2014/12/26

博士論文の行き詰まり

秋から今までブログの更新が極めて少なくなっているのは、劇を見たり小説を読んだりしていないせいもあるが、執筆中の博士論文が行き詰って、その打開に時間を使っているためでもある。この秋、序論や結論、参考文献などを除き、論文の本体は一応書いて、これから編集作業をする、というところまで来た、と自分では思っていた。そこで、今までは各章を書き終えるごとに提出していたが、今回、全体をまとめて指導教授に読んでもらうために送っておいた。そこで、11月末に論文本体についての5ページにわたる長いコメントが届いた。

そのコメントは、「あまりがっかりしないように」という前置きで始まっていたが、まさにがっかりするようなものだった。私の草稿は5章に分けてあるが、大体において満足できるのは4章と5章のみで、1章と2章は根本的に書き直し、3章はほとんど役に立たないので、博論本体に含めるのはむつかしい、とのことだった。3章が本論から脱線しすぎて、問題が多いことは以前にも言われていて、私自身も自覚しており、本論とは別に巻末に付属資料(appendix)としてつけようかと考えていた。しかし、1章と2章、合わせて3万語以上が使えない、というのは予期していなかったので、愕然とした。最初にこれらの章を書いて指導教授に見せた時には、満足できる、という意味のコメントを貰っており、その折にも指導を受けてマイナーな書き直しも行っていたからだ。

しかし、彼の今回のコメントをじっくり読むと、これまで部分部分をばらばらに読んでいた折には気づかなった全体の理論的な統一性の問題点が、こうして全体を読むとはっきり分かったようなのである。彼も指導学生を困らせるつもりで厳しいコメントを送ってきたわけではないし、落胆させるのは不本意だろう。但、卒業論文などならともかく、審査するは指導教授ではなく、学内の他の専門家と、学外の専門家のふたりが原則であるから、自分の指導学生に甘くすれば、最後に彼自身が、どういう指導をしていたのか、と責任を問われることになる。

そういうわけだから、今、1章と2章をゼロから書き直し、また、序論を書くべく、新たに仕切り直ししたつもりで勉強中である。先生の指摘のうち、最も大事な点は、私の草稿全体を支える理論が弱くて、その為、全体の統一がとれていないということだ。これは私もいつも頭のどこかに引っかかっていた。しかし、今までは、どこかで、このくらいなら良いだろう、とにかく早く終わらせなくては、という甘さがあったように思う。

理論に弱点がありがちなのは、私だけでなく、日本の中世英語英文学の研究者の多くに見られると私は思う。資料はしっかり集め、テキストは正確に読み込んでいるのだが、最終的にいったい何を言いたい論文/発表なのか、よくわからないとか、膨大な資料と努力の割には、たどり着いた結論は些細な、あるいは曖昧なことに見える場合が多いように思う。語学の上でハンディの大きい我々は、学部の授業は文献の読解で精一杯で、中世の文献を読む前に、そもそも理論を組み立てる勉強がほとんどできてないのである。テキストを正確に熟読していけば、自然と疑問に思ったり、あるいは分かってくるものがあるはず、という「信仰」みたいな考えがあるかもしれない。テキストを自分なりに読み解いて昇華し、そこから理論を組み立てるのは、より自覚的で、日常的な理論構築の習慣が必要だろう。

さて、私は先生に色々と欠点を指摘していただいたおかげで、今は進むべき方向はかなりはっきりしている。時間的には、いったいいつ博士論文が完成するのか、またしてもわからなくなったが、あと3年も4年もということにはならないだろう・・・と希望的観測(苦笑)。先生のコメントが届いたときには相当に落胆したが、今は色々なヒントも貰って、大いにやる気が湧いてきた。博士論文として提出できなくても、必ず完成させるつもりだ。今の大学に提出する博士論文完成は、授業料とか、イギリスに先生に会いに行くとか、アルバイトもしづらいとかで、年々資金的に苦しくなり限界に来ている。3年、長くても4年で提出の計画だったから、円高など好材料があり今までやれたのが幸運だった。それにしても、始めたときには随分と楽観的で、過大な自己評価をしていたものだ。

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