2022/03/15

傭兵としての『カンタベリ物語』の騎士

 ロシアによるウクライナの侵略戦争にシリアやチェチェンの傭兵が狩り出されるようだ。また、ウクライナ側にも多国籍の志願兵や軍事専門家が集まっている。こうした事を聞いて、『カンタベリ物語』の序歌に出てくる騎士を思いだした。序歌ではこの騎士の広範囲にわたる戦歴を次のように紹介している:


 . . . キリスト教国はもとより異教の国においても

彼[チョーサーの騎士]ほど遠方まで侵攻した者はおらず、

その武勇の故につねに尊敬されていた。

アレクサンドリア攻略戦のときも参戦していた。

プロシアでは、諸国の騎士を差し置いて

たびたび宴会では上席を与えられた。

リトアニアやロシアの遠征にも加わったが、

同じ階級のキリスト教徒で彼ほど幾度も転戦した者はいない。

グラナダではアルヘシラス城攻囲戦に参加、

ベンマリンにも攻め入った。

アヤスとアッタリアを占領した折にも

現地にいたのだ。東地中海では

名高い上陸作戦にしばしば加わった。

死を賭した大激戦に赴くこと十五回、

トレムセンではキリスト教信仰のため

三度も一騎打ちをし、いずれも敵を倒した。

あるときは、この勇敢な騎士は

パラティアの領主に加担して

トルコの異教徒と戦ったこともあった。

(『カンタベリ物語 共同新訳版』[悠書館、2021]pp. 8-9


 彼は北アフリカ(アレクサンドリア、ベンマリン、トレムセン)、小アジア(アッタリア、パラティア)、東欧(リトアニア)、ロシア、イベリア半島(グラナダ)、西アジア(アヤス)その他の戦地を転戦した百戦錬磨の職業軍人だった。シリアからウクライナの戦地にやってくる傭兵や、ウクライナ軍の顧問として働く西側の軍事アドバイザーなどを思いださせる。人は(大抵は、「男」は)、いつの時代も不毛な戦いで名声を競う。しかし彼らは宗教と正義の旗印の下で戦う。チョーサーは書く:


こうして彼はいつも大いに声望をあげたのだった。

剛勇なひとであったが、思慮分別に富み、

物腰はまるで乙女のようにおだやかだった。

これまでどんな類の人に対しても

無礼な言葉を使ったことはなかった。

彼こそ誠の気高い最高の騎士であった。(前掲書、pp. 9-10)。


 上記のテキストの後半部分を見る限り、詩人はこの騎士を理想の騎士像として讃えているように見えるが、皮肉なチョーサーの事だから、文字通りに受け取るべきか判断が難しい。また、騎士が従事したのは14世紀、各地で行われた十字軍だが、この頃には、十字軍が始まった頃の聖地エルサレム奪回という目的ではなくなっており、キリスト教国の君主による周辺の異教徒(ムスリム教徒や東欧・ロシアのスラブ人など)を相手にした戦いで、現代の視点から見ると帝国主義的な戦争と言って良いかも知れない。また、一人の騎士が長期間にわたってこれだけの戦歴を積むことはあり得ないという見方もある。彼は現実に存在した騎士のリアリスティックなポートレイトではなく、当時の騎士のひとつの理想像を示す寓意的な(アレゴリカルな)人物と言って良いだろう。但、そのアレゴリーには、チョーサー独特のひねりが加えられている可能性もある。理想化しているように見えて、皮肉な視点がまったくないと言えるだろうか。


 しかし、今回私が関心を持っているのは、チョーサーがこの騎士を理想として描いているかどうかではなく、彼が傭兵(a mercenary)か否かであり、その点では彼の転戦ぶりから見て、やはり傭兵として描かれていると私は思う。『カンタベリ物語』の序歌で描かれた騎士を契約で戦う傭兵と見て、理想化された騎士の像とは違うという視点を提案したのは、映画「モンティ・パイソン」シリーズで知られる故テリー・ジョーンズの著書『チョーサーの騎士:中世における傭兵の肖像』 "Chaucer's Knight: The Portrait of Medieval Mercenary" (Methuen, 1980) だった。彼は大学には属していなかったが、この本は大変良く出来たアカデミックな本として未だに読まれている。但、チョーサーのテキストを過度にうがった読み方をしているとして反発も大きかった。"The Oxford Companion to Chaucer" (2003) において、中世英文学の権威、ダグラス・グレイは、ジョーンズのような解釈に対して、「このような見方を裏付ける歴史的な証拠には説得力がない」("The historical evidence for this last view is not convincing . . . .") (p. 270)と書いている。しかし、今ではジョーンズの本は少なくとも新しい解釈をもたらした重要な研究という評価は定着しているだろう。


 比較的最近の研究で私の手許にあるものとしては、『歴史学者が見るチョーサー:「カンタベリ物語」の序歌』"Historians on Chaucer: The 'General Prologue' to the Canterbury Tales", ed. by Stephn H. Rigby with the assistance of Alastair J. Minnis  (Oxford UP, 2014) の第3章で、編者自身の筆による "The Knight" がある。リグビーはマンチェスター大学の歴史学名誉教授で、著名な中世史学者であり、本書のように、文学についても重要な論考を出している。彼はチョーサーによるこの理想的な騎士像に皮肉を読み取るのは難しいと考えており、こうした騎士像は14世紀末においても理想として通用していたという考えだ (pp. 61-62)。一方でこの騎士のように各地の十字軍に参加したイングランドの騎士が多くいたことも確認しており、特にリトアニアなどバルト海沿岸地方の戦争には、イングランドを代表する大貴族達が参戦している。1390年の(つまり『カンタベリ物語』執筆の少し前頃の)リトアニアでの戦争には、後にヘンリー4世となるダービー伯、ヘンリー・ボリングブルックも加わっていた (p. 59)。リグビー教授の指摘のうち特に興味深いのは、チョーサーの騎士が「パラティアの領主に加担して/トルコの異教徒と戦ったこともあった」ことだ。この場合、騎士の仕えた主人も敵方も共に異教徒であり、キリスト教を守る十字軍とは言いがたい。リグビーは、騎士の戦った相手がキリスト教徒ではないので、当時の人々から見ると異教徒に仕えて他の異教徒と戦うのは問題なかった、と考えている (pp, 56-58)。但、現在の私たちの感覚から言うと、これは傭兵以外の何ものでもないだろう。その観点から見ると、14世紀末の騎士であるにも関わらず、彼が百年戦争に出征したという記述はまったくなく、フランスや低地諸国の地名も一切出てこないのは注目すべきだろう。つまり彼はキリスト教徒とは一度も戦っておらず、これは歴戦の勇者としては不自然なくらいである。この点は、彼の後に紹介される騎士見習い(The Squire)が百年戦争の各地を転戦していたのとは大きく異なる。このことからも、「序歌」の騎士が寓意的人物と言って良い程に理想化されていることがうかがえるだろう。既に述べたように、彼は常にキリスト教と正義の旗印の下で戦った「誠の気高い最高の騎士」だったのである。


 さて、現在進行中のウクライナ侵略戦争に話を戻すと、ウクライナのネット・メディアによれば、ロシアが募っているとされるシリアの義勇兵として、既に登録を済ませた人が4万人いるそうだ。シリアは長年の戦争で破壊され、疲弊した全体主義の国だ。そんな破壊され尽くしたような国から、他の民主主義国を破壊するために4万人もの人(ほぼ全員男だろう)がやってくると思うと背筋が寒くなる。


2022/03/11

非常勤講師としても退職しました。

 昨日3月10日、今年度まで非常勤講師として1科目だけ教えてきた大学の講師室に行って、メール・ボックスを片付けてきました。電話をかけて講師室付きの職員さんに頼むことも出来たかも知れませんが、職員さんに余計な作業を頼むのも気が引けましたし、事務書類や残っている教材プリントに加え、個人宛郵便物などももしかしたらあるかも知れないので、念のために出かけました。

 この学校には4年間勤めました。ちょっと古風な雰囲気のある大学でしたが、事務職員さんは丁寧で親切だし、大学のサイズの割には図書館は大変充実しているし、教室やキャンパス全体はきれいだし、教室のAV機器も充実しているし、その他、全体的に大変素晴らしい大学で、私が今まで常勤・非常勤で勤めた大学のなかでも一番快適に仕事ができたと思います。でも非常勤講師の定年まであと2年間を残して退職することにしました。ひとつは、昨年の冬から春にかけてかなり腰痛があり、通勤や授業に苦労したことです(腰痛はその後大体おさまっています)。またそれ以前から、往復で3時間かかる通勤時間は、体力のない私にはかなり辛くて、非常勤のあと3日間くらいは疲れが残ってごろごろしていました。それでも、もうひとつのことがなければ続けたと思うのですが、それは履修者がいなくなったことです。私の科目は選択科目でしたが、今学期は履修者ゼロで、開講されませんでした。その前の学期は2名の履修者でした。昨年度以前も履修者は5名程度でしかも学期中に授業を放棄する学生が多かったです。教室に行っても電灯が付いてなくて誰もいない、という日も複数回あり、実に情けない思いをしました。私の昔の専任校もそうでしたが、履修者が5〜10人程度の選択科目は、その年度は休講となり、それ以降は科目がなくなって、担当の非常勤講師もその科目だけなら辞めて貰うか、他の科目を担当してもらう事が多いです。この学校はその点とても親切で、そういうルールは無いようなんですが、しかし学生から全く興味を持ってもらえない科目を教えるのは辛いし、学校にも申し訳なく感じていたので、今年度で辞めることにしました。

 若い頃なら、授業のやり方を色々と変えて試してみて、学生の反応を見たと思いますが、教員の仕事もあと2年、しかも体に無理して遠くまで通う元気もなく、これが潮時と思いました。英米文学専攻の学部学科ではなかったので、私の授業内容が学生の興味とずれており、また、専門外の学生の興味を引きつけるには教師としての力量が足りなかったのだと思います。

 今学期は履修者はいなかったので、結局、実質的な業務の上での退職は昨年の夏でした。しかし、それ以後も今月まで、オンラインの辞書やジャーナルなどの図書館の資料は利用でき、大学に籍を置いていることで勉強の上では助けられました。今月でそれもなくなってしまうかと思うと残念ですが、今まで良くしていただいた大学に感謝しています。

2022/03/06

原基晶著『ダンテ論―「神曲」と〈個人〉の出現』 ―まとめと感想―

原基晶著『ダンテ論「神曲」と〈個人〉の出現』(青土社、202112月)

―まとめと感想―


本書の著者、原基晶先生にはおそらく20数年前に世界文学会で始めてお目にかかった。その時は現代イタリア文学についての先生の口頭発表をお聞きしたので、彼が中世文学に傾倒し、『神曲』を翻訳されているとは知らなかった。その後彼は講談社学術文庫から『神曲』全3巻を出版されるという日本の翻訳史に残る偉業を達成され、更にこの度、博士論文を基にして本書を刊行された。私はイタリア語を学んでおらず、イタリア文学全般や、ダンテの事もほとんど知らない一般読者なので、本書を正しく評価することなど到底出来ない。しかし、そう断った上で、本書が大変魅力的な内容に溢れており、『神曲』やその他のダンテの作品の理解に有用であるのみならず、広く西欧文化への教養を深めたい多くの読者に役立つ良書だと確信している。また、私自身は中世英文学を専攻し。ダンテの影響を大きく受けたと思われるジェフリー・チョーサーについても関心を持っているので、中世西欧文学を研究してきた者として、この本の内容を私なりにまとめつつ、学び、感じたことを、各章毎に一種の備忘録兼学習ノートとして残しておきたいと思い、以下の様な文章を書くに至った。


まずは目次を書いておこう。


はじめに

1章 詩人の伝記

2章 ダンテ批評史

3章 失われた自筆原稿を求めて

4章 フランチェスカ・ダ・リミニと「私」

5章 ベアトリーチェ神話の終焉と預言する詩人

6章 『神曲』と「個人」の出現

7章 ベアトリーチェの微笑

補論 『これが人間か』―アウシュビッツと詩について

終章 結論

あとがき

参考文献

本文353頁(縦書き)、参考文献と注36頁(横書き)、計389頁。なお、巻末の参考文献と注のページ・ナンバーは、本文とは別に打ってある。


1

 博士論文を基にした本であるから、いきなり難しい理論や先行研究の概括で始まるかと思いきや、第1章は門外漢が入りやすいように、ダンテの生涯を紹介することで始まっており、博士論文の内容はおそらく第2章以下に反映されているのだろう。あとがきによると、この章は、博士論文の書籍化にあたって明治大学の坂本邦暢先生の助言により付け加えられたそうだが(p. 353)、坂本先生は本書の成功に多大な貢献をされたと言えるだろう。ここでの時代背景や伝記的事実のわかりやすい解説により、私のような素人にとって、本書の敷居がぐっと低くなった。と同時にこの章に書かれている歴史的な事実の検証は、原先生のダンテ論の核心に繋がっている。つまり、イタリアのアイデンティティーとしてのダンテ、そしてロマン主義の思想が作り上げてきたダンテといった既存のダンテ像に幾重にも塗り重ねられた修辞を取り払い、不明の部分も含めて今分かる限りの歴史的事実に基づいたありのままの彼の実像に迫りつつ『神曲』を読み直す試みがこの本の意図だからだ。第1章では、従来語られてきた没落貴族の息子としてのダンテは虚像で、彼は小規模金融業者の家系、つまり今で言う中産階級の平民だったと著者は明らかにする。従って『神曲』は新興都市中産階級が生んだ文学だ。中世後半における都市の発展とそれが生んだ都市市民階層の勃興なくしてダンテ、そして彼の跡に続くイタリア・ルネサンスの文学はあり得なかったのだろう。


2

 ダンテ批評史を扱う第2章では、ダンテは晩年『神曲』を書く以前から著名な文学者であり、『神曲』は出版されるとすぐに有名になって、古代ローマの古典同様に大学でも講じられる程の、当時における現代古典として扱われたと語られる。古代ローマの文学に対してのように、『神曲』には、当時から注釈も付けられた(これを原先生は「古注」と呼んでいる)。この「出版」は、文化的には周辺部にあるイングランドとはまったく事情が違う。ダンテの時代はまだ印刷がなかったが、イタリアでは、写本を、初期刊本に匹敵するくらい、大規模に筆写(つまり「出版」)できたらしい。ほとんどは一度に1冊写された写本を回し読みしたり、数人に朗読するだけだった中世イングランドとは、出発点から大違いである。つまりダンテは「出版」当初から、チョーサーのように少数の文学愛好者の知人・友人・パトロンだけではなく、数多くの知識人に、つまり世間の批評にさらされ続けた。

 中世英文学の代表的な作品は、チョーサーなど数名を除けば、写本が19世紀か20世紀に再発見されたか、あるいは好古家たち、つまり少数の古文書愛好家の間で保存され、読み続けられた。ということは、現存する大多数の中世英文学作品は、直接的にはロマン主義の解釈を経ずに、ヴィクトリア朝以降の、アカデミズムの発展と共に再発見され、文献学者による解釈が始まった。だから、中世英文学作品の批評は最初テキスト批評が中心であり、フィロロジストの独壇場で、文学作品としては充分な議論に乏しかった。それと比べると、ダンテ作品は書かれてからずっと、文学作品としてヨーロッパ中のインテリたちの批評眼にさらされてきた。その結果、良くも悪しくもロマン主義とそれに影響された批評家や学者の作った伝統が非常に分厚く、それらひとつひとつを解体(脱構築)しながら研究していかねばならないようだ。


3

 第3章では、これまでの校訂版や日本語翻訳が厳密な文献学的視点で検討される。その作業の題材として、イタリア語原典における主要なエディションであるペトロッキ版とサペーニョ版を取り上げ、特に『地獄篇』の最初の3行を徹底的に解析する。その目に見える違いは、ひとつのカンマ(イタリア語で「ヴィルゴラ」)の打ち方と"ché"という単語にアクセントを付けるかどうかという2点で、それがふたりの校訂者の作品解釈の違いをどう表しているかを丁寧に解説してみせるところは、校訂者の仕事がどういうものか知らない読者にとっては、目を見張る部分ではないだろうか。これに続く既存の日本語訳の精緻な解説と批評では、先人達の仕事に敬意を払いつつも、いやそれだけに厳しく各翻訳の問題点を指摘している。敬意を払うという事は、つまり率直な意見を書くということでもあると推察する。原先生は、特にどういう刊本に依拠してどのように訳したのかについて、細かく目配りしておられる。そもそも依拠した刊本を示してない翻訳もあり、また、複数の刊本や英訳などを参照したようだが、どこでどういう解釈を採用したか分からない場合もあるようだ。古典の翻訳における写本、初期刊本、現代の校訂本、そして翻訳への流れにおいて、その各プロセスの詳細を読者に明らかにしておくのが現在の常識となっているが、20世紀のある時期まではそうした水面下の部分は専門家だけが分かっておれば良い、という傾向があった。過去においては充分に受け入れられていた慣行が今や非常識に見えるのは仕方ない事で、必ずしも過去の学者を責められない。しかし、原先生がこうして各翻訳の特徴をまとめてくださったのは、ダンテの愛読者やこれから研究を始めようとする方にとっては助かるだろう。そしてそれ以上に、他分野の大学生、大学院生や一般読者にとって、本文校訂の作業とは何か、興味深く垣間見せてくれる。


4

 この章では、「地獄篇」第5歌に描かれるパオロとフランチェスカのエピソードを題材にして、『神曲』の登場人物であるダンテと、作品を書いた詩人ダンテを同一視するか、すべきでないか、という古くから論じられてきた問題が議論される。その前提として、パオロとフランチェスカの愛、そしてそもそも『神曲』の登場人物としてのこの2人と実際に生きていたラヴェンナ僭主の娘フランチェスカ・ダ・リミニとリミニ僭主の三男、パオロ・マラテスタがどのくらい一致するのか、精密に分析されている。

 フランチェスカは自分の夫でパオロの兄ジャンチョットと結婚していたのに、義弟パオロと不倫の愛に落ちた。しかし、古来、フランチェスカの無垢や夫ジャンチョットの容姿や身体の障害などを挙げて、彼女に同情し、理想化する解釈があったらしい。やがて、『神曲』の歴史的背景(この場合、恋人たちの伝記的「事実」)を切り捨て、学問的な分析を退けて、テキストが訴えかける感情に身を任せるのが正しいダンテの読み方だというロマン主義的解釈が優勢になり、その影響は20世紀まで色濃く残ったようだ。

 更に、「地獄篇」の登場人物としてのダンテはパオロとフランチェスカの悲恋に同情するが(ロマンチックなダンテ像)、この文学キャラクターとしての「ダンテ」は『神曲』作者のダンテとは別人であるから、作者ダンテがパオロとフランチェスカに同情しているとは限らない、と原先生は言う。そうすると、美しい愛を謳えあげたように見える「地獄篇」第5歌の描写も、違ったものに見えてくる。事実、テキストを詳細に検討すると、ダンテ以前に確立していた宮廷風恋愛の文学における恋人たちの様式化された描写をダンテは取り入れているようだ。従って、フランチェスカは同情すべき理想的な恋人ではなく、しかし現実に存在したフランチェスカ・ダ・リミニでもなく、謂わばアレゴリカルな世俗的愛の体現者として描かれていることになる。

 更に、この章の後半で、著者は読者にこうした描写の背景を理解させるために、『神曲』が一種の詩論としても解釈できるという学説を示し、当時のイタリア詩の重鎮で、清新体派の(創始者とされる)ダンテの師、グイド・グィニツェッリと、ダンテのライヴァルで、当時、詩人として大きな権威を誇ったグイド・カヴァルカンティについて、詩の引用を分析しながら、20数ページにわたって詳しく解説する(pp. 141-65)。

 グィニツェッリ、そして同じく清新体派の伝統に連なるダンテ、が詩作において表現する「愛」は、ロマンティックで肉体的な感情の発露ではなく、「哲学的、神学的に定義され、人間的な次元を超越した何か」であり、キリスト教神秘主義に類似した「見神の体験」、あるいは「神と人間を結びつける『愛』という概念」であった(p. 143)。原先生は、清新体派の愛についての解釈では、以前の日本のダンテ研究者にはこうした「哲学的・神学的理解が抜け落ちて」いたと言う(p. 143)。例として、原先生はグィニツェッリの「第五カンツォーネ」を引用しつつ、そこで描かれる「自然」(natura)は、「神から発して星々を経て地上にまで降りてくる影響の総体のことであり、グィニツェッリのこの詩は、人間の発生・・・と神が吹き込む霊(愛)の関係を含んでいる」と指摘する(p. 145)。このあたりは抽象的な議論で、予備知識のない読者がすぐに納得するのは難しいが、第7章においてより大きな視野から詳述されることになる。

 一方、ダンテが退けたカヴァルカンティの描く愛については、彼の代表作「貴婦人よ、我に頼みたまえ」を俎上に挙げて検討する。解釈の難しい詩のようであり、原先生の言葉をそのまま引用すると、「この詩は人間の認識の能力を司る能力と、その認識から生まれた美が人間に対してふるう力、つまり愛の関係を、当時の疑似生物学的思想によって説明したものである。ここに感情の表現は含まれていない。」(p. 156)カヴァルカンティも、グィニツェッリ同様、愛を感情表現からではなく、極めて理知的に捉えていると言えるだろう。この詩によると「『愛は知覚されたものから創造され』、具体的には『視覚によって得られた視線から出現する』。それは個的な女性の美ではなく、グィニツェッリの詩の解説で述べた脳の認識の抽象化=『普遍化』により、抽象的な美の認識に至る。・・・しかしながらカヴァルカンティの場合、その美は神の認識へとは繋がらず、知性の死と結びついている(そもそも永遠の霊的魂の存在を否定している)。」(p. 160

 ここは抽象的な議論で、理解が難しいが、第7章とかなり関連しているので、本書を最後まで一度読んだ後で再読すると分かりやすい。当面、この章においては、文学キャラクターとしての作中のダンテは『神曲』作者とは別人であり、作中のダンテが同情したフランチェスカの悲恋を理想化するのは、ロマンティックな読み方に偏っていると理解出来た。


5

 前章に続き、この章でも既存の、かなりロマン主義の影響を受けた、従来の(特に日本における)ダンテ像を見直す作業が続く。特に章の終盤では、原先生独自の解釈が色濃く出て、深く迫力のある1章になっていると思う。

 ベアトリーチェについては、既に第1章で「ベアトリーチェというフィクション」というセクションがあり(pp. 28-33)、歴史的な事実により、ダンテはベアトリーチェの恋人ではないことが言明されており、これはまた、現在、世界のダンテ研究者によって共有されている認識のようだ。この章でも、ダンテと実在したベアトリーチェの実人生がほとんど交錯しないことが示される(p. 176)。このベアトリーチェというファースト・ネームは英語ではベアトリス(Beatrice)で今もよくある名だが、「祝福を運ぶ者」という原義で抽象的な意味を持っている。つまり、道徳劇や寓意的な文学作品の登場人物のような寓意的(アレゴリカルな)名前なのである。『神曲』と共に、ベアトリーチェが登場する『新生』の解釈においては、近年の研究者はベアトリーチェを聖者伝の聖者のような人物と考えているようだ。登場人物のダンテは、ベアトリーチェという(ロマンチックな恋人ではなく)ガイドとしての聖女に案内されて神へと近づくのである。

 こうしてヴェルギリウス、その後はベアトリーチェに導かれて、地獄、煉獄、天国を巡る「ダンテ」という登場人物は、『神曲』の読者の目の代わりをする。原先生によると、「そう、『私』はダンテであると同時に『私達』なのだ」(p. 181)。登場人物ダンテがヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれるように、私たち読者も、作中人物としてのダンテの案内により、人類の救済を求める旅路を行くのだろう。

 更に、作中のダンテが地上を離れて煉獄や地獄を巡り、そしてついに天国に達するということは、地上に降りてきたイエスが肉体の死を経て地獄を解放したのち天国に帰って行く道のりとも重なる。原先生は登場人物としての「ダンテ」を2つの役割に分割し、「旅人ダンテ」と「詩人(預言者)ダンテ」と名づける。前者はヴェルギリウスとベアトリーチェに道案内された文字通りの旅人であり、読者の目や耳となる人、後者はキリストと重なり、「この世界に戻った後、神からの預言を人々にもたらす」人である(p. 189)。このキリストと重なる預言者ダンテは、中世文学でしばしば現れる神の「予型」(フィグーラ、figura)とも解釈される。私の勉強してきた中世の聖史劇では、神の予型として解釈されるのは、アベル、ノア、イサクといった旧約聖書の人物だが、『神曲』では登場人物ダンテがそのように解釈されうるようだ。と同時にダンテは現実に存在した歴史上の人物で、『神曲』を書いている詩人自身でもある。ダンテという預言者を通して、この世、即ちイタリアの現実世界へ神の意図を知らしめようとするのが『神曲』という作品なのであろう。


6

 本書の後半、特にこの第6章(50頁)と第7章(53頁)は概念的な議論が長く続き、即物的で頭の悪い私にはあまり理解出来ず、苦労して読んだ。段々と結論に向けて進んで行く道程は、ダンテの描く煉獄山を思い起こさせる。

 本章では前章に続き、予型論(フィグーラ論)から始まる。この予型論の先駆者として、古典的な文芸批評を何冊か書き、今も読み続けられるエーリッヒ・アウエルバッハの予型論によるダンテの理解が紹介される。アウエルバッハのフィグーラ論を利用する事が、原先生のダンテ論の重要な柱であると思ったが、しかし、これを利用する事で先生の本全体がかなり難解なものになってしまった気がする。アウエルバッハのフィグーラ論は「通常のアレゴリーとは区別」される(p. 204)。即ち、


フィグーラの両極は時間的に分けられているが、両者は、現実的な出来事、あるいは形姿として、時間の内部に横たわっている。(中略)[その一方で]大多数のアレゴリー、文学あるいは造形美術のそれは、徳(たとえば、知恵)や情熱(嫉妬)、あるいは制度(法律)また、ひょっとすると歴史的現象の最も一般的な総合(平和、祖国)を表現する。決して特定の出来事の完全な歴史的内容を表現することはない。(p. 204、但、この一節はアウエルバッハ「フィギューラ」の和訳からの引用。出典について詳しくは本書の巻末注6p. 19参照)


原先生は更にアウエルバッハのこの考えを解説して書く、「個的特徴を持たず、抽象的、類型的な存在でしかないアレゴリー的表象と異なり、ダンテが予型論で描くのは、歴史上の特定の人物の、彼を表象する現実的な事件である」(p. 205)。つまり、作中人物としてのダンテやベアトリーチェといった歴史上でも存在した人物も、アレゴリカルな意味を帯びて登場するということだろう。但これだけだと、ではアレゴリカルな意味を帯びた人物を多用する西洋近代小説や演劇作品(たとえば、ディケンズの多くの作品)とダンテはどう違うのか、と思うが、中世文学である『神曲』においては、アレゴリカルな意味を帯びつつ描かれる歴史上の個人は、全知全能で時間を超越する神の視線の下で、その歴史的な限界を超えていくことになる。更に引用すると、


・・・ダンテ自身は彼の現在として地獄や煉獄、そして天国さえも通過していくが、死者たち、つまりフィグーラの成就であるはずの登場人物たちは永遠の位相に住んでいるからだ。これに対しては、アウエルバッハは地上の事物の一致の延長線上にプラトン的な永遠なるものの出現を見ており、それは「時間の違いが存在しない神の摂理においてはいつもすでに成就されたまま横たわっている」としている。(p. 206、鈎括弧内の引用は、前掲アウエルバッハ「フィギューラ」より、巻末注10p. 19参照)


言い替えると、『神曲』という物語、一種の巡礼記、においてダンテという登場人物は時間を経ながら順番に地獄、煉獄、天国と回っていくが、そこで彼が出会う人々(永遠の魂たち)は時間を超越した世界に存在する。『神曲』は人の時間と永遠とが交わるという、おおよそ不可能な表現を試みた作品であるが、天国や地獄を描くのであればそうならざるを得ない。原先生の別の表現を引くと、「歴史的事実がアレゴリーとして読み込まれ、神の言葉としての永遠の位相に反映されるのが神学者のアレゴリーであり、それはアウエルバッハのいう『フィグーラ』をも含む」(p. 208)ということらしい。このあたりは、中世の哲学や神学の文章を読み慣れている方々には分かりやすいかも知れないが、一般の読者にはかなり難しいところであり、私も十分理解しているか心許ない。

 この神の視野の下にある永遠ということを突き詰めていくと、結局、我々人間のすることは皆予め決定されているという宿命論(決定論)にたどり着く。こうした考えが中世の社会や学問にどう根づいていたかを本章では歴史的に説明し(pp. 212ff.)、イタリアにおける封建領主社会から都市と都市市民階級の勃興への流れ、イスラム占星術の影響とダンテの先達ブルネット・ラティーニの思想などに触れる。細かく書かないが、このあたり、大変勉強になる。ラティーニはイスラム文化の影響を受け、決定論的であり、原先生の言葉では、「『運命』あるいは『定め』が人間の行動を決定し、人間の側の自由意志が否定されているかのような気配がある」(p. 223)。

 そうしたことを踏まえ、ジェフリー・チョーサーの作品でもお馴染みの「運命(あるいは、運命の女神)と人の自由意志」の議論が展開される。ラティーニが、神の与えた運命の前では人間の自由な意志の存在する余地はない、と否定的な考えを採るのに対して、登場人物ダンテは第15歌の93行で、「運命の女神に対する備えは、彼女が何を望もうとも、できています」と言う(p. 226)。確かに人間には神の深い意図を常に理解することは出来ないが、「事物の変転のなかに、ダンテは神慮があると考え、己の自由意志により理性を駆使して正しい道を選ぼうとする」(pp. 226-27)。これはチョーサーの作品やその他多くの中世の文学作品にもうかがえる考えであり、また中世の文学や哲学などを越えて、信仰の表明とも言えるだろう。

 さて、この後、原先生は一旦概念的議論を離れて、同時代のフィレンツェと都市の金融業、特に高利貸し、について解説する。神が与える宿命が人間を縛っているために神の思惑は分からないと決定論的に見てしまうと、世界で起こっていることは善悪問わず何でも認める、つまり弱肉強食の経済原理の全肯定、現代的に言えば新自由主義的な経済活動の肯定に繋がりかねない。そこでは平民(「ポポロ」)の生活を食い荒らす大規模金融業者と少数の権力者、外国勢力などが支配する国家観が出現する。フィレンツェの小市民で、選ばれて頭領の1人として政治にも関わったダンテは、こうした流れに棹さすが、母国を追われ、『神曲』執筆時には亡命者となっていた。詩人ダンテの考えでは、人はそれが宿命と考えて欲に溺れて他者を食い物にしてはならず、自由意志を働かせて他者と共存し(「平和」の希求)、より良く国を治め、正しく生きねばならない。原先生の言葉では、「人は神からの贈り物としての自然に働きかけて、その恵みによって命をつながなければならないとダンテは主張する。それゆえ金銭が金銭を産み、財をそれ自体で生むという利子は本来あってはならないとする。」(pp. 235-36

 こうして見ると、神から富や権力を与えられながら、自由意志を行使してより良く生きる道を選ばなかった者たちはまさに地獄に堕ちるに値し、実際、『神曲』ではそうした人々の慟哭が地獄を満たしている。一方で、市井に生きる慎ましい職人や商人などは、生活を立てることに全力で向かわざるを得ず、生き方を選ぶための富も権力も元々与えられてはいない。生まれ育った都市から、ダンテがしたように亡命することも出来ない無名の人たちは、庶民の冷静な知恵を働かせつつ、人生を過ごしている。彼らは「困難に立ち向かって正しい行いを貫徹した天国の聖人でもなく、神慮に逆らって己の行いをこそ是とした地獄の罪人ともことなる」(p. 243)。こうした人たちが生き残るためにやむを得ず犯さざるを得なかった罪を悔悛し、神の御許に赴くべく試練を受け止めるのがダンテの描く煉獄である。そうして彼らは煉獄山を、まるでサンティアゴ・デ・コンポステーラやエルサレムを目ざす巡礼たちのように登っていき、罪を認めて悔悛しつつ、一歩一歩神へと近づいていくわけである。

 第6章は「ダンテにおける平和」(p. 245-50)と題されたセクションで終わる。ここで原先生はダンテが『神曲』と同時期に書いたとされる『帝国論』を素材にして、中世における国家、社会の各組織(身分、職業、一族、都市、その他)、そして個人の関係について論じる。この書物の中で、ダンテは、国家や、社会の各組織はもちろんだが、個人に対しても「永遠なる神が自己の業なる自然を通じてそれがために人類全体を想像した最善の目的が存在する」と書く(p. 247、この引用はダンテ『帝政論』の日本語訳より。巻末注37p. 21参照)。そしてこの神により個々人が、従って人類全体が与えられている最善を志向する知恵をダンテは「可動的知性」(ラテン語で、'intellectus possibilis' )と名づけている。この「可動的知性」、神の示した最善を求める指向性は、個人が「座して安らうこと」、そして人類全体の「平和の静けさないし安らぎ」の中で「最も自由に、そして最も容易に遂行できる」とする(p. 248、語句の引用は引きつづき『帝政論』より)。更に人の自由意志を最終的には否定する決定論者がその拠り所のひとつとする「天空の影響」も神の作った「自然」の一環であり、個人の可動的知性を開花させるために存在するとダンテは考えた。「こうして、ダンテにおいては等しく神に与えられた個別の魂のそれぞれの多様な人生が重要視されることになり、その目的のためには[一都市や一国家を越えた]人類全体の平和が必要とされたのである。」(p. 249

 この第6章はダンテの思想の根幹を捉えようという試みで、圧巻であり、読めば読むほど説得力が増すと感じた。ダンテが社会の組織や国家の枠を越えて人類の平和を希求したという点は、21世紀の私たちへの原先生のメッセージでもあるだろう。但、本章は抽象的な議論が続き、読者にとってかなり難解でもある。ひとつひとつのセクションをよく理解しておかないと、原先生の思考がどう繋がって進行しているのか分からなくなりそうだ。


7

 この章は、第6章の最後に扱ったトピックでもある「世界平和という思想」をタイトルとしたセクションで始まる。前章では概念的な議論であったが、ここではその思想が生まれた中世西欧の社会的背景の説明で始まる。都市の勃興と都市が生んだ市民層を経済的に支えていたのは商業の発展だった。それ以前の、圧倒的多数の貧しい農民と彼らを支配する騎士たち、つまり戦士階級の文化とは異なり、大多数の慎ましい市民層は政治の安定と平和により栄えることが出来た。しかし、大銀行家を中心とした一握りの富裕層は封建領主と結びつき、合議制と平和を求める市民層と対立する。ではダンテはこうしたイタリアの現実の下で、どういう国家の統治を求めていたのか。原先生は、『神曲』、特に「天国篇」とほぼ同時期に書かれたとされるダンテの『帝国論』を手がかりに、この作品と「天国篇」のテキストを引き比べつつ、第6章で議論された人間個人の「自由意志」の問題と絡めて、「世界平和」の議論を進める。

 原先生によると、ダンテの考えでは、神は人への最大の贈り物として「意志の自由」を与えているが(p. 259、「天国篇」第5歌など参照)、この自由意志の行使には正しい方向性を持った「知性」による「判断」が必要とされる(p. 261)。そしてこの「知性」もまた神に与えられたものであり、「人間の魂の本質部分」(p. 261、「煉獄篇」第25歌参照)である。ダンテの言う神に与えられた知性は、既に出て来た「可動的知性」、つまり自ら己を振り返る力を持つ自由意志と一体となった知性である。『帝政論』は地上世界のあるべき姿を書いた書物であるので、「人間が最も自由な状態に置かれているならば、人間個人が神を志向することは揺るがない」はずである(p. 269)。しかし、『神曲』では、そのあるべき「『最も自由な状態』が地上で実現されていないために、過ちを犯してしまう可能性が強調されている」(p. 269)。さて、この神を志向する上で欠かせない「自由な状態」、あるいは「座して安らうこと」は、社会や国家における、更に人類全体の普遍的な平和へと繋がっており、神へと向かう「条件」なのである(p. 271)。そしてこの国家の平和を担うべきとダンテが考えた権力者が、皇帝だった。

 さて、例えばチョーサーの作品で見られるように、中世文学で自由意志の概念と両立するか否かが問われるのが、天体の影響である。天体の影響、運命の女神、宿命等々と言い替えられるこれらの抗いがたい力を前にして、人の自由意志はどう位置づけられるのか。ダンテにおいては、こうした「運命」も神の創られた「『自然』の営為の一部であり・・・、その開花は人類全体として考えれば神の偉大さを示す称賛になる」(p. 272)。但、ダンテにとって、そのような「開花」は平和な状態、安らげる世界の存在を「条件」としているが、それぞれ世俗世界と精神世界を導くべき皇帝と教皇が彼らのなすべき務めを果たしていないために平和が存在せず、多くの人々は暗い森に入り込んで神への真っ直ぐな道を見失い、死後に地獄や煉獄へと堕ちてしまっているというのが、ダンテが見ていた現実のようである。

 第7章後半、273頁以降で原先生は主として「天国篇」について解説し、そこで本章のタイトルでもある「ベアトリーチェの微笑」とは何かを明らかにする。詩人は「地獄篇」と「煉獄篇」で「導きの歪んだ地上世界の姿と、その世界の中で苦しむ一人一人の人間の姿」を描いた(p. 272)。こうした地獄や煉獄の描写のダンテ流のリアリズムを理念上支える世界平和の思想が『帝政論』と『天国篇』で開示される。つまり、「地獄篇」や「煉獄篇」では、「この人は生きている時こうだったから、死んだ後はこういう所に堕ちた」ことが描かれるのに対して、「天国篇」では、そうした「現実描写」はなく、「登場する人物たちの地上における具体的な認識、判断、行動を示すことで天国への道を示すとともに、それぞれの魂の置かれた天空が、その魂の持つ『力』(徳)が実行された結果として、その居場所となったことも表示する」(p. 273)。

 では具体的にはダンテの天国はどう描かれているのか。原先生は煉獄山の頂上で登場人物ダンテがガイド、ヴェルギリウスと別れるところから話を始める。ヴェルギリウスは登場人物ダンテにとっての知性であり、判断力であったが、ダンテは彼の自由意志を行使してヴェルギリウスの後を歩き、導き手の祝福を得て天国へと入る。ここで原先生は「天国篇」第1歌冒頭の3行を細かく分析する:


万物を動かされる方の栄光は

全宇宙をあまねく貫き、その反射は

あるところでは強く、別なところでは弱く輝く。

p. 276、講談社学術文庫版 p. 18


かみ砕いて考えると、「万物を動かされる方」、つまり神から光線が発せられ、被造物はそれを受けて「反射」するが、その反射の輝きは強弱がある、ということだ。この神の光線の発射は、天地創造の、そしてその後の世界のあり方の表現であり、詩的語彙を使えば、神と被造物との「愛」の交換ということになる。原先生の文章を引用すれば、「全事物は神の愛ゆえにその有り様とともに創造され、その存在は喜び、つまり神への愛を返す」(p. 278)。煉獄の旅の完了と共にダンテは神の国に入ることが許されて、「神の恵み」そのものを意味するベアトリーチェと出会う("Beatrice", Latin "Beatrix": one who brings happiess)。原先生はここで第4章で詳しく解説されたパオロとフランチェスカの愛に言及しつつ、地獄に堕ちた恋人たちの愛も、天国の神への愛と、愛の性質としては共通していると指摘するが、しかしこれらの恋人たちの「恋愛が地獄に堕とされているのは、具体的な肉体=物質の持つ美に執着し、そこから抽象的な美の徳や神の愛に気づけなかった結果であることが分かる」(p. 282)。

 さて、「煉獄篇」の最後でベアトリーチェに出会った登場人物ダンテは、彼女の「聖なる微笑は/古[いにしえ]の網でこれほどまでに目を自らのもとに誘い込んでいた」と述べる(p. 284、第32歌、ll. 5-6、文庫版p. 470)。つまり、「ベアトリーチェは神から発せられた光線を受けて反射光を放ち輝く何かである。それが、本来は世俗の表現に使われる『微笑』として姿かたちを与えられている」(p. 284)。ベアトリーチェという光り輝く者まで議論を進めたところで、原先生は読者に再び「地獄篇」冒頭の「暗い森の中をさまよっている自分[我ら]」を思いださせる。ここまでの懇切丁寧な議論により、地上世界にいる「我ら」はしばしば神の光を見失い、「まっすぐに続く道」即ちキリストの跡を追えなくなって、暗い森の中に迷い込んでいることが分かる。つまり、人は自由意志を充分に働かせずに「気づきの機会を逃してしまった」のである(p. 286)。

 この後、原先生は、神の光を正しく反射できなかった、即ち自由意志を行使するにあたり、正しく「判断」出来なかった人物の例として、ダンテのライヴァルであったグイド・カヴァルカンティについてしばらく語る(pp. 286-92)。

 この章の最後では、「地獄篇」第26歌に登場する古代ギリシャの英雄オデュッセウス(英語名「ユリシーズ」)を通して、「地上における神の世界のアレゴリー」(p. 292)が検証される。ダンテはホメーロスの原典を知らず、西欧中世においては教会説話などで広まっていたオデュッセウス像を基に人物を造形した。彼の描くオデュッセウスは世界の果てを目指し、神の怒りに触れて地獄の最下層、マレボルジュに堕とされる。このオデュッセウス像はふたつの要素を基に出来た。ひとつは、トロイ攻めの木馬のトリックを発案した詐欺のアレゴリーであり、もうひとつは、真理と天国を求めて旅立つ信仰のアレゴリーである。但、『神曲』で描かれたオデュッセウスの場合、後者の要素は、真理の探究ではなく、やみくもな好奇心にすり替わってしまう。「地獄篇」第20歌で、彼は次のように語る:


わが息子への深い愛情も、老いた父への

敬愛も、ペーネロペイア[彼の貞淑な妻]を幸せにしたはずの

誠実な愛も、

わが心に燃える炎に打ち克つことはできなかった。

私はなりたかった、世界の事物と、

人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。

だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。

  (p. 298、「地獄篇」第26 ll. 94-100、文庫版 p. 391

   なお、本書p. 298で第20歌となっているのは誤記と思われる。)


家族への愛を捨て、徳を高めることを怠り、つまり自由意志の判断を誤って、オデュッセウスは欲望に突き動かされて大海原の果てを目ざすが、死後にマレボルジュに堕ちる羽目になる。ここで原先生は、アウシュビッツを生き抜いた作家プリモ・レーヴィの言葉を引用しつつ、レーヴィにとって、そしてダンテにとって、「大海原」は「自由と生命の象徴」であったと言う(p. 302)。但、この「大海原」に旅立って、その結果地獄に堕ちたオデュッセウスをどう考えるべきかについて、原先生は302-03頁で触れつつも、この章では明快な答を与えていないようで、読者はもう一度、レーヴィとオデュッセウスについて次の補章で詳しく考える事になる。

 第7章の結びは、登場人物ダンテが天国の頂点、至高天(エンピレオ)に到達し、彼の魂が光線となって神へと向かうことを確認して終わる。彼は「暗い森」から出発して、「真っ直ぐな道」、つまりキリストを見出し、「彼自身がその光線となって神のもとに戻ったのだ」(p. 305)。本書の読者は、まるでヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれた旅人ダンテのように、原先生の文章に導かれて『神曲』とダンテの世界を巡り、ここで一応の終着点に到達する。しかし、上記のように、まだ幾らかの疑問が残っており、それが補論で論じられる。


補論

 何のために「補論」なるものがついているのか、目次を見ただけでは疑問だったが、読んで見ると、この本にとって、そして原先生の研究姿勢にとって、無くてはならない文章である。既に述べたように、本書は博士論文を元にして書かれているそうだ。一般的に博士論文では、それまでの研究を踏まえて、先行研究においてあまり論じられていないテーマを見つけ、深く掘り下げて、その学問分野に貢献することが求められる。結果的に、基礎知識に乏しい一般読者には理解しがたい、学者に対してだけ関心を呼ぶような論文が出来上がる。一方本書は、ダンテの『神曲』という、日本でも義務教育の教科書を通じて誰しも名前を聞いたことがあり、多くの人が一部でも読んでいる世界文学の古典を通じて、最終的に「人はどう生きるべきか」、「人の生きる意味は何か」という愚直で、時空を越えたユニバーサルな問いかけをしている本だと思う。この補論で、原先生は、アウシュヴィッツで友人ジャンに『神曲』について語ったユダヤ系イタリア人作家プリモ・レーヴィの自伝的作品『これが人間か』(1947)を取り上げ、『神曲』が大昔の外国文学の書物というだけではなく、現在を生きる私たちにとって切実な意味を帯びうる作品だと教えてくれる。

 この作品名(正確には『これが一人の男だろうか』)は作者自身によるのではなく、出版社が考えたもので、レーヴィ自身は『どん底』、あるいは『沈んだ者たち』という題名を希望していた。これら採用されなかったタイトルは、『神曲』の地獄とそこに「沈んだ者たち」を示唆していたようだ。とりわけ「『地獄篇』第20歌の冒頭にある・・・『闇に沈んだ者どもをめぐる曲』という言葉の引用なのだ」(p. 314)。そして、第7章で触れられていたように、『神曲』のオデュッセウスも地獄に沈んだ者のひとりだった。そして、原先生は『これが人間か』巻頭の詩も「天国篇」第2歌冒頭の詩句と共鳴していると指摘する(但、この類似はイタリア語を解しない私には分かりづらくてやや無理があるようにも見えたが)。少なくとも、詩人ダンテは、天国の海を渡る登場人物ダンテと、故郷と家族を捨てて果てしない旅に出て地獄に堕ちたオデュッセウスを比較するように描く。こうしてみると、レーヴィは『これが人間か』の冒頭からダンテの描いたオデュッセウスを意識していたわけだ。

 但、『神曲』のオデュッセウスは地獄で永遠の苦行を続ける。煉獄に送られた者たちと違い、彼に救済の望みはない。これは異教の時代に生まれ、神の知恵に触れる機会を与えられなかったオデュッセウスにとって仕方ないことなのか(ダンテはオデュッセウスの不条理な運命に同情的だという説もあるそうだ[p. 317])。キリストの降臨以前に生きた彼は、正しい判断を下すために必要な神からの知恵を持たなかった。第7章で原先生が指摘したように、オデュッセウスは言う「私はなりたかった、世界の事物と、/人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。/だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。」(p. 298、「地獄篇」第26 ll. 94-100、文庫版 p. 391)オデュッセウスは知恵を求めていたが、その機会を与えられていなかった。彼と同様に、プリモ・レーヴィもこの世の地獄であったアウシュヴィッツで救いの希望のないままに生きていた。オデュッセウスとレーヴィの物語は、それゆえ「神の決定の不可知、さらに踏み込むと、不条理を描いていると考えられる」(p. 317)。

 レーヴィは収容所で収容者の食事を取りに行く道すがらフランス人ジャンにイタリア語の簡単なレッスンをしたが、その教材として途切れ途切れになる記憶を辿りながら『神曲』をフランス語に訳す。彼はジャンに「耳と精神を開くのだ」(p. 318)と語りかけ、謂わば『神曲』の講読をしつつ、自分自身、まるで黙示録のラッパを聞き、神の啓示に打たれたかのように我を忘れる。それは「地獄篇」第25歌、67-72行に描かれた「ダンテが煉獄で人間の成り立ちの自然描写的真理を聞かされる場面のオマージュ」(p. 319)だそうである。第6章で詳しく述べられたように、ダンテは、人間は正しい判断を行うための「知性」を神から与えられており、そしてその判断に基づいて「自由意志」を行使すべきと考えた。但、自由に知性を働かせ、正しく判断するためには、安らぎと平和が必要だったはずだが、アウシュヴィッツの収容者たちにはそのような平和は許されていない。収容者は「分断され、人間として扱われていない」、「枠場に捕らわれた」人々である(p. 320)。彼らは、文字通りこの世の地獄で獣のように生きざるを得ず、自らを殺すための道具である十字架を背負わされてゴルゴダの丘を上るイエスになぞらえられる(p. 320)。にもかかわらず、レーヴィには『神曲』のおかげで「ある種の真理の啓示ともいえる瞬間があり、それゆえに彼もまた、ダンテのように真理を地上に届ける決意を担うことになったのである」(p. 320)。但、彼とジャンの肩にかかっていたのは十字架ではなく、当番として彼らが運んでいた50キロもある大鍋だったが。

 ダンテは13世紀始めに『神曲』を書き終えたが、彼の死後、イタリアを始めとしてヨーロッパ全体を黒死病が襲い、人口の3分の1を超える人が亡くなる。プリモ・レーヴィはホロコーストによりヨーロッパのユダヤ人コミュニティの多くが殲滅されるにいたる時代を生きた。ペストやホロコーストというこの世の地獄を前にして、人は神の全知(Providence)をどう受け止めれば良いのだろうか。レーヴィはアウシュヴィッツという極限状況下で、『神曲』について語ることで彼の物語を紡いで、地獄で生き続ける意味を探ろうとしたのだろう。原先生の言葉を引用すると、「人は、物ごとを理解するには、必ず物語を必要とする。思考することを否定するような場所を描くにあたり、己の持っていた人間を取り戻すためには、思考を取り戻すためには、彼には文学が必要だったのだ。」(p. 324

 原先生は、この補論を本書の最後に加えることで、ダンテの描いた宇宙とそこにうごめく人々の物語を通じて、現代におけるダンテの読者に、「人はどう生きるべきか」という愚直な問いを考え続けるよう促していると思う。


終章 結論

 この章では、一般的に博士論文はそうなっていると思うが、本書全体の意図と(p. 329)、各章毎のかなり詳しいまとめ(pp. 329-44)が書かれていて、本書を読んで良く分からないままの部分があっても、ここを読むと復習が出来るようになっており、親切だ。但、ここで新しく付け加えられた記述もある。第4章についてのまとめでは(pp. 332-35)、ジーン・A・ブラッカー『ルネサンス都市フィレンツェ』の翻訳者(森田義之、松本典昭)の解説のかなり長い引用など、4章を補完する新たな解説が加えられているので、注意が必要だ。原先生自身、「本論文では扱わなかったが、個人の概念については・・・」という文章で議論を始め、1213世紀の中世における所謂「ルネサンス」と、そうした時代における「個人の誕生」と言われる文化・思想の変化について概括している。西欧文化史や思想史における「個人」とは何か、またそもそも「ルネサンス」とは何かと言う問いへの答は非常に難しく、歴史学者や文学史家それぞれの視点の置き方により大いに違うだろう。原先生が訴えようとしているのは、かっては「ルネサンス」とか「個人」と言う時には、文化史の巨人しか視野に入っておらず、庶民への注意が抜け落ちていたこと。そして、中世の商業と都市の発展の中で、知識人のみならず、一般の庶民に対しても、「個人」の存在、精神(あるいは自由な意志)の表現を見ることが出来る、ということだろうか?但、私の理解で先生の真意をくみ取っているかどうか心許ない。そして、一人の一般読者としての私はそこに問題を感じる。つまり、本書は副題が「『神曲』と〈個人〉の出現」となっており、ダンテにとって、そして中世西欧における、「個人」とは何か、ということが本書の最終的な理解のために必要なのだろうが、こうして結論部のまとめで新たに補強しなければならないようでは、読者に不親切なのではないか。本書は、読者として、イタリア文学研究者だけでなく、一般の教養人も念頭に置いていると思うが、副題に書かれている点が不消化のままに読了される方が多いかもしれないと危惧する。

 なお、この部分に「自我という個人の概念の覚醒は十二世紀のカロリング・ルネサンスや・・・」(p. 332)とあるが、ここでの「カロリング・ルネサンス」がフランク王国のカール大帝(814年没)時代の文化を指すとすれば、十二世紀というのは書き間違いだろうか。一方で、カール大帝の時代や、英文学で言えば、『ベーオウルフ』や古英語の叙情詩など、811世紀のアングロ・サクソン文学にも充分に個人の感情の発露は見られる。つまり視点によっては、中世における「個人の誕生/出現」をどの時代に見出すかには大きな幅がありそうだ。そう考えてみると、副題のつけ方に改良の余地があったか、もしそうでなければ「〈個人〉の出現」という点について、本論全体を通してくさびを打つようにこの主題を読者に思い起こさせ、終章にあるような(例えば先行する中世におけるルネサンスとか、「個人」概念の変化について)充分な説明が必要だったのではないか。

 341頁では、補論について簡潔にまとめられている。私は補論を読んでいる間は、レーヴィのオデュッセウスとダンテのオデュッセウスがどう重なり、どう異なっているのか充分に理解したと言えなかったし、補論の最後(pp. 324-25)は、文学的な終わり方をしていて、簡潔なサマリーとはなっていない。しかしこの終章において、レーヴィの見たオデュッセウスは『神曲』をインスピレーションとしつつもダンテのそれとは違い、「自分たちを仮託できるような、肯定的な存在だった」(p. 342.)と述べられていて納得出来た。と同時に、補論の本体で何故私は理解出来なかったのかと残念でもある。


あとがき

 あとがきは次の一文で始まっている:「ここまでお読みになってくださった賢明な読者諸氏にはお分かりのことと思うが、本書『ダンテ論』は、ダンテ論の無効を宣言している。』(p. 355)この文を読んだ「賢明でない読者たち」は、原先生の言っている意味が分からないだろう。そして私もそのひとりだ。これまで344頁を費やして『ダンテ論』を書いておいて、それは「無効」だと言われる。その意図は次の段落で説明されるわけだが、こういう文学的な(屈折した、と言うべきか)修辞が読者を遠ざけないだろうか。但、そういう原先生の態度を作ったのは、ダンテを絶対視しがちな従来の日本のダンテ研究の風土や翻訳者たちの態度でもあったようだ。そこで彼は、そうしたダンテ信仰の土台を、伝記的事実の洗い直し、過去の翻訳の批判的検討、テキスト校訂作業の解説、ロマン主義によって形成されたダンテ像の検討、その他の手順を踏んでひとつひとつ脱構築し、最後に残った中世のダンテのメッセージを読み解こうとされている。そのプロセスにおいて、彼が目ざしたのは、恩師河島英昭先生から教わった、現代にも通じるダンテ、つまり普遍的な文学作品としてのダンテだった。原先生をそのまま引用すると、「・・・ダンテを今ここで読む意味を探し求めていたのかも知れない。言い替えると私たちもその一員であるこの世界の中に『神曲』を位置づけること、それは文学の普遍性の問題と言ってもよいだろう。そしてこの「普遍性」こそは、遠い昔に[恩師の河島英昭]先生から預けられた宿題だった」(p. 349)。だからこそ、原先生は、補論でプリモ・レーヴィを論じないわけにはいかなかったのだろう。

 更にあとがきを読むと、本書の執筆において沢山の方々が原先生を熱心に応援し、本書に形を与える手助けをしたか分かる。彼は同好の人々を引きつけ、彼を助けたいと思わせる才能を持っておられるようだ。


 さて、随分長い「まとめと感想」になってしまった。もっと要点だけ整理してからブログとしてアップロードすべきとは思うが、学術誌の書評論文ではなく、個人の楽しみで書いているのでこのままでご容赦願いたい。章を追う毎に長くなっているのは、ひとつには後の方の章、特に第67章が実際に長いからでもあるが、私がこれらの章をより大きな興味を持って読み、詳しい学習ノートを残しておきたかったからである。ここでその内容を再度繰り返す必要はないが、神の永遠の視線の下にある人間の運命、そしてそのキリスト教の世界観の中での自由意志の役割などについてのダンテの考え方など、中世英文学を読む上でも大変参考になった。更に、アウエルバッハのフィグーラ論、ダンテにおける予型論的人物、「個人の出現」に関する原先生の考えなど、私が全て理解出来たとも、また必ずしも同意できるとも言えないけれども、それだけに考える種を豊富に提供していただいた。今後も本書を読み返したい。『神曲』やその他のダンテの著作も今後再読、あるいは新たに読んでみたいという意欲が湧いた。私が特に著者に共感するのは、ダンテを今を生きる私たちの視点で読んでいることだ。どんな古典も常にそれぞれの時代の視点で読み直される。文学史におけるルネサンスや「個人」の息吹以上に、原先生は中世イタリアに生きたひとりの詩人としてのダンテに、ヒューマニズム、人間中心主義、の普遍的な「光線」を見ていると思った。

 最後に、無いものねだりとは分かっているが、本書にこれがあったらという希望を2点付け加えたい。ひとつは索引。本文353頁、更に注・参考文献36頁ある本書を、一読するだけでなくその後も研究資料や参考書として充分活用してもらうためには、簡単でも索引は欲しい。もうひとつは、図版。既にカラー図版が2頁と、中世のフィレンツェの地図などが少し含まれているが、『神曲』には見事な彩色写本画が沢山描かれており、それらを見ると中世、初期近代の人々が考えたダンテの地獄、煉獄、天国が良く分かるので、(価格の上昇を押さえて欲しい気持ちもある一方で)そうした図版がもう少しあると、一般読者には親切だったであろう。

 このような素晴らしい本を世に出し、日本語の読者にダンテの普遍性を再認識させて下さった原先生にお礼を申し上げたい。今後、学術誌などで、専門家からの批評が出ることを期待したい。