2016/07/09

異端審問の時代ー15世紀のイギリスと今の日本

勉強しているうちに副産物として出て来た考えを以下に書いてみました。

チョーサーが、代表作『カンタベリー物語』の巡礼のひとりとして描く教区司祭は、聖書の教えに忠実な生き方をして、まるでキリストが中世のイギリスに蘇ったような清貧の、気高い聖職者。しかし「どうもあの人、時代遅れでついていけないね」、とまわりから思われているふしがある。バースから来た男好きの女房も、字も読めないはずだが、多分男達からの耳学問のおかげか、聖書の内容を良く知っている。彼女は、教会の禁欲的な教えに対して、聖書の知識を振りかざして「聖書のどこにそんなことが書いてあるの」と反発する。男達からは「聖書、聖書と、うるさい女だ」、と煙たがられていることだろう。この2人は、一方は超真面目人間で、他方は人生享楽型だが、意外と似ているところもあって、それは2人とも聖書に重きを置いている点と、世間、特に教会の主流派、が押しつける生き方に楯突いている点。だから、後世の学者からは、彼らは隠れたウィクリフ派(異端派)と解釈されることもある。

チョーサーが『カンタベリー物語』を書いた14世紀末頃は、こういう人物は、多少眉をひそめられることはあっても、特に官憲から咎められたりすることもなかっただろう。しかし15世紀になり、1401年に、教会と世俗権力が協力して異端を死刑にできる法律(De Heretico Comburendo)ができ、1408年にはアランデル大司教の教会令(Constitutions)という細かな異端禁令が発布されるに及び、あれよあれよと言う間に異端取り締まりが激化。かなりの人が逮捕、審問、そして処罰され、残酷な火あぶりの刑になる人もあった。同時に、正当派か異端派かがはっきりと色分けされ、ウィクリフ派でなくても、新しい信仰の形を模索したり、教会の改革を唱える者は異端というレッテルを貼られかねない危険な時代になる。高位聖職者や正統派の知識人と見なされていた人たちまで、異端の疑いをかけられる。例えば、セント・アサフやチチェスターの司教を歴任したレジナルド・ピコックは、多くの論文を発表した知識人でもあったが、ウィクリフ派を批判しつつも理性的な論理を強調し、教会権力への恭順を軽んじたことが異端の疑いを招いて解任された。同時代の人々にカルト的な人気を集めた女性神秘主義者マージェリー・ケンプは異端審問にかけられた。マージェリー・ケンプはバースの女房に血肉を与えたような人物であったから、バースの女房が15世紀に生きていたら、彼女も異端審問にかけられたかも知れない。また、ラテン語の出来ない庶民が聖書を直接理解できるようにしたいとラテン語の聖書を英語に訳すことは犯罪行為と見なされ、英訳聖書の所持は異端の確固たる証拠とされた。英訳聖書に限らず、英語の書物を所持しているだけで、疑いの目で見られることもあった。そのような弾圧が進む中、1413年、異端派の大物で、百年戦争の英雄でもあった騎士オールドカースルと配下の者たちによる反乱が勃発。この乱が厳しく鎮圧された後は、異端派(ウィクリフ派)は、天草の乱の後のキリシタンのように、ひたすら地下に潜行し、隠れて禁書である英訳聖書を学びつつ、細々と15世紀を生きのびることになる。文学でもチョーサーやガワー、ラングランドなどが排出した14世紀は、知的に大変ダイナミックな時代だった。しかし、異端派の弾圧と共に、15世紀の知識人は言動に気をつけ、当局の意向を伺いつつ生きることになった。

不勉強にて、この流れを今更ながら復習しているんだけど、私はつい、上の「聖書」を「憲法」に置き換えて考えてしまった。今この時、2016年の日本で、憲法を守りたい、憲法に沿って生きていたい、と思う人々が徐々に少数派で異端派と見なされるようになり、多数派とくっきり色分けされつつある気がする。学校で「平和教育」をする教師が咎められたり、自治体などが管理する公共施設に集まって戦争や平和について学ぶ集会を開こうとする人々が、会場使用を断られたりすることが報道されている。「平和」と戦後「憲法」が徐々に、学び守るべき正統から、排除すべき異端へと押しやられつつあるのではないだろうか。

中世イギリスのウィクリフ派の場合、14世紀末の王、リチャード2世の周辺には、程度の差こそあれ、かなりの数の賛同者や庇護者がいた。リチャード王の即位の頃、最も強力な権力者だった前王エドワードの息子、ジョン・オブ・ゴーントはウィクリフ個人を保護したし、リチャード王の側近には何人も「ロラード・ナイト」と呼ばれるウィクリフ派がいた。ウィクリフが教師をしていたオックスフォード大学には、ウィクリフに共感する知識人も多く、当初は教会権力に抵抗してウィクリフを庇った。ウィクリフ自身もロンドンなどの教区教会を使って説教をしたとされる。しかし、リチャードが失墜して、1399年に王位簒奪者ヘンリー・ボリングブルック(ヘンリー4世)に取って代わられた頃から時代の流れは速度を増し、情勢は一転する。大司教など教会指導者と世俗権力が手を結み、前述のような立法処置を経て、州長官や治安判事など世俗の権力も利用してウィクリフ派を探し出し、審問にかけ始める。

さて、今の日本だが、このあと20年、30年経ったときに、第2次大戦後に出来た平和憲法は、15世紀の英語訳聖書のように、異端の書と言われるようになるのだろうか。国民は国体の司祭たる自民党政府の教えだけを守り、許可無くしては、もう廃止され、禁書となってしまった「平和憲法」に触れられないかもしれない。その時には、教区司祭やバースの女房のような生き方や言動は許されるのだろうか。

2 件のコメント:

  1. こんにちは。とても興味深く、そして核心を突いていると思います。

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  2. いつも読んでいただき、ありがとうございます。

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