このブログに時々コメントを下さる守屋様のブログ "London Love & Hate"は興味深いロンドン情報や生活実感が沢山あります。そちらの新しいポスト「英語に関するあれこれ2:外国語を学ばないイギリス人」において私のブログにリンクを貼っていただきましたので、私もコメントを致しました。そのコメントに更に加筆訂正をして、ここにも2度に分けて掲載させていただきます。
チョーサーの描く女子修道院長のフランス語
守屋様はブログで、イギリス人のお友達から聞いた話として、チョーサーの描く女子修道院長のフランス語について言及されています。
ジェフリー・チョーサーは、『カンタベリー物語』の「プロローグ」(「序歌」と訳されることが多いです)でひとりの女子修道院長の肖像を描いています。彼女は、フランス語を優雅に話すが、彼女のフランス語はイングランド訛り、正確には、Stratford-at-Bow(ロンドン郊外の地名)流儀のフランス語であり、(王宮で話されているような)パリのフランス語とは違う、と書かれています。こうしたイギリス訛りの中世のフランス語をアングロ・ノルマンと言います。これは伝統的には、この女性の田舎くさいフランス語を皮肉ったものと解釈することが多いようです。この女子修道院長の描写は概して諷刺的であるとされてきましたが、近年は専門家の間でも異論があり、一概に彼女を皮肉ったり批判しているとは言えないという意見もあるようです。
この部分を一応引用しておきます:
And Frenssh she spak ful faire and fetisly,
After the scole of Stratford atte Bowe.
For Frenssh of Parys was to hire unknowe. (ed. L. D. Benson, ll. 124-26)
背景としては、当時は英語もフランス語も標準語というものは定まっておらず、各地でその土地の方言が今よりずっと広く使われていました。中世末期、イングランドを治めていたプランタジネット王家は、元来フランスからやって来た貴族であり、現在のフランス西部にも広大な領地を持ち、家来も配置していた、英仏海峡にまたがる大国でしたので、イングランドでは広くフランス語(前述のアングロ・ノルマン方言)が使用されていました。お妃も大陸の仏語圏から来ることが良くありました。チョーサーが生まれた14世紀前半は、王宮ではまだ主としてフランス語が話されていた可能性が高いと思われます。但、王宮で話されたフランス語は、主としてパリのフランス語であったと言われています。更に、書き言葉や、ローマ教会、裁判所等で使用された知識人の国際共通語はラテン語でした。ラテン語の使用はかっての日本における漢文の役割に似て聖職者の言語であり書き言葉中心ですが、中世ラテン語は、書かれるだけでなく、話す人もかなりある言語でした。加えて、チョーサー自身は、国際的な商都ロンドンの下町の裕福なワイン商人の息子であり、フランス語は勿論、イタリア語やフラマン語なども日常的に聞いていたと思います。10代から宮廷に出仕してフランス語環境に慣れ、成人してからは、官吏としてイタリアへ長期出張もしたので、イタリア語もかなりできました。奥さんは宮廷の侍女で、フランドル出身の家系です。奥さんの第一言語は、おそらく英語ではなかったでしょう。従って当時のイングランドは、特に王宮に出入りする知識層(貴族や官僚、侍女など)、聖職者の多く、裁判所関係者などは、複数言語使用者が多く、自然に習得するにしろ、意識的に教育を受けるにしろ、母語以外の言語を学ぶことは当たり前でした。そもそも当時の教育は、まず知識人の共通語であるラテン語の読み書きを学ぶことから始まったわけです。これは近代になっても変わらず、その名残は最近まであり、grammar schoolのgrammarは、英語文法ではなく、ラテン語(その次には古典ギリシャ語)の文法を意味しています。ルネサンス・オランダの大知識人エラスムスは、イングランドの大法官トマス・モア(ヘンリー8世に処刑された人)の親友でしたが、エラスムスはモア、あるいはコレットやフィッシャーなどその他のイングランドの友人とは、おそらくいつもラテン語で会話していたでしょう。何しろ、エラスムスが母国語のオランダ語を話したのは、息を引き取る前だけという逸話があるくらいラテン語を常用していたようですから。
なお、エラスムスの英語力については存じておりません。ケンブリッジ大学の教壇に立っていたので、英語も出来たとは思いますが、講義はおそらくラテン語で行ったでしょう。同僚との会話はどうであったのか、モアの家などで、モア・サークルの人々と会話する時はどうしていたのでしょう。モアの娘マーガレットはエラスムスのラテン語の著作を翻訳していたと思いますし、子供の頃から親しかったはずです。何かご存じの方がいらっしゃれば是非教えて下さい。その他、英語史や英仏史、ラテン語などを勉強されている方、私の間違いの訂正、その他のコメントなど大歓迎です。
(大学生の方へ:今回は多少勉強めいたポストですのでお願いですが、もしレポートなどに利用する場合は、公刊されている書籍でちゃんと調べなおし、出典を示して引用や言及をして下さい。一般的に、ブログは気軽に書いた文章で、学術文献ではありませんので、間違いも多いです。私自身もいちいち典拠を再確認しているわけではありません。勉強の出発点としてのヒントには出来ますが、ブログを引用するなどしてレポートに利用すればご指導の先生の印象を悪くするだけですし、出典を示さなければ剽窃となります。)
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おはようございます。冷えてきましたね。
返信削除僕は大学ではホガースだけに集中していたので(といっても学んだことはすでに何も残っていません)、イギリス文学を系統だって読んだことがなく、詳細な説明、とても面白いです。
それと、最後の大学生の皆さんへのメッセイジ、Yoshiさんの真摯な姿勢に感銘を受けました。僕も、ブログは読んでくださる皆さんが興味を持つきっかけになればと思っています。
守屋様、コメントありがとうございます。
返信削除最後のメッセージは、インターネットのおかげで学生さんが簡単に剽窃をするのが当たり前になっているようなので、このようなブログ記事でも検索にひっかかれば誤った利用をされかねないと思いまして、付け加えました。他人の書いたものを貼り付けたレポートで済ませるなんて、年何十万とか百何十万とかの授業料をどぶに捨てるようなものです。Yoshi
ラテン語でモアの『ユートピア』を現在読んでいる最中です。凝った修辞が用いながら、語句の繰り返しを極力避け、流れるように自由な文体で書かれていて読むのは相当やっかいです。中世にラテン語で書いた聖職者たちとは比べものにならないほどラテン語が流暢です。
返信削除フランスのモンテーニュもそうですが、十六世紀の人文学者は少なくとも書くことに関してはラテン語のほうが母語より自由に扱うことのできる人が多かったように思います。文芸作品はともかく、行政文書、学問的著作、紀行文などが俗語で本格的に書かれるようになったのは十六世紀以降ですし、学校での教育ではラテン語が教育されていた時代です。
エラスムスとモアはラテン語で会話をしていたと思います。彼はほとんど母語に近いレベルでラテン語を読み書き話すことができたのではないでしょうか。モアのラテン語を読んでいるとそう思います。
またフランスの大学ではこの時代、ラテン語で講義が行われていました。おそらくイギリスでも状況は同じだと思いますが。
十六世紀にはフランソワ一世が現在のコレジュ・ド・フランスのもととなる三言語学院(ギリシア、ラテン、ヘブライ語の三言語)を設立し、これがフランス語で講義が行われる最初の高等教育機関だったはずです。大学では十八世紀末までラテン語で教育が行われていたように思います(後で確認しておきます)。
caminさま、
返信削除ご無沙汰しています。コメントありがとうございました。ラテン語でモアをお読みになるなんて、すごいですね。モアの時代は、ネオ・ラテンで、中世とは違い、古典ラテン語に大きな影響を受けた時代ですから、ラテン語も(我々にとっては}ややこしい構文に逆戻りしているのでしょうね。
もともとラテン語から出来ているフランス語やイタリア語とは違い、ゲルマン語である英語の場合、ラテン語習得にはより多くの努力を要するのではないでしょうか。確かにほとんどの大学の講義はラテン語であっただろうと推測しますが、その他の場面では、書き言葉はともかく、話し言葉でラテン語が使われることは、16世紀のイギリスでは非常に少なかっただろうと思います。既に14、15世紀には、聖職者でラテン語が読めも話せもしない人がかなりいたようで、英語で彼らのための説教マニュアルが多く書かれたくらいですから。 Yoshi
話し言葉としてのラテン語についてはまた時間があれば調べてみたいですね。十八世紀後半までは大学ではラテン語というのが頭にあったので、インテリの間でのラテン語力は母語に関わらず同じようなものだと思っていたのですが。
返信削除一般的な下級聖職者のラテン語力については当時のイギリス人とフランス人の間にそう差はなかったと思います。九世紀の大昔の話になってしまいますが、シャルルマーニュはイングランドからアルクィヌスたちを招聘して、当時まともにラテン語の読み書きができなくなっていたフランスにおけるラテン語復興を試みたという史実もありますし。
ネオ・ラテンはモアしか読んでいないのですが、彼のラテン語は古典時代の作家と遜色ないものであるように思えます。
一四世紀におけるアングロ・ノルマン方言の位置づけについても興味深いのでまた調べてみたいです。イングランド王室でもやはりアングロ・ノルマン方言が話されていたと思っていたのですが。
現代のフランス語のもととなるパリ方言(フランシアン)の優位は大陸では一三世紀後半から確認できるようです。「カンタベリ」の冒頭はその文脈からは、パリ方言のステイタス確立の傍証になるような気がしますが、当時のイングランドやイングランド王室でのアングロ・ノルマン方言の位置づけなどこれも調べてみたいところです。
caminさま、引き続きコメントありがとうございます。
返信削除「インテリ」と大学の学者や学生は違うと思うので、「インテリ」の間のラテン語能力も、ルネサンスの間でさえ、色々でしょう。シェイクスピアはある程度のラテン語は読めただろうとは思いますが、古典は英訳を通じて知ったと思います。ジョンソンにlittle Latin, no Greekとからかわれたりしています。
記憶しているところでは、イングランドでは、盛期中世よりも、中世末になり、聖職者の教育レベルが低下し、ラテン語の読めない聖職者が多くなって、俗語の説教マニュアルが多く出回ったとどこかで読みました。これはバイキング時代の状況とはまた別の現象でしょう(バイキング時代のイングランドもフランスと同様です。)
イングランドでも、おそらくフランシアンがファッショナブルな仏語と見なされたのでしょうね。但、イングランドは1066年以来ノルマンディーとの行き来は多いですから、ノルマン方言の仏語がもとになっているのでしょう。地理的にも近いですし。『カンタベリー物語』が書かれた時代の仏語/英語について言いますと、王室の日常語も大体において英語になっていたと言われています。英米では中世の多言語利用についての研究は近年特に盛んになっているようです。たとえば:
http://www.amazon.com/Medieval-Multilingualism-Francophone-Neighbors-Cultures/dp/2503528376
イングランドのフランス語は15世紀には決定的に下火になったようですが、法廷用語では根強く残りました。 Yoshi
14世紀前半のイングランド宮廷では既に英語優位だったのですね。エドワード三世のガーター勲章のエピソード(Honni soit qui mal y pense)の印象が強かったり、あるいは無意識的なフランス贔屓があったのか、14世紀中はイングランド王室ではもっぱらフランス語(それもおそらくアングロ・ノルマン方言)が用いられていたと信じ混んでいました。
返信削除フランス語と英語の歴史的関係については、語学の授業の導入にも使うことができるし、私自身も関心があるのでもっと勉強してみようと思います。
興味深い本を紹介していただきありがとうございます。早速大学図書館に購入リクエストを出しておきました。
caminさま、またコメントありがとうございます。
返信削除『カンタベリー物語』は1400年に亡くなったチョーサーの最晩年の作品です。従って、私が言っているフランス語使用状況は14世紀の終わりです。エドワード3世は1927-77年が治世ですが、彼が王になった頃の宮廷はフランス語使用が主、彼が亡くなった頃は、英語使用と言うのが英語史の教科書などで普通書かれている事と思います。14世紀末には裁判でも英語が使用され始め、英語が単なる会話の言葉から、公的言語に移り変わり始めた時期にあたります。百年戦争により、敵国の言語への感情が変化したこともあるでしょう。しかし、15世紀になっても、Margaret of Anjou (Henry VIのお妃)などフランスから王妃を迎えており、王室ではある程度は(一定数の人達は)、仏語が使われていたことと思います。
ウィリアムのイングランド征服に帰するアングロ・ノルマンとは別に、新しくフランス各地からやってくる人々も常時沢山いたでしょうから、イギリスのフランス語がアングロ・ノルマンばかりというわけでも無かったでしょう。ですからチョーサーの上記のような諷刺もあり得たのだと思います。
Calais周辺や、アキテーヌなど、300年、あるいはそれ以上プランタジネット領であった地域では、英語もある程度使われたのかどうかも気になります。
エドワード3世のガーター勲章のエピソードで何ですか?不勉強なので知りません。教えてくいただけると幸いです。Yoshi
すいません。返事が遅れました。
返信削除ガーター勲章のエピソードですが、ガーター勲章の銘句「HONI SOIT QUI MAL Y PENSE」悪しき思いを抱く者に災いあれ
に関する伝承です。
クレシーの戦いの戦勝を祝ってカレーで行われた舞踏会で、美しいソールズベリー伯夫人が踊っている最中にガーターが外れて地面に落ちてしまった。エドワード三世がかがんでそれを拾ったときに、回りにいた廷臣たちがクスクス笑った。王はそのガーターを自身の足につけて上の台詞を言った。
というものです。
もともとの出典はどこか知りません。フロワサールの年代記に書かれているのかな?
フロワサールの『年代記』は日本語訳がまだなかったような。意外な感じがします。
作曲家としては有名でたくさん録音のあるギヨム・ド・マショの代表作の日本語訳もありませんね、そういえば。
caminさま、
返信削除お教えいただきありがとうございます。ウィキペディアにも載っていました。常識が色々と欠けているもので、お恥ずかしいです。
中世仏文学は、名作がたくさんあるので、翻訳されていない大事な作品も多いのでしょうね。caminさんも頑張って、何か訳して下さい! Yoshi
このコメントは投稿者によって削除されました。
返信削除頑張ります。
返信削除私はギヨーム・ド・マショーの物語詩で卒論を書きました。そもそもマショーの音楽の響きに魅せられて中世文学に興味を持つようになったのです。
その後演劇に関心が移ってマショーから離れてしまいましたが、先のYoshiさんのコメントで、「ずっと勉強を続けてまたいつかマショーに戻って来れればいいな」という風に自分が思っていたことを突然思い出しました。思い出してちょっと泣きそうになった。
実のところ、今の自分の状況で中世文学の研究なんてやったところで、とくじけそうになることもあるのですが、いつかマショーの作品の訳に着手できるようになるまで、コツコツと勉強を続けていきたいと思います。
caminさま、コメントありがとうございます。
返信削除14世紀、あるいはその前の2世紀くらいのイングランドでは、英語の文学はまともな評価が出来ない低級なものと考えられていたようで、チョーサーや彼の同時代の作家の教養もほとんどラテンや仏語文学ですね。チョーサー研究をしようと思うと、古仏語もかなり出来ないとまずいようで、英米の学者の中には、所属を調べてみないと業績だけでは英文学者か仏文学者か分からない人さえ居ます。私は中世仏文学は翻訳でさえ読んでないものが大半なので、チョーサーもそういう点では敷居が高いです。
>今の自分の状況で中世文学の研究なんてやったところで
日本の人文科学の研究者、特に専任を持っていない人にとっては共通することだと思います。また、専任の方の多くも、学内の事務的、管理職的業務に忙殺され、授業は初歩の語学や(英語の人の場合)資格試験の準備講座やビジネス関連の語学などで、士気を喪失しがちです。同僚が専門的な研究の話をしたりすると煙たがる人、「贅沢なこと言ってるな」という顔で見る人、(語学教育やビジネス英語教育などに)専門分野をすっかり変えてしまう人さえいらっしゃいます。日本に帰国して、いただいた年賀状を見ると、「今年は少しは勉強したい」と書いておられる方が何人もいました。常に、自分は何故学問を続けているのか、を問い続けざるを得ない時代になってきましたね。決まった答は無いので、ひとりひとりが自分の状況に応じて答を探し続けざるを得ませんね。
私としては、caminさんが、何としても諦めずに学位論文を完成させるよう望んでおります。そして、その上でマショーの研究など、新しい出発をされるように祈っております。 Yoshi