2018/03/25

"The Great Wave" (Dorfman Theatre, National Theatre, 2018.3.26)


北朝鮮による日本人拉致事件を扱った新作
"The Great Wave"

National Theatre & Tricycle Theatre共同公演
観劇日:2018.3.26 14:30-16:45 (incl. an interval)
劇場:Dorfman Theatre, National Theatre, London

演出:Indhu Rubasingham
脚本:Francis Turnley
デザイン:Tom Piper
照明:Oliver Fenwick
音響:Alexander Caplen
音楽:David Shrubsole
ムーヴメント:Polly Bennett
衣装:Natasha Ward
ウィッグ、ヘアー、メークアップ:Gillian Blair

出演:
Rosalind Chao (Etsuko, elder daughter)
Kirsty Rider (Hanako, younger daughter)
Kae Alexander (Reiko, mother)
Leo Wan (Tetsuo, neighbour)
David Yip (Japanese politician)
Kwong Loke (North Korean official)
Francis Maili McCann (Hana, Hanako's daughter)
Vincent Lai (Kum-Chol, Hanako's husband)
Tuen Do (Jung Sun, North Korean trainee spy)

☆☆☆☆ / 5

北朝鮮による日本人拉致事件を、おそらく横田めぐみさんとそのご家族のたどった道をある程度念頭にしてフィクションとした劇である。演出、演技、セットなど皆大変素晴らしく、日本人である私から見ると多少オリエンタリズム的な面で違和感を感じたことを除けば、申し分ない公演だった。また、当然ながら全員が東アジア系の俳優で、ほとんどがUKで演劇教育を受け、活動している方々。イギリスには、実力ある東アジア系の俳優がいるんだなあ、と感心した。

ストーリーは、ほとんどの日本人が知っている北朝鮮による拉致事件の経過を、Hanakoという少女とその家族を中心にして追っている。嵐の夜のHanakoの突然の失踪。原因が分からず、警察にも充分取り合って貰えず苦しむ両親や姉。しかし隣人の若者の努力もあり、日本海側の各地で理由の分からない失踪、誘拐、そして誘拐未遂などがかなり起こっていることが判明する。こうした日本の残された家族の様子を描くのとほぼ交互に北朝鮮に誘拐されたHanakoの、向こうでの暮らしが描かれる。当初の絶望と反抗、そして諦め、日本語の先生としての生活、強制的な結婚、子供Hanaの教育、等々。やがて、小泉政権による北朝鮮との直接交渉と5人の拉致被害者の帰還が実現する。しかしその中にはHanakoは含まれていなかった・・・。

回転舞台を使い、日本海の両岸における時の流れをスピーディーに見せ、元々この問題を知らなかったイギリス人観客も退屈する間もないだろう。リビューではこの劇を優れた'thriller'と表現している筆者が複数あったが、特に拉致事件の具体的な経過を知らない人から見ると、Hanakoは最後に一体どうなるんだろう、と思いながら見るだろうから、そういう表現が当てはまるのかも知れない。しかし、私は見終わったときに、この現実の事件が全く終わっていないことで、何とも言いがたい重苦しい想いに包まれた。名演をしてくれた俳優達に拍手しつつも、カタルシスのような感情はとても起きなかった。

この問題を事実に即して具体的に追いつつも、家族離散の悲しみを中心に描かれていて、例えばナチスの迫害によるユダヤ人家族の亡命や離散とか、現代のアフガニスタンやイラク、シリアなどの国々で苦しんで来た人々の物語と重なるユニバーサルなストーリーに仕上がっていると思う。そういう意味で、英語圏の、予備知識のない人々に是非見て欲しいと思った。

場所が日本と北朝鮮であることをこちらの観客に分かりやすく示すために、リアリティーよりも、オリエンタリズム的なイメージを利用しているのは仕方ないだろう。例えば、現実離れしたミニマリズムの和室、富士山やゴジラへの言及、政治家の机の上の盆栽、等々。一方で、日本人観客が見る場合には必要な、描かれている時代の背景を示す流行歌とかファッションやヘアースタイル、日本海沿岸の街らしい背景等も見受けられない。また、お辞儀の仕方などもやや違和感があった(こちらで見る他の映画やドラマで見るほどではなかったが)。しかし全体としては、無駄な異国趣味を排し、遠い東洋のお話にならないよう、基本的な家族の悲劇に観客の注意を集中させている点は高く評価できると思う。

こちらのストレート・プレイで一般的な、台詞をたたみかけるように発する演技が続く。非常にスピーディーに展開する劇のストーリーとぴったりの演技ではあるが、私の感覚からすると、もっと間を置いた演技をする時があっても良いのではないかとも思い、やはり日本人俳優が同じ内容をやるのとはかなり違うだろうな、とも感じた。但、逆にそれが新鮮に感じられたのも事実で、これはこれで大変良い公演だったとも思う。

2018/03/22

"Vincent River" (Park Theatre, London, 2018.3.21)

"Vincent River"

Park Theatre公演
観劇日:2018.3.21 19:45-21:15 (no interval)
劇場:Park Theatre, London

演出:Robert Chevara
脚本:Philip Ridley
デザイン:Nicolari Hart Hansen
照明:Martin Langthorne

出演:
Louise Jameson (Anita)
Thomas Mahy (Davey)

先日Park Theatreで "A Passage to India" を見たばかりでブログに感想も書いたが、この小品と言って良い1時間半の劇も、メイン・シアターとは別の、小さなスタジオ・シアターで、同時に始まった。ゲイの人達を憎悪するホモフォビアの若者グループの暴力によって無惨に殺害された若者(Vincent River)の名前がタイトルになっている。但、Vincent自身は出てこず、彼の死後しばらく経ってから、彼の恋人だった17歳の少年Daveyと彼の母親Anitaの間のダイアローグで劇は成り立っている。暴力をふるった若者達についてはどういう人達かはまったく語られず、もっぱらこれら二人の、Vincentと親しかった人達の心の傷を劇化している。例によって台詞が分からないところが多く、出だしから劇の設定が分からないまま見始め、最後まで良く分からないままだった。しかし、最後、DaveyがVincentの死の場面を物語るところは大変迫力があり、息を飲んだ。

プリビューの2日目で、15ポンドしかしないし、面白い場面もあったとので、行って良かったと思おう。しかし、加齢による難聴が出て来てリスニングが一層弱くなったので、台本を読んでない劇は本当に何が起こっているか分からない。こう分からない劇が多いのでは見る資格無いなあ、とガックリして帰宅。昔留学していた頃は、前もって台本を読んで行くこともあったが、ぶっつけ本番はきつい。劇の良し悪しを判断できないのは勿論、感想も書けない。


2018/03/20

"Humble Boy" (Orange Tree Theatre, London, 2018.3.19)

"Humble Boy"

Orange Tree Theatre 公演
観劇日:2018.3.19 19:30-22:00 (incl. one interval)
劇場:Orange Tree Theatre, London

演出:Paul Miller
脚本:Charlotte Jones
デザイン:Simon Daw
照明:Mark Doubleday
音響と作曲:Max Pappenhem

出演:
Jonathan Broadbent (Felix Humble)
Belinda Lang (Flora Humble, Felix's mother)
Paul Bradley (George Pye, Flora's fiancé)
Rebekah Hinds (Rosie Pye, George's daughter)
Selina Cadell (Mercy Lott, Flora's neighbour)
Christopher Ravenscroft (Jim, a gardener)

☆☆☆☆ / 5

2001年の8月、National TheatreのCottesloe、今のDorfman Theatre、で初演された作品。忘れていたけど、何かおぼろげな記憶があるなと思っていたが、パンフレットやリビューを見たら、初演の舞台を見ていた。Simon Russell BealeとDiana Riggという二人の芸達者が主演していたのだった。今回の再演は大変好評のようで、確かにとても面白かった。

ストーリーの下敷きになっているのはシェイクスピアの『ハムレット』。ミドルクラスのFlora Humbleは最近夫を失ったばかり。ケンブリッジ大学で天体物理学を研究している独身の息子Felixが、ハムレットがガートルードのところに戻ったように、母の家に戻ってくる。彼は科学者としては大変優秀だが、精神的に問題を抱えているようだ。Floraは夫の死からまだ2ヶ月(?)程度なのに、新しい恋人、George Pye、を見つけて、近々結婚しようと考えている(クローディアスにあたる)。この恋人がかなり粗野な男で学問にも理解がなく、繊細な神経を持つFelixをいらだたせる。何故Floraがこんな男に惹かれたのかは謎で、やや無理がある気がした。Felixは昔の恋人Rosie Pyeと再会するが、彼女はGeorgeの娘。今はシングル・マザーとして7歳の娘(Felicityという名前)を育てつつ、看護師として働き、たくましく生きている。ひ弱で男達の言うなりになり、命を落とすオフィーリアとは大分違う。Humble家には親切だが不器用な隣人のMercy(「慈悲」を意味する名前)がしばしば出入りして、ぎくしゃくしがちな家族関係の潤滑油になると共に、そのトンチンカンな言動でしばしば観客の笑いを誘う。シェイクスピア作品で言うと、道化みたいな味を出していた。また庭師のJimが、Felixの落ち着いた相談相手として、離れたところから静かに家族の争いを眺めている。この程度の家で専属の庭師を雇えるわけもなく、シンボリックな役柄に見える。

『ハムレット』を下敷きに現代の白人ミドルクラスの家族の葛藤を描いた作品で、色々と凝った仕掛けがありそうな(私は細かい台詞が分からないのでイマイチ理解不足)コメディー。Alan Ayckbournの三部作、'Norman Conquests'に雰囲気としては似ているかも知れない。但、敢えてケチをつけると、非常に「白人ミドルクラス」劇という色合いが濃厚で、ロンドン郊外の住宅地リッチモンドにあるOrange Treeのような劇場で見ると尚更。観客も私を除くと白人ばかり。それも年配の方がほとんど。その意味で、プロビンシャルな感じがする劇だった。

場面はHumble家の庭のみ。庭と女性(Flora、イブ?)、庭師(Jim、キリスト?)、そして侵入者(蛇、この場合、George?)という、ぼんやりとではあるが創世記的なイメージが重なる。登場人物の名前も含め、道徳劇的な要素も垣間見える。『ハムレット』と大きく異なるのは、この劇の女性たちのたくましさ。夫の死や恋人との別れを乗り越え、自らの意志で新しい人生を切り開こうとする。特に、オフィーリアとは全く違う力強く考え深いRosieの姿に、この劇の希望が託されていると感じた。

俳優達は皆素晴らしい演技で、大いに楽しませてくれた。Simon Russell BealeやDiana Riggのような大物の演技派スターよりも、こうした、日頃は地味な脇役の多い俳優達のほうが、この劇の慎ましい('Humble") 登場人物には合っていそうだ。特にJonathan Broadbentは今後も楽しみな若手だ。

2018/03/19

C. J. Sansom, "Lamentation" (2014; Pan Books, 2015)

チューダー朝探偵小説、Matthew Shardlakeシリーズの最新作
C. J. Sansom, "Lamentation"
(2014; Pan Books, 2015)  737 pages.

☆☆☆☆ / 5

イギリスに来てからWaterstonesですぐ買って、それ以来ずっと読んでいた。軽い内容の歴史小説ではあるが、737ページもあるので、私の英語力と読む遅さではあまりに長すぎる。日本にいたら読み終わらないだろうけど、こちらではあまりする事も無いので、ひたすら読んだ。主人公はロンドンの法曹学院 Lincoln's Inn 所属で、一番格の高い法廷弁護士(サージャント)であるMatthews Shardlake。彼を主人公にした小説の6冊目。私はすべて読んでいて、どれも非常に満足しているが、今回もとても楽しめた。

今回Matthewが取り組んだのは、彼が王妃になる前から仕事を与えられ、そして命をかけて忠誠を尽くしてきたヘンリー8世の最後の王妃、Catherine Parr が巻き込まれた新たな事件。舞台は1546年のロンドン。王は足に出来た潰瘍が悪化し、常に痛みに苦しみ、車椅子なしでは動くことが出来ない。翌47年の1月には亡くなるので、その直前である。ヘンリーは自らの離婚をきっかけにイングランドの宗教改革を進めたが、英国国教会は、カトリックに近い、ミサを行い聖体のパンをキリストの肉体と信じる教理を保って、ルターやカルヴァンなどの大陸のプロテスタントは違った道を歩んでいる。王の周辺では、ローマ教会に近い、あるいはカトリックに戻りたいと願う保守派と、一層改革を進めたい者達が争ってしのぎを削っている。物語の始まりでは、保守派が優勢のように見え、Ann Askewなど数人の過激なプロテスタントが異端者として火刑に処せられ、MatthewもLincoln's Innの代表としてその残虐でドラマチックな処刑に立ち会うことを強いられる。

この頃、彼はCatherine Parrとその叔父Lord Parrに呼ばれてホワイト・ホール宮殿に赴く。王妃は彼女の改革派としての信条を綴った告白本、'Lamentation of a Sinner'(『罪人の嘆き』)、を密かに書いており(歴史的にも実際に書かれた本で、ヘンリーの死後出版された)、改革派のThomas Cranmer大司教以外には誰にも見せず自室のチェストに鍵をかけてしまっていたが、それが突如消え失せてしまった。チェストの鍵は彼女が肌身離さず持っており、合鍵はなく、鍵の制作は王室御用達の職人により厳しく管理されていたはずだった。一体誰が盗んだのか、そしてどう利用されるのか?最悪の場合、CatherineもAskewのように異端者として処刑されるかも知れない。また、そこまで行かなくても、王に秘密でこのような告白本を書いたことで、ヘンリーの怒りを買うことは必定だとCatherineの忠臣たちは恐れる。Matthewはこの本を探し出して取り戻すために奔走するが、これまで同様、彼の最大の敵、枢密院顧問のSir Richard Richが暗躍して、Matthewの仕事の邪魔をする。

歴史ミステリだが、謎解きをするというより王妃の書いた本の盗難をきっかけにして繰り広げられる歴史ロマンとして読むのが正しいだろう。今までのSansomの作品同様、一人一人のキャラクターが大変個性豊か。Matthew、彼の忠実な助手のBarak、長年の友人で医者のGuy、宿敵Rich等々に加え、新しい執事のMartin Brocket、Matthewの下で修行を始めた見習い法学生Nicholas、サブプロットを成す遺産相続裁判の当事者Isabel Slanning(カトリック)とEdward Cotterstoke(プロテスタント)の姉弟、その裁判の相手方弁護士Coleswyn、その他魅力的なキャラクターが一杯だ。また1546-47年頃のイギリス史もある程度分かり、巻末にも歴史的背景を説明したセクション('historical note')もあり、勉強にもなる。

このシリーズは集英社文庫で翻訳されつつあるので、この本も待っていればやがては日本語でも出版されると思うが、時間をかけて英語で読む価値が充分あった。

2018/03/17

"Summer and Smoke" (Almeida Theatre, London, 2018.3.16)

"Summer and Smoke"

Almeida Theatre公演
観劇日:2018.3.16 19:30-22:00 (incl. one interval)
劇場:Almeida Theatre, London

演出:Rebecca Frecknall
脚本:Tennessee Williams
デザイン:Tom Scutt
照明:Lee Curran
音響:Carolyn Downing
作曲:Angus MacRae
衣装:Lucy Martin

出演:
Patsy Ferran (Alma Winemiller)
John Buchanan (Matthew Needham)
Anjana Vasan (Nellie Gonzales, Rosemary, Rosa, Pearl)
Nancy Crane (Mrs Winemiller, Mrs Basset)
Forbes Masson (Rev Winemiller, Dr Cuchanan)
Erie MacLennan (Papa Gonzales, Vernon)

☆☆☆☆ / 5

今回の渡英では脚本を読んだことのない劇が続いていて、私の英語力では理解するのにかなりハードルが高いが、滅多に上演されることのないこの作品もそうだった。しかし、リビューは概して良いようであり、また主演の二人、特にヒロインのAlmaを演じたPatsy Ferranの演技が素晴らしく、それだけで出かけた甲斐があった。

劇自体はウィリアムズの有名な作品と比べるととても単純な作りで、途中ちょっと飽きた。若い女性の肉体的欲望と、それを押さえようとする内心の、あるいは社会的な抑圧との葛藤を延々と描く非常にプライベートな内容の作品。劇中でヒロイン自身がそう言っているが、彼女の名前、"Alma"はスペイン語で「魂」の意味だそうだ(ラテン語の'anima'が語源だろう)。この劇全体がヒロインAlmaの魂の彷徨を描く(中世劇の愛好者である私の語彙を使うと)一種の道徳劇。実際、イギリスの道徳劇の主人公はanima と呼ばれることもある(注)。彼女の内面に押し隠された欲情が激しく沸き立つのが見え隠れしつつ、その一方で、自分自身を押さえつけようとする抑制や家庭と社会の抑圧も強くて、激しい葛藤が生まれる。彼女の父親は牧師で、自分も牧師の娘であるということを強く意識している。彼女がずっと想い続ける幼なじみは、となりの家に住む医者の息子Johnだが、彼は劇の前半においてはかなり自由奔放な若者として描かれていて、Almaを色々な言葉で誘惑してセックスに誘うが、彼女はあと一歩のところで踏みとどまる。Johnは彼女を医者の卵らしい難しい言葉を使って'doppelgangar'(分身)と表現する。つまり彼女は肉体と精神に引き裂かれて身動きが取れず、自分を解放することができないのである。一方、劇の後半になると、Johnには既に、他に決まった女性が出来ており、Almaを遠ざけようとするのに対し、AlmaはJohnへの想いが爆発してそれまでの堅固な自制心を解いて彼を誘うが、既に彼の身体と心は彼女には向いていない。

女性の押さえつけらた肉体的欲望、家父長的抑圧、暴力、精神のバランスを壊した家族(Almaの母親)など、ウィリアム作品の多くで見られる要素が見られるが、他の作品より単純でストレートなので、私にはちょっと退屈な印象が残った。また、英語の理解が十分でない私にとって困ったのは、上のキャスト一覧にもあるように、一人の俳優が意図的に、それも衣装も変えずに、いくつもの役をやることだ。演出家の意図としては、主人公Almaの目から見て同じタイプの人、例えば、自分の父親でる牧師と隣りのJohnの父親の医者、を一人の俳優にやらせることで、ステージ全体にAlmaの視点を行き渡らせようとしているんだろう。しかし私は「今のあの役者がやっているのはだれ?」と何度も戸惑い、混乱する場面が多く、それで肝心の演技から注意が削がれてしまった。

観客席にややせり出すような扇形のステージには椅子だけが置かれ、背景の壁に接して何台ものピアノが並べられて、そのピアノの椅子に演技の終わった俳優が座る。更に彼らは時にはそのピアノで音楽を奏でたりもする。地理的な背景をカットしたシンプルなステージが、主人公の内面の葛藤の具現化をするという道徳劇的な作品内容にふさわしい。ピアノとその前に置かれた椅子は、中世演劇における俳優の定位置と符合する点も興味深かった。

主演のPatsy Ferranの演技は本当に素晴らしい。自分の声と表情を、まるで楽器を演奏するように自由自在に使える女優だ。またJohnを演じたMatthew Needhamも、ワイルドで枠にはまりたがらないところと、中産階級の医者の息子で、インテリでもあるという二つの面を、上手く組み合わせて演じていた。

(注)15世紀の道徳劇 "Wisdom"。

2018/03/16

"A Passage to India" (Park Theatre, 2018.3.15)

"A Passage to India"

simple8 and Royal Derngate, Northampton 共同公演
観劇日:2018.3.15 15:00-17:30 (incl. one interval)
劇場:Park Theatre, London

原作:E. M. Forster
演出:Sebastian Arresto, Simon Dormandy
脚本:Simon Dormandy
セット&衣装デザイン:Dora Schweitzer
照明:Prema Mehta
音楽:Kuljit Bhamra

出演:
Asif Khan (Aziz)
Richard Goulding (Fielding)
Phoebe Pryce (Adela)
Liz Crowther (Mrs Moore)

☆☆☆ / 5

E. M. Forsterの20世紀の古典の舞台化。演出もしているSimon Dormandyのオリジナル脚本。植民地のイギリス人達の、インドという国に対する異なった態度と、それに対するインド人達の、これもまた複雑な受け取り方を描く原作だが、それを休憩を除くと2時間ちょっとの時間に上手くまとめていた。私がこの小説の翻訳を読んだのは多分学部学生の頃だし、映画を見たのも何十年も前だから、粗筋もおぼろげにしか憶えていないので、分からないところも多くて前半はかなり居眠りしてしまった。しかし、裁判のシーンは緊迫感に満ち、見応えがあった。また、原作が描くイギリスと自国の文化に対するAzizの屈折した感情、友人への愛情とAdelaの告発の間で苦しむFieldingの感じるもどかしさ、そしてAdelaのナイーブさや傷つきやすさは充分に伝わっていて、後半は興味を持って見ることが出来、最後にはかなり満足感が残った。

ステージには何もセットを置かずシンプルなものだった。一部でコンプリシテみたいなグループでやる動きを取り入れ、工夫に満ちていた。費用をかけられないこともあるだろうが、意図的にインド風のセットにせず、植民地に起こる普遍的な問題として観客に見てもらいたいということだろうか。

Park Theatreは2013年に出来た劇場で、前回の渡英(昨年の夏)で始めて来たのだが、チケットの値段も割合安く、上演のレベルはかなり高くて、今後も期待したい。

2018/03/15

"Amadeus" (Olivier, National Theatre, 2018.3.13)

"Amadeus"

National Theatre公演
観劇日:2018.3.13 14:00-17:00 (one interval)
劇場:Olivier, National Theatre

演出:Michael Longhurst
脚本:Peter Shaffer
デザイン:Chloe Lamford
照明:Jon Clark
音響:Paul Arditti
音楽:Simon Slater
振付:Imogen Knight
衣装:Poppy Hall

出演:
Lucian Msamati (Antonio Salieri)
Adam Gillen (Wolfgang Amadeus Mozart)
Adele Leonce (Constanze Weber; later, Mozart's wife)
Matthew Spencer (Joseph II)

☆☆☆ / 5

1979年に初演され、日本を含め世界各地で公演されてきたスタンダードな戯曲。今回の公演も、どこから見ても素晴らしい。しかし、私の興味が偏っているせいか、正直言ってあまり楽しめなかった。

キャスト一覧を見ると音楽家が20人も入っている。劇の性格からして、随所に音楽が挿入され、その意味でも楽しめるが、これらの音楽家はじっとしていることを許されない。計算された振付でステージ上をあちこち動き回り、台詞はなくても色々な演技をしている。歌もかなり入っている。音楽の好きな人にはこたえられないだろう。これは多分音楽と音響を担当しているSimon SlaterとPaul Ardetti、そして振付のImogen Knightによるものだと思う。俳優の演技と同じくらい、あるいはそれ以上にこれらの裏方の才能が大きな役割を果たす公演だった。

主演の二人の演技は申し分ないと思う。野心、プライド、劣等感、小心、等々を目まぐるしい言葉の嵐で見せてくれるLucian MsamatiのSalieriはちょっとしつこすぎる位だが、観客をうんざりさせる手前で微妙に止めている感じだろうか。Adam GillenのMozartのナイーブな天才ぶりも説得力あった。Gillenが、舞台では俳優としての実際の年齢より随分若い役を違和感なく演じられるのに驚く。

終わった後、周囲の観客の満足度も充分に感じられ、立って拍手する人も多かった。しかし、私自身は元々音楽に関心が薄く、芸術家の野心にも興味が持てない。野心のない人間でも、他人の野心は理解出来そうなんだが、私の想像力/共感力の欠如かしら?内容に興味が持てない作品だと、いくら劇として良くても、演技が素晴らしくとも、鈍感な私の心には響かないようで、フラストレーションを感じた。セットは贅沢で華やか、しばしば挟まれる演奏、歌、踊りも計算尽くされた進行やタイミングが見事。でも私はサリエリにもモーツァルトにも感情移入出来ず、空騒ぎにしか感じられなかった。こういう誰しも認める素晴らしい戯曲の好評の公演にも心を動かされないと、自分の鈍感ぶりに劣等感を感じるなあ。私には劇を客観的に「批評」する能力はないので、あまり楽しめずかなり残念だったと言うしかない。

しかし有名な作品なので、一度上演を見ることが出来たのは良かったし、美しいデザインと音楽は楽しめた。

2018/03/12

"Julius Caesar" (Bridge Theatre, London, 2018.3.9)

"Julius Caesar"

Bridge Theatre 公演
観劇日:2018.3.9 19:30-21:30 (no interval)
劇場:Bridge Theatre, London

演出:Nicholas Hytner
脚本:William Shakespeare
デザイン:Bunny Christie
照明:Bruno Poet
音響:Paul Arditti
音楽:Nick Powell
衣装:Christina Cunningham

出演:
Ben Whishaw (Marcius Brutus)
Michelle Fairley (Caius Cassius)
David Morrissey (Mark Antony)
David Calder (Julius Caesar)
Adjoa Andoh (Casca)
Kit Young (Ocavius, a musician)

☆☆☆☆ / 5

その前日にNational Theatreで見たRufas Norris演出の、極めて退屈な 'Macbeth'を見てから一日後、今度はNorrisの前任者だったNicholas Hytnerによるシェイクスピア上演でこれ以上はないほどの満足を得るとは、実に皮肉なものだ。満点にするか迷うくらい素晴らしい公演だった。

Bridge Theatreは新しい劇場で、芸術監督はHytner。この劇場はステージを自由に作り替えられるそうで、今回は空間の真ん中に楕円形のステージを置き、階段状の客席がそれを見下ろすように囲む円形劇場方式。また真ん中をグローブ座のような立ち見の平土間にして、そこに立っている観客を動かしながら上演に参加させる、所謂「プロムナード・ステージング」。実は東京グローブ座でも、来日したイギリスの劇団(どこかは忘れたがRSCではなかろうか?)がこのスタイルで'Julisu Caesar'を上演しており、私はその時に立ち見客の一人としてステージを動きつつ見たのを思い出す。

開演の15分くらい前からステージではロック・コンサートが始まる。ノリの良いロックのリズムに立ち見客達は体を揺すりながら聴き入り、観客は早くも劇場の雰囲気に取り込まれるが、このロック・コンサートが(丁度アメリカやロシアの選挙の演説会であるように)そのままカエサルを応援する政治集会へとなだれ込む。観客を焚きつけ、興奮を盛り上げるのはDavid Morrissey演じるMark Antony。

Caesarが独裁者となるのを防ぎ共和制の理想を維持しようとするCassius(女性に置き換えている)と彼女の仲間達は、有力者Brutusを説き伏せて皆でCaesarを暗殺しようと計画。しかし、Caesarの友人を自認し、また暗殺という手段に大いに疑問を感じるBrutusはなかなか同意しない。Michelle Fairley演じる女性のCassius、大変上手い。また思い迷うBrutusのBen Whishawも説得力ある演技。更に、劇の後半で群衆を自分の有利なよう巧みに扇動するAntonyを演じたMorrissey、ベテランの悠然たる風格が生きたCalderら、ステージのスピーディな変化やロック音楽の勢いに負けない重厚な演技を堪能させてくれた。強いて言うと、男達の権力争いの中で、Calpurnia(Caesarの妻)やPortia(Brutusの妻)の姿がやや霞んだ感じはした(台詞が大分カットされていたのかもしれない?)。また、Cassiusが女性になったことで、Brutusとの強固な繋がり(親友、戦友)がちょっと分かりにくくなった印象はある。

共和制を守ろうという、今で言うなら「リベラル・エリート」が暗殺という非民主的な手段を選んで独裁者を引きずり下ろす。しかしCaesarなき後の権力の空白において、時の流れを利用するに聡いMark Antonyが民衆の応援を得て権力を手にする、という皮肉な流れ。そして一旦乱された秩序は当初の目的とは違い、戦争と破壊の道を辿り始める。別に特定の紛争国を意識した演出ではないだろうが、現代世界の多くの混乱、例えば今のシリアやアフガニスタン、を思い起こさざるを得なかったところがHytner演出作品らしい。

スタイリッシュなステージと音楽、そして名優達の共演で素晴らしい一夜を過ごせた。

2018/03/11

ジェイムズ・M・ギブソン博士(Dr James M. Gibson)、ご逝去

「英国初期演劇資料集」(Records of Early English Drama、略してREED)のケント州(カンタベリー主教区)の巻(3分冊)、'Kent: Diocese of Canterbury' (University of Toronto Press, 2002)、の編集者として、中世イギリス演劇研究の世界では名高いジェイムズ・M・ギブソン博士が亡くなった。

アーカイヴィストとして所属していた The Rochester Bridge Trust の経歴欄にお知らせがあった(下方にスクロールして下さると写真入りの経歴が出て来ます)。

イギリス中世劇関連のメーリング・リストでもお知らせが送られてきたが、何故亡くなられたかは書かれていない。最近70歳になられたばかりということで、早逝されたと言えるだろう。まだアーカイブ資料の発掘、編集、刊行に関して貴重なお仕事をされていた最中のようでもあり、大変惜しまれる。

彼はニューヨーク州のリベラル・アーツ・カレッジ、ホートン・カレッジ(Houghton College)でBAを取得され、その後、ペンシルヴァニア大学で修士号と博士号を得ている。母校ホートン・カレッジの専任教員として勤められたようだが、1984年、「英国初期演劇資料集」のケントの巻の資料調査のためにサバティカルでイギリスに来られ、そのまま母国での安定した教職を辞して、ケントに移住する決断をされたようだ。奥様やお子さん達もおられるので、大変な決断だったことだろう。イギリスに来てからは、ロチェスター・ブリッジ・トラストという団体の非常勤アーキヴィストをされておられたが、それ以外に大学教員などの肩書きはなく、研究誌の執筆者紹介などでは、「独立研究者」となっていた。その後、2002年にREEDのケント州カンタベリー主教区の資料集を刊行された。彼はケント大学のセミナーでも1,2回はお話をされていると思う。私は2001年の4月から2002年の3月までケント大学の中世・チューダー朝研究センターに留学していた。残念ながら直接彼のお話を聞く機会はなかった。しかし、カンタベリー大聖堂の図書館でマイクロフィルム・リーダーに向かって資料を読んでおられる後ろ姿を、たまたま誰か(多分図書館員の方)に教えられて、見たことがある。大柄の方だったという記憶がある。

REEDはそのどの巻を取っても大変な労苦を費やした業績で、それぞれの巻がエディターのライフワークと言える程だが、ケント州カンタベリー主教区の巻は3分冊で、合わせて1700ページ以上あるもの凄い一次資料集だ。ラテン語、フランス語、中英語、近代初期英語の原文に加え、それらを読むためのグロッサリー、ラテン語や仏語の場合には翻訳もついており、非常に詳しいイントロダクションや注釈、インデックスもある。全部を真面目に通して読めば、それだけで1年くらいかかりそうな本である。

Gibson博士はREEDのカンタベリー教区に続き、ケント州ロチェスター主教区の資料集も編纂されていたと言うことだ。2007年に出ているある紹介によると、その頃既に、ロチェスター教区の巻は完成に近づいていると書かれているのだが、それから既に10年以上経っている。サザンプトン大学名誉教授のジョン・マクガヴィン先生がREEDのスコットランドの巻の編纂に数十年前から取り組まれていて、何年も前から刊行間近というお知らせがちらほら出るようになったが、出版に至ってない。この種の仕事は本当に息が長くて、研究者の寿命との競争だ。ロチェスターの巻はきっと間もなく出ることと思う。そのうち、イギリスの中世劇の先生に会うことがあったらどうなっているのか聞いてみよう。

彼は論文を書いたり研究発表をされたりはしているが、中世劇の研究者としては目立たない方だった。私も彼の論文を1本だけ読んでいるが、ケント州の上演資料を元にして、具体的な歴史的事実を指摘した論文だった。彼の真骨頂は、古文書学者としての実力にあったのではないだろうか。最近亡くなられたイアン・ドイル先生みたいな方だったと言えるかも知れない。

ギブソン博士、私達に素晴らしいお仕事を残して下さり、ありがとうございました。安らかに。

2018/03/09

"Macbeth" (Olivier, National Theatre, 2018.3.8)

"Macbeth" (Olivier, National Theatre)

National Theatre 公演
観劇日:2018.3.8 19:30-22:00
劇場:Olivier, National Theatre, London

演出:Rufus Norris
脚本:William Shakespeare
デザイン:Rae Smith
照明:James Farncombe
音響:Paul Arditti
音楽:Orlando Gough
衣装:Moritz Junge

出演:
Rory Kinnear (Macbeth)
Anne-Marie Duff (Lady Macbeth)
Stephen Boxer (Duncan)
Kevin Harvey (Banquo)
Parts Thakerar (Malcolm)
Patrick O'Kane (Macduff)
Trevor Fox (Porter)
Rakhee Sharma (Fleance)
Penny Layden (Ross)

☆ / 5

う〜ん、とうならざるを得ない公演だった。開演する前にステージを見た時は、黒々とした陰鬱さをかもし出す、ナショナルでなければ見られない大変大がかりで豪華なセットで、どういう上演となるかワクワク!でも、30分も経たないうちにコクリコクリ・・・。私の英語の聞き取りの問題や体調不良とかまだ残っている時差ボケなどあるにしても、目が覚めている時も感情移入出来ない。『マクベス』って、とても分かりやすい、スピーディーな劇で、日本でもイギリスの上演でも好き嫌いはあってもそれほど退屈した経験はないと思うけど、今回はほとんど退屈しっぱなしだった。

帰ってから何が私にとってしっくりこないのかずっと考えていたのだが、主な原因はヒエラルキーが感じられないこと。この公演では、中世スコットランドはおろか、歴史的文脈を完全に取り除いて現代服での上演にしているが、例えば中近東とか、アフリカの紛争国と言った文脈を示唆するでもなく、どこかのギャングの血なまぐさい縄張り争いのような感じにしている。しかし、セットは、地獄の中か光の射さない密林の奥などのような漆黒で、マフィアの抗争ではなく、やはり内乱だ・・・。ヒエラルキーが感じられないと言うことは、まず衣装の違いがほとんど無い。王だけ、赤いスーツを着ているが、他の人はモノトーンの粗末な衣装。レディー・マクベスは派手な服だが、安いバーのマダムみたいに見る。言葉やジェスチャーも、王や王妃と廷臣達という様式美は一切ない。ナショナルやグローブ座のような大きなステージでは、プロセッションとなった動きや大きな儀礼的動作、それに相応しい様式美を感じさせる台詞の発声等々が劇の雰囲気を高め、私をステージに入り込ませてくれるのだが、そういうものが一切意図的に排除されている。それならそれで、その欠如を埋め合わせるような他の点が面白いかというと、そういう要素は発見できなかった。

面白いというか、凄いと思ったのはセット。巨大な弓なりになった漆黒の橋が観客の方に向けて黒い花道のように架けてあり、そこを使って役者が動き回る時は印象的。でもその他のところでは、ステージを衝立でチマチマ区切って部屋を作って使っているのはあまり感心しなかった。但、オリヴィエがあまりに大きいので、こうして区切るのはやむを得ないのかもしれない。

主役の2人の演技に不満はないが、そもそも上演のコンセプトが納得出来ないままなので、どういう演技が良いのか悪いのかも分からないまま終わってしまった。

とにかく飽きてしまって、居眠りやらぼんやりしてたので、あまり何の印象も残ってない。つまらなくても、もっとよく考えて見てれれば良かったとちょっと後悔している。

2018/03/08

【美術展】"Reflections: Van Eyck & the Pre-Raphaelites" National Gallery

"Reflections: Van Eyck & the Pre-Raphaelites"  (National Gallery, London)

3月7日の午後、ロンドンのナショナル・ギャラリーで開かれている標記の特別展をみた。15世紀のネーデルランドの画家ヤン・ファン=アイクの絵、"The Arnolfini Portrait"(アルノルフィーニ夫妻の肖像、1434年)がラファエル前派の画家達に与えた大きな影響について、同じ展覧会でそれらの絵を並べることで実際に体感してもらおうという試み。「アルノルフィーニ夫妻の肖像」と聞いても覚えがなかったが、実際に絵を見ると、これは西洋絵画に少しでも関心がある人は、いや恐らくほとんどない人でも、知っている有名な絵だと分かった。

ナショナル・ギャラリーはこの絵を1842年に取得して今に至っているそうで、ラファエル前派の若い、まだほとんど10代の、画家達が修行していた頃、当時は今と違い同じ建物内にあったロイヤル・アカデミー・オヴ・アーツに通う傍ら、ナショナル・ギャラリーに来てはこの絵を繰り返し見ていたのは確実だそうだ。当時のナショナル・ギャラリーの古い絵はイタリア・ルネッサンスの絵が大半で、ネーデルランドの絵はこれくらいだったらしく、それまでの殻を破ろうとしていたラファエル前派の画家達を著しく刺激した1枚となったらしい。私は1枚1枚の絵を見ているばかりで、あまり比較することを意識しなかったので、説明書きに書かれている類似点を少し憶えているくらいだが、特に強調されているのは鏡の使用だ。ファン・アイクの絵には凸面鏡が出てくるのだが、これがラファエル前派の多くの絵にも描かれていて、色々とシンボリックな使い方をされているらしい。この展覧会のタイトル自体、鏡に映る「反映」のことだ。

「アルノルフィーニ夫妻の肖像」の精密で非常にくっきりした筆致と色彩は、この展覧会の一番の目玉作品であるジョン・エヴァレット=ミレーの「マリアーナ」にも見られる。ミレーのこの絵を見られただけでも展覧会の入場料を払った価値はあった。彼の名作「オフィーリア」で見られるような精密で華やかな筆致がたまらない。

ネーデルランドの絵画が与えた影響としては、豊かな中産階級の人々の家の中の様子を描くこととか、自然描写なんかがあったかと思うが、展覧会のセッティングや解説は絵画に現れる鏡の事を強調しすぎて、その他の面が霞んでしまっている気がしたが、それは「アルノルフィーニ夫妻の肖像」を中心とした小さな展覧会だから仕方ないのかな、と思った。もう少し広げて、ネーデルランドの絵画全体とラファエル前派を取り上げてくれるともっと面白いかも知れない。とは言え、楽しい時間が過ごせた。

2018/03/05

"The York Realist" (Donmar Warehouse, 3018.3.3)

"The York Realist"

Donmar Warehouse & Sheffield Theatres 公演
観劇日:2018.3.3 14:30-16:30 (incl. a 15 min. interval)
劇場:Donmar Warehouse

演出:Robert Hastie
脚本:Peter Gill
デザイン:Peter McKintosh
照明:Paul Pyant
音響:Emma Laxton
音楽:Richard Taylor

出演:
Ben Batt (George, a farmer)
Jonathan Bailey (John, an assistant director)
Lesley Nicol (George's mother)
Lucy Black (Barbara, a local young woman)
Matthew Wilson (Aruther)
Katie West (Doreen, George's ellder sister)
Brian Fletcher (Jack)

☆☆☆☆ / 5

3月1日、雪のロンドンに着いた。もの凄く寒く、睡眠不足の体にこたえる。空港から電車と地下鉄を乗り継いで宿舎の最寄り駅へ。駅から宿舎までの道、雪の中で重いスーツケースを引っ張るのが大変だった。この公演を見た3日の午後も、雪やみぞれが降る寒い午後だった。

さて、この劇は2001年に初演され好評を博した作品のようだ。作家 Peter Gill(ピーター・ギル)は現代のイギリス演劇を代表する劇作家の一人らしいが、私は多分彼の作品を始めて見た。オーソドックスな台詞劇。台詞の微妙な間合いを楽しむべきところがかなりあって、俳優の技量が試されるが、主演の二人(Ben Batt, Jonathan Bailey)は表情豊かな芸達者だった。

場面設定は、1960年代のヨーク市近くの農村。すべてのシーンが農夫Benが彼の母親と住む'cottage'の居間で展開する。cottageとはイギリスでは通例田舎の小さめの民家で、石造りやモルタル作り。大抵かなり古い家を指すようだ(小さな田舎の家でも、新築で現代風の組み立て住宅などはcottageとは言わないだろう)。Georgeはヨーク市の街頭の山車の上で繰り広げられるヨーク・ミステリー・プレイのリハーサルに参加していたが、回りの人々にあまり馴染めずに来なくなってしまったようだ。それで、彼をまたリハーサルに戻るよう誘おうとして、ロンドンから来た助監督のJohnが説得にやって来る。彼らはゲイで、互いに好意を抱いている。GeorgeはJohnに説得されて劇の上演に参加するようになり、ふたりはつきあい始める。インターバル後の後半では、劇の上演が終わり、ふたりは一旦はロンドンとヨークシャーの田舎という地理的な隔たりを克服できずに分かれたことが分かる。しかし、ある時Johnが再びBenのコテージにやって来て、Georgeをロンドンに喚んで二人の新しい生活を築こうと提案する。

中世末にヨークの市民達によって始められ、今も一般の人々の参加で上演が続くヨーク・ミステリー・プレイを背景とした劇なので、私にとって退屈なわけがないが、今回の上演は大変良いリビューを得ているようだ。2人の若者達が徐々にお互いに心を開いていく時の台詞のやり取りが、なかなか異性間の恋愛では見られない繊細さ。Ben BattとJonathan Baileyの演技が上手で見応えがあるシーンだった。イングランドでは1967年まで同性間のセックスは非合法であり、実際にそれで逮捕されることはほぼなかったにしても、公には男性間の恋愛は許されない時代。まして田舎の農村では家族にも隠さなければならない。人が良くて息子の世話に余念が無い母や近くに住む姉も、Georgeが地元の女性Barbaraと結婚してくれることを願っている。周囲の期待もあり、Benと結婚したいと思っているらしいBarbaraもとても哀れ。更に、GeorgeとJohnの間には色々な溝が横たわる。ヨークシャーとロンドンという地理的な違いに加え、都会のインテリと田舎の農民という階級と文化的背景の差もある。そもそもGeorgeがミステリー・プレイのリハーサルから足が遠のいた理由のひとつは、ヨークという北部の都会の人々に馴染めなかったからのようだ。ロンドンに移住してきてくれと説得するJohnに対して、Georgeは(ヨークシャーの農夫の)自分がロンドンに行って一体何をするんだ?、と聞き返す。彼は一度Johnを訪ねてロンドンに行っていて、その時の経験を思い起こす。確かにロンドンは素敵なところだ、美術館や劇場も気に入った、でもそこに住んでも自分がやることはない、と。

ひとつの場所(cottageの居間)を使って展開する家族劇と言える作品で、ワーキングクラスの人々が主な登場人物であり、時代も60年代となると、ロンドンの下町と北部の農村という違いはあっても、雰囲気としてオズボーンとかウェスカーの作品と共通するものがあって、面白かった。ちょっと「懐かしい」、良い意味での「古めかしさ」が漂う劇。

タイトルのThe York Realistだが、元々はヨーク・ミステリー・プレイの受難劇の部分を書いた名前の分からない作者に対し、学者達によって与えられた呼び名だ。聖書に描かれた場面をリアリティーあふれる劇に仕上げ、しかも14、15世紀のヨークシャーの現実を随所に盛り込み、当時の観客にとって、現代的で「リアル」な作品に仕上げている。その中世の演劇上演と、現代のゲイの若者達が置かれたリアリティーが重なり合うところが、二重に「リアリスト」だとPeter Gillは言いたいのかなと思った。

この劇の切符、ほとんどすべて売り切れていて、残っていたやや安い席を買ったのだが、視界が柱でさえぎられ、また舞台の真横にある席のため、舞台の後の方と背景が全く見えなかったのは非常に残念だった。もっと早くからチケットを確保していれば、と後悔した。疲労や腹痛、時差ボケで体調はひどかったが、それでも眠りもせず、大変満足できた!