2010/10/21

Anne Tyler, "Noah's Compass" (2009; Vintage 2010)

初老の男性の生き方探し
Anne Tyler, "Noah's Compass" (2009; Vintage 2010), 277 pages

☆☆☆☆/5

アメリカ合衆国の小市民の生活を淡々と描く作家Anne Tyler。彼女の小説は英語も易しく、変わったテクニックを使わない伝統的な小説で、そんなに努力しなくても気楽に読める。しかし、しみじみとした味わいがあり、根強い人気があるようだ。イギリスでも、地味だしアメリカの小説なのに結構色々な本屋で何冊も並んでいるのを見かける。

この小説は2009年出版であるから、多分最新作だろう。Anne Tylerは1941年生まれなので、彼女が60歳代後半で書いた作品である。テーマのひとつは退職後の人生の過ごし方だ。主人公のLiamは60歳の元学校教師。結婚は2度しており、一度は妻が早死にし、もう一回は離婚。彼らとの間に娘が3人いるが、独立したり、別れた妻と一緒に住んだりしていて、彼自身は今はひとり暮らしである。彼の趣味はギリシャ・ローマの哲学書を読むこと。大学では哲学を専攻し、博士論文も書きかけたらしい(しかし、家庭や仕事の為に、論文を完成できないままになってしまった)。その後、生活の為に歴史の教師として60歳になるまで子供達を教えてきた。ところが勤務していた学校で予算削減のために歴史の教師をひとり減らすことになり、ほぼ自発的に貧乏くじを引いてしまい、定年を数年後に控えて、解雇されることになった。

まわりの家族などは彼が当然次の仕事を探すものと思っていたが、彼はそこそこの蓄えがあり、また特に働きたいという意欲も感じず、これからはのんびりと日がな一日哲学書など読んで暮らしたいと思って隠退生活に入る。節約のために、今までより小さなアパートに引っ越したが、その引っ越した当日の夜、眠りについた後、次に目を覚ました時は病院のベッドの上だった。夜の間に何か重大な事件が彼に起こり、頭に打撲傷を負ったのだが、何が起こったのか、その間の記憶だけがすっかり消えてなくなっていた。

短い時間だけとは言え、この記憶の空白は彼の気持ちを著しく乱す。無くした記憶を取り戻したいと思っているうちに、彼はふとしたことからEuniceという、自分よりかなり年齢の低い女性と知り合い、お互いに一目惚れとも言える気持ちを抱き、彼の人生は思いがけない方向へと展開し始めた・・・。

Liamは温厚で、ちょっと偏屈で、地味で、かなり没個性な初老の元教師。友達と言えば前の職場の同僚Bundyのひとりだけ。しかし、面倒な人付き合いをするよりも、のんびりひとりで暮らした方が性に会っているようだ。家族としては、父親、弁護士の妹がひとり、そして3人の娘達と孫がひとり、そして離婚した妻。前妻も含め、そうした家族とも、特に仲が悪いわけではない。しかし、彼らは何か必要がある時以外は彼に連絡しては来ない。毒にも薬にもならない平々凡々たる男性だ。人と対立するのは大嫌いで、強く自己主張することもなく、家族に対しても何でも譲ってしまう。別れた妻のBarbaraからも、あなたは必要以上に自分の欠点を認めてしまうのね、と呆れられている。このシーン、よく書けているので引用してみる:

"But!" he [Liam] told her. "As for Kitty [his teenage daughter]! You know, you might have a point. I would probably make a terrible father over the long term."
  Barbara gave a short laugh.
  "What," he said.
  "Oh, nothing."
  "What's so amusing?"
  "It's just," she said, "how you never argue with people's poor opinions of you. They can say the most negative things--that you're clueless, that you're unfeeling--and you say, 'Yes, well, maybe you're right.' If I were you, I'd be devastated!"

だけど、実際の彼はclueless (手のつけようがない)でもunfeeling(冷たい)でもない。ただ、自己表現が下手、あるいは自己表現、自己主張をしたがらないだけで、実は大変暖かい人物なのである。

物語は、このほとんど愚鈍なまでに不器用なLiamと、やはり不器用で、それまで自分が理解されていると感じることなく生きてきたEuniceとの間に芽生えたひとときの恋愛を軸に、反抗期の娘Kittyとの同居、既に結婚し子供もいる娘で原理主義的クリスチャンのLouiseやLouiseの賢い息子、つまり彼の孫Jonahとの関係など、家族とのやりとりを挟みつつ展開する。が、しかし、それ程大きな事件も起こらず、Liamが今までの人生を振りかえりつつ、段々と自分の老後の生活のペースをつかみ、落ち着くところに落ち着くというストーリー。

60歳の地味な男性、真面目くさった元教師で、首になった失業者。浮気もしたことがなく、お洒落でもハンサムでもなく、金持ちでもないが生活に困るほど貧乏でもない、特に面白みもない、しかし見ようによってはなかなか味のある、暖かい人柄。Liamとふたりきりになると、何を話して良いか話題に困りそうだ。そういう人を主人公に据えてじっくり描く。だから、それだけで、ひどく退屈そうに思う人もいるだろう。実際、大学生など若い人が読んでもおそらく退屈するだろう。しかし、年代の近い、元教師の私にはとても面白く、共感しつつ読めた。

Liam自身の人柄同様、この小説は隠れた、小さなユーモア、ささやかな感情の発露に満ちている。ゆったりとした気分で読み、静かな気持ちで読み終えることが出来る作品だ。

なお、タイトルのいわれは、作中で、孫のJonahに聖書のノアは箱船に乗ってどこに行こうとしているのと尋ねられ、Liamは、ノアには目的地はない、ただ沈まないように浮いているだけで良いのさ、だからコンパスは要らないんだ、と答えるというやりとりから来ている。今のLiamも、あたふたしつつも、何とか浮いていようとしているわけである。

私は旧ブログでも一冊Anne Tylerの小説、"The Accidental Tourist"、の感想を書いています。


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