2011/02/07

『わが町』(新国立劇場、2011.1.23)

小さな町から宇宙的広がりへ
『わが町』 

新国立劇場公演
観劇日: 2010.1.23   13:00より
劇場: 新国立劇場 中劇場

演出: 宮田慶子
原作: ソーントン・ワイルダー
美術: 長田佳代子
衣装: 加納豊美
照明: 沢田祐二
音楽・ピアノ演奏: 稲本響
制作: 渡邊邦男

出演:
舞台監督〔ナレーター〕 (小堺一機)
ドクター・ギブズ〔町医者〕 (相島一之)
ミセス・ギブス (斉藤由貴)
ジョージ・ギブズ〔ギブス夫妻の息子〕 (中村倫也)
レベッカ・ギブズ(ギブス夫妻の娘〕 (大村沙亜子)
ミスター・ウェッブ〔ギブス夫妻の隣人〕 (佐藤正宏)
エミリー・ウェッブ〔ウェッブ夫妻の娘、ジョージと結婚する〕 (佃井皆美)
ウォリー・ウェッブ〔ウェッブ夫妻の息子〕 (菅野隼人)
サイモン・スティムソン〔教会のオルガン弾き、アルコール中毒〕 (山本亨)
ジョー・クローウェル (橋本淳)
サイ・クローウェル (横山央)
ハウイー・ニューサム (中村元紀)
ウィラード教授 (北澤雅章)
ソウムズ夫人 (増子倭文江)
ウォレン巡査 (青木和宣)

☆☆☆☆ / 5

(以下にプロットを書いていますので、読みたくない方はご注意下さい)

アメリカの現代古典で(1938年初演)、日本でも繰り返し上演されてきた作品だが、今まで見たことも読んだこともなかったので、今回みる機会があって幸運だった。リアリズムの盛んなアメリカで戦前に書かれた劇とは思えない斬新な作劇術で、驚いた。

劇は3幕から成る。第1幕では、ナレーター役の舞台監督によって、いささか形式的な町の説明で始まる。その後、ニュー・ハンプシャー州の架空の小さな町、グローバーズ・コーナーの日常生活が淡々と繰り広げられる。静かで平和な時がゆっくりと流れるsmall town in America。隣人同士のギブス家とウェッブ家の交流、ふたつの家の主の穏やかな人となり、良心的なドクター・ギブスの仕事ぶり、賑やかで人の好い奥さん達、教会のアル中のオルガン弾きに関するゴシップ、子供達の学校のことや宇宙に関する空想・・・。あまりにも平凡すぎて、見ていて退屈しないのが不思議なくらいの日常が淡々と演じられるが、何故か面白くて、ぐっと注意を引きつけてくれた。

第2幕は3年後。1幕で出て来た十代の子供達、ジョージ・ギブズとエミリー・ウェッブの結婚式の当日のそわそわした朝。ミスター・ウェッブがジョージに対し、結婚についてアドバイスにならないアドバイスをしたりする。その後、時間が少しさかのぼって、ジョージとエミリーが結婚を決意したソーダ・ファウンテンでのシーンが挿入され、そしてまた結婚式の日に戻る。両家の人々の幸せが頂点に達する。

第3幕は、それまでとは打って変わって陰鬱な情景で満たされる。場所は町の墓地。第2幕で結婚したエミリーが、2番目の子供の出産の際に亡くなり(赤子は生き残る)、彼女の遺体が墓地に埋葬される。エミリーの魂が既に亡くなって埋葬されていた人々(義母のミセス・ギブズ、アル中のサイモン・スティムソン、ミセス・ソームズ、他)の魂に出会い、人生の不条理を嘆く。彼女は、12歳の時の誕生日の1日を再体験する事を許され、人生の素晴らしさを噛みしめる。

"The American Life"というか、アメリカ人の生活の原風景を淡々と描き、ローカルでありながら、かえって小さなコミュニティーとふたつの家族に焦点を合わせることで、時代や文化、国を超えた一般性を獲得出来た気がする。不思議な劇だ。非常にアメリカ的でありながら、そのアメリカ的であることを押しつけずに、家族とか恋愛とかコミュニティーの絆を通じて、広く共感を呼ぶように昇華する。

構造は、舞台監督がキャラクターに直接指示を出しながら舞台の進行をするという、楽屋落ち構造。謂わば脱構築を使った劇。プログラムにある対談の中で、今回の上演テキストの翻訳者の水谷八也が、ワイルダーの世界観を「中世の宇宙像」とか、「中世っぽい」と表現しているが、この劇の舞台監督にも、『テンペスト』のガワーとか、ジャン・フーケの絵画「聖アポロニアの殉教」に見られる監督役と思われる人物など、中世劇を思わせる点がある。更に、人は如何に生き、如何に死ぬべきかを、個人を登場させつつ、個人を超えた「万人」のドラマへと転じさせる、これこそ、"Everyman"や"Mankind"などの、中世道徳劇の視点ではないか。生と死を墓場から見つめ直す、墓に埋もれた死者が生きている人々の手を取ろうとする、私にはハンス・ホルバインやギュイョ・マルシャンなどの死の舞踏をも想起させた。というわけで、私には非常に興味をひく劇の上演となった。

私は20歳代で3年間アメリカ中西部の小さな学園町で留学生活を送った。そこには、ニューヨークや西海岸はおろか、シカゴにさえ行った事もない人がたくさんいて、東部や西海岸の大都市をほとんど外国と同じように考えたり、恐怖を感じたりするようだった。彼らは、だだっ広い大地に住みながら、まるで大海原の孤島に住む人々のようにも見えた。この劇もそうしたsmall town in Americaの孤立した空気が一杯だ。人々のゴシップはシャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』やカーソン・マッカラーズの小説のようである。しかし何よりも、墓場から生を見つめ直す視点は、エドガー・リー・マスターズの"Spoon River Anthology"を思い出させる。


中劇場の広いステージ、セットがほとんど無いがらんとした、謂わば意図された、"Everyman"的な「何も無い空間」。読売新聞の劇評では「舞台が広すぎて求心力に欠け、気の毒だった」とあるが、私はそういう風にネガティブには取らなかった。むしろ、広さを強調した舞台は、アメリカの大地の広がり、その大地での人間の小ささ、そしてこの劇の宇宙的な時空の広がりを示すのにぴったりだ。


アメリカン・リアリズムの代表的な作家、オニールとかウィリアムズの作品にも、時として驚くほどの幻想的な台詞やシーンが現れることがある。一種の表現主義的瞬間の混交が、彼らの劇を一層カラフルなものにしていると感じる。ワイルダーのこの劇も、そういう意味で、リアリズムと幻想の絶妙な組み合わせになっている。

俳優は皆なかなか楽しませてくれた。小堺一機は声はいまひとつ通らないのだが、間の取り方とか、観客との距離の取り方が上手なのは、さすが司会者としての長年の経験故か。斉藤由貴は、もっと若い頃の彼女に抱いた感想とは違い、あまり主張の強くない演技ながら、台詞にしみじみとした情感がこもった。その他、ギブズとウェッブの両夫妻が素晴らしい。サイモン・スティムソンは台詞が少ない役だが、山本亨の存在感が光った。若い人の中では、ジョージ・ギブズの中村倫也が印象的。多数のオーディション応募者から選ばれたという佃井皆美だが、声がうわずって聞きづらい。宝塚の俳優の台詞のようだ。

全体を包む稲本響の音楽とピアノ演奏が、どの役者にも増して、最重要な役割を果たし、長い劇をテンポ良く進めてくれた。ベテラン澤田祐二の照明もいつもながら行き届いている。

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