2014/03/18

カフカの思い出

先日のブログ・エントリーで紹介した「アリスの英文学日記」で筆者のアリスさんがフランツ・カフカの『変身』の感想(注)を書いておられた。彼女の記述で、大変鋭いと思った点は、『変身』が「ひきこもり」の話だと書かれている点である。自室の、謂わば囚人となってしまったグレゴール・ザムザは、まさしく今の言葉で言えば、元サラリーマンの、ひきこもり中年である。中高年の男性で、自分はひきこもってはいなくても、会社とか役所、社会や家庭で色々な断絶や疎外感に悩まされている人々の中には、「なるほど!」と共感される方もおられるのではないだろうか。

私にとって、カフカは10代後半から20代にかけて、最も好きな作家のひとりだった。彼が好きだったせいもあって、私の大学の第一志望は独文だった。もちろん落ちてしまったが(^_^;)。英文科に入ったのは、単に英文科がたくさんあって、私の様な落ちこぼれでも入れてくれる学校があったからに過ぎない。中高生のころ、私はイギリス文学にもイギリスにもほとんど関心を持っておらず、オースティンやディケンズの良さを幾らかでも感じるようになってきたのは、20歳代半ばになったからだ。

昔のことで、細かい事は思いだせないが、カフカは高校生の私をぐいぐい引きつけたと思う。『変身』は『審判』ほど印象は強くはないが、ザムザの置かれた状況は、毎日、先生とも級友ともほどんど話すこともなく学校にだけは通っていた、「学校内ひきこもり」とでも言うべき状態だった私にとって、かなり共感できる内容だった。また、思春期の、心と体が上手くコントロール出来ない状況は、カフカの意図にかかわらず、芋虫の体に苦しむザムザと似たところがあったと思う。ザムザの芋虫になった体は、高校生の頃の私にとって、自己嫌悪や劣等感が凝縮された姿のように見えたかもしれない。また、読者によっては、芋虫に性的な寓意を感じる方もあるだろう。

サラリーマンだったザムザに視点を置いて考えると、彼は近現代の資本主義産業社会における落ちこぼれである。どのような理由であれ、朝起きて、身なりを整え、会社・役所・商店に出勤する(子供なら通学する)、これが出来ない人は、社会でも家庭でも居場所を与えられない怪物、異邦人であり、同僚からも家族からも市民として失格とされる。産業社会において、通勤・通学し、社会の一員としての「生産的」役割を果たすことは、倫理的義務であり、それを実行できない人は、道徳的に欠陥があると見なされかねない。

カフカの作品で私が特に好きだったのは、『審判』である。わけも分からない警察・官僚機構から追及されるヨーゼフ・Kは、現代人の不安を実に良く代弁している。問題は、権力がどこにあるか、誰が責任を持っているのか、どこに抗議や相談をしたり、訴えたりすればよいか、分からない事だ。日常の生活と街角の延長にある底知れない闇。このディストピアは『1984』の、独裁者の見えないもう一つの形だ。『変身』においてもそうだが、平凡そうに見える役人、会社員、隣人、いや家族までもが、真綿で首を締めるように主人公の生活をあれこれと強制して、身動きが取れなくなっていく。20世紀以降、議会制民主主義が台頭してから、権力は、議会とか、委員会とか、官僚機構の中に、つかみ所なく、限りなく分散されて存在するようになった。平凡な多くの人々が寄ってたかって、「普通」でない少数者を押しつぶすメカニズム。ある意味で、議会制民主主義とは、多数派が少数派に思想とか国籍とか宗教を強制する手段としても大変有効なのは、昨今のウクライナ情勢を見てもつくづく感じることだし、日本でも同様だと思う。

カフカが生きた20世紀初頭は、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害が東欧やロシアで頻発した時代でもある。カフカはユダヤ人の居場所が確保されていた、比較的寛容なチェコのプラハで西欧の文化に親しんで育ったが、ヨーロッパの他地域でのポグロムを切実に感じてもいたのではないか。自室の囚人となったザムザは、後の、地下室に閉じ込められたアンネ・フランクと彼女の同時代人を思い出させもする。ひきこもったまま忘れ去られて死んでゆくザムザも、突然連れ去られて「犬のように」処刑されるヨーゼフ・Kも、後の多くのユダヤ人達の運命を予兆するかのようだ。

(注)アリスさん、ご自身のブログによると、今春、東大に合格された。研究者として名前が知られる日も遠くないかもしれない。すでにイギリス小説の研究者の間では、この若き秀才に注目している方もおられるようである。将来が楽しみだ。

2 件のコメント:

  1. Yoshi様

    ご紹介いただきありがとうございます。m(_ _)m Yoshi様のような素晴らしい読書様がいつも拙文を読んでくださっているなんて、大変光栄です。

    カフカの『変身』ですが、ザムザが家族に見放されて食べ物も少しばかりしか供給されないような状態になっているのを読んで、私は「働かざる者食うべからず」という慣用句を思い出しました・・・。Yoshi様がおっしゃるとおり、近現代の資本主義産業社会における「社会でも家庭でも居場所を与えられない怪物、異邦人」、「同僚からも家族からも市民として失格とされる」人物を描いているようですね。

    以前にもYoshi様にカフカの『審判』をおすすめいただいていたのですが、今回のこの御投稿を読んで、ますます読みたくなり、先程Amazonで入手致しました!読後には必ず感想書きますね!!(*^^*)

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    1. アリスさま、

      こちらこそ、コメントをいただきありがとうございます。アリスさんの勉強熱心にはいつも頭が下がります。

      さて、『変身』ですが、その後考えていて、ザムザは一種の障害者だな、とも思いました。突飛な話ではありますが文字通り身障者であり、また、近代的な社会に適応できない精神障害者みたいに書かれている面もあるかと思います。

      ドイツ語圏ではとりわけ、プロテスタントの倫理と勤労意識が強く結びつき、宗教に裏打ちされた勤勉性を育んだように思います。更に、後発の民族国家として、国家主義と富国強兵政策がそうした倫理観と結びつきます(日本に似ています)。そういう環境に適応できない者達の象徴がザムザと見ることも可能かも知れません。

      体が元気なのに働かない者を英語で、able-bodied poorと言ったりしますが、イギリス中世で、この種の人々を非難する論調が出てくるのは14世紀です。プロテスタントの前身となる異端ウィクリフ派が出てくる頃とほぼ一致します。

      一方で、伝統的な大家族制の農村社会では、一人ぐらい生産能力のない者がいても、あるいはぶらぶらしている者がいても、まあ食物と寝るところくらいはあるわけで、企業倫理に家庭生活まで取り仕切られた都市住民と比べると、貧しいですがずっとルーズな環境と言えるでしょう。また、中世カトリックの考え方には、貧者に功徳を施すのは、キリストに倣う行為という考えがあり、乞食にお布施を渡したりしました。その場合、その乞食が怠け者の乞食かどうかなんて、うるさいことは言わなかったと思います。

      色んな意味で、カフカの小説は社会と時代を反映している気がします。

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