2017/12/31

『アテネのタイモン』(埼玉芸術劇場、2017.12.28)

 『アテネのタイモン』

劇場:埼玉芸術劇場
観劇日:2017年12月28日 13: 30—16: 15

☆☆☆☆ / 5

12月28日、久しぶりに埼玉芸術劇場へでかけ、蜷川亡き後の初めてのシェイクスピア・シリーズの上演である『アテネのタイモン』を見た。年の暮れでバタバタしてあまり時間がないので、簡単に感想をメモしておく。

まずは非常に楽しめたと言っておきたい。始めて見たし、脚本も読んでおらず、粗筋さえ知らなかったのが、こんなに面白い劇とは思わなかった!イギリスののロイヤル・シェイクスピアやナショナル・シアターで、ラッセル=ビールやペニントンが主演した公演を見た人の話では、善人過ぎるあまり見境なく他人の為に浪費してしまう主人公の、同情さえ感じる哀れな結末、という印象だったそうだが、吉田鋼太郎演じるタイモンは浪費家の自業自得と言える破滅、という印象を与えたし、意図的にそういう風に演じていると感じた。

人生の意味を知らない魂が、様々な誘惑や偽りの友人に囲まれてひとときの栄華を誇るが、やがて当然の報いがやってきて、苦難や裏切りを経て、死へと向かう。これは、ユニバーサルな魂の遍歴の物語とも言え、正に中世道徳劇のテンプレートを踏襲していて、非常に分かりやすい。現代の経済バブル、そしてその破綻と重なるところは、ルーシー・プレブルの『エンロン』を思いだした。

最後の場面が典型的だが、座長が前へ前へとしゃしゃり出て劇全体のバランスが壊れているように見える。これが主役と演出家が同一人物の公演の限界か、あるいは吉田さんの問題か?台詞は概して大声で怒鳴りすぎの場面が多いが、これもまた、演出家が客席で指揮をしていないことから来る欠点では?柿澤勇人の武将は精一杯の力演だったが、人生を賭けて怨念を晴らすこの重要な将軍の役には余りに若いのではないかと思った。横田さんがやったら、もっと説得力があっただろうなあ。とは言え、最初に書いたように、充分楽しめた公演だった。

分かりやすい、劇画やアニメ風とさえ言えるのが蜷川幸雄のビジュアル面の舞台作りだと思うが、美術や音楽は、蜷川・タッチをやや押さえつつ踏襲している感じがした。特に新奇な点は感じなかったが、効果的だったと思う。

吉田さん、次は『ヘンリー5世』ということだが、1年以上先。人気者過ぎてスケジュールが一杯なんだろうけど、年に1回しかやらないのが本当に残念。2回やって欲しい!

2017/12/23

Christopher Canon, ‘From Literacy to Literature: England 1300-1400’ (OUP, 2016) の感想

Christopher Canon (Bloomberg Distinguished Professor of English and Classics at Johns Hopkins University) の ‘From Literacy to Literature: England 1300-1400’ (OUP, Dec. 2016) をしばらく前から少しずつ読んでいて、やっと半分弱までたどり着いた。最後まで読み終えるどうか分からないので、ここらで感想をメモ。英米で出た本はどれも私の知的レベルを遙かに超えているんだけど、この本は特に素晴らしくて、私には高度すぎる(^_^)。分からない部分も多いが参考になることも色々ある。

この本の主眼は、中世末期のラテン語教育、特にグラマースクールでの初歩的な語学教育やそれに相当する個人教授などが、14世紀の主な英文学の詩人たち(チョーサー、ラングランド、ガワー等)に大きな影響を与えているということの証明だ。その前提として、1〜3章では詳しく中世イングランドのラテン語教育について、多くの歴史家の論文や一次資料を引きながら解説してくれる(すべてのラテン語やフランス語の引用には、単語も含めて現代英語の翻訳がつき、また中英語の引用にも、訳や語注がついていて、予備知識の無い者でも読めるようになっている)。この部分は大変具体的に述べられていて、大変面白かった。中世のラテン語教育はもちろん、そもそもラテン語について初歩的なことしか知らない私には、かなり猫に小判ではあるが、ラテン語がかなり出来る方は、私以上に良く理解出来て、面白いだろうと想像する。特に印象に残ったのは、13世紀頃までの初歩ラテン語教育が、主にラテン語だけで教えられていたらしいことだ。現代の英語教育の語彙で言うと、所謂 direct method であり、grammar-translation method では無かったようだ。当時のラテン語の初等文法の教科書は易しいラテン語で書かれていて、所々英語は使われているが、ラテン語の屈折形などを説明するための例として使用されている(これは、今の英米の初頭ラテン語の本でも同じで、例えば、そもそも文法の概念を知らない生徒・学生に「主格」とか「属格」を説明するために、’I'、’my’ の例を挙げてあったりする)。

さて、ラテン語教育がどのように中英語文学に影響を与えているかの論議は、かなり難しいし、一部納得しづらい部分もあるが、刺激的な議論であることは間違いない。基本的に、今昔を問わず、ラテン語であろうと他の言語であろうと、多くの語学教育は先生が質問して生徒が答えることをベースにした対話(ダイアローグ)で成り立っている(Aelfricの ‘Colloquy’ が想い出される)。そのような口頭でのやり取りのモデルが、チョーサー作品などで、それぞれの詩人によって様々な変奏を加えられつつも、広く使われているとCanonは論じている。確かに、中世の、つまり写本をベースとした、文学は、口頭での読者/聴衆とのやり取りを前提として書かれ、作者は度々読者に直接呼びかける。このようなスタイルは、grammar school の教授法とどの程度関連を持っているのだろうか。

Canonが解説してくれるように、13世紀頃までのラテン語教育は、ラテン語文法をやさしいラテン語で教えるという direct method 中心で教えられていたのだろう。それが15世紀が終わる頃には、文法を英語で説明し、またラテン語の文章を英語に訳すという、grammar-translation method へと変わっていたことと思う。そうすると、チョーサーや彼の同時代の大詩人達が詩作に手を染めた頃は、教育方法の過渡期と言えるだろう。ラテン語だけの教室から、徐々に英語を使うようになる中で、教材として読んだラテン語の詩が彼らがラテン語の詩を書くのではなく、英語の詩の創作を始めるにあたり、先生とのやり取りや英訳の手続きに多くの影響を受けたとCanonは考えているようだ(まだ読んでいる途中ですけど)。

Canonの議論は大変精緻であるが、しかし、ラテン語が充分に分からないこともあり、私には難しすぎる部分が多い。

タイトルにもあるように、精緻な文学論に加えて、私が読んだ前半では、英語、ラテン語、フランス語等での literacy の問題、これら3言語の関係、中世の語学教育、マカロニックな文章など、英語史研究でも関心を集める諸点についてもかなり議論されている。中英語文学の研究者だけで無く、英語史研究者や中世ラテン語文学の研究者にも刺激的な本だと思う。

2017/12/17

2018年のヨーク・ミステリー・プレイは9月の3日間上演

2018年のヨーク・ミステリー・プレイは9月の9日(日曜)、週半ばの12日か13日、16日(日曜)の3日間行われるそうだ。今年は、特設ステージ等での上演ではなく、街中を巡回し、幾つかの場所で停止して劇を上演するという中世に行われたのと同じ山車による上演(Waggon Plays)。

この方式で上演されるのは4年に一度だったと思うので、そう簡単に毎年見られるものではない。見に行きたいし、その価値は充分あると思うが、私は今年、既にそれ以外の時にイギリスに行く予定があり、無理。残念!こうした上演は研究対象としても重要で、上演を見て学ぶことも色々とある。上演に関しての論文もかなり書かれており、単行本の研究書も出ている。私は、2010年の留学中にヨークの町でワゴン・プレイを通しで見る機会があった。その後、2012年にはヨーク博物館の庭に仮設舞台が設置され、ヨーク劇の短縮版が上演された時にも観賞した。それ以来、中世劇の上演を見ていない。

2010年の上演の観劇記(ブログで3回の投稿に分かれているので、続きは記事の左下の「次の投稿」をクリックして下さい。)

2012年の観劇記(ブログで3回の投稿に別れているので、続きは記事の左下の「次の投稿」をクリックして下さい。)

BBC Radio 4 の文化番組、'In Our Time'、「トマス・ベケット」

英語の番組で恐縮ですが、BBC Radio 4 の文化番組、'In Our Time'、先週木曜日のトピックは トマス・ベケットだった。番組はウェッブから聞いたりダウンロードできる。司会のMelvyn Braggとゲストの3人の学者がヘンリー2世との関係、そして彼の暗殺の経緯などを40分にわたって議論した。逆に死後の彼のカルトの発展については、やや駆け足という感じ。彼の死について、3人の意見が幾らか異なる点が面白かった。ベケットは死後、聖人として崇められるような死を望み、謂わばドラマチックな暗殺を演出したのではないか、と Laura Ashe は論じる。しかし、そういう解釈は、Danica Summerlin が言うように、彼の死を深読みしすぎなのだろうか。それにしても、ベケットは数少ないイングランドの「国産」セイントで、しかも考えてみると聖者というのはアングロ・サクソン時代など、古代・中世前半までに生まれ、彼の場合のように12世紀以降に聖者伝説が作られるなんて珍しいんですねえ。

3人の学者のひとり、Michael Stauntonはベケットに関する本を2冊出している。このページの下の方にはリーディング・リストがついていて、その中に彼の本が入っている。'The Lives of Thomas Becket' (2001) をいくらか読んだことがある。大学の教科書として考えられた本だと思うが、英訳で一次資料の抜粋が読めて、なかなか面白く、関心のある方にはお勧めしたい。

2017/12/14

ラテン語は難しい!

オックスフォード大学出版局から、ブリテン島で使われた中世ラテン語の辞書、DMLBS (The Dictionary of Medieval Latin from British Sources)、の新版が来年出版されるという発表があった。本格的なラテン語研究者、中世史学者、中世の多言語文学を研究している方などには、大きな朗報だろう。

それで改めてつくづく思うんだけど、私のようなぼんくらにはラテン語は本当に越えられない山だ。古英語、中英語、古仏語など大学院で勉強し、ドイツ語と古ノルド語もちょっと初等文法だけかじった。どれも、現実に使ったり、研究に利用したりするのに、沢山時間をかければ恐らく何とかなる、という感触はあった。但、専門の中英語以外は普段読む機会がほとんどないので、やがて忘れてしまったけど。でもラテン語は大学院で習い、その後も折にふれ、時間をかけてリーダーなどを読み、語学学校や留学先の大学のクラスに出た事も何度もあるが、それでも基本文法プラスアルファで足踏みである。ラテン語訳聖書など、ごく簡単なものなら翻訳がなくても何とか自分で読めると思うが、到底研究の役に立たないし、短い文章を楽しみで読めるレベルにも達しない。いつまで経っても答の分からないパズルと取り組んでいる感じ。それにも関わらずラテン語学習にはかなり時間を費やしてきた。その時間を自分の専門分野に使っていたら、結構研究できて、何本も論文が書けたと思う。但、中英語文学を勉強するためにも、多少ラテン語の引用とか読めないと困るんだよねえ・・・。以前、研究会の発表の後、偉い先生に、「ラテン語の引用の仕方がおかしい」と注意されたこともある。時々は勉強しなきゃいけないとは思うんだけど、それでなくても強い劣等感を刺激されて、自分の頭の悪さを見せつけられているようで楽しくない。

留学をする前に見たブリストル大学の中世研究センターのウェブページでは、中世ヨーロッパの歴史や文学を研究する大学院生は全員ラテン語が出来なくては駄目です、という意味の事が書いてあった。確かにそう言われればそうなんだけど。しかしそう言われると「あなたは駄目!」と端から拒否されるということになり、 「じゃあ、やめます」と言わざるを得ない(ブリストルは立派な中世劇の先生がいたので、受けようかかなり迷ったんだけど)。

そもそも記憶力が極端に悪い私は、文法を憶えきってなくて、しょっちゅう活用表を参照せねばならず、憶えたと思っても次読む時には忘れている。ラテン語を勉強していると、旧勤務校で教えた、とても真面目に頑張ってるのに思うように英語力が伸びない多くの学生達の事を想い出す。運動能力と同じで、頭の働きにも大きな個人差があるんだが、外から見ただけでは身体能力ほどには分からないんだよね。というわけで、いくらやっても同じ間違いを犯す学生達に非常に同情してしまうのです。

2017/12/13

NHK BSスペシャル「戦争を知らない子供達へ」

NHK BS1で「戦争を知らない子供達へ」の再放送を視聴した。沖縄戦でゲリラ兵としてかり出された14~16歳の10代の少年達からなる「御郷隊」という少年ゲリラ部隊。1780名が招集され、約半数が死亡したそうだ(ウィキペディアによる)。軍部の違法な招集方法、同じ村で育った仲間の死を身近に見続けるという悲惨な体験、そして精神をむしばまれ、精神病院に監禁された人もいた。アメリカ軍が占領した自分の村に、上官の命令で火を放った少年もいた。少年達が立てこもった恩納岳の野戦病院では、歩けず足手まといになる(少年も含めての)負傷兵を軍医が撃ち殺した。ある少年兵は、共に戦った友人が歩けなくなった途端に撃ち殺された。彼はこのことを遺族に伝えられず今に至り、この番組の撮影を契機に始めて友人の兄弟に会って、死の経緯を伝えることとなった。苦しみ続けた戦後の現実を本人達の証言と、一部はアニメによる再現で構成している。

これは、イスラム国やアルカイダが今やっていることと同じ。国ごと日本はアルカイダだった。

その沖縄で、今日も軍事ヘリコプターの部品(窓)が小学校の校庭に落下し、一部は児童の体にも当たった。日本では沖縄だけが敵の上陸を経験し、その地では基地が集中して、戦争は完全に終わってない。

御郷隊(鉄血勤皇隊)についてのウィキペディアの解説

ゲスト講師をやりました。

先週、年2回やらせていただいている、ある友人の講義科目のゲスト講師をやった。友人には感謝、感謝!今回も昨年のこの時期にやったのと同様、「写本から印刷本へ」というタイトルで、古代の本の始まりから、中世の写本、そしてグーテンベルグやカクストンによる活版印刷の始まりまでを、言葉の歴史と絡めて話した。

前回は、時間が足りず、急遽いくらか端折ったりしつつ話したので、今回は思い切って内容をカットし、また前回見せた短いビデオも今回は使わなかった。そうしたら、今度は少し時間が余った。1回だけの講演や講義の時間配分って難しい。まあでも、モニターやパソコンの準備などもあるし、大体許容範囲だった。そのパソコンだが、自分で持って行ったのだけど、モニターに繋げるためのHDMIとVGAのコネクターを忘れたことに電車に乗ってから気づいて大汗。電車を降りて、駅前のビルにある大きめの電気店に行って捜してみたが、家電の店で、パソコン用小物なんてほとんど売ってなかった。でも、学校に行ってみたら(多分あるとは思っていたけど)事務局にあって、貸して貰った。一安心。

昨日はいつもに増して、一生懸命、熱を込めて話したつもりだったが、15分くらい経ったときにふと教室をじっと見渡すと、7割ぐらいの学生が寝ていた・・・。まあ、学生の専門とはかなり外れているし、自分の講義の魅力がないことも一因だろうし、もう諦めているから気にならない。60歳代半ばの老人が教え方を大きく変えようとしても、もう遅すぎる。

終わった後しばらく友人の研究室で茶飲み話を出来て、楽しい時が過ごせた。話は半分以上、自分達の病気や老化の事とか、消息の途絶えた方のことなど、本当にお爺さん同士のおしゃべり(^_^)。体力のない私は、講義の時は精一杯頑張ったけど、翌日は疲れがどっと押し寄せた。

親友と言える唯一の友人は17年前に亡くなり、一番尊敬していた友人は今年正月に亡くなった。ほとんど友人のいない私にとって、割合気軽に話せる友は、いつもゲスト講師に招いてくれるこの友人だけになってしまった。大事にしよう。

2017/12/05

久しぶりの学会発表

先週末、本当に久しぶりに(最後にやったのは2011年の同じ学会)学会発表をしたのですが、評判良かったのは、ハンドアウトの表紙のカラーコピーの絵でした。感想を言ってくれた何人もの方から、「きれいだったね、あの絵!」というようなコメントを頂戴しました(笑)。80枚カラー・コピーしたので結構な出費でしたが、その甲斐がありました。勿論中味が一番大切ですが、プレゼンテーションも大事です。ハンドアウトも原稿も、司会してくださった先生が細かく目を通して色々なサジェスチョンを下さったので、大分良くなったと思うので、大変感謝しています!「分かりやすかった」という感想もいただきましたが、これは司会の先生によるチェックのおかげです。自分としては、原稿を読んでは削ったり、一度削ったのを戻したりという作業を何度も繰り返して発表時間に合わせるのにとても苦労したので、司会の先生が「時間ぴったりでしたね」とおっしゃってくださったのが、一番嬉しかったです。

今回、しばらくぶりの学会発表だったので、かなり緊張しました。内容以外の反省事項としては、息せき切った感じに聞こえたのではないかと思います。次にやるときはもう少しリラックスしてやりたいと思いました。内容に関しては、好意的なコメントをいくらかいただきました。しかし、これを真に受けてはいけません。大体において、学会発表では、どなたも発表者を元気づけるようなコメントを下さるのが普通です。本当は率直で厳しい意見が欲しいのですが、発表者本人にはなかなか届きません。

ちなみに、私は、折角発表したのだから、コメントなど欲しいと思うので、他の発表者にも直接コメントを言ったり、メールで書いて送ったりすることはしばしばやります。勿論私は親しくもない方に厳しい事は言いません。でも、見当外れのコメントを差し上げて、ありがた迷惑で嫌がられることもあるみたいです(^_^)。発表者によっては、発表はしたいけど、色々言われたくない、という方もおられるでしょう。しかし、何か言ってくださると言うことは、発表に関心を持って下さったという証拠ですから、私自身はどんなコメントでも歓迎です。

2017/11/21

中世劇における俳優の「待機」

今日、毎月通っている大学病院に行った。待合室で待っていると、「xxさん、3番診察室の前でお待ち下さい」と呼ばれる。診察室の前は、更に壁で区切ってあり、所々、その壁に通路がある。そう呼ばれると、診察室の前の第2待合室というか、廊下程度の空間でまたしばらく待機していると、診察室のドアの向こうから医者が「xxさん、お入り下さい」と呼んで、本番の診察が始まる。

今日そんなことがあって、その後、中世劇の俳優の「待機」の事を考えている。イングランドの中世劇には、私が知る限り、観客から隠された舞台裏の空間があったという記述がないようだ。シェイクスピア時代の商業劇場や、フランダースに残る中世末期/近代初期の仮設舞台の絵など(例えば息子のブリューゲルの絵)には、舞台裏の空間がある。しかし、イングランドの中世劇ではそれがあったと証明されていないはずだ。となると、役者は自分の出番が来る前、どこに居たのだろうか。どこが彼らの「待合室」だったのだろう?観客の視野の中、上演エリアの真ん中や縁に座るなどしていたのか、それとも一定の隔たった、上演エリアとは別の、おそらく観客の視野の外にある待機場所に居たのか。あるいは、典礼劇でうかがえるように、それぞれの役者の定位置というか、座席みたいなものが最初からしつらえられていて、そこで診察前の私みたいに「待機」していたのだろうか。

英語の中世劇やチューダー・インタールードでは、わずかではあるが、「待機」を示す言葉がト書きにある。Nタウン・サイクルの「エルサレム入場」の劇では、キリストがロバに乗って進む間、使徒のペテロとヨハネは「静かに待っている」というト書きがある。これはおそらく観客の目の前での「待機」だろう。私は今まで勉強してこなかったのが迂闊であったが、コーンウォール語の劇では、俳優の待機を示す表現がかなりあるようだ。そうした場合、役者は登場の準備をして待機していたり、あるいは他の俳優がアクションや台詞を終えるのを待っている間待機していたりするよう指示があるそうだ。いずれにしても、おそらく上演エリアの中か周辺部の、観客の視野に入る場所で静かに自分の出番を待っていたのだろうと推測される。中世劇の多くがそうであったと思うが、オープンな場所で、舞台裏のない上演における入場や退場の意味にも関わる気になる問題だ。

こうした中世劇における待機の場所や意味については、これから考えていきたい。その為には翻訳ででもコーンウォール語(ケルト語のひとつ)の劇も読まないといけないようだ。ご関心のある方は、最近何度も言及しているバターワースの本の第9章('Timing and Waiting')に詳しい議論があるので、お読み下さい。

2017/11/17

初期イギリス演劇におけるプロンプターの存在

先日から読んでいるバターワースの本で、初期イギリス演劇におけるプロンプターの存在を確認したので、メモしておこう。('Staging Conventions in Medieval English Drama' pp. 136-37)

1602年にRichard Carewが出版した'Survey of Cornwall' という本によると、コーンウォールの野外円形劇場(amphitheatre)で上演されたコーンウォール語の奇跡劇(miracle play)においては、俳優は台詞を覚えてなかったそうだ。その代わり、 'the Ordinary' と呼ばれている役割の人物が、手に本を持って俳優達の後ろで動き回り、彼らに小声で台詞を言ってまわったらしい('telleth them softly what they must pronounce aloud')。中世劇と言うには遅すぎる例ではあるが、ステージ上にいて台詞を教える演出家、あるいはプロンプター、の存在がはっきり分かる文献だ。演劇史の本に必ずと行って良いほど出てくるフーケの絵「聖アポロニアの殉教」もこうした場面を描いているのだろうか。

この例は今で言うドラマティック・リーディングに近いものかもしれない。しかし、中世や近代初期の記録には、台詞を暗記することの重要性を示すものもたくさんあるので、台詞を覚えずに演技するのが普通だったとは思えない。プロンプターに当たる人物がかなり使われたにしても、主に台詞を忘れた俳優を助けるための役割であったのではないだろうか。

フィリップ・バターワースは1580年代の二つの書物の例を挙げ、この頃、俳優に台詞を教える役割の人物が 'monitor' とか、あるいは既に 'prompter' と呼ばれていたことを示している。そのひとつ: 'He [a monitor] that telleth the players their part when they are out, and haue forgotten: the prompter, or booke holder' (Iohn Higgins's translation of Hadrianus Junius's 'The Nomenclator, or or Remembrances of Adrianus Iunius' [1585])。この例では、プロンプターは、やはり台詞を忘れた俳優を助ける仕事だ。

2017/11/15

イングランドの聖史劇のト書き

中世の俳優の演技の事を考えるためには、劇の現存する脚本についているト書きが重要である。しかし、20世紀以降の、リアリズムの劇と違い、当時の劇の台本にはト書きはあまり書き込まれていない。そもそも、残存する比較的完全に近い聖史劇の台本は、上演を準備するために筆写されたのではなく、台詞が正しく言われ、上演の順番が正しいかなどをチェックするための台本であったり(ヨーク・サイクル)、あるいは上演が終了したずっと後の時代に、古い物を愛好する人たち(好古家、antiquarians)が残したりしたもので(チェスター・サイクル)、俳優や演出家がそれぞれ持参して、台詞を覚えたり演出をしたりするために使う現代の脚本とは大変異なった性質のものだ。 イングランドの聖史劇のト書きのうち、4大サイクルの中では、Nタウン・サイクルの中の受難劇(1と2)だけがかなり詳しいト書きを持っているのが興味深い。人物の動き、衣装、更に一部は小道具類にまで触れ、英語で書かれている。他のヨーク、タウンリー、チェスター・サイクルでは、ト書きは少なく、在っても大変短い。Nタウンも、受難劇以外は、他のサイクル同様、ト書きは少なく、しかも短くて、またラテン語で書かれている。Nタウン写本は、複数の劇を組み合わせてサイクル(天地創造から最後の審判まで)をまとめ上げた混成(ハイブリッド)写本。このままの形で上演されたかは疑わしい。従って、受難劇はかっては独立して存在していたはずだ。この受難劇は、山車のステージでの上演を想定されておらず、広い舞台とかなり多数の出演者を使った上演である。Nタウン・サイクルの受難劇が広い舞台を使うと言うことは、出演者の舞台上の動きが重要になり、ト書きも詳しい必要が出てくるということだと思う。 中世の劇でト書きが比較的詳しいのは、ラテン語の典礼劇である。典礼劇は、典礼の延長線上に発展してきた演劇で、その多くは、観衆に見せることを前提としておらず、現代的な「演劇」とは本質的に異なる「演劇的儀式」と言っても良いだろう。従って、残っている脚本は、そうした儀式を執り行う手引きと考えても良い。台詞だけではなく、儀式の参列者としての上演者達の動きも比較的細かく指定するのは自然な事だったのかもしれない。 バターワース先生もト書きに細かい注意を払っているが、私も今後、一層ト書きに注意して読んでいきたい。

2017/11/14

中世演劇における俳優の演技

 前回に続いてバターワースの本を読んでのノート。

ハムレットは、3幕2場で、「動きを台詞に合わせ、台詞を動きに合わせよ」と旅回りの役者達に演技指導をする。そして、演技をやり過ぎるのが最悪であり、演技の神髄は自然に鏡を掲げて映す事だと言う。これが商業劇場が始まった頃の、理想的な演技の姿かもしれない。バターワースは第5章で中世の俳優の演技について得られる限りの資料を駆使して論じているが、それでもよく分からないと言えそうだ。キケロなどローマ時代の弁論術などを中世の人々も受け継いだと想定され、基本的に、アクションよりも台詞が大事だったと考えられる。

少なくとも、中世の俳優はスタニスラフスキーの演技論に代表されるような、「演ずる役になりきる」ことや、自分自身の生涯から演じる役に似た経験を探し出して役に没頭するといったナチュラリスティックな演技は求められていない。ト書きで繰り返し使われる言葉は、 ‘as if’, ‘as though’, あるいはラテン語の ‘quasi’ というような語句、つまり「あたかも〜であるかのように」演じるということ。それは、観客がその俳優が誰を演じているかをはっきり認識でき、俳優はその役柄が観客に良く理解出来れば良いということだろう。そもそも、聖史劇や道徳劇では、神や悪魔を演じたり、抽象的な「良心」とか「虚栄」などを演じるのであるから、ある特定のジョンさんとか、山田さんを演じるように役に没頭することは出来ないし、むしろそうするのは不適切であることも多いだろう。

演技に関する資料の乏しい中、中世で最も詳しい演技指導と言えるト書きは『アダム劇』のそれだろう。そのト書きも、台詞をコントロールし、アクションは台詞の合わせるようにと教える。そして詩で書かれた台詞であるから、一音節たりとも勝手に付け加えたり、除いたりして発音しないようにと命じる。台詞をすべてはっきりと発音し、また書かれたとおりに(つまりアドリブなしで間違いをしないように?)言いなさい、と指示している。但し、12世紀のアングロ・ノルマンの劇がその後の英語の劇に影響があったとは言えないだろう。しかし、台詞の正確な発話を重視する考えはローマ時代以後、ルネサンス劇まで共通するようだ。

2017/11/13

中世イギリス演劇のリハーサル(フィリップ・バターワースの近著から)

Philip Butterworthの ’Staging Conventions in Medieval English Drama’ (Cambridge UP, 2014) を読んでいるところだが、私にとってはもの凄く面白い本だ。ずっと読もうと思っていたのに、今まで先延ばしにしてきたのは勿体なかった。第三章の ‘Rehearsing Memorising and Cueing’ から、中世劇のリハーサルについて、面白いと思ったことをかいつまんで紹介したい。

ハムレットによる旅劇団の人達への演技指導や『真夏の夜の夢』のリハーサルの様子で、あのような「リハーサル」が当時の演劇で普通に行われたかのように思いがちだ。確かにシェイクスピアの頃には、ああいうリハーサルも多かったのかも知れない。しかし、少なくともイングランドの中世劇に関しては「フィジカルな演技」を伴うリハーサルの記録はないようだ。但、役者が集まってリハーサルをした記録はかなりあるそうだ。その場合、台詞を正しく記憶していることのチェック、そして恐らく、キュー通りに正しい順番で台詞を言えるかのチェックが目的らしい。現代の俳優と違い、書きぬき台本で自分の台詞のみを覚えるから、他の人の台詞はキュー(cue)を除いて殆ど知らないので、順番の確認は大切だった。台詞を記憶することへの関心の高さと、ジェスチャーなどのアクションに関する記述がないことから、イングランドの中世劇の多くは、役者が一歩前に出て台詞を言う、ということで進行した可能性が高い(但『アダム劇』のようなナチュラリスティックな演技を求める例外もあるが仏語だし時期も非常に早い)。ちなみに、当時は’reherse’という語がリハーサルの意味でよく使われたようだが、これは主な意味としては'repeat aloud'(声を出して繰り返す)。つまり覚えた台詞を繰り返しただけなのがリハーサルだったのか?

チェスターやコヴェントリーのリハーサルの場所は殆ど個人の私宅で行われた。例外的に、公共のホールや司教の邸宅などで行われた記録はある。しかし、聖史劇が山車の上で行われた町でも、実際の山車を使ったリハーサルの形跡はない。従って、やはり台詞合わせだけが行われ、役者の動きなどは二の次だった可能性が大きい。

リハーサルの回数だが、’first reherse'とか、'second reherse'と言った表現がチェスターの記録にあるそうだ。ということは、リハーサルの回数はその程度ということだろうか。つまり非常に数少ないリハーサルで本番に臨んだということ。基本的に台詞を覚えてきて2回程度の台詞あわせをやっただけで直ぐに本番だったのだろう。リハーサルの少ない歌舞伎の公演を想起させる。今で言うところの「アマチュア」が演じ、祭日のイベントである聖史劇(聖体祭劇)では、それ程演技の質は問われなかったと思うし、毎年同じ聖書の物語をやるわけだから、ベテランも多く、台詞を長年覚えている人もかなりいたと想定できる。

ケント大学のクレア・ライト博士が、「この本は全ての初期(イギリス)演劇研究者、いやすべての演劇専攻学生・研究者の必読本だ!」 とツィッターで書かれていたが、その通りと思った。バターワースは、REED(英国初期演劇資料集)をフル活用し、多くの16世紀、17世紀前半の資料にも当たっており、シェイクスピアなどのルネサンス劇研究者にも有用な本と思う。

2017/10/26

日本におけるイギリス中世劇研究の今

今日自室の本棚を見ていて、篠崎書林の『中世ウェイクフィールド劇集』(1987)が目にとまった。これは石井美樹子、橋本侃、黒川樟枝、松田隆美、米村康明、中道嘉彦という先生方による中世劇の綿密なエディション。彼らはその頃、イギリス中世演劇研究会というグループを作って、活発に活動しておられた。更にその後、このグループと4人の執筆者が重なり、奥田博子、中村哲子先生が加わった『イギリス中世・チューダー朝演劇事典』(慶應義塾大学出版会、1998)も出ている。この頃、即ち、1980,90年代が日本におけるイギリス中世演劇研究が最も盛んな時代だった。その後、宮川朝子先生の博士論文『イギリス中世演劇の変容』(英宝社、2004)も出版された。私もこうした方々に刺激を受けて、自分の研究者人生を出発した。

しかし今はどうだろう。上に名前の挙がっている先生方の多くが引退されたり、現役で、研究面でも大いに活躍されていても研究の中心を他の作家・作品に変えられ、中世劇研究からは離れておられる方が多い。一方、今60歳以上のこれらの先生方に続く世代の研究者は、1,2の例外を別にして、ほとんど出ていない。優秀な若手と目された大学院生も、他の職業を目指して、アカデミズムから去って行った。このままでは、日本のイギリス中世劇研究者は殆どいなくなってしまう。昔のような英語圏の中世劇研究者が日本に10人前後いる時代はこれからは来ないだろうし、それどころか、一人か二人が孤独に研究する時代が続くことになりそうだ。孤立すると、刺激も少なく、研究を客観的に見ることもしづらいのが問題だ。

これは他の近代語の中世劇研究でも似たような状態ではないだろうか。あるいは、中世劇分野では一人しか研究する人が居ない言語もあるだろう。ヨーロッパには、西洋の中世劇研究者が一堂に会する学会があるが、日本でも、言語の境界を超えて、西洋中世劇研究者が協力して研究や発表をする機会を作った方が良いかもしれない。

2017/08/28

メアリー・シェリー『新訳 フランケンシュタイン』田内志文訳(角川文庫)

メアリー・シェリー『新訳 フランケンシュタイン』田内志文訳(角川文庫、2015)

田内志文さん訳のイギリス小説の古典を続けて読んでいて、これが3冊目。彼の文体にもすっかり慣れた。『吸血鬼ドラキュラ』の感想でも書いたように、難しい漢語など避けて訳されており、とても読みやすい。その分、使える言葉の種類が減るわけだが、重複などはほとんど感じず、苦労されているのがうかがえる。訳者あとがきは、作品の背景や作者のことなど過不足なく簡潔にまとめられている。出版年からして、アメリカ映画『ヴィクター・フランケンシュタイン』(2015)の公開に合わせて翻訳されたのだと思うので、時間的制約も大きかったと思うが、良い仕事をされていると思った。私はこの作品もずっと読んだことがなかったが、小林章夫訳(光文社文庫)で始めて読んだ。いまそちらは手元にないので比べられないが、田内訳は一層読みやすい感じがする。

『フランケンシュタイン』は20世紀から21世紀になるにつれて、益々古典としての評価が高まりつつある作品だと思う。近代科学の限界と恐ろしさを描いた作品として、原発、原爆、遺伝子操作、AIなどの開発とそのもたらす危険について、あらためて考えさせられる。知られていない原理を発見したい、新しいものを他人に先駆けて発明したい、という科学者の素朴な情熱に発した研究がどれほど恐ろしい怪物を作る可能性があるか、現代の科学者にも熟読して欲しい名作。また大学や学会に集まる学者の俗な功名心の醜さ、そうした人々の盲目の競争がもたらすものの恐ろしさにも、シェリーは目配りしている。日本の大学でも、クレンペ教授のような人のなんと多いことか。

『フランケンシュタイン』を読んだことのない人にとっては、科学者の主人公と彼の生んだ名前も持たない怪物を混同することが多いのはよく言われていることだ。しかし、これはシェリーの意図したことでもあるような気がした。怪物とフランケンシュタインは、ある意味、同一人物の分身同士、ドイツ発の用語で言うと「ドッペルゲンガー」、とも言える。博士は、自分自身の写し絵として、醜い怪物を凝視し、それを追い続けているとも言えるだろう。田内さんは後書きで親子みたいなものと解説されているが、その表現も正しい。親が子供を見て、自分の醜い習癖などを子供がそのまま受け継いでいてぞっとする瞬間があると思うが、そういう関係を感じさせる。他のイギリス古典小説で類似の例を探せば、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』があるし、田内さんが訳された『ジキル博士とハイド氏』もそうだ。

そうしてみると、「怪物」は博士の内なる邪悪に血肉を付与した寓意的人物とも言えるだろう。こういう人間の内面を、いわば擬人化した「邪悪」、あるいは「善」で示すのは、西欧文学の伝統、特にイギリス文学において顕著で、最も原初的な例は中世道徳劇だろう。無垢な若者が、探究心や好奇心に駆られて研究に没頭し、やがて内なる欲望に負けて罪の果実を味わって転落の道を歩むーーこれは、創世記に始まる聖書の物語でもあり、キリスト教文学の定番を押さえた物語。そういう意味では、この作品は、長い伝統に基づいた作品である。ゲーテの『ファウスト』、マーローの『フォースタス博士』の主人公のように、フランケンシュタイン博士も、近現代の魔術・錬金術たる自然科学という悪魔に魂を売り渡し、神に取って代わって科学の最高の高みを目指すあまり、『失楽園』のサタンのように地獄の奈落に転落してしまったというわけだ。但し、カトリック時代の道徳劇や聖史劇と違い神の恩寵もなく、主人公が到達するのは死と絶望だけ。

他の2作品でもそうだが、研究者である私には、田内訳の注の付け方がやや気になる。括弧で文中につけてあるのだが、単なる括弧だと、最初は原作者の挿入句かどうか、分かりにくい。「原注」と書かれているところもあるが、元の刊本の編者による注か、シェリー自身の注か(多分後者だろうけれど)はっきりしない。また、底本になっている刊本も記されていない。古い作品であるほどそうだが、学問の世界では、どの刊本をベースにして翻訳するかは、非常に重要であり、一般読者を相手にしていても、その点は配慮する必要があると思う。まして、後書きにあるように、シェリー自身により複数回改訂が加えられた作品なら、尚更そうだろう。読者の中には色々な人がおり、英文科の学生・大学院生も、また少数だが専門家もいるし、マニアックな英文学愛好者もいるだろうから、そうした人々にも一定の配慮は必要だろうと思う。ないものねだりの無用な批判を避けるためにも、底本とした刊本と、注の付け方も含め、翻訳のポリシーが簡潔に書かれているとありがたい。田内さんが、また古典的小説の翻訳を試みられることを期待したい。

2017/08/23

ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』田内志文訳(角川文庫 2014)

標記の翻訳書を読んだ。翻訳者は、プロの翻訳家で、私の知人の田内志文氏。

ゴシック小説の古典の一つであり、19世紀英文学を論ずる上で欠かせない作品だろうと思うが、英米文学研究者でも専門外だと読んでない人も多いと思う。映画などの二次的作品ばかり有名になった名作だ。私も、英語原作ではないが、田内氏が訳されたので、今回初めて読んだ。実際に読んでみると、たたみかける文体で一気に読ませる力を持っていて、時代を超えて読み継がれる魅力を確認できた。ヨーロッパ文化の境界で起こった異文化接触を扱った作品として見ると、当時のイギリス人の世界観などが伺え、大変興味深かった。日記や手紙、録音記録、電報、そして契約書のようなビジネス文書などの多様な形式のテキストとそれらのテキストの作り手である複数の語り手の視点を組みあせてフィクションを作る作家の手腕にも驚かされる。

私のように、名前だけ知っていて今まで原作は読んでなかった方には是非一読して欲しい作品だ。読みやすい新訳で、訳語がこなれており、学者の翻訳にしばしばありがちな堅さや不器用さがなく、プロの翻訳家が批判を恐れず訳した意味は十分あったと思う。1000円以下で購入できるし、一般読者がこの古典に触れるのには良い訳だろう。

アマゾンのレビューで2,3の評者が指摘しているように、訳注の少なさ、訳語の不統一など、いくつか問題点はあると思う。こうした一般向けの文庫では多数の訳注で読書の流れを阻害するのは良くないだろうが、私も、もう少し固有名詞やキリスト教用語などに注が欲しい気がした。翻訳者の田内氏はプロの翻訳者で、英文学研究者ではないので、水声社版の丹治、新妻訳と専門内容で比べるのはあまりに気の毒(どちらも日本でのイギリス近代小説研究を代表する著名な学者、丹治先生は元日本英文学会会長)。強いて言えば、KADOKAWAくらいの会社ならば、古典の新訳については、専門家の監修者・解説者をつけて、研究面でプロの翻訳家では足りない細かい点を補うなどの配慮が欲しいと思った。

2017/08/20

NHK ETV特集「原爆と沈黙〜長崎浦上の受難〜」

録画しておいたETV特集「原爆と沈黙〜長崎浦上の受難〜」を見た。

長崎の浦上にはカトリック教徒のコミュニティーと被差別部落があった。彼らは長崎市民でありながら、原爆被害者として、そして部落の出身者は更に被差別部落民として二重の差別を受け、沈黙を強いられ、浦上を離れていった。原爆で家族を殺され、後遺症に苦しんだ者同士でありながら、他の市民は部落の人々を差別した。更に、散り散りになった人たちは、移住した先でまた原爆被害者として差別に合う。また、浦上のキリスト教徒と被差別部落は、江戸時代において、権力に利用されて対立を迫られた。幕末には被差別部落民の協力によって多数の隠れキリシタンが弾圧されるという事件もあった。元々あった差別や敵愾心が、原爆によって固定化された面もあったのかもしれない。原爆の恐ろしさが、広島の人々によってより強く伝えられ、原爆ドームが原爆の恐ろしさのシンボルになった陰に、長崎の多くの被爆者の長い間の沈黙があったのかもしれず、それには歴史的背景があったのだろう。

NHK BS1スペシャル「幻の原爆ドーム ナガサキ 戦後13年目の選択」

お盆前後の時期、実家に帰省したり、海外にいたりで、自宅でじっくり戦争に関するテレビ番組を見ることが少なかったが、今年は色々見ている。録画しておいたNHK BS1 のドキュメンタリー「幻の原爆ドーム ナガサキ 戦後13年目の選択」で、浦上天主堂廃墟の破壊について見た。

当時の市長とカトリック教会長崎大司教が、多くの市民や議会の反対を押し切って破壊を決断したこと以外、はっきりしたことは分からないという結論。番組は、遺族や教会関係者などの証言を中心に、過去の痕跡を消して復興を進めようとした二人に同情的な終わり方となっている。

西洋文明の象徴であるカテドラルを、これまた西洋文明が生んだ究極の凶器、原爆が破壊したのであるから、この廃墟が残っていたら、広島の原爆ドームを超える痛みを与えるシンボルとなっただろう。それ故にまた、もう見たくないという人も多かっただろうと推測する。東北大震災の震災遺構にも似た事情は色々とあっただろう。しかし、今となってみれば、破壊されたのは、歴史の教訓の継承にとっては大きな損失と思えた。

2017/08/19

ピーター・ミルワード先生、ご逝去

上智大学名誉教授で、シェイクスピアの研究者、ピーター・ミルワード先生が8月16日に亡くなられた

今50〜70歳代の英文科出身者ならほぼ皆ミルワード先生の教科書や啓蒙書にお世話になっているだろう。戦後日本の英語・英文学の教育と研究に計り知れない影響を与えた方。イエズス会神父だからその文学観は極めてキリスト教的。その点で、文学作品の解釈では相いれない方も、英語英文学やキリスト教文化の基礎を学ぶ上で、ミルワード先生に教わったことは大きいと思う。同僚であった安西徹雄先生や多くの教え子を通じ、研究だけではなく、直接間接に日本のシェイクスピアの上演にも影響を与えたと思う。あれ以上はないほどの温厚な人柄で、誰からも愛され、尊敬された。いつも暖かい笑いを浮かべられ、下手なところが可笑しいユーモアで聞く人を笑わせた。世俗の方ではないが、古き良き時代の「イングリッシュ・ジェントルマン」の理想を体現されていた先生。埃の付いた眼鏡をくしゃくしゃのハンカチで拭く姿が印象的。私は個人的にも大変お世話になり、深く感謝している。

安らかに眠ってください。

2017/07/01

ラテン語学習(山下太郎先生の記事を読んで)

在野の学者で、私塾でラテン語の講習会を開いている山下太郎先生がキケローの作品を使ったラテン語の独習用リーダーを出した:
山下太郎『ラテン語を読む キケロー「スキーピオーの夢」』(ペレ出版、2017)

私はまだ手に取ったことがないが、文法を一通り学んだ人が、その後、文法知識を固めるために読むように工夫された、とても懇切丁寧な教科書のようだ。その出版にあたり、ラテン語の学習法、そして古典語を学習する意味を自分のウェッブページに書いておられる

山下先生が特に強調されているのは、ラテン語学習で挫折しないためには、基本文法を完全に覚えてしまおうと思わず、分からない時には調べれば良い、ということ。ラテン語の文法は英語やフランス語以上に複雑な語形変化があり、一気に覚えようとすると嫌になるので、ちゃんと記憶出来てなくともその度に活用表など見て調べれば良いというのである。

古代・中世の歴史資料や思想、ラテン文芸を研究するレベルのラテン語能力を習得するのは確かに非常に困難だ。おそらく大学・大学院で20歳代の大半をラテン語を読むのに費やすくらいの覚悟でないと難しいだろう。言葉としてのラテン語に親しみ、翻訳と比べながら、数行のラテン語の文章を読むくらいなら、大抵の人は2〜3年、途切れずに努力すれば出来る。ラテン語で大事なのは、そしてその他の語学でもそうだが、山下先生が書いているように、とにかくやめてしまわず、少しずつでも続けることだとつくづく思う。とは言え、フルタイムで働いていたら非常に難しい。しかし、忙しい時期も、週1回でも辞書と活用表を見ながら何行か読む、とか、電車の中などで、既に読んで色々と書き込みのある文章を読み返しつつ、動詞や名詞の活用や基本単語を思い出すと言った努力は出来るかも知れない。この教科書は、全ての単語に語釈を付し、訳文も付いているようなので、電車の中とか、仕事の合間など、辞書もない環境でも自習できるようだ。私自身もそうした努力をしていたら、20代から30代にかけてやったかなりの努力を生かせただろうになあ。その後、ほとんどやめてしまい、文法や基本語など、かなり忘れてしまった。

とは言え、私は3ヶ月程前からラテン語の学習を再開した。それ以来相当な時間を使ったので、活用などはかなり思い出したし、辞書を引くのもそれ程苦にならなくなった。研究に役立つとか、スラスラ読めるというレベルに達する時が来るとは思えないが、退職した身の上であるので、趣味、及び、ぼけ防止として、今度は途中で止めず少しずつ続けるつもり。とにかく挫折しないことが大事、と思っている。

2017/06/29

一般読者向けのチョーサーの入門書が欲しい

6月28日、昔働いていた学校でチョーサーについて1回だけゲスト講義をしたので、先週から、その時に配布するプリントなどを作っていた。その一部として、学生用の参考書リストを作っていたのだが、私の知る限りでは、長い間、日本語で読める手軽なチョーサーの入門書が出てない。新書では、桝井迪夫『チョーサーの世界』(岩波新書、1976)と斎藤勇『カンタベリ物語―中世人の滑稽・卑俗・悔悛 』(中公新書、1984)があるのみで、どちらも、古本では手に入るが、絶版。海老久人、朝倉文市訳のデレク・ブルーア先生の啓蒙書(『チョーサーの世界―詩人と歩く中世』[八坂書房、2010])はあるが、英米の読者に向けて書かれたものだし、翻訳では523頁もあるハードカバーで、値段も6200円以上。図書館で借りるにしても、一般の読者や学生には敷居が高く、私も持っていない。

専門書も、チョーサーの文学に関してまとまって書かれたものは、依然として、斎藤勇、河崎征俊両先生の数冊が主なもの。個別の問題を専門的に扱った論文集(例えばチョーサー研究会の本)などはあるが、学生のレポートや卒論に役立てるには、その学生がすでに授業や上記の入門書などで勉強している必要がある。シェイクスピアでは沢山あるような、一般読者のための総合的な解説書が望まれる。誰か書いてくれないかな。

もしかしたら、私が知らないだけで、一般読者向きの新しい入門書が出ているのかもしれないが・・・。もし適当な本が出てないのなら、個人で書かれても良いし、チョーサー学者はまだ結構いらっしゃるのだから、何人かで手分けして書かれても良いと思う。

2017/06/28

学会のSNSによる情報発信

私が会費を払っていて、イギリスに事務局を置く The Medieval English Drama Society からメールが来た。この学会に置かれている the social media committee つまりフェイスブックやツイッター等の担当の係では、学会にふさわしいイメージを募集しているので、何か適当なイメージ(例えば演劇や祝祭関連の写本画像など)があれば、推薦して欲しい、とのこと。担当者3人は大学院生と講師になったばかりの若い先生達。学会に関連のある情報をツッイターやフェイスブックで頻繁に発信してくれる。ツィッターは自分がアカウントを持ってなくても、インターネット接続が出来れば誰でも見られる。毎年春の学会の間は、その写真や発表の紹介もどんどん発信されて、イギリスに行けなくても、幾らかはその雰囲気が味わえる。中世イギリス演劇に関して、国内で情報交換する人がほとんどいない私にとっては、刺激になって大変ありがたい存在。また、どの学会に加入/出席しようか、と考えている人にとっても、学会のホームページ以上に、最新情報が沢山見られ、有益だ。イギリスにおいて以前より中世劇の研究が盛んになりつつあるように思うが、こうした活動により、院生や学部生にすそ野を広げているのも、発展の一因ではないか。

英米の学会では、ツィッター、ないしフェイスブックが、以前のメーリングリストの代わりをするようになってきている。勿論今でもSNSを使わない会員も沢山いるので、メーリングリストも必要だが、メールよりもより頻繁に更新され、かつ会員との双方向のコミュニケーションが計りやすいのが良い。日本でも若い学者を中心に個人のツィッター使用は大変多いが、個人としての日常生活のつぶやきが多くて学会のお知らせとは違うので、やはり学会単位でツィッターによる情報発信があると良いと思う。

The Medieval English Drama Society のツイッター:
https://twitter.com/MedEngTheatre

日本の中世英語・英文学関連では、「国際アーサー王学会日本支部」の公式ツィッターがある。西洋中世学会は、「西洋中世学会若手セミナー」というアカウントでのツィッターがある。

「国際アーサー王学会日本支部」
https://twitter.com/inter_arthur_jp

「西洋中世学会若手セミナー」
https://twitter.com/jsmes_wakate

2017/06/27

7月の「100分de名著」はジェイン・オースティン『高慢と偏見』

7月のETV「100分de名著」はジェイン・オースティンの『高慢と偏見』です。私はこのシリーズ、昔は時々見ていたのですが、最近は全く見てません。というのはずっとレギュラーで出ている所謂テレビ・タレント、伊集院光さんの、いささか押しつけがましい主観的な感想が鼻について嫌になったからです。でも7月のジェイン・オースティンの『高慢と偏見』は英文学の古典ですし、見たい気がするので、テキストだけは買ってきました。このシリーズ、テキストがとても良いです。適当な分量で古典の概要と主要な論点がわかりやすく解説してあり、いわば雑誌形式の岩波新書。普通の雑誌と異なり、NHKの案内以外には余計な広告もなく、かさばりません。値段も500円ちょっとで、気軽に買えます。今回の解説者は近代小説の権威、京都大学の廣瀬由美子先生です。テキストは、廣瀬先生だけが執筆していて、他の余計な文章はありません。

私は英文学関係で、河合祥一郎先生の『ハムレット』、そして同じく廣瀬先生の『フランケンシュタイン』のテキストを買いました。

それにしても、昨今のNHKの教育や報道番組は、どれもこれも民放のように素人の芸人や俳優を出すのは困ったものです。別に、伊集院さんが嫌いというわけではありません。ただ、文化や教育、報道などの番組には、その番組の内容に適した人材を出してくれるだけで十分なんだけど。俳優さんなどでも、例えばシェイクスピアの回にハムレットを演じた役者が出演するなど、番組の主題に詳しい人なら意味があるとは思いますが。テーマは面白くても、見るのが本当に嫌になります。

番組のホームページ:
http://www.nhk.or.jp/meicho/

2017/05/21

【英語の小説】Teju Cole, "Open City" (faber and faber, 2011)

Teju Cole, “Open City“

(London: faber and faber, 2011)  259 pages.

☆☆ / 5

留学から日本に戻って以来、英語の小説を読むことが少なくなってしまった。元々大した読解力はないのだが、歳を取って英語を読むのが一層遅くなりつつある気がする。また、暇な時間がありそうで、何かしら細々した用事が気になって、まとまった時間をかけてフィクションに向き合うことが少なくなったのかもしれない。それよりも、買い物に行ったり、掃除したり、もちろん勉強したり、などを優先してしまう。

さて、それでもこの250ページ強の小説を読み始め、終わりまでたどり着いたのは、幾つかの魅力があったからだ。そもそも読むきっかけになったのは、SNSであるアメリカの大学の先生が、この小説は中世英文学の最高傑作のひとつ、ウィリアム・ラングランド作『農夫ピアズ』(Piers Plowman)に影響を受けている、と書いていたからだ。確かに、そういう先入観念で読み始めると、『農夫ピアズ』の夢物語としての構造をある程度踏襲しているようだ。更に具体的には178ページに、語り手で主人公のJuliusが午前1時、『農夫ピアズ』のプロローグを読んでいてそのまま眠ってしまい、ラングランドが人類の様々の行いに思いを馳せつつ世界をさまよい歩く様子や作品が始まるイングランド中部のモルバーン丘陵(Malvern Hills)などが夢の中に現れることなどが少しだけ出てくる。作品全体との特徴として、『農夫ピアズ』も”Open City”も、主人公の精神的、そして空間的な彷徨を描いている点で大変類似している。

”Open City”の語り手Juliusはニューヨークの病院に勤める精神科の若い研修医で研究者。彼はナイジェリア出身で、大学から米国にやって来た。父親は亡くなっており、母とは疎遠で行き来がない。可愛がられた記憶があるヨーロッパ系の祖母とも音信不通だが、ベルギーのブリュッセルに住んでいるらしい。彼はニューヨークという多国籍、多文化の街をひたすら1人でさまよい歩き、見聞きしたものを頭の中で反芻する。さらに自分のナイジェリアでの生い立ち、特に軍隊の幼年学校でのいじめの記憶を詳細に物語る。また彼は祖母の痕跡を捜してブリュッセルに旅をし、そこでもニューヨークにいるとき同様に彷徨い歩く。カフェの店員をしているモロッコ出身の若いインテリと親しくなり、延々と政治談義を聞かされる。文化や宗教、政治の対立がこれらの若者の心中を常に寄せては返す波のようにかき乱している。

この作品にはJuliusと様々な人々との出会いと対話はあるが、特に一貫したプロットらしきものはなく、主人公の心象風景を軸として、印象的なスキットを並べた変奏曲のように続いていく。20世紀後半から21世紀にかけての欧米の知識人を捉えた様々のトピックや芸術作品が、そうした対話や主人公のモノローグで触れられていて、それだけでも知的な面白さを感じる人もあるだろう。ブリュッセルでの出会いや、ナイジェリアの学校での苦労話は、個々の話としてはとても生き生きとして説得力があったが、それらが更に作品全体としてのまとまりに繋がって、納得できる結末に達するわけではない。エピソードとエピソードの間の文章は、ニューヨークやブリュッセルの街角を延々と歩くJuliusのモノローグで、私はかなり退屈した。全体としては、伝統的な小説のまとまりを期待したい私にはあまり説得力はなかったし、思想家や芸術家の名前が散りばめられた知的議論を消化するには私は無知過ぎる読者だった。

最初に戻って、『農夫ピアズ』との関係を考えると、ラングランド作品では、圧倒的な倫理的で宗教的な関心が作品全体を貫いているが、この作品では、そういう面はあっても、それほど強くはなく、若い知識人の知的漂泊を物語形式で綴った作品と言えるだろう。現代思想などに関心がなく、知的議論が特に好きなわけでもない私個人としては、分かる人には分かれば良い、と言う感じのする気取った作品に感じられ、満足のいく読後感は残らなかった。

2017/04/23

『エレクトラ』(世田谷パブリック・シアター、2017.4.22)

リュートピア公演
観劇日: 2017.4.22   14:00-17:00(休憩含む)
劇場:世田谷パブリック・シアター 

演出:鵜山仁
公演台本:笹部博司

出演:
高畑充希(エレクトラ)
麿赤兒(アガメムノン、アポロン、トアス王、他)
中嶋朋子(イピゲネイア)
村上虹郎(オレステス)
仁村紗和(クリュテミソス)
横田栄司(アイギストス)
白石加代子(クリュタイメストラ)

☆☆☆/5

ギリシャ悲劇を組み合わせて3時間弱のの分かりやすい劇にしている。ギリシャ悲劇だけあって、筋書きは波瀾万丈で非常に面白い。

夫アガメムノンが長女イピゲネイアを人質として殺したと思い込んだ妻クリュタイメストラは愛人アイギストスとたくらんで夫を殺す。しかし、父を殺された娘エレクトラは、実の母に対して、いつか父の仇を打つべく憎悪の塊となってしまった。母とアイギストスの宮殿に留まるエレクトラは憎しみに気も狂わんばかりで夜叉のような様。アガメムノンを殺した当時の状況を言い立てて自己弁護をするクリュタイメストラと、そんな言い訳を聞かないエレクトラという母娘の複雑な関係がこの劇の見どころ。そして、そこへやはり憎しみに燃えるオレステスが到着し、ふたりは復讐を実行に移すが・・・。

上演台本は、ギリシャ悲劇を見たり読んだりしたことがない観客にもとても分かりやすい。台詞は極めて日常的な現代日本語で、また主な俳優の台詞の中に物語の歴史的背景の説明がやや退屈するくらい組み込まれている(原作では、観客は既に物語の大枠は知っていることとして省かれ、また一部はコロスが触れる)。但、このような分かりやすい台詞のために失われたものも大きい。古典劇の儀式的な雰囲気はほとんど感じられず、やや誇張した言い方をすれば、ギリシャ劇をベースにした大衆演劇。古めかしい擬古文的台詞をろうろうと言う、というスタイルで退屈させられるのもどうかとは思うが、これではギリシャ悲劇の素晴らしさを消してしまっていないだろうか。また、費用の問題はあると思うが、コロスというギリシャ劇ならではの素晴らしい仕掛けを使わないのも勿体ない。多くの俳優を使わなくても、劇の引き回し役という形で、語り部ひとりとして使うことも出来ると思う。

最後は神様が出て来て、人間達に対し、「色々と辛酸をなめてもらったが、これを糧に未来に向けて生きていきましょうね」という何とも不思議なポジティブ・メッセージで終わっていて、ずっこけた。これが古典劇のカタルシス?確かに、シェイクスピアの悲劇でも、最後は「残された我らが、苦しんだ人の分まで生きていこう」みたいなことはあるんだが、この台本はあまりに取って付けた強引な終わり方で、カタルシスにならず、拍子抜けした。

と、不満な点も大きいが、素晴らしい点もある。高畑充希は若いにも関わらず台詞は上手いし、声も通り、テレビで知られた人とは思えない実力を感じさせた。何しろギリシャ劇はステージ・プレゼンスが重要で、元宝塚とか、歌舞伎など伝統芸能の人には適している一方、テレビで主な仕事をしてきた人にはなかなか大変だと思うが、立派だ。彼女は体も小さく、押し出しは良くないが、それを精一杯の動きと声で補った。こういう題材では特に白石加代子が素晴らしいのは言うまでもないが、白石と高畑のやりとりがアンバランスに見えなかったことは、高畑の力を証明しているだろう。オレステスの村上虹郎も達者な演技だった。

若い2人を脇で支えたベテラン達は存分に個性を発揮。白石はもちろん、魔赤児、中嶋朋子、横田栄司、それぞれに個性豊かで、楽しめた。

世田谷パブリック・シアターでの上演を見たのだが、元来制作は新潟の公共劇場、りゅーとぴあなので、予算はそれほど多くないと思う。コロスも使わず、俳優が少ないのもそれが一因かとは思うので、蜷川のギリシャ劇のような豪華さを期待してはいけない。予算さえあれば、宮廷や神殿の雰囲気などを多数の役者と豪華なセットで産み出すことはできるだろうが、それは無いものねだりだろう。しかし、脚本がこれで良いのかは、はなはだ疑問だ。本当に新しさを狙うアダプテーションなら、もっと思い切ったことをやるべきだし、そうでなければ、出来るだけ古典らしさから生まれる儀式性を大切にして欲しかった気がする。