2013/10/19

映画『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")





家族への愛と最後の恋愛:
『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")
(2003、カナダ・スペイン映画)

監督:イザベル・コイシェ(コヘット) [Isabel Coixet]
脚本:イザベル・コイシェ
制作:ペドロ・アルモドバル
音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ
撮影:ジャン=クロード・ラリュー


出演:
サラ・ポーリー (アン)
スコット・スピードマン (ドン、アンの夫)
デボラ・ハリー (アンの母親)
アルフレッド・モリナ (アンの父親)
マーク・ラファロ (リー、測量士)
レオノール・ワトリング (アンの隣人)
ジュリアン・リッチングス (トンプソン医師)
アマンダ・プラマー (ローリー、アンの同僚)
マリア・デ・メディロス (美容師)

☆☆☆☆ / 5

今月初め新聞のテレビ欄を見ていて、NHKの衛星放送でこの映画の放送予定を見つけ、制作者が私の好きなアルモドバル監督であったので、録画しておいて、先日見た。

(粗筋)
「23歳のアンは、母親の家の裏庭にあるトレーラーハウスで失業中の夫と幼い2人の娘と暮らし、時間に追われる忙しい毎日を送っていた。だがある日、彼女は突然腹痛に襲われて病院に運ばれる。そして検査の結果、医師から余命2ヵ月の宣告を受ける。若さのせいでガンの進行が早く、すでに全身に転移してしまっていた。アンはこのことを誰にも打ち明けないと決意し、ノートに死ぬまでにしたいことを書き出していった。それはちょうど10項目になった。そしてその日から、彼女はその秘密のリストを一つずつ実行していくのだった…。」(www.allcinema.netより引用)

アルモドバルの映画では無いが、彼が制作を引き受けただけあって、なかなか感動的な作品。彼の作品に見られるようなちょっとファンタジックなおとぎ話風の面があり、逆に偶然が重なりすぎるなど、リアリティーに乏しくて不自然という感想も出てくるだろう。現代の寓話と言えるだろうか。昔いくらか読んだラテンアメリカの小説などを思い出しつつ、文学でも映画でも、スペイン語圏の物語って、英語圏の物語よりもファンタジックな面が強いのかなと思ったりしている。逆に言うと、英米、特にイギリスって、他国の物語と比べ、身も蓋もない現実的な話が多いという気もする。

さて、アンは17歳の時に最初の子を出産し、多くのミドル・クラスの子が高校・大学で青春を楽しむ時期を、生活と子育てに追われつつ、貧しいながら必死で生きてきた。夫はお人好しで、彼女を大変愛し大事にしてくれるが、映画が始まる時点では失業中で、生活は不安定。彼女自身も大学の掃除婦として働いている。父親は長らく刑務所に入っており、妻(アンの母)とも娘のアンとも絶縁状態。その母親は彼女を愛し、孫娘達の世話などサポートしてくれているのだが、とても陰気な性格で、いつもネガティブなことばかりいうので、顔を合わすと気が滅入る。

というような暮らしのアンが、突然あと2ヶ月しか生きられない、と宣告されたのだからたまらない。これまでだって、ろくに「生きた」という充実感の無い生活を送っていたわけだから。彼女は癌の事を誰にも知らせず、しばし呆然としているが、夜中のカフェでノートを取り出して、標題通り「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出す。全部は思い出せないが、例えば「ヘヤー・スタイルを変える」とか、「家族と海岸に行く」なんていう日常的なこともあれば、「刑務所の(絶縁状態にある)父親に会いに行く」、「子供達が18になるまでの誕生日のメッセージをテープに吹き込んでおく」というような重いものもある。そうした中でも最も重要なことは、「新しい恋をする」こと。そして、リーというひとり暮らしの測量士とそのカフェで出会い、恋に落ちる・・・。このあたりは、かなりご都合主事的なプロットだが、これはおとぎ話であると考えるべき。

突然死を宣告されて、わずかな残された期間をどう生きるか真剣に考える、というお話というと、黒澤明の『生きる』を思い浮かべる人が多いに違いない。それ以外にも、文学や映画、テレビ・ドラマなどでたくさんありそうだ。現実にだって、こういう事は誰にも起こりうる。いや、大多数の人は人生で一度は、程度の差こそあれ、こういう切羽詰まった気持ちを経験するのでは無かろうか。大変ユニバーサルな状況設定だ。これのもっとも原初的な形が、中世道徳劇、『エブリマン』とか『マンカインド』。そうしてみると、アンを取り巻く人々も、どこか中世道徳劇風の寓意的な人物に見えてくる。中世劇だと、例えば、「好色」、「友情」、「悔悛」、「物欲」、「慈悲」等々の寓意的人物が、死を宣告された主人公に近づいて来て、彼を誘惑したり、諭したりする。主人公は色々と懊悩を経た挙げ句、最後には悔悛の上で、神に召されることになる。カトリックの教えを伝える教訓的な劇であるから、結論は現代の映画とは大きく異なるが、構造は似ている。もちろん、現代のこの映画では、主人公アンは、自分の生きた証しを家族の心に刻みつけ、また家族が平和に愛に満ちて生きられるように出来るだけの事をする。と同時に、これまでに出来なかった自分の人生の為のささやかな希望を実現しようとする: ヘヤー・スタイルを変えてみようというのはそのひとつで、実に慎ましい。しかし、誰にも内緒で恋人を作りセックスまでしたのは、かなり大きな決断で、この映画の一番のクライマックス。夫は良い人で、彼女や娘達を充分に愛してくれ、浮気をしたりはしない。でも、何の説明も無いが、彼女の「私の人生、これで良かったのかしら。このまま死んでしまったら悔しい」、という気持ちが切なく伝わってきた。1人の人間の人生にとって、家族への愛と並んで、男女の(あるいは、ひとによっては同性への)性愛というものが如何に大事かを強く感じさせる作品だ。

日本人が作ると非常にセンチメンタルになりそうな題材だが、淡々と、まるでビデオ・ダイアリーのように撮られているところが大変良く、いささか不自然な設定を補っている。つまりおとぎ話をドキュメンタリーのように撮っているのだ。死の直前の苦しみなど、具体的に肉体の死にいたる局面は描かれていないので、不十分と感じる観客も多いかも知れないが、そこはおとぎ話と考えるよりないだろう。ロケの場所はバンクーバーらしいのだが、土地柄を感じさせない。ロンドンとか東京、パリなど、その場所に個性のあるところよりも、ロケ地の無機質さが、道徳劇のような一般性を強めていて良い。

20歳位の若い人、働き盛りで落ち着いて人生を考える暇のない多忙な世代の人、そして私のように老境にさしかかり自分の死を現実として感じ始めた(あるいは感じている)人、人生の色々な段階にいる人にとって面白いと感じさせる要素を持っていると思う。

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