2011/07/04

十字架に付けられた"boke" (3): 騎士の識字とThe Pastons of Norfolk

前回のポストを読み返していて、もうひとつ面白いと思える点があった。それは次の台詞である:

Yee, as I am a trew knyght,
I am the best Latyn wright
Of this company.
(まさに俺が真の騎士であるように、
ラテン語も俺たちの中では一番出来るからな。)

ここでこの騎士は自分が字が読めることを如何にも自慢げに吹聴しているのである。しかも、それを自分が騎士であることと重ねて述べている。騎士であっても字が読めることが自慢できる技術であったのだろう。というのは、識字というのは一種のテクニカルな技術であり、職人的な能力である。普通身分の高い人々はそんなことは使用人にやらせればよい。勿論彼らは学校に行ったりもしないし、この時代にはまだオックスフォードやケンブリッジ大学に行く騎士の子弟は少なかったはずだ。そして、騎士にとっては、第一に習得すべきは武芸である、という考えが強かっただろう。これはルネサンス期になっても言えること。しかし、時代の流れは徐々に変わりつつある。文書能力が、騎士や大貴族自身にも持つに望ましい技術とされる時代となりつつあったのではないか、ということがこの短い台詞からもうかがえる。

それで思い出したのか、The Paston Lettersのパストン家(The Pastons of Norfolk)である。この劇が書かれた15世紀、ノーフォークのジェントリーとして大きな勢力を誇ったパストン家だが、もともと15世紀になる頃、Clement Paston (died 1429) は貧しい農民だった。しかし巧みな農地経営により財産を築き息子William Pastonをロンドンの法曹学院に入れる。William Paston I (1378-1444) は辣腕の法律家として成功し、ロンドンの王立民事裁判所 (The Court of Common Pleas) の裁判官という、イングランドの法曹としては最高の地位のひとつにまで登り詰め、それと共に自分の領地を増やしていく。彼は騎士Sir Edmund Berryの娘Agnesと結婚して社会的地位も更に高めた。彼の息子John Paston I (1421-1466) もやはり成功した法律家であり、その息子で同名のJohn Paston II (1442-1479) は宮廷人としてパラ戦争中にEdward IV、そして後にHenry VIの軍隊の一部として、郎党の者を引き連れて参戦した。彼はまた騎士に叙され、Sir John Pastonとなった。なお、パストン家は、上流階級の豊かな家系として18世紀初めまで続く。

このように、15世紀には学問、特に法律を修めることにより平民が階級の壁を乗り越える例が出て来ており、この傾向はチューダー朝になると一層顕著になる(Sir Thomas Moreはその代表格であろう)。騎士がラテン語の能力を自慢する事もあれば、平民が学問を武器に大きな富と地位を獲得することもあったのである。

写真はパストン家が、親しかったSir John Fastolfから1459年に遺贈されたNorfolkのCaister Castle。しかしこの血縁でもないパストンへの遺産相続には疑義を挟む者も多く、パストン家は代々この城の所有権をめぐって、John Mowbray, the 3rd Duke of Norfolk等の貴族と激しい闘争(現実の戦い、あるいは法廷闘争)を続けなければならなかった。なお、シェイクスピアの描いた人物の中でも特に有名なフォルスタッフ (Falstaff)の名前は、Sir Fastolfから来たという説もあるようだ。


下の写真はThe Paston Lettersの一部。William Paston IIIが兄弟のJohn Paston IIIに1478頃送った英語の私信。このように15世紀には私信は英語も多用されただろう。しかし、法的文書や公文書ではまだラテン語が多かった。法廷記録ではフランス語も使われた。パストン家は古くからの騎士ではなく、法律家として台頭した家系なので、一般の騎士と比べると教育のレベルは特に高かったと思われる。


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