ヘッダを囲む演技陣が素晴らしい
『ヘッダ・ガーブレル』(Hedda Gabler)
新国立劇場 小劇場
2010.9.23 13:00-15:45
演出:宮田慶子
原作:ヘンリック・イプセン(Henrik Ibsen)
翻訳:アンネ・ランデ・ペータス、長嶋確
美術:池田ともゆき
照明:中川隆一
音響:上田好生
衣装:緒方規矩子
出演
ヘッダ・ガーブレル(ヘッダ・テスマン):大地真央
ヨルゲン・テスマン:益岡徹
ユリアーネ・テスマン(ヨルゲンのおば):田島令子
エルブステード夫人:七瀬なつみ
ブラック判事:羽場裕一
アイレルト・レーブボルグ:山口馬木也
ベルテ(テスマン家のメイド):青山眉子
☆☆☆☆ / 5
久しぶりに新国立劇場に出かけた。イギリスに居てなかなか行く機会が無いことも一因だが、私にとっては関心のある演目(西洋古典の翻訳劇)が少なかったのも一因かもしれない。しかし、宮田慶子芸術監督になり、新しいラインナップは大変魅力的。特に次回作の『焼けたトタン屋根の上の猫』が見られないのはかなり残念!今回の『ヘッダ・ガーブレル』は昔のコスチュームやセットで、俳優の演技で見せるオーソドックスな演出。大地真央という、宝塚の声音が抜けきれない女優を主役に据えているので、それにどうも抵抗を感じたが、他の役者が素晴らしく、大変楽しく鑑賞できた。
(粗筋)有名な軍人、ガーブレル将軍の娘ヘッダと、中世文化史の研究者ヨルゲン・テスマンが結婚し、長い新婚旅行から帰宅したところから劇は始まる。定職もないヨルゲンにとっては身分不相応な邸宅に住み始めた二人。しかし、ヨルゲンは間もなく教授職に就くことが確実と思われている。順調に見える二人だが、ヘッダはやり場のない退屈と不満に包まれて、イライラしている。ヨルゲンはまじめでお人好しで、ヘッダの言うことならなんでもやろうとするが、しかし学者らしい専門バカで鈍感な男。
二人の昔の知人のエルブステード夫人が訪ねてくる。彼女は夫を捨て、愛するアイレルト・レーブボルグと会いたいという気持ちもある。アイレルトは学者であり、才能豊かだが、かっては八方破れの自己破壊的な男であった。しかし最近は生活を立て直し、著書も出版して話題となり、今やヨルゲン・テスマンが狙う教授職へのダークホースとして頭角を現していた。彼は実は彼とヘッダの間には結婚前に色々あったことがうかがえる・・・。
皮肉屋のディレッタント、ブラック判事もこの新居を訪れる。彼は、ヨルゲンとヘッダの結婚を崩さず、しかしヘッダと付かず離れずの関係を作りたい、と立ち回る。しかし、彼の思惑とは違い、ヘッダの退屈とイライラ、そしてアイレルトのヘッダへの想いが、アイレルトの大事な著作原稿の紛失と重なって、途方もない破局へと繋がっていく。
この劇をmisogyny(女性嫌悪)の要素のある劇だという見方もあると何処かで読んだことがある。ヘッダは確かに嫌味な、気取った、大した中身もないのに気位ばかり高い女性である。『人形の家』では主人公のノラは、家父長制社会に抑圧されて出口のない生活を強いられていることは、現代人誰しも共感でき、彼女の最終的な反抗は、観客や読者にとって大変自然なものと受け止められるだろう。一方、ヘッダの場合、全ての観客の共感を得ることができるヒロインとは言い難い。しかし、ある意味、女性の独立心の歴史的教科書の人物のようなノラと違い、ヘッダは色々な人間的要素がまじりあって、ずっと興味深いヒロインとも言える。私には、劇としてはこちらの方が複雑で、一段と面白い。
ヘッダはノラ同様に、19世紀の家父長制社会の家庭と言う牢獄に閉じ込められた籠の鳥である。更に、彼女は階級的な誇り、金銭的な制約、望んでいない妊娠と来るべき母親としての重圧、彼女自身の激しい性格等、その他の、彼女を苛立たせるいくつもの要素も抱えている。ノラのように、家や夫から自由になる、自己を解放する、ということでは満足できない状況にある。彼女は、退屈やイライラの原因となる敵が見えない。というのも、制約は彼女の内面に巣くっており、自己実現の道は何か、解放されるということは何かもわからない状態なのだ。行きつくところは自己嫌悪と自己破壊しかないのである。
大地真央は、大地真央・・・と感じた。だから、やはり台詞は宝塚節だし、一本調子。しかし、細かい台詞のニュアンスを求めなければ、この嫌味な主人公にはかなりぴったりの配役のような気がした。宝塚出身の方は、謂わば現代劇に出た伝統芸能の俳優のようなもの。彼らの型を生かした役どころを得れば、劇をひきたててくれると思うし、今回はそういう劇だったと感じる。また、中年以上の女優で、あれだけの身体的な美しさや華やかさを感じさせるスターを探すのは大変難しい。直立不動の硬い立ち姿、座った時の背筋の伸び方、冷たい視線や落ち着かない目の動き、神経質そうに机をカチカチと指でたたいたりするところ、窓に映った冷たい表情、など、演出家の手腕もあるだろうが、俳優の手腕は台詞の言い方だけではない、と感じさせる、広い意味での身体能力が感じられた。
益岡徹の鈍感な学者らしさは大変印象的。更に私には、ブラック判事の羽場裕一とアイレルト・レーブボルグの山口馬木也が原作のキャラクターを十分に表現できていると感心した。他の3人の女優さんも申し分ない。
イプセンの原作が十分面白いのであるが、その面白さをフルに発揮できたのはやはり演出家の実力だろう。キャストの選択も含め、宮本慶子の今後に大いに期待を持たせる。衣装、セットなども、日本人がやっていることを忘れさせる素晴らしさ。ただし、窓はもっと天井まで高いほうが良いだろう。ナショナルなどイギリスの劇場のセットを見ていると、リアリスティックというよりも、ほとんどデフォルメされたと感じるほど、窓や扉を大きく作ることが多い(先日見た"Danton's Death"などその一例)。それによって、舞台のスケールを大きくしている。日本では、予算が足りないこともあるかもしれないが、つい日本家屋の感覚が抜けず、家具や窓、ドアなどが小さすぎる場合が多いのでは?
翻訳は新訳で、舞台で言いやすく、現代の観客に理解しやすい、大変工夫された台詞となっている。しかし、私の好みではない。というのは19世紀末の古めかしい社会を日本語で表現するためには、いささか言いにくい位の、やや文語調というか古風な言葉使いでないと違和感を感じると思うのだ。これは前回見た『トロイアの女たち』でも感じたことだ。
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私は、土曜日に見ます。アフターリーディングがあるので、「この日に見たらと」といわれましたので。
返信削除真央さんの演技力はほんんど想像できるので、脇に実力ある俳優たちが楽しみです。
全体には平均点が高いようですね。
わぁ、もう寝ます。明日の朝から東京です。
ライオネル様、コメントありがとうございます。
返信削除土曜日、楽しまれますように。今回、大地真央、私には良かったです。俳優の「演技力」って、結局何かなと考えさせられます。私にはよくわかりませんが、芝居慣れした観客をうならせるだけが、俳優の力でないことは確かではないでしょうか。舞台を食い入るように見ておられる大地ファンの人々もあっての劇場でしょう。そういう方々を長年失望させずにスター性を維持しているのも大きな才能ですね。
ちょっと遅くなりましたが10月1日に見てきました。大地真央は確かに他の人とは異質なのですが、ヘッダの不思議さ分かりにくさそのものとなっていて人物像としては悪くはなかった気がします。ただ、他の演じ方も可能性としてはあったかと思いますが。俳優陣は素晴らしいのですが、宮田さんが青年座出身の方だから仕方ないのかもしれませんが、あまりに新劇然としたセットや衣装、演出は僕には面白みが感じられませんでした。新国立は新劇の博物館になってしまうのか、とちょっと不安です。鵜山芸術監督の時に、小劇場系統の演出家と、新劇系の大御所俳優を組み合わせたりした試みが必ずしも成功しなかった揺り戻しということなのかもしれませんが。あとおっしゃるように最後の判事の最後のセリフが「普通しないだろう!」って現代語過ぎてなんだか違和感がありました。
返信削除在外研究中にダブリンのGate Theatreで見たヘッダや、ロンドンのGate Theatreで観た(名前は同じでも規模は全く違いますが)完全に現代化されたヘッダが懐かしく思い出されます。
blank101さま、コメントありがとうございます。
返信削除この劇を見られたのは、Twitterへの投稿で知っていました(ブログの右のコラムで)。あそこでも新鮮さがないという事を指摘しておられましたね。私は日本の舞台をそんなに見てないせいか、古いか新しいかよく分からないことが多いし、普通は気にもなりませんが、こういう古さだったら大歓迎です。パンフレットを読んで、宮田慶子がイプセンのテキストをしっかり読んで色々と考えた上での上演ということが分かりました。シェイクスピア上演など典型的ですが、古典のテキストを壊すことばかり考えているような演出にはうんざりします。まともにやれもしないくせに、なんて思います。
私は日本では新劇かどうかなんて考えないで見る劇を選ぶのですが、自分が英文学を勉強しているので、大抵は西欧とアメリカ演劇になり、それも古典中心になってしまうので、新劇、あるいは、新劇の方中心の上演が多くなってしまうようです。
私のとは印象は違うのですが、でも貴重なコメントありがとうございました。色々な人の意見を読んだり聞いたりするのは面白いです。妻と見たのですが、彼女は、終わってから開口一番、大地真央はひどい、と言いました。 Yoshi