2018/09/04

博士論文提出への長い道のり(1)

博士論文提出への長い道のり:(1)何故つまずいたのか

最近3回のブログ・エントリーで、Ph.D論文について個人的に備忘録として書いておきたいことはぼぼ書き尽くした気がします。しかし、2008年秋に博士号のための勉強を始めてから学位取得まで10年弱、論文提出まででも8年8ヶ月ほどかかってしまいました。始めた時は、3年では無理とは思っていましたが、遅くとも5年以内にはできるだろうと楽観していたので、大変な計算違い、自分の能力の過大評価をしていたと思います。ということで私の博論修行はどなたにとっても良い手本にはなりませんが、逆にここまで長くなっても何とかゴールに滑り込んだという割合珍しい例かも知れないので、良い反面教師になるかもしれません。

何が問題だったか考えているのですが、いくつもの要因があります:

1. そもそも私の知的能力の不足。
2. 若い研究者と違い、学位取得後の就職等がかかっているわけではないので、それ程必死ではなく、むしろ、退職後の楽しみという要素が大きく、比較的ノンビリと勉強していた。
3. 配偶者が、今もそうだが、非常に忙しい生活を送っているので、20011年夏に帰国後は、私の日々のプライオリティーは、主夫業になり、勉強は2番目になった。
4. 持病をかかえ、体調不良の時がとても多く、そのために勉強出来ない日もしばしばあった。
5. 帰国後は非常勤講師や、元の勤務先の市民講座、ゲスト講師などのアルバイトにかなり多くの時間を使った(これもプライオリティーの問題)。
6. 指導教授2人も、ケント大学の所属センターも、急ぐようにと圧力をかけることはなかった。これは上記2のような私の勉強の目的からするとありがたかったが、その分かなり時間がかかる原因になったとは思う。
7. おそらく、選んだテーマが私の能力を超えた大きすぎるものであった。

1の能力不足という点ですが、そもそも私は記憶力がかなり劣っているのは子供の頃から家族にも言われ、自覚もしています。小学校から高等学校までの成績は普通でしたが、高校は地方の平均的な公立高校で、その後、大学入試に6校も落ちて、やっと3月半ばに受験した7校目で全員合格みたいな入試を受けて滑り込みました。その程度の知的能力なので、イギリスの大学で、しかも中世英文学で博士号を取ると言うのは、考えて見れば無理があったかもしれません。但、やれるかなと思ったのは、2001年度に勤務校の研修制度を利用してケント大学でMAを貰い、その折に最優秀の成績(distinction)をいただき、博士課程でも指導教授をして下さることとなったG先生やその他の先生に、Ph.Dをやらないか、とお勧めいただいたからです。でも、MAとPh.Dは全く違います。イギリスの大抵の大学院博士課程の場合、日本や北米の大学院と違いコースワークはありませんが、論文の長さは普通約10万語(上限)です。私の場合、指導教授からは、8万語から10万語の間と言われていました。但、どの先生もそうおっしゃるのですが、長さを気にすることはない、あくまで内容が大事、とも言われました。逆に、長さが充分かを気にするようなレベルでは内容は薄くて駄目だという事です。一方、ケント大学のMAはコースワークがあって、その後、修士論文が2万語です。2万語程度なら、日本で修論を書いたり、雑誌論文を書いたりしている者なら、過去の論文とか、それまで養ってきた知識をアレンジすればそれほど苦労しなくても書けますし、また、MA論文では、新しい学問的な知見が含まれなくても、既存の研究を良く勉強し、自分なりの視点から租借し、一貫した論旨で議論を積み上げていれば、少なくとも合格点は貰えるでしょう。しかし、Ph.D論文では、ほとんどの専門家から見てもそうと分かる明確な新しい知見が求められます。先行研究を踏まえるのは大事ですが、ただダラダラと過去の研究の整理を10万語近く並べるだけでは済ませられません。

若くて才能があり学問的に活躍されている先生方の研究の様子を見聞きして思うのですが、彼らは文献を読み消化するスピートが早い。特に本を読んで、大事な点を見分けて記憶する能力が素晴らしいのに驚きます。私は本、特に英語の研究書を読むのが非常に遅く、しかも読んだ事を片っ端から忘れて行くので、非常に細かいノートを取ったり、あるいは後で引用することを考えて、頻繁に長文をそのまま書き写したりします。ですので、色々な部分が博士論文に役立ちそうな本や、基本的な知識を仕入れるのに必要な概説書を読み出すと、延々と何週間も、時には2、3ヶ月も、時間が経ってしまいます。また記憶の容量が小さいので、パソコンで言うとRAMメモリにあたる、議論を展開するための各種材料を頭の中に留めておく能力も乏しいことになります。従って、色々とアイデアを展開するためには、その度に以前に書いたノート(つまりハードディスクのデータに相当)にアクセスする必要があります。私の親類に京大を出た優秀な若者がいますが、受験勉強中、教科書や参考書で一度読んだことは大抵忘れなかったらしいです。「なんだこいつ、うらやましい!その記憶力、分けてくれ」と思ったことの「記憶」はあります(^_^)。私の勉強のやり方がそんなですらか、時間がかかるわけです。それで、何とかもっと早く読めないかと焦るのですが、無理に早く読もうとすると後には記憶も物理的なノートも何も残らないことになり、やはりダメだ、と元のかたつむりのような読書に戻る事になります。それぞれ、自分に与えられた能力でベストを尽くすより仕方ありません。

7番目に書いたテーマの大きさですが、私は自分の人生最後にして最大の楽しみとしてこの勉強を始めましたので、学位取得を第一の目標にしてテーマ設定を小さくまとめず、出来るだけ自分のやりたいようにやろうとは思っていました。それで、かなり学際的なテーマを選び、今までほとんど読んだことのない分野の本をかなり読み始めました。最初は基本的な概念や用語も分からず、延々と同じ入門書を読んで、「こんなことやっていて、役に立つんだろうか」と思いながら暗中模索していました。結果的には、最初の1、2年目のそうした勉強と、当時取った沢山のノートが随分役に立ち、私の博士論文の個性を支えることになりましたが、私が若くてキャリア形成のために早く博士号が必要だったならば、違ったやり方をとるべきだろうと思います。

テーマの選択や理論の組み立てにおける専門的な部分での試行錯誤については、指導教授のアドバイスが非常に大事です。私の論文はほとんどがイギリスの中世演劇を扱っていますが、メイン・スーパーバイザーのG先生は、専門分野が私とはやや異なっています。彼はご自身の博士論文では中世演劇を扱い、その後も、1980年代頃までは中世演劇を主に研究されていたと思いますが、その後、引退なさるまでは主として近代初期の演劇、つまりシェイクスピアや彼のほぼ同時代の演劇(16世紀始めから清教徒革命前[1640年頃]までの演劇)を中心に論文や研究書を出されてきました。従って最近のイギリス中世演劇の研究はフォローしておられず、またそもそも退職したこの数年は研究活動から完全に遠ざかっています。それ故、既に書いたように、G先生は論文の専門的な内容については、私の自由にさせて下さいました。そのことは、私が間違った方向にかなり進んでしまっていた時も、彼は直ぐには気づいてくれなかったということを意味します。すでにブログ・エントリー「博士論文の行き詰まり」で書いたように、2014年頃にG先生が論文の大きな問題に気づき、その後私が長い停滞に苦しんだ背景にはそういうこともありました。しかし、G先生の、やや古風な自由放任の指導は、今となって考えると、年配の学生である私にとって一番適していたと思います。細々と縛られ、あれこれ注文を付けられていたら、嫌になって途中で止めたかも知れません。

今回も既に長くなりましたので、ここで一旦止めます。次回以降で、私の論文執筆の試行錯誤をより具体的に書き、出発、挫折、停滞、再出発、完成の流れを跡づけたいと思います。

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