鑑賞した日:2014.5.17
映画館:ヒューマントラスト・シネマ有楽町
上映時間:約3時間
監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ
原作(コミック):ジュリー・マロ
撮影:ソフィアン・エル・ファニ
出演:
アデル・エグザルコプロス (アデル)
レア・セドゥ(エマ)
サリム・ケシゥシュ (サミール)
モナ・ヴァルラヴェン (リーズ)
ジェレミー・ラユルト (トマ)
ヴァンジャマン・シクスー (アントワンヌ)
☆☆☆☆ / 5
新聞の批評などでも何度か目にしたし、ブログでも、「良かった」と感想を書いている人が幾人かあって気になっていたが、やっと見に行った。”Girl Meets Girl”映画。『ロミオとジュリエット』タイプの”Boy Meets Girl”は、どんなに工夫しても陳腐さから抜け出すのは難しく、”Boy Meets Boy”タイプの映画もかなり作られつつあるが、思春期のレスビアンの恋と生活を描く映画やテレビドラマはまだそう多くはない。この映画が5年後10年後にも今の新鮮さを保てるかは疑問だが、しかし、今の私達(というか、私)にとっては、まだかなり新鮮に感じ、見に行った甲斐があった。但、カンヌでPalme d’Or(最高賞)を取るほど良いかというと、疑問には感じた。
(以下、最後まで筋を書いていますので、これから見る方はご注意)この映画は、時間的に大きく3つのパートに分けられているようだ。最初はアデルが高校生の時のエマとのなれそめ。2番目は、ふたりの同棲時代。そして3番目は同棲が崩れた後のこと。但、この第3のパートも時間的に2つに別れており、最後は謂わばエピローグのような形になっていて、かなりかっちりした作品造りがされていると感じた。順を追って紹介する。
(パート1)アデルは、庶民的な家庭に育った割合普通の女の子。この部分では高校生。同級生からも可愛いと思われていて、上級生の男の子から声をかけられデートし、セックスする。しかし、髪を青く染めた年上の子、エマと道ですれ違ったとき、すぐに惹かれる。その後、友達のゲイの子サミールにつれられてゲイバーに行ってみるが、近くにあったレズビアン・バーにも寄り、そこでエマと知り合って始めて言葉を交わす。ふたりはたちまちお互いに夢中になり、公園でデート。そしてすぐにセックス。若さ溢れる、元気いっぱいの、マット運動みたいな(^_^)セックスシーンが長く続く。エマは美術学校の学生で画家志望。彼女の両親(父親は再婚で義理の関係)も、インテリのボヘミアン風。生活レベルも、極めて庶民的なアデルの家よりは幾らか良いようだ。但、イギリスの映画などと比べると、それ程階級を意識させるように作られているとは思えない。家の様子や広さも、本人たちや両親の身なりも、極端に違っているわけでもない。しかし、文化的な違いはかなりありそうで、それがふたりの間のすきま風に繋がっていったようだ。
(パート2)1〜2年後だろうか、ふたりは同棲している。学校を出た後の進路の違いと共に、ふたりを分かつ環境の違いはよりくっきりしている。アデルは幼稚園の先生として働き、職場や同僚に溶け込んでいる。教え方もすっかり身に付いてきて、園児達の快活で元気なお姉さんという感じだ。一方、エマは芸術家としての第一歩を踏み出そうとしている。アデルの職場や同僚の様子、そしてエマの芸術家やインテリ仲間を招いたパーティの場面が丁寧に映され、ふたりを取り巻く環境の違いが、周辺の人々を通じて浮き彫りにされる。自分の知識とか感性についてのプライドが高そうで、気取っていて自由な生き方をしているエマの仲間たち。エマのセクシュアリティーも当然オープンだ。それに対し、先生らしい真面目さと平凡さがにじみ出るアデルの同僚たち。アデルは、自分がレズビアンであることを誰にも言っていないようだ。ふたつのサークルの人々が混じり合うことは無く、アデルはエマのサークルに混じるときは、家庭でかいがいしく料理をして裏方を務める慎ましい主婦の役割。エマは妻の手を借りてお客をもてなす「主人」(このあたり、同性愛カップルであっても伝統的役割分担が見えて、日本のサラリーマン家庭を思い出す)。寂しさを感じたアデルは同僚の男性と2,3回セックスをしてしまったようで、それをエマに見つかり、激怒したエマはアデルを追い出す(このことから、アパートはエマが費用を払っているのだろうと推測でき、ふたりの経済的な力関係が感じられる)。その時のエマの激しい罵倒は(何度も字幕では「売春婦」というような言葉が出て来た)、浮気した妻を怒鳴りつける専横な夫を思わせた。相手の言い訳に一切耳を貸そうとせず、アデルの持ち物を引っ張り出そうとするエマ。見ながら、「おいおい、君はほとんどDV亭主か」と思ってしまう。思想において進歩的だったり、感性や知性に秀でている人にしばしば見られる利己的で不躾な側面が的確に描かれている。
(パート3)その後、また1〜2年経ったように見える。アデルは今は小学校の1年生を教えており、眼鏡をかけて本を音読させたり、騒ぐ子をちょっと眉をひそめて注意したりしている。幼稚園の先生の頃の素人っぽさが抜けて、教師らしい職業婦人のキャラクターとして描かれる。髪型も大人っぽくなり、年齢より老けて見えるようにしている。アデルはエマをカフェに呼び出して、「あなたを忘れられない」、と言う。エマもアデルへの愛はまだ残っているようだが、しかし、彼女は既に以前から付き合っていたパートナーと安定した暮らしを築きあげているようで、よりを戻すつもりは全く無い。エマはこみ上げる涙を抑えられず、ずるずると鼻水を垂らしながら泣く。昔の映画なら、相手がここですかさず綺麗なハンカチを出すところだろうが、これはレズビアン・カップルだから、騎士道的なジェスチャーは似合わない。日頃の大人っぽいアデルの表情が見事に崩れ、高校生の頃の素顔がのぞく。
(エピローグ)最後はエマが幾つもの作品を出品した展覧会の初日のパーティーのシーン。エマは昔約束していたようにアデルに招待状を送っていたが、前回カフェで会ってから後、ふたりはずっと会うこともなかったのだろう。あの時、展覧会には招待するね、と言っていた約束をエマは果たしたわけだが、エマの愛情は更に冷めていて、アデルに本当に来て欲しかったようでもない。別れる以前にアパートで開いたパーティ以上に、アデルはエマの世界が自分の世界とは違ってしまったのをひしひしと感じする。ワインを持って部屋をめぐっても、気楽に話をできる人もいない。エマと挨拶はするが、今のパートナーのリーズがそばにいて気軽には話せないし、エマはアーツの関係者をもてなすのに一生懸命に見える。いずれにせよ、ふたりの間には超えがたい壁が出来てしまっている。ひとりだけ、昔アパートでのパーティーにも来ていた俳優志望のアラブ系の青年が彼女に他の人以上の関心を示す。彼は当時は夢を追っていたが、今は主に地味な普通の仕事(不動産業?)をやっている。アデルはワインのグラスを置き、にぎやかな会場を、エマに別れを言うことなくひとりでそっと抜け出す。彼女がいなくなったことに気づいたアラブ系の青年は慌てて外に出て彼女を捜すが、もう見つからない。青いスタイリッシュなドレスをまとったアデルは、背筋を伸ばして足早に去って行く。
既に見た人が決まって指摘しているように、食べ物が効果的に使われている。アデルの家の定番は庶民的で万人がよろこぶミートソース・スパゲティー、エマの家の客料理は生牡蠣。アデルは食わず嫌いもあって牡蛎は苦手だったが、食べてみると意外に美味しいと言う。牡蛎はレズビアンのセックスの隠喩でもあるだろう。ミートソース・スパゲティーの方は、ふたりが同棲した後も、パーティーでアデルが用意する。日本で言えば、せっせとちらし寿司を振る舞うお母さんのイメージか。アデルには、芸術家のエマと暮らし始めても、昔の庶民的なルーツが染みついているのがうかがわれる。
もうひとつは「青」。エマの青く染めた髪の毛は、フランス国旗の青同様、アデルにとって自由の象徴だろう。しかし、2部以降はエマは髪を青く染めることをやめている。エマはアート業界の一員として彼女なりに組織に組み込まれ、その世界の常識を生きている、ある意味で「普通の人」になってしまったのかもしれない。アデルが最後に身につけた青いドレスは、彼女がエマから「自由」になったことを示しているのだろう。他にも紙ナプキンとか、随所に青が意図的に配置されて、映画全体に統一感を与える。
アデルの家が貧しかったり、イギリスの労働者家庭でしばしば見られるような明確な階級意識を持っていたりするわけではなさそうだ。エマの家も、立派な邸宅や高級マンションではなく、使用人がいそうな家でもない。しかし、ふたりの家庭の保守性とリベラルさの違いははっきりしている。特にアデルの父親は、食えない職業である芸術家について、面と向かって否定的な事をエマに言う。一方、エマの両親は、少しでも創造的な仕事をするのが人生の目的であるという価値観の持ち主。もちろんパート1でのアデルは自分の友人がレスビアンであることは親に言わないし、言える様な雰囲気でもない。また彼女自身、学校で、あなたはレスビアンね、と友達に言われたときに、猛然と否定し、つかみ合いの喧嘩になる。
私にとって、この映画の最大の魅力は、第1部で、エマとの恋愛を通じてアデルが自分のセクシュアリティーについて徐々に気づいていく時の心の揺れ動きやその描写のみずみずしさだ。社会から「普通」として認められるヘテロ・セクシュアルの若者にとっても、思春期における性の自覚は大変な葛藤を伴うことが多いだろう。増して、ゲイ・レスビアンであったり、バイ・セクシュアルであったりすれば、学校や家庭、地域における社会的なストレスも大きく、また自己嫌悪や自分のセクシュアリティーを認めたくない、という気持ちも起こりがち。この映画は、学校や社会全体におけるゲイ・レスビアンへの差別とか、家庭内の軋轢と言った政治色を避けて、あくまで、素朴なひとりのレスビアンの若者アデルの揺れ動く気持ちや愛の喜びと悲しみと言った古典的テーマをじっと凝視したことで、教条的にならずに、素直な恋愛映画となっていると感じた。一般の映画館で公開される多くの恋愛映画では、恋人達の会話とか仕草とかは念入りに描かれても、セックスをセックスそのものとして充分に描くことは少なくて、あまりリアリティーの無い、一種の「振り付け」されたセックスがロマンチックなバックグラウンド音楽と共に短時間映写される。また、多くの人は、ポルノ見たさで来たわけでもないのに映画館でセックスを長々見せられるのは居心地悪い、と思うかも知れない。しかしこの映画では、10代後半の、ホルモン満開の年代の若者にとって、性の興奮と喜びが如何に強烈なものかを観客に訴えようとしており、あのシーン無くしては映画全体のインパクトはかなり弱くなってしまうと思える。
後半、ちょっと眠くなった。ふたりの気持ちが離れて行くシーンを、少しずつ時間をかけて描写しているのだが、ちょっと冗長になった気がした。もうひとつ不満な点は、脇役があまり印象の残る程描かれていないこと。ゲイの友人サミール、最後に出て来たアラブの若者など、もっと描き込めばおもしろくなりそうなキャラクターが幾人かいたが、もう少し生かせなかったものか。全体のテンポを上げて、かつ脇役をよりくっきり表現することで、更に面白い映画になったような気がする。
高校や小学校の教室の風景は、フランスの今が感じられてとても興味深い。また、脇役の人種の多様さに多文化のフランスの良さが感じられた。掘り下げられはしなかったが、アデルを慰めたり共感すのは、多分アラブ系のサミールと俳優志望の青年だった。
この映画を10代のレズビアンの方が見たら、きっととても感激するだろうな。でも、そうでない人にも、特にヘテロセクシュアルの男女の若者にこそ、偏見のない心で見て考えて欲しい作品。
(追記)ちなみに、私がこの映画を見た5月17日は「国際反ホモフォビアの日」(International Day against Homophobia and Transphobia, IDAHO)だった。日本でも集会や勉強会など、幾つか小規模の記念行事が行われたようだ。
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