2015/09/02

イプセン『人民の敵』(吉祥寺シアター、2015.8.30)

オフィス・コットーネ公演『人民の敵』 

観劇日:2015.8.30   14:00-17:00
劇場:吉祥寺シアター

演出:森新太郎
原作:ヘンリック・イプセン
翻訳:原千代海
構成・上演台本:フジノサツコ
美術:長田佳代子
照明:奥田賢太
音響:原島正治

出演:
瀬川亮(トマス・ストックマン、湯治場の勤務医)
山本亨 (ベーテル・ストックマン市長、トマスの兄)
松永玲子 (トマスの妻)
有薗芳記 (ホブスタ、新聞「民報」の編集者)
青山勝 (アスラクセン、家主組合の組合長、印刷所オーナー)
塩野谷政幸 (ホルステル、船長)
若松武史 (モルテン・キール、製革工場主、トマスの義父)

☆☆☆☆/ 5

本当に久しぶりの観劇だったが、良い劇を見させていただいた。イプセンの劇でも滅多に上演されない作品で、今回初めて見た。素晴らしい戯曲、公害や民主主義の脆弱さを扱い、19世紀(1882)の作品と思えない先見性を持っている。演出は、近年活躍している森新太郎。

ストックマン医師は、ある田舎町の湯治場に勤める医師。彼は最近、温泉のお湯が製革工場から出る汚水のバクテリアで汚染されていることを発見した。ナイーブな事に、ストックマンは、その発見でで自分は町の人々から英雄視されるに違いないと有頂天になっている。何しろ、優れた科学的な知見により、正しい事をしているのだから。しかし、もちろん、こんな事が公になれば温泉の人気はガタ落ちだし、温泉の配管を改修するために巨額の費用と長い休業を必要とすることになる。ストックマンの兄の市長は何とか発表を押さえようと説得にかかる。市長と政治的には対立していた新聞編集者や家主組合の組合長などは、最初、ストックマンを支援するが、温泉の改修や休業の事を聞いた途端にストックマンと対立。妻でさえ、身重で、これからの生活の事を考えると、夫の正義感に首をかしげる。医師は最後には妻と旧友の船長以外、誰ひとり支援者もなく、孤立していく。

上のようにまとめると、まるで善と悪の人物が対立するような構図だが、トマス・ストックマンは立派な聖人ではない。劇のほとんどでは、彼の行動は子供っぽい名誉欲、功名心にかられてのことであり、正義や真理を純粋に追い求めているわけではない。自分の発見が町にどういう深刻な影響を与え、どんな反響を巻き起こすかまったく予想せずに有頂天になっているあたりは、世間知らずの科学者のステレオタイプで、カリカチュアとも見える。しかし、兄に説教され、ホブスタやアスラクセンに裏切られ、妻にも責められることで、彼は裸にされて、自分の置かれた状況を理解する。彼に最後まで寄り添うのは、悩みつつも夫を支える妻と、友情を体現したような船長の2人のみ。

子供のようなナイーブな主人公が、様々の善悪の人物の誘惑や励ましに翻弄されつつ、自己認識に到る、という筋書きは、『エブリマン』のような中世道徳劇の伝統を思わせる。ストックマンが、悪魔のような市長や義父からの誘惑を退けてあえて人民の敵に甘んじるというのは、謂わば、世俗から離脱し、神の教えに戻ると言えるかも知れない。死を前にして神の元に帰って行く道徳劇の主人公を思い出す。ノルウェー人の作品ではあるが、イプセンはイギリスの道徳劇を知っていたのか、それともノルウェーにそういう劇の伝統があるのだろうか。一方で、ディケンズのような19世紀の小説も含めて、直接の影響関係はなくても、西欧文学全体に、こうした道徳劇的な文学の伝統が綿々として続いているとも言えるだろう。自我の成長とか覚醒を、最も原初的な姿で劇化したのが、道徳劇なのだから。

四角い舞台を観客席が四方から囲むように劇場を使って、心理的に観客を劇に包み込む。イギリスで言うと、Orange Tree Theatreと同じ形。2階席には客を入れず、後半で、集まった市民達が烏合の衆として様々にストックマンに罵声を浴びせかけ、彼を民衆の敵に仕立て上げる。受難劇でキリストを断罪するユダヤ人のようだ。そうした2階の俳優達(市民達)と舞台の俳優に挟まれた、我々実際の観客もまた、烏合の衆の一部と化すという、シェイクスピア上演などではよく使われる仕掛け。舞台には、椅子しかセットはなしで、裸の舞台は、極めて道徳劇風である。

俳優は皆熱演であったが、小劇場にふさわしくない大声を張り上げての演技には、年寄りの私には、耳鳴りがしそうな時もあった。概して、もっと押さえて、緩急、強弱のめりはりをつけた台詞回しができないものだろうかと、ずっと思いながら聞いていた。その中で、市長を演じる山本亨は、役柄や台詞の質によるとは言え、押さえた演技で俳優としての優れた技術を感じさせた。市長とトマスの義父モルテン・キール(若松武史)の演技は、これらのキャラクターのメフィストフェレス的な側面を充分に浮き上がらせた。但、若松はちょっと役をいじりすぎとは思った。ホブスタとアスラクセンのふたりも、かなり面白い皮肉な造形なので、ふたりのベテラン俳優はそれなりに上手く演じてはいたが、もっともっと面白く、ベン・ジョンソンの喜劇の人物のように演じられそうな気がした。ストックマン医師を演じた瀬川亮は、精一杯の頑張りを感じたし、甘いマスクにすねた表情が似合っていたが、フォルテシモの時が多すぎ、まだ成長の余地があるような・・・?

公害が及ぼす危険、それを告発した者を町の経済的利益の為に圧殺する市長、マスコミ、経済界の指導者、そして一般市民達。中世劇と関連づけて書いてしまったが、非常に現代的な作品で、日本の水俣病、新潟水俣病、カネミ油症、原爆病、そして福島原発・・・と繰り返されてきた事件と同じ展開とも言える。告発者が聖人君子とは限らない点も、マスコミが風見鶏のように寝返る点、圧力をかける側は告発者の弱点として、生活の基盤や家族を攻める点なども、大変リアリティー豊か。市長がどこかの政治家にそっくりに見えた観客は多いだろう。

関連する歴史的事実として、ノルウェーでは、1814年に憲法を制定したが、それが定める選挙は、当時、世界でも最も民主的なもののひとつだったとのこと。この時、全ての公職を持つ男性と土地を持つ男性に選挙権が付与された。ノルウェーの場合、多くの農民が土地を所有していたので、選挙権保持者は大変多かったらしい。しかし、全ての成人男性に選挙権が与えられたのは、この劇の書かれた大分後の1898年、そして、女性が選挙権を得て、真の普通選挙となったのは1923年。どちらもイングランドよりは大分早い。いずれにせよ、西欧諸国の中でも特に早くから民主主義国家の骨格が形作られた国だからこそ、「大衆」の愚かしさも認識されていたのだろう。また、民主主義とは言っても、アスラクセンに代表される有産階級が政治を牛耳っており、労働者とか使用人などが出てこないのも、当時のノルウェー社会の限られた民主主義を反映しているのだろうか。以上はこのサイトから

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