2011/02/15

『焼肉ドラゴン』 (新国立劇場、2011.1.13)

在日韓国朝鮮人の暮らしから、戦後の日本を照射する
『焼肉ドラゴン』 

新国立劇場公演
観劇日: 2010.1.13    13:00-16:10
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出、脚本: 鄭義信
翻訳: 川原賢柱
美術: 島次郎
衣装: 出川淳子
照明: 勝柴次朗
音楽: 久米大作
音響: 福澤裕之

出演:
甲哲振 (金龍吉、焼肉ドラゴンの店主)
高秀喜 (高英順、龍吉の妻)
粟田麗 (金静花、長女)
占部房子 (金梨花、次女)
朱仁英 (金美花、三女)
若松力 (金時生、長男)
千葉哲也 (清本〔李〕哲男、梨花の夫)
笑福亭銀瓶 (長谷川豊、クラブ支配人)
朴帥泳 (尹大樹、静花の婚約者)
佐藤誓 (呉信吉、店の常連)
金文植 (呉日白、呉信吉の親戚)
水野あや (高原美根子、長谷川の妻)
水野あや (高原寿美子、美根子の妹で、市役所職員)
阿部良樹 (店の常連/アコーディオン演奏)
佐々木健二 (店の常連/太鼓演奏)

☆☆☆☆☆ / 5

2008年の新国立劇場での初演で大評判を博した作品だそうである。私は今回始めて見た。色々な劇評や、演劇ブログなどで、再度、賞賛と感激の声が上がっているようだ。私も全く同感。それらの劇評と同様の事を繰り返しても仕方ないので、今回は私的体験と結びついた感想を主にする(と言っても、ある程度繰り返しになるが)。

戦後の高度成長経済の進む中、差別され、豊かさへの流れから取り残された貧しい在日韓国朝鮮人の部落で、焼き肉店を営む金龍吉と彼の妻、そして龍吉の3人の娘の恋人などの生き方、学校でいじめられて自殺に追い込まれる長男などを通じて、日本の戦後が置き忘れ、切り捨ててきたともいえるコミュニティーや家族を問い直す。マイノリティー社会がその国の文化や社会をより鮮烈に表していることは、アメリカやイギリスでも言えることがだが、日本における在日の人々の姿を見ても同様だと感じた。日本人が、豊かさを追い求めているうちに忘却してきた隣人や、自分自身の大切な一部がここにはある。これは在日の作家による彼ら自身の戦後史であるだけでなく、すぐれた日本人の戦後史だと感じた。

私は、鄭義信によるもうひとつの新国立劇場作品、「たとえば野に咲く花のようにーアンドロマケ」も見ていて、大変感銘を受けたのを覚えている。50年代の北九州を舞台に、対岸で繰り広げられる朝鮮戦争に翻弄される男女を描いた作品だった。私も50年代に、筑豊の炭鉱にも近い北九州の工業地帯で生まれた。祖父は石炭やコークスの商人であった。子供の頃、韓国からの密航の話は(多分テレビのニュースなどで)よく聞いていた。自宅から歩いて30分弱のところには、この劇で描かれた町と似た貧しい朝鮮人集落があり、そこに行くといじめられる、と子供の間では噂されていた。でもクラスにはそこから通っている、人の良いひょうきんな仲間がいて、私も割合彼と仲が良い方で、家に連れて行ってもらったこともあった。その部落は、おそらく私が中学生か高校生の頃には取り壊されてしまったと思う。その後、大学生の頃には在日の友人も居て、就職の難しさや差別、北朝鮮に行った人々からの複雑な便りなど、この劇でも触れられている事を聞いていた。在日のコミュニティーにそれ程親しんだわけではないけれども、この劇の背景には、直接私と結びつく繋がりを強く感じた。だから、劇が始まった途端に、そのかもし出す世界にどっぶりと浸かっていた。

私がとりわけ震えるような気持ちになったのは、長女夫婦が北朝鮮に行くことに決めた時。この劇の悲しみは現在も続いている。千葉哲也扮する日本で育った在日の男は、ハングルも出来ないのに日本社会で受け入れられず、筑豊の炭鉱から空港の工事現場へと日本社会の周辺部を漂流し、今は酒と無為に溺れているが、新しい世界を求めて、吹っ切れた表情で北朝鮮を目ざす。足の悪くて、いつも痛む足をさすっている龍吉の長女も彼と共に旅立つ。劇の物語はそこで終わるのだが、もし続いていたとしたら彼らは今、一体どうなっているのだろうか。生きているのか? 障害のある長女は、厳しい北の暮らしに耐えられるのか? 在日の人々が見ていたら、自分の身内や友人、隣人に、こうして北にわたった人がきっと何人もいるに違いない。胸が張り裂ける思いであの晴れやかな旅立ちのシーンを見ることだろう。それを思うだけで、胸が締め付けられる。そして、彼ら在日の人々を受け入れず、北に追いやった日本の社会にも、責任の一端があることを痛感した。

俳優が皆凄い。特に韓国人の俳優達が新鮮だ。中でも、店主夫婦の存在感は圧倒的。これを見せられると、俳優の演技力なんて、私にはまったく分からない、と思ってしまった。店主の金龍吉をやっている甲哲振は日本語がほとんど出来ない(アフター・ステージ・トークで出ていらしたが、通訳が付いていた)。しかし、彼が不自由な日本語で自分の人生を振り返って言う「働いて、働いて・・・」という言葉、そして、「私はここを佐藤さんから買った」と自分の店の所有権を主張する言葉の重さは、素晴らしいの一語。20歳位年齢が上の役をやる、龍吉の妻の役の高秀喜も、大柄な体軀で喜怒哀楽を全身で表現し、圧倒的な存在感。賑やかな食事の風景をベースに、大柄で感情表現の豊かな母、実直な夫となると、「肝っ玉母さん」と共通する面もかなりあった。

日本と韓国の才能ある俳優達、そして脚本作者自らの演出によるケミストリーの力が大きいと思うが、戦後日本を3時間にぎゅっと凝縮した名作だ。日本文学史に残る傑作として記憶され、上演が続いて欲しい。在日の人々を描きながら、私達戦後生まれの日本人の演劇、とも感じた。私の様な高度成長期と共に生きてきた世代には、直接肌に感じられる作品だが、今の若者にも、戦後日本がたどった道を考えるためにも、是非見て欲しいと願う。


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