオフの <i>Endeavour</i> も大好きなので、新シリーズの日本での放送が楽しみ。Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-4070146987911163388.post-32834296672285851892020-02-10T16:04:00.001+09:002020-02-10T16:37:37.580+09:00【近況】チョーサー研究会出席(2020年2月8日)2月8日土曜日に日本大学経済学部の校舎でチョーサー研究会がありました。この研究会は長い歴史があり、発足は1992年、つまり28年続いています。今回の研究会は108回目。会合は年4回開かれていて、私は一昨年くらいから参加しています。会の名称は「チョーサー」を冠していますが、会のウェッブサイトによると、「ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)および中世英語英文学、ヨーロッパ文学・歴史・文化について研究発表、講演を中心に活動しています」とあり、イギリスを中心に、西欧中世の文学や文化、歴史についての発表を1つか2つ聴き、その後時間をかけて質疑応答をしています。<br />
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今回は貝塚泰幸先生による発表、「中英語 Octovian における獅子」を聴きました。Octovian は14世紀のロマンスで、元々はフランス語で書かれた物語を英語に翻案した作品です。Octovian(異綴りではOctavian)はローマ皇帝、彼の皇妃は義母の奸計により、生まれたばかりの幼い双子の男子と共に船に乗せられて追放され、異国を放浪する運命に。赤子のひとりは猿にさらわれ、もうひとりはグリュプス(Griffon:ギリシャ神話の怪物、ライオンの頭に鷲の胴体を持つ)、そして雌ライオンにさらわれるという不幸な運命をたどります。前者の赤子はやがて母親に再会し、後にはこの母子は父の皇帝 Octavian にも正当性を認められます。そしてその赤子は、父と同じく Octavianと名付けられます。後者の赤子、Florent は、雌ライオンが母親のように乳を与え、その後、中産階級の市民に拾われて育てられます。彼はやがて自然にその高貴な血筋を示すようになります。紆余曲折を経て、最後は、父の皇帝、母の皇妃、そしてふたりの成長した息子たちが再会することになります。<br />
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というような話らしいんですが、私は予習のために読もうとしたけど半分くらいしか読んでいません。でも既に読んだところまででも色々な出来事が詰め込まれていて、なかなか面白い物語です。特に Florent が中産階級の家庭で育てられるのに、その商人らしい価値観からはずれて、高貴な血筋を示さざるを得ないあたり、「生まれ」と「育つ環境」(nature vs. nurture)の対比が大変興味深いと思いました。まだ半分しか読んでないので、これからぼちぼち最後まで読んで、また考えたいと思います。ウィキペディア英語版に<a href="https://en.wikipedia.org/wiki/Octavian_(romance)" target="_blank">かなり詳しい解説があります</a>。<br />
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貝塚先生のご発表は、学問的にディテールにこだわった緻密なものでした。ライオンの描写に焦点を合わせ、いくつか残っている写本毎の特徴を捉えて、北部の写本と南部の写本の違いを明らかにしようという試みでした。まだ論文にするほどのはっきりした結論は出てないようでしたが、着実に発展しそうな研究手法です。彼は以前の研究発表でもこうした写本別の違いを扱っておられ、手堅い研究をしておられます。今後の成果が楽しみです。<br />
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この研究会の後は毎回懇親会もあるのですが、私は近年老人性難聴になりつつあり、特にレストランや居酒屋等では人の話が良く聞こえないので、今回も失礼して帰りました。<br />
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Yoshihttp://www.blogger.com/profile/06011159402801382007noreply@blogger.com0