2011/06/22

Anton Chekhov, "Cherry Orchard" (National Theatre, 2011.6.21)

現代的な翻案テキストで観客の好き嫌いが別れる公演
Anton Chekhov, "Cherry Orchard"



National Theatre公演
観劇日:2011.6.21  14:00-17:00
劇場:Olivier (National Theatre)

演出:Howard Davis
脚本:Anton Chekhov
翻案:Andrew Upton
デザイン:Bunny Christie
照明:Neil Austin
音響:Paul Groothuis
音楽:Dominic Muldowney
振付:Lynne Page
衣装:Stephanie Arditti

出演:
Zoë Wanamaker (Ranyevskaya、ラネースカヤ)
James Laurenson (Gaev, Ranyevskaya's brother、ガーエフ)
Charity Wakefield (Anya, her daughter、アーニャ)
Claudie Blakley (Varya, her adopted daughter、ワーリャ)
Conleth Hill (Lopahin, a merchant、ロバーヒン)
Mark Bonner (Trofimov, a student、トロフィーモフ)
Tim McMullan (Simyonov-Pischik, a landowner、ビーシチク)
Sarah Woodward (Charlotta, a performer)
Pip Carter (Yepihodov, the estate manager)
Emily Taaffe (Dunyasha, maid、ドゥニャーシャ)
Gerald Kyd (Yasha, butler、ヤーシャ)
Kenneth Cranham (Firs, butler、フィールス)

☆☆☆ (3.5程度) / 5

イギリス現代演劇を代表する演出家数人のうちに入るであろうHoward Davisと彼のチーム、そして、Zoë Wanamaker主演であり、芸達者のJames LaurensonやConleth Hillも出るのでかなり期待をして出かけた公演。その割にはもうひとつ、あまり心を動かされない。以前に彼がやったロシア演劇、ブルガーコフの"White Guard"やニキータ・ミハイルコフの"Burnt by the Sun"があまりに素晴らしすぎた。また、私もチェーホフは何度も見すぎていて、観客としての感性が摩耗しているのかもしれない。しかし、十分満足は出来る公演。

チェーホフの代表作を国立劇場でやるとすると、ただそのまま伝統的にやってしまっては、何のための補助金付き公演か、ということになるだろう。当然、これまでのチェーホフとは違った個性を出した公演でないと観客や批評家は満足しない。今回は、Andrew Uptonの、translationではなく、versionによる、と書いてある、つまり翻案テキストによる上演である。他の翻訳と一部を見比べてみたが、非常に現代的で、日常的な言葉にすっかり「書き換えて」あるようだ。特に、完結した文章ではなく、細かく切って、文ではない語句を並べた台詞が多い。台詞の途中に斜線があちこちにあるが、これはそこで少し間を取るということだろう。目立つ部分を引用してみる:

Trofimov: I have to. In all conscience. That man. He will use you. Your vanity. He will use you again. Like a. He will. He is a worthless. / This is what I'm trying to say.

あるいは、

Lopahin: I'm going to. Tear. No. I'm going to. Explo--  Or? I'm going to . . .  Faint, actually. I'm going to pass out. I can't do this. It's torture. You are torturing me. you beautiful Silly.

という具合である。場面や人物によっては、かなり英語のスラングも使われる:

Lopahin: I've told you a thousand bloody, frigging, bloody, frigging times. Sorry . . . The cherry orchard and the land around the river needs to be sub-divided and sold off as holiday packages.

Zoë Wanamakerのエネルギッシュなラネースカヤは、知的なたくましさは目立っても、従来の上演で見られたようなロマンティックな憂いには乏しい。そしてこれは、翻案の言葉と共に、上演全体の雰囲気にも言えることである。帝政末期ロシア社会の状況を如実に浮き彫りにした公演であり、チェーホフの社会批評家としての側面を上手に生かしているが、その一方で、おそらく伝統的な上演スタイルが与えてくれたであろう感動はあまりなかった。

そのような上演スタイルであるから、地主階級以外の登場人物が特に印象的だった。ロバーヒン (Conleth HIll) は、ラネースカヤへの友情(愛情と哀れみか?)と、飽くことのない社会的、経済的成功への執念に引き裂かれた人物であることが良く表現されていた。使用人のヤーシャ (Gerald Kyd) の冷たさと計算高さ、そのヤーシャに残酷に捨てられるドゥニャーシャ (Emily Taaffe) の哀れさ、また、老いた執事フィールス (Kenneth Cranham) もヤーシャ以上に悲惨だし、万年学生のトロフィーモフ (Mark Bonner) の頑なでナイーブな理想主義、通りすがりの退役軍人の浮浪者のふてぶてしさーーそうした時代の変化を如実に感じさせる人々に血が通っていた。

ただし、地主階級にはまだまだジャンティールな雰囲気が溢れた時代だったはず。社会批評の劇としても、平民の台頭を描くだけでなく、過去から離れられずにもがく地主階級の哀れさを、淡いロマンティックな色彩に終わらせずにしっかり反映する必要があると思う。今回の公演では、どの人物も変わらないスタイルでしゃべるので、階級の違いがあまりはっきり出ず、アーニャとかワーリャの魅力が削がれたのではないだろうか。James Laurensonは素晴らしい俳優だが、彼のガーエフはあまりにも弱々しさが目立ち、もう少し地主らしい威厳のかけらがあっても良いように思えた。

古典の台詞を中途半端にいじって上手くいくことは非常に少ないということを痛切に感じた公演だった。「翻案」ではなく「翻訳」で、しかし、同じように、ロマンティシズムを避け、社会批評を強調した上演は十分可能なはずである。

セットも工夫に溢れていた。よくありそうな田舎の明るい避暑地の雰囲気ではない。どっしりした木材の屋敷。しかし、ペンキがはげ、カビが生えたようなまだらな色で古びて朽ちそうだし、ガラスも汚いまま。灰色で暗い倉庫の壁のようでもある。オリヴィエのステージの高い天井へとそびえる大きな電柱が2本作られ、うっとうしい電線がたくさん渡されている。鉄道の響きも聞こえ、やっと近代工業社会の仲間入りしたロシアを感じさせる。しかし、暖房はオイル・ヒーターらしきもの。壁には電灯ではなく、ロウソクがともされている。男達は、やはりチェーホフの上演でよくありそうな茶色のコットン・ジャケットではなく、ダークスーツを着ている者が多い。使用人のフィールスやヤーシャもスーツにネクタイ姿で、イギリスのお屋敷の執事のようである。ロバーヒンはシティーのやり手の銀行家のようだ。一方、ラネースカヤや娘達の服装は地味で、質素であり、庶民とあまり変わりない。

折しも、イギリスでは予算の大幅カットで庶民が苦しんでいるし、日本ではそれでなくても不況だったのに、大地震と原発事故で国の将来は暗い。ヨーロッパ全体では、ギリシャなどの経済危機が引き金となって、リーマンショック以上の金融危機を起こすのではないかと恐れられている。一方中国やインドなど、これまで貧しかった国々の台頭はめざましい。ラネースカヤ一家を被う不安感と、現代の豊かな先進国の人々が感じる不安との間に、共通するものを感じさせるべく意図された現代的な公演だと言えるだろう。惜しむらくは、テキストの翻訳・翻案において、もっと繊細さと原文への敬意が欲しかったと思う。

デイリー・テレグラフのスペンサー曰く、「Andrew Uptonは、彼のスクリプトと共にテムズ川に投げ込まれるべきだ」! 毒舌ではあるが、大御所Howard Davisの公演にこれだけのことを言うなんて、彼は偉い! 

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