2018/12/19

ハートネットTV「平成がのこした宿題 (4) 自殺ー生き心地のよい社会へー」

先日来、ETVのハートネットTVで「平成が残した宿題」というシリーズが放送され、セクシュアル・ハラスメント、ジェンダー格差、ひきこもり、などと共に、自殺が取り上げられた。平成の間に自殺で亡くなられた方は約80万人。少ない年でも2万1千人以上、多い年は3万4千人を超える人が自ら命を絶った。

自殺者の陰には、彼らの遺族がいる。亡くなった人と同じくらい苦しんでおられるご家族が80万人の何倍かいらして、一生そのトラウマ、そしておそらくは家族を死なせてしまったという罪悪感、を抱えて生きていかねばならない。

この30数年の間に私が知り合った人々の中にも、自殺した人が3人いる。3人とも、親しくつきあっていて個人的なことを話せるような関係ではなかったが、何か声をかけたり、メールを出したりして悩みをやわらげる機会は無かったものか、後悔が残る。

番組では色々な自治体やコミュニティー、NGOなどの取り組みが成果をあげて、近年自殺者数が目に見えて減りつつあることが紹介されていた。出演者が言われている事だが、自殺とか鬱病といった問題は、日本では「素人が関わることではなく、専門家に任せるべき」と考える人が多くて、結果的に苦しんでいる人々をほったらかしにしてきたそうだ。しかし、今成果を上げている方策は、一般の人達が地域で声かけをして、自殺予防に繋げているそうだ。

2018/12/09

シェイクスピアの晩年を描く映画、 'All Is True' 、来年以降公開

シェイクスピアがストラットフォードで過ごした晩年を描く映画、 'All Is True'  が出来た。ケネス・ブラナーがシェイクスピアを演じ、彼自身が演出。奥さんのアン・ハサウェイを演じるのはジュディ・デンチ。更にイアン・マッケランも出演。脚本はベン・エルトン。来年2月に英米で公開されるそうだ。

以前にシェイクスピアの晩年を描いた劇、エドワード・ボンドの 'Bingo: Scenes of Money and Death' をロンドンのヤング・ヴィック劇場で見た。彼の悩みの多い、メランコリックな日々がとても興味深く描かれていた。天才シェイクスピアだけではなく、市井の一個人として家族などに振り回される父親だった。その時の感想。さて、今回の映画がどうなるか楽しみ。

シェイクスピアがストラットフォードに残した家族を描いた劇としては、Peter Phelanの 'The Herbal Bed' と言う作品もある。これは、劇作家の死後の彼の娘スザンナを主人公にした劇で、シェイクスピアは登場しなかったと思う。シェイクスピア関連の劇と言うより、17世紀の田舎町の比較的豊かな平民の家庭を描いた劇として見るのが正しいだろう。私は感想を書き残してないのだが、多分1990年代にウエストエンドの劇場で見て、結構面白かったというおぼろげな記憶がある。機会があったらまた見てみたい。

2018/12/06

学会発表を終えて

先週末(11月30日、12月1-2日)、学会で名古屋に行ってきた。30日は学会の委員会、1日と2日は学会本番だった。その前からずっと体調が悪く、胃腸が荒れていて、3日間、腹部の不快感をこらえつつ過ごした。30日の新幹線の中では、気分が悪くてずっと目をつぶって我慢している有様だったし、特に12月1日は私自身が口頭発表したので、どうなるか大変心配した。実際、途中気分が悪くなりそうな瞬間があったが、何もなくて無事に発表を終え、ほっとした。帰ってきたらもの凄く疲れが溜まっていて、木曜日の今日になっても、未だにそれが取れてない感じがする。

私の発表は予定通りに終わった。何度も練習して、せめて時間はしっかり守り司会者に迷惑をかけない事だけはいつも心がけている。今回も制限時間の30分の前後で収まり、おそらく誤差は1分以内だったと思う。その点は満足。司会をして下さったのは、私よりずっと若い、働き盛りの中世演劇の専門家の先生。これまで直接お話ししたことがなかった方で、今回知り合えて良かった。中世劇の専門家は大変少なく、若い先生は他にはおられないので、彼からは今後も色々と教えていただきたいと思っている。発表後の質疑応答も、大変学識豊かな権威者の先生方から質問やコメントをいただき、ありがたく、かつ参考になった。

但し、発表した本人としては、以前にも書いた事があるが、自分の発表がどういう風に受け取られたのか知るのは難しい。学会発表をすると、大体は「ご苦労さま、面白かったです」と苦労をねぎらってもらえるのが常。でも、それ以上の突っ込んだコメントをもらうことや率直に批判してもらえることは少ない。面白いと言われても、どこがどう面白かったのかも、よく分からない。過去においても、大きな学会で発表し、何人もの方に好意的なコメントをもらい、望外に良い感触を得たはずなのに、発表原稿をまとめて査読誌に投稿してみると、修正意見もなく、一刀両断にされて掲載拒否、ということもあった。だから、「ご苦労さま」的な反応はまさにそれだけのこと、と思うことにしている。率直な感想を言って貰うには、もともと親しい交友があり、しかも専門分野も近くて内容が理解出来る人である必要があるだろう。しかし、私ほほとんどひとりで中世演劇を勉強してきたから、そういう友人はいない。ただし、今回は発表当日前後、体調の上で大変辛かったので、自分自身に対して本当に「ご苦労さまでした」と言ってやりたい(^_^)。

今回も何人かの若い研究者の発表を聞いたり、懇親会等で話したりした。近年の若い研究者や働き盛りの方々の優秀さには、いつもながら舌を巻く。多くの競争をくぐり抜け、内外の最もレベルの高い大学院の博士課程、そして専任職に進まれているのだから当然だ。彼らの多くが、そもそも頭の回転が早く、メンタルも強く、また競争心もプライドもある、という印象を受ける。一方、私の世代の文学研究者は、私自身がその典型だが、会社や役所の勤め人にはなりたくてもなれないという落ちこぼれで、内向的で人前に出るのが苦手、社会的にはかなり不器用な人がかなりいた。だから文学部に行き、こつこつと勉強して何とかその分野で生きながらえたという人種。今はそういう人では、研究者の世界では全く生き残れない。文学研究を含め、アカデミアのどの分野でも、研究者は競争を勝ち残る卓越した能力と強い精神が必要だ。今だったら、私は大学卒業度どうしているだろうか。教育・研究職なんて望むべくもないから無理にも何らかの勤めにでているだろうけど、私でもやれることがあっただろうか。

2018/11/20

学会発表準備中

来月初めに学会発表をすることになっていて、今その準備中。とは言ってももう間もなくだから、原稿もハンドアウトも一応出来ている。ほとんどの内容は Ph.D 論文に基づいているので、草稿を書くのにはそう苦労しなかった。しかし、大体の原稿が出来てからも関連文献を読み、問題点がないか確認していると、いくつか今まで気づかなかった点や自分の知識が不足している点が見つかり、焦っている。まあ、すべての学会発表は謂わば中間報告。30分では言えることも限られているる。ある程度の完成を見るのは印刷物にする時なので、口頭発表段階ではいくらかの問題が残ったままなのは仕方ない。後に残らない口頭での発表は、聴き手からご意見をいただいて改善していくためのプロセスと考えるのが正しいだろう。

私の場合、口頭発表にしろ論文にしろ、歳を取るにつれて一段と自分の能力や知識に関する自信がなくなり、自分の考えを他の研究者に問うことが出来なくなっている。研究者は研究結果を論文や著書で発表するのが仕事の大事な部分だ。アカデミアの外の人達は、論文も書かない怠け者の教授達をしばしば批判する。確かにそういう方も一定数いるとは思うが、私のように、論文を書きたいがなかなか実力が伴わず書けない、自信がない、という人もかなりいるだろう。私は、そもそも若い頃から自分の能力に何の自信もなかった。しかし、フルタイムの教員として多忙を極めていた間は、日々の校務や授業準備で精一杯。体力がないのでいつも疲労感をひきづりつつ仕事をしていて、研究について悩む余裕はおろか、研究する余裕もろくになかった。そういう生活に疲弊し、仕事を辞めて、博士論文を書いた。しかし、その間に何度もつまづき散々苦しんで、自分の浅学と非力を痛感し落ち込んで、一層論文のための勉強が滞った。イギリスの指導教授にも、君は自分の研究について自己評価が低すぎる、とよく言われたものだ。

専任教員を辞めた今は、なかなか論文を書けなくても、もっと業績を作れ、と上の人から𠮟咤(+激励)されなくてすむので、やや気が楽である。

さて、発表はどうなりますら。聴いて下さる方々は、将来ある若い人々なら鍛え甲斐もあるが、老人を今更鞭打っても仕方ないと思われて、色々と間違いや足りないところがあっても、大目に見ていただけるとは思うが・・・。

2018/11/11

中世劇に使われる「サイクル劇」という名称

12月始めにやる予定のイギリス中世劇に関する研究発表の原稿を書いていて、気になることがあった。2,3度、「サイクル劇」という言葉を使っていたが、この語は中世劇を表すためには段々使われなくなっている。中世から伝わったとされる英語による4つの大きな劇の集まり、ヨーク劇、チェスター劇、タウンリー劇、Nタウン劇は、長年、サイクル劇(cycle plays)と呼ばれてきた。サイクル劇と呼ばれるに至ったのは、天地創造から最後の審判に至る聖書の物語、つまりゼロから始まりゼロへと戻るこの世界の循環(サイクル)を数多くの短い劇で表現しているからである。これら主要4大「サイクル劇」のうち、ヨーク劇とチェスター劇はイングランド北部の2つの都市に残る様々の記録と現存する写本がほぼ符合しており、サイクル劇と呼んでも問題ない。しかし、タウンリー劇とNタウン(N-town)劇は、それぞれ1写本しか残っておらず、それらの写本がどの都市(あるいは町や村)で上演に使われたか分かっていないばかりか、そもそも写本とほぼ同様の形で上演されたかどうかも怪しい。写本として単に読まれるためだけに劇が集められた可能性もある。「タウンリー」(Towneley)は写本の名前であり、「Nタウン」は写本の中にあるこれが上演された町の名前であるが、「N」というのは恐らく空欄を現すために使われた文字ではないか、つまりそこに特定の町の名前を入れる代わりに使われた文字と考えられている。「○○タウン」みたいなもの。これら2つの写本に含まれる多くの短い劇は、ヨーク劇などのような一貫したデザインを基にして書かれた(あるいは、集められ編集された)劇ではなく、色々な場所で書かれたり上演されたりしていた劇の脚本を、天地創造から最後の審判という聖書の物語に沿って選択し、1つの写本に集められたわけだ。つまり、この2写本は複合写本(composite manuscripts)であり、短い劇のアンソロジーなのである。写本のレベルで見ると、確かに 'cyclic form' を取ってはいるが、全く別の目的で色々な作家により書かれた作品を「演劇作品集」として集めたに過ぎない。

そこで権威者によるスタンダードな研究の総括として、1994年の Cambridge Companion to Medieval English Theatre (ed. Richard Beadle) を見てみると、ヨーク、チェスター、タウンリーに関する章のタイトルでは、'cycle' という名前が使われているが、Nタウンでは、'The N-Town plays' という名称になっている。更に、2008年に出たこの本の第2版では、タウンリー劇の章も、初版と同じ筆者、Peter Meredith の執筆だが、'The Towneley pageants' という名称に変えられている。更にヨーク劇についても、筆者で本全体のエディターでもあるRichard Beadle は、'The York Corpus Christi Play' というタイトルに変更している。「サイクル劇」という名称の背後にあるアイデアそのものが学問的に使いづらくなっている証拠だろうか。このあたりは、私ももっと勉強が必要だ。とりあえず、今回の研究発表では「サイクル劇」とか、「サイクル」という名前を使わない事にした。

これに関連して、手元にある日本語の英米演劇史や英文学史、シェイクスピア概論などの教科書を幾つか見てみた。私はあまり新しい本を持っていないのも一因だが、中世劇に関してかなり古色蒼然とした記述も目に付く。近年日本語でこの分野の本が出ていないことも一因だろう。更に、英文学史などで初期の演劇について執筆することの多いシェイクスピアを含むルネサンス演劇研究の研究者で、中世劇についてもある程度研究をしている人が少ないかほとんどいないことも原因だろう。

イギリス中世劇に関して最も信頼に価する素晴らしい日本語の概説書は松田隆美先生や石井美樹子先生他6名の優秀な研究者による『イギリス中世・チューダー朝演劇事典』(慶應義塾大学出版会、1998)だが、何しろ20年も前に出た本であり、現在の英米の研究状況とはかなりずれている。「聖史サイクル劇の発生と発達」というセクション(pp. 3-8)も、「サイクル劇」という言葉の適用範囲も含め、修正したほうが良い点が幾つかある。これを読んだ方が文学史の本を書いたりすると、そのまま不確かな情報が広まることになる。これから文学史や演劇史の執筆や編集をされる方は、少なくとも、上記 Cambridge Companion to Medieval English Theatre (ed. Richard Beadle)の Second edition (2008) のイントロダクションくらいは読んで、基本的な知識をアップデートする必要がある。

イギリス中世劇について、近年の基本的な知識の変化については、まだ書きたいことがあるが、私自身勉強不足であり、取りあえずは自分の研究発表の原稿を書くのに大忙しなので、そのうちまた(^_^)。

2018/10/31

市民講座は難しい

昨日は以前常勤で働いていた職場での市民講座の企画を、ああでもない、こうでもない、と考えていた。研究者としての実力も、また知名度もない私が、受講料を払ってくださる一般の方々を集めるのは大変難しくて、いつも本当は開催して貰えない程しか受講者が集まっていない。事務局に心配と無駄な労力をかけっぱなし。市民講座の企画を考える度に、自分の能力の無さを痛感し落ち込む。

今年前期は、別のところの市民講座で、企画しても受講者が集まらず開催できないという事態になり、事務局に大きな迷惑をかけた。講師として審査していただき、その上でパンフレットに載せるなど、一定のお金と労力はかかっているだろうが、無駄になった。私は、常勤教員の頃は他人がやりたがらない所謂「雑務」係としてこき使われていると思っていたが、仕事を辞めた今となっては私の職業人としての価値はそうした雑務をやることくらいしか無かったことに気づく。


2018/10/29

歴史学の研究会に出席

10月27日土曜日は「イギリス史研究会」という歴史学の研究会に出席した。発表者は中世イングランドの説教研究の第一人者で慶應義塾大学文学部の赤江雄一先生。説教は文学の一部でもあり、Siegfried WenzelやAlan Fretcherなどの中世英文学研究者も盛んに研究しており、興味を持っていた。英米の学者は演劇との関連も研究している。
 
赤江先生の学会発表は聞いたことがあったが、今回は研究会で時間的余裕があったので、先生は基礎知識から始めて今研究されている高度な問題まで懇切丁寧に話して下さり、私のような初心者にも大変分かりやすく、興味を持って聞けた。

主なトピックは説教の中に表れるラテン語・英語の混じった(「マカロニック、macaronic 」と言う)文章についてだった。マカロニックな表現は様々な文学作品に頻出し、これから私もよく考えたい分野だ。その意味でも、良い学びの機会を与えていただいた。但し、説教というのは独特の形式に則ったかなり特殊な文章なので、先生が導かれた結論は直ぐには他のマカロニックな文章には当てはまらない。私としては広く文学におけるマカロニックな表現の存在意義について、今後も考えていきたい。

近年は言語学者も中世のラテン語と俗語の混淆文には注目し、多くの論文が出ているようだ。また、イングランドでは、仏語と英語の混淆文を研究する人もいる。英語史研究や歴史言語学の方にも注目していただきたい分野。

今回出席したような分野外の研究会や学会に行くのは、新鮮で楽しい(但し、そうでなくて違和感が酷いときもある)。こういう時は全く無名の教師だと気軽に行けて都合良い。名前を知られているような人だと、自分の分野外に突然出かけるのは、招待されない限り抵抗あるだろうし、これらた方もビックリなさるかもしれない。イギリスの大学や研究機関で開催される人文科学のセミナーや学会、特に中世や近代初期関連の学会等は、色んな分野の人が集まる。聞いてもちんぷんかんぷんの事も多いが、日頃考えた事もない視点からの話が聞けて良かった。日本ももう少し交流があって良いと思うが。27日の研究会も、他の参加者は歴史学のかたばかりのようだった。

2018/09/15

NHK ハートネットTV「歴史部のぼく」

9月12日のETV「ハートネットTV」は「歴史部のぼく」と題された一種のドキュメンタリーだった。ぱっとしない、地味で内向的な39才の中年男性の城秀樹さん(テレビ・ディレクター)が主人公。自分の孤独な高校生時代を振り返り、当時の3人の男子クラスメート(生徒会長、サッカー部のスター、やはり孤独で謎の行動を取る生徒)を訪ね歩くという番組。

ディレクターの男性は、人間関係の構築が苦手な、口下手な男性で、私も似ていて、共感できる面が大いにあった。私には彼だけでも充分に面白いのだが、彼のクラスメート達が度外れてユニークで、とっても楽しい。

まず会ったのは、当時生徒会長だった男性。どのグループ(スクール・カースト)にも入り込まず、誰とでも楽しく話が出来るスキルみたいなものを持っていたようだ。そういう人だから城さんとも仲良く話してくれた。でも昼休みは他の人とサッカーをしていて、城さんはひとりで、ちょっと寂しかった。城さん自身はそういう時はひとりで本を読んでいた。この人、今は大学の英語講師になっている。スマートで長めの髪でカジュアルな雰囲気。いかにも大学の先生という印象を与える。でもその自由な感じから、多分非常勤講師じゃないかと思った(組織に属している専任の人達は、何となく堅苦しい雰囲気がある場合が多い)。城さんが、クラスに溶け込めなかった自分について語ると、彼は、「嫌なら行かなきゃ良いんだよ」みたいなことを言う。実際、彼自身も生徒会長なのに3分の1くらい欠席していたそうだ。何だ、それ、ほとんど不登校じゃん(^_^)。飄々としていて、39才の今も若々しく、魅力的な好男子。

次に城さんが会ったのは、格好良いサッカー部のスター。城さんにとっては最もまぶしい存在だった。会った場所はライブハウス。何と今はミュージシャンとしてバンドをやっている(そんなに売れてそうもないけれど)。サッカーの方はクラブ活動どまりでそれで生きていくほどには才能が開花せず、好きな音楽の世界に進んでいて、色々と苦労もしていそうだ。でも、若々しく、楽しそうに生きていて、迷わず自分の好きな道に進んだ人のすがすがしさが漂う。高校時代は部活、部活で一日中忙しくて余裕のない毎日だったらしい。

3人目は、クラスで城さん以上にひとりで悠々と我が道を行っていた正体不明の男の子。現れたのはカフェやゲストハウスを経営する実業家。でも見た目はヒッピー風(^_^)。高校時代は突然黒板に詩を書いてみたり、他の生徒に手紙を出したり(恋文ではなく、単なる手紙だそう)。昼休みはひとりで校内の散歩。孤独感は全くなくて、不幸ではなかったみたい。当時もユニーク、今もユニーク。

これはスクール・カーストを大人になった男性の視点から考える番組だったけど、中年になった個性的な男性達の生き方を見せてくれて、とっても楽しいドキュメンタリーだった。4人の中では、城さんが未だに青春の迷いをひきずっているみたいだけど、迷いながら生きるのも良いし、そんな彼はテレビのディレクターに向いていそうだ。

2018/09/13

NHK ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」

8月18日に放送され、録画しておいたこの番組をやっと見た。小林多喜二の拷問による獄中死とか、共産党員の弾圧はよく知られているが、治安維持法が如何に拡大解釈されたかは私はよく理解していなかった。治安維持法が、共産党対策から、共産主義には関心も知識も無い一般大衆を統制するのに使われるようになった経緯は、天皇の緊急勅令による拡大解釈があった。特に、この法律の下、日本人以上に植民地の人々が苦しめられたことが明らかにされている。日本本土では、拷問による死はあったが、この法律の下での正規の死刑は科せられなかった。しかし、朝鮮では59人が死刑になった。共産党弾圧に始まった取り締まりは、やがて、労働組合員や組合関連の会合や読書会に出た人、新築地劇団などの劇団員等の文化人、燈台社など平和主義のキリスト教の信者、なども含まれるようになる。共産党員の家族も取り調べを受け、番組に登場した女性は14才で勾留され、手の爪を痛めつけられるなどの拷問で取り調べを受けた。その時の恐怖は100才近い今もトラウマとして残る。共産主義者を法廷で弁護した弁護士もまたこの悪法により検挙され、共産主義者を裁く法廷には弁護士がつきたくてもつけない、という法治国家と言えない状況が生まれる。更には、検挙者には単に庶民の人物画を描いていた高校生もいた。特高は共産主義が何かも知らない学生に「自白しろ」と迫り、無理矢理無知な若者に共産主義者であるとの嘘の自白をさせた。特高のこうした自白偏重はその後、日本の刑事司法の伝統になり、今の警察や司法に受け継がれたと、番組に登場した刑法学者は言う。この点は本当に重要だ。

特高に取り調べられた人は、20年間で10万1654人。第2次大戦後、特高警察にいた人々は罷免されたそうだが、罪を問われてはいないだろう。45年前から、治安維持法の被害者や支援者が、国に対して謝罪や実態調査をして欲しいという請願運動を続けているが、国はまったく応じていない。国の姿勢は、「治安維持法は当時適切に制定されたものであり、この法律による勾留・拘禁については謝罪や調査の必要はない」というものである(金田勝年元法務大臣の弁)。この非人道的答弁を見ても現政府が戦前の全体主義国家の要素を引きずっていることが分かり戦慄する。

治安維持法が作った悪しき伝統は今も脈々と引き継がれ、司法における自白偏重、警察と検察の無謬の原則、検察に刑事告訴された人の100パーセント近くが有罪になるという異様な現在の日本の司法を生んでいると言えるのではないか。日本では戦後が終わっていないどころか、これらの被害者やその家族にとっては、戦前も終わっていない。

2018/09/10

博士号取得の経済的な問題

「博士号取得への長い道のり」と題した3回の記事の中で、大事なことでありながらほとんど触れなかったのは、経済的な問題です。最後に、プライベートな事は控えつつも、少し書いておきましょう。私は全額私費のEU以外の留学生としてケント大学の大学院生となりましたので、もの凄くお金がかかりました。子供がいなかったので留学が可能になったのですが、それでも私と妻の老後の計画はすっかり様変わりしてしまいました。

結論から言うと、私自身は何とか修了できましたが、かなりの額の奨学金か、余程の家産が無い限り、私のようなことは絶対にやってはいけないと思います。英米の大学の授業料が高騰した今は尚更です(ケント大学の授業料も、私が始めた頃のほぼ倍になりました)。私も当時はまだあったが今は廃止になったイギリス政府による博士課程学生用奨学金(Overseas Research Student Award Scheme)と、ケント大学独自の奨学金に応募しました。修士で一番良い成績、distinction、を取ったので可能性はあると思ったのですが、どちらの奨学金も不合格でした。今思うと、そこで入学を諦めておけば良かったと思います。実際、イギリスの大学では、人文科学系でも奨学金が取れる場合に限り博士課程に行くという人が少なくありません。いやイギリス人の場合、大多数がそれでしょう。ケント大学で私が所属した中世・近代初期研究センター博士課程の学生の半分以上、恐らく7,8割は、授業料と生活費のかなりの部分をカバーする奨学金や授業料免除を受けていたと思われます。友達が全くいなかったので、聞くチャンスがありませんでしたが、奨学金を全く貰ってないイギリス人のフルタイム学生などほとんどいなかったのではないかと思います。更に、パートタイムの学生、奨学金を受けられなかった学生、あるいは奨学金の支給期限を過ぎて(つまり、普通3年以上)在籍する学生の多くはTAとして授業を担当し、生活費の足しにしているようです。しかし、私の所属部門、つまり中世文学や中世史分野でそれが出来るのはイギリス国内や英語圏からの留学生、一部の非常に優秀なヨーロッパの留学生のみでした(他の専門では、留学生がTAを勤めるのは良く見られます)。実際、TAをやるかと聞かれても、VIVAの受け答えですら覚束ない私には到底無理ですね。それに、留学生は、大学にとって、私費で高額の授業料を払ってくれる貴重なお客さんなので、国や大学の奨学金を出してまで入学して欲しくはないでしょう。

今考えると、私は奨学金が受けられないと分かった時点で日本国内の大学院の課程博士か論文博士を目ざすべきでした。そうすれば幾らか非常勤講師などのアルバイトも出来るし、そもそも、日本の住居を維持しつつイギリスでの滞在費等に莫大なお金を使う必要も無かったでしょう。大学の授業料も、特に国公立大学では日本のほうが遙かに安く、また、博士号も、ケント大学で費やした10年弱よりかなり早く取れたと思います。途中、短期間、学会やセミナーなどに出席するためにイギリスに勉強に行くことも可能だったでしょう。確かに専門分野の研究をリードしてきたスーパーバイザーやエクザミナーに論文を読んで指導して貰えたことは光栄であり、大変な励みになりました。しかし、払った代価は、率直に言って大き過ぎたと思います。

更に今になって思うのですが、現在の人文科学系のアカデミアにおいては、少なくとも必要額の半分以上をカバーできるくらいの国内外の奨学金を取ることが出来るような真に才能ある方だけが、短期間(3~4年)で論文を提出でき、更にその後に待っている厳しい就職戦線や研究競争を生き残っていけます。若い方で、家族の援助などを得て自費で留学し、私のように10年近く学位取得に要して年齢も高くなり、恐らく学生支援機構や銀行の学資ローンなどの借金も残る状態で、非常勤専業の教員などになったら大変です。まして、一部の方のように、研究上の問題や資金が尽きたなどの理由で退学をする、あるいは退学勧告を受けたり、M. Philに格下げになってしまったら、取り返しがつきません。何とか留学しようと奨学金に応募し続けて何年も頑張る方もおられるようですが、その間にさっさと国内の大学で博士号を取り、就職活動を始める方が良いと思います。

私はと言えば、最初にボタンを掛け違えたままこの長く高価な旅に乗り出してしまいました。途中で辞めれば良かったと思います。今考えると、奨学金を得られなかった時にすぐ方向転換をするか、あるいは「あと( )年だけやって、駄目なら退学しよう」、といった具体的計画を立て、家族や友人にもそう宣言すれば良かった、と思います。でも、いざ辞めるとなるとそれはまた非常に大きな精神的エネルギーの要ることです。関西のM先生のように大変親切な先輩も、親しい2,3人の友人も、私の試みを励まし続けてくれました。そうすると辞めようと思っていても決心が鈍るのです。5年経った頃からは常に辞めるか否か迷ってはいましたが、決断できませんでした。

一般論として、人間、後悔ばかりしていたのでは素直に生きていけず、劣等感の塊になってしまいます。過去を出来るだけ肯定し、失敗は大きくても、得られた満足感をかき集め反芻しつつ未来へと向かわなければ鬱になってしまいます。私も今、他人と話すときは、「やるべきじゃなかった」なんて言ってその場を白けさせるよりも、「留学して良かった」と言います。但、本音はどうなのか、自分自身分かりません。まあでも卒業式に出てとても嬉しかっし、何より老いた両親がとても喜んでくれたので、やっぱり良かったのかな。他人には勧めませんけど。

博士論文に関するエントリーもこれで最後とします。この一週間、この一連のブログを書くのに随分時間を使ったけど、色々な事を思いだせて良かったです。

2018/09/07

【新刊書】秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』の感想

秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』(星海社新書、2018)285ページ、1,100円

1765年夏、ハンガリーの一部でもあるトランシルヴァニア候国のコザールヴァールという村で、ある下級貴族の男性イシュトヴァーンの30代の妻ユディットと夫の従兄アーダームの間にあったとされる姦通事件について、近くの都市から判事が赴いて、2度の証人喚問が行われた。この村の人口は約800人、そのうち延べ100人以上が証人として聴取され、数十ページにわたる、ほぼ逐語的に記録されたように見える詳細な証言が残された。

筆者の秋山晋吾先生(一橋大学教授、東欧社会史研究)は、それらの証言から、この時代のトランシルヴァニアの結婚に関する道徳や社会通念に加えて、衣食住、宗教、地理、職業、教育や農業経営等々、ありとあらゆるテーマに渡って、証言の微細なディテールからジグソーパズルのように人々の日常生活をすくい上げ、組み立てようと試みる。アナール派などのマイクロ・ヒストリーの手法による社会史。新書版で、注や他の専門書への言及等はなく、一般の読者を対象にした分かりやすい語り口だが、285ページあり専門書に引けを取らぬ充実した内容。村の多くの農民が職人も兼ねており、魔女が出て来て媚薬を配合したり、当時のトランシルヴァニアではほとんどの農民は識字能力がなかったことなど、18世紀後半の東欧のこの村は、中世末から近代初期のイングランドの村によく似たところがあって、歴史愛好者だけでなく西欧の中世文学や文化に関心のある方にとっても興味深い本だろう。

ユディットという女性は、チョーサーの「粉屋の話」のアリスーンやバースの女房を思わせる逞しい女傑。夫イシュトヴァーンから殴られる時もあるが、彼を足蹴にしたことも目撃されている。夫からは娼婦呼ばわりされながら、自分は身持ちの悪い女ではないと主張し、恥じらいを見せるときもある。愛人アーダームの財産が入ったチェストの鍵もしっかり握っている。イシュトヴァーンはそもそもこの妻を裁判所に訴えた張本人だが、妙に弱気だったり、妻に対しへりくだったりすることもあるらしい。私から見ると、この3人の男女の関係自体が、一種のファブリオーのように見えておもしろかった。但、聞いたことのないハンガリー語の固有名詞の連続や、複雑に絡み合った人種や宗教の解説など、読み始めてしばらくはある程度辛抱が必要だった。

博士論文提出への長い道のり(3)

博士論文提出への長い道のり:(3)再出発から論文の完成へ

さて前回のブログでは2014年の夏頃に始まったスランプのことまで書きました。今回は、その後、スランプを抜け出して論文完成に至るまでを思い出してみます。

論文の方向が見いだせないまま2014年も終わり、2015年も同じ状況のまま数ヶ月が過ぎていきました。ケント大学ではPh.Dの学生は、フルタイムの学生なら毎月、パートタイム学生であれば2ヶ月に1回、先生と直接会うか、あるいはメールやスカイプなどで連絡を取り、研究の進行状況を報告し、指導を受けなければならないと決められています。そしてどのようなやり取りがあったかを大学に報告することにもなっています。これは、私の様にスランプに陥った学生が指導教授との連絡を絶ち、結果的に退学してしまうという状況を防ぐ為だろうと思います。あまり捗ってないときは報告することもなく、面倒でもあるのですが、でも退学を防ぐには良い制度です。当時私はパートタイム学生にして貰っていたので、一月おきにG先生に勉強の報告をしていましたが、この頃先生へ送ったメールを読むと、先生に報告することもなく、進むべき方向を見つけられずに毎日鬱々としていたことが分かります。こうした暗中模索が半年以上続きました。しかし、2015年の初夏には論文全体を組み立て直すための理論的な流れを見出し、イントロダクションのアウトラインを書くことが出来ました。6月に先生に送ったメールを読むと、長い暗闇のトンネルから抜け出しつつあると感じていたようです。

2015年10月のG先生宛のメールを読むと、暑い夏の間に大変苦労してイントロダクションを書き終えただけでなく、その内容には結構面白い点もある、即ちその後に来る本文の内容に関しても楽観できると感じていたことが分かります。それからは私の論文執筆はゆっくりですが着実な前進を始めました。既に書いていた1〜3章を、ほぼ同じ素材やアイデアを使いつつ、構成を変え、新しく書き直しました。イントロダクションで展開した方針に従って、各章が、バラバラの印象を与えず、何とかひとつの結論へと収斂していくようにと、章のあちこちに論文全体のテーマに沿ったコメントをくさびを打つように書き込んでいきました。そうして常に全体のテーマを意識しつつ書いて行くと、各章の初校を書いた数年前には思いつかなかった新しいアイデアが浮かぶこともあり、特に1章と2章は大変改善されたと自分でも感じました。更に、もう削除するか、せいぜい付録(appendix)として残す他ないと思っていた3章も、全体のテーマのもとに組み立て直して、本文に組み込むことが出来ました。こうした全体的な書き直しに2016年いっぱいかかり、2016年の暮れから17年の年頭にかけてはようやく結論を書く作業をしました。

私は現役の教授であるセカンド・スーパーバイザーのB先生の努力で、色々な制度を使って2017年3月末まで学籍を延長していただいていました。その延長期限がどんどん迫ってきたので、2016年の秋には論文の修正をしたり結論のアウトラインを考えつつ、論文全体の英語を直してくれるプルーフリーダーを探し始めました。20ページ程度の雑誌論文であれば、旧勤務校の同僚など知り合いの英米人の先生方に何人かあたって英語を直して貰えるか問い合わせたでしょうし、現役の専任教員の頃はそうしていました。しかし、私の博士論文は最終的に8万5千語程度、246ページになりました。博士論文としてはけして長い方ではありませんが、これを現役の忙しい先生に熟読して直していただくのは無理です。仮にやろうと言ってくださっても、申し訳なくてとてもお願いできません。企業や科研費などの公費がふんだんにある大学教授なら、日本で営業しているよく知られた幾つかの校正業者に発注することも出来ますが、高額で何十万円かかるかわかりません。ある業者のウェッブ上の自動見積もりでは、時間をゆっくりかけて貰う最低価格でも38万円でした。ウェッブで校正業者を検索すると、イギリスや北米の業者も色々とあり値段はかなり安いところもありますが、信頼出来ません。M.PhilからPh.Dへのアップグレードのための論文はそうした業者に発注したのですが、出来上がったドラフトにはまだ間違いが沢山残っていたようで、G先生は、あまり良くない、と言っておられました。そこで、今回は業者ではなく顔の見える人に頼もうと思い、人づてに探し始めました。私の旧勤務校の大学院を修了し、イギリスのリーズ大学でPh.Dを取られたWさんが、二人ほど友人を教えて下さり、ひとりはお忙しくて無理だったのですが、もうひとりの方に落ち着きました。日本の国立大学で長年英語の先生をなさり、数年前に定年退職されて今は自宅でこうした英文校正のお仕事をされているアメリカ人のH先生です。ご自分も博士号をお持ちです。論文の書式はアメリカとイギリスでは大分違いますし、もちろん、綴りが違う単語もかなりありますが、そうした点は自分自身で気を配ることにして、この先生に英語を直していただく事にしました。2017年3月末の提出を目ざし、論文全体の完成を待たずに、出来た章からH先生に送って、沢山の間違いを指摘していただきました。

2017年3月末には何とかして論文を提出したいと思っていたので、H先生のコメントに沿って英語の間違いを直したり、全体の書式の修正や引用文のチェックなどをしつつ、大学の事務局にPh.D論文の提出の予告をしました。Ph.D論文は学生が用意が出来たと思っても勝手に提出できず、ケント大学の規定では3ヶ月前に提出の予告をすることになっています。提出の予告があると、私の所属していたセンターの場合、スーパーバイザー2人に加え、センター長の提出許可が必要です。書式や英語の修正は残っていましたが、ふたりのスーパーバイザーからは提出許可を貰っていましたので、後はセンター長ですが、建前としては、スーパーバイザーとセンター長と私の4人が直接会ってミーティングを開くことになっていました。しかし、私が日本にいてそれは出来ないので、スーパーバイザーの提出許可が出ていることを前提として、センター長とはスカイプで面接をすることになりました。その頃丁度学期末で、センター長が多忙でなかなか連絡がつかず、結局3月末が過ぎ、4月に入ってしまいましたが、スカイプで15分ほどの簡単な質疑応答がありました。センター長は、ふたりの専門家が提出を許可しているので、このインタビューは形式だけです、とおっしゃいました。始めてお話しした方でしたが、和やかにおしゃべりしただけで済みました。

そういう手続きを済ませ、何度も原稿をチェックして、やっと論文が完成。4月上旬に業者に論文の製本をしてもらい、大学の事務局に2部を、更にメールでPDFファイルを送りました。その後の口頭試問や学位授与式については既に先日のブログで書いたとおりです。こうしてふり返ると、最後の半年くらいは、日頃の私らしくない急ぎぶりで作業を進めましたた。3月中という目標からは少し遅れましたが大学からおとがめはなく、ぎりぎりゴールに走り込めたのは幸運でした。まだまだこの後、口頭試問、そして最終評価という関門が残っていたので完全に安心はできないのですが、とにかく提出できたときには大きな安堵感で一杯になりました。この時にはまだ関西のM先生とは連絡が続いており、早速報告の手紙を出し、お返事でお祝いの言葉をいただきました。但、そのお手紙の字が弱々しく、「今年いっぱいの命かも知れない」と書かれているのを見て大変悲しくなりました。

さて、今回まで6回連続で、順序は一部逆になりましたがPh.D課程を始めてから学位授与式までの道程をふり返ってみました。やたら長いし、最初は反面教師としてでも役に立つかもと思ったけれど、劣等生で年配学生の個人的な回想なので、レベルが低すぎて若い優秀な院生さんの役には立ちそうもありません。しかし、私自身にとっては退職後これまでの10年をふり返る良い機会となりましたし、これからも時々読み返して昔を懐かしむことになりそうです。悪文にもへこたれずに通して読んでくださった方がおられましたら、ありがとうございます。

2018/09/06

博士論文提出への長い道のり(2)

博士論文提出への長い道のり:(2)出発してから道に迷うまで

今回は、前回に続き、Ph.D論文の試行錯誤の道のりについてです。特に2014年に方向を見失い、スランプに陥った頃までをふり返ることにします。

私の博士論文の萌芽は2001年度に勤務先の研修制度を利用してケント大学、中世・近代初期研究センター(当時は、中世・チューダー朝研究センター、と呼ばれていました)に1年間留学した時に始まります。日本の学年暦に沿っての留学でしたが、世界的にもよく知られたチョーサー研究の権威で後に私のセカンド・スーパーバイザーをしてくださるB先生のご努力で、MA課程に入学し、修士号を取ることが出来ました。日本の大学院でも修士を修了していたので2つ目の修士号です。普通の学生とは逆の順序で、まず修士論文を書き、次にコースワークをしました。その時、中世イングランドの道徳劇や聖史劇には法律や裁判、法律家などに関する題材や用語が大変豊富であることに気づき、コースワークの一環としてレポートにまとめ、更に帰国後、それを修正して学会誌に投稿、編集者の指示に従って書き直した上で珍しく採用されました。そこで、このテーマで今後研究できるのではないか、と思いました。博士課程に留学することにした時には、入学願書に「中世劇とチューダー・インタールードにおける法と法曹」(Law and Legal Professionals in Medieval English Drama and Tudor Interludes)をPh.D論文のテーマとして研究したい、と書きました。

指導教授は、MA時代同様 G先生になることは決まっていたので、カンタベリーのアパートに入り、日常生活が一応落ち着くと直ぐに彼の指導を受けつつ勉強に取りかかりました。前回までに書いたように、イギリスのPh.DではまずM.Phil課程に登録し、1年前後にある程度の長さの論文を提出して、認められればPh.D課程に変更(アップグレード)するのが一般的です。ケント大学でも1年弱を目処に1万語程度の論文を提出することになっていました。私はG先生と相談し、先生ご自身もかなり詳しくご存じの16世紀のチューダー・インタールードをまず扱うことにして、その時代の劇における法的なモチーフについてまとめて、2009年の初夏に提出しました。審査はG先生と、もう一人はセンター長代理だった法制史の学者、B先生(先程のB先生とは別人)でした。B先生は法制史の専門家ですから、幾らか緊張しましたが、スーパーバイザーのG先生が提出して良いと言われたわけすから、提出できた時点でほぼ安心です。ということで1年弱かかって、Ph.Dにアップグレードできました。その後もこの論文を加筆修正して、1万5千語弱になり、私の博士論文の最終章とすることにしました。しかし最終的なPh.D論文は10万語、少なくとも8万語以上は必要なわけで、長さは気にすることはない、と言われても、先は長いなあ、と溜め息が出ました。単純計算で行くとそれまでの1年で書いた分量の6倍位は書かねばならないわけです。しかもまだ長い旅が始まったばかりで、これから色々な困難があるだろうとは予想できました。

そういうわけで、その後は、まずは論文内容の良し悪しにこだわらず、書けるところから始め、手持ちのアイデアや材料で書けることは全て書いて行き、後で修正しよう、と思いました。ある程度の量を書いて、出来るだけ早く論文完成の目処をつけたいと思ったのです。イギリスに住み、高い授業料を払い続けることの金銭的な問題ももちろんありましたし、その他、研究や金銭問題以外にも、私の年齢になると誰しも抱えている心配事もいくつかありました。

そうして、あまり内容にこだわらず、中味を磨くのは後回しにし、出来るだけの量をコンスタントに書き論文の完成が見えてくるようにしたい、と思って作業を進めていきました。しかし、前回のブログで書いたように、私の能力の限界は如何ともしがたく、時間はどんどん過ぎ、しかし書ける文章の量は最初の1年間のペースのままでした。ひとつには、前回までに書いたように、私が学際的なアプローチを取って文学作品にみる法や法曹について研究したために、それまで全く読んだことのなかった法制史(legal history)の本を必要最小限でも読むために膨大な時間がかかったのです。法制史関連の本を読み、中世劇のテキストを繰り返し読む、という事を同時進行でやるのですが、前者に途方もない時間を使ってしまいました。しかも、既に書いたように、私の読書は、沢山のノートの取りながらのかたつむりのような読み方で、論文は遅々として進みません。結局、7万語程度書き、全体が大体において形を現したと感じ、これから序論と結論に取りかかろうと思った時には、始めてから6年後、2014年になっていました。その大分前、2011年の夏には私は日本に戻り、非常勤講師や家事の傍ら、勉強を続けていました。

それまで私は各章、あるいは長い章の場合はその中のセクション毎にG先生に送ってコメントをいただき、修正していました。また、日本に戻った後も、毎年1度か2度ロンドンで先生と直接会い、指導も受けました。全体が固まりつつあった2014年の夏頃、私はそれまで書いた5章をもう一度一括してG先生に送り、先生は全体を再読して下さいました。しばらくして彼から、長文のコメントが送られてきましたが、それはかなり辛い内容でした。そのことについては既にその当時のブログ「博士論文の行き詰まり」で書いたので、ここではリンクを貼るだけにします。先生がおっしゃるには、要するに、論文草稿の半分以上がそのままでは使えない、大幅な書き直しが必要とのことでした。本文の原稿を通して読んで、理論的な一貫性に欠けていることが分かったそうです。それまでの、まずは書けるだけ書く、というやり方のツケが一気に回ってきたのです。全体の理論的構築を考えつつ各章を書いて行かなければならなかった、とこの時に気づかされました。でもそれまで私は、少しでも先に進むことで精一杯で、正直に言って、論文全体の理論的な一貫性を保ちつつ書ける実力も余裕も無かったのです。私自身、その頃イントロダクションを書こうとして、かなり困っていました。各章がバラバラなので、序論をどう書いて良いか分からなかったからです。

それから1年弱、私の論文執筆期間において一番苦しい時期が続きました。何だかノイローゼみたいになり何もせずにボーッと過ごす日もありました。鬱々としていると、そもそも勉強をするエネルギーが出ないので、論文とは全く関係の無い気晴らしをする日も多かったと思います。毎週1回行っていた非常勤講師の仕事や友人の先生のクラスでのゲスト講義、旧勤務校の市民講座の担当などの仕事は良い気分転換になりました。しかし、そうしている間にも時間は経ち、論文完成のゴールは霞んでいきます。ケント大学がいつまで私の在籍を許してくれるのかもはっきりせず、焦っていました。それまで読んでいた中世劇や法制史の研究書から離れ、理論的な支柱や新しい視点を求めて、「法と文学」のテーマについて書かれた本を捜し、何冊か読んだりもしました。当時読んだ本の中には、文学理論、社会学、建築史などの本に加え、カフカの短編小説もあります。カフカは若い頃から私の好きな作家でしたが、彼は「法と文学」に関する研究で良く題材として俎上に載せられる作家です。こうした無駄な脱線のように見えた読書が私の視野を広げ、その後、イントロダクションを考える上で重要な役割を果たし、私のPh.D論文が息を吹き返すことになりました。

この長いスランプの期間、私は2ヶ月に1回程度イギリスのスーパーバイザー、G先生とメールのやり取りをしていました。彼は「こう書きなさい」という具体的ヒントは与えてくれませんでしたし、また私のやっているテーマには通じていないので、そうしたくても出来なかったとは思いますが、常に励ましの言葉をかけて下さり、私には論文を完成するのに充分な能力があると繰り返し書いて下さいました。そして、今まで書いた章、特に問題の多い1〜3章を無駄だったと思わず、何とか組み立て直して使うように、と指示されました。

さて、今回はここまでとします。最悪の期間を抜け出して論文完成へと進んだ頃のことは次回続けます。

2018/09/04

博士論文提出への長い道のり(1)

博士論文提出への長い道のり:(1)何故つまずいたのか

最近3回のブログ・エントリーで、Ph.D論文について個人的に備忘録として書いておきたいことはぼぼ書き尽くした気がします。しかし、2008年秋に博士号のための勉強を始めてから学位取得まで10年弱、論文提出まででも8年8ヶ月ほどかかってしまいました。始めた時は、3年では無理とは思っていましたが、遅くとも5年以内にはできるだろうと楽観していたので、大変な計算違い、自分の能力の過大評価をしていたと思います。ということで私の博論修行はどなたにとっても良い手本にはなりませんが、逆にここまで長くなっても何とかゴールに滑り込んだという割合珍しい例かも知れないので、良い反面教師になるかもしれません。

何が問題だったか考えているのですが、いくつもの要因があります:

1. そもそも私の知的能力の不足。
2. 若い研究者と違い、学位取得後の就職等がかかっているわけではないので、それ程必死ではなく、むしろ、退職後の楽しみという要素が大きく、比較的ノンビリと勉強していた。
3. 配偶者が、今もそうだが、非常に忙しい生活を送っているので、20011年夏に帰国後は、私の日々のプライオリティーは、主夫業になり、勉強は2番目になった。
4. 持病をかかえ、体調不良の時がとても多く、そのために勉強出来ない日もしばしばあった。
5. 帰国後は非常勤講師や、元の勤務先の市民講座、ゲスト講師などのアルバイトにかなり多くの時間を使った(これもプライオリティーの問題)。
6. 指導教授2人も、ケント大学の所属センターも、急ぐようにと圧力をかけることはなかった。これは上記2のような私の勉強の目的からするとありがたかったが、その分かなり時間がかかる原因になったとは思う。
7. おそらく、選んだテーマが私の能力を超えた大きすぎるものであった。

1の能力不足という点ですが、そもそも私は記憶力がかなり劣っているのは子供の頃から家族にも言われ、自覚もしています。小学校から高等学校までの成績は普通でしたが、高校は地方の平均的な公立高校で、その後、大学入試に6校も落ちて、やっと3月半ばに受験した7校目で全員合格みたいな入試を受けて滑り込みました。その程度の知的能力なので、イギリスの大学で、しかも中世英文学で博士号を取ると言うのは、考えて見れば無理があったかもしれません。但、やれるかなと思ったのは、2001年度に勤務校の研修制度を利用してケント大学でMAを貰い、その折に最優秀の成績(distinction)をいただき、博士課程でも指導教授をして下さることとなったG先生やその他の先生に、Ph.Dをやらないか、とお勧めいただいたからです。でも、MAとPh.Dは全く違います。イギリスの大抵の大学院博士課程の場合、日本や北米の大学院と違いコースワークはありませんが、論文の長さは普通約10万語(上限)です。私の場合、指導教授からは、8万語から10万語の間と言われていました。但、どの先生もそうおっしゃるのですが、長さを気にすることはない、あくまで内容が大事、とも言われました。逆に、長さが充分かを気にするようなレベルでは内容は薄くて駄目だという事です。一方、ケント大学のMAはコースワークがあって、その後、修士論文が2万語です。2万語程度なら、日本で修論を書いたり、雑誌論文を書いたりしている者なら、過去の論文とか、それまで養ってきた知識をアレンジすればそれほど苦労しなくても書けますし、また、MA論文では、新しい学問的な知見が含まれなくても、既存の研究を良く勉強し、自分なりの視点から租借し、一貫した論旨で議論を積み上げていれば、少なくとも合格点は貰えるでしょう。しかし、Ph.D論文では、ほとんどの専門家から見てもそうと分かる明確な新しい知見が求められます。先行研究を踏まえるのは大事ですが、ただダラダラと過去の研究の整理を10万語近く並べるだけでは済ませられません。

若くて才能があり学問的に活躍されている先生方の研究の様子を見聞きして思うのですが、彼らは文献を読み消化するスピートが早い。特に本を読んで、大事な点を見分けて記憶する能力が素晴らしいのに驚きます。私は本、特に英語の研究書を読むのが非常に遅く、しかも読んだ事を片っ端から忘れて行くので、非常に細かいノートを取ったり、あるいは後で引用することを考えて、頻繁に長文をそのまま書き写したりします。ですので、色々な部分が博士論文に役立ちそうな本や、基本的な知識を仕入れるのに必要な概説書を読み出すと、延々と何週間も、時には2、3ヶ月も、時間が経ってしまいます。また記憶の容量が小さいので、パソコンで言うとRAMメモリにあたる、議論を展開するための各種材料を頭の中に留めておく能力も乏しいことになります。従って、色々とアイデアを展開するためには、その度に以前に書いたノート(つまりハードディスクのデータに相当)にアクセスする必要があります。私の親類に京大を出た優秀な若者がいますが、受験勉強中、教科書や参考書で一度読んだことは大抵忘れなかったらしいです。「なんだこいつ、うらやましい!その記憶力、分けてくれ」と思ったことの「記憶」はあります(^_^)。私の勉強のやり方がそんなですらか、時間がかかるわけです。それで、何とかもっと早く読めないかと焦るのですが、無理に早く読もうとすると後には記憶も物理的なノートも何も残らないことになり、やはりダメだ、と元のかたつむりのような読書に戻る事になります。それぞれ、自分に与えられた能力でベストを尽くすより仕方ありません。

7番目に書いたテーマの大きさですが、私は自分の人生最後にして最大の楽しみとしてこの勉強を始めましたので、学位取得を第一の目標にしてテーマ設定を小さくまとめず、出来るだけ自分のやりたいようにやろうとは思っていました。それで、かなり学際的なテーマを選び、今までほとんど読んだことのない分野の本をかなり読み始めました。最初は基本的な概念や用語も分からず、延々と同じ入門書を読んで、「こんなことやっていて、役に立つんだろうか」と思いながら暗中模索していました。結果的には、最初の1、2年目のそうした勉強と、当時取った沢山のノートが随分役に立ち、私の博士論文の個性を支えることになりましたが、私が若くてキャリア形成のために早く博士号が必要だったならば、違ったやり方をとるべきだろうと思います。

テーマの選択や理論の組み立てにおける専門的な部分での試行錯誤については、指導教授のアドバイスが非常に大事です。私の論文はほとんどがイギリスの中世演劇を扱っていますが、メイン・スーパーバイザーのG先生は、専門分野が私とはやや異なっています。彼はご自身の博士論文では中世演劇を扱い、その後も、1980年代頃までは中世演劇を主に研究されていたと思いますが、その後、引退なさるまでは主として近代初期の演劇、つまりシェイクスピアや彼のほぼ同時代の演劇(16世紀始めから清教徒革命前[1640年頃]までの演劇)を中心に論文や研究書を出されてきました。従って最近のイギリス中世演劇の研究はフォローしておられず、またそもそも退職したこの数年は研究活動から完全に遠ざかっています。それ故、既に書いたように、G先生は論文の専門的な内容については、私の自由にさせて下さいました。そのことは、私が間違った方向にかなり進んでしまっていた時も、彼は直ぐには気づいてくれなかったということを意味します。すでにブログ・エントリー「博士論文の行き詰まり」で書いたように、2014年頃にG先生が論文の大きな問題に気づき、その後私が長い停滞に苦しんだ背景にはそういうこともありました。しかし、G先生の、やや古風な自由放任の指導は、今となって考えると、年配の学生である私にとって一番適していたと思います。細々と縛られ、あれこれ注文を付けられていたら、嫌になって途中で止めたかも知れません。

今回も既に長くなりましたので、ここで一旦止めます。次回以降で、私の論文執筆の試行錯誤をより具体的に書き、出発、挫折、停滞、再出発、完成の流れを跡づけたいと思います。

2018/09/02

口頭試問(VIVA)当日から、Ph.D論文の最終承認まで

前回のブログでは論文提出後、Ph.D 論文審査の試験官の決定や、口頭試問の準備について書きました。今回は、その口頭試問自体について、もう大分忘れてしまったのですが、憶えていることを書いておきます。

私は論文の評価がどうなるかについては、ある程度不安がありましたが、口頭試問自体が上手く行くか行かないかは、ほとんど心配していませんでした。と言うのは、教員として長年修士論文の審査をしてきて、口頭試問の受け答えの上手下手で論文の評価が変わることはまずない、と確信していたからです。私は、何度も長期留学をしているにも関わらず英語の会話能力はお粗末だし、近年は年齢のせいで多分平均的な老人よりも早くやや難聴を自覚するようになり、会話で聞き直すことが多くなりました。というわけで、とても上手に受け答えすることは出来ません。しかし、評価されるのはあくまで論文そのものです。口頭試問により、試験官がそれまで気づかなかった論文の長所とか短所、執筆者の努力などに気づかされていくらか評価が変わることはあり得ますが、根本的な判断、合格・不合格、あるいは、細かな訂正(minor corrections)で済むか、全体的な修正・書き直し(major revision)が必要か、という点が変わることはほとんど無いと思います。但、二人の試験官の評価が大きく異なることは偶にあるようなので、その場合は、口頭試問の結果と言うより、二人の試験官が直接話をするこの機会、つまり口頭試問の前後に、どちらかの試験官が、もう一人の試験官の意見を聞いて大幅に評価を変えることはあり得ます。

今回、改めて試験官二人が書いて大学に提出し、またサイン入り写しを私も郵送して貰った公式の報告書(Examiners' Report)を読み返してみました。その報告書は、ベースに大学の決まったフォーマットがあって、評価については後で述べるように幾つかの選択肢の中からひとつにチェックを入れたり、論文で修正すべき点について試験官が記入したりするようになっています。もらった時は、パスしたと言うことしか考えてなかったんですが、ケント大学ではPh.D論文の成績には、細かくは8つあることが分かりました。即ち簡単にまとめると:

1. 所謂ストレート・パス。そのままで良い、という一番良い評価。(Examiners' Report のフォーマットの文は、We recommend that the candidate be admitted to the degree of PhDだけ)

2. 小さな訂正(minor corrections)が必要。3ヶ月の猶予期間の間に修正して学内試験官のみがチェックした上でパス。(文面は、We recommend that the candidate be admitted to the degree of PhD subject to certain minor corrections to the thesis being carried out to the satisfaction of the Internal Examiner within three months . . . . で始まります。以下省略)

3. 内容に関するある程度実質的な修正(revision)が必要。その上で、6ヶ月以内に学内と学外の両方の試験官に再提出し、二人は再度合否を相談する。

4. 修正(revision)ではなく、全般的な書き直しの上で再提出(resubmission)が必要。しかもこれは試験官だけでなく、再提出を許可することを所属部門の会議でも承認される必要がある。その上で1年以内に書き直して、二人の試験官に再提出。

5. (論文の再提出ではなく)口頭試問を6ヶ月以内に再度受ける(これがどういう場合に当てはまるのかは不明。論文は合格だけど、口頭試問が不合格という意味だろうから、多分人文系はないケース?)。

6. 論文はPh.Dには相応しくないので、そのまま修正しない形で M.Phil (Master of Philosophy) の学位として再提出をすべきであるという評価。

7. 上記6に準じ、M. Phil授与に価するが、M.Philの学位としても小さな訂正(minor corrections)が必要なので、3ヶ月の間に必要な訂正をして再提出、という評価。

8. いかなる学位も授与することは出来ないし、修正や再提出も許されないという評価(その学生の人生に破壊的な影響を与えるので、ここまでこじれるケースはほとんど無いとは思うのですが、間接的に聞いたことはあります)。

イギリスの大学は大体似たような評価システムと思いますが、こうしてみると、論文の出来が悪い場合でも色々な救済方法が用意されているわけです。ほとんどすべての人は1から4までのどれかの評価を与えられます。6とか7は話に聞いたことはありますが、普通、論文を提出し口頭試問を受ける大分前に、指導教授から、Ph.Dは多分無理だろう、と言われるでしょうし、本人も自分は向いてないと思って辞めて行く人がある程度いると思います。またほとんどすべての大学では、Ph.Dを目ざす人もまずは形式上M.Phil課程に入学し、1年前後の時期にPh.D課程にアップグレードをする事になっているので、その時点で、アップグレードは不可という判断が下され、博士は難しいと言われると思います。私が間接的に知っている日本人の研究者で、Ph.Dを目ざしていたけれどM.Philしか貰えなかったという方のこと聞いたことがあります。その方は他の大学に移ってPh.Dを授与されたそうです。しかし私の知るほとんどの方は(と言ってもあまり知り合いはないのですが)、1か2の評価。たまに3か4もあるようですね。私の指導教授も、エクスターナルとして審査した論文で、4の全面的書き直しの評価を出したことがあるとおっしゃっていました。第一次資料が不足していたので、もっと資料を増やした上で書き直すように要請したとのことでした。

前回も書いたように私のVIVAの試験日は2017年9月11日、時間は午後2時からで、場所は大学のセミナー室(十数人座れる小さな教室)でした。私は折角イギリスに行くのだから、時差ボケを完全に解消して体調を整える事を考え、8月下旬からロンドンに行って、涼しい中で美術館、博物館や劇場に行ったり、勉強をしたりしていました。もちろん、論文を数回読み直しました。ロンドンに滞在していて、私の宿舎からカンタベリーの郊外にあるケント大学のキャンパスまでは、普通の電車を使っていくと電車やバスの待ち時間や歩く距離等も入れて2時間半〜3時間くらいはかかります。電車は良く遅れるので余裕を見て10時頃家を出たと思います。大学に着いたのは1時間くらい前だったのですが、図書館でメモを読んで準備していました。電車の中でも図書館でも、上で書いたような想定される質問の答とか、詳しいサマリーを読むことで、安心が得られました。実際にどれだけ役に立ったかは分かりませんが、精神的には、自分が思いつく限りの充分な準備をやっておいて良かったと思います。

会場のセミナー室に着いたのは、定められた時間、2時、の5分か10分前だったと思います。その時には既に2人の試験官は椅子に座っておられました。エクスターナルのM先生は私を憶えておられて、Nice to see you again と言われたように思います。インターナルのW先生は始めてお目にかかりました。質疑応答は主にベテランのエクスターナルの先生が先導し、インターナルの先生が捕捉するというペースで進みました。インターナルの若い先生は、大ベテランに大きな敬意を払っていることが窺えました。質疑応答の時間は1時間45分くらいで、その後、15分くらい私が席を外している間に2人が相談し、その上で、私が部屋に戻り、評価を言い渡されました。最初にこの流れをM先生が説明してくれたと思います。それから、最初に、何故中世イギリス演劇に関心を持つようになったか、そして、このテーマを選んだのは何故か、という2つの予想していた質問を受けました。その後は具体的にどういう質問があったかは、もう忘れてしまいました。というより、下手な英語を使って非常に苦労して質問に答えていたので、憶えている余裕も無かったという感じです。卒論や修論の口頭試問、入試の面接など、これまで教師として若い人に色々と質問する機会は多かったのですが、自分が質問を受ける側になってみると、なかなか上手く受け答えできないなあ、と思いました。その主な原因は英語力不足でしたが。但、上で書いたように、口頭試問では評価はほとんど変わらないと思っていたので、それ程緊張はしませんでした。

最初に全般的講評として言われたのは、「あなたの論文はとても良い。(序論で)この論文の目的としていることを、全体として成し遂げている」ということでした。英語では、'It's a very good thesis. You accomplished what you set out to do'というような表現だったでしょう。その上で、これからの質疑応答では、今後、この論文を本や学術雑誌論文など何らかの形で発表する場合、どういう風に直していけば良いか、という視点から質問やコメントをします」とも言われました。それを聞いただけで、ああこれで少なくとも大きな問題はないんだな、とは分かりました。しかし、その後に頂いた質問やコメントを聞いて、自分の実力不足や不用意な点を痛感しました。基本的に、この分野の新しい批評を充分な量読んでおらず、その点で議論の厚みや深みが足りない、という事を指摘されました。但、既に、これはどうしようもないと自覚していた点です。私の英語力では、英語圏やヨーロッパの院生と比べるとどうしても読んだ研究書や論文の量で見劣りがし、提出前から言われるだろうと思っていました。しかし、もっと沢山注をつけて、読んでいる参考文献に詳しく言及すれば良かったな、とは思いました。私自身は、注の非常に多い論文は、そうした注に気を取られて読みづらいと感じるので、注があまり多くなるのは好きではないのです。また、私のメイン・スーパーバイザーからも参考文献の不足についての注意が全くなかったのも、こういう指摘を受ける結果になってしまった一因でしょう。一方で、私のスーパーバイザーは論文の構成については、度々的確な指示をしてくれ、おかげで、VIVAでは、そういった点での駄目出しはまったくなく、むしろ評価するコメントをいただきました。著書、編著を色々と出されているベテラン教授のエクスターナル、M先生は、今の出版情勢を考えると、私の博論をこのままアカデミックな議論ばかりの状態で単著として出版するのは無理だが、より一般的な説明を付け加えて書き直せば、出版が可能かも知れない、と言われました。書籍にも出来ると言って下さっただけでも、私には大変光栄でしたが、正直言って、ここまで来るのに約9年もかかっているので、これ以上、また大幅に書き直し、出版社のエディターや何人かのレフリーに読んで貰って更に色々と書き直し、しかも補助金や自己資金なしでは、出版できるかどうかも分からない、という困難な道をたどる時間やエネルギーは、年寄りの私にはありません。ということで、口頭発表や学術雑誌への投稿という形で発表していきたい、と答えたと思います。

内容に関して、各章の要点となっている大きなトピックとか、私の考えた新しい解釈などについては、ほとんど問題ない、むしろかなり高く評価されているところも多い、という印象を受け、嬉しく思いました。日本の学会で過去に研究発表や論文の投稿をした時には、「それは考えすぎでしょう」とか「的外れ」というようなコメントを何度もいただいているので、部分的には、あるいは章によっては、内容面でそういうコメントをある程度いただくだろう、と思ったのですが、全くなかったと思います。上に書いたように、問題点としては、文献の読み方が足りず、議論が不十分な点を指摘された程度だったでしょう。また口頭試問の目的に沿って、論文についての試験官の評価や意見を言うよりも、私の考えを聞く方に主眼が置かれていました。

さて、質疑応答はあっという間に終わり、15分ほど私が席を外した後に戻ると、評価が言い渡されました。2人の試験官が紙面で出して下さる点について論文の細かな訂正をするということを条件にパス(pass with monor corrections)という、最も多い評価をいただきました。その後は、ではさようなら、という感じで、さっさと帰宅の途に就きました。色々な大学院では、VIVAの後、スーパーバイザーや試験官とシャンパンで乾杯したり、パブに行ったり、まあ少なくともお茶を飲んで苦労話したりくらいはするらしいのですが、ちょっとあっけらかんとした幕切れでした。何しろ指導教授はもうとっくに引退していて大学には来てないし、私は試験官2人とはほとんど初対面か、以前学会で挨拶しただけという程度の知り合いですからね。

VIVAの時に口頭で言われた評価は上記の通りなんですが、その後郵送で送られてきた公式のExaminers' Reportの評価は、既に書いた1から8までの成績のうち、1,つまりストレート・パスにチェックが付けてありました。しかし、添付文書で、訂正点として、M先生はシングル・スペースで1.5ページ、W先生は2ページちょっとにわたり色々直すべきところが書いてありました。それらはほぼすべて、語句やスタイルの訂正で、平凡なケアレスミス、冠詞の要・不要、前置詞の間違い、適切な単語への置き換えなどでした。つまりそういう内容には関わらない語句の訂正だけならば、評価は1となるんですかねえ。良く分かりません。それにしても、本文をしっかり見直し、更に元大学教授で、プロのプルーフ・リーダーをされている方に原稿を直して貰い、またメイン・スーパーバイザーのG先生も、単純な英語の修正はしないことにはなっていたのですが、それでもかなりの間違いを直してくれたのですが、なおも随分沢山の間違いが残っていたものです。やれやれ・・・。まあ、試験官が英文学の研究者ですから、言葉には厳しいですよね。

Examiners' Reportには、そうした細かな間違いの訂正の他に、試験官連名のVIVAの報告、インターナルのW先生による全体的な講評(シングルスペースで1.5ページ)があり、それぞれに私の論文の長所と、出版する場合に改善すべき点が書いてありました。その上、W先生は、ほぼ4ページにわたり、各章や序章、結論について、内容に関する大変具体的なコメントを書いて下さいました(すべてシングル・スペースですのでかなりの分量です)。今それを手元で見ているのですが、論文や学会発表の業績を矢継ぎ早に出され、大変お忙しいに違いないW先生が私の為に使って下さった時間や傾けて下った努力には本当に頭が下がります。VIVAの後、お礼のメールを書いたのですが、学位を貰った今、もう一回書かないといけないな。

VIVAを終えてホッとした翌日の9月12日、メイン・スーパーバイザーのG先生のロンドンのご自宅に伺って試験結果の報告をし、楽しい時間を過ごしました。本当に9年間も辛抱して付き合ってくれた彼には感謝し過ぎることはありません。また、最近のイギリスの大学では、決まった年限で博論を出させないとその学生の所属学科の評価が下がるようなので、急いで作業するように強力にプッシュするところが増えているようです。この歳で、しかも博士課程の学問を充分に味わおうと思って入学したのに、学部やセンターの方針で圧力をかけられるとウンザリして嫌になったと思うので、そうでないスーパーバイザー、そうでない所属機関とセンターで本当に幸いでした。

VIVAの3日後、14日の飛行機で帰国。帰ってからしばらくは時差ボケで、例によって体調もひどかったのですが、ぼつぼつ試験官に指摘された訂正点を直し、9月19日にケント大学中世・近代初期研究センターのセクレタリーに修正した論文を送りました。それをセクレタリーがインターナルのW先生に転送してくれ、10月27日に、セクレタリーから、W先生が訂正点を承認し学位授与が最終決定した、とのメールがありました。それで、私は博士論文を収める電子リポジトリに論文をアップロード。予めG先生と相談して、3年後の2020年10月に全面公開というスケジュールにして貰いました。

ケント大学カンタベリー・キャンパスの卒業式(学位授与式)は7月と11月に開かれます。直後の11月の卒業式には手続き上間に合わないので、私の卒業式は2018年7月になりました。論文提出後VIVAまで5ヶ月待ったし、最終承認が下りたのが11月の式の直前というタイミングの悪さで、卒業式の出席は提出の1年3ヶ月後となってしまいました。

さて、前回に続き、今回も長文になりました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。論文提出に関して、提出前後の仕上げの作業や全体的な執筆の反省点、私が抱えていた問題など、近いうち、多分もう1回か2回書こうと思っています。

2018/09/01

論文提出から口頭試問(VIVA)の前まで

前回、Ph.Dの学位授与式の様子などを書いたのですが、式というものはやはりかなりの感慨を生むように出来ていて、出席して良かったと思いました。しかし、私にとっては、遙かに大きな区切りであり、歓びを感じたのは、論文の提出と、口頭試問(英語ではVIVA、ないしはViva Voce)を終えた時でした。そこで、今回は博士論文提出からVIVA(ヴァイヴァ、と読みます)の前までの手続きや準備について書きたいと思います。というのも、私自身、昨年4月に論文を提出すると直ぐ、いやそれ以前からずっと、色々な元Ph.D学生の方々のブログやネット談話室の書き込みなどを読んで、VIVAというものはどういうものか、またどう備えたら良いか調べていました。知人の超優秀な日本人留学生がマンチェスター大学大学院に行かれたのですが、マンチェスターでは指導教授がVIVAの予行演習をやって下さったそうです。私の指導教授は何しろ引退していて大学にはいないし、私は日本にいるし、とても親切な方なんですが、そもそもそういう細かいケアをやって下さる方ではなく、VIVAについては、何のアドバイスもありませんでした。「君の論文は私ともう一人のスーパーバイザー、B先生が高く評価しているから、心配することはない」とは言ってくださいましたけれど・・・。ケント大キャンパスにいると、大学院には色々な実用的ワークショップがあり、そのひとつとしてVIVA preparation workshopという講演会を時々やっていて、それを受講したかったなあ、と思っていましたが、日本で勉強しているので無理・・・(これからイギリスでVIVAを受ける方はおそらく多くの大学院にあると思うので利用してください)。私は、前回書いたように、特にブラッドフォード大学の院生だったTakaoさんのブログと、イギリスに住んでおられる日本語教師のデコボコ・ミチさんのブログを参考にさせていただきました。分野が違うので、具体的な準備方法を教わると言うよりは、同じ日本人が受けた時の感想を日本語で読んで少し安心できた、という感じでしょうか。それから具体的には、大抵の大きな大学の大学院のウェッブサイトには、VIVAについての詳しい解説や準備方法が説明してあるでしょう。アドバイスや模擬VIVAのビデオは、YouTubeなどにもあります。

私の論文は4月始めに完成して、その後製本業者にソフトカバーで3部、製本を注文し、数日で送られてきました。製本業者にどういうところがあるかについては、日本の大学で博士論文を出された若い先生のブログを参考にしました。製本した一部は前回書いた関西にお住まいで、私の論文執筆の進行をずっと心配して下さっていた恩人の先生にお送りし、残り2部をケント大学の中世・チューダー朝研究センターの事務室に送りました。また、論文のPDFファイルをメールでほぼ同時に送付しました。現在、ケント大学では、製本した論文を最終的には提出する必要はありません。試験官が読むためのソフトカバーで製本された論文を提出する必要があるのみです。VIVAの後、訂正など済ませた論文のファイルを提出し、予め決められた時期に大学の電子リポジトリより公開されます。公開については、1)訂正等終わり、合格した時点での即時公開、2)一定の年限、遅らせての公開(例えば提出の3年後など)、3)本人の同意がない限り未公開のまま、の3種類から選ぶようになっています。2のケースを取る主な理由は、学術雑誌への投稿や研究発表の場合、未公開を原則とする事が多いからです。但、長大な博士論文をそのまま雑誌論文や口頭発表の原稿には出来ないので、同じ文章となることは少ないとは思いますが、1章をほぼそのまま使うというようなケースはしばしばあるでしょう。ハードコピーはその後、もう一部作り、セカンド・スーパーバイザーに送呈しました。メイン・スーパーバイザーの先生は、論文のファイルがあれば充分とのことでした。実は私自身も自分用に製本したものは持っていません。口頭試問の時も、自宅のプリンターで印刷し、文具店で買ったバインダーで綴じた論文を参照しました。

さて、口頭試問の試験官の人選ですが、丁度、論文を提出した4月頃に決まったと思います。人選にはスーパーバイザー2人と所属部門の(私の場合、中世・近代初期研究センターの)先生1人か2人がかかわります。後者はおそらくセンター長と学内試験官(an internal examiner、単にinternal と略すことも多い)。学内試験官は、大抵所属学部やセンターで学生の論文内容と専門分野が一番近い先生になるでしょう。私の試験の場合、論文の題材である中世イギリス演劇を主な研究対象とされている若い先生がおられたので、ほぼ自動的にその方がインターナルとなられるだろうと想像出来ました。そうすると、インターナルと指導教授が相談して、外部試験官(an external examiner、エクスターナル)を決めます。イギリスの大学の博士論文審査は、学内試験官一名と、学外試験官一名によってなされます。普通、研究室やセミナー室などの部屋を使い、非公開による開催です(日本やヨーロッパ大陸の大学では、公開審査が結構あるようですし、あるいは口頭試問自体は非公開で行われても、その後、公開の論文発表会が行われる場合もあります)。学位候補者の指導教授は審査に加わることは出来ませんが、オブザーバーとして試験に立ちあうことは許されます。日本の大学の場合、恐らく指導教授が試験官に加わるところが多いでしょう。私の指導教授も、自分は審査に参加できないので、「君の論文は充分合格すると確信しているが、こればかりはやってみないと分からない(You never know what will happen)」とは言っていました。指導教授がオブザーバーとして加わると、試験官ふたりはかなり緊張するかも知れませんね。なお、おそらく、学位候補者自身も指導教授を通じて試験官、特に学外試験官の人選について希望を出すことは可能でしょう。私は特に希望はなかったので、先生達にお任せしました。日本の大学と大分違う点として、試験官は教授とかその他のベテラン教員(イギリスでは例えばa senior lecturer)とは限らず、かなり若い先生も試験官になる可能性があります。そもそも、英語圏諸国では大学院のセミナーやチュートリアルを教えたり、博士論文の授業を担当するのは、ベテラン教員とは限らず、30歳代の方も沢山います。一般的に言って、学内の役職などで大変忙しい年配教員よりも、若い先生方の方が最新の研究に通じていることが多いのは、イギリスでも日本でも同じでしょう。ベテラン教授だけが大学院を担当するのが通例の日本のシステムは良くないと思います。

論文の提出後1ヶ月位過ぎた5月中旬にエクスターナルの先生が決まったのだろうと思います。セクレタリーがなかなか試験官の名前を知らせてくれないので(忘れていたのでしょう)、6月になってこちらから尋ねました。インターナルは予想していた若手中世劇研究者で、エクスターナルは、中世劇研究では知らない人がいない大ベテランの権威者でした。学会で2度会って少し言葉を交わしたことがありましたが、とても紳士的で、親切な方という印象を受けたので、彼に決まって安堵しました。彼は丁度大学を退職し、名誉教授になられたばかりだったと思います。その後、一月半くらい経った6月中旬、口頭試問の期日は9月11日と通知がありました。一応建前としては、論文の提出から3ヶ月以内程度で口頭試問があることになっていましたので、そして多くの大学ではその程度のようなので、5ヶ月近く経った後というのは、かなり時間がかかっています。私が国外にいて、連絡がいまひとつスムーズにいかなかった点に加え、エクスターナルは最初別の候補者が考えられていたのかも知れない、などと想像していますが、分かりません。さてそれであわてて飛行機の切符やらイギリスの宿舎やらを手配しました。

さて、そういう手続きを追いかけながらも、私はVIVAの具体的な準備をしていました。私自身は専任教員時代、所属学科に博士課程はなかったので博士論文の審査はしたことがなかったのですが、修士論文の審査は度々やりました。修士であろうと博士であろうと、口頭試問では、最初の方で幾つかの基本的な質問をしますので、それに対する答は用意しておかないといけません。私は次のような一般的な質問に対する英語の答を書いて、何度も読み返しました:

1. 何故私は中世劇に関心を持つに至ったか。-----これについては口頭試問で実際に聞かれました。

2. なぜこの論文で取り上げたテーマを選ぶに至ったか。-----これについても聞かれました。

3. この論文の特徴と長所-----5点ほど、長所を述べました。特に「長所を述べてください」というような聞かれ方はしませんでしたが、色々な質問に答える上で役に立ったとは思います。

4. この論文の短所や残った疑問点-----自分の能力不足などから、やりたくても手が届かなかったことなど3点をまとめました。直接こういう問いはなかったように思いますが、全体として、論文の欠点を自覚しておくことは役だったと思います。

5. もっと時間をかけることが出来ればやったであろう点-----4の続きみたいなことですが、2点ほど挙げました。しかし、こういう問いかけはありませんでした。

6. 今後どういう方向に研究を進めたいか、論文の成果をどういう風にして発表、ないしは社会に還元したいか。-----口頭試問でもちょっとこういう話はありました。但、答を準備するほどの問題じゃないですね。それに私はもう老人なので、今は正に、仕事も研究も引退です。

以上6点について、英語で2ページ半くらいの答を用意しておきました。更に論文の各章、序章、結論の簡潔なサマリーを3ページほどにまとめました。

以上の準備に加え、これが一番時間がかかったのですが(1ヶ月以上かけたかな)、博士論文の「詳しい」サマリーを12ページにわたって書きました。これは文章ではなく、各ページ毎に大体何が書いてあるか、数語(1行程度)でまとめるように心がけました。ひとつの理由は、何か具体的な事を聞かれたときに、論文のどこに書いてあるかが速やかに分かって、なるべく早く答えられるようにと思ったからです。でも口頭試問では実際にはそのような細かな質問はなく、実際、このサマリーを口頭試問の間に開くことはありませんでした。但、このような詳しいサマリーを作ることで、ほぼ9年近くの長い時間で書いてきた論文を読み返し、細かく思い出すことが出来たので、充分にやった甲斐はありました。

以上、英語で書いた文章をひとつの紙挟みに綴じて、プリントした論文を挟んだバインダーと共に口頭試問の会場に持参しました。

さて、この次は口頭試問当日の様子を書こうと思いますが、このエントリーもたいへん長くなってきたので、ここで一旦止めて、また改めて書きます。

2018/08/28

7月20日、学位授与式に出席しました。

7月20日、ケント大学のPh.D(博士号)の学位授与式に出席しました。その後、大学院生として所属してきた中世・近代初期研究センター(Centre for Medieval and Early Modern Studies)の指導教授、学科のセクレタリー、励ましていただいた元の勤務先の同僚など、ここ数年間にお世話になった方々にご報告とお礼のメールを書いてきました。私が仕事を辞めてイギリスに渡って博士課程を始めたのは2008年の9月です。2011年の夏には日本に帰国し、非常勤講師などしつつ勉強を続けてきました。この夏で最初に始めてから10年間経ちました。私もすっかり歳を取り、元々虚弱体質でもあるので、心身共に元気が無くなりました。本当に長い年月が過ぎたと思います。それだけに、何とか重い重い肩の荷を下ろせて、安堵しています。式から1ヶ月以上経ち、少しずつ記憶が薄れてきました。元々忘れっぽい上に、老人の私ですから、何もかも忘れてしまう前に、卒業式のことを書いておきたいと思います。

論文そのものを提出したのは去年の4月始めなので、その時点での感慨のほうがずっと大きくて、今回は観光旅行に行ったような気分でした。でも両親や妻、妹が喜んでくれたのが、とても嬉しかったです。またメインのスーパーバイザー(論文指導教授)も大変喜んでくれました。論文を書き終えられたのは本当に彼のおかげ。感謝しきれません。メインのスーパーバイザー(G先生)も、セカンド・スーパーバイザー(B先生)も、2001ー02年にMAを取った時にもお世話になった先生達。特にG先生は、私よりも5才ほど年上ですが、私が始めてから2年くらいで大学を退職されたのに、その後もずっと私の指導だけは公式に引き受けて下さいました。手当は僅かでしょうけど、一種の非常勤講師のような扱いだったようです。彼は、引退後はアカデミズムから離れて世界中を旅しておられ、趣味も沢山で引退生活を大いに楽しんでおられるようですが、律儀に私の草稿を読んでコメントを下さいました。私が既に教員としてのキャリアが長いことを考慮されたのか、指導学生と言うより友人として遇していただいたと思います。それで、私がマイペースになりすぎ、なかなか書き進めなかったかもしれません。でも、もし彼が私を叱咤激励し、時には鞭打つような事を言って急き立てていたら、きっと私は最後までやりおおせなかったでしょう。それでなくても、後半は自分の力に余る事をやっていると思って、いつ辞めるべきか、とずっと考えていたのですから。

セカンド・スーパーバイザーのB先生は、既に大学を引退したG先生に代わって、学科との連絡をし、事務的なアドバイスをしていただきました。また、論文が一応出来上がった時点で、論文全体の構成についての的確なアドバイスには助けられました。彼は私が最初にケント大学に見学に来た2000年の夏休みに、自らキャンパスを案内して下さり、更に2001年4月から翌年3月まで日本の学年暦に沿って研修期間が取れると言うと、その期間に合わせてMAを取れるようにしてあげようと言ってくださったのでした。おかげでケント大学でMAが取れることになり、その後にはPh.Dをやりたいという気持ちも芽生えました。この二人のおかげで学位が取れた、とつくづく思います。

Ph.D 論文に取り組んでいる間、色々な方にお世話になったのですが、中でも一番親切に励まして下さり、最もこの報告をしたかった関西にお住まいのM先生が音信不通になって居るのが辛いです。家族を除くと、私の論文の完成を最も望んで下さった方と思います。私は、一度だけ学会のシンポジウムに参加させてもらったことがあって、その時に私を誘って下さったのがM先生でした。論文執筆中、度々直筆の手紙や葉書、更に電話も頂いたのですが、昨年の初め、重病にかかっていてもう長くは生きられないとの知らせがあり、その後、昨年5月21日消印の葉書が最後になりました。その葉書は、4月に提出した論文を製本してお送りしたことへのお礼が書かれていました。その後は、9月に口頭試問が終わった直後や、10月の最終的な合格通知を受け取った後、ご報告の手紙を出したのですがお返事はありませんでした。M先生と連絡があるかもしれないと思った先生方に消息を聞いてみたのですが、ご存じありませんでした。正直言って、恐らく既にお亡くなりになっているだろうと思います。その事を考えると、2年早く提出しておれば間に合ったのに、と大変申し訳なく思います。

さて、式は7月20日の午前中だったのですが、私は海外旅行をすると、そして特に時差の大きな国に行くと、しばらくは腹痛などかなり体調を壊すので、用心して14日にロンドンに到着し、20日の卒業式に備えました。着いてから20日までに劇を2本見たり、ロンドンに住むメイン・スーパーバイザーに挨拶をしに行ったりしていました。式は午前10時30分から、そしてレンタルのガウンを受け取る時間は8時半からでしたので、19日の午後にカンタベリーに行き、B&Bに一泊しました。

ケント大学カンタベリー校(メイン・キャンパス)の卒業式(学位授与式)はカンタベリー大聖堂で開かれます。私の所属する中世・近代初期研究センターは学科横断の学際研究センターで、学生は大学院生だけで学部生はいません。従って私の所属するセンターから卒業式に出るのは僅かです。卒業式は年に2回あります。学部生のほとんどは7月に卒業式を迎えますが、これが日本の3月の卒業式に当たります。従って、広大なカンタベリー大聖堂の建物でも、到底一度には出席者を収容できません。今年は7月16日から20日まで5日間、それも月曜から木曜までは毎日3回、卒業式が行われました。学長は全部の式に出席し、祝辞を述べるのだろうと思いますが、そうだとすると大変ですね。私の所属するセンターでは、11月の卒業式に8月末に修士論文を提出した修士(MA)の学生のほとんどが卒業するので、10名以上の出席があると思うのですが、7月の卒業式は、論文提出の期日が規則で決まっていない博士課程の学生が2,3名というところでしょう。今回も2名でした。そばに並んでいた同じセンター所属の一人とは少し言葉を交わしましたが、私が日本に帰国した後に入学した学生なので、会ったことのない人でした。その他大聖堂は学生と家族や友人などで一杯でしたが、この回の学生の専攻分野は、歴史や文学、哲学、映画研究など人文科学の分野のようでしたが、とにかく知り合いはいませんでした。元々、カンタベリーに住んでいる間も全く友人は出来なかったので、それは気になりませんでした。但、写真を撮ってくれる人が居ないのには困りました。幸い、立派なガウン姿の写真を撮ってくれるプロの写真屋さんが出店していて、ほとんどの人がそこで写真を撮ってもらうので、私もそうしました(もちろん、結構なお値段ですけど)。後は適当に暇そうな学生さんを捜して、2,3枚撮って貰いました。

式は午前10時30分に始まりましたが、卒業生はまず決められたガウンを取りに行き(もちろん有料)、大聖堂の決められた場所で受付(registration)を済ませて式の入場券を貰い、そして式の始まる30分くらい前に大聖堂を囲む回廊の所定の場所に整列します。私は大聖堂から10分程度のところのB&Bに泊まっていたのですが、8時には宿舎を出て、決められた作業を済ませました。ちょっと早すぎて時間がかなり余りました。

式が始まる前には保護者など、学生や大学関係者以外の人達は既に着席しています。その上で、まず、私も含め、卒業生が生演奏の吹奏楽団の演奏と共に行列して(procession)入場します。大学院生は、学部生の後を歩きます。その後に教授達、そして名誉博士号を授与される方が入場します。そしてここで出席者全員が起立した後、最後に学長や副学長など、大学首脳部が入場します。またこの行列の一部として、mace(職杖[しよくじよう])と呼ばれる儀礼の杖が運び込まれます。この杖は、大学が、王室から大学としての認可(Royal Charter)を受けたことを示す具体的な印だそうです。こういう具合に、行列を中心として儀式が組み立てられる点は、非常にヨーロッパ的で、古代や中世以来の伝統を感じます。

式が始まると、イギリスの大学では名誉職である学長(Chancellor)や日本の学長にあたる副学長の挨拶、名誉博士号の授与と授与された方の挨拶などがあります。式が11回もあるので、毎回名誉博士号を授与される出席者は一人のようです。私の出た式では、Philip Howardさんという有名な料理家でした。ケント大学の卒業生で、大学では微生物学を専攻されたそうです。大学時代の自由な興味の広がりを、その後の人生においても生かす事が大切、というようなお話でした。 その後、式の主体である学位授与に入ります。日本の大学で普通する様に、まとめてひとりの代表が学位記を受け取るというのではありません。卒業する学部生と大学院生がひとりひとり名前を呼ばれて学長の前に進み出て、学位記(卒業証書)を受け取ります。これに1時間くらいかかります。この卒業する学生の事を英語で 'graduand(s)' というそうですが、今回初めて知りました。Ph.D の学生の場合、学位記を受け取る時に学長がガウンの襟に当たる部分を付けてくれることになっていますので、その折には、一言二言言葉をかけてくれます。

現在のケント大学の学長は、元のBBCジャーナリストで現在は作家のガヴィン・エスラー(Gavin Esler)さんです。彼はスコットランド出身ですが、大学の学部はケント大学の 英文科(School of English)卒 で、英米文学を専攻し、卒業後は、同じく文学で、リーズ大学大学院のMAを取っています。私は、彼がBBCに居た頃出演していたNewsnight や Hard Talk などの討論番組をしばしば見ていました。そうした番組に相応しい、大変舌鋒鋭いジャーナリストでしたが、現在は作家としての仕事に集中しているようです。そのエスラーさんが私のガウンの襟を付けて下さる時、「私の娘は今日本に居るよ」とおっしゃいました。後でネットで検索して見たのですが、長女はロンドン大学アジア・アフリカ研究所を出た後、日系企業に勤めておられるようです。私は、「長らくあなたのファンなんです」と言いましたら、笑っていました。まあ、実際ファンですから(^_^)。

式が終了した後は、入場したのとは逆の順番で出席者が退場しました。私はレンタルしていたガウンを返却し、B&Bに戻って預けていた荷物を受け取って、駅に行き、ロンドンの宿舎に向かいました。

博士論文の口頭試問は昨年2018年9月11日にあり、その時に既に小さな間違いの訂正を済ませれば合格(pass with minor corrections)と言われていました。そして、多分9月中には修正版の論文を提出し、10月末(10月27日)には、試験官の再チェックも終わって、最終的に合格したとの連絡がセクレタリーからありましたので、その時点で卒業できることは分かっていました。形式としての卒業式のためだけに、沢山の費用を使って出かけるのは贅沢すぎると思って、当初は行かないつもりでした。でも、高齢の両親が学位取得をとても喜んでくれたので、彼らに写真を見せるだけでも行く甲斐はあると思い、出かけることにしました。こうして出席してみると、やはり行って良かったとつくづく思います。両親や妻、妹に喜んで貰えたし、更にG先生に直接お礼を言えたのも大変良かったです。式には妻も一緒に来たいと言っていたのですが、どうしても仕事が休めずにそれは叶わず、結局、誰も知り合いのいない式になり、いささか寂しい想いはありました。式の後、G先生に送った報告メールで、知り合いがいなくて写真を撮ってくれる人を捜すのに困った、と書いたら、「自分が行けば良かった、でも式に同行できる人数は限られているので、当然家族が行くのだろうと思っていた」と返事がありました。しかし、彼はロンドンに住んでいるし、式に出るためには朝非常に早くお家を出なければならないから、とても出席をお願いできません。いずれにせよ、ヘスラー学長と短くても言葉を交わせたのはとても良い思い出だし、ロンドンへ戻る電車の中では、何とも言えない満足感に包まれました。早い人は3年で終わるところを、何しろ10年もかかってしまったことは研究者としては大変恥ずかしいのですが、しかし、自分の人生で最大と言って良いプロジェクトをやり遂げたことは、他の学生と比べて見劣りがしても、とても満足です。更に、イングランドの大学で英米人の学生に混じって英文学、それも中世英文学という分野で博士号を取得出来たのは、どんなに長い時間がかかっても、もともとこんな大それた事をやるほどには頭の良くない私にとって、出来すぎと言えるでしょう。

さて、長文になったので、今回はここで一旦終わります。でも、口頭試問の事や論文の提出前後の事など、色々、自分のための備忘録として書いておきたいことはあるので、後日、ここに書こうと思っています。また、私が論文で悪戦苦闘している間、博士論文に取り組んでおられる方々のブログが参考になりました。特に、当時はブラッドフォード大学におられ、今は日本で国際協力が専門の大学教員をされているTakaoさんのブログや、イギリスの日本語教師、デコボコ・ミチさんのブログなどは大いに参考にし、また、元気づけられました。そういう意味で、もしかしたら、私のブログも反面教師みたいな意味で、どなたかの役に立つかも知れませんね。

関連した投稿:執筆が暗礁に乗り上げて、諦めそうな状況だった頃のこと。

2018/08/22

チョーサーとガワーが出てくる中世ミステリ、Bruce Holsinger, "The Invention of Fire" (Harper, 2015)

Bruce Holsinger, "The Invention of Fire"
(Harper, 2015) 480 pages.

☆☆☆☆ / 5

作者のBruce Holsingerはアメリカのバージニア大学の中世英文学の先生。既に数冊の研究書を出版しており、専門家としてもかなり知られている方のようだ。一方で、近年は中世イングランドを舞台にしたミステリを書き始め、これが2冊目。最初の作品は "A Burnable Book" (2014)でかなり好評を博したようで、今回の本が2冊目。私は、ブログに感想を書きそびれたが、最初の本も去年読んでいて、結構面白かった。私の様に中世英文学に関心のある読者にとっては、彼の本は特に面白い。というのも、主人公が、チョーサーの友人で、今も読み継がれている詩人、ジョン・ガワーに設定されているからだ。そして、チョーサー自身もガワーの友人として出てくるし、14世紀末の世相も色々と細かく反映されていて、日頃勉強してきたことが頻出し、かつ知らない事も多々学べるので楽しい。巻末には筆者が参考にした書籍も書かれている。

さて、小説の場面設定は、1380年代、リチャード2世の治世におけるイングランド、特にほとんどはロンドン市中とその近郊で起きる事件を扱う。ワット・タイラーの乱の後、イングランドの政局は極めて不安定で、若い王の治世の存続が危うくなりつつある。エドワード王時代の終わりには最有力者であったジョン・オブ・ゴーントは、イベリア半島に遠征したまま。権力の空隙を縫って、グロースター公トマス・オブ・ウッドストックが王室を牛耳りつつある。そうした中、糞尿も流れるロンドンの下水用の溝で16人の死体が一気に発見される。ガワーは彼の友人で、ロンドンの治安を預かる司法官の、Common Serjeant of Londonである、ラルフ・ストロード(この人は現実に存在した人で、やはりチョーサーの友人)、及び、王の側近の貴族で大法官(The Lord Chancellor)のサフォーク伯、マイケル・ド・ラ・ポールから、この殺人事件の捜査を依頼される。

何故詩人ガワーがそんな捜査を依頼される設定になっているかというと、当時は文筆で生計を立てることは出来なかったので、公務員であったチョーサーみたいに、ガワーは何らかの生計の手段を持っていたと思われるが、それがはっきり分かってないからだ。但、ガワーがイングランドの法や政治に関心が深かったことが作品からうかがえるので、彼は法律に密接な関係がある職を持っており、ロンドンにかなり存在した法律家のひとりではないかという推測もある。Holsinger先生は、そこで、ガワーが一種の私立探偵として活動し、ロンドンの様々な情報源を操りつつ、事件を解決していくという設定にしているわけ。Holsinger版ガワーは、現存する作品から受ける印象よりもかなりいかがわしい人物で、有力者の弱みを握って情報や譲歩を引き出したり、コインをばらまいて情報を買うと言った、公の司法官ではやりづらい手段を使って活動する。でも当時の役人にとっては、賄賂と正当な収入の差は紙一重だったから、これが実情かも知れない。とにかく、興味深い人物設定だ。

さて、タイトルになっている"The Invention of Fire"だが、この時代、それ以前から戦争で使われてきた火薬を使った砲(canon) が小型化し、近代初期になって戦争の主な武器となっていく火縄銃へと開発が進んでいく時代。14世紀後半から15世紀にかけて使われたのは、hand canon (当時の綴りで、handgonne)と呼ばれ、個々人が携帯可能だったが、いちいち着火しなくてはならず、非常に手間のかかる「銃」で、着火を担当する助手が必要だった。それが助手なしでも操作でき、連続して発射できる火縄銃タイプへと変わっていく時代を背景に、王を脅かす陰謀と、その陰謀で使われる小型の銃器の開発を組み合わせて、ミステリに仕上げているわけである。

チョーサー自身も、ケント州の治安判事(Justice of Peace)という名誉職をやっており、その資格でガワーと共に捜査に加わる時もある。ガワーは使用人はいても一人暮らしの孤独な男で、フィリップ・マーローみたいな一匹狼なんだが、チョーサーは公務員で、形ばかりとは言え家族持ち。ガワーが事件にどんどんのめり込んでいくのに対して、チョーサーにとって人生の主な関心は詩作にあるようだ。こうしたHolsingerの描く二人のキャラクターの違いも面白い。

私にとって特に印象に残ったのは、登場人物のひとりで重要な目撃者、ロバート・フォークがかってケントの海辺の町New Romneyの聖史劇で役者を務めた、というような記述があったこと(Haper社版167頁)。New Romneyの聖史劇の脚本は残っていないが、上演史料が発掘されてはいて、それについて論文がいくつか書かれている。こういうことを書くあたり、さすが専門家、と感心。

色々と興味深い作品だが、ストーリー展開の面白さでは、同じ歴史ミステリでも、C. J. Sansomのマシュー・シャードレイク・シリーズや、エリス・ピーターズの修道士カドフェル・シリーズ等と比べ、いまひとつという印象。スピード感があって息を飲む、という様なところはない。しかし、それを埋め合わせるだけの情報豊かで濃密な雰囲気作りがあり、特に中世ヨーロッパ好きにとっては大変楽しめる作品だ。

2018/08/12

Kenneth Ives(演出)"The Caretaker" (BBCのドラマ, 1981)

Kenneth Ives(演出)"The Caretaker" (BBC1, 1981)

鑑賞した日:2018.7.22
劇場:British Film Institute, Southbank, London
上映時間:2時間

演出:Kenneth Ives
脚本(原作):Harold Pinter
デザイン:Barry Newbery
照明:John Treays
音響:Richard Chubb

出演:
Warren Mitchell (Davis, a tramp)
Jonathan Pryce (Mick)
Kenneth Cranham (Aston)

☆☆☆☆ / 5

Harold Pinterの現代古典、"The Caretaker"を1981年にBBCがテレビドラマにして放送した。私が渡英中、そのドラマがサウスバンクにあるBritish Film Instituteで上映されたので、見に行った。

この劇には非常に単純なストーリーしかない。Davisというホームレスの男を哀れんで、Astonが彼を自分のアパートに住まわせようとする。そこにAstonの兄弟のMickがやって来て、このアパートは自分のものでもある、と絡んできて色々と難癖を付け、Davisを追い出そうとする。しかし、MickはAstonにも大分遠慮があり、ごり押しは出来ず、兄弟の間に一種独特の緊張感が漂う。Davisは2人の間のそうした遠慮のある関係を利用し、「管理人」(The Caretaker)気取りになって何とかアパートに居座ろうとする・・・というような話。

3人の名優の緊迫感溢れる演技が凄い。元々同じ俳優やスタッフでナショナル・シアターで上演された公演を、ステージをスタジオ・セットに移しただけで、そのままやっているようなので、NT Liveを見ているような感じだった。若い頃のJonathan Pryce、「カミソリのような」とでも言いたい演技にすっかり魅せられて、2時間、飽きずに鑑賞した。

Astonの役柄は慈愛溢れるが謎めいていて、やや人間離れしたキリストのような人物。一方Mickはずる賢く、Davisに色々な悪知恵をささやきかけるイアゴーのような役柄。Davisはこの2人の兄弟に振り回され、迷ったり、強気になったり、自分も色々と知恵を巡らしてサバイバルを計る。こうしてみると、善と悪、そしてその2つの要素の間で揺れ動く哀れな「万人」という道徳劇的な構造を持っていることが分かる。但、中世劇ではないので、どの人物もそれ程単純ではなく、キリストのようなAstonも時には暴君になったりもする。それどころか、慈悲深い神、誘惑する悪魔、悩み迷える人間、という3つの極(役柄)をAston、Mick、Davisの3人が交替して演じているようにも見える。

今回の上映の思わぬボーナスは、Astonを演じたKenneth Cranhamが劇場にやって来ており、簡単な挨拶をしてくれたこと。気さくなおじいさんだった。その後、私と同じ列に座って上映を見ていたようだ。

良い作品なのに、イギリスでもDVDなど出ていないのが大変残念。

"Julie" (Lyttelton, National Theatre, 2018.7.22)

"Julie" (Lyttelton, National Theatre, 2018.7.22)

National Theatre 公演
観劇日:2018.7.22 7:30-8:45
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Carrie Cracknell
脚本:Polly Stenham, based on "Miss Julie" by August Strindberg
デザイン:Tom Scutt
照明:Guy Hoare
音響:Christopher Shutt
音楽:Stuart Earl

出演:
Vanessa Kirby (Julie)
Eric Kofi Abrefa (Jean)
Thalissa Teixeira (Kristina)

☆☆☆ / 5

スウェーデンの劇作家August Strindberg (1849-1912)による1888年の古典、"Miss Julie"、をベースにして、現代イギリスの劇作家Polly Stenhamが舞台を今のロンドンに置き換えた新作。主人公のJulieは金持ちの娘で30歳位。親の立派な屋敷に住み、親の金で養われており、執事のJeanやメイドのKristinaなどの使用人を使っている。Jeanは黒人俳優、Kristinaはアジア系俳優が演じることにより、自然とStrindbergの原作にはないひねりが入った。Julieは特に目的も野心もなく、酒と麻薬と空疎なパーティーに溺れて暮らしている。一方、使用人2人はそれぞれ地道な努力を重ね、今の仕事を踏み台にして、新しい仕事、新しい人生見つけようと夢見ている。原作には元々進化論の影響が濃いそうで、労働者階級が、退廃した暮らしに溺れるブルジョアを乗り越えていく様子を描いているのだが、それは19世紀末だけでなく、現代にも上手く当てはめられている。

但、何だかそれだけの劇で、それ以上の政治的なメッセージなどは窺えず、物足りなかった。時間も1時間15分程度で短すぎる。Strindbergの原作は、北欧の短い夏を楽しむ享楽的な感覚と傾きつつあるブルジョアの退廃が、独特の雰囲気をかもし出し、チェーホフ的な味わいが魅力だと思ったのだが、このバージョンはそれに代わる魅力を付け加えることが出来てない。一方で良かったのは、2人の主演者、Vanessa KirbyとEric Kofi Abrefaの演技。彼らの説得力あるやり取りを見るだけで、あっという間に短すぎる上演時間が過ぎた。

こうしてみると、今回のロンドン滞在中3本の劇を見たけど、私の劇の内容に関する好みもあるが、3本とも女性演出家による。演出家に女性が増えている事は、イギリスの演劇界において女性の地位が高まっていることを示しているのではないだろうか。

Robert Graves, "But It Still Goes On" (Finborough Theatre, 2018.7.19)

Robert Graves, "But It Still Goes On" (Finborough Theatre, 2018.7.19)

公演 Finborough Theatre: London
観劇日:2018.7.19 7:30-9:30
劇場:Finborough Theatre

演出:Fidelis Morgan
脚本:Robert Graves (但、Fidelis Morganにより大分改変されているとのこと)
デザイン:Doug Mackie
照明:Matthew Cater
音響:Benjamin Winter
衣装:Lindsay Hill

出演:
Alan Cox (Dick Tompion, a poet)
Jack Klaff (Dick's father, a writer)
Sophie Ward (Charlotte Tompion)
Victor Gardener (David Casselis)
Rachel Pickup (Dorothy Tompion)

☆☆☆ / 5

Robert Graves 1895-1985) は小説、伝記、劇作、詩作など、様々のジャンルで活躍した大変多作な作家だった。アラビアのローレンスの伝記("Laurence of Arabia" [1927])や、BBCがテレビドラマにした歴史小説 "I Caludius" (1934), "Claudius the God" (1934)などで今も知られている。この劇は、第一次世界大戦の戦場を描いて大ヒットした劇、R. C. Sherriff, "Journey's End" の続編のような位置づけの作品としてGravesに執筆依頼された劇らしいが、出来上がった作品はプロデューサーのお気に召さず、結局お蔵入りになってしまい、今回の上演が初演とのことだ。

主人公のAlanは詩人で、第一次世界大戦中陸軍将校として出征し、熾烈な塹壕戦を経験し、大きなトラウマを背負っている。一見お調子者のような軽い態度を取っているが、内心は非常に複雑のようだ。また、豊かな有名作家の父親に養われており、その負い目もある。一家の友人のCharlotteとDavidはどちらも当時は法律の上で違法な存在だった同性愛者で、それを隠して生きている。豊かなミドルクラスの文化人達の、古き良き時代の面影がまだ残る両大戦感のサロンを描いた「客間喜劇」(a drawing room comedy)。但、Alanの抱えた戦争のトラウマに加え、二人の同性愛者を取り上げたところがこの時代としては画期的だ。特に、レズビアンを扱った劇はおそらく皆無ではなかろうか。結局この劇を上演できなかったのもそれが主な理由かも知れない。

ただし、私には台詞を聞き取るのが難しすぎ、あまり良く理解したとは言えないのが大変残念。

Sophie Treadwell, "Machinal" (Almeida Theatre, London, 2018.7.17)

Sophie Treadwell, "Machinal" (Almeida Theatre)

公演: Almeida Theatre, London
観劇日:2018.7.17 7:00-8:30
劇場:Almeida Theatre

演出:Natalie Abrahami
脚本:Sophie Treadwell
デザイン:Miriam Buether
照明:Jack Knowles
音響・音楽:Ben and max Ringham
振付:Arthur Pita
衣装:Alex Lowde

出演:
Emily Berrington (Helen, a young woman)
Jonathan Livingstone (Jones, Helen's husband)
Dowane Walcott (Helen's lover)
Denise Black (Helen's Mother)

☆☆☆☆ / 5

先月、用があって9日間ほどロンドンに行っていた。その間、3本劇を見た。もうそれから一月近く経ち、記憶力に乏しい私は殆ど何もかも忘れかけているが、記録を取っておかないと見たかどうかさえ直ぐに忘れてしまうので、ここに簡単に記録しておく。この劇はロンドンに着いた翌々日に見た作品で、短い劇(約1時間半)なのに最初の方は時差ボケでしばらくうとうとしてしまったが、それでもかなり面白かった。

この劇は1928年に書かれ、滅多に上演される事のない作品のようだ。内容は、広い意味で、フェミニスト劇と言えそうだ。近代的なオフィスで働く若い女性ヘレンが、仕事場と家庭で個性と自立への願望を圧殺される。主人公の女性は機械的な仕事をこなす事務職だが、職場では上役の(今で言えば)セクハラ・パワハラに晒され、家では女性の古い生き方の枠組に娘を押し込めようとする母親に抑圧される。彼女は愛人を作り、夫を殺し、裁判にかけられ、死刑になる。そういうストーリーを、10位の細かなエピソードに区切って、まるで映画のニューズ・フラッシュのように表現する。リアリズムではなく、特に前半、誇張した台詞や演技が多用される。所謂表現主義の作品とのこと。女性の抑圧された状況を告発すると共に、高度に産業化された社会における不毛で非人間的な労働や家庭生活を描く作品という印象を持った。

救いようのないストーリーで気分が暗くなる作品だが、見る価値はおおいにあった。

2018/07/11

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』についての感想

昨日、カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』(The Buried Giant)について考えていた。『ユリイカ』(昨年12月号203-13頁)に載った伊藤盡先生の学識豊かな論文が大変参考になる。

専門的な事に関心のある方は、伊藤先生の論文をお勧めしたいが、アカデミックな議論を離れて私の極めて主観的な感想としては、作品全体が、ひとつはロマンス文学の「探求」(quest)になっていると感じた。ガウェインの登場も『ガウェイン卿と緑の騎士』のクエストと重なる。また、もうひとつは、「巡礼」(pilgrimage)。老夫婦2人の死への道行きは、安らぎの彼岸(アヴァロンのような、ケルトの浄土を思わせる島)を見つけるための巡礼であり、人生の終わりに向けての懺悔の旅。これは中世道徳劇、とりわけ、『万人』('Everyman')の死への旅を思い起こさせる。過去の罪を思い起こし、懺悔をして神の慈悲を請い、しかし、最後は、ベアトリス(祝福された者)は、夫を残しひとりきりであの世に旅立つ・・・、この小説の結末は、私には、カトリックの伝統的な「告解の秘蹟」(The sacrament of penance)を連想させた。イシグロの意図とは違うかも知れないが・・・。

伊藤先生が指摘されているように『ベーオウルフ』の影響は引きちぎられた腕のモチーフで明らか。更に、他にも幾つかありそうだ。私が感じたのは、『ベーオウルフ』では、カインの子孫から巨人が生まれたと書かれていること。巨人は人類最初の殺人者の血を分けているらしい。タイトルになっている「埋もれた巨人」とは過去の忘れられた殺戮の記憶なんだろうか、なんて感じた。この小説を書いたきっかけのひとつとして、イシグロは旧ユーゴスラビア紛争があると言っているらしい。

中世英文学に関心のある者にとっても、熟読する価値のある作品だ。


2018/06/19

中世劇と説教の関係

週末学会があった三重県への行き帰りの電車などで、シェフィールド大学のCharlotte Steenbrugge博士の昨年発行の単著、'Drama and Sermon in Late Medieval England' (Medeival Institute Publications) のイントロダクションなど最初の方を読み始めた。

具体的な事がたくさん書いてあり、分かりやすく、私の勉強の上でも色々と参考になる。イントロダクションの冒頭に書いてあるが、説教と中世英文学の関係について、1933年に出版され、その後ずっと大きな影響を持ってきた研究書が G. R. Owst, 'Literature and the Pulpit in Medieval England' (Oxford UP)。この本の中でも、特に、中世イギリス演劇と説教との関係について、Steenbrugge博士の本はOwst の記述を塗り替える試みだ。私も、特に修士論文を書いた頃には Owst の本に大変お世話になり、大きな影響を受けた記憶がある。Owst は、その内容において中世劇と説教の間には密接な関係があると主張しているが、Steenbrugge博士は、イングランドでは両者の間の繋がりは基本的に中世末期における共通のキリスト教文化に属しているために生まれたのであり、説教が直接劇のスクリプトに影響を与えたとか、説教をしていた司祭や托鉢修道士が宗教劇と深く関わっていたと言う証拠はない、と証明しようとしている。

説教と演劇に深い関係があると思われてきた理由の一つは、少なくとも大陸諸国ではそのような具体例がかなりあるからだ。フランス語の聖史劇(mystères)では説教がテキストに組み込まれているらしいし、道徳劇(moralités)の台本にも説教の影響は顕著らしい。さらにフランスでは、托鉢修道士が、まるで無声映画の弁士や文楽の義太夫のように、無言劇(tableaux vivants)のシーンに対してコメンタリーを提供した上演例もあるそうだ。上演場所も、イタリアなどでは教会の内部で俗語の演劇が行われることがあった。そういう近代語の宗教劇(聖史劇や道徳劇)と説教とか聖職者、教会等との密接な結びつきは、REED (Records of Early English Drama)シリーズで非常に多くの上演資料の発掘がなされてきたにもかかわらず、イングランドではほとんど例がないそうである。それどころか、イングランドの聖史劇上演の主体であったヨークやチェスターの市当局は、地元の宗教オーソリティーとはむしろ一定の距離を保つ傾向があった、と筆者は見ている。この点は私が今までよく考えてなかったことで、大変面白いと思った。聖史劇の上演主体が教会とそのように距離を持っていたとすると、劇のテキストに聖職者批判が書き込まれていても不思議はない。事実、受難劇に出てくるユダヤの傲慢な聖職者像は、当時のイングランドの聖職者を揶揄する意図があるのかもしれない。

2018/06/10

道徳劇 The Pride of Life についてのブログ記事

ダラム大学の新進気鋭の研究者、Mark Chambers博士が、14世紀に書かれたと思われる最も古い道徳劇、'The Pride of Life' とその写本を紹介するブログを書いておられるので、紹介の紹介になってしまうが、要点をまとめておく。英語を読まれる方は是非本文を読んで欲しい。特に写本の画像が興味深い。
この劇は中英語作品だが、おそらくアイルランドで書かれた作品。
この劇の唯一の、そして未完の、写本は今は残っていない。元の写本はダブリンの修道院、Holy Trinity Priory の1337-46年の会計簿(account rolls)の一部で、その1ページがこのブログの写真にあるようにぎっしりと細かな文字で書かれている。写本は最高裁などが入る Dublin Four Courts building という建物の中のアーカイブ(Public Records Office)に収納されていたそうだが、1922年、独立後に起きた内乱の戦闘で建物が火災に見舞われ、他の多くの貴重な写本とともに消失した。但し、それ以前に写本愛好家 James Mills がこの会計簿のエディションを出しており、またその本に劇が書かれているページのファクシミリを印刷していたおかげで、今や写本はないがテキストだけは生き残った。写本には、これでもかと言わんばかりに小さな字で無理矢理空きスペースにテキストが書き込まれている。会計簿の記録は1137-46年だが、劇のテキストが写されたのは15世紀と想定されている。
私たちの知る中世文学の多くの作品が今に伝えられたのは単なる幸運な偶然に過ぎないが、本にして読まれることを全く意図されていない演劇テキストの場合、特に、圧倒的多数は失われてしまったのは明らかだろう。'The Pride of Life' は極めて幸運な、後世への贈り物である。
私も留学中に、カンタベリー大聖堂の図書館で、コースワークの一部としてホックリーヴの写本を転写したことがあった。その詩の断片は、カンタベリー大聖堂を持っていた Christ Church Priory の会計簿の写本の末尾のページに書き込まれていた。修道士達がこうした世俗的な文学に関心を持ち、保存したことを示していて興味深い。

2018/05/04

「1984」(新国立劇場、2018.5.3)


「1984」

新国立劇場公演
観劇日:2018.5.3 13:00-14:50 (no interval)
劇場:新国立劇場 小劇場

演出:小川絵梨子
脚本:ロバート・アイク、ダンカン・マクミラン
翻訳:平川大作
美術:二村周作
照明:佐藤 啓
音響:加藤 温
映像:栗山聡之
衣裳:髙木阿友子

出演:
井上芳雄(ウィンストン) 
ともさかりえ(ジュリア)
森下能幸 
宮地雅子 
山口翔悟 
神農直隆

☆☆☆☆ / 5

ゴールデン・ウィークの後半、にぎやかな地区にある私のマンションのそばでは、毎年、連日ロックコンサートやら演芸大会やらでもの凄い騒音。読書が出来ないどころではなく、その音でかき消されて、テレビも見られない。そこで、昨日はこの騒音から逃れるために、そして元々見たかったので、新国立劇場小劇場での「1984」の公演を見に出かけた。

この劇は2014年にウエストエンドの商業劇場で既に見ている。イギリスの公演は、アルメイダ劇場とノッティンガム・プレイハウスの共同プロダクションで、ウエストエンドにトランスファーしたようだ。イギリスでの公演のことは、忘れっぽい私のことなので、もう記憶に残ってないが、とても面白くて説得力があった印象が残っている。その時にブログに感想を書いているので読み返してみると、今回の公演と大体同じ印象だ。特に拷問の場面はもの凄い緊張感があった。

一種の読書会風のフレーム、映像を使ってウィンストンとジュリアの密会のシーンを映すなど、イギリスでの公演と同じで、脚本でそうなっているのだろう。イギリスで見た時は、折角の舞台公演で映像を使う事に抵抗を感じたが、今回また見て、これは隠しカメラの映像として理解すべきなんだろうと思い、このやり方に納得出来た。

井上芳雄、ともさかりえ、なかなかの熱演で良かった。ただ、セックス・シーンは、イギリスの舞台と比べると物足りない。オブライエンを演じた俳優も良かった。セットも説得力ある。特に純白の拷問部屋が良い。しかし、古い骨董屋とその裏部屋の場面が、古めかしさ、うらぶれたところが感じられないのはやや残念。

言葉の定義や「真実」、そして歴史さえも、権力を持つものの思うままにねじ曲げられるというこの作品のメッセージは、今の世界にぴったり当てはまる。折しも、「柳瀬秘書官が加計学園関係者との面会を国会で認める方向で調整している」、と報じられた。面会があったか否かという事実については、政治情勢によって「調整」する種類のことだそうだ。

2018/04/18

NHK BS 1 スペシャル「ブレイブ 勇敢なる者 『えん罪弁護士』完全版」

4月15日の夜放送されたNHKのドキュメンタリー、BS 1 スペシャル「ブレイブ 勇敢なる者『えん罪弁護士』完全版」を見ました。冤罪事件の弁護に生涯をかけて取り組んできた今村核弁護士を追った番組です。

日本の刑事司法では、有罪率が99.9パーセントだそうです(下に書いているようにシステム自体が違うのですが、西欧や米では70〜80パーセントだそうです)。日本には裁判所は要らない、裁判官は検察と一体、という状況が日本の刑事司法です。被告は国際的にも非難され続けている長期拘留制度(所謂「代用監獄」)で精神的に追い詰められ、やってもない犯罪をやったと自白をします。精神的拷問です。司法がまともに機能していない国には、本当の民主主義はありません。その意味で、日本はまだ形だけの民主国家だと思います。

刑事司法では、リーズナブルな疑いが残るときには有罪判決は出せない、というのが国際的な原則です。ところが日本の裁判では、犯人であるとの疑いが濃いと警察や検察が考える時は、裁判所も有罪判決を出すので、弁護側は、被告が絶対に無罪であることを証明しないといけません。これは本末転倒です。お金も人も専門家もいない被告側弁護士が、そんな証明は出来ません。精々出来るのは情状酌量を求めるくらいです。ですので、日本の刑事裁判は皆有罪判決となり、被告はまずは言われた罪をそのまま認めた上で、お上の情けを歎願するのです。江戸時代と変わりません。

今村弁護士は元々この番組が作られた2016年までで、14件の無罪判決を勝ち取っています。普通の弁護士だと、刑事裁判で無罪を勝ち取るのは、一生涯で1件あるかないかだということで、14件の無罪というのはもの凄い数だそうです。彼がどうやるかというと、現場を再検証し、警察により提出された証拠や証人を再度見直し、新しい専門家を捜し、時には実証試験をして、事件を一から洗い直すのです。ほとんど収入にはなりません。それどころか、カンパを募って何とか賄うわけです。弁護士事務所の同僚からは変人、偏屈と見られ、事務所に収入をもたらさないので困った人と考える同僚もおり、あれでは家族は養えない、という貧乏暮らしなので独身です。でも、本当に正義感と他者への思いやりをそのまま真っ直ぐに実践して生きてきた方です。

映画館で何千円も出して見ても良い程の番組でした。テレビ番組でこれほど考えさせられ、また感銘を受けたことは滅多にありません。私も、博論のための研究で裁判や法のテーマをかじったから尚更でした。

今村さんの仕事への情熱にも胸を打たれましたが、それ以上に、日本の司法の救いようもない闇を見せられて暗澹たる気持ちになりました。日本の場合、有罪か無罪かの実質的な判断を下すのは検察です。検察は各事件を慎重に吟味して、無罪判決になりそうなケースは起訴猶予にします。その慎重さは良いとも言えるのですが、しかし、その陰では無罪判決の可能性が高いと言うことで沢山の犯罪被害者が検察に起訴して貰えずに泣き寝入りしているのではないでしょうか。更に検察は有罪に絶対に自信のあるケースだけを裁判にかけるので、今度は何が何でも有罪判決を勝ち取ることに必死になり、負けると大失態と考えるでしょう。刑事裁判とは、有罪となる証拠証人を検察が提出し、弁護側はそれらの問題を指摘し、裁判官(場合により陪審員も加わり)が公正中立な立場で判断を下す場所でしょう。でも日本では、裁判官よりも検察官が実際上、裁判以前に「判決」を下していると言えるでしょう。つまり国民は「お上」の判断の丸呑みをしているわけです。陪審員制度が出来たときに、普通の国民が司法の判断に加わるなんて難しすぎて出来ない、という人が沢山いましたが、そういう日本国民の考え方、司法は専門家に任せておけば良い、という考えが、いびつな司法を野放しにしていると感じます。

この番組を見て、改めて怖いと思いました。

2018/03/25

"The Great Wave" (Dorfman Theatre, National Theatre, 2018.3.26)


北朝鮮による日本人拉致事件を扱った新作
"The Great Wave"

National Theatre & Tricycle Theatre共同公演
観劇日:2018.3.26 14:30-16:45 (incl. an interval)
劇場:Dorfman Theatre, National Theatre, London

演出:Indhu Rubasingham
脚本:Francis Turnley
デザイン:Tom Piper
照明:Oliver Fenwick
音響:Alexander Caplen
音楽:David Shrubsole
ムーヴメント:Polly Bennett
衣装:Natasha Ward
ウィッグ、ヘアー、メークアップ:Gillian Blair

出演:
Rosalind Chao (Etsuko, elder daughter)
Kirsty Rider (Hanako, younger daughter)
Kae Alexander (Reiko, mother)
Leo Wan (Tetsuo, neighbour)
David Yip (Japanese politician)
Kwong Loke (North Korean official)
Francis Maili McCann (Hana, Hanako's daughter)
Vincent Lai (Kum-Chol, Hanako's husband)
Tuen Do (Jung Sun, North Korean trainee spy)

☆☆☆☆ / 5

北朝鮮による日本人拉致事件を、おそらく横田めぐみさんとそのご家族のたどった道をある程度念頭にしてフィクションとした劇である。演出、演技、セットなど皆大変素晴らしく、日本人である私から見ると多少オリエンタリズム的な面で違和感を感じたことを除けば、申し分ない公演だった。また、当然ながら全員が東アジア系の俳優で、ほとんどがUKで演劇教育を受け、活動している方々。イギリスには、実力ある東アジア系の俳優がいるんだなあ、と感心した。

ストーリーは、ほとんどの日本人が知っている北朝鮮による拉致事件の経過を、Hanakoという少女とその家族を中心にして追っている。嵐の夜のHanakoの突然の失踪。原因が分からず、警察にも充分取り合って貰えず苦しむ両親や姉。しかし隣人の若者の努力もあり、日本海側の各地で理由の分からない失踪、誘拐、そして誘拐未遂などがかなり起こっていることが判明する。こうした日本の残された家族の様子を描くのとほぼ交互に北朝鮮に誘拐されたHanakoの、向こうでの暮らしが描かれる。当初の絶望と反抗、そして諦め、日本語の先生としての生活、強制的な結婚、子供Hanaの教育、等々。やがて、小泉政権による北朝鮮との直接交渉と5人の拉致被害者の帰還が実現する。しかしその中にはHanakoは含まれていなかった・・・。

回転舞台を使い、日本海の両岸における時の流れをスピーディーに見せ、元々この問題を知らなかったイギリス人観客も退屈する間もないだろう。リビューではこの劇を優れた'thriller'と表現している筆者が複数あったが、特に拉致事件の具体的な経過を知らない人から見ると、Hanakoは最後に一体どうなるんだろう、と思いながら見るだろうから、そういう表現が当てはまるのかも知れない。しかし、私は見終わったときに、この現実の事件が全く終わっていないことで、何とも言いがたい重苦しい想いに包まれた。名演をしてくれた俳優達に拍手しつつも、カタルシスのような感情はとても起きなかった。

この問題を事実に即して具体的に追いつつも、家族離散の悲しみを中心に描かれていて、例えばナチスの迫害によるユダヤ人家族の亡命や離散とか、現代のアフガニスタンやイラク、シリアなどの国々で苦しんで来た人々の物語と重なるユニバーサルなストーリーに仕上がっていると思う。そういう意味で、英語圏の、予備知識のない人々に是非見て欲しいと思った。

場所が日本と北朝鮮であることをこちらの観客に分かりやすく示すために、リアリティーよりも、オリエンタリズム的なイメージを利用しているのは仕方ないだろう。例えば、現実離れしたミニマリズムの和室、富士山やゴジラへの言及、政治家の机の上の盆栽、等々。一方で、日本人観客が見る場合には必要な、描かれている時代の背景を示す流行歌とかファッションやヘアースタイル、日本海沿岸の街らしい背景等も見受けられない。また、お辞儀の仕方などもやや違和感があった(こちらで見る他の映画やドラマで見るほどではなかったが)。しかし全体としては、無駄な異国趣味を排し、遠い東洋のお話にならないよう、基本的な家族の悲劇に観客の注意を集中させている点は高く評価できると思う。

こちらのストレート・プレイで一般的な、台詞をたたみかけるように発する演技が続く。非常にスピーディーに展開する劇のストーリーとぴったりの演技ではあるが、私の感覚からすると、もっと間を置いた演技をする時があっても良いのではないかとも思い、やはり日本人俳優が同じ内容をやるのとはかなり違うだろうな、とも感じた。但、逆にそれが新鮮に感じられたのも事実で、これはこれで大変良い公演だったとも思う。

2018/03/22

"Vincent River" (Park Theatre, London, 2018.3.21)

"Vincent River"

Park Theatre公演
観劇日:2018.3.21 19:45-21:15 (no interval)
劇場:Park Theatre, London

演出:Robert Chevara
脚本:Philip Ridley
デザイン:Nicolari Hart Hansen
照明:Martin Langthorne

出演:
Louise Jameson (Anita)
Thomas Mahy (Davey)

先日Park Theatreで "A Passage to India" を見たばかりでブログに感想も書いたが、この小品と言って良い1時間半の劇も、メイン・シアターとは別の、小さなスタジオ・シアターで、同時に始まった。ゲイの人達を憎悪するホモフォビアの若者グループの暴力によって無惨に殺害された若者(Vincent River)の名前がタイトルになっている。但、Vincent自身は出てこず、彼の死後しばらく経ってから、彼の恋人だった17歳の少年Daveyと彼の母親Anitaの間のダイアローグで劇は成り立っている。暴力をふるった若者達についてはどういう人達かはまったく語られず、もっぱらこれら二人の、Vincentと親しかった人達の心の傷を劇化している。例によって台詞が分からないところが多く、出だしから劇の設定が分からないまま見始め、最後まで良く分からないままだった。しかし、最後、DaveyがVincentの死の場面を物語るところは大変迫力があり、息を飲んだ。

プリビューの2日目で、15ポンドしかしないし、面白い場面もあったとので、行って良かったと思おう。しかし、加齢による難聴が出て来てリスニングが一層弱くなったので、台本を読んでない劇は本当に何が起こっているか分からない。こう分からない劇が多いのでは見る資格無いなあ、とガックリして帰宅。昔留学していた頃は、前もって台本を読んで行くこともあったが、ぶっつけ本番はきつい。劇の良し悪しを判断できないのは勿論、感想も書けない。


2018/03/20

"Humble Boy" (Orange Tree Theatre, London, 2018.3.19)

"Humble Boy"

Orange Tree Theatre 公演
観劇日:2018.3.19 19:30-22:00 (incl. one interval)
劇場:Orange Tree Theatre, London

演出:Paul Miller
脚本:Charlotte Jones
デザイン:Simon Daw
照明:Mark Doubleday
音響と作曲:Max Pappenhem

出演:
Jonathan Broadbent (Felix Humble)
Belinda Lang (Flora Humble, Felix's mother)
Paul Bradley (George Pye, Flora's fiancé)
Rebekah Hinds (Rosie Pye, George's daughter)
Selina Cadell (Mercy Lott, Flora's neighbour)
Christopher Ravenscroft (Jim, a gardener)

☆☆☆☆ / 5

2001年の8月、National TheatreのCottesloe、今のDorfman Theatre、で初演された作品。忘れていたけど、何かおぼろげな記憶があるなと思っていたが、パンフレットやリビューを見たら、初演の舞台を見ていた。Simon Russell BealeとDiana Riggという二人の芸達者が主演していたのだった。今回の再演は大変好評のようで、確かにとても面白かった。

ストーリーの下敷きになっているのはシェイクスピアの『ハムレット』。ミドルクラスのFlora Humbleは最近夫を失ったばかり。ケンブリッジ大学で天体物理学を研究している独身の息子Felixが、ハムレットがガートルードのところに戻ったように、母の家に戻ってくる。彼は科学者としては大変優秀だが、精神的に問題を抱えているようだ。Floraは夫の死からまだ2ヶ月(?)程度なのに、新しい恋人、George Pye、を見つけて、近々結婚しようと考えている(クローディアスにあたる)。この恋人がかなり粗野な男で学問にも理解がなく、繊細な神経を持つFelixをいらだたせる。何故Floraがこんな男に惹かれたのかは謎で、やや無理がある気がした。Felixは昔の恋人Rosie Pyeと再会するが、彼女はGeorgeの娘。今はシングル・マザーとして7歳の娘(Felicityという名前)を育てつつ、看護師として働き、たくましく生きている。ひ弱で男達の言うなりになり、命を落とすオフィーリアとは大分違う。Humble家には親切だが不器用な隣人のMercy(「慈悲」を意味する名前)がしばしば出入りして、ぎくしゃくしがちな家族関係の潤滑油になると共に、そのトンチンカンな言動でしばしば観客の笑いを誘う。シェイクスピア作品で言うと、道化みたいな味を出していた。また庭師のJimが、Felixの落ち着いた相談相手として、離れたところから静かに家族の争いを眺めている。この程度の家で専属の庭師を雇えるわけもなく、シンボリックな役柄に見える。

『ハムレット』を下敷きに現代の白人ミドルクラスの家族の葛藤を描いた作品で、色々と凝った仕掛けがありそうな(私は細かい台詞が分からないのでイマイチ理解不足)コメディー。Alan Ayckbournの三部作、'Norman Conquests'に雰囲気としては似ているかも知れない。但、敢えてケチをつけると、非常に「白人ミドルクラス」劇という色合いが濃厚で、ロンドン郊外の住宅地リッチモンドにあるOrange Treeのような劇場で見ると尚更。観客も私を除くと白人ばかり。それも年配の方がほとんど。その意味で、プロビンシャルな感じがする劇だった。

場面はHumble家の庭のみ。庭と女性(Flora、イブ?)、庭師(Jim、キリスト?)、そして侵入者(蛇、この場合、George?)という、ぼんやりとではあるが創世記的なイメージが重なる。登場人物の名前も含め、道徳劇的な要素も垣間見える。『ハムレット』と大きく異なるのは、この劇の女性たちのたくましさ。夫の死や恋人との別れを乗り越え、自らの意志で新しい人生を切り開こうとする。特に、オフィーリアとは全く違う力強く考え深いRosieの姿に、この劇の希望が託されていると感じた。

俳優達は皆素晴らしい演技で、大いに楽しませてくれた。Simon Russell BealeやDiana Riggのような大物の演技派スターよりも、こうした、日頃は地味な脇役の多い俳優達のほうが、この劇の慎ましい('Humble") 登場人物には合っていそうだ。特にJonathan Broadbentは今後も楽しみな若手だ。

2018/03/19

C. J. Sansom, "Lamentation" (2014; Pan Books, 2015)

チューダー朝探偵小説、Matthew Shardlakeシリーズの最新作
C. J. Sansom, "Lamentation"
(2014; Pan Books, 2015)  737 pages.

☆☆☆☆ / 5

イギリスに来てからWaterstonesですぐ買って、それ以来ずっと読んでいた。軽い内容の歴史小説ではあるが、737ページもあるので、私の英語力と読む遅さではあまりに長すぎる。日本にいたら読み終わらないだろうけど、こちらではあまりする事も無いので、ひたすら読んだ。主人公はロンドンの法曹学院 Lincoln's Inn 所属で、一番格の高い法廷弁護士(サージャント)であるMatthews Shardlake。彼を主人公にした小説の6冊目。私はすべて読んでいて、どれも非常に満足しているが、今回もとても楽しめた。

今回Matthewが取り組んだのは、彼が王妃になる前から仕事を与えられ、そして命をかけて忠誠を尽くしてきたヘンリー8世の最後の王妃、Catherine Parr が巻き込まれた新たな事件。舞台は1546年のロンドン。王は足に出来た潰瘍が悪化し、常に痛みに苦しみ、車椅子なしでは動くことが出来ない。翌47年の1月には亡くなるので、その直前である。ヘンリーは自らの離婚をきっかけにイングランドの宗教改革を進めたが、英国国教会は、カトリックに近い、ミサを行い聖体のパンをキリストの肉体と信じる教理を保って、ルターやカルヴァンなどの大陸のプロテスタントは違った道を歩んでいる。王の周辺では、ローマ教会に近い、あるいはカトリックに戻りたいと願う保守派と、一層改革を進めたい者達が争ってしのぎを削っている。物語の始まりでは、保守派が優勢のように見え、Ann Askewなど数人の過激なプロテスタントが異端者として火刑に処せられ、MatthewもLincoln's Innの代表としてその残虐でドラマチックな処刑に立ち会うことを強いられる。

この頃、彼はCatherine Parrとその叔父Lord Parrに呼ばれてホワイト・ホール宮殿に赴く。王妃は彼女の改革派としての信条を綴った告白本、'Lamentation of a Sinner'(『罪人の嘆き』)、を密かに書いており(歴史的にも実際に書かれた本で、ヘンリーの死後出版された)、改革派のThomas Cranmer大司教以外には誰にも見せず自室のチェストに鍵をかけてしまっていたが、それが突如消え失せてしまった。チェストの鍵は彼女が肌身離さず持っており、合鍵はなく、鍵の制作は王室御用達の職人により厳しく管理されていたはずだった。一体誰が盗んだのか、そしてどう利用されるのか?最悪の場合、CatherineもAskewのように異端者として処刑されるかも知れない。また、そこまで行かなくても、王に秘密でこのような告白本を書いたことで、ヘンリーの怒りを買うことは必定だとCatherineの忠臣たちは恐れる。Matthewはこの本を探し出して取り戻すために奔走するが、これまで同様、彼の最大の敵、枢密院顧問のSir Richard Richが暗躍して、Matthewの仕事の邪魔をする。

歴史ミステリだが、謎解きをするというより王妃の書いた本の盗難をきっかけにして繰り広げられる歴史ロマンとして読むのが正しいだろう。今までのSansomの作品同様、一人一人のキャラクターが大変個性豊か。Matthew、彼の忠実な助手のBarak、長年の友人で医者のGuy、宿敵Rich等々に加え、新しい執事のMartin Brocket、Matthewの下で修行を始めた見習い法学生Nicholas、サブプロットを成す遺産相続裁判の当事者Isabel Slanning(カトリック)とEdward Cotterstoke(プロテスタント)の姉弟、その裁判の相手方弁護士Coleswyn、その他魅力的なキャラクターが一杯だ。また1546-47年頃のイギリス史もある程度分かり、巻末にも歴史的背景を説明したセクション('historical note')もあり、勉強にもなる。

このシリーズは集英社文庫で翻訳されつつあるので、この本も待っていればやがては日本語でも出版されると思うが、時間をかけて英語で読む価値が充分あった。

2018/03/17

"Summer and Smoke" (Almeida Theatre, London, 2018.3.16)

"Summer and Smoke"

Almeida Theatre公演
観劇日:2018.3.16 19:30-22:00 (incl. one interval)
劇場:Almeida Theatre, London

演出:Rebecca Frecknall
脚本:Tennessee Williams
デザイン:Tom Scutt
照明:Lee Curran
音響:Carolyn Downing
作曲:Angus MacRae
衣装:Lucy Martin

出演:
Patsy Ferran (Alma Winemiller)
John Buchanan (Matthew Needham)
Anjana Vasan (Nellie Gonzales, Rosemary, Rosa, Pearl)
Nancy Crane (Mrs Winemiller, Mrs Basset)
Forbes Masson (Rev Winemiller, Dr Cuchanan)
Erie MacLennan (Papa Gonzales, Vernon)

☆☆☆☆ / 5

今回の渡英では脚本を読んだことのない劇が続いていて、私の英語力では理解するのにかなりハードルが高いが、滅多に上演されることのないこの作品もそうだった。しかし、リビューは概して良いようであり、また主演の二人、特にヒロインのAlmaを演じたPatsy Ferranの演技が素晴らしく、それだけで出かけた甲斐があった。

劇自体はウィリアムズの有名な作品と比べるととても単純な作りで、途中ちょっと飽きた。若い女性の肉体的欲望と、それを押さえようとする内心の、あるいは社会的な抑圧との葛藤を延々と描く非常にプライベートな内容の作品。劇中でヒロイン自身がそう言っているが、彼女の名前、"Alma"はスペイン語で「魂」の意味だそうだ(ラテン語の'anima'が語源だろう)。この劇全体がヒロインAlmaの魂の彷徨を描く(中世劇の愛好者である私の語彙を使うと)一種の道徳劇。実際、イギリスの道徳劇の主人公はanima と呼ばれることもある(注)。彼女の内面に押し隠された欲情が激しく沸き立つのが見え隠れしつつ、その一方で、自分自身を押さえつけようとする抑制や家庭と社会の抑圧も強くて、激しい葛藤が生まれる。彼女の父親は牧師で、自分も牧師の娘であるということを強く意識している。彼女がずっと想い続ける幼なじみは、となりの家に住む医者の息子Johnだが、彼は劇の前半においてはかなり自由奔放な若者として描かれていて、Almaを色々な言葉で誘惑してセックスに誘うが、彼女はあと一歩のところで踏みとどまる。Johnは彼女を医者の卵らしい難しい言葉を使って'doppelgangar'(分身)と表現する。つまり彼女は肉体と精神に引き裂かれて身動きが取れず、自分を解放することができないのである。一方、劇の後半になると、Johnには既に、他に決まった女性が出来ており、Almaを遠ざけようとするのに対し、AlmaはJohnへの想いが爆発してそれまでの堅固な自制心を解いて彼を誘うが、既に彼の身体と心は彼女には向いていない。

女性の押さえつけらた肉体的欲望、家父長的抑圧、暴力、精神のバランスを壊した家族(Almaの母親)など、ウィリアム作品の多くで見られる要素が見られるが、他の作品より単純でストレートなので、私にはちょっと退屈な印象が残った。また、英語の理解が十分でない私にとって困ったのは、上のキャスト一覧にもあるように、一人の俳優が意図的に、それも衣装も変えずに、いくつもの役をやることだ。演出家の意図としては、主人公Almaの目から見て同じタイプの人、例えば、自分の父親でる牧師と隣りのJohnの父親の医者、を一人の俳優にやらせることで、ステージ全体にAlmaの視点を行き渡らせようとしているんだろう。しかし私は「今のあの役者がやっているのはだれ?」と何度も戸惑い、混乱する場面が多く、それで肝心の演技から注意が削がれてしまった。

観客席にややせり出すような扇形のステージには椅子だけが置かれ、背景の壁に接して何台ものピアノが並べられて、そのピアノの椅子に演技の終わった俳優が座る。更に彼らは時にはそのピアノで音楽を奏でたりもする。地理的な背景をカットしたシンプルなステージが、主人公の内面の葛藤の具現化をするという道徳劇的な作品内容にふさわしい。ピアノとその前に置かれた椅子は、中世演劇における俳優の定位置と符合する点も興味深かった。

主演のPatsy Ferranの演技は本当に素晴らしい。自分の声と表情を、まるで楽器を演奏するように自由自在に使える女優だ。またJohnを演じたMatthew Needhamも、ワイルドで枠にはまりたがらないところと、中産階級の医者の息子で、インテリでもあるという二つの面を、上手く組み合わせて演じていた。

(注)15世紀の道徳劇 "Wisdom"。

2018/03/16

"A Passage to India" (Park Theatre, 2018.3.15)

"A Passage to India"

simple8 and Royal Derngate, Northampton 共同公演
観劇日:2018.3.15 15:00-17:30 (incl. one interval)
劇場:Park Theatre, London

原作:E. M. Forster
演出:Sebastian Arresto, Simon Dormandy
脚本:Simon Dormandy
セット&衣装デザイン:Dora Schweitzer
照明:Prema Mehta
音楽:Kuljit Bhamra

出演:
Asif Khan (Aziz)
Richard Goulding (Fielding)
Phoebe Pryce (Adela)
Liz Crowther (Mrs Moore)

☆☆☆ / 5

E. M. Forsterの20世紀の古典の舞台化。演出もしているSimon Dormandyのオリジナル脚本。植民地のイギリス人達の、インドという国に対する異なった態度と、それに対するインド人達の、これもまた複雑な受け取り方を描く原作だが、それを休憩を除くと2時間ちょっとの時間に上手くまとめていた。私がこの小説の翻訳を読んだのは多分学部学生の頃だし、映画を見たのも何十年も前だから、粗筋もおぼろげにしか憶えていないので、分からないところも多くて前半はかなり居眠りしてしまった。しかし、裁判のシーンは緊迫感に満ち、見応えがあった。また、原作が描くイギリスと自国の文化に対するAzizの屈折した感情、友人への愛情とAdelaの告発の間で苦しむFieldingの感じるもどかしさ、そしてAdelaのナイーブさや傷つきやすさは充分に伝わっていて、後半は興味を持って見ることが出来、最後にはかなり満足感が残った。

ステージには何もセットを置かずシンプルなものだった。一部でコンプリシテみたいなグループでやる動きを取り入れ、工夫に満ちていた。費用をかけられないこともあるだろうが、意図的にインド風のセットにせず、植民地に起こる普遍的な問題として観客に見てもらいたいということだろうか。

Park Theatreは2013年に出来た劇場で、前回の渡英(昨年の夏)で始めて来たのだが、チケットの値段も割合安く、上演のレベルはかなり高くて、今後も期待したい。

2018/03/15

"Amadeus" (Olivier, National Theatre, 2018.3.13)

"Amadeus"

National Theatre公演
観劇日:2018.3.13 14:00-17:00 (one interval)
劇場:Olivier, National Theatre

演出:Michael Longhurst
脚本:Peter Shaffer
デザイン:Chloe Lamford
照明:Jon Clark
音響:Paul Arditti
音楽:Simon Slater
振付:Imogen Knight
衣装:Poppy Hall

出演:
Lucian Msamati (Antonio Salieri)
Adam Gillen (Wolfgang Amadeus Mozart)
Adele Leonce (Constanze Weber; later, Mozart's wife)
Matthew Spencer (Joseph II)

☆☆☆ / 5

1979年に初演され、日本を含め世界各地で公演されてきたスタンダードな戯曲。今回の公演も、どこから見ても素晴らしい。しかし、私の興味が偏っているせいか、正直言ってあまり楽しめなかった。

キャスト一覧を見ると音楽家が20人も入っている。劇の性格からして、随所に音楽が挿入され、その意味でも楽しめるが、これらの音楽家はじっとしていることを許されない。計算された振付でステージ上をあちこち動き回り、台詞はなくても色々な演技をしている。歌もかなり入っている。音楽の好きな人にはこたえられないだろう。これは多分音楽と音響を担当しているSimon SlaterとPaul Ardetti、そして振付のImogen Knightによるものだと思う。俳優の演技と同じくらい、あるいはそれ以上にこれらの裏方の才能が大きな役割を果たす公演だった。

主演の二人の演技は申し分ないと思う。野心、プライド、劣等感、小心、等々を目まぐるしい言葉の嵐で見せてくれるLucian MsamatiのSalieriはちょっとしつこすぎる位だが、観客をうんざりさせる手前で微妙に止めている感じだろうか。Adam GillenのMozartのナイーブな天才ぶりも説得力あった。Gillenが、舞台では俳優としての実際の年齢より随分若い役を違和感なく演じられるのに驚く。

終わった後、周囲の観客の満足度も充分に感じられ、立って拍手する人も多かった。しかし、私自身は元々音楽に関心が薄く、芸術家の野心にも興味が持てない。野心のない人間でも、他人の野心は理解出来そうなんだが、私の想像力/共感力の欠如かしら?内容に興味が持てない作品だと、いくら劇として良くても、演技が素晴らしくとも、鈍感な私の心には響かないようで、フラストレーションを感じた。セットは贅沢で華やか、しばしば挟まれる演奏、歌、踊りも計算尽くされた進行やタイミングが見事。でも私はサリエリにもモーツァルトにも感情移入出来ず、空騒ぎにしか感じられなかった。こういう誰しも認める素晴らしい戯曲の好評の公演にも心を動かされないと、自分の鈍感ぶりに劣等感を感じるなあ。私には劇を客観的に「批評」する能力はないので、あまり楽しめずかなり残念だったと言うしかない。

しかし有名な作品なので、一度上演を見ることが出来たのは良かったし、美しいデザインと音楽は楽しめた。

2018/03/12

"Julius Caesar" (Bridge Theatre, London, 2018.3.9)

"Julius Caesar"

Bridge Theatre 公演
観劇日:2018.3.9 19:30-21:30 (no interval)
劇場:Bridge Theatre, London

演出:Nicholas Hytner
脚本:William Shakespeare
デザイン:Bunny Christie
照明:Bruno Poet
音響:Paul Arditti
音楽:Nick Powell
衣装:Christina Cunningham

出演:
Ben Whishaw (Marcius Brutus)
Michelle Fairley (Caius Cassius)
David Morrissey (Mark Antony)
David Calder (Julius Caesar)
Adjoa Andoh (Casca)
Kit Young (Ocavius, a musician)

☆☆☆☆ / 5

その前日にNational Theatreで見たRufas Norris演出の、極めて退屈な 'Macbeth'を見てから一日後、今度はNorrisの前任者だったNicholas Hytnerによるシェイクスピア上演でこれ以上はないほどの満足を得るとは、実に皮肉なものだ。満点にするか迷うくらい素晴らしい公演だった。

Bridge Theatreは新しい劇場で、芸術監督はHytner。この劇場はステージを自由に作り替えられるそうで、今回は空間の真ん中に楕円形のステージを置き、階段状の客席がそれを見下ろすように囲む円形劇場方式。また真ん中をグローブ座のような立ち見の平土間にして、そこに立っている観客を動かしながら上演に参加させる、所謂「プロムナード・ステージング」。実は東京グローブ座でも、来日したイギリスの劇団(どこかは忘れたがRSCではなかろうか?)がこのスタイルで'Julisu Caesar'を上演しており、私はその時に立ち見客の一人としてステージを動きつつ見たのを思い出す。

開演の15分くらい前からステージではロック・コンサートが始まる。ノリの良いロックのリズムに立ち見客達は体を揺すりながら聴き入り、観客は早くも劇場の雰囲気に取り込まれるが、このロック・コンサートが(丁度アメリカやロシアの選挙の演説会であるように)そのままカエサルを応援する政治集会へとなだれ込む。観客を焚きつけ、興奮を盛り上げるのはDavid Morrissey演じるMark Antony。

Caesarが独裁者となるのを防ぎ共和制の理想を維持しようとするCassius(女性に置き換えている)と彼女の仲間達は、有力者Brutusを説き伏せて皆でCaesarを暗殺しようと計画。しかし、Caesarの友人を自認し、また暗殺という手段に大いに疑問を感じるBrutusはなかなか同意しない。Michelle Fairley演じる女性のCassius、大変上手い。また思い迷うBrutusのBen Whishawも説得力ある演技。更に、劇の後半で群衆を自分の有利なよう巧みに扇動するAntonyを演じたMorrissey、ベテランの悠然たる風格が生きたCalderら、ステージのスピーディな変化やロック音楽の勢いに負けない重厚な演技を堪能させてくれた。強いて言うと、男達の権力争いの中で、Calpurnia(Caesarの妻)やPortia(Brutusの妻)の姿がやや霞んだ感じはした(台詞が大分カットされていたのかもしれない?)。また、Cassiusが女性になったことで、Brutusとの強固な繋がり(親友、戦友)がちょっと分かりにくくなった印象はある。

共和制を守ろうという、今で言うなら「リベラル・エリート」が暗殺という非民主的な手段を選んで独裁者を引きずり下ろす。しかしCaesarなき後の権力の空白において、時の流れを利用するに聡いMark Antonyが民衆の応援を得て権力を手にする、という皮肉な流れ。そして一旦乱された秩序は当初の目的とは違い、戦争と破壊の道を辿り始める。別に特定の紛争国を意識した演出ではないだろうが、現代世界の多くの混乱、例えば今のシリアやアフガニスタン、を思い起こさざるを得なかったところがHytner演出作品らしい。

スタイリッシュなステージと音楽、そして名優達の共演で素晴らしい一夜を過ごせた。

2018/03/11

ジェイムズ・M・ギブソン博士(Dr James M. Gibson)、ご逝去

「英国初期演劇資料集」(Records of Early English Drama、略してREED)のケント州(カンタベリー主教区)の巻(3分冊)、'Kent: Diocese of Canterbury' (University of Toronto Press, 2002)、の編集者として、中世イギリス演劇研究の世界では名高いジェイムズ・M・ギブソン博士が亡くなった。

アーカイヴィストとして所属していた The Rochester Bridge Trust の経歴欄にお知らせがあった(下方にスクロールして下さると写真入りの経歴が出て来ます)。

イギリス中世劇関連のメーリング・リストでもお知らせが送られてきたが、何故亡くなられたかは書かれていない。最近70歳になられたばかりということで、早逝されたと言えるだろう。まだアーカイブ資料の発掘、編集、刊行に関して貴重なお仕事をされていた最中のようでもあり、大変惜しまれる。

彼はニューヨーク州のリベラル・アーツ・カレッジ、ホートン・カレッジ(Houghton College)でBAを取得され、その後、ペンシルヴァニア大学で修士号と博士号を得ている。母校ホートン・カレッジの専任教員として勤められたようだが、1984年、「英国初期演劇資料集」のケントの巻の資料調査のためにサバティカルでイギリスに来られ、そのまま母国での安定した教職を辞して、ケントに移住する決断をされたようだ。奥様やお子さん達もおられるので、大変な決断だったことだろう。イギリスに来てからは、ロチェスター・ブリッジ・トラストという団体の非常勤アーキヴィストをされておられたが、それ以外に大学教員などの肩書きはなく、研究誌の執筆者紹介などでは、「独立研究者」となっていた。その後、2002年にREEDのケント州カンタベリー主教区の資料集を刊行された。彼はケント大学のセミナーでも1,2回はお話をされていると思う。私は2001年の4月から2002年の3月までケント大学の中世・チューダー朝研究センターに留学していた。残念ながら直接彼のお話を聞く機会はなかった。しかし、カンタベリー大聖堂の図書館でマイクロフィルム・リーダーに向かって資料を読んでおられる後ろ姿を、たまたま誰か(多分図書館員の方)に教えられて、見たことがある。大柄の方だったという記憶がある。

REEDはそのどの巻を取っても大変な労苦を費やした業績で、それぞれの巻がエディターのライフワークと言える程だが、ケント州カンタベリー主教区の巻は3分冊で、合わせて1700ページ以上あるもの凄い一次資料集だ。ラテン語、フランス語、中英語、近代初期英語の原文に加え、それらを読むためのグロッサリー、ラテン語や仏語の場合には翻訳もついており、非常に詳しいイントロダクションや注釈、インデックスもある。全部を真面目に通して読めば、それだけで1年くらいかかりそうな本である。

Gibson博士はREEDのカンタベリー教区に続き、ケント州ロチェスター主教区の資料集も編纂されていたと言うことだ。2007年に出ているある紹介によると、その頃既に、ロチェスター教区の巻は完成に近づいていると書かれているのだが、それから既に10年以上経っている。サザンプトン大学名誉教授のジョン・マクガヴィン先生がREEDのスコットランドの巻の編纂に数十年前から取り組まれていて、何年も前から刊行間近というお知らせがちらほら出るようになったが、出版に至ってない。この種の仕事は本当に息が長くて、研究者の寿命との競争だ。ロチェスターの巻はきっと間もなく出ることと思う。そのうち、イギリスの中世劇の先生に会うことがあったらどうなっているのか聞いてみよう。

彼は論文を書いたり研究発表をされたりはしているが、中世劇の研究者としては目立たない方だった。私も彼の論文を1本だけ読んでいるが、ケント州の上演資料を元にして、具体的な歴史的事実を指摘した論文だった。彼の真骨頂は、古文書学者としての実力にあったのではないだろうか。最近亡くなられたイアン・ドイル先生みたいな方だったと言えるかも知れない。

ギブソン博士、私達に素晴らしいお仕事を残して下さり、ありがとうございました。安らかに。

2018/03/09

"Macbeth" (Olivier, National Theatre, 2018.3.8)

"Macbeth" (Olivier, National Theatre)

National Theatre 公演
観劇日:2018.3.8 19:30-22:00
劇場:Olivier, National Theatre, London

演出:Rufus Norris
脚本:William Shakespeare
デザイン:Rae Smith
照明:James Farncombe
音響:Paul Arditti
音楽:Orlando Gough
衣装:Moritz Junge

出演:
Rory Kinnear (Macbeth)
Anne-Marie Duff (Lady Macbeth)
Stephen Boxer (Duncan)
Kevin Harvey (Banquo)
Parts Thakerar (Malcolm)
Patrick O'Kane (Macduff)
Trevor Fox (Porter)
Rakhee Sharma (Fleance)
Penny Layden (Ross)

☆ / 5

う〜ん、とうならざるを得ない公演だった。開演する前にステージを見た時は、黒々とした陰鬱さをかもし出す、ナショナルでなければ見られない大変大がかりで豪華なセットで、どういう上演となるかワクワク!でも、30分も経たないうちにコクリコクリ・・・。私の英語の聞き取りの問題や体調不良とかまだ残っている時差ボケなどあるにしても、目が覚めている時も感情移入出来ない。『マクベス』って、とても分かりやすい、スピーディーな劇で、日本でもイギリスの上演でも好き嫌いはあってもそれほど退屈した経験はないと思うけど、今回はほとんど退屈しっぱなしだった。

帰ってから何が私にとってしっくりこないのかずっと考えていたのだが、主な原因はヒエラルキーが感じられないこと。この公演では、中世スコットランドはおろか、歴史的文脈を完全に取り除いて現代服での上演にしているが、例えば中近東とか、アフリカの紛争国と言った文脈を示唆するでもなく、どこかのギャングの血なまぐさい縄張り争いのような感じにしている。しかし、セットは、地獄の中か光の射さない密林の奥などのような漆黒で、マフィアの抗争ではなく、やはり内乱だ・・・。ヒエラルキーが感じられないと言うことは、まず衣装の違いがほとんど無い。王だけ、赤いスーツを着ているが、他の人はモノトーンの粗末な衣装。レディー・マクベスは派手な服だが、安いバーのマダムみたいに見る。言葉やジェスチャーも、王や王妃と廷臣達という様式美は一切ない。ナショナルやグローブ座のような大きなステージでは、プロセッションとなった動きや大きな儀礼的動作、それに相応しい様式美を感じさせる台詞の発声等々が劇の雰囲気を高め、私をステージに入り込ませてくれるのだが、そういうものが一切意図的に排除されている。それならそれで、その欠如を埋め合わせるような他の点が面白いかというと、そういう要素は発見できなかった。

面白いというか、凄いと思ったのはセット。巨大な弓なりになった漆黒の橋が観客の方に向けて黒い花道のように架けてあり、そこを使って役者が動き回る時は印象的。でもその他のところでは、ステージを衝立でチマチマ区切って部屋を作って使っているのはあまり感心しなかった。但、オリヴィエがあまりに大きいので、こうして区切るのはやむを得ないのかもしれない。

主役の2人の演技に不満はないが、そもそも上演のコンセプトが納得出来ないままなので、どういう演技が良いのか悪いのかも分からないまま終わってしまった。

とにかく飽きてしまって、居眠りやらぼんやりしてたので、あまり何の印象も残ってない。つまらなくても、もっとよく考えて見てれれば良かったとちょっと後悔している。

2018/03/08

【美術展】"Reflections: Van Eyck & the Pre-Raphaelites" National Gallery

"Reflections: Van Eyck & the Pre-Raphaelites"  (National Gallery, London)

3月7日の午後、ロンドンのナショナル・ギャラリーで開かれている標記の特別展をみた。15世紀のネーデルランドの画家ヤン・ファン=アイクの絵、"The Arnolfini Portrait"(アルノルフィーニ夫妻の肖像、1434年)がラファエル前派の画家達に与えた大きな影響について、同じ展覧会でそれらの絵を並べることで実際に体感してもらおうという試み。「アルノルフィーニ夫妻の肖像」と聞いても覚えがなかったが、実際に絵を見ると、これは西洋絵画に少しでも関心がある人は、いや恐らくほとんどない人でも、知っている有名な絵だと分かった。

ナショナル・ギャラリーはこの絵を1842年に取得して今に至っているそうで、ラファエル前派の若い、まだほとんど10代の、画家達が修行していた頃、当時は今と違い同じ建物内にあったロイヤル・アカデミー・オヴ・アーツに通う傍ら、ナショナル・ギャラリーに来てはこの絵を繰り返し見ていたのは確実だそうだ。当時のナショナル・ギャラリーの古い絵はイタリア・ルネッサンスの絵が大半で、ネーデルランドの絵はこれくらいだったらしく、それまでの殻を破ろうとしていたラファエル前派の画家達を著しく刺激した1枚となったらしい。私は1枚1枚の絵を見ているばかりで、あまり比較することを意識しなかったので、説明書きに書かれている類似点を少し憶えているくらいだが、特に強調されているのは鏡の使用だ。ファン・アイクの絵には凸面鏡が出てくるのだが、これがラファエル前派の多くの絵にも描かれていて、色々とシンボリックな使い方をされているらしい。この展覧会のタイトル自体、鏡に映る「反映」のことだ。

「アルノルフィーニ夫妻の肖像」の精密で非常にくっきりした筆致と色彩は、この展覧会の一番の目玉作品であるジョン・エヴァレット=ミレーの「マリアーナ」にも見られる。ミレーのこの絵を見られただけでも展覧会の入場料を払った価値はあった。彼の名作「オフィーリア」で見られるような精密で華やかな筆致がたまらない。

ネーデルランドの絵画が与えた影響としては、豊かな中産階級の人々の家の中の様子を描くこととか、自然描写なんかがあったかと思うが、展覧会のセッティングや解説は絵画に現れる鏡の事を強調しすぎて、その他の面が霞んでしまっている気がしたが、それは「アルノルフィーニ夫妻の肖像」を中心とした小さな展覧会だから仕方ないのかな、と思った。もう少し広げて、ネーデルランドの絵画全体とラファエル前派を取り上げてくれるともっと面白いかも知れない。とは言え、楽しい時間が過ごせた。

2018/03/05

"The York Realist" (Donmar Warehouse, 3018.3.3)

"The York Realist"

Donmar Warehouse & Sheffield Theatres 公演
観劇日:2018.3.3 14:30-16:30 (incl. a 15 min. interval)
劇場:Donmar Warehouse

演出:Robert Hastie
脚本:Peter Gill
デザイン:Peter McKintosh
照明:Paul Pyant
音響:Emma Laxton
音楽:Richard Taylor

出演:
Ben Batt (George, a farmer)
Jonathan Bailey (John, an assistant director)
Lesley Nicol (George's mother)
Lucy Black (Barbara, a local young woman)
Matthew Wilson (Aruther)
Katie West (Doreen, George's ellder sister)
Brian Fletcher (Jack)

☆☆☆☆ / 5

3月1日、雪のロンドンに着いた。もの凄く寒く、睡眠不足の体にこたえる。空港から電車と地下鉄を乗り継いで宿舎の最寄り駅へ。駅から宿舎までの道、雪の中で重いスーツケースを引っ張るのが大変だった。この公演を見た3日の午後も、雪やみぞれが降る寒い午後だった。

さて、この劇は2001年に初演され好評を博した作品のようだ。作家 Peter Gill(ピーター・ギル)は現代のイギリス演劇を代表する劇作家の一人らしいが、私は多分彼の作品を始めて見た。オーソドックスな台詞劇。台詞の微妙な間合いを楽しむべきところがかなりあって、俳優の技量が試されるが、主演の二人(Ben Batt, Jonathan Bailey)は表情豊かな芸達者だった。

場面設定は、1960年代のヨーク市近くの農村。すべてのシーンが農夫Benが彼の母親と住む'cottage'の居間で展開する。cottageとはイギリスでは通例田舎の小さめの民家で、石造りやモルタル作り。大抵かなり古い家を指すようだ(小さな田舎の家でも、新築で現代風の組み立て住宅などはcottageとは言わないだろう)。Georgeはヨーク市の街頭の山車の上で繰り広げられるヨーク・ミステリー・プレイのリハーサルに参加していたが、回りの人々にあまり馴染めずに来なくなってしまったようだ。それで、彼をまたリハーサルに戻るよう誘おうとして、ロンドンから来た助監督のJohnが説得にやって来る。彼らはゲイで、互いに好意を抱いている。GeorgeはJohnに説得されて劇の上演に参加するようになり、ふたりはつきあい始める。インターバル後の後半では、劇の上演が終わり、ふたりは一旦はロンドンとヨークシャーの田舎という地理的な隔たりを克服できずに分かれたことが分かる。しかし、ある時Johnが再びBenのコテージにやって来て、Georgeをロンドンに喚んで二人の新しい生活を築こうと提案する。

中世末にヨークの市民達によって始められ、今も一般の人々の参加で上演が続くヨーク・ミステリー・プレイを背景とした劇なので、私にとって退屈なわけがないが、今回の上演は大変良いリビューを得ているようだ。2人の若者達が徐々にお互いに心を開いていく時の台詞のやり取りが、なかなか異性間の恋愛では見られない繊細さ。Ben BattとJonathan Baileyの演技が上手で見応えがあるシーンだった。イングランドでは1967年まで同性間のセックスは非合法であり、実際にそれで逮捕されることはほぼなかったにしても、公には男性間の恋愛は許されない時代。まして田舎の農村では家族にも隠さなければならない。人が良くて息子の世話に余念が無い母や近くに住む姉も、Georgeが地元の女性Barbaraと結婚してくれることを願っている。周囲の期待もあり、Benと結婚したいと思っているらしいBarbaraもとても哀れ。更に、GeorgeとJohnの間には色々な溝が横たわる。ヨークシャーとロンドンという地理的な違いに加え、都会のインテリと田舎の農民という階級と文化的背景の差もある。そもそもGeorgeがミステリー・プレイのリハーサルから足が遠のいた理由のひとつは、ヨークという北部の都会の人々に馴染めなかったからのようだ。ロンドンに移住してきてくれと説得するJohnに対して、Georgeは(ヨークシャーの農夫の)自分がロンドンに行って一体何をするんだ?、と聞き返す。彼は一度Johnを訪ねてロンドンに行っていて、その時の経験を思い起こす。確かにロンドンは素敵なところだ、美術館や劇場も気に入った、でもそこに住んでも自分がやることはない、と。

ひとつの場所(cottageの居間)を使って展開する家族劇と言える作品で、ワーキングクラスの人々が主な登場人物であり、時代も60年代となると、ロンドンの下町と北部の農村という違いはあっても、雰囲気としてオズボーンとかウェスカーの作品と共通するものがあって、面白かった。ちょっと「懐かしい」、良い意味での「古めかしさ」が漂う劇。

タイトルのThe York Realistだが、元々はヨーク・ミステリー・プレイの受難劇の部分を書いた名前の分からない作者に対し、学者達によって与えられた呼び名だ。聖書に描かれた場面をリアリティーあふれる劇に仕上げ、しかも14、15世紀のヨークシャーの現実を随所に盛り込み、当時の観客にとって、現代的で「リアル」な作品に仕上げている。その中世の演劇上演と、現代のゲイの若者達が置かれたリアリティーが重なり合うところが、二重に「リアリスト」だとPeter Gillは言いたいのかなと思った。

この劇の切符、ほとんどすべて売り切れていて、残っていたやや安い席を買ったのだが、視界が柱でさえぎられ、また舞台の真横にある席のため、舞台の後の方と背景が全く見えなかったのは非常に残念だった。もっと早くからチケットを確保していれば、と後悔した。疲労や腹痛、時差ボケで体調はひどかったが、それでも眠りもせず、大変満足できた!

2018/02/26

中世の主婦 —BBC Historyextraの記事より—

BBCが作っているウェッブマガジン、'BBC Historyextra'、に載った記事、 'What Was Life Like for a Medieval Housewife?' (筆者は歴史作家のToni Mountさん)が面白かったので、紹介したい。西欧の中世末期、庶民の女性がどう暮らしていたかを紹介する一般読者向けの、分かりやすい記事だ。

筆者がこの記事を書くに当たって主な材料としているのは中世の3つの作品。最初は、よく知られている、仏語で書かれた『パリの夫』(Le Ménagier de Paris、英訳名は The Goodman of Paris)。そして、中英語で書かれた二つの面白いバラッドが紹介されている。ひとつは、'How the Good Wif taughte hir Doughtir'、もうひとつは、'A Ballad of a Tyrannical Husband'。特に最後の作品は、農民の家庭の主婦の生活が垣間見えて貴重。これらの短い詩はどちらもMedieval Institute Publicationsから出ている中英語で書かれた短い詩の作品集に載っており、オンラインでも読める。

私にとって面白く感じたのは、「粉屋の話」や「商人の話」のような年齢の不釣り合いな、老人の夫と十代の妻と言った組み合わせは、当時の人々(特に男性?)には、妻にとっても良い結婚であると見なされたということ。つまり人生経験豊富な夫がまだ思春期の若妻に半ば父親のように色々と知恵を授けて教育することで、妻は年寄りの夫が他界した後も、良縁を得、世帯経営の能力あるマネージャーになれるという。まあ、そういう考え方もあるだろうが、一方で、「商人の話」のジャニュアリのように若妻を利用するだけというけしからぬ老人もいて、不釣り合いな結婚に眉をひそめる人々が当時からいたことも確かだ。

'How the Good Wif taughte hir Doughtir'では、「バースの女房のプロローグ」でも見られるように、女性がしてはならないことが(例えば、仕事を放り出してあちこち出かけおしゃべりに耽るなど)、ミソジニーの視点から述べられている。その中で面白いと思ったのは、女性が通ってはならない「悪所」の例。まずは、酒場(tavern)。つまり酒場に通う女性もいたということ!更に、先日のブログでも触れたが、レスリングが上がっている。中世においてもこのスポーツはとても広く行われ、おそらく賭博行為も伴っていたのだろうと推測される。更に、'shooting at cock'(原作では、'cock schetyng') とあるのは何だろうか。オンラインで読めるエディションの注を見ていると、杭に繋がれた雄鳥に向かって石を投げるか、あるいは矢を射るスポーツだったようだ。かなり残酷な遊びだが、これもおそらく金銭を賭けて楽しまれた一種の興業、と仮定すると、女性が自分でやるというより、男達がやっているのを見物し、賭けに参加したのかもしれない。酒場やレスリング、そして雄鳥を射る賭場など、こういうところに出入りする女性は身持ちの悪い女(strumpet)だとその後に書かれている。しかし、こうしてみると、中世の女性も、家の中でおとなしく家事に奔走している人ばかりではなかったとわかり、ちょっとホッとする(^_^)。

その後に紹介されるバラッド、'A Ballad of a Tyrannical Husband' では、外で汗を流して厳しい畑仕事をしている自分と比べ、家にいる妻は十分な働きをしていないと文句を言う夫に対し、あなたは主婦の仕事がどんなに忙しいか分かってない、という妻の苛立ちが書かれている。それで、この夫婦は、「では一日お互いの持ち場を交替して、配偶者の仕事がどれほどのものか体験してみよう」と言うことで合意する。残念ながら、連れ合いの一日を体験した結果までは書かれていないのは、このバラッドが未完ということだろうか。面白いのは、外で働いている男の仕事の大切さと辛さを妻は充分分かってないし、感謝してない、という夫と、私が家で遊んでいるとでも思ってるの、という妻の憤りという夫婦の家事労働に関する認識の違い(あるいは夫の無理解)は中世末期の西欧でも、現代の日本でも、大して変わらないということだ。

この記事の筆者 Toni Mount は、中世西欧を題材にしたフィクション、ノン・フィクションを多く出版している作家。

2018/02/15

『わが輩は猫である』に出てくる中世英文学作品

ツィッターで漱石の愛読者の方から教えていただいたのだが、『わが輩は猫である』で登場する理系の研究者、水島寒月が、猫(わが輩)の主人である苦沙弥先生や若い友人の迷亭君とのおしゃべりで、以下の様に、絞首刑について延々とうんちくを傾ける場面がある:

「それから英国へ移って論じますと、ベオウルフの中に絞首架即ちガルガと申す字が見えますから絞罪の刑はこの時代から行われたものに違ないと思われます。ブラクストーンの説によるともし絞罪に処せられる罪人が、万一縄の具合で死に切れぬ時は再度同様の刑罰を受くべきものだとしてありますが、妙な事にはピヤース・プローマンの中には仮令兇漢でも二度絞める法はないと云う句があるのです。まあどっちが本当か知りませんが、悪くすると一度で死ねない事が往々実例にあるので。....」

この「ベオウルフの中に絞首架即ちガルガと申す字が見えます」という点だが、「ガルガ」とは古英語の 'galga' (gallows 絞首台)のこと。この単語は、『ベーオウルフ』では、F. Klaeberのエディションで2446行に出て来る(その場所では与格屈折形の galgan)。その前後の文の訳は「息子が絞首台にぶら下がるのを経験する年寄りの悲しみのようなものだ」となる。この場面では、主人公ベーオウルフが、自分の育て親フレーゼル王が、王の次男が弓矢の事故で長男を殺してしまった時に感じたであろうやり場のない悲しみを、物語っている。その他にも、galg-mod (sad in mind)、galg-treowum (gallows-trees, pl.) などの複合語の一部としても出てくる(『ベーオウルフ』に出てくる galga については、古英語を専門にされている先生にご教示いただいた。深謝!)。

一方、「ピヤース・プローマンの中には仮令兇漢でも二度絞める法はないと云う句があるのです」という箇所についてだが、中英語文学を代表する傑作『農夫ピアズ』には、主にA、B、Cの3つのバージョンがあり、そのうちのCの21節424-28行あたりにこの一説が出てくる。その部分を和訳すると大体こうなるようだ:「たとえ反逆者であったとしても、重罪人を一度以上絞首刑にするのはこの世の習いではない。そしてもし盗人が死刑に処せられるところに国王がやって来てその盗人を見たならば、王が彼を彼を助命してやることを法は望むだろう。」

私が手元で参照したのは、Walter W Skeatという昔の学者が19世紀末に編集した2巻本で、A、B、Cのテキストを並べたパラレル・テキスト・エディション。Skeat のエディションにはこの箇所に詳しい注が付いており、中世から近代初期において、絞首刑の執行が失敗し死刑囚が生き残った場合には、その者は再度死刑には処せられないというのが通例であったと、具体的な例を引きつつ書かれている。

興味深いことにこのSkeatの注には、やはりブラックストーン(18世紀の法学者で裁判官 Sir William Blackstone、1723-1780)の時代には、中世末期とは違い、死刑囚が死ぬまで刑罰を繰り返すようになっていたと書かれている。とすると、漱石はSkeatのエディション(初版1886年)とこの注釈を読んで『わが輩は猫である』の上記の部分を書いたのだろうか。そこで、東北大学の漱石文庫をオンラインで検索すると、漱石が Skeat のエディションを持っていたことが分かる。

それにしても漱石は『農夫ピアズ』のみならず、難解な古英語原文で『ベーオウルフ』を読んでいたのだろうか。「ガロウズ」というような現代英語のカナ表記でなく、「ガルガ」という古英語をカタカナに移した表記をしているので、読んだ可能性はある。もしそうだとすると恐るべき学識だ。尤もこの頃の英文学者は、まさに英文学全体を研究していたのだろうし、漱石は、古英語に近いドイツ語もかなり出来ただろうから、『ベーオウルフ』原文を読んだとしても不思議はない。一応、東北大学図書館の漱石の蔵書目録に "Beowulf" を入れてみたが作品のエディションは出てこなかった。コメントをいただいた古英語文学の専門家の先生によると、漱石が原作を読んだとすると、当時普及していた Benjamin Thorpe 編のエディションを参照した可能性が高いとのことだ。このエディションは現代英語のついた対訳版で、1855年に初版が出て、何度か改訂版が出ている。

(追記)
 上記を書いた後、最初に『わが輩は猫である』のこの部分について知らせて下さった方が更に関連する他の文書が載っているサイトを見つけて、ご親切にお教え下さった。感謝したい。それらの文書にざっと目を通してみたが、寒月の死刑に関するうんちくの記述は、『ベーオウルフ』や『農夫ピアズ』、ブラックストーンへの言及も含め、アイルランドの医学者でトリニティー・コレッジの教授であった Samuel Haughton(1821-97) が書いた論文、'On Hanging: Considered from a Mechanical and Physiological Point of View'(1866)に大方を負っているようである。彼はこの論文において、如何にして効果的に一瞬にして絞首刑を終わらせるか、つまり死刑囚にとって絞首刑をどうしたら出来るだけ苦痛のないものに出来るかについて、科学的な専門家として、古今の例も挙げつつ論じている。この論文はインターネットで読むことが出来る。『ベーオウルフ』や『農夫ピアズ』に触れた部分は、6-7ページ。なお、Samuel Haughton についてはウィキペディア英語版に説明がある

更にもう一つ教えていただいたのは、物理学者、中谷宇吉郎の随筆のひとつ。漱石が Haughton の論文を利用してこの部分を書いた経緯については、東京帝国大学で、漱石の友人で寒月のモデルと言われる寺田寅彦の教えを受けた中谷の随筆に詳しく書かれている(青空文庫より)。つまり、寺田寅彦がこの論文を読んで漱石に薦めたことで、『わが輩は猫である』の寒月の台詞に取り入れられることになったようだ。

但、だからと言って、漱石が『ベーオウルフ』や『農夫ピアズ』を読んでいなかったかというと、そうは言えないだろう。少なくとも、後者については、漱石の蔵書に Skeat と J. F. Davis (B-text, Prologue & Passus I-VII) のエディションなど、2種の原作テキストがあることを教えていただいた。

2018/02/11

ラングランドと1381年の叛徒たち(Sebastian Sobecki教授のブログより)

オランダのフローニンゲン大学(University of Groningen)教授のSebastian Sobecki先生によるOUP Blog, 'Poaching with Piers Plowman' 
とても興味深いので、ちょっと紹介する。私の誤読もあるかも知れないので、ご関心のある方は、正確にはブログ原文を読んでください。

教授は『農夫ピアズ』('Piers Plowman')の B text と1381年の大反乱(ワット・タイラーの乱)の叛徒たちとの関連を当時の文書で裏付ける。英語英文学の研究者には周知のとおり、中英語文学の傑作『農夫ピアズ』には、大きく分けて3つのバージョン(A, B, C texts)がある。その3つのバージョンのうち、初期(c. 1967-70)に書かれ、もっとも短い A text は1381年のケント州の叛徒の間で知られており、大反乱の指導者の一人 John Ball はこの作品に言及している。しかし、最も長く、自己検閲もされてない B text (c. 1977-79)と叛徒たちの関係は証明されてなかった。Sobecki教授の調査によると、1381年の反乱の少し前、ノーフォークのシェリフであったRichard Holdychは、地元民と激しく対立していたらしい。その頃彼が王立民事裁判所(The Court of Common Pleas)に提出した訴訟文書で、'William Longwille’という名前の密猟者(poacher)が出てくるそうだ。この名前は『農夫ピアズ』の作者名として通常使われている 'William Langland' によく似た名前だが、大反乱の叛徒たちが触れている名前でもある。しかし、この作者と目されている人物の名前は『農夫ピアズ』の A text には書かれておらず、B text になって登場する。つまり、B text の15節にこのように作者が自分の名前を名乗る場面がある:

“ ‘I have lived in the land’, said I, ‘my name is Long Will’ ” (Passus 15, line 152)

この行の単語のうち、land, long, willを組み合わせて、逆から読むと、Will Langland。Will は William のことなので、「ウィリアム・ラングランド」となるわけ。しかも、そのまま左から右へ読むと、最後は、Long Will という先程の法律文書に出てくる密猟者と同じ名前だ。だからと言って、この名前を使ったノーフォークの密猟者やあるいはその後の名前の使用者が『農夫ピアズ』の作者とは必ずしも言えないが、これらの反乱者は、『農夫ピアズ』の B text を読んでいた可能性が高いとは言えるだろう。

このブログはSobecki教授が今年、OUP の学術誌、Review of English Studies に発表した論文('Hares, Rabbits, Pheasants: Piers Plowman and William Longewille, a Norfolk Rebel in 1381')を短くまとめた文章のようだ。この基になっているRESの論文が今オープン・アクセスで読める(リンクはブログの最下部に付いています)。

2018/02/10

中世のイングランドにおけるレスリングの記録


中世や近代初期のイングランドにおけるレスリングについてMiranda Vaneというライターが書評紙、London Review of Books のウェッブページに短いブログを書いている。レスリングは、中世の教会のミゼリコード(聖歌隊席椅子の装飾)で頻繁に彫られているのが見受けられるとのことだ。実際のミゼリコードに彫られているレスリングの写真としてウィキペディアにこの写真が載っている。これがあるのは、シュロップシャーのラドローにある St Lawrence's Church

この記事を読み、中世イングランドのレスリングということで、まずチョーサーが『カンタベリー物語』のプロローグの中で描いている巡礼の粉屋を思いだした:'over al ther he cam, / At wrastlynge he wolde have alwey the ram'(彼はどこに出かけても、レスリングでいつも雄羊の賞品を勝ち取っていました)。更に、「荘園管理人の話」で出てくる粉屋シムキンも、'Pipen he koude . . . / . . . and wel wrastle and sheete' (彼は笛を吹いたり . . . 、レスリングをしたり、矢を射たりするのが上手に出来ました)と描かれている。都会で宮仕えをする文人チョーサーから見ると、こうした野卑な粉屋たちにぴったりのスポーツが、レスリングというわけだ。

中英語文学には他にも色々とレスリングへの言及があるだろうと思う。それで、中英語のアンソロジーを開いてみると、14世紀後半(1375年頃)の説教詩、Robert Mannyng of Brunneの 'Handlyng Synne' にこういうのがあった:

Karolles, wrastlynges, or somour games,
Whoso euer haunteth any swyche shames
Yn cherche other Yn chercheyard,
Of sacrylage he may be aferd;
Or entyrludes, or syngynge,
Or tabure bete, or other pypynge--
Alle swyche thyng forbodyn es
Whyle the prest stondeth at messe.

キャロルやレスリングやサマー・ゲーム、
そういう恥ずべき行いで、教会や教会の境内に出かける人は皆
神への冒涜を犯していると、恐れなければならない;
あるいは、インタールード(劇)とか、歌を歌うとか、
太鼓叩きとか、笛を吹くとかー
そうした事は皆、司祭がミサをあげている間は
禁じられているのである。
(原文の出典はSisam, 'Fourteenth Century Verse and Prose', p. 4)

これを読んで思ったのは、レスリングも、演劇を含む、あまり望ましくない色々なエンターテインメントの一つと見なされていて、しばしば教会の境内、おそらく時には教会内部の身廊などで行われていたということだ。ミサの間はやっちゃいけない、と言っているのは、恐れ多くもミサの間でもレスリングをやるという不心得者がいたことも示している。

レスリングは、エンターテイメントの一つとして、トロント大学から出ている『英国初期演劇資料集』(Records of Early English Drama) でリストアップされる項目にもなっている。私が持っている巻のうち2,3冊の巻末索引を見てみたが、sports などの項目の下位項目として挙げてあった。但し、索引に全くリストアップされてない巻もある(編集方針の違いか、実際に資料が見つからないのか?)。オックスフォードの巻(2 vols, Vol. 1, pp. 12-13 [Toronto, 2004] )では、ニュー・コレッジ学寮の1398年頃の規則(ラテン語)が、ダンス(saltus)やレスリング(luctacio)、その他の遊びで、学寮の建物の装飾などが損傷したり、あるいは静けさがかき乱されたりすることがあるので、これらの活動を禁止する、と定めている。長々とした規則だが例として一部抜粋する。「チャペルや広間で、ダンスやレスリングやその他の規則違反の娯楽をしてはならない事について」(De Saltribus luctacionibus & alijs ludis inordinatis in Capella vel aula non fiendis)という規則の一部:

. . . per saltus luctaciones alios ve incautos & inordinatos ludos in aula vel in Capella ipsa forsan fiendos defacili & casualiter verisimiliter ledi poterint deturpari ammoueri frangi cancellari seu alias damnificari dictus quoque murus in parte vel in toto deterior fieri vel eciam debilitari. (Vol. 1, p. 12)

(英訳) . . . dances, wrestling matches, and any other careless and irregular games from taking place in the chapel or the aforesaid hall ever at any time, by which (activities), or any one of them, damage or loss could be inflicted on the images, sculptures, glass windows, paintings, or other aforesaid sumptuous works or the aforesaid chief wall in thier construction or structure, in material or in form by any means. (trans. by Patrick Gregory; Vol. 2, p. 913)

他にも初期中英語ロマンスとしては有名な作品の『デーン人、ハベロック』( 'Havelok the Dane' )にもレスリングへの言及はある。古いところではどのくらいさかのぼれるのだろうか?古英語文学ではどうだろう?

中世演劇の勉強をしている私としても、中英語文学におけるレスリングというテーマで調べてみるのも面白そうだと思う。欧米では誰か既にやっていそうだ。

2018/02/07

NHK ETV特集「長すぎた入院:精神医療・知られざる実態」

2月5日、月曜に放送されたNHK ETV特集「長すぎた入院:精神医療・知られざる実態」を見た。

福島第一の原発事故の為に周辺にあった5つの病院から多数の患者が他の病院に移された。その結果、それらの患者の多く、いや大多数が最早入院の必要のない人だと分かった。そうした患者を一時的に受け入れて診断し、入院の必要のない人は社会に戻す手助けをしている矢吹病院の医師によると、受け入れた40人のうち、入院治療の必要な患者はたったの2人、つまり5パーセントに過ぎないという。多くの患者は数十年入院を強いられたまま、つまり社会的入院という監獄に入れられた状態で人生を終えつつある中高年の収容者である。番組が追う元患者「時男」さんも、青年期に統合失調症で入院し、その後症状は改善し、今は普通の人以上に普通の健康な精神を持つ大変真面目な性格の人のようだが、根強い差別の中で、家族からも見放され、受け入れる人も場所もないまま、原発事故で退院のきっかけをつかむまで、39年間もの間放っておかれた。「自分にとっては、原発事故があって本当に良かった」、と彼は言う。出たい、自由になりたい、と思い続けてきた彼は、まさに袴田さんのようなえん罪被害者と同じ。矢吹病院にやってきた長期入院者の中には、夫が酒乱で入院し、それと一緒に何の精神病も患ってない妻まで入院させられ、そのまま無実の囚人のように閉じ込められた女性も含まれていた(彼女には軽い知的障害があり、自分を守ることが出来なかったのである)。日本は、北朝鮮を笑えない収容所列島である。これらの患者を収容していた病院は、事実上、患者を食いものにして経営されていたわけだし、こういう状態を日本の精神医療の関係者や厚労省は放置してきたわけだ。「時男」さんが若い頃彼を診察していた一人の医師が言うには、当時時男さんが居た病院は、患者200人に対し、医師は一人だけという状態だったそうである。また、地域の差別の中で家族も退院を望むのをためらう。長期入院者の家族にとっては、精神病院は謂わば大昔の座敷牢と化していた。
「普通」から外れ、少数者になると、どこまでも差別され、人間扱いされなくなるのが日本の社会。この国は本当に恐ろしいと、道行く「普通の」人々を見て思う。
原発事故で幸いにも外に出られた時男さんのような人の背後には、日本中で数万人、十数万人の長期入院者がいる。その人達の多くは、おそらく入院の必要のない、謂わば囚人なのだろう。番組で紹介されたデータでは、日本には世界の精神科病床のおよそ2割が集中、平均の入院日数は、他の先進国の精神病院では28日、日本ではその約10倍の270日。日本の精神病院に1年以上入院している人18万人、5年以上の人も1万人いるそうだ。

何故我々日本人はこれほどまでに冷たくなれるんだろう。親切な人も沢山いるのに・・・。私にはよく分からない。背筋が冷たくなる番組だった。

2018/01/16

庶民の女性によるロンドンの教会裁判所の利用

ロンドン大学のInstitute of Historical Studies (IHR) のPh. Dの学生、Charlie Berryさんによる記事を紹介。タイトルは、 'Women, reputation and the courts in late medieval London: the case of Agnes Cockerell'。中世・近代初期における女性による法の利用について研究しているプロジェクトのブログ記事。

ここで取り上げられているのは、1521年にロンドンの宗教裁判所(the consistory court)で訴えた訴訟の記録。ふしだらな(おそらく売春)行為をしているとして教区から追い出されて引っ越しを余儀なくされ、不名誉な噂を広められた女性 Agnes Cockerell が、根拠なく悪い噂を流されたとして彼女の以前の隣人で帽子職人(a capper)のJohn Beckett とその妻 Elizabeth を訴えている。Agnesがロンドンの元々住んでいた地区、the parish of St Sepulcre without Newgate、から追い出された時は、区(a ward)のコンスタブルという、今で言うなら一種の警察官による世俗の権力行使によるものだった。しかし、裁判においては、カトリック教会の管轄下にある the consistory court に訴訟が提出されているのは興味深い。つまり中世や近代初期の人々は、彼らの目的に応じて、世俗や教会の法と裁判所を使い分けていたのであろう。特に、このような道徳や個人の評判、名誉毀損に関する件は教会裁判所が得意とする案件だった。Agnesは、狭い教区内の法権力に訴えても仕方ないと思い、より大きな範囲で裁判権を行使した教会裁判所に訴えたのだろう。更に、このようなおそらくあまり豊かでない女性や職人などが、こういう裁判所をしばしば利用したこともこの記事で分かる。『カンタベリー物語』の The Summoner (教会召喚吏)とか、バースの女房などを理解する上でも良い記事と思う。

なお、この記事は1521年という、中世とは言いがたい時期のものだが、国王至上法などによりイングランドの宗教改革が行われる少し前、カトリック時代の終わり頃である。また、国教会に移行しても、教会裁判所の制度はほぼそのまま引き継がれ、同様のモラルや名誉毀損などの訴訟が争われた。いやむしろ、プロテスタントの時代になり、このような係争は一層増加したのではないかと思われる。

中世の教会におけるサンクチュアリーの権利(シャノン・マクシェフリー教授の記事より)


カナダのコンコーディア大学のシャノン・マクシェフリー教授(Shannon McSheffrey)による以下のブログを紹介したい(ブログと言うべきか、オンラインの論文というべきか、かなり長い文章)。


中世イングランドの教会が持っていたとされる ‘sanctuary’(罪人庇護権、聖域)の権利についての具体的な例を挙げての論考。中世の法について、素人ながら色々と関心を持っている私としては、興味を持って読んだ。ここで挙げられている具体例は、1430年、エセックスのウォルサム僧院(a priory at Waltham)に所属していたアウグスティヌス会の聖堂参事会員(canons)2名が所属する僧院から逃亡して、ロンドンのシティーにあった(今はない)St Martin le Grandという教会に逃げ込み、教会がサンクチュアリー(罪人庇護の権利)を行使したケースだ。ウォルサムの僧院長は王室の役人に彼らの逮捕を依頼した(これが通常の手続きだったそうである)。この依頼に対応して、ロンドンの世俗の権力者であるシェリフが教会に入ってこの二人を逮捕した。当然ながら、St Martin le Grand 教会の主席司祭(dean)はこれに抗議。それに対して、ロンドン市当局も反論をする。この争いを裁定する役割を担ったのは、the king’s council(枢密院)。

サンクチュアリーというと、罪人が教会や修道院に逃げ込んで罪を逃れる方法として、中世イングランドでは確立していたと思いがちだが、このブログ(と一応呼ぶ)によると、期限を区切らずに罪人を教会の施設で保護できるようになったのは、15世紀初めに過ぎないと言う。これは、Westminster Abbey で始まった。それに続きこの制度を取り入れたのが、この件の St Martin le Grand 教会だそうである。それまでのサンクチュアリーは、40日間の保護のみで、その後は、外国に追放という処置が取られたそうだ。こちらは12世紀末から13世紀初め頃に出来た制度らしい。

さて、私がこのブログで特に面白いと思った部分は、ロンドン市当局が the king’s council に提出した文書において彼らのサンクチュアリーの権利を主張する根拠である。その主張を述べた文書の作成者はおそらくJohn Carpenter という書記官(recorder)らしい。彼らの主張とは:

1.St Martin le Grand 教会は、常に ‘St Martin le Grand, London / of London’ と呼ばれてきたのであるから、ロンドン市の法的効力が及ぶと言う。いささかこじつけという感じがするが、言語上の理由。

2.ロンドン市はそもそもトロイの残党ブルータスによって設立されたのであるから、アングロ・サクソン人の渡来よりも前に遡る。従って、ロンドン市当局の権利は、市内にある教会の敷地にも及ぶと主張。

3.過去における重罪の訴追例や、教会の敷地(precinct)にある店舗は市の他の店舗同様、市当局に税金やその他の料金を払う義務を負っている、などの法的前例。

この3点の中で、2番目がとりわけ面白いと思った。こういう法的な係争事件において、しかも国権の最高機関である the king’s council に提出する主張として、トロイのブルータスによる「建国神話」とでも言うべきものを持ちだしているからだ。この建国神話は、ジェフリー・オブ・モンマスの『イングランド列王伝』とか、中世の英語ロマンス『ブルート』などを経て、14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』などへと受け継がれる。しかし、14,15世紀ともなると、こうしたロマンスは、当時の読者にとってもいにしえの物語、ファンタジックなお話として受容されていると思う。しかし、こういう法的係争の記録で、しかも1430年にもなっても堂々と市当局の権威の根拠として上げられていたとは!このブルータス伝説、どこまでこのような現実的な使い方で生き残ったのだろうか?近代初期の文学ではどうなのか?きっと既に色々と研究されていることと思うが。

この係争は、結局、教会側のサンクチュアリーの権利が認められて終わったそうだ。しかし、その後この判例が教会側によって言及され、前例として利用されることはなかったらしく、従って、恐らく両者の言い分をある程度取り入れた仲裁のような形を取ったのだろうと筆者の Shannon McSheffrey 教授は推測している。