2012/02/22

中世やルネサンスの演劇上演の広報は?

saebouさんのブログを読んで、演劇広告(ないし、広報)の変遷を知ると面白かろうと思えました。18世紀にはチラシが色々あったようですが、売られたのか、ただで配布されたのか、どこで誰がとか。行商人の配布で有料らしいです。でも宣伝チラシにお金払ったのかしら、といぶかしく思います。

ルネサンスの商業劇場では、旗が劇場から揚がって、旗の色によって悲劇、喜劇、歴史劇、等々分かったとこのサイトにありました。それ以外の広報、宣伝はなかったのでしょうか。前もって来月は何の上演があって誰が出るとか、客は知りたがったと思うのですが。

中世の聖史劇サイクルの場合、サイクル全体の前口上がついている作品もあり、市の中心部の通りや広場などで、ヘラルドにあたる人達が劇を宣伝して回ったと思われます。サーカスの一団が町にやって来た時のパレードに似た催しだったかも知れません。今アビニヨンの演劇祭の劇団はそういう宣伝をやるようで、テレビで見たことがあります。中世の場合、広報すると言っても紙媒体では字を読めない人が多すぎるし、印刷もないし、紙も羊皮紙が主だしで、到底不可能ですから、口から口へですね。ルネサンスになっても、状況はそれ程変わらなかったのではないかと思っています。全く素人考えですがが、どこか貼り紙をするところなどあったのではないでしょうか?

中世イギリスの聖史劇の場合、年に一度のお祭りなので、特に日時や場所など広報しなくても、市民町民は皆知っているわけです。多くの人が制作者であり参加者であり、かつ観客なです。でも、俳優を募ったりする為の広報はあったとの記録があるそうです。但、毎年恒例の聖史劇以外の演劇も色々あったから、そういう場合は何らかの広報をした気がします。口頭で「どこそこで、こういう劇をやります」と呼ばわって回ったのでしょう。16世紀のインタールードには、そういうイントロ的口上がついていますが、前もってではなく、劇の直前のイントロでしょうね。

特に中世・ルネッサンス期の演劇広報については、今後もう少し気をつけて調べたい課題です。

2012/02/21

絵画と中世演劇(金沢百枝先生のサイトを見て)

金沢百枝先生が新潮社のサイトで連載されている「キリスト教美術をたのしむ」が更新された。今回はアダムとイブの堕罪についてである。中世文学、特に演劇を学ぶ私にとっても大変示唆に富む、色々と勉強になり、考えさせるページだ。じっくり時間をかけて読みたい。

金沢先生は吹き出しを付ける気持ちで絵を見て下さいと書かれているが、それこそ劇の台詞である。そもそも中世劇と美術はどちらが先か分からない作品があるくらい関係が深い。フーケのミニチュア画のように聖者劇の場面を写したと言われるものもあり、キリストの受難場面は受難劇の影響が大きいそうだ。現代で中世劇を上演する際も、中世の絵画を参照して、衣装やセットを考える場合が多い。東京の天王寺アイルでやった『ダニエル劇』もその一例だった。Clifford Davidsonなど一流の学者が、中世劇と絵画・彫刻の関係を研究し続けている。日本でも石井美樹子先生も詳しい。

今回金沢先生が更新された堕罪のシーンだけでも、私には色々興味深い点・疑問が浮かぶ。中世劇では、裸体はどう表したのか(白っぽい服で体中をおおった?)、蛇はどう表すか、蛇としてか、悪魔の顔を持った蛇か。蛇を悪魔と重ねて見るという聖書にない部分はいつ出来たのだろう?

中世の画家や劇作家達は、イブが食べる知恵の果実を思い描く時に、梨、それともリンゴをイメージしているのだろうか。ふと思い出したが、中世劇や古いキャロルでは、身重のマリアが木に実っているチェリーを欲しがり、ヨセフが取ってやるという場面があったと思う。これはもしかして、アダムとイブを下敷きにしているだろうか?マリアは第2のイブであるから。

創世記ではイブの堕罪も、それに従って食べたアダムの罪もさらっと触れられているが、いつの間にかイブがひどい悪者にされてしまい、中世アンティ・フェミニズム文学のアイコンになった。金沢先生のページの12世紀の詩篇の挿絵あたりから、イブに責任を押しつける伝統が強く感じられる。この絵は12世紀イングランド、セント・オールバンズで出来たようだが、、中世劇の創世記の場面でも最も素晴らしいアングロ・ノルマンの『アダム劇』がおそらく同じくイングランドで書かれた時代と一致するのは偶然だろうか。

いつもですが、コメント、間違いの指摘、お考えなどあれば、歓迎します。

(今回と前回はTwitterで書いた事をまとめて、ここに掲載させていただきました。Twitterは、時々、思い出したようにどっと書くんです。今回は最初からブログ用に書けば良かったと後で思いました。Twitterで書くと、脈絡のない、途切れ途切れの文章になりがちですね。でも、今後勉強したいことなど思いついたので、そのまま消えるに任せるよりも、私の覚え書きとして残すことにしました。と言うわけで、変な文章ですいません。)

居酒屋、中世演劇、エンターティンメント(Katayamaさんの演劇史ブログを読んで)

Katayama (camin)さんが13世紀アラスの『葉陰の劇』を居酒屋を舞台にした劇としてブログで詳しく解説して下さった

16世紀ロンドンのRed LionなどのInn Theatresが思い出されたが、『ヘンリー4世、パート1』でプリンス・ハルがフォルスタッフと騒ぐのもBoar's HeadというInnだった。今あるロンドンの多くのフリンジもパブ・シアターである。演劇と居酒屋は切っても切り離せない。この−テーマでエッセイか論文を書く(書いた)人が居てもおかしくない。私としては、劇からは外れるが、何と言ってもサザックの陣羽織屋(The Tabard Inn)を思い出す。カンタベリー物語の始まる場所だ。

アングロ・サクソン時代の英国にも今のパブの原型とも言えるale houseが町々にあったらしい。しかし商業経済がさほど発達していなかったので、生産者がご近所の人々に飲ませるという程度であったのではないか。それがかなりしっかりした商業施設になったのはいつ頃だろうか。居酒屋や宿屋の商業的な成立と共に、そこに人を集めるための余興としての芸能、そして演劇の可能性が生まれてきたことだろう。そのあたり、これから勉強しておきたい課題が増えた。

近代初期の居酒屋のエンターティンメントで思い出したが、シェイクスピアにもしばしば言及される「熊いじめ」(bear-baiting)も居酒屋の前で行われていた記録がある。また、田舎のお祭りとしての"ale"(お酒を飲んで騒ぐご近所のパーティーみたいなものか)でも熊いじめが行われた。

Katayamaさんが書いておられるように、ラテン典礼劇が教会で厳かに行われ全盛であった頃、フランスのアラスでは居酒屋でかなり洗練された世俗劇が始まっていた。2つの演劇の流れがどう関係しているのか、全く別の伝統として捉えるべきなのか、面白い問題だ。

2012/02/20

Sara Paretsky, "Body Work" (Signet Books, 2011)

イラク戦争の裏側を描くクライム・ノベル
Sara Paretsky, Body Work

(2010; Signet Books, 2011)  517  pages.

☆☆☆☆★ / 5

サラ・パレツキーのV I Warshawski series。今手に入る一番新しいペーパー・バックスだと思う。ハードカバーではこれよりも新しい最新作が出ているようだ。今回も失望せず、楽しく読めた。ただ、パレツキー作品は、最初の頃に比べると、ヴィックの年齢が高くなると共に、がむしゃらに正義の実現に向けて突進する女性主人公の話ではなくなり、年齢に伴う人生の憂いを感じるようになってきた。ヴィックも、体だけでなく、気持ちの疲れとか経済的不安を見せることが多くなっているようだ。また、近年アメリカ社会が保守化するにつれて、極めてリベラルな作家であるパレツキーの苛立ちが表面に出ることも多い。そう言う点がこの作品、いや幾つかの近作の魅力でもあり、しかし、単純にエンターテイメントとして楽しみづらい感も残った。


タイトルになっているbody artistというのは、シカゴのいかがわしいナイトクラブでボディ・ペインティングのショーをしている女性のこと。彼女は自分の体に、クラブの客に絵を描かせるのを売りものにしている。このナイトクラブに、ヴィックの姪のペトラがアルバイトで雇われていて、ヴィックもクラブに顔を出した夜、殺人事件が起こり、否応なく彼女も巻き込まれることになった。body artistの体に絵を描いていた男が殺され、その罪を着せられたのは戦争でPTSDを負ったイラク帰還兵、チャドだった。殺人事件の背後には大がかりなギャング組織、そしてそうした組織とからんで資金を稼ぐ企業や豊かな弁護士達がいる。更に、大きな背景をなすのは、道義なきイラク戦争。パレツキーが、ミステリとアメリカ社会の今を見事に組み合わせている。特に、戦争でもうける死の商人と言うべき企業については、パレツキーの書くとおりだと思った。また、チャドの父親の息子への愛情には感動させられる。更に、もう一つのポイントとしては、信心深い家庭に生まれたレズビアンの女性の苦しみにも触れている。

強いて言えば、色々な社会問題を盛り込みすぎたのか、筋書きがやや込み入って分かりにくくなっている気がした(私の飲み込みの悪さや英語力不足もあるが)。また、姪のペトラ、body artist、その他の脇役達もあまり魅力が感じられなかったのも残念。私の方も、パレツキー作品にあまりにお馴染みになってしまったのかも知れないが。また、最初の頃のヴィックの作品も読み返してみたい。

2012/02/15

中世の庶民と靴

今年のイギリスはとても寒いらしいが、中世の初期、アングロ・サクソン時代には、農民はほとんど裸足だったということだ。(Cf. Gale R. Owen-Crocker, 'Clothing', in Michael Lapidge, ed., Blackwell Encyclopaedia of Anglo-Saxon England, p. 108)冬もだろうか?凍傷にならなかったのかしらん?

中世末期にはおそらく農民も含めて庶民もほとんど靴を履いていたようである。c.1320-40のLuttrell Psalterの農民も靴を履いている。



但、ネットで検索して出て来たアングロ・サクソン写本の農民や羊飼いなどはちゃんと靴を履いていた。次は11世紀の写本から:


羊飼いの様子もある:


一番右に描かれている男は裸足だね。

実際はどうだったんだろう?日本でも近世の庶民は裸足で過ごすことが多かったとどこかで聞いたが・・・。雪国の冬なんか、どういう風に足を守ったのだろう?

(追記)Sally CrawfordのDaily Life in Anglo-Saxon Englandによると、やはり「写本の絵から見て一般庶民の大半は裸足だったか、足首までの靴を履いていたようだ」とのこと。季節によると思うので、貧しい人達だって冬は靴を履いていたに違いない。


Wikipediaによると中世の人がはいていたシンプルな靴、turnshoesというそうだ。縫い合わせた後、裏返して使ったからのようだ。普通自家製のものを使ったらしい。であれば、貧しい農民でも使えるわけだ。謂わば、皮で出来た足袋みたいなものだね。次の写真は13世紀のやり方で作ってみた靴だそうだ:




ネット上の中世の絵を見ていると、中世も後になればなるほど、そしてお金持ちでお洒落になればなるほど先が尖った靴になるみたいだ。まるで角笛みたいに尖っている靴の絵もある。次の絵は『トリスタン物語』の15世紀末の写本らしい:






ただ、女性の足下はスカートやローブで足が隠れていて分からない。キリストとか聖者とか修道士は裸足で描かれているのが普通。


中世末期のお洒落な女性は長い紐付きのブーツみたいな靴を履いていたのかな。「粉屋の話」のアリスーンの靴は:"Hir shoes were laced on hir legges hye' (I, 3267)。ということは、彼女の靴は外から見えていたわけ?それとも語り手だからこう書いているだけだろうか。ちなみにバースの女房の靴は'ful moyste and newe' (I, 457) とあり、よく手入れが行き届き、上等なんだろう。Ellesmere Manuscriptの彼女のイラストレーションではズボンとくっついている感じで、靴とも何とも良く分からないんだけどどうなってるの・・・。どうもドレスの上から下半身にすっぽりかぶせるように穿く、乗馬用の特別の衣類に見える。これもお考えがある方、教えて下さい。






靴だけ見ても、服飾史に関しては私はまったく無知。しかし文学との関係は大ありだ。私ももうちょっと勉強したい。Laura Hodgesの凄い本 Chaucer and Costume、いつか読もう・・・。

2012/02/13

近頃気になっている問題:中世の処刑人と劇中の処刑人

中世・ルネサンス演劇に出てくる処刑人の姿は同時代の実際の処刑人をどのくらい反映しているのだろうか。キリストを処刑した処刑人の像と、実際に盗賊や異端者を処刑した人々との関係は? 中世の仏・独語圏では処刑人が職業としてあったが、イングランドの場合、そういう職業は私は寡聞にして知らない。

中世の独・仏語圏における処刑人の家系は、一種の被差別民として存在していたようであるが、そう考えると、受難劇の見方も変わってくるかもしれない。ただ、イングランドは大陸とは違う点が多いから、そのままあてはめることは出来ないなあ。今日は関連ありそうなフランス語の文献を苦労して読んでいたが、ほとんど役に立たなかった。

お考えのある方はコメントをお願いします。

中世劇の上演スペースにおける観客と役者

昨日のブログ・エントリーを書いた後、中世劇の観客について色々と考えていてふと思い出したのだが、Graham RunnallsがChâteaudun Passion Playに関する論文(このブログの前項参照)で、次の様に書いている:

Although, in theory, it is possible to distinguish between the theatre proper and the stage, in the case of Châteaudun, as with many other medieval theatres, the two were very closely linked. This is because the playing area often included not only a 'stage' but also other parts of the theatre, for example the loges, which were occupied by actors as well as spectators. This is explained partly by the fact that, in Châteaudun as in many other cases, spectators were also actors; for example, see Fouquest's famous miniature. (p. 30)

Runnallsは観客席の位置などについては、残念ながら詳しくは説明してくれてないが、ここで私が特に「そうか!」と思わせられた文は、'spectators were also actors'というところ。彼が言いたいのは、中世劇の「観客」の中には出番を待ちながら劇を見ている人達が含まれるという点。つまり、観客には、純粋に外から見に来ただけの観客と、演技や裏方の一部を担いつつも、自分もかなり劇を見て楽しんでいる人々とが居たと思われる。例えばイングランドの聖史劇のような長大で、細かいペイジェント(小さな劇)に別れた劇の場合、自分の関わっていないペイジェントを見ている演技者もかなり居るだろう。小学校の運動会を思い出すと、参加している生徒や保護者と、今参加していない人の境目はあまりはっきりしていない。ひとつのペイジェントの上演中も、出番を待つ間に待機位置(sedes, mansion, lieu, scaffold, etc)などの決められた場所に居て、衣装をつけ、錫杖とか武器などの小道具を持って座ったり立ったりしているので劇の背景をなしているが、しかし、何もしていないのでacting spaceの仲間の台詞を楽しみ、アクションを「観劇」している役者もいるのだ。運動会で体操服を着た生徒やジャッジを着た保護者が、今行われている演技を見ているようなもの。整理すると、

1. 見るだけの純粋の観客
2. そのペイジェントで今は自分のシーンでなくて待機している役者
3. 他のペイジェントで出演予定で、自分のペイジェントの時間が来るのを待っている役者
4. 今演技をしている役者

中世演劇では、このような人々が上演スペースに入り乱れて存在していたのだろう。そうすると、観客と俳優がはっきり分けられて座っているとは言えなかったのではないか。

もう一つ上記の引用で記憶に留めておきたいのは、loges、つまりボックスとか桟敷が、観客に割り当てられているものに加え、役者の待機場所として使われる場合もあるらしい、ということである。確かに、ジャン・フーケの『聖アポロニアの殉教』の絵画においては、一段高くなっている仕切られたボックス席に、コスチュームをつけた役者らしき人々もいれば、ラッパを吹いている楽士もいれば、普通の観客らしき人々も見えるのだ。このlogesの自由な使い方も、中世劇の上演スペースにおける観客と俳優の混在を指向している。

以下は、多くの研究者が、大体において中世演劇のシーンに基づいている、と考えるジャン・フーケの『聖アポロニアの殉教』(但、有力な反対論もあり)。

2012/02/12

シャトーダン(Châteaudun)受難劇の観客席

前項で触れた中世演劇の円形舞台に関して、ふと昔読んだ論文を思い出し、引っ張り出してみた。それは、イギリスの仏文学者で数年前亡くなられたGraham Runnallsによる "Were They Listening or Watching? : Text and Spectacle at the 1510 Châteaudun Passion Play" Medieval English Theatre Vol. 16 (1994), pp. 25-36という論文。 ここで、Runnallsは北フランスのChâteaudun(シャトーダン)という町で1510年に上演された受難劇の資料から、上演がどのように計画され、実行に移されたかを解説し、この劇の上演において、台詞よりもスペクタクルが重要であったであろうという点を強調している。

私が今回特にこの論文を思い出したのは、この劇も一種の円形のステージでなされたからだ。劇のテキストは残念ながら残っていないが、詳しい記録(Compte)は現存し、Runnallsにより編纂され、出版されている。私は到底その時代の仏語を読む力はないが、Runnallsが論文にまとめていることだけでも、びっくりするくらい面白い。それで、この仮設劇場(ステージ)の形状だが、これはoval stage、つまり玉子型らしく、その大きさたるや、長さ50メートル、幅35メートルという巨大なもの。そして2本の巨大な柱が立てられていて、その柱に支えられて、この玉子型の劇場のほとんどが天幕でおおわれていたというのである(p. 29)。Runnallsは、この仮設劇場の収容人数は5000人程度と想像しているが、いやはや凄い。かってのエリザベス朝の巨大な野外劇場で、立ち見客が沢山入った日でも、それ程は詰め込めなかったのではなかろうか(多分最高で3000人程度?)。

この観客達だが、上演スペースを囲むように設置された長椅子席に座ったか、又は、一種のボックス席というか、桟敷というような席に座っていたとRunnallsは書く(pp. 29-30)。つまり2種類の席が用意されていた。このボックス席は"loge"と呼ばれ、39のボックスがあり、それぞれのボックスに6人くらい収容できたとのこと。長椅子席はひとり2〜4 deniersの値段で、こちらが大衆席だろう。一方、ボックス席(loges)はそれぞれの席がオークションにかけられて値段が決まったようだ。つまりそのオークションでついた値段によりどこで見るのが人気だったかわかるのだが、やはり中央に近いボックス席に高値が付いたそうだ。しかし、天国と地獄のセット付近のボックスも高値になったとのこと。

残念ながらこれらの長椅子席やボックス席と上演スペースの位置関係についてはRunnallsはほとんど触れてない。ただ、こうした席は"surrounding the playing area"とは書いている(p. 29)。固定された椅子席やボックス席であるから、上演スペースと席ははっきり分けられていたのであろう。

かなり遠いセットで上演が行われた時には聞こえづらかったりしたことだろう。しかし、Runnallsのこの論文の主旨は、聞こえにくさは、大がかりなスペクタクルの迫力により補われ、またストーリーは良く知られた聖書の物語なので、台詞がよく聞こえない事はあまり重要ではなかったということである(p. 34)。

中世演劇における円形ステージと観客の位置(caminさんのブログを読んで)

caminさんの中世フランス演劇史ブログの新しいエントリーが出たが、これが非常に面白い。

13世紀フランスの劇の上演形態について色々と興味を引くことが書いてあり、大変勉強になった。私にとっても改めてじっくり勉強しなくちゃいけないテーマが増えた。それで、私もcaminさんのブログにコメントを書き込ませていただいたのが、結構長く書いたので、それをここにも載せておきたい。

(以下はcaminさんのブログへのコメント、但、一部編集)

取りあえず今考えていることとして、13世紀とか、フランス語劇とか絞ると分かりませんが、中世西欧の演劇としては、並列に「マンション」を並べた舞台も、円形舞台もあったことは確かでしょう。

私はフランスの劇についてはほとんど知識がないのですが、有名なValenciennes Passion Playの図のような、横にずらっとmansionを並べた絵画が想像だけとは思えません。Chateaudun Passionのように、テキストはなくてもステージ建造の記録がかなり残っているケースもあるようですね。一方でイングランドでは、英語のThe Castle of Perseverance(『忍耐の城』)のような円形ステージの見取り図が中世から残されています(この項下部の図)。

後者の劇については、かってRichard Southern (The Medieval Theatre in the Round)とGlynne Wickhamの間で、観客の存在について議論が戦わされたことがあったと思います。Southernは確か円形の上演スペースの中に観客が混在する、と考え、Wickhamは円形のacting areaの外側に居たと想定しました(The Medieval Theatre, 3rd ed. p. 117)。Wickhamは現代における実際の上演も参考にして、acting areaを囲む土手のところに観客がいた(あるいは観客席がしつらえられた)と想定しています。その後の研究者(例えばWilliam Tydeman)にもWickhamと同様の意見を持つ人があるようです。しかし、最近の権威者、Pamela KingはSouthernのように、中央部の城のまわりは別にしても、観客がそれ以外のacting areaには居たという見方のようです(The Cambridge Companion to Medieval English Theatre, 2nd ed [2008], pp. 241-2)。

フーケの絵画にしろ、The Castle of Perseveranceの円形ステージにしろ、現在残る資料では、観客の位置については、なかなか決定的な結論は出ないのかも知れません。ちなみに、エリザベス朝やスチュアート朝の商業劇場(グローブ座の様な)でも、ステージの上に客の一部を上がらせていました。客とacting spaceを分けるというのはそもそもイギリス演劇の伝統にはなくて、プロセニアム・ステージが出来て徐々に定着したのではないかと思います。

円形ステージを中世の教会の延長にみるとすると、典礼劇と円形ステージの関係から、観客が内側に居たというのもうなずけます。しかし、円形舞台をトーナメント(Pas d'arms)の伝統の延長に捉えることも出来ます。The Castle of Perseveranceは、善と悪がまるで模擬戦のように戦っており、トーナメントの影響が強いと見える劇です。その伝統では、勿論観客はacting areaの外にいるのが自然で、これがWickhamの考えにも影響しているようです(上掲書、p. 116)。

私は、西欧の中世劇の一般論として、ステージ形式には並列も円形もあったし、観客はどちらの形でも特定の席とかエリアに縛り付けられず、それぞれのシーンで見やすい位置に移動したと思います。勿論、mansionの中など、観客がおのずと入れないところはあったでしょうけれど。

以下はThe Castle of Perseveranceの写本についている円形ステージの図:

中世初期の文学とその「上演」スペース

(caminさんのTwitterの投稿に触発されて、私も幾つか投稿した。それをまとめておきます。)

中世文学はほぼ全てパフォーマンス芸術で、朗読したり、記憶して朗唱したりした。従って物理的上演空間の成立と切り離せない。12世紀頃から盛んになった恋愛叙情詩など私的な作品の上演には、小さな居間、私室等の成立と共に起こる必要があった。演技者、聴衆、そして上演空間があって成立した。

中世前期、例えばアングロサクソン時代は、貴族の城館も大きな広間で生活の多くがなされた。そもそも小さな暖炉や煙突による換気がなく、貴族でも大部屋で一族が大勢で寝起きするような生活形式だったと思われる。そういう上演空間では、プライベートな恋愛文学の朗唱など成立しにくいだろう。

中世テキストの「パフォーマンス」は近年しばしば議論されているようだが、そのパフォーマンスの場所、住居、そして特に居室の物理的形状も、読んだ読者/耳を傾けた聴衆と共に、作品の受容を考える上で、大事な論点だろう。近現代文学と同じ事。

イングランドについて言えば、ノルマン・コンクエスト以前の文学は基本的に「修道院文学」が大半。聴衆も、上演場所に関しても、恋愛を歌う文学の成立に適していない。

中世英文学の色々なジャンルが成立した物理的上演空間については、既に色々な議論があると思うが、私はまだまだ不勉強なので、今後考えたり、文献を読んだりしてみたい分野だ。特に、居間、個室、私室、等の誕生、そして部屋の形状は興味がある。イングランドやその他のゲルマン語圏など北方の文学の場合、暖房設備とも深い関係があると思う。大部屋でなく、私室を作るためには個別の暖房が出来ないと寒い季節に過ごせない。トルバドゥールの文学が南仏で始まった要因のひとつも、暖かな気候もあったかも知れないと思うがどうだろう? 小部屋を幾つも持つ大きな城郭を作る建築技術の発達や伝播も考える必要がありそうだ。