2015/09/26

『海辺のカフカ』(埼玉芸術劇場、2015.9.19)

『海辺のカフカ』 
埼玉県芸術文化財団、ホリプロ、TBS 公演
観劇日:2015.9.19   18:30-21:55 (20分の休憩含む)
劇場:埼玉芸術劇場

演出:蜷川幸雄
原作:村上春樹
脚本:フランク・ギャラティー
翻訳:平塚隼介
美術:中越司
照明:服部基
音楽:阿部海太郎

出演:
古畑新之 (カフカ、東京に住む15才の少年)
木場勝巳 (ナカタ、知的障害者)
宮沢りえ (佐伯、図書館長/少女)
藤木直人 (大島、図書館員)
鈴木杏 (さくら、美容師)
柿澤勇人 (カラス [カフカの分身])
高橋努 (星野、トラック運転手)
新川将人(ジョニー・ウオーカーの姿の作家)
鳥山昌克(カーネル・サンダースの姿のポン引き)
土井睦月子(アルバイト売春婦の学生)

☆☆☆☆ / 5

私は日本の小説をほとんど読んでない。中学・高校の頃は、明治以降の小説を結構読んだが、それ以後は滅多に読まなくなった。それで村上春樹の作品も読んでなくて、『海辺のカフカ』についても予備知識がないまま、今回観劇した。そのせいで、シェイクスピアなどの英米演劇と違って、かえって自由に楽しめたかも知れない。見て居る間も楽しかったし、見終わってからも色々想像が膨らむ舞台だ。但、最初の30分くらい、何となく劇の世界に入っていけるまでは、疲れて体調が悪ったせいか、うとうとしてしまい、いまひとつ良く憶えてない。でもその後は最後まで本当に楽しかった。

公式サイトによる物語の紹介は:
主人公の「僕」は、自分の分身ともいえるカラスに導かれて「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意し、15歳の誕生日に父親と共に過ごした家を出る。そして四国で身を寄せた甲村図書館で、司書を務める大島や、幼い頃に自分を置いて家を出た母と思われる女性(佐伯)に巡り会い、父親にかけられた〝呪い〟に向き合うことになる。一方、東京に住む、猫と会話のできる不思議な老人ナカタさんは、近所の迷い猫の捜索を引き受けたことがきっかけで、星野が運転する長距離トラックに乗って四国に向かうことになる。それぞれの物語は、いつしか次第にシンクロし…。
この作品についての常識のようだが、オィディプス・コンプレックスが主要なモチーフになっている。カフカの父、ジョニー・ウォーカーはナカタさんという知的障害者によって殺害される(正しくは、ナカタさんを脅迫して、自分を殺させる)。一方で、カフカはその事件以前に父親のもとから家出して、知り合った美容師のおねえさんと共に、四国へ向かう。殺人犯にさせられたナカタさんも、運転手の星野のトラックに乗せて貰って四国へ。カフカは四国で、大島の助けを得て小さな私設図書館に泊まり込むが、そこで働いていたのが、若い頃に彼を残して家を出ていった彼の母親の佐伯。その佐伯は彼を誘惑してセックスをする。つまり、カフカとナカタさんをひとりの人物の分身のように考えると、「父親を殺して母と交わる」というオィディプス伝説の大枠と一致する。もっとも、ナカタさんは穏やかで心優しい知的障害者なのに、無理に殺人を強いられるし、カフカは佐伯に誘惑されるので、どちらも自分からというわけではない。

私にとっては、この話はまず「巡礼」、英語で言うと”pilgrimage”、と見えた。主人公もナカタさんも東京から四国へと旅をする。四国というとお遍路さんの地、そして、ナカタさんが不思議な石を見つけるのは神社の森。カフカも森の中で戦争の時代を生き続ける逃亡兵に出会う。2人は、四国の森で時間や空間の切れ目に入り込み、異次元空間、所謂「異界」(the other world)に迷い込む。宗教的、神話的要素豊かで、ケルトの巡礼譚を思い出した。ナカタさんは猫と会話が出来るが、動物と人間の交流もまたケルト民話のようだ。ただし、こういう要素は日本の民話でもその他の国の民話でも良く出てくると思う。

この巡礼譚は、同時にカフカの成長物語でもある。父親の影響を超克し、母を通して性を知って大人になっていく男の子の旅物語である。母と交わると言うと、かなりドロドロした感じもするが、広くシンボリックに考えると、男の子が女性を、母という身近な人を通じて、性の相手として意識し始めるというのは、具体的な行為に及ばなくても、不思議なことではない。そうした大人の性の入り口にいるカフカの後見人的役割を果たすのが図書館の職員、大島だが、彼が男女を越えた両性的存在であるのも興味深い。

原作はかなり複雑な小説だと思うが、脚本はその筋書きを上手くまとめていて、比較的分かりやすい舞台になっている。蜷川は、彼らしいビジュアルの要素を最大限に活かした。舞台には、蛍光灯で照明された大小の透明な長方形のコンテナみたいなコンパートメントが次々と現れ、それらが舞台上のもう一つの舞台のように機能する。その四角い透明の空間の中でドラマが進行し、一区切りつくと、中世劇のペイジェント・ワゴンやお祭りの山車のように、力強い黒子達に押されて舞台の外に移動する。それらの流れるような動きは実に見事に、時間の流れと空間の移動を感じさせる。まさに「巡礼」の旅にふさわしい。

観客はまるでお祭りの山車の上で繰り広げられる芸能を見るかのように、現れては去って行く複数の透明コンパートメントの中のドラマをのぞき込む。テレビ・モニターの向こうの世界を見るように。こうした複数のシーンを受け手のひとつの視野の中に並列させるのは、マンガのやり方であり、古くは日本の絵巻物とか、西欧の近代初期までの絵画に良く見られる。最後には、こうしたコンパートメントが消えていって、ひとつの舞台に広がって終わった。

それで思い出したのが、同じく蜷川演出の『ペール・ギュント』(1994)。あれはゲームセンターのゲーム機のスクリーンの中で展開するドラマとして設定されていた。小さなスクリーンの中のドラマが舞台全体に広がり、最後は舞台がゲーム機のスクリーンに収斂されて終わった。今回はその逆だ。カフカが分身のナカタさんと共に、幾つかの小さな物語に加わり、最後にまた、カフカに戻っていく。ちなみに、『ペール・ギュント』も、若者の成長物語であり、一種の巡礼譚とも言えるだろう。

透明コンパートメントの中でも異色なのが、佐伯(宮沢りえ)が体を精一杯縮めて入った小型のチェストほどのもの。この小さなコンパートメントは、山車のような大きなコンパートメントを縫うように、なめらかで自在に動き回る。佐伯は、その透明な箱の中から、舞台の他の人物や出来事ではなく、ひたすら観客を無表情に凝視し続ける、まるでテレビをじっと見ているかのように。観客に、自分達の持つドラマを意識させる異化効果を感じた。大きなコンパートメントは、舞台の中の舞台となって、観客と舞台の距離を広げてしまうが、佐伯が観客を凝視し続けることで、観客も含めた劇場全体がひとつのドラマとして結ばれる効果を産むと感じた。

森のシーンで、木々が植わった透明コンパートメントが動くのを見て、『マクベス』での動くバーナムの森を思い出した。そんなところに蜷川の着想があったかも?

ちょっと歌謡曲調のテーマソング、カラフルな照明やネオンサイン、きれいなんだけど、全体として、いつものウェットであか抜けない蜷川節全開っていう感じだったな。先日会った大先輩が、「私、蜷川、嫌いなの」と言っていたけど、それも分かる。昭和歌謡の世界というか・・・。『海辺のカフカ』も、他の演出家がやってみると、全く違うものになって面白いだろう。ちなみに、この脚本は、元々、シカゴの著名な劇団、Steppenwolf Theatre Companyによる上演のために劇団員フランク・ギャラティーが村上の原作を元に英語で書いたものだ。Steppenwolfの公演は2008-09年だった。興味深いことに、Steppenwolfの公演は、休憩も含めて2時間15分だったとのこと。カットもあったかもしれないが、蜷川版よりも台詞中心の劇だったんだろうと想像する。

カフカを演じる古畑新之は、本当に主人公の年齢くらいだそうで、しかも子役経験もほとんどないみたいだ。当然、台詞は下手だし、明らかなタイミングのずれもあった。しかし、その素朴さこそ、蜷川の意図したことだろう。15歳位の役は難しい。演技慣れした子役だと、こましゃくれた感じで悪い印象を生みかねない。今回のキャスティングは適切だと思う。その他では、ナカタ役の木場勝巳が、いつもながら安心して楽しめる演技。鈴木杏の平々凡々のおねえさんぶりにも好感が持てた。対照的に、細かなところまで絵に描いたような幻想の母を演じ続ける宮沢りえも良い。但、大事なセックスのシーンで下着をつけ、透けたカーテンでオブラートに包んだようにしてしまっては、リアリティーがかなり落ちた。スターだから、仕方ないか。他の俳優もそれぞれ好演していたと思うが、特に鳥山昌克(カーネル・サンダースの姿のポン引き)、土井睦月子(売春婦の学生)は、コミカルな役割で大いに楽しませてくれた。

この夜もカーテンコールが3回もあって、しかも3回目はスタンディング・オベーション。あの熱狂によって、余韻に浸ることもしづらいし、じっくりと考える余韻を失いそうになる。

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