2012/03/23

ロンドン・アングロ・サクソン・シンポジウムに行ってきました。

The First London Anglo-Saxon Symposium
'The Anglo-Saxons: Who? Where? When? Why?'

Institute of English Studies, University of London, 21 March 2012

昨日21日、ロンドン大学のInstitute of English Studies(英文学研究所)で開かれた標題の学会に行ってきた。私はアングロ・サクソンの文学や歴史の研究をしているわけではないが、この学会は、開催の主旨に、一般の、関心のある聴衆も歓迎すると書いてあったので、気軽に聴講できるかな、と思って参加。それに、今年の1月から2月にかけて私自身も初歩的な内容であるが、アングロサクソンについての公開講座を担当したので、久しぶりにあらためて興味を喚起され、もっと学びたいと思っていたところでもあった。

3時から始まり7時過ぎに終わるまで、20分の発表が6つ、15分の発表が2つという盛りだくさんの学会。一般の人らしき聴衆もかなり混じり、また学部生もある程度いたと思う。70-80人くらいだろうか。比較的小さな部屋で、満員だった。イギリスの学会に行くと、いつも自分の語学力の壁で苦労するが、今回も例外でなく、十分に理解して満足できるほど吸収した発表はひとつもない。しかし、ある程度面白く聞けた発表もあり、行って良かったとは思う。一般の聴衆も加わっていることを意識して、発表者は初歩的なイントロダクションも含めて、話をしていたので、内容は普通の学会より理解しやすかった。この学会は、同じように一般聴衆にも開かれた形でこれからも毎年開きたいと、開催者の先生が言っていたので、来年もこの季節にあるかもしれない。たまたまロンドンに来る機会があったら、また聴講したい。日本の大学の先生も一応春休み期間中だが、今頃は絶対に休めない卒業式があり、また新年度の準備で忙しい時期なので、なかなか出席は難しいだろうなあ。私はこの分野の研究書や論文を読むことはないので、講師の先生は私の知らない人ばかりだったが、司会をした先生は、Jane RobertsやClare Leesなど、私でも名前を知っている大御所が含まれていた。

さて、聞いた事で、大分理解できたことの中から、興味を引かれた点を、私の主観的な感想も交えつつ2,3紹介してみたい。ただ、私の英語力も理解力も自分でも全く当てにならないので、発表の正確な報告は出来ないので、その点をご了解の上、割り引いて読んでください。

2つの最初の発表では、アングロ・サクソン人のブリテン島侵略について、歴史学と考古学の2人の先生が論じた。昔の一般的な歴史書や教科書などでは、アングロ・サクソンがケルト人(ブリトン人)を、のちにイングランドと名づけられるようになる地域から追い出した、というように書かれているが、もっと段階的な侵略(かつ移民)であり、またブリトン人との同化のプロセスであった、ということが色々な状況証拠から説明された。こういう人種的な問題については、大昔のことでも、その時代の歴史学者の視点によって記述が大きく変化してきた。19世紀から20世紀始めの学者、特にドイツの学者などはそうだが、ゲルマン民族の民族的優位性を当前とする立場であり、アングロ・サクソン人に肩入れした視点で書く傾向があった。20世紀、特に第2次大戦以降、現在のイングランドはもちろんのこと、歴史的にも連合王国が多民族多文化社会として見直しをされ、また西欧全体としてはホロコーストの深い反省の元にたった現在の歴史学は、基本的な視点が大きく違い、中世のイギリスもいくつもの民族の交じり合った社会と考えるようになったわけである。アングロ・サクソン人の社会にも多くのブリトン人奴隷が存在し、Ine's Lawなどの法律で彼らの処遇について触れてもいる。また、ブリトン人を大量に虐殺したり、ウェールズなどの周辺地域に追い出してしまったりするには、あまりに彼らの数は多かったはずとのこと。Stentonなどが地名にケルト系の名前が非常に少ないことを挙げているが、これもあまり当てにならないらしく、イングランド西部には結構ケルト由来の名前は残るそうだ。そもそも5-6世紀頃は、農耕経済で、大きな町は出来にくく、したがってその後ずっと継承されるような地名も出来にくかったはずだ。そして何よりもこの時代の歴史的文献として最も重要視されるビードの『英国教会史』だが、ビードはブリトン人に大変敵意を持っていたことは明らかなので、その点を割り引いて読む必要があるという。彼の居たのが北イングランドで、北方の異民族との争いにおびえていたことがそうした傾向を生んだのかもしれない。

更に、昔の研究者はアングロ・サクソン人の侵入と言う時点からのみこの過渡期を見がちであったが、前提となるローマ時代のブリテン島についての知識や研究がこれまで不十分であったとのこと。Roman Britainと言っても、単純なものではなく、色々な地域差や民族的な複雑さも含んでいた。たとえばブリテン島に来たローマ兵だって、イタリア半島から来た人なんてごくわずかで帝国の各地からやってきた多民族・多言語の混成部隊で、更にそのローマ人が現地のブリトン人と交じり合っていた。ローマ人はブリテン島にローマ帝国風の建物を建てたというが、ロンドンなど大都市の一部の建物を除き、当時の建物のほとんどは木造の農家で、アングロ・サクソン時代の農家と大して変わりない。ローマ風のVillaがイングランドでも建てられたが限定的で、4世紀に限られるとのこと。また、「アングロ・サクソン人の侵入」というが、実際にはフリージア人の移民も大量にあったそうだ。最近は、DNAの解析から民族移動を調べる研究も行われているが、これはあまり助けになるような成果は上がっていないとの頃。

(サトン・フーの金貨)

もうひとつの話で、私の関心を持つことからはかなり遠いが大変面白いと感じたのは、大英博物館の方が話したアングロ・サクソン時代のコインについての話。ローマ人はブリテン島でコインを鋳造し、貨幣経済が発達していたが、彼らがブリテン島を去り、5世紀の始め(510年頃?)にコインの鋳造もストップした。しかし、ローマのコインの使用は終わったわけではなく、その後も数十年間(a few decadesと言っていたと思う)はそれ以前に作られた帝国のコインがの流通が続いた。発掘物によると、コインの使用は東部で多く、西部では少ないそうだ(これは東部が大陸との交易が多いためかもしれない?)。その後、5、6世紀、そして7世紀の始めまで、ブリテン島ではコインは鋳造されないが、その期間の発掘物からもコインが発見され続けている。後の時期の発掘物になるにつれ、ローマ時代のコインから、フランク王国や西ゴート王国のコインに変わってきているようだ。コインは必ずしも金銭として利用されるとは限らず、ペンダントとして、あるいは首飾りにつけられたりして、装身具としても利用されることが多かった。また金銭として利用される際、1枚のコインの金や銀の量を調節するために、コインを半分とか3分の1とかカットしたり、逆に、そうした断片を別のコインに打ち付けて金や銀の量を増やし、価値を増したりもしたそうで、これは大変面白いと思った。更に、まったくコインの形をしていない金や銀の小片も、貨幣として利用されたらしい。

イングランドで鋳造されたコインとしては7世紀始め(620年代から640年代頃)が始まりだそうだが、最初のコインは、金銭としての利用か、ペンダントかはよく分からない。5-7世紀のコインは、貨幣としての機能的な意味に加え、シンボリックな意味も大きかった。つまり、発行した為政者の権威づけ。特に、ローマの、そしてキリスト教徒の支配者としてのアイデンティティーの表現と誇示であるとか、価値体系を支配できるという権力の誇示、そして貴重な金銀を集めてコインを鋳造できるという富の誇示、など。実際に庶民の日常生活での使用頻度はそう高くなかったのではないか(この点は聞き逃した)。なお、サトン・フー遺跡(7世紀)では多くのコインが発見されているが、2009年の大発見、スタフォードシャーのアングロ・サクソン遺跡(7-8世紀)では、3500点もの発掘物があるにもかかわらず、コインは全く無いと言っておられた。Wikipediaによると、スタフォードシャー遺跡では軍事的な色彩の物品が出ており、女性だけが使うものは全く無く、日常生活に使うようなものは少ないようである。

また、コインの話に続いて、『ベーオウルフ』における'Economy'についての発表もあった。 英語の聴解力が十分でないことに加えて、私自身が作品自体に疎いので細部が良く理解できなかったが、それでもこの古典について今まで考えていなかった新しい視点を提供してくれた。この作品は、伝統的には、ゲルマン民族の英雄観とか、キリスト教的な視点からの寓意的解釈、異教的要素の探求などの研究が多かったと思うが、今回の講演では、作品に貸し借りや支払いに関する語句が大変多いことに注目している。たとえば現代英語で言えば、'pay(ment)', 'repay(ment)', 'debt', 'indebted(ness)', 'reward', 'gift'等々に関連した表現である。こうした表現は、アングロ・サクソン人の価値観、主従関係などと密接に関連し、物語の骨格をなしている。一種の'economy of exchanges'(交換経済)が伺える。主人公ベーオウルフは、非常に几帳面にこのexchangeのモラルに忠実だが、それが微妙に崩れた時、波乱が起こる。グレンデルや宝の塚を暴いた盗賊、そしてドラゴンは、そうした交換システムの滑らかな働きを乱すものたちだ。そういう中で、交換の媒体になるもの(ギフト、報酬、女性)に注目したり、それが我々から見て妥当かどうかを検討したりも出来る(ベーオウルフがフロースガールから受けたギフトは、彼の命がけの働きに見合うものだったのだろうか、とも問いかけておられた)。

アングロ・サクソン時代の文字や写本についての講演もあったが、英語が良く分からなかった。ただ、ルーン文字と古英語、そしてラテン語が混在することがあるというのは、当然かもしれないが、言われてみてなるほどと思った。有名な'Franks Casket' {British Museum所蔵)もその一例。一方、'The Dream of the Rood'(十字架の夢)という詩がルーン文字で刻まれていることで有名なラズウェルの十字架(Ruthwell Cross)はルーン文字で刻まれた古英語と共にラテン・アルファベットによるラテン語も刻印されているそうだ。また、写本でも、アルファベットで書かれた写本の余白にルーン文字のコメンタリーが書き加えられているものもあるとのこと。ラテン語と古英語、そしてアルファベットとルーン文字の混在、なかなか面白い。ラズウェル・クロスの場合、古英語の文がルーンで刻まれている。古ノルド語など、他のゲルマン語もルーンで刻まれている例は多いだろうが、では、ラテン語がルーンで刻まれることはあったのかしら。やはりこの文字はゲルマン語と切り離せないものだったのだろうか。

(Franks Casket)

(Ruthwell Cross)

残りの発表は、残念ながらさっぱり分かりませんでしたが、どうも私には関心の無い内容だったような気がするので、まあいいか。

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