2011/06/18

中世・近代初期のイングランドにおける裁判や陪審員

Frailty, thy name is woman!
("Hamlet" Act 1, scene 2, 146)

という台詞をつい思い出してしまったが、16日のBBC等のニュースによると、昨日出た判決で、イギリスの裁判の陪審員 (juror)、Joanne Fraillがフェィスブックで被告に陪審 (jury) の審議内容を教えてしまい、多額の費用がかかった裁判が無効になった。日本語でも報道されたようだ。

この結果、Fraillは法定侮辱罪に問われ、今度は自分が裁かれる側の被告となり、8ヶ月の実刑判決を受けて、収監された。しかし、服役態度良好であれば、4ヶ月で仮釈放される道が開かれるようだ。当人は自分のしたことの重大性をよく考えていなかったのだろう。実刑判決を聞いて法廷で半狂乱で泣いていたという。陪審員が審議内容の秘密厳守を強いられるようになったのはいつなんだろうか。

日本の場合は参審制であり、専門家である裁判官がそれまでの判例などを紹介して裁判員を法律上常識的なラインに落ち着くように指導することが考えられる。従って日本の裁判員の権限は大変限定されているが、イギリスの場合は、陪審員だけで有罪か無罪かを決定するので陪審員が間違ったことをするとその結果は深刻である。

イングランドでは中世以来陪審員の買収や恐喝などの事例は沢山あったようだ。中世の文献でも度々言及されている。また陪審に選ばれることが苦痛だったのも現代と同じだ。交通手段の発達していない大昔、陪審員が裁判に列席するには時間と費用がかなりかかった。陪審員となるのは国民の義務と見なされており、おそらく費用は陪審員の個人負担ではなかろうか。陪審員も含め、裁判官や弁護士など裁判関係者への饗応や贈り物もかなりあったようだ。しかし、国やその他の裁判の主催団体からは裁判費用はほとんど出ていなかった。裁判の主催団体は、国家、地方政府(シェリフなど)、大地主、教会等々色々だったが、基本は有料のサービスだった。遠方から裁判官や書記などがやってくる巡回裁判 (eyres, assizes, sheriff's tourn, etc.) などの場合、裁判関係者の宿泊や食事などは、開催地の地元で負担したと思うので、結果的に民事裁判を起こす者達による出費が多かったのではないか。そうすると、どこまでが単なるギフト、どこから賄賂、そして、単なる必要経費の支払いか、等の違いは非常に曖昧になる。更に、国は民事裁判についてはひとつの収入源、国による営利事業と考えていたふしもあり、裁判を起こすのは大変お金のかかることだった。

中世や近代初期の文学には、お金持ちは陪審にならないように代理を立てたり、罰金を払ったりしたが、貧乏人は陪審にならなければならない、なんて嘆きごとが書かれていたりする。陪審員としの出席を免除されるための料金(一種の罰金)がシェリフの重要な収入源だったりすることもあった。

ということで、農奴 (serf) ではなく自由民 (freeman) であっても*、実際に貧しい人々が陪審に参加するのは大変であり、中世から近代初期のイングランドの多くの地方では、陪審の顔ぶれは決まっていて、割合豊かな、コミュニティーの中心メンバーが繰り返し陪審員を務めたようである。また、中世においては、半ば職業的に陪審員を務める人もいたらしい。陪審員は、今とは全く逆で、地域を良く知り、被告などのことも知っている人の方が適当と考えられ、被告の地域での評判などについて証言したと思われる。裁判前に、案件について予め調べることもあったらしいし、また裁判中に陪審員が質問を行うこともあったようだ。

このように、中世から近代初期の裁判や陪審員については、現代の常識では思いもよらないことが沢山あり、非常に興味深い。私もまだまだ知らない事が沢山あり、今後も調べてみたいと思っている。ただ、昔の裁判制度自体が非常に複雑であり、陪審員についても、色々な本や当時の文学作品などで断片的な知識を得ているが、なかなかすっきりまとまった知識とならない。同じ中世・近代初期でも、時期や地域によって色々な違いがあるだろう。イギリス史や法制史に詳しい方、私が書いていることに間違いや捕捉などありましたら、コメント欄でお教え下さい。

*原則として農奴に裁判への列席義務は無かったし、陪審員になることも許されていなかったはずである。しかし、実際にはmanor courtsなど、農奴が地域の小規模な裁判に列席することはかなりあったようだ。

なお、現代の日本における陪審制導入の意義については、未完ではあるようですが、このサイトが簡潔で、歴史的意味も含めて分かりやすく述べています。

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