3月6日に大英図書館(British Library)のインターネット・サイト、Medieval Manuscript Blogで発表された記事(筆者は学芸員のJulian Harrison)によると、大英博物館は、相続税の物納という形で、フランス語で書かれた貴重な中世演劇の写本を取得したそうである。これまでは、所蔵美術品でも大変有名なChatsworth Houseを所有するデヴォンシャー公爵(キャベンディシュ家)のコレクションの一部であった。今回、相続税の物納に加えて、更に、The Art Fund(美術館の作品購入を支援するNGO)など、幾つかの公益団体や個人篤志家による寄付、大英図書館友の会の資金等々もこの取得に貢献したとのことである。以下、この注目すべき記事の概要を、背景など多少の説明を加筆してまとめておきたい。なお、上記の記事とは別に、この写本に関するプレス・リリースもある。
この写本(British Library, MS Additional 89066/1 & 89066/2)は、元々、ブルゴーニュ公フィリップ3世、別名フィリップ善良公(Philip le Bon, 1396-1467)の為に作られた。ブルゴーニュ(Bourgogne)というのは、英語ではバーガンディー(Burgandy)であり、フランス東部の内陸部の地方。但、当時のブルゴーニュ公国は、主君であるフランス国王の権威と比肩しうる大国であり、大体において今のオランダ、ベルギーとその周辺を含む低地地方(the low countries)を領地に治め、西欧屈指の豊かな大国だった。低地地方は貿易の中心地であり、西欧の富が集積し、文化や流行の生まれる場所だったのは、この地で生まれたタピスリーなどの工芸芸術やその後の北方ルネサンスの絵画を見ても分かる。とりわけ、このフィリップ3世は、当時の西欧の王や貴族の中ではもっとも勢力があっただけでなく、芸術の庇護者としても著名だ。
この写本に記されているのは、フランス語の韻文で書かれた演劇作品で、ベネディクト会修道士のEustache Marcadé (-1440)作のLe Mystère de la Vengence(復讐の劇)。テキストは、中世のテキストとしては貴重な、欠落部分の無い完結した作品であり、羊皮紙に書かれ、2巻の書籍として綴じられている。更に注目すべきは、当時人気があり、ブルゴーニュ公の為に仕事もした挿絵画家、Loyset Liédet (-1479)によって描かれた20枚の豪華で大きな挿絵を含んでいることだ(大英図書館の記事に数枚が載っている)。その題材は、劇の内容に沿っており、ローマ人によるエルサレムの破壊である。
Le Mystére de la Vengenceは、14,972行のフランス語の韻文で書かれ、上演には4日を費やすことになっているそうだ。内容は、キリストの処刑の後の、第一次ユダヤ戦争におけるローマ軍によるエルサレムの破壊である。
より具体的には:
第1日:4つの擬人化された徳目(正義、慈悲、平和、真実)が、神が、エルサレムに対し、キリストの処刑の復讐をすべきか、議論する。神は、破壊の前に多くの警告を発する、と約束する。
第2日:ローマ皇帝ティベリウスは、キリストの為した奇跡について、総督ピラトからの手紙を受け取る。同時に、(後の皇帝である)ウェスパシウスはスペインでハンセン氏病を患っていたが、キリストが汗をぬぐった聖ベロニカのヴェールにより、奇跡的に治癒される。
第3日:皇帝ネロは、ウェスパシウスとその息子ティトゥスをエルサレムに派遣し、ユダヤ人の反乱を鎮圧。
第4日:ローマ内戦時代(AD 68-70)、別名「4皇帝の年」、が描かれる。ウェスパシウスがエルサレムの破壊を命じる。
この劇の作者、Eustache de Marcadé (-1440)は、聖史劇、Le Mystère de la Passionの作者として知られている。この劇は、しばしば、 La Passion d'Arras(アラスの受難劇)とも呼ばれる。今回発表された作品、Le Mystére de la Vengenceにはもう一つ写本があり、アラス市の図書館に所蔵されているようだ(Bbliothèque municipale MS 697)。こちらの写本は約1,000行短く、公演も3日で行われることとなっている。また、彩色の挿絵もついておらず、ペンとインクによる挿絵がある。紙は、大英図書館写本と違い、羊皮紙では無く、植物性の紙である。そういうことで、大英図書館写本と比べ、物理的にかなり質素な写本であると言える。
Le Mystère de la Vengenceはフランス北部の都市Hesdinの近くの町Abbevilleで1463年に上演された。その際、ブルゴーニュ公も観覧したと推測されており、今回の写本はその上演を記念して作られたと考えられている。
大英図書館のインターネットサイトでは、この写本について今後も続報を流すと言う事であるので、注目したい。また、おそらく、他の大英図書館の写本同様、この写本もデジタル化され、インターネットで公開されるだろうから、日本も含め、世界中の研究者の研究対象になることだろう。フランス語の中世劇は、刊本が出ていないものも多いが、やがて編集され、公刊されることを望みたい。写本は既に3月8日から、大英図書館の常設展示場、Sir John Riblat Treasures Galleryにおいて一般公開されているそうなので、美しい挿絵もついていることでもあり、観光等で行かれる方もご覧になる価値はあるのではないか。
なお、このブログでもこれまで何度か言及しているように、フランス語の中世劇については、片山幹生先生の専門のサイトがとても詳しいので、関心のある方にはお勧めしたい。あとの方の(最近の)記事で、今回の写本の作品のような聖史劇について書いておられる。
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